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2020年11月07日
サプライズ花火
夕方、近隣で花火が上がった。
今年は軒並み花火大会が中止になったので、打ち上げ花火を見るのは、今年になって初めてかも知れない。
昨今は、学校行事がことごとく中止になったことを励ますため、サプライズで校庭から花火を打ち上げたり、たとえ花火の打ち上げが計画されていたとしても、場所と時間を告知しなかったりする。
今回も、サプライズには違いないが、どこから打ち上げたのかは分からなかった。
音と光の関係から、数キロ以上離れたところでの打ち上げらている。
私は、犬の散歩をしている隠れ家から、山の端に半分だけ開く花火の大輪を見たが、一時間ほど打ち上げられたので、結構希規模の大きなイベントだったようだ。
日本中から花火の打ち上げが止まれば、花火職人も困ってしまうだろう…。
お盆の頃に打ち上げられた花火は、先祖の慰霊の意味もあるようだが、氷の張るようになった昨今、打ち上げられた花火を見るのは、何とも感慨深い。
直近で打ち上げれた花火を見たのは、昨年は地元の盆踊りの時だった。
ほんの三十分くらいだったが、ほんの数百メートル咲きで打ち上げられた花火は迫力満点だった。
もう、大昔になるが、大学生だった頃、学園祭の最終日の夜に学内から花火が打ち上げられた。
自分では何をしたかも忘れてしまったが、必死でサークル活動で学園祭に参加しての最後の晩ということもあり、酒を飲みながら、花火を見ながら涙したことを思い出す。
どうやら花火は日本人の心に深く根付き、さまざまな思いを去来させる不思議な魔力を持っているようだ。
もちろん打ち上げには金がかかる。
昨年地元の花火の前、年金生活者には、「花火の寄付がきつい…」という地元の声を聞いた。
現役世代がどんどん減っている限界集落に近い私の地域でも、そうした問題が起こっているのだ。
地域は支えたい助け合って守られている。
花火の打ち上げも守り抜いてゆかねばなるまい。
「新盆なのに花火も上がらないのか…。」
なんてことにならないように、私も微力ながら支えてゆきたい。
何年か前までは、私の学校のグランドからも三尺球を上げていたのだが、金銭的な事情から辞めてしまった。
やっぱり花火はいい…。
今年は軒並み花火大会が中止になったので、打ち上げ花火を見るのは、今年になって初めてかも知れない。
昨今は、学校行事がことごとく中止になったことを励ますため、サプライズで校庭から花火を打ち上げたり、たとえ花火の打ち上げが計画されていたとしても、場所と時間を告知しなかったりする。
今回も、サプライズには違いないが、どこから打ち上げたのかは分からなかった。
音と光の関係から、数キロ以上離れたところでの打ち上げらている。
私は、犬の散歩をしている隠れ家から、山の端に半分だけ開く花火の大輪を見たが、一時間ほど打ち上げられたので、結構希規模の大きなイベントだったようだ。
日本中から花火の打ち上げが止まれば、花火職人も困ってしまうだろう…。
お盆の頃に打ち上げられた花火は、先祖の慰霊の意味もあるようだが、氷の張るようになった昨今、打ち上げられた花火を見るのは、何とも感慨深い。
直近で打ち上げれた花火を見たのは、昨年は地元の盆踊りの時だった。
ほんの三十分くらいだったが、ほんの数百メートル咲きで打ち上げられた花火は迫力満点だった。
もう、大昔になるが、大学生だった頃、学園祭の最終日の夜に学内から花火が打ち上げられた。
自分では何をしたかも忘れてしまったが、必死でサークル活動で学園祭に参加しての最後の晩ということもあり、酒を飲みながら、花火を見ながら涙したことを思い出す。
どうやら花火は日本人の心に深く根付き、さまざまな思いを去来させる不思議な魔力を持っているようだ。
もちろん打ち上げには金がかかる。
昨年地元の花火の前、年金生活者には、「花火の寄付がきつい…」という地元の声を聞いた。
現役世代がどんどん減っている限界集落に近い私の地域でも、そうした問題が起こっているのだ。
地域は支えたい助け合って守られている。
花火の打ち上げも守り抜いてゆかねばなるまい。
「新盆なのに花火も上がらないのか…。」
なんてことにならないように、私も微力ながら支えてゆきたい。
