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2018年09月13日

授業が騒がしいです

新人教員にとって、『生徒が分かる授業』は、当面の達成目標の一つだか、「分かる授業」の前に、授業の環境整備をしなくてはならない。

「授業にのぞむ心構え」、「ノートの書き方、作り方」、「宿題提出について」、「忘れ物について」、「様子すべき筆記用具」、「授業中の発言の仕方」、「座席」、「プリント配布、回収の方法」、「挨拶の仕方」などなど、授業の初めから終わりまでで、授業運営に必要と思われることは、最初から自分の方針として、生徒たちに伝えておく必要がある。

そうした環境を整えつつ、『分かる授業』を目指す(行う)のである。

もちろん、新人教員が、こうした環境整備を完璧にこなすことはできないだろうが、少なくとも、達成すべき努力目標として、踏ん張らなくてはならないだろう。そして、毎回の授業で、少しずつ向上してもらいたい。

私だって、新人時代があり、新たに赴任した学校で授業引き継いだ頃は、「先生の授業は○○先生と比べて分かりにくいです。○○先生が良かった…」などと、言われ続けた経験がある。前の担当者の授業が素晴らしければ素晴らしいほど、次に受け持つ新人教師は、ハードルがぐんと上がる。しかし、それがきっかけとなって奮起すれば、自分自身のスキルは格段に上がっていくのだ。その頃の私は、その先生の授業を陰に隠れて聞き続けた。板書、話術、プリント、生徒への促し方など、すべてが学びになった。

「若いときは、『情熱』しかない」

今は亡き高校時代の恩師から、私が教員になったときにに教えていただいた一言である。

経験が少ない中、下手は下手なりにも、その情熱、熱意が生徒たちに伝わるか、ということは、授業をする上で、何より大切だろう。

情熱にあふれていれば、別に授業が騒がしくたっていいのだ。生徒がその思いを感じ取っていれば、あるとき、騒がしい状態が、さっと静まって、先生の指示が通るはずだ。

「授業は、基本的に騒がしいです。」
新人の先生が恥ずかしげもなく語った。

「授業が騒がしくて授業が成立しない」ならば、「授業が単調でつまらない上に、レベル設定が間違っていて生徒が理解できない」か、「環境整備ができていないか」、であろう。

新人諸氏は、試練と思って鋭意健闘されたし。

マスク君とマスクさん

涼しくなると、マスクをしている生徒が増える。
気温の変化が大きい季節になるので、体調を崩しやすいということもあるが、必ずしもそうではない。

マスクは顔の大部分をい覆うことができる。
頭髪規定が厳しい学校でなければ、前髪で目を隠すこともできる。
つまり、顔の表情を他の人に見せまい、とマスクをつけるのだ。

以前、舌にピアスをつけた高校生が、「そのまま学校に行っても、マスクをつけてたから気づかれなかったよ。」、という話を聞いたことがある。そういう強者は少ないだろうが、中高生で、目を隠し、マスクをつけ始めたら要注意である。さらにこれにパーカーを着て、頭からフードをかぶったならば、これで、自分の世界に閉じこもることができる(と考えている)。いわゆる引きこもりの始まりである。

引きこもりは、学校に行けずに家に引きこもっているばかりではない。たとえ学校に行けたとしても、集団を極端に嫌い、自分だけの世界に閉じこもろうとする。

時に笑顔を見せたとしても、それは、一種の防衛反応であって、たいていの場合は作り笑いである。彼らにとって、作り笑いは、かなりのエネルギーを要し、けっこう体力を消費する。だから、一人になったときにどっと疲れが訪れる。

引きこもりにもレベルがあるようで、彼ら、彼女らなりにランクを決めていたりする。
とあるアニメにならって、レベル4だの、レベル5などの、自分たちでレベルを決めている。

以前、私の学校では、『引きこもり同好会』なるものを、密かに立ち上げ、仲間同士で集まっていることがあった。学年をまたいでのグループなので、なかなか始末が悪い。いろいろな意味で、先輩が後輩に影響を与え、引きこもりに学年連鎖ができていた。たいていは、学校や社会、友人に対する不満が共通項となり、波長同通の法則で、互いが集まってくる。

集団を形成していると、必ず集団のカラーから外れる人が出る。子供でも大人でも同じである。昨今は、『違いを認める』ことが重視させているので、以前のように一律に排除する教育は行われていないが、思春期の頃の生徒には、その違いを理解させることは、そう簡単なことではないだろう。

