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2018年09月30日
チェコ史の8 其の一(九月廿七日)
今年、2018年は、第一次世界大戦後の1918年にチェコスロバキアが成立してちょうど百年目の節目の年である。それで、さまざまな記念のイベントが行われているのだが、政治状況があまり芳しくないせいか事前に予想したほどの盛り上がりはないような気がする。今年に入って、いや去年からだったかもしれないが、繰り返し聞くようになった言葉が「ビーズナムネー・オスミチキ」で、これはチェコの歴史において重要な出来事の多くが8で終わる年に起こっているという事実を示したものである。
その最初の8のつく年が、1918年で、チェコ側のマサリク大統領や、スロバキア側のシュテファーニクなどの努力の甲斐あってチェコスロバキアの独立が認められた年である。チェコスロバキアの独立に関しては民族自決の原則を主張したアメリカの大統領ウィルソンの支援が大きかったといわれる。そのため、ドイツ語でプレスブルク、ハンガリー語でポジョニと呼ばれハンガリーの首都だったこともある現在のスロバキアの首都ブラチスラバをウィルソンにちなんだ名前に改称しようという動きもあったらしい。
一方、領土に関しては民族自決の原則に完全に基づいたとは言えず、一つは現在ウクライナ領となっているスロバキア東部からウクライナに楔のように伸びていたポトカルパツカー・ルスと呼ばれる地域が、チェコ人、スロバキア人の居住地域ではなかったにもかかわらずチェコスロバキアに組み込まれたことである。もう一つは、スロバキア側では歴史的にスロバキア全土がハンガリー領であったという事実は無視して、スロバキア人人口の割合の高い地域をチェコスロバキアに組み込んだのに対して、チェコ側では住民の民族構成よりも歴史的にチェコの王冠領に属していたかどうかを基準に、ドイツ人、ポーランド人の割合の高かった地域をもチェコスロバキアに組み込んだことである。
独立当初の領土問題は、交渉だけで解決することはできず、誕生したばかりのチェコスロバキア共和国の軍隊は戦いを余儀なくされた。北ではポーランドがポーランド系住民の存在を理由にチェコスロバキア領とされたチェシーン地方の領有を主張して、いわゆる七日間戦争が起こっている。その結果なのか、最初の分割案だったのかは知らないが、もともと一つの町だったチェシーンは、国境となった川を境にチェコ側とポーランド側に二分されてしまった。チェコ側の町はポーランドではなくチェコのチェシーンだということで、チェスキー・チェシーンと呼ばれるようになったのである。実際にはチェヒ(ボヘミア)ではなくシレジアの町なのだけどね。
南ではスロバキア南部のスロバキア人、ハンガリー人の混住地帯を巡ってハンガリーとの戦争が勃発している。これはハンガリーに誕生した新しい共和国の政権をソ連の支援を受けた左派勢力が獲得した結果で、国内の貧困と混乱を外征でごまかそうとして、ハンガリー系の住民の多い南スロバキアに攻め込んだらしい。ハンガリーもトランシルバニアをルーマニアに、クロアチアをユーゴスラビアに取られて、スロバキアも含めて歴史的な領土の多くを失って大変だったのだろうけど、チェコスロバキアにすれば迷惑な話でしかない。日本だと、左翼の連中が、右は軍国主義で左は平和主義的なイメージを作り出そうとしているけれども、大嘘である。歴史的に見れば左側の思想のほうが短絡的に武力行使に出るような印象も受ける。
どちらも最終的にはチェコスロバキア軍がポーランド軍、ハンガリー軍を元の国境線の向こうに追い返すことに成功したらしいけれども、誕生したばかりの共和国にとって大きな負担になっただろうことは想像に難くない。そして、このときの領土を巡るいざこざも廿年後の、次の8の年の重大な出来事につながっていく。
直接的に次の8の年の事件につながるのは、ボヘミア、モラビアの国境地帯、および都市部に居住していたドイツ系の住民の存在である。オーストリア議会に現在のチェコの領域で選出され議席を有していたドイツ系の議員たちは、チェコスロバキアの成立を認めておらず、独立後もドイツ系住民の多かったズデーテン地方を中心に四つの地域からなるドイツ=オーストリアという国を建てることを計画し、最終的にはドイツかオーストリアと合併することを計画していたらしい。実はオロモウツも、ドイツ系の住民の多い町として、ブルノとイフラバとともに、飛び地としてこのドイツ系の国に組み込まれることになっていたようである。いやあ、実現しなくてよかった。
ところでチェコスロバキアの独立に寄与したものとして、第一次世界大戦中にオーストリア=ハンガリー軍を離れ連合国の側に立って参戦したチェコスロバキア軍団の存在があげられることが多い。特に東では、ソ連成立後に赤軍とシベリア各地で戦い、日本のシベリア出兵の口実にされたことで知られている。シベリアで活動したチェコスロバキア軍団の一部は、チェコスロバキア独立前のマサリク大統領の交渉もあって、ウラジオストックから日本にわたりアメリカを経て、ほとんど世界を一周する形で独立したチェコスロバキアに帰国している。