何年か前までは、私の学校のグランドからも三尺球を上げていたのだが、金銭的な事情から辞めてしまった。
やっぱり花火はいい…。
2020年11月06日
作り笑顔
久しぶりに高3のY君と会った。
声を交わしたのは、一ヶ月ぶりくらいだろうか…。
Y君は私を見るなり言う。
「死にそうな顔ですね…。」
ちょうど私が6時間目の中3の授業のために、特別教室に移動している時のことだ。
「大丈夫ですか。疲れているんですね…。」
ああ、私はそういう姿を生徒たちに見せてしまっているのか…。
確かに午後は疲労が蓄積している。
中3の授業は楽しいので、授業に行くことが疲労をさらに倍加させるという訳でもない。
どちらかと言えば、生徒たちからパワーをもらっているのが現実だ。
だが、ふとした私の油断が、表情に出て、その姿を見た生徒を心配させたのだ。
教師(指導者)たるもの、いついかなるときも元気な姿を見せなくてはならない。
たとえその姿がつくり笑顔であったとしても、彼らに不安感や心配を与えてはいけないのだ。
このところ、私自身、仕事中に「ふー」とため息をつくことがある。
「あぁ、疲れたな…」という思いを、頑張って口に出さずにいるものの、ふと、大きくため息が出る。
体力が急激に落ちているのだろうか。
もうすこし身体を鍛えなければ、いい仕事はできないのだろう。
「自分の生きる道は、なかなか見えないかも知れません。でも、今与えられている部署で全力を尽くしてこそ、道が拓けるのだと思います。あれこれ悩んでも、絶対に見えてきません。」
今朝の朝礼で、校長が熱く語っていた。
ここ数年、私はこの職場で全力ではないように思う。
心の中ではカウントダウンを始めているのかも知れない。
もちろん、そんな中でいい仕事ができる訳もなく、基本的に静かに過ごしているのだが、時に「老害」をまき散らしているのだろう。
11月になって、高3の受験生たちも、焦る気持ちを抑えつつ、勉強に勤しんでいる。
そんな折、教師たる者、やはり明るく爽やかな笑顔で接するべきなのだろう。
たとえ作り笑顔でもいい。
いつしか、それが本物の笑顔になる日を目指して、精進し続けなければなるまい…。
「ふー」と大きなため息をつくのは、誰も見ていないトイレの大きな鏡の前だけにしよう。
その醜い姿を見て、「もうため息をつくのはやめよう… 」、と思えるかも知れないから…。
声を交わしたのは、一ヶ月ぶりくらいだろうか…。
Y君は私を見るなり言う。
「死にそうな顔ですね…。」
ちょうど私が6時間目の中3の授業のために、特別教室に移動している時のことだ。
「大丈夫ですか。疲れているんですね…。」
ああ、私はそういう姿を生徒たちに見せてしまっているのか…。
確かに午後は疲労が蓄積している。
中3の授業は楽しいので、授業に行くことが疲労をさらに倍加させるという訳でもない。
どちらかと言えば、生徒たちからパワーをもらっているのが現実だ。
だが、ふとした私の油断が、表情に出て、その姿を見た生徒を心配させたのだ。
教師(指導者)たるもの、いついかなるときも元気な姿を見せなくてはならない。
たとえその姿がつくり笑顔であったとしても、彼らに不安感や心配を与えてはいけないのだ。
このところ、私自身、仕事中に「ふー」とため息をつくことがある。
「あぁ、疲れたな…」という思いを、頑張って口に出さずにいるものの、ふと、大きくため息が出る。
体力が急激に落ちているのだろうか。
もうすこし身体を鍛えなければ、いい仕事はできないのだろう。
「自分の生きる道は、なかなか見えないかも知れません。でも、今与えられている部署で全力を尽くしてこそ、道が拓けるのだと思います。あれこれ悩んでも、絶対に見えてきません。」
今朝の朝礼で、校長が熱く語っていた。
ここ数年、私はこの職場で全力ではないように思う。
心の中ではカウントダウンを始めているのかも知れない。
もちろん、そんな中でいい仕事ができる訳もなく、基本的に静かに過ごしているのだが、時に「老害」をまき散らしているのだろう。
11月になって、高3の受験生たちも、焦る気持ちを抑えつつ、勉強に勤しんでいる。
そんな折、教師たる者、やはり明るく爽やかな笑顔で接するべきなのだろう。
たとえ作り笑顔でもいい。
いつしか、それが本物の笑顔になる日を目指して、精進し続けなければなるまい…。