今日も、校内を隠れるように歩いているマスク君やマスクさん。
『自分の世界に足を踏み入れないで欲しい』、と思いながらも、実は、『私の存在に気づいて欲しい。声をかけて欲しい。』とも思っていることも多い。

彼らを見て見ぬふりをするのではなく、積極的に声をかけてみよう。

『できることは何でもやる』という姿勢が我々教師の務めだ。

2018年09月12日

ギリギリ生活

学校の朝は早い。私の学校の先生の朝の打ち合わせだって午前7時40分だし、たいていの学校は8時半には始業する。

こんな学校の世界だから、大学生のとき完全に夜型になっていた新卒教員は、赴任早々、かなりの苦しみを味わうことになる。また、外部から来た校長も、生活習慣が違えば、学校の生活パターンと合わずに、教員たちとトラブルになる。以前、「朝から来ない校長が、夜8時から延々何時間も会議をするんだよ」という話も聞いたことがある。

多くの教員は、打ち合わせ時間より前に出勤する。かくいう私も、以前は一時間以上前に学校にいなければ、何となく気持ち悪さを覚えたものだ。当時は自動車通勤ということもあり、道路事情で一時間くらい渋滞にはまっても、遅刻はしない、という訳だ。

一方で、就業時間ギリギリに来る先生も何人かいて、「よく、そんな綱渡りができるなぁ。」と、逆に感心する。

前任の私立学校では、遅刻ギリギリに来ることが当たり前で、週に一度くらいは遅れてしまうということを繰り返していた先生が、翌年クビになった。タイムカードなどなくても、見ている人はいるのだ。

どんな職場であっても、余裕をもって朝の時間を使っている人は、概して仕事ができるものだ。

しかし、昨今の若手の先生方は、ギリギリ生活が得意なようで、結果、何度も遅れてこられる方がおられる。

学校は、チャイムが時間を知らせるが、時計時間では、チャイムが鳴り終わった頃には、とっくに就業時間を過ぎている。打ち合わせが始まった頃に、こっそりと扉を開けて、職員室に入ってくる姿は、何度見ても美しくない…。

だいたい、「生徒に時間を守れ。」と、言っている教師が遅刻していては、示しがつかないし、説得力もない。『時間を守る大切さ』を語ったところで、言葉に力はない。

夜中まで、教材研究をしていたのかも知れないけれど、「何があろうと、一秒たりとも遅れては駄目だ。」と言うのが、私の持論だ。

そんなギリギリ生活の若手が、職員室で仕事を始めたかと思ったら、すぐに、こくりこくりと居眠りを始めた。授業が終わって、職員室に戻るたびに、授業のない時間は寝ている…。さすがに、これはまずいだろうと、隣席の若手の先生が動いた。

「どうなっているんですか?」

こんな場合、公立学校ではどうなるのだろう…。今度同僚に聞いてみようっと。

生徒と食べる昼食

ほとんどの中学校では、学校給食が導入されており、担任の先生は、教室で生徒と給食を食べることになる。学校では、これを給食指導と言って、各校様々な工夫や取り組みをしている。

おそらくは、この生徒と『一緒に食べる』ことが、負担になっていて、「できたらやめて欲しい」と思っている若手の先生もいるのではないだろうか。

「今月はうちは、完食でしたよ」
「やっぱり中学三年生ですね…」

近隣の公立の先生たちからは、そんな会話が聞こえてくる。完食は、クラスの誰一人残さず食べるわけで(いろいろ仕組みがあるでしょうけど…)、当然、相応の給食指導になるのだろう。

私立学校では、ほとんどがお弁当制なので、生徒と先生が一緒に昼食を食べる機会はほとんどない。特に、中高一貫校でも高校専門の先生は、
「生徒と一緒に昼食を食べることなど、あり得ない。食べた気がしないし、お昼の時間くらいゆっくりさせてくれ。」
「生徒と一緒に食べると、逆に生徒にストレスが溜まってしまうから、せめてお昼くらいは、自由に食べさせましょうよ。」
などと、豪語していたりする。
なるほど、中学校の先生は、よく頑張っておられる。

私の学校は、中高一貫の私立学校だが、食堂で食べる給食形式だ。昼食時間になると、各自食堂に行き、各自食事を受け取り、友人同士、開いている好きな席に陣取って食べる。時間内であれば、どの時間に食べてもよい。先生たちも、注文すれば、同じ食事を食べられる。

特に、入学したての中学一年生は、一ヶ月間、学年全体で昼食を一斉に食べる、というシステムにしている。入学したての生徒の人間関係を構築させ、孤立した生徒を防ごうというねらいである。

