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2020年10月09日
食事会
定期試験になると、昼に学年で食事会をすることにしている。
放課後に部活動もなく、夜にも学習会がある日常では、学年のメンバーすら集まれる時間帯がないのだ。
そこで、せめて試験中の日中くらいは…、と学年の先生で「何かおいしいもの」を食べようという企画である。
それが今回は、私の隠れ家の離れの囲炉裏で行うことになった。
出不精の私にとっては、どこか店に行く面倒からは解放されたが、その分、準備に翻弄された。
年に何回かしか使わない囲炉裏の掃除やら網や鉄板を洗ったり…。
皆が来る前に炭興しを終え、すぐに焼けるように準備をしたり…。
「汁物を作れ」と言われたので、前日から仕込みをしたり、と、なかなか忙しかった。
それでも、小雨の降る肌寒い仲での炭焼きバーベンキューは、なかなか面白かった。
そんなに食べられるわけではないが、大人のバーベキューなので、いろいろな食材が投入される。
焼き上がると、「丹澤先生どうぞ」、ともてなされたので、ちょっと良い気分。。
片付けもささっと終えて、ゴミも持ち帰ってくれた。
「こんなんで、親睦が深められたのかな…。」
皆が帰って、一人、愛犬の散歩をしながら、そんなことをふと思った。
コロナでなくても飲み会や学校全体での食事会も一切ない中で、学年での食事会は、貴重な機会なのだ。
冬になれば、野球部でもここでバーベンキューをする。
高校生でも、「やりたい」と言えば、場所を開放する。
ちゃんと片付けられるならいいのだが、中学生は食べ終わると遊び始めるので困る…。
それでも、彼らの心に思い出が残ってくれるならそれでいい…。
少年期の強烈な経験は、その後の成長するにつれ、貴重な体験としていつまでも記憶に残る。
炭をおこすにしても、今となってはそうそうできる体験ではない。
中学生でも、自分たちで準備させれば、少しは学びになるに違いない…。
「助っ人でも頑張って練習していると、12月のバーベキューに呼んでもらえるよ。」
ある野球部員が、助っ人部員にそんなことを言っていた。
「彼らも密かにバーベキューを期待しているのかな…」、と私はほくそ笑む。
教育活動に役に立っているのなら、私の隠れ家もその役割を果たしているというものだ。
次の学年食事会では、やっぱり海産を食べたいな…。
放課後に部活動もなく、夜にも学習会がある日常では、学年のメンバーすら集まれる時間帯がないのだ。
そこで、せめて試験中の日中くらいは…、と学年の先生で「何かおいしいもの」を食べようという企画である。
それが今回は、私の隠れ家の離れの囲炉裏で行うことになった。
出不精の私にとっては、どこか店に行く面倒からは解放されたが、その分、準備に翻弄された。
年に何回かしか使わない囲炉裏の掃除やら網や鉄板を洗ったり…。
皆が来る前に炭興しを終え、すぐに焼けるように準備をしたり…。
「汁物を作れ」と言われたので、前日から仕込みをしたり、と、なかなか忙しかった。
それでも、小雨の降る肌寒い仲での炭焼きバーベンキューは、なかなか面白かった。
そんなに食べられるわけではないが、大人のバーベキューなので、いろいろな食材が投入される。
焼き上がると、「丹澤先生どうぞ」、ともてなされたので、ちょっと良い気分。。
片付けもささっと終えて、ゴミも持ち帰ってくれた。
「こんなんで、親睦が深められたのかな…。」
皆が帰って、一人、愛犬の散歩をしながら、そんなことをふと思った。
コロナでなくても飲み会や学校全体での食事会も一切ない中で、学年での食事会は、貴重な機会なのだ。