「ふー」と大きなため息をつくのは、誰も見ていないトイレの大きな鏡の前だけにしよう。
その醜い姿を見て、「もうため息をつくのはやめよう… 」、と思えるかも知れないから…。
2020年11月04日
冬将軍
山に雪が降る季節になった。
今朝は、雪を降らせた冷たい空気が流れ込み、最低気温はそれほどでもなかったが、風が強くかなり寒く感じた。
いよいよ、この地にも冬のシーズンがやってきたのだ。
ひと頃は高く輝いていた金星も、急激に低くなり、明けの明星に移りつつある。
月が出ていると、夜中でもとても明るいのは、高度が大きいからだろう。
まもなく紅葉で赤く染まった山が冠雪で白くなる。
下界でも紅葉が始まった。
廃校になった小学校の校庭にある銀杏の大木は、今年もたくさんの銀杏を落としているに違いない。
本来ならば今日が地元のお祭り。
江戸時代から続く伝統的な祭りなのだが、今年はコロナ対策のために中止になった。
私は数日前、祭りの主宰神をまつる神社に参拝し、お詫びを申し上げた。
「コロナ渦に祭りなんて…」、という不信仰者に負けず、コロナだからこそ祭りをして回に平安を祈らなければならないのだ。
その意味でも、コロナ渦に「教会を閉めてはいけない。こうした時期だからこそ皆で神に祈ろう」、というトランプ大統領の発言は、ごく自然で正しいものであると言える。
「お祭りは御神事です。身も心を清めて、感謝を込めて臨んで下さい。」
そういう発信がいる…。
山の雪は終日降り続いたようだ。
この地域では山で天気が悪化すると、その雲が流れてきて、下界も時雨れることがある。
日光が当たらないので、かなり寒く感じる…。
珍しく犬たちも丸くなっている。
日中の最高気温も10℃ほど。
これが厳寒期にはあと十数℃下がるのだから、まだまだ暖かい方なのだろうが、さすがに野球どころではない気候になった。
日没も早くなり、あっという間に暗くなる…。
空気の澄んだ気持ちの良い季節ではあるが、寒さ厳しい時期であることは間違いない。
「丹澤先生、窓を閉めていいですか?」
どんなに寒くても授業前に窓を開けてしまう私に、生徒たちは懇願する目で訴える。
「シャキッとして気持ちいいんだけどね…。」
と言いながら私はしぶしぶ窓を閉める。
まだ授業評価に「あまり窓を開けないで下さい」、と書かれるのだろう。
まぁ、私は気にしないのだが…。
今朝は、雪を降らせた冷たい空気が流れ込み、最低気温はそれほどでもなかったが、風が強くかなり寒く感じた。
いよいよ、この地にも冬のシーズンがやってきたのだ。
ひと頃は高く輝いていた金星も、急激に低くなり、明けの明星に移りつつある。
月が出ていると、夜中でもとても明るいのは、高度が大きいからだろう。
まもなく紅葉で赤く染まった山が冠雪で白くなる。
下界でも紅葉が始まった。
廃校になった小学校の校庭にある銀杏の大木は、今年もたくさんの銀杏を落としているに違いない。
本来ならば今日が地元のお祭り。
江戸時代から続く伝統的な祭りなのだが、今年はコロナ対策のために中止になった。
私は数日前、祭りの主宰神をまつる神社に参拝し、お詫びを申し上げた。
「コロナ渦に祭りなんて…」、という不信仰者に負けず、コロナだからこそ祭りをして回に平安を祈らなければならないのだ。
その意味でも、コロナ渦に「教会を閉めてはいけない。こうした時期だからこそ皆で神に祈ろう」、というトランプ大統領の発言は、ごく自然で正しいものであると言える。
「お祭りは御神事です。身も心を清めて、感謝を込めて臨んで下さい。」
そういう発信がいる…。
山の雪は終日降り続いたようだ。
この地域では山で天気が悪化すると、その雲が流れてきて、下界も時雨れることがある。
日光が当たらないので、かなり寒く感じる…。
珍しく犬たちも丸くなっている。
日中の最高気温も10℃ほど。
これが厳寒期にはあと十数℃下がるのだから、まだまだ暖かい方なのだろうが、さすがに野球どころではない気候になった。
日没も早くなり、あっという間に暗くなる…。
空気の澄んだ気持ちの良い季節ではあるが、寒さ厳しい時期であることは間違いない。
「丹澤先生、窓を閉めていいですか?」
どんなに寒くても授業前に窓を開けてしまう私に、生徒たちは懇願する目で訴える。
「シャキッとして気持ちいいんだけどね…。」
と言いながら私はしぶしぶ窓を閉める。