言ってみれば、日本はチェコスロバキアとはすでに独立前後の時期から交流があったわけである。実際に公式の外交関係が結ばれたのは1920年のことで、再来年2020年は日本とチェコ(スロバキア)の外交関係樹立100周年を迎えるである。個人的にはチェコと日本でどんなイベントが行われるのか、東京オリンピックよりも期待しているところである。
2018年9月29日17時。
チェコスロバキア軍団は東のロシアだけではなく、南のイタリア戦線でも活動しており、戦争で命を落としたチェコ人、スロバキア人を記念した碑がイタリアにあるらしい。フランスでも活動したんだったかな。
2018年09月29日
ヨーロッパのカップ戦のチェコチーム2(九月廿日)
次に登場したのは、昨シーズン2位のスラビア・プラハで、チャンピオンズリーグ予選の非優勝チームの部でディナモ・キエフと対戦した。正直、中国資本に支配されたスラビアはあまり応援する気になれないので、結果も内容もはっきり覚えていないのだけど、確か、プラハで1−1で引き分けた後、キエフで0−2で完敗。あっさり敗退が決まった。獲得したポイントは0.5点。幸いなことにチャンピオンズリーグの予選三回戦以上で敗退したチームはヨーロッパリーグに出場することができる。
結局このディナモ・キエフとの二試合で一番話題になったのは、目立つことが大好きなスラビアのオーナーのトブルディークが、キエフでの試合の後にSNSを通じて騒ぎを起こしていたことだ。何でもヨーロッパのサッカー連盟の審判関係の部署の偉いさんの中にディナモ・キエフ関係者がいて、それがキエフでの結果につながったというのだ。スラビアの失点はどちらもオフサイドかなんかの反則からのもので、審判がまともだったらゴールは認められなかったはずだとか言っていたかな。ゴールが認められていてもいなくても、スラビアの敗退は変わらなかったんだけどさ。
去年までは、チャンピオンズリーグの予選の最終ラウンド、いわゆるプレーオフで敗退したチームは、そのままヨーロッパリーグ本選への出場が決まり、その一つ前三回戦で負けたチームは、ヨーロッパリーグのプレーオフに進んでいた記憶があるのだけど、今年からルールが変わったのか、三回戦で負けたスラビアも、プレーオフで負けたディナモ・キエフもともにヨーロッパリーグの本選に出場することになっていた。グループステージで再会することになったら、またトブルディークがうるさいんだろうなどと考えてしまった。
ここまでが予選の結果で、出場3チーム中、1チームも予選を勝ち抜けなかった。スラビアは負けてもレギュレーションのおかげで生き残ったけど。予選全8試合で獲得したポイントは3.5点、チェコの年間ポイントは0.7、プルゼニュのボーナス4点を足しても、1.5でしかない。あとは、本選でどこまでポイントを積み上げられるかである。
先週の水曜日にチャンピオンズリーグの初戦を迎えたプルゼニュの相手は、CSKAモスクワ。実はこの相手は、この前プルゼニュがチャンピオンズリーグに出場したときにも同じグループに入っていて、どちらも上の2チームからは勝ち点を挙げられなかったから、2チームの直接対決で3位の座を争った。最終的にはプルゼニュがグループ3位に入って、ヨーロッパリーグの春の部に勝ち進んだのだった。減がいい相手といえば言えるし、今回もこの2チームで3位を争うことになりそうである。
試合は、前半はプルゼニュがすばらしく、クルメンチークが2ゴール挙げて2−0で終わった。得点したのはクルメンチークだけれども、最近衰えが指摘されることも多いリンベルスキーがすごかったらしい。むらっけのある選手だから久々のチャンピオンズリーグに張り切った結果なのだろう。この二人以外の選手たちも、前半はすばらしく、チーム全体としてもここ数年で最高の出来だったと解説者たちが語っていた。
それが、後半に入って守りに入った結果、一方的に攻められる展開になったらしい。終了直前まで失点を1に抑えて、2−1で勝っていたのだけど、94分にコーナーキックからのゴール前の混戦でコバジークが反則をしてPKを与えてしまい、最後の最後で同点に追いつかれてしまった。昔のプルゼニュは後半のほうが内容も結果もよくなる傾向があったのだけど、最近は逆になっているのが心配である。
同グループの残り2チームは、レアル・マドリードとASローマ(チェコ語風にジームと書きたくなる)だから、プルゼニュをなめてかかってきたとしても勝つのは難しそうである。なんかの間違いでプルゼニュが勝ち点を獲得するという可能性がないとは言わないが、以前のスパルタが強かったころと違って、プルゼニュがグループステージを勝ち抜けるというのが想像できない。3位でヨーロッパリーグに回るというのが現実的な期待かな。