私は、生徒と一緒に食事をするのが好きである。彼らと話しをするにも、話題に困ることはない。生徒が座っている席に、積極的に飛び込み、たわいのない会話をしながら、会話を楽しむことができる。

もしかしたら、彼らは嫌がっているのかも知れないけど、お互いが楽しくなるのならいいじゃないか。

監視ではない。彼らと話をしながら食事をすることそのものが、楽しいのだ。副産物として、彼らの考えや、いろいろな情報も手に入れることができるが、あくまでそれは「おまけ」である。

最近は、カロリー過多になるので、別の食事をすることが多いが、生徒と食べることは好きである。
給食指導、とまではいかないが、生徒と一緒に昼食を食べることは、教育活動の一環としても、教員にとっての大切なスキルの一つであろう。

※文科省の平成28年度給食実施状況調査によると、小学校で99.2%、中学校で88.9%とのこと。ただし、都道府県によって、ばらつきが大きい。

2018年09月11日

午後の授業

「先生、この時間、寝ませんでしたよ。」
6時間目の英語の授業を終えた時に、ある生徒が、得意げに語った。

その話を聞いた翌日、その生徒に、
「授業はそんなに寝ているのか?」
と、尋ねると、
「6時間目の授業は、どうしても眠くなってしまって…。いや、いつも寝ている訳ではないんですよ。たまには眠くならないこともあるんですけど、やっぱり6時間目は眠いです。」
「夜遅くまで起きてるからだろ…」
などと、ジャブを入れて、
(まぁ、8割は先生の世金だと思うけどね…)
と、ほくそ笑む。

私の学校では、食後に昼休みらしい時間を与えないで、そのまま掃除の時間に入り、それが終わるとすぐに5時間目がスタートする。5時間目も眠くなるだろうが、食後すぐ、と言うわけではないので、眠気のピークは6時間目になるのかも知れない。

そうなると、授業の先生の頑張りどころ。いかに眠くならない授業展開をするかが、勝負となる。

『教師は 五者であれ』と言われる。つまり、「教師は、学者・医者・易者・役者・芸者であれ」ということだが、こと授業となれば、「絶対に寝かせないぞ」と、気合いを入れて、役者に徹することになる。

私自身、以前授業で、忘れ物をしたとき、『算数チャチャチャ』などの楽しい歌を歌わせるというイベントを組み込んだことがあるが、昨今は、なかなか恥ずかしがって大きな声で歌えない。

しかしそれ以上に、私自身、年甲斐もなく、恥ずかしげもなく、全身全霊で授業に臨む…。
密かに日常での生徒との会話と授業中のギャップを大切にしているからだ。

もちろん今でも、『次から次へと、生徒に刺激を与え続け、全員参加の活気ある授業を目指さねば』と、鋭意修行中である。

生徒との接点が全くない臨時講師が、特別に公開授業をするのと違い、学校の場合は、大抵は人間関係構築後に授業が行われる。

私は、教科内容の授業準備以上に、授業中のお話(生徒たちは私の話を雑談と言っているが、私は断じて雑談ではないと思っている。)に準備を費やしている。これは、脱単調な授業の一つの方法として、そして、生徒に集中させて話を聞かせる一つの手段としての私の授業のセールスポイントでもある。

さて、午後の授業に出掛けるとするか…。

「どうぞ」と「ありがとう」

教室でプリントを配るとき、座席の先頭の人にその列人数分のプリントを渡して、順次後ろに回してもらうことになることが一般的だ。

そんなときに、先頭の生徒に
「お願いします」
と言うと、たいていは、
「はい。ありがとうございます。」
と、お互い気持ちよくプリントの受け渡しができる。

生徒が入学したてで、まだ初々しい頃は、ちょこんと頭を下げてプリントを手に取るような生徒もいて、かわいらしさと共に、なんだかこちらが恐縮してしまう。

さて、そのプリントだが、後ろの座席に配るときに、自分は振り返ることもなく、ただ頭の後ろに手を伸ばし、後ろの人に手を伸ばしてに取らせるような生徒もいる。中には、後ろの生徒がなかなかプリントを取ってもらえず、「う゛ー、う゛ー」、と言葉にならない声で、後ろの座席の人に、「早く受け取れよ」とばかりプリント促している。相手のことを考えられない自己中態度の発生である。

そんな悲劇を起こさないためにも、「どうぞ」と「ありがとう」を定着させたい。

プリントを後ろの人に回す時は、後ろを向いて「どうぞ」と言う。
受け取った側は、丁寧に渡されたのだから、「ありがとう」と言って受け取る。
次に、その後ろの人に、「どうぞ」と言って渡す。
その後ろの人は、「ありがとう」と言って受け取る。
これを繰り返すことで、教室に「どうぞ」と「ありがとう」の連鎖が生まれる。