まだ授業評価に「あまり窓を開けないで下さい」、と書かれるのだろう。
まぁ、私は気にしないのだが…。
2020年11月03日
合わせ鏡
野球部のキャプテンのTの言動が荒い。
言葉がきつく粗暴で、辛辣なのである。
強気で野球も上手く、リーダーシップはあるのだが、時に感情をむき出しにしてしまう。
『立ち向かう 人の心は 鏡なり 己が姿を 移してやみん』
という言葉がある。
私は小学生の頃、この言葉を教えてもらい、以来人生訓の一つにしているが、時に、このことを忘れてしまう。
何か事が起きて、心が大きく揺さぶられてしまうときには、なかなか冷静にはなれず、そして合わせ鏡の相手を傷つけたり、逆に傷つけられたりする。
時々手を焼くTの言葉を冷静に思うとき、最近ふと、「これは私の言葉なのではないだろうか」、と思うようになった。
彼の言うことは正論である。正しいことを言っている。
だから、時に私は「そうだよね。そのとおりだよね」、と口にこそ出さないものの、肯定している。
つまり、私の心の中にも、Tと同じ思いがあり、彼が私の言葉を代行しているに過ぎないわけだ。
これは、Tの激しい言葉は、私の心の状態を表していることを示している。
きっと、私の心が平らかになれば、Tの言葉も穏やかになるに違いない。
学校生活を送っていると、時に冷静になれないことも起こる。
そのときこそが、勝負なのだろう。
いかに心を揺らさず、冷静に、大局的な見方で、生徒たちや他の教員たち、そして保護者と接することができるかが勝負なのだ。
だが、私はしばしばその勝負に負けている。
再起こそ、他の人を激しく責めることはなくなったが、心の平静は保てない…。
だからこそ、Tの言葉も変わらないのだろう。
人の思いは目に見えないところで飛び交っている。
そして、その思いは、いろいろな所に伝わり、キャッチされる。
良い思いであろうが、悪い思いいであろうが関係なく、世界を飛び回る。
「これが目に見えたら怖いだろうな…」、と思う。
人はそうした中で生活している。
「T先輩の言動がキツくて辛いです…。」
幼い中1の部員がそう訴えてきた。
学齢が低いと、自分の今年か考えられないので、「嫌なものは嫌」となるのだ。
これも私の心のコントロールが出来ていないからなのだろう。
Tと私は合わせ鏡なのだから…。
言葉がきつく粗暴で、辛辣なのである。
強気で野球も上手く、リーダーシップはあるのだが、時に感情をむき出しにしてしまう。
『立ち向かう 人の心は 鏡なり 己が姿を 移してやみん』
という言葉がある。
私は小学生の頃、この言葉を教えてもらい、以来人生訓の一つにしているが、時に、このことを忘れてしまう。
何か事が起きて、心が大きく揺さぶられてしまうときには、なかなか冷静にはなれず、そして合わせ鏡の相手を傷つけたり、逆に傷つけられたりする。
時々手を焼くTの言葉を冷静に思うとき、最近ふと、「これは私の言葉なのではないだろうか」、と思うようになった。
彼の言うことは正論である。正しいことを言っている。
だから、時に私は「そうだよね。そのとおりだよね」、と口にこそ出さないものの、肯定している。
つまり、私の心の中にも、Tと同じ思いがあり、彼が私の言葉を代行しているに過ぎないわけだ。
これは、Tの激しい言葉は、私の心の状態を表していることを示している。
きっと、私の心が平らかになれば、Tの言葉も穏やかになるに違いない。
学校生活を送っていると、時に冷静になれないことも起こる。
そのときこそが、勝負なのだろう。
いかに心を揺らさず、冷静に、大局的な見方で、生徒たちや他の教員たち、そして保護者と接することができるかが勝負なのだ。
だが、私はしばしばその勝負に負けている。
再起こそ、他の人を激しく責めることはなくなったが、心の平静は保てない…。
だからこそ、Tの言葉も変わらないのだろう。
人の思いは目に見えないところで飛び交っている。
そして、その思いは、いろいろな所に伝わり、キャッチされる。
良い思いであろうが、悪い思いいであろうが関係なく、世界を飛び回る。
「これが目に見えたら怖いだろうな…」、と思う。
人はそうした中で生活している。
「T先輩の言動がキツくて辛いです…。」
幼い中1の部員がそう訴えてきた。
学齢が低いと、自分の今年か考えられないので、「嫌なものは嫌」となるのだ。