冬になれば、野球部でもここでバーベンキューをする。
高校生でも、「やりたい」と言えば、場所を開放する。
ちゃんと片付けられるならいいのだが、中学生は食べ終わると遊び始めるので困る…。
それでも、彼らの心に思い出が残ってくれるならそれでいい…。
少年期の強烈な経験は、その後の成長するにつれ、貴重な体験としていつまでも記憶に残る。
炭をおこすにしても、今となってはそうそうできる体験ではない。
中学生でも、自分たちで準備させれば、少しは学びになるに違いない…。
「助っ人でも頑張って練習していると、12月のバーベキューに呼んでもらえるよ。」
ある野球部員が、助っ人部員にそんなことを言っていた。
「彼らも密かにバーベキューを期待しているのかな…」、と私はほくそ笑む。
教育活動に役に立っているのなら、私の隠れ家もその役割を果たしているというものだ。
次の学年食事会では、やっぱり海産を食べたいな…。
2020年10月08日
保健室受験
今年の二学期中間試験でも、保健室受験をする生徒が出た。
熱があってもなお、試験を受けよう、という訳ではない。
どちらかと言えば、不登校気味で、しかも定期試験となれば、さらにプレッシャーがかかり、教室に入れない生徒の受け皿としての、保健室受験である。
彼女らは、疲れればすぐにベットに横になることができる。
教室には入っていないので、欠席にはなるが、それでも「試験を受けた」という実績になり、点数もつく。
このシステムが良いのか悪いのかは分からないが、このところそのようにして、心が病んでいる生徒たちにも試験を受けるチャンスを与えている。
「保健室もキャパオーバーになっています!」
教務主任が朝の朝礼で叫ぶ。
そうは言っても、教室に入れない生徒がいることは事実。
体調が悪くて試験を受けなければ0点。
保健室で受験すれば、そのまま点数はもらえる。
診断書でもあれば、さらに情状酌量される。
私立学校にしては珍しく、寛容で救済力たっぷりの措置である。
「質問対応で保健室に行ったけど、寝てたよ…。」
職員室に戻ってきた教員の空しい声が響く。
「ひとたび入学させた生徒は、手をかけ、根気よく寄り添い、必ずや立派に成長させて卒業させるのだ」、という校長の思いを実現して、保健室受験以外にも、さまざまな手を打つ。
少子化の時代。一人の生徒のウエイトはますます高くなった。
親の子供に対する思い入れも大きい。
それでいて、世の中は困難なことばかりが続く…。
だが、世の中がどうであっても、それでも学校は、淡々と流れて欲しいと思う。
保健室に集う彼女らを、単なるわがままと見るか、思春期特有の心の病と見るか…。
私は教師になり立ての頃は、「試験が受けられなかったのですね。でしたら、学校は続けられませんね
」、という具合に、すぐに転校を勧められたものだ。
思い通りにいかない親の落胆も、相当大きなものだったに違いない。
もちろん、当の本人も、どうしてよいか分からず、苦しんでいたのだろう。
そんな時代から、三十年以上経つ…。
熱があってもなお、試験を受けよう、という訳ではない。
どちらかと言えば、不登校気味で、しかも定期試験となれば、さらにプレッシャーがかかり、教室に入れない生徒の受け皿としての、保健室受験である。
彼女らは、疲れればすぐにベットに横になることができる。
教室には入っていないので、欠席にはなるが、それでも「試験を受けた」という実績になり、点数もつく。
このシステムが良いのか悪いのかは分からないが、このところそのようにして、心が病んでいる生徒たちにも試験を受けるチャンスを与えている。
「保健室もキャパオーバーになっています!」
教務主任が朝の朝礼で叫ぶ。