チェコ的に楽しみなのは、ASローマとの対戦で、チェコ人フォワードとしては久しぶりにイタリアリーグで結果を残しつつあるパトリック・シクが出場するかもしれないのである。シクが出ない場合も、テプリツェ育ちのジェコがいるし、チェコのチームとチェコ育ちの選手の対決になる。イタリアで活躍したチェコ人フォワードといえば、ラツィオにいたコザークを思い出すんだけど、怪我が多かったからなあ。相手を怪我させることも多かったけど。
ヨーロッパリーグの予選に何度出ても勝ち抜けることができず、オーナーのペルタを、これだけ補強してもだめなら、何をすればいいのかわからないと嘆かせていたヤブロネツは、本選からの出場でフランスのレンヌで初戦を迎えた。レンヌといえば、チェコではペトル・チェフがスパルタを出て最初に国外でプレーしたチームとして有名だが、現在のゴールキーパーもチェコ人のコウベクである。
試合は、先制された後、劣勢ながらも、同点に追いついて試合終了間際までは、勝ち点1獲得だと喜んでいたのだが、プルゼニュと同様、最後の最後でPKを与えてあえなく負けてしまった。こっちの反則はもうレスリングじゃないんだからと言いたくなるような見事なもので、審判のせいにできるようなものではなかった。
同じグループの残り2チームは、遠くカザフスタンのアスタナと、スラビアを破っていながら結局ヨーロッパリーグに回ってきたディナモ・キエフ。どちらも勝てない相手ではないと思うのだけど、ヤブロネツは結構チェコリーグでも、下位のチームにころっと負けたりするからなあ。ヨーロッパでの経験にかけては3チームともヤブロネツよりは上だし、勝ち点を、ポイントをいくつか獲得してくれれば御の字かな。経験豊富なヒュプシュマンの活躍に期待しよう。
スラビアの初戦の相手もフランスのボルドー。このチームにもチェコ人選手プラシルがいる。移籍したばかりのコウベクとは違って、チェコで一部リーグデビューをする前にモナコに買われて行って以来、フランスを中心に、スペイン、イタリアなんかでも活躍してきた選手である。ブリュックネル以後の弱体化するチェコ代表を支えた中心選手で、主に監督のせいで代表の成績が低迷した責任を一番負わされた選手で、チェコ国内では過小評価されきたところがある。
試合は、予選のときと比べると状態のよくなっているスラビアが、ホームのファンの後押しもあって、優勢だった。攻め込んではいても、最後のゴール前の部分がかみ合わずなかなか点が取れないという状態がながく続いたが、最後はズムルハルが見事なシュートを決めて1−0で勝った。
残り二つのチームは、コペンハーゲンとゼニット・ペテルスブルク。どちらもチェコと縁の深いチームである。コペンハーゲンでは、かつてシオンコとポスピェフが大活躍していたし、今もスラビアから移籍したルフトネルが在籍している。ゼニットをロシアリーグの強豪に引き上げたのはチェコ人監督のペトルジェラで、当時はチェコ人選手が何人かいて、そのうち一人はオロモウツから移籍したホラークだったかな。チェコ代表の常連だったシールルもゼニットでの活躍が代表につながったはずである。
チャンピオンズリーグとヨーロッパリーグの第一節で獲得したポイントは3点。これでチェコの今年のポイントは2.1点になった。3チームともというのは無理だろうけど、プルゼニュとスラビアが、ヨーロッパリーグの春の部にまで生き残ってくれることを願おう。そうすると年間ポイントも5点を超えて、ランキングもそれなりに上がるはずである。ヨーロッパのカップ戦を楽しく追いかけるにはチェコのチームが出場していることが不可欠である。今年はその上、グループステージでチェコと縁のあるチームとの対戦が多い分楽しみも大きい。
女子サッカーのチャンピオンズリーグにはチェコからはスパルタとスラビアが出場していて、スパルタはアヤックスに負けて敗退が決まり、スラビアはリトアニアかラトビアのチームに勝って、次のステージに進出した。こちらはそれほど話題になることもないから、いつの間にか試合が行われていたという感じだけどさ。
2018年9月28日22時。
2018年09月28日
ヨーロッパのカップ戦のチェコチーム1(九月廿五日)
ちょっとネタも時間も足りなくなってきたので、簡単にかけそうなことということで、サッカーのチャンピオンズリーグとヨーロッパリーグの話をしよう。本当は先週行なわれた試合の後に簡単にまとめるつもりだったのだけど、表向きの日付と実際に書いている日のずれの調整をしようとして失敗した結果、放置することになってしまった。
さて、今年、チェコからチャンピオンズリーグとヨーロッパリーグに出場するのは、予選も含めて5チームで、そのうちチャンピオンズリーグのプルゼニュと、ヨーロッパリーグのヤブロネツは予選なしで本選からの出場である。これは出場チームのチャンピオンズリーグとヨーロッパリーグの戦績をもとにして算出される国別ランキングで、チェコがここ数年かけて順位を上げてきた結果である。