声を出してはいけないような定期試験時には黙って渡さなければならないだろうが、普段のプリント配布は、クラス内のコミュニケーション高めるには、とてもよい方法だと思う。ほんの一言の声かけが、知らない間に絆を深めていく。

相手のことを考えての行動は、『当たり前』ではない。だから、『ありがとう』なのだ。

『ありがとう』が連発されている教室は、明るく輝いたクラスになるだろう。
活気ある授業作りのために、是非おすすめしたい。

もちろん、教師が配布する際の「お願いします」という言葉は、絶対に忘れてはならない…。

追記
この方法は、絶対に学級崩壊させない! ここ一番の「決めゼリフ」 <生き方>に迫る深いいクラスづくり(土作 彰著 明治図書)にも紹介されています。他にも、面白いアイデアが満載です。

2018年09月10日

『はい』という返事

近隣の親しくしている私より若手の同僚の先生曰く。
あいつ、返事できないんだよ。

「そこは、2アウト3−2なら、全部ゴーだろ」
と、言っても、
「ごめんなさい」

「ご家庭でどういう教育を受けているかは分からないけれども、目上の人から何か言われたら、『はい』っていうんだよ。」
「ごめんなさい」
すべてがこんな感じだそうで、頭を抱えておられた。

とかく、中学校の運動部の世界では、返事のタイミングとその大きさが、強いチームの象徴のような側面がある。その先生もチーム作りに苦慮されているから、確かにそうした側面もあるが、しかし、返事は社会生活の基本。できないと、その生徒の将来が不安だ。

家庭で虐待などがあると、謝り続けてしまう子供がいるということも聞く。
その生徒の家庭状況は分からないが、過去に何らかの経験があって、その影響が大きく左右していることは間違いないだろう。

心に傷を負っていなければ、『ごめんなさい』から『はい』に切り替えるだけで済むのだから、そう難しくはないかも知れない。しかし、心の奥底に引っかかりがあるのならば、そこまで紐解いてあげなければ、そう簡単には変わらない。

中学生も高学年になってくれば、自分の立場と相手の立場を、ある程度、客観視できるようになってくる。そうすると、この場合は『はい』と言うべきで、この場合は『すいません』でよい、などとど考えて行動できるようになるかも知れない。

ふと、クラスの生徒を思い出した。
掃除の時、「机を運んで下さい」と言っても、誰も返事をしない。実際、机を運んでいるので、聞こえているのだ。聞こえているのだけれど、返事ができないのだ。人の言葉に反応できないのだ。

別の生徒は、
「宿題、出していないって、数学の先生から聞いたよ」
と、声をかけても、目も合わさず、あたかも無視するかのごとく、立ち去ろうとする。

「おい、聞いているのか?」
「分かってますよ。」
と、捨て台詞を吐いて逃げるように去っていく。

この生徒と比べれば、『ごめんなさい』の生徒の方が、まだまだレベルが高いか…。

授業以前の問題 〜まず座らせる〜

教室に入ると、生徒が好き勝手に座っている。少ない人数だから、空席も目立つが、中央部分はぽっかりと抜け、両サイドと最後列付近に座っているのだ。すでに二つの机をくっつけて、楽しそうに談笑している席もある。その座席は、授業中には三つの机が並んでいた。

授業後、担当の先生に、「座席は自由に座らせているのか」と尋ねたら、「座席を決めるのを忘れていました」とのこと。「三人並んでいるのはどういうことか」とたたみかけたら、「教科書、忘れたみたいです」、続いて、「すぐにプリントを無くすんです。」とも。

新卒の先生であっても、『教室に先生が入れば、生徒は黙って座って、静かに授業を聞いてくれる』、と思っている人は少ないだろう。それは、自分たちの生徒時代を思い出せば分かるはずで、悲しいかな、実力のある先生の授業は、あたかも教師と先生が一体化して、一つのドラマチックは授業が成立するが、そうでなければ、下手をすると授業は崩壊する。その差は、紙一重のような気もするが、ポイントさえ抑えれば、誰でも、授業として合格点に達することができるだろう。新任教師向けの教育書には、そうしたポイントがたくさん紹介されている。およそ、教員の世界でいきようと決意したならば、そうした参考書籍の一冊や二冊くらい読まないのだろうか。