そうは言っても、教室に入れない生徒がいることは事実。
体調が悪くて試験を受けなければ0点。
保健室で受験すれば、そのまま点数はもらえる。
診断書でもあれば、さらに情状酌量される。
私立学校にしては珍しく、寛容で救済力たっぷりの措置である。
「質問対応で保健室に行ったけど、寝てたよ…。」
職員室に戻ってきた教員の空しい声が響く。
「ひとたび入学させた生徒は、手をかけ、根気よく寄り添い、必ずや立派に成長させて卒業させるのだ」、という校長の思いを実現して、保健室受験以外にも、さまざまな手を打つ。
少子化の時代。一人の生徒のウエイトはますます高くなった。
親の子供に対する思い入れも大きい。
それでいて、世の中は困難なことばかりが続く…。
だが、世の中がどうであっても、それでも学校は、淡々と流れて欲しいと思う。
保健室に集う彼女らを、単なるわがままと見るか、思春期特有の心の病と見るか…。
私は教師になり立ての頃は、「試験が受けられなかったのですね。でしたら、学校は続けられませんね
」、という具合に、すぐに転校を勧められたものだ。
思い通りにいかない親の落胆も、相当大きなものだったに違いない。
もちろん、当の本人も、どうしてよいか分からず、苦しんでいたのだろう。
そんな時代から、三十年以上経つ…。
2020年10月07日
祈りの調べ
この春大学を卒業したばかりの、その女性の祈りは美しかった。
久しぶりに美しい祈りの調べを聞いた。
人間にとって一番美しいのは、祈っている時の姿であるという。
無私無我の気持ちで、神に祈りを捧げる敬虔なしせいは、その思いが純粋であれば純粋であるほど、美しく、神々しさすら感じるものだ。
以前、私が美しい祈りを聞いたのは、高野山に詣でたときである。
もう、十数年前になる。
僧侶による高野山真言宗の唄の調べは、心地よさと美しさを感じたものだ。
以来、多くの祈りの場に立ち会っているが、美しい調べとであることは、滅多にない。
圧倒的多数の僧侶の読経は、その波動が美しくないように思える。
宗派は違えども、その美しさは共通している。
この美しさは、祈りそのものが、大いなる存在である神と対峙している姿であるからだ。
そして、その対峙するに値する心の状態を維持していなくてはならないからであり、さらには、底に自我の思いが存在しないからである。
その姿勢と態度に、神に近づこうとする思いがある。
その思いは、何人からも尊崇されるにふさわしい心根であり、人間本来の正しい生き方そのものを表しているのだろう。
美しい祈りの調べのMさん。
「まだまだ若いのに素晴らしいな」、と思う。
泥と埃にまみれた穢れた私から見れば、まさに高貴な存在のように見えた。
昨今、宗教学校でも祈りの時間が減っていると言う。
形式化し、生徒たちが真面目に取り組めない、という理由もあるのだろう。
しかし、それは、本来あるべき人間としての姿勢を放棄しているようにも見える。
美しい調べのMさんの祈りを聞いた生徒たち。
一瞬だが、幸福感が増大したのではないだろうか。
決して刹那的な動画では体験できないバイブレーションが、そこにはある。
学校教育でも、宗教的な涵養を重視するようになって久しいが、世の中それほど変わっていないように思える。
まずは、大人たちの宗教に対する意識が変わらないといけないのだろう。
今のままの学校教育で、子供たちにそうした純粋さを伝えるのは、やはり難しい…。
久しぶりに美しい祈りの調べを聞いた。
人間にとって一番美しいのは、祈っている時の姿であるという。
無私無我の気持ちで、神に祈りを捧げる敬虔なしせいは、その思いが純粋であれば純粋であるほど、美しく、神々しさすら感じるものだ。