チェコリーグの優勝チームがチャンピオンズリーグに予選免除で出場なんて何年ぶりのことだろうか。ヨーロッパリーグのほうは去年ズリーンが直接出場しているけど、あれはいくつかの偶然が重なった結果の特例だったはずである。
ランキングの算出方法は、確か以下の通り。本選では勝利には2点、引き分けには1点、予選ではその半分の1点、0.5点のポイントが与えられる。それにチャンピオンズリーグの本選に出場した場合には、予選ありでもなしでも、ボーナスポイントが4点与えられる。全出場チームの獲得した点を合計して、出場チーム数で割って、その年の年間ポイントが算出される。この年間ポイントを直近の5年分合計した数字によってランキングが作成され、シーズン終了時の順位によって、翌年、つまり次の次のシーズンのチャンピオンズリーグ、ヨーロッパリーグへの参加チーム数が決められる。数字そのものはあまり変わらなくても、予選のどこから出場するかなんて細かいところが変わることは多い。
この表http://www.coen.wz.cz/によると、チェコは現在17位。昨シーズンが終わった時点ではもっと上にいたはずだから、無効になった2013/14のシーズンのポイントが結構高かったのだろう。今年も最低でも去年、一昨年と同じぐらいのポイントは稼いでほしいところである。昔はたしか9位ぐらいにいたこともあるんだけど……。
今年のヨーロッパリーグの予選に最初に登場したのは、昨シーズン5位に沈んだスパルタ・プラハだった。予選二回戦の対戦相手はセルビアのスボティツァ。聞いたことのないチームだし、セルビアで優勝したというわけでもないようだったから、勝ちぬけは確実だと思っていたら、セルビアで行なわれた初戦でいいところなく惨敗した。0−2だったかな。結果だけでなく試合内容も絶望的なものだったこともあって、この時点で監督のハパルが解任された。去年の秋のストラマッチョーニ監督時代よりはましだったとはいえ、ハパルが率いた春の成績もスパルタにふさわしいものではなかったからなあ。
ホームでの第二戦は、GMを務めていたシュチャストニーが臨時に監督を務めた。内容も結果も代位戦よりははるかによく、一時は2−0でリードして、そのまま行けば延長戦というところまではいったのだ。それが、オロモウツから移籍したラダコビチが軽率なプレーでPKを与えてしまい、一点差に追いつかれてしまった。勝ちぬけに2点必要になったスパルタは、それまでのような軽快なプレーが影を潜めて、1点も追加できず、2−1で勝ったものの、二試合合計のスコアで2−3で敗退が決まった。
結局、スパルタがランキング用に獲得したポイントはたったの1点。去年は予選三回戦からの出場で、二連敗で獲得ポイントは0点だったから、それよりはマシとはいえ、スパルタがポイントを稼いでくれないとチェコは苦しくなるんだよなあ。それから気になったのは、スボティツァで日本人だと思われるシムラ選手が出場していたこと。特に初戦では結構いい仕事していたような気がする。
二番目に登場したのは、我らがオロモウツで、昨シーズンスパルタの一つ上の4位にはいったので、ヨーロッパリーグ予選三回戦からの出場である。相手は、カザフスタンのカイラト・アルマトイ、地理的にはアジアでありながらサッカーではヨーロッパに属するカザフスタンまで、しかもその東部のアルマトイまで行くのは大変だっただろうけど、久しぶりのヨーロッパの舞台ということで、予選だけどオロモウツ的には盛り上がった。確かアルマトイにはアルシャビンという昔有名だった選手がいて、それも話題になっていた。
チェコリーグでは調子があまりあがらないとはいえ、ヨーロッパカップの予選ではオロモウツのプレーは快調で、二試合とも2−0、2−1で勝利して四回戦への進出を決めた。この時点でオロモウツはランキング用のポイントを2点獲得したことになる。四回戦の対戦相手がスペインのセビージャになることは決まっていたので、ここから積み上げられてもホームでの引き分けで、0.5点というところだろうか。
セビージャにはチェコ代表のゴールキーパーのバツリークがこの夏に移籍している。今年は、チェコのチームと対戦するチームにチェコ人選手がいるというパターンが例年より多いような気がする。とまれ、勝ちは期待せずにテレビで見たホームでの試合で、オロモウツは今季最高、もしかしたら去年の最高も越えているかもしれないと思うようなプレーを見せた。ただチャンスはたくさん作ったのだが、どうしても得点を挙げることができず、相手にカウンターからあっさりゴールを決められて、0−1で負けてしまった。運か得点力がもう少しあれば、逆に3−0ぐらいで勝っていてもおかしくない内容だったのだけどね。
