2020年11月03日
合わせ鏡
野球部のキャプテンのTの言動が荒い。
言葉がきつく粗暴で、辛辣なのである。
強気で野球も上手く、リーダーシップはあるのだが、時に感情をむき出しにしてしまう。
『立ち向かう 人の心は 鏡なり 己が姿を 移してやみん』
という言葉がある。
私は小学生の頃、この言葉を教えてもらい、以来人生訓の一つにしているが、時に、このことを忘れてしまう。
何か事が起きて、心が大きく揺さぶられてしまうときには、なかなか冷静にはなれず、そして合わせ鏡の相手を傷つけたり、逆に傷つけられたりする。
時々手を焼くTの言葉を冷静に思うとき、最近ふと、「これは私の言葉なのではないだろうか」、と思うようになった。
彼の言うことは正論である。正しいことを言っている。
だから、時に私は「そうだよね。そのとおりだよね」、と口にこそ出さないものの、肯定している。
つまり、私の心の中にも、Tと同じ思いがあり、彼が私の言葉を代行しているに過ぎないわけだ。
これは、Tの激しい言葉は、私の心の状態を表していることを示している。
きっと、私の心が平らかになれば、Tの言葉も穏やかになるに違いない。
学校生活を送っていると、時に冷静になれないことも起こる。
そのときこそが、勝負なのだろう。
いかに心を揺らさず、冷静に、大局的な見方で、生徒たちや他の教員たち、そして保護者と接することができるかが勝負なのだ。
だが、私はしばしばその勝負に負けている。
再起こそ、他の人を激しく責めることはなくなったが、心の平静は保てない…。
だからこそ、Tの言葉も変わらないのだろう。
人の思いは目に見えないところで飛び交っている。
そして、その思いは、いろいろな所に伝わり、キャッチされる。
良い思いであろうが、悪い思いいであろうが関係なく、世界を飛び回る。
「これが目に見えたら怖いだろうな…」、と思う。
人はそうした中で生活している。
「T先輩の言動がキツくて辛いです…。」
幼い中1の部員がそう訴えてきた。
学齢が低いと、自分の今年か考えられないので、「嫌なものは嫌」となるのだ。
これも私の心のコントロールが出来ていないからなのだろう。
Tと私は合わせ鏡なのだから…。
言葉がきつく粗暴で、辛辣なのである。
強気で野球も上手く、リーダーシップはあるのだが、時に感情をむき出しにしてしまう。
『立ち向かう 人の心は 鏡なり 己が姿を 移してやみん』
という言葉がある。
私は小学生の頃、この言葉を教えてもらい、以来人生訓の一つにしているが、時に、このことを忘れてしまう。
何か事が起きて、心が大きく揺さぶられてしまうときには、なかなか冷静にはなれず、そして合わせ鏡の相手を傷つけたり、逆に傷つけられたりする。
時々手を焼くTの言葉を冷静に思うとき、最近ふと、「これは私の言葉なのではないだろうか」、と思うようになった。
彼の言うことは正論である。正しいことを言っている。
だから、時に私は「そうだよね。そのとおりだよね」、と口にこそ出さないものの、肯定している。
つまり、私の心の中にも、Tと同じ思いがあり、彼が私の言葉を代行しているに過ぎないわけだ。
これは、Tの激しい言葉は、私の心の状態を表していることを示している。
きっと、私の心が平らかになれば、Tの言葉も穏やかになるに違いない。
学校生活を送っていると、時に冷静になれないことも起こる。
そのときこそが、勝負なのだろう。
いかに心を揺らさず、冷静に、大局的な見方で、生徒たちや他の教員たち、そして保護者と接することができるかが勝負なのだ。
だが、私はしばしばその勝負に負けている。
再起こそ、他の人を激しく責めることはなくなったが、心の平静は保てない…。
だからこそ、Tの言葉も変わらないのだろう。
人の思いは目に見えないところで飛び交っている。
そして、その思いは、いろいろな所に伝わり、キャッチされる。
良い思いであろうが、悪い思いいであろうが関係なく、世界を飛び回る。
「これが目に見えたら怖いだろうな…」、と思う。
人はそうした中で生活している。
「T先輩の言動がキツくて辛いです…。」
幼い中1の部員がそう訴えてきた。
学齢が低いと、自分の今年か考えられないので、「嫌なものは嫌」となるのだ。
これも私の心のコントロールが出来ていないからなのだろう。
Tと私は合わせ鏡なのだから…。
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