以前、私が美しい祈りを聞いたのは、高野山に詣でたときである。
もう、十数年前になる。
僧侶による高野山真言宗の唄の調べは、心地よさと美しさを感じたものだ。
以来、多くの祈りの場に立ち会っているが、美しい調べとであることは、滅多にない。
圧倒的多数の僧侶の読経は、その波動が美しくないように思える。
宗派は違えども、その美しさは共通している。
この美しさは、祈りそのものが、大いなる存在である神と対峙している姿であるからだ。
そして、その対峙するに値する心の状態を維持していなくてはならないからであり、さらには、底に自我の思いが存在しないからである。
その姿勢と態度に、神に近づこうとする思いがある。
その思いは、何人からも尊崇されるにふさわしい心根であり、人間本来の正しい生き方そのものを表しているのだろう。
美しい祈りの調べのMさん。
「まだまだ若いのに素晴らしいな」、と思う。
泥と埃にまみれた穢れた私から見れば、まさに高貴な存在のように見えた。
昨今、宗教学校でも祈りの時間が減っていると言う。
形式化し、生徒たちが真面目に取り組めない、という理由もあるのだろう。
しかし、それは、本来あるべき人間としての姿勢を放棄しているようにも見える。
美しい調べのMさんの祈りを聞いた生徒たち。
一瞬だが、幸福感が増大したのではないだろうか。
決して刹那的な動画では体験できないバイブレーションが、そこにはある。
学校教育でも、宗教的な涵養を重視するようになって久しいが、世の中それほど変わっていないように思える。
まずは、大人たちの宗教に対する意識が変わらないといけないのだろう。
今のままの学校教育で、子供たちにそうした純粋さを伝えるのは、やはり難しい…。
2020年10月06日
季節はずれのスイカ
季節はずれのスイカ
今年も庭にスイカの苗を2株植え、順調に受粉し、実がなった。
「よし、今年は少し大きめだ」、と期待して成長を見守っていたら、気づいたときには畑で朽ちていた。
仕方なく、草刈り機を回していたら、草むらにもう一つスイカが現れた。
こちらも、立派なスイカだ。私は、幸せな気持ちになった。
しばらく保管していたスイカを最近になって、ようやく食べた。
まずまずの味。確かにスイカであった。
一人では食べきれないので、中3のT君にも食べてもらった。
「季節外れのスイカだろ。庭で採れたもんだ。」
私は得意気にそう彼に告げると、T君は美味しそうに食べた。
この夏は7月末まで雨続きだったこともあり、野菜も果物も不作になった。
地元名産の梨も不作で、例年なら道の駅に山積みになっているのだが、今年は梨が並べられることすらない。
大玉スイカも高値で、手が届くモノではなかった。
「丹澤先生、美味しいですよ。」
梨好きなT君は、嬉しそうにスイカをほおばって笑う。
「そんな皮の方まで食べなくていいんだよ。スイカの甘いのは中心部なんだから…。」
そう言って私が静止するまで、T君はスイカと格闘していた。
素人が世話をしない野菜作りなので、きちんとした収穫ができるはずもなく、自然に任せて、上手くいったらラッキーのような感じの畑遊びをしている。だが、この地に住み続けるのなら、きちんと野菜の育て方を学ばねば、とも思う。
一個だけ収穫できたこのスイカ。「季節外れだから価値があるのかな…」。
果物でも、時期がずれたものは、付加価値がついて高騰し、いわるゆ高級品になる。
おそらく商売でも、ニーズがある商品は、わざと時期をずらすことで、付加価値がつくこともあるのだろう。
野菜や果物は、毎年の季節に合わせて作られるから、時期をずらすとなると、特別な施設や工夫が必要になる。しかし、「当たり前でないもの」を創るという発明により、売り上げを伸ばすこともできるだろう。