ホームで勝てなかった以上、アウェーで勝てるわけがなく、内容もホームほどよくなかったし、それでも意外と責めていたけど、0−3で敗戦。二戦二敗で獲得ポイントは0点。累計で2点ということになった。スパルタより上だし、四回戦の相手も悪かったから、オロモウツにしてはよくやったというか、予定通りというか、これ以上の上積みは難しかっただろう。
オロモウツには来年もヨーロッパリーグの予選に出場して、今年の経験を生かしてほしいところなのだが、第9節を終えて15位という順位から考えると来年は難しそうである。可能性が後すればMOLカップの優勝かなあ。下位に落ちたチームが優勝したことがないと言うわけでもないのだし。いや贅沢は言うまい、今年は二部に落ちなければ満足だということにしよう。
2018年9月27日22時15分。
2018年09月27日
リーダー不調その後(九月廿四日)
このブログでリーダーというとソニーが2010年に発売した、電子ペーパーを使用した電子書籍宣陽端末を指すのだが、前回リーダーについて触れたのは今年の四月のことで、リーダーの2号機、3号機の、特認電源の調子がよくないという話だった。あれから症状は悪化はすることはあっても改善されることはなく、さらに別な問題も出てきてしまった。
もともと、リーダーはメモリーの管理が弱いのか、SDカードや本体のメモリーにたくさんの本を入れると本を開いたり閉じたりするときの反応が遅くなる傾向があった。メモリーの使用量ではなく、何冊、正確には、媒体中にいくつファイルが存在するかが重要で、リーダー購入当初に2ギガバイトのSDカードに、電子書籍のXMDFファイルや、ドットブックファイル、テキストデータから作成したPDFファイルなんかを限界まで入れたら、いつまでたってもカードの読み込みが終わらなくなってしまったことがある。数は200を超えていたかなあ。
逆にカードの容量が一杯になるまで記憶させたとしても、1ファイル当たりのデータが大きく、ファイル数が40から50ぐらいまでであれば、読み込みに時間はかかっても、まだ実用に堪えると言える範囲で収まるから、ファイル数が多くなると対応しきれなくなると考えてよさそうだ。その後、あれこれ実験した結果、SDカードには容量は残っていても、100以上のファイルは入れないことにしている。このくらいならまだ待てる。
それに対して、本体のメモリーは最初に使ったSDカードと容量は同じで2ギガだが、数に対する耐性が強いのか、200から250ぐらいまでなら、それなりに使える反応速度で、300を超えると実用には堪えないところまで反応が悪化していた。だから、だんだんSDカードは使わなくなり、ファイル数が増えすぎて反応が悪くなったときには、しばらく読みそうもないものをどんどん削除して数を減らし、久しぶりに読みたくなったらPCで充電する際に、ハードディスクから本体の内臓メモリーに再度コピーするという方法をとっていた。
それが、最近、2号機で、本体メモリーのファイルの数を200ちょっとに維持しているのに、反応が少しずつ悪化してきて、読みかけの本を開くのだけは問題ないが、新しい本を開く場合、開いてある本を閉じる場合に、数分以上の時間がかかるようになった。本を閉じて新しい本を開く間に、お湯を沸かしてコーヒーを淹れられるどころか、下手をすれば飲んでしまえるほどで、そろそろ2号機を廃して、最後の4号機を投入するかと考え始めていた。
そのときに思いついたのが、パソコンの使用中に反応が悪くなったら、とりあえずリセットするし、さらにどうしようもなくなったらOSの再インストールをするから、リーダーもリセット、正確には本体メモリーのリセット、もしくは初期化を試してみることにした。昔使っていたフロッピーも、一度初期化して必要なファイルをコピーし直すと反応がよくなったから、うまくいくかもしれない。
やってみたら、自分でもびっくりするぐらい本の開け閉めに時間がかからなくなった。HDに保存してあったファイルの中から読み直す価値のありそうなものを片っ端からコピーしたのだが、今のところファイル数が90ぐらいで収まっているから反応がよくなったのか、初期化の甲斐があったのかは、現時点では判然としない。それでも快適に読めるようになったのはうれしい。一番の問題は、現実でもPC上でも整理整頓が苦手なので、必要なファイルを膨大な数のファイルの中から探し出すことだった。同じファイルがいくつものフォルダに保存されているって、我ながらどういうことよ。バックアップのつもりだったのかもしれないけど、保存した本人が忘れているのでは、何の役にも立たない。フォルダによって微妙に入っているのが違うなんて問題もあったなあ。
とまれ、3号機も近いうちに同様の処置を施す予定である。問題は普段使っているPCでは3号機が認識されないことだけど、リセットしたら変わるかもしれないし、ダメなら電車に持ち込むのに使っている小さめのノートPCで充電すればいい。こっちに入れるファイルも探すのが大変そうだけど、本を探すのが楽しみではないとは言い切れないのが、活字中毒者の性である。本屋で探すほどではないけど、ネット上の書店もどきで探すよりはずっと楽しい。