『学校として、座席を自由に座らせるというのはあり得ない』こと、そして、『忘れ物をしたからと言って、簡単の机をくっつけて良いという文化は、忘れ物をしてもどうってことない、というムードを作る』ということ。さらには、『プリントを無くすというなら、専用のファイルを作りなさい。プリントをなくしたからすぐに新しいプリントを渡してしまえば、この先生プリントは持ってこなくても大丈夫ということになる』、と指示した。

まさに授業以前の問題である。これでは、授業として成立することはないだろうと思う。

実際、授業中はほとんどの生徒が、後ろを向いておしゃべりしたり、隣の人と話をしていた。

幸い、大人しい生徒たちだから、授業中騒ぎ始めたり、立ち歩いて遊び出したりすることはないと思うが、これでは、先生と生徒の信頼関係は築けない。

「まず、生徒を座らせることからだ」
以前勤めたことのある教育困難のクラスで、先輩教員から教えてもらった言葉だ。

授業担当が変わって、はや数週間、ここまで放置していた私の責任も重い。
申し訳ないけれども、しばらくは介入させていただこうと思う。

2018年09月09日

心が折れる

「先生…」
と、笑いながら、一枚の退部届を差し出す生徒。

「もう、先輩の態度に耐えられません。」
と、泣きながら相談に来る生徒。

一頃、『心が折れる』という言葉が流行ったが、どちらも心が折れている状態だ。
とかく、中高生は心が折れやすい。

以前、心が折れる人は、『頭が固く、完全主義で利己主義者』である、と本で読んだことがあるが、冷静に分析してみると、確かにそのように見える。

と言って、彼らに、「キミは自己中だ」などとは言えない。
そっと、心に寄り添って、「辛かったねぇ」と同悲、同苦の思いで接することになる。

悩みは、自分の心の中にため込むと、どんどん蓄積し、いつしか爆発してしまう。
どこかで、吐き出すか、抜き取るか、消し去るなどのすべを教えてあげなければならない。

大人だって、『心が折れる』人が多いだろうが、こちらは、そう言うことで、何となく現実逃避している傾向があるように思えてならない。もちろん、私だって、そういう気持ちになることはある。

しかし、そういう状態になるまで、多くの人に実は助けられ、またいろいろなアドバイスを受けていたということを、当の本人は全く気づいていないだろう。

中高生ならば、いつしか気づくときが来るか、それとも青春期の苦しかった思い出として、流されていくだけか。

踏みとどまり、自らの心の強さを信じ、あと一歩と前進していくことができれば、知らない間に解決していることも多いのだろう。

そのためには教師側の徳力、「なぜかあの先生の言うことを聞くと、元気が出てくるな…」というような、目に見えない力が、彼らに響いていくことが必要だろう。

まだまだ、私の力量ではそうした域には遠く及ばない…。

2018年09月08日

社会が感じる中学生の印象

夏休み中に、少人数で私設の博物館に出掛けた。

窓口で「中学生5人です。」と言うやいなや、「えっ、中学生。大丈夫いたずらしない?」といぶかしがられた。

その時は、ずいぶん変なことをいう人だなぁ、と思ったが、昨今の中学生に対する印象は、どうもよろしくないらしい。

「公園に中学生が3人集まっているから、何とかしてくれ」って、学校に電話がかかってくるんだよ、と近隣の先生に聞いたことがある。当然、地元住民の要請を無視するわけにもいかず、他の仕事より優先してスクルランブル発進する。中学生は公園で休んではいけないのか、と思いたくなる。

中学生が集まると、何か悪いことをするに違いない。中学生はろくなことをしない。

というのが、社会が感じる中学生の印象なのだろう。
もちろん、実際、万引きしただの、畑の作物を食べた、などの事例は、あるにはある。

ただし、彼ら中学生だって、多感な思春期、そういた悪人を見るかのような目で見られれば、逆に反発してやろうという気持ちにだってなる。

さて、博物館見学だが、どうも私の連れて行った生徒たちは、お行儀がよろしかったようで、しばらくすると、スタッフが私のもとにやってきた。

「いい生徒さんたちですね」

と、褒め、さらには、いろいろ解説もし始めた。最後には限定販売のお土産まで頂いた。

今日は練習試合で、近隣の学校に出掛けたが、もう一つの相手校は、近場にもかかわらず自転車ではなく、保護者送迎でやってきていた。

「何かあると困るから、保護者送迎になっているんだ」

と、聞かされた。交通事故やら、昨今はいろいろ危ないからなぁ…、と思っていたら、実はそうではないらしい。

途中コンビニに寄ったり、いろいろいたずらするかも知れないから、保護者の方から送迎の申し出があったそうだ。

中学生受難の時代が、まだまだ続きそうだ。
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