私たちが当たり前に食べている農作物は、農家の方々の並々ならぬ苦労のもと、知恵を工夫の結晶により育てられたものだ。
何も考えずにスーパーなどで買うことがでいるが、いわゆる規格外品は、ほとんど処分されているという。
「そんな作物を少し安めに売り出せば、少しは売り上げも上がるのだろうな…。」
味が同じなら、それも付加価値に違いない。
ふと、「教育の世界における付加価値って何だろう…」、と考えた。
今年も庭にスイカの苗を2株植え、順調に受粉し、実がなった。
「よし、今年は少し大きめだ」、と期待して成長を見守っていたら、気づいたときには畑で朽ちていた。
仕方なく、草刈り機を回していたら、草むらにもう一つスイカが現れた。
こちらも、立派なスイカだ。私は、幸せな気持ちになった。
しばらく保管していたスイカを最近になって、ようやく食べた。
まずまずの味。確かにスイカであった。
一人では食べきれないので、中3のT君にも食べてもらった。
「季節外れのスイカだろ。庭で採れたもんだ。」
私は得意気にそう彼に告げると、T君は美味しそうに食べた。
この夏は7月末まで雨続きだったこともあり、野菜も果物も不作になった。
地元名産の梨も不作で、例年なら道の駅に山積みになっているのだが、今年は梨が並べられることすらない。
大玉スイカも高値で、手が届くモノではなかった。
「丹澤先生、美味しいですよ。」
梨好きなT君は、嬉しそうにスイカをほおばって笑う。
「そんな皮の方まで食べなくていいんだよ。スイカの甘いのは中心部なんだから…。」
そう言って私が静止するまで、T君はスイカと格闘していた。
素人が世話をしない野菜作りなので、きちんとした収穫ができるはずもなく、自然に任せて、上手くいったらラッキーのような感じの畑遊びをしている。だが、この地に住み続けるのなら、きちんと野菜の育て方を学ばねば、とも思う。
一個だけ収穫できたこのスイカ。「季節外れだから価値があるのかな…」。
果物でも、時期がずれたものは、付加価値がついて高騰し、いわるゆ高級品になる。
おそらく商売でも、ニーズがある商品は、わざと時期をずらすことで、付加価値がつくこともあるのだろう。
野菜や果物は、毎年の季節に合わせて作られるから、時期をずらすとなると、特別な施設や工夫が必要になる。しかし、「当たり前でないもの」を創るという発明により、売り上げを伸ばすこともできるだろう。
私たちが当たり前に食べている農作物は、農家の方々の並々ならぬ苦労のもと、知恵を工夫の結晶により育てられたものだ。
何も考えずにスーパーなどで買うことがでいるが、いわゆる規格外品は、ほとんど処分されているという。
「そんな作物を少し安めに売り出せば、少しは売り上げも上がるのだろうな…。」
味が同じなら、それも付加価値に違いない。
ふと、「教育の世界における付加価値って何だろう…」、と考えた。
2020年10月05日
秋の空
二日ほど連続で朝焼けが見えたが、雨が降ったのは二日目の方だった。
この時期の空はめまぐるしく変わる。
朝に晴れても、午後には雨が降り出すことだってある。
「『女心と秋の空』」って、知っているか」、と中3の生徒に聞いたら、誰も知らなかった。
若干、女性には失礼なことわざのように思えるが、あながち間違ってはいないようにも思う。
私には苦手な女性がいる。
当然、必要最低限しか話をしないし、挨拶だってままならないというのが現状だ。
最近は、私から挨拶をしても、挨拶は返って来ない。
無視しているわけではなく、聞いていることはその表情や態度から分かるのだが、声は発さない。
私は相当嫌われているようだ。