これで4号機の投入を延期できるかというとそんなこともなく、以前風呂場でパッキング付きのビニール袋に入れて使用していた3号機の電源スイッチの具合があまりよろしくない。湿気にさらされて内部にさびでも出たのか、スイッチをスライドさせにくくなってしまっている。ちゃんとスライドさせたつもりでも、スリープ状態に入らなかったり、反応が遅くて二度、三度スライドさせることになったり、イライラさせられることが増えている。
繰り返し、繰り返しソニーのリーダー、もしくはリーダー互換機の復活を願っているけど、よく考えたら、SDカードをあまり使わなくなった現在、リーダーでなくても、PDF、XMDF、ドットブック形式の本が読めれば問題はないのか。最悪SDカードから本体にコピーすればいいわけだし。と、他の電子書籍リーダーに手を出しそうな文脈になってしまったが、やはり、ウォークマンと同じで、電子書籍リーダーはソニーの物を使いたいなあと思ってしまう。ウォークマンなんて日本でチェコ語を勉強していたときに再生専用の物を買って使っていただけだから、定着しなかったディスクマンのほうが使っていた時間は長いんだけどさ。
2018年9月26日17時30分。
2018年09月26日
ドゥクラ(九月廿三日)
オロモウツが久しぶりに勝利を挙げた試合の対戦相手はドゥクラ・プラハだった。このドゥクラについて、ウクライナのどこかにある川の名前だと、以前誤った情報を書いてしまったので、読んで覚えている人がいるかどうかは知らんけど、訂正するために一文物すことにする。ドゥクラはウクライナにある川ではなく、ポーランドとスロバキアの国境地帯にある峠の名前だった。第二次世界大戦中に重要な戦闘が行われた場所だというのは正しかった。
さて、以前ヤフーのスポーツナビだったと思うが、「ディナモ」という名称のスポーツチームが旧共産主義国家にいくつも存在していて、それは軍か秘密警察とつながりのあるスポーツチームだったんだという記事を読んだことがある。チェコも旧共産圏の国なのだが、ディナモのつくスポーツチームはそれほど聞いたことがない。ぱっと思いつくのは、チェスケー・ブデヨビツェのサッカーチームぐらいだろうか。パルドゥビツェのアイスホッケーチームもスポンサーの名前を剥がしたチーム名としてはディナモだったかもしれない。
チェコでディナモの代わりによく使われるチーム名が、本稿のテーマの「ドゥクラ」なのである。第二次世界大戦中の激戦地の名前を取っているということからもわかるように、戦後共産党政権が成立してから使われるようになった名前で、もともとは軍のスポーツクラブにつけられた名前だった。世界的に有名なスポーツ選手のほとんどは、このドゥクラに所属し同時に軍人として給料をもらっていたのである。オリンピックにプロが出場できなかった時代のいわゆるステートアマの一形態だったのである。
サッカーのドゥクラ・プラハもその一つで、軍に所属する選手たち以外に、各チームの有力選手を一定期間兵役として移籍させることで、チェコスロバキア最強の座を誇っていたらしい。ネドビェド以前のチェコが生んだ世界的な選手であるマソプストも確かドゥクラで活躍したはずである。それがビロード革命後に軍との関係が切れたことで、資金面でも人材の面でも弱体化し、一度は倒産し、プロチームとしてのドゥクラの名称の使用権はプシーブラムのサッカーチームに買い取られてしまう。子供たちのチームとしてはドゥクラプラハは存続していたらしい。
それが、2000年代に入ってドゥクラ・プラハを復活させようという動きが起こり、チームを設立し、プシーブラムからチームの名称だけでなく歴史の使用権も買い戻して、10年ぐらいかけて一部リーグに戻ってきたのである。現在では軍との関係は全くないが、軍の陸上チームドゥクラと同じユリスカのスタジアムを本拠地にしているようである。
他のスポーツでは、アイスホッケーでかつて最強を誇ったドゥクラ・イフラバがある。このチームもビロード革命の後、長い長い低迷を経験していることを考えると、軍との関係は切れて独立したチームとなっていると考えたほうがよさそうである。バレーボールではドゥクラ・リベレツというチームが一部リーグに参戦している。ハンドボールのドゥクラ・プラハもそうだが、一体にこの手のチームスポーツでプロリーグが機能しているものに関しては、ドゥクラという名称であっても、軍との関係はすでになくなっていると言ってよさそうである。
それに対して、ドゥクラ・リベレツというチーム名で真っ先に思い浮かぶノルディックスキーやバイアスロンのような個人競技で国内リーグが存在しない、存在できないスポーツの場合には、ドゥクラは軍のスポーツクラブであり続けており、在籍する選手たちは、スポーツ選手であると同時に軍人でもあるのである。もちろん他の軍人と全く同じ訓練を受けているわけではないが、毎年一定期間軍隊の訓練に参加することが義務付けられているらしい。