これも私の心のコントロールが出来ていないからなのだろう。
Tと私は合わせ鏡なのだから…。
2020年11月02日
あなたが生まれて…
『あなたが生まれて世界は美しくなりましたか。世界はよくなりましたか』という歌詞で始まる歌を聴いた。
メロディよりも歌詞にドキッとした。
今月誕生日を迎える私は、還暦に近くなってきた。
いつの間にか、こんなに歳をとったのだろうか。
ただ。「あなたが生まれて世界は美しくなりましたか。よくなりましたか?」、問われれば「否」である。
これまでの人生、私は漫然と生きており、人や社会の役に立っているとは思えない。
ましてや、世界が美しくなったとも思えない。
世界が美しくなるとは、世の中から少しでも「悪」が消えるということだろうし、人々が幸福に生活して行ける社会や国家が形成されているということだろう。もっと、卑近なものでは、「家庭や、自分の周りの友人が幸せになり、ポジティブで明るく爽やかな人生を送れるようになったかどうか」、を問われているのだろう。
このような人生を生ききることができれば、人生は成功したと言えるらしい。
美しい世界になるためには、人々の心そのものが美しくなければいけないはずだ。
激しく感情がぶれたりする心の状態では、心の美しさは得られない。
平らかで、波打たず、凪の時の湖面のような穏やかな心の状態を維持し続けなければならないはずだ。
もちろん、こうした生き方をするのは難しい。
一人、山に籠もって、外界との交流を遮断したからといって、こうしたここの状態を作れるとは限らない。
ましてや、「それぞれの仕事で、多くの人と関わる中で、いかに心を磨くことができるかどうか」、は宗教家であっても難しい修行課題だろう。
私は、「まずは一人かな…」、とも考えた。
たった一人、私が生きていることによって、「あなたがいてよかった。あなたの生き方から学ぶことができた」、という人が出てくれば、まずは良しとするべきか…。
それとも、人知れず、誰かの役に立てる仕事をし続けようか…。
いずれにせよ、私自身の生き方すらも変えてしまいそうな、恐ろしい歌詞である。
およそ心の世界の探究をしている人であるならば、必ずやこの歌詞に心を揺さぶられるに違いない。
この言葉は、しばらく私の心から消えそうもない…。
メロディよりも歌詞にドキッとした。
今月誕生日を迎える私は、還暦に近くなってきた。
いつの間にか、こんなに歳をとったのだろうか。
ただ。「あなたが生まれて世界は美しくなりましたか。よくなりましたか?」、問われれば「否」である。
これまでの人生、私は漫然と生きており、人や社会の役に立っているとは思えない。
ましてや、世界が美しくなったとも思えない。
世界が美しくなるとは、世の中から少しでも「悪」が消えるということだろうし、人々が幸福に生活して行ける社会や国家が形成されているということだろう。もっと、卑近なものでは、「家庭や、自分の周りの友人が幸せになり、ポジティブで明るく爽やかな人生を送れるようになったかどうか」、を問われているのだろう。
このような人生を生ききることができれば、人生は成功したと言えるらしい。
美しい世界になるためには、人々の心そのものが美しくなければいけないはずだ。
激しく感情がぶれたりする心の状態では、心の美しさは得られない。
平らかで、波打たず、凪の時の湖面のような穏やかな心の状態を維持し続けなければならないはずだ。
もちろん、こうした生き方をするのは難しい。
一人、山に籠もって、外界との交流を遮断したからといって、こうしたここの状態を作れるとは限らない。
ましてや、「それぞれの仕事で、多くの人と関わる中で、いかに心を磨くことができるかどうか」、は宗教家であっても難しい修行課題だろう。
私は、「まずは一人かな…」、とも考えた。
たった一人、私が生きていることによって、「あなたがいてよかった。あなたの生き方から学ぶことができた」、という人が出てくれば、まずは良しとするべきか…。
それとも、人知れず、誰かの役に立てる仕事をし続けようか…。
いずれにせよ、私自身の生き方すらも変えてしまいそうな、恐ろしい歌詞である。
およそ心の世界の探究をしている人であるならば、必ずやこの歌詞に心を揺さぶられるに違いない。
この言葉は、しばらく私の心から消えそうもない…。
2020年11月01日