私自身も、何となく嫌な感情を持っているため、それが彼女に伝わり、結果、相乗効果でお互いの仲をさらにややこしくしているのだろう。
人は、語らずともその思いは相手に届く。
仕事上必要なやりとりも、彼女からは、メモか、電子メールである。
そう考えると、私への嫌悪感は半端でないことを示している。
『相手の嫌な面を一つ発見したら、その十倍良いところを見つけなさい。』
そう教えられたことがある。
確かに彼女は優れているし、人格的にも素晴らしい。
人には優しいし、多くの人に好かれている。
だが、私は、「絶対許さない」対象なのだろう。
女性という生き物は難しいものだ。
幽霊で女性の姿が多いのも頷ける。
ちなみに彼女は死後、天国で天使の仕事をする立場の人。
私は、地獄をさまようような人間なのかも知れない。
この世はいろいろな人が、玉石混淆として生きている。
だからこそ、自分とは違った考えの人に出会い、それが学びになる。
どんな相手であっても、良いところはあるし、学ぶべき点はある。
それを意識してこそ、日々の成長が可能なのだろう。
秋の空は、空気が澄んでいることもあって、青空がどこまでも深い。
そんな空に、高層の巻雲やら巻積雲が光っていると、とても美しい。
天気が下り坂のときは、巻積雲が高積雲に変わってきて、いわゆる「ひつじ雲」になる。
「秋の空のように、彼女の心もさっと変わってくれないかな…。」
そんな思いを込めながらも、空を見上げる。
今日は雲がきれいだ。
この時期の空はめまぐるしく変わる。
朝に晴れても、午後には雨が降り出すことだってある。
「『女心と秋の空』」って、知っているか」、と中3の生徒に聞いたら、誰も知らなかった。
若干、女性には失礼なことわざのように思えるが、あながち間違ってはいないようにも思う。
私には苦手な女性がいる。
当然、必要最低限しか話をしないし、挨拶だってままならないというのが現状だ。
最近は、私から挨拶をしても、挨拶は返って来ない。
無視しているわけではなく、聞いていることはその表情や態度から分かるのだが、声は発さない。
私は相当嫌われているようだ。
私自身も、何となく嫌な感情を持っているため、それが彼女に伝わり、結果、相乗効果でお互いの仲をさらにややこしくしているのだろう。
人は、語らずともその思いは相手に届く。
仕事上必要なやりとりも、彼女からは、メモか、電子メールである。
そう考えると、私への嫌悪感は半端でないことを示している。
『相手の嫌な面を一つ発見したら、その十倍良いところを見つけなさい。』
そう教えられたことがある。
確かに彼女は優れているし、人格的にも素晴らしい。
人には優しいし、多くの人に好かれている。
だが、私は、「絶対許さない」対象なのだろう。
女性という生き物は難しいものだ。
幽霊で女性の姿が多いのも頷ける。
ちなみに彼女は死後、天国で天使の仕事をする立場の人。
私は、地獄をさまようような人間なのかも知れない。
この世はいろいろな人が、玉石混淆として生きている。
だからこそ、自分とは違った考えの人に出会い、それが学びになる。
どんな相手であっても、良いところはあるし、学ぶべき点はある。
それを意識してこそ、日々の成長が可能なのだろう。
秋の空は、空気が澄んでいることもあって、青空がどこまでも深い。
そんな空に、高層の巻雲やら巻積雲が光っていると、とても美しい。
天気が下り坂のときは、巻積雲が高積雲に変わってきて、いわゆる「ひつじ雲」になる。
「秋の空のように、彼女の心もさっと変わってくれないかな…。」
そんな思いを込めながらも、空を見上げる。
今日は雲がきれいだ。
2020年10月03日
よくぞ言ってくれた!