スポンサーを獲得しにくい競技の選手たちに、他の軍人と同じかどうかはわからないが、軍人としての給料を与えることで、生活のために選手としてのキャリアをあきらめる必要がないようにしているのだろうか。もちろん、ドゥクラの選手で、軍人として採用されるのは、チェコの中でも一部の有力選手だけだろうが、マイナースポーツでも選手生活を続けて行ける道があるというのは、素晴らしいことである。
ドゥクラのHPを見ると、所属選手たちの活躍を見ることができる。ちょっと見ただけでも冬季オリンピックで活躍した選手は、ほとんどみんなドゥクラの選手だし、陸上やカヌー、カヤックなどの競技も代表選手はみんなドゥクラの所属である。日本も企業スポーツが衰退して、特定のスポーツ以外は支援を集めにくくなっていることを考えると、自衛隊スポーツクラブを作ってそれを通じて国費で選手たちを支援してもいいのになんてことを考えてしまう。現在でもバイアスロンは自衛隊の選手が多かった気がするけど、それを他のマイナースポーツに広げると、自衛隊の存在意義も大きくなりはすまいか。日本には自衛隊の存在を悪だと断じる勢力の批判で実現は難しそうだけど。
2018年9月25日16時30分。
2018年09月25日
オロモウツ勝った(九月廿三日)
やっと、やっとである。久しぶりに、今シーズン初めてホームでシグマ・オロモウツが勝った。これで第九節まで終了して2勝目、引き分けは一つもなく、7敗、勝ち点6で順位はしたから2番目の15位。このままいけばまた二部への降格である。去年の今頃は、二部から上がってきたばかりだったというのに、二部での好成績をそのまま一部にも持ち込んで、2位か3位にいたはずだから、天国から地獄である。監督のイーレクの解任のうわさなんかもあって、チーム状態も試合の内容も悪化しているようだった。
不調の原因の一つとして解説者達が挙げていたのは、予選とはいえヨーロッパリーグに久しぶりに出場したことで、去年予選なしで本選から出場した初出場のズリーンがヨーロッパリーグでなかなか結果を出せなかっただけでなく、チェコリーグでも成績が上がらず最後まで残留争いをすることになったのに、チェコリーグに集中できている今年は開幕から好調で上位につけているのを考えると、間違いではないのだろう。だから、ヨーロッパリーグの予選で敗退した後は、調子を取り戻せるかと期待したのだが……。
去年の好成績が、チームの実力だけではなく運にも助けられたものだというのは重々承知していたし、冬の移籍期間に攻撃の中心の一人だったホリーがプルゼニュに移籍して以降、得点力が落ちて秋と比べたら成績を落としていたから、今シーズンは苦戦することになりそうなのは、昨年ほどのスタートダッシュは期待できないのはわかっていた。わかっていたけどオロモウツのチームには期待してしまうのが、オロモウツの人間の人情というものである。
考えてみれば、今年はクジ運も悪かった。第一節と第三節のホームでの最初の二試合が、スラビアとプルゼニュという現在チェコリーグで最強の座を争う2チームである。それでも始まるまでは、勝てるかもしれないなんてことを考えていた。それが……。
スラビアには0−3で負けたが、オロモウツやスラビアの選手たちの試合後のコメントからは、点差ほどには内容に差はなかったような印象を受けたから、相手が変われば結果も変わるだろうと、この時点ではあまり心配していなかった。第二節のムラダー・ボレスラフでの試合で、前節のうっぷんを晴らすように4−0で勝ったし、ヨーロッパリーグのアルマトイとの試合も二連勝で勝ち抜けたからさ。
その後、第三節はホームでプルゼニュに0−1で負け、第四節でスロバーツコにアウェーで1−3で負けた。チェコリーグの試合は見ていなかったが、ヨーロッパリーグの予選セビージャとの試合を見る限り、それなりに攻めることはできていたし、チャンス、チャンスもどきも、かなり作り出せてはいた。ただどうにもこうにも点が取れていなかった。こういう状況が続くと次第にチーム状態も悪化してチャンスすら作れなくなっていくということで、この辺りから今年はだめかもしれないというあきらめにも似た気持ちを抱き始めた。オロモウツって一度駄目になると立て直しに時間がかかるから、今年は二部に落ちなければ御の字かなと。
第5節のホームでのバニーク・オストラバとの試合は、その不安が当たったというか、テレビで見たけどほとんどいいところがないままに負けてしまった。選手たちが頑張っていないというわけではないのだろうけど、解説者には動き出しが遅いから競り合いで悉く負けていると指摘されていた。スペインのセビージャとホームでは互角に戦ったオロモウツの姿はなかった。次の第六節ではヤブロネツまで出向いて0−3の完敗。ヤブロネツはヨーロッパリーグに本戦から出るチームだけど、まだ始まっていなかったので特にその影響もなく、オロモウツはまたまたいいところなく負けてしまったようだ。