制服での班別行動
「京都を散策するときは私服じゃ駄目ですか?」
研修旅行の日程が決まって早々、学年主任が学年会で尋ねた。
私を含め、担任たちも全員反対。「制服をきせるべき」ということになった。
研修旅行が修学旅行の代替であること、そして中学生であることが主な理由だ。
制服は学校のステータスである。
生徒たちは制服を着ることで、気持ちが引き締まる。
ほんの数時間ながらも、市街地での初めての班別行動。
緊張感を与えると共に、学校の看板を背負っていることを考えれば、自ずと『制服』という結論になる。
通常ならば、当たり前のように制服着用だろう。
それにもかかわらず、何故学年主任は、「私服でもいいんじゃないですか?」と言う。
私は、彼女が学校経験が少ない上に、高校感覚であることがその理由であろうと分析している。
学校現場には、議論するまでもなく「当たり前」のことがたくさんある。
それぞれに「なぜそうなのか」の説明を付けることができるが、多くの教員たちが「当たり前」のことと思って行っている。
確かに、一部時代に即さないこともあるのだろうが、長い年月をかけて、その方が「中学生を護れるから」という理由も多いのだ。
学年主任は『制服の重み』を感じていないのだろうか。
『制服の誇り』を認識していないのだろうか。
「彼らはシャツの替えが少ないと思うんです…」
とも言うが、だから取って一枚や二枚ではあるまい…。
最近よく、彼女の発言には悩乱させられる。
「従来の常識の打破」と思えるならば、私も受け入れる余地があるのだが、どうもそうではないらしい…。
「私服の帆が、動きやすいですよね…。」
と言うものだから、やっぱりおかしいのだ。
以前学校が荒れていた時代、中学、高校の男子の制服が、学ランからブレーザーに一斉に替わったことがある。
これは、ある意味、先生たち(学校)が、生徒の制服指導ができなくなったことを意味する。
制服をきちんと着させることができなくなったのである。
だが、今はそういう時代ではないだろう。
制服は度の学校も似ているが、それでも、「制服を着ている」という自覚は、生徒たちは持ってくれる。それが学校のステータスであり誇りにもなる。
「彼女は制服が嫌いなのかな…。」
京都の班別行動は、制服でとても良かった。
研修旅行の日程が決まって早々、学年主任が学年会で尋ねた。
私を含め、担任たちも全員反対。「制服をきせるべき」ということになった。
研修旅行が修学旅行の代替であること、そして中学生であることが主な理由だ。
制服は学校のステータスである。
生徒たちは制服を着ることで、気持ちが引き締まる。
ほんの数時間ながらも、市街地での初めての班別行動。
緊張感を与えると共に、学校の看板を背負っていることを考えれば、自ずと『制服』という結論になる。
通常ならば、当たり前のように制服着用だろう。
それにもかかわらず、何故学年主任は、「私服でもいいんじゃないですか?」と言う。
私は、彼女が学校経験が少ない上に、高校感覚であることがその理由であろうと分析している。
学校現場には、議論するまでもなく「当たり前」のことがたくさんある。
それぞれに「なぜそうなのか」の説明を付けることができるが、多くの教員たちが「当たり前」のことと思って行っている。
確かに、一部時代に即さないこともあるのだろうが、長い年月をかけて、その方が「中学生を護れるから」という理由も多いのだ。
学年主任は『制服の重み』を感じていないのだろうか。
『制服の誇り』を認識していないのだろうか。
「彼らはシャツの替えが少ないと思うんです…」
とも言うが、だから取って一枚や二枚ではあるまい…。
最近よく、彼女の発言には悩乱させられる。
「従来の常識の打破」と思えるならば、私も受け入れる余地があるのだが、どうもそうではないらしい…。
「私服の帆が、動きやすいですよね…。」
と言うものだから、やっぱりおかしいのだ。
以前学校が荒れていた時代、中学、高校の男子の制服が、学ランからブレーザーに一斉に替わったことがある。
これは、ある意味、先生たち(学校)が、生徒の制服指導ができなくなったことを意味する。
制服をきちんと着させることができなくなったのである。
だが、今はそういう時代ではないだろう。