中3のA君が、複数の高1の生徒と言い争いになった。
廊下が馬鹿騒ぎしている高1を、「勉強中なので、少し静かにしてもらえませんか」、と発言したことが発端だ。
もちろん、その時間は静かにすべき時で、高1の生徒は、当然配慮しなければならないわけだ。
だが、その後も高1の生徒は騒ぎ続けてしまう。
そこで、A君は一線を越える言葉を発してしまったのだ。
「そんなんだから、中学の後輩たちがついて来ようとしないんだ。」
これは図星である。
彼らは、同級生はもちろん、後輩たちからも疎まれている。
だから、いつもつるんで一緒にいることで、自分の場所を確保しようとしているのだ。
高1の彼らは、さらにA君を茶化し続けたが、相手にしなかったA君はこぶしを下げた。
A君は少林寺拳法をやっているので、手を出せば犯罪になる。
そうしたこともあってか、ぐっと我慢したようだ。
若手の職員は、「今後茶化されることもあるかもしれないがどんなに筋が通ってても、手を出したら負けだから、相手にしないように」、とA君をたしなめた。
それを聞いた高1の学年主任は、
「よくぞ言ってくれた!」
と、叫んだ。
「まさに、その通りなんだよ。私らから直接言えないけど、A君が勇気を出して言ってくれたのはエライ。褒めてあげたい。」
と言う。
彼らは、かつて私が私が2年間指導した生徒たちだ。
そして、私が指導を放棄した学年の生徒でもある。
そう想うと、私には罪の意識がこみ上げてくる。
結局、「尻拭いさせているんな」、と想う。
この事件は、それ以上のトラブルはなかったが、彼らを特に中3の男子たちは嫌っている。
おそらくは、「人間として許せない」と思っているのだろう。
かつて、その上の高2でも同じような生徒がいたが、彼は中3の終わりから生まれ変わったように変わった。
私も、高校生になれば落ち着くだろうと、たかをくくってはいたが、大して変わってはいないようだ。
「少しずつ、良くなってくれ…。」
私は心の中で祈るのみである。
廊下が馬鹿騒ぎしている高1を、「勉強中なので、少し静かにしてもらえませんか」、と発言したことが発端だ。
もちろん、その時間は静かにすべき時で、高1の生徒は、当然配慮しなければならないわけだ。
だが、その後も高1の生徒は騒ぎ続けてしまう。
そこで、A君は一線を越える言葉を発してしまったのだ。
「そんなんだから、中学の後輩たちがついて来ようとしないんだ。」
これは図星である。
彼らは、同級生はもちろん、後輩たちからも疎まれている。
だから、いつもつるんで一緒にいることで、自分の場所を確保しようとしているのだ。
高1の彼らは、さらにA君を茶化し続けたが、相手にしなかったA君はこぶしを下げた。
A君は少林寺拳法をやっているので、手を出せば犯罪になる。
そうしたこともあってか、ぐっと我慢したようだ。
若手の職員は、「今後茶化されることもあるかもしれないがどんなに筋が通ってても、手を出したら負けだから、相手にしないように」、とA君をたしなめた。
それを聞いた高1の学年主任は、
「よくぞ言ってくれた!」
と、叫んだ。
「まさに、その通りなんだよ。私らから直接言えないけど、A君が勇気を出して言ってくれたのはエライ。褒めてあげたい。」
と言う。
彼らは、かつて私が私が2年間指導した生徒たちだ。
そして、私が指導を放棄した学年の生徒でもある。
そう想うと、私には罪の意識がこみ上げてくる。
結局、「尻拭いさせているんな」、と想う。
この事件は、それ以上のトラブルはなかったが、彼らを特に中3の男子たちは嫌っている。
おそらくは、「人間として許せない」と思っているのだろう。
かつて、その上の高2でも同じような生徒がいたが、彼は中3の終わりから生まれ変わったように変わった。
私も、高校生になれば落ち着くだろうと、たかをくくってはいたが、大して変わってはいないようだ。
「少しずつ、良くなってくれ…。」
私は心の中で祈るのみである。
2020年10月02日
中秋の名月
今年の中秋の名月は全国的によく晴れたようで、SNSにはたくさんの美しい月の写真がアップされていた。
私も少し撮ってみたのだが、計画性のない、にわか撮影では良い写真が撮れるわけでもなく、「ほら」って、撮った月の写真を生徒に見せたら、「今いちですね」と返された。
確かに、大した写真ではなかった…。
対象は美しいのに、綺麗な写真がとれないということは、私の心が澄んでいないのだろう。
先日、インスタに彼岸花の写真を載せたら、それを見た中3の生徒が、「僕にその写真を送って下さい」と言う。
私は、「送り方が分からないよ…」、と言うと、数日後に、ダイレクトメッセージが来て、「ここで送れるはずです」、と教えてくれた。
その際、何度かのメッセージをやりとりしたが、「僕も写真を撮ってみます」、というものだから、「美しい写真は、美しい心の時に撮れる」、と返した。
いやはや、中秋の名月は美しいにも関わらず、大した写真が撮れなかったということは、私の心が乱れていたということだ。
もちろん撮影技術云々もあるが、やはり心の状態が安定していないと、美しい写真は撮れない。
私は以前から、自然の写真を撮って、日付ごとにフォルダーを作って保存している。
だが、ときおり振り返って見ると、「ある期間、撮影していない時期」があることに気づくのだ。
もちろん、忙しかったということもあろうが、それよりも増して、「写真を撮るという心の余裕がなかった時期であった」とも言える。
美しいものを、素直に美しいと思える心は、人間が本来持っている思いだが、これが、心の安定していない時期には、美しく見えないのだろう。そしてそれは写真に収めても美しさが薄らいでしまうらしい。
あたかも、心の中の湖面に映った映像が、波だった思いで、乱され、静止しない状態なのかも知れない。
瞑想法の一つに、『満月瞑想』なるものがある。
心の中に満月を想うもので、いろいろな方法があるが、その中で、湖面に満月を映し出すというものがある。当然、さざ波が立っていたら、満月はまん丸には見えない。
心を落ち着かせ、平らかにして、鏡のような湖面にして、そこの満月を映し出し、心を落ち着けるというものだ。
知らず知らずのうちに、私の心は乱れていたようである。
まさに、「心がきれいじゃないと、美しい写真は撮れないものだ」、という事実は揺るがないらしい
今月はもう一度、満月がやってくる。
その前に十三夜もある。
心を整えて、もう一度チャレンジしてみようと思う。
私も少し撮ってみたのだが、計画性のない、にわか撮影では良い写真が撮れるわけでもなく、「ほら」って、撮った月の写真を生徒に見せたら、「今いちですね」と返された。
確かに、大した写真ではなかった…。
対象は美しいのに、綺麗な写真がとれないということは、私の心が澄んでいないのだろう。
先日、インスタに彼岸花の写真を載せたら、それを見た中3の生徒が、「僕にその写真を送って下さい」と言う。
私は、「送り方が分からないよ…」、と言うと、数日後に、ダイレクトメッセージが来て、「ここで送れるはずです」、と教えてくれた。
その際、何度かのメッセージをやりとりしたが、「僕も写真を撮ってみます」、というものだから、「美しい写真は、美しい心の時に撮れる」、と返した。
いやはや、中秋の名月は美しいにも関わらず、大した写真が撮れなかったということは、私の心が乱れていたということだ。
もちろん撮影技術云々もあるが、やはり心の状態が安定していないと、美しい写真は撮れない。
私は以前から、自然の写真を撮って、日付ごとにフォルダーを作って保存している。
だが、ときおり振り返って見ると、「ある期間、撮影していない時期」があることに気づくのだ。
もちろん、忙しかったということもあろうが、それよりも増して、「写真を撮るという心の余裕がなかった時期であった」とも言える。
美しいものを、素直に美しいと思える心は、人間が本来持っている思いだが、これが、心の安定していない時期には、美しく見えないのだろう。そしてそれは写真に収めても美しさが薄らいでしまうらしい。
あたかも、心の中の湖面に映った映像が、波だった思いで、乱され、静止しない状態なのかも知れない。
瞑想法の一つに、『満月瞑想』なるものがある。
心の中に満月を想うもので、いろいろな方法があるが、その中で、湖面に満月を映し出すというものがある。当然、さざ波が立っていたら、満月はまん丸には見えない。
心を落ち着かせ、平らかにして、鏡のような湖面にして、そこの満月を映し出し、心を落ち着けるというものだ。
知らず知らずのうちに、私の心は乱れていたようである。
まさに、「心がきれいじゃないと、美しい写真は撮れないものだ」、という事実は揺るがないらしい
今月はもう一度、満月がやってくる。
その前に十三夜もある。
心を整えて、もう一度チャレンジしてみようと思う。