制服は度の学校も似ているが、それでも、「制服を着ている」という自覚は、生徒たちは持ってくれる。それが学校のステータスであり誇りにもなる。
「彼女は制服が嫌いなのかな…。」
京都の班別行動は、制服でとても良かった。
2020年10月31日
買い食い
この地区では大会時の「中学生の買い食い」は禁止されている。
学校管理科に、コンビニなどに寄って飲み食いすることを制するのは、当然のことと思う。
もし、これを「よし」とした場合、おそらくは学校の先生たちはもっと忙しくなるだろう。
それぞれのテンポから「中学生がたむろしているのでなんとかして欲しい…」、という通報が学校に入るからだ。
高校生だって同じなのではないかとも思うが、高校に苦情の電話が入るという話はあまり聞かない。
高校生の場合、地域がバラバラなので、人数が限られているのか、あるいは、学校周辺に限られ、うまく共存しているのだろう。
その延長として、学校行事の際も、中学生の買い食いを禁止にしている学校は多い。
遠足などで、SAでのトイレ休憩をするたびに、学校団体としての中学生が飲み食いする様は、あまり見栄えの良いものではない。私個人としても、できたらやめて欲しいと思っている。
今回の研修では、SAでは自由に買い食いができた。
私自身としては、「もう勝手にしてくれ」、という感じだ。
「帰りのSAでも飲み食いさせるのですか?」
「はい。15分以上時間があればOKにします。」
と学年主任。
彼らはアイスクリームを歩きながら食べ、バスに持ち込もうとする。
私は、ようやくの思いでそれを静止するも、お菓子類を手に持って嬉しそうにバスに乗り込む生徒たちは、見て見ぬ振りをした。
「こんなんでいいのかな…。」
中3だから、あと少しで高校生。高校生ならば許しても良いかもしれないが、買い食いによって集合時間に遅れることは頻繁に起こる。
バスがSAに到着するや否や、T君が興奮しながら叫ぶ。
「食べもんあるじゃん。」
そして店に走り出した。
制服でないのがせめてもの救いだが、あまり格好良くない…。
周りを見ずに飛び出せば、交通事故の危険だってある。
もしかしたら、学年主任の世代は、買い食いするのが当たり前の年代なのだろう。
併せて、飲み食いしたいのは、先生自身なのかも知れないなどとうがってしまう…。
とまれ、私自身、老害になりつつあるのだけは間違いない…。
学校管理科に、コンビニなどに寄って飲み食いすることを制するのは、当然のことと思う。
もし、これを「よし」とした場合、おそらくは学校の先生たちはもっと忙しくなるだろう。
それぞれのテンポから「中学生がたむろしているのでなんとかして欲しい…」、という通報が学校に入るからだ。
高校生だって同じなのではないかとも思うが、高校に苦情の電話が入るという話はあまり聞かない。
高校生の場合、地域がバラバラなので、人数が限られているのか、あるいは、学校周辺に限られ、うまく共存しているのだろう。
その延長として、学校行事の際も、中学生の買い食いを禁止にしている学校は多い。
遠足などで、SAでのトイレ休憩をするたびに、学校団体としての中学生が飲み食いする様は、あまり見栄えの良いものではない。私個人としても、できたらやめて欲しいと思っている。
今回の研修では、SAでは自由に買い食いができた。
私自身としては、「もう勝手にしてくれ」、という感じだ。
「帰りのSAでも飲み食いさせるのですか?」
「はい。15分以上時間があればOKにします。」
と学年主任。
彼らはアイスクリームを歩きながら食べ、バスに持ち込もうとする。
私は、ようやくの思いでそれを静止するも、お菓子類を手に持って嬉しそうにバスに乗り込む生徒たちは、見て見ぬ振りをした。
「こんなんでいいのかな…。」
中3だから、あと少しで高校生。高校生ならば許しても良いかもしれないが、買い食いによって集合時間に遅れることは頻繁に起こる。
バスがSAに到着するや否や、T君が興奮しながら叫ぶ。
「食べもんあるじゃん。」
そして店に走り出した。
制服でないのがせめてもの救いだが、あまり格好良くない…。
周りを見ずに飛び出せば、交通事故の危険だってある。
もしかしたら、学年主任の世代は、買い食いするのが当たり前の年代なのだろう。
併せて、飲み食いしたいのは、先生自身なのかも知れないなどとうがってしまう…。
とまれ、私自身、老害になりつつあるのだけは間違いない…。