ヨーロッパリーグの予選も敗退で終わったし、そろそろチェコリーグで調子を取り戻してもらいたいと思っていたところで行われたのが、ボヘミアンズとのホームでの試合だった。前半はよかったみたいなんだよ。久しぶりに2点も取ってそのまま前半が終わったから、これは2勝目確実だということで、この記事を書く準備を始めようかとしたくらいなのだから。それなのに……。
ボヘミアンズの反撃にあって、最後のほうはオロモウツの選手たちは恐々プレーしているとテキスト速報にも書かれる始末で、あっさり、本当に何でと言いたくなるぐらいあっさり逆転されてそのまま敗戦。点が取れない問題が解決したと思ったら、守りに入ってしまって最後は自滅したと言ってもよさそうだ。去年は相手が自滅してくれたのに。
第8節では二部から久しぶりに昇格してきたばかりのプシーブラムにアウェーで0−1の負け。下の方の順位で残留を争うことになりそうな相手に負けたのは痛い。しかも、得点を決められた相手が、一時はサッカーを離れて格闘技の試合に出ていたという話もあるベテランのスレピチカというのもなあ。今シーズンは全30節が終わった後に追加で残留と降格を決める追加の試合が行われるとはいえ、当該チーム間の対戦成績というのは大事だから、下位に落ちそうな相手には勝たなきゃいけないはずなんだけど。
この時点でオロモウツの順位は15位。シーズン初めからなかなか勝ち点を獲得できていなかったオパバやカルビナーが、勝ったり引き分けたりして勝ち点を取るようになったのに、第2節の勝利でしか勝ち点を上げていないオロモウツは、最下位のドゥクラと同じ勝ち点3で、得失点差で辛うじて上にいるというところまで落ちてきたのだ。
第9節は、その今シーズン絶不調のドゥクラ・プラハとのホームでの試合で、最下位決定戦となってしまった。内容はひどかったらしいけど、何とか1−0で勝利して、試合の終わった時点では順位を二つぐらい上げたのかな。その後に始まった試合で、カルビナーとオパバが勝ったためにまたまた15位に戻ってしまった。とりあえず、最下位に落ちなくてよかった。この勝ちをきっかけに、内容も結果も少しずつ上向いてくれるといいんだけど。
2018年9月24日22時25分。
2018年09月24日
孤児受け入れその後(九月廿二日)
シリアの難民キャンプの孤児を50人チェコに受け入れようと提案したEU議会議員は、提案を間接的に聞いたバビシュ首相が否定的なコメントをしたのに対して、首相夫人や大統領夫人と交渉したいと言い出した。これは、チェコではハベル大統領の時代からの伝統で、大統領夫人は慈善活動に積極的にかかわることが多いからであろう。話を持ちかけられた二人は即座に拒否していたし、バビシュ氏は批判するコメントを残していた。
問題は、このやり取りがメディアを通じてなされたこと、少なくともそのような印象を与えることで、計画の実現よりも、話題になることを優先しているようにも見えた。しかも、孤児を五十人というだけで、具体的なことは何も考えていないようだったのもひどかった。根拠としてイギリスなどで同様の孤児の受け入れ計画が進んでいるというのを挙げていたが、政治家主導のプログラムなのだろうか。
この件は、バビシュ首相が断固として拒絶したことで終わったものだと思っていたら、金曜日になって、首相が民間団体にシリアの難民キャンプにいる孤児の中から50人を選別するように要請したというニュースが入ってきた。EU議員の繰り広げたキャンペーンに負けて受け入れることにしたということだろうか。朝令暮改というか、昨日のあの発言は何だったんだというのはバビシュ氏には珍しくないけれども、この決定はらしくない。
それが、ニュースを見たら完全な勘違いだったことがわかった。まず、件のキリスト教民主同盟のEU議会議員がバビシュ首相と孤児の受け入れを巡って会談をした。議員はその会談の結果を記者たちに発表し、これで孤児受け入れにめどがたったとか何とか、自分のせいかを誇るような発言をしたらしい。その後、バビシュ氏が民間の難民支援団体に支持を出したという話が広がって、受け入れることになりそうだという憶測が広がった。
これに対してバビシュ氏は記者会見で、選ばれた50人の孤児たちはチェコに受け入れるのではなく、あくまで難民キャンプで支援するのだと語った。何がしたいのかよくわからないのだが、どうも選ばれた子供たちを国際的にはチェコ政府の庇護下に置くとか言う話で、それによって子供たちを守るというのか、子供たちに特別の援助を与えるというのか、意味不明である。それにチェコの難民キャンプ支援ではよくあるのだが、学校をEUの資金で建設しようとも言っていた。
子供たちに教育の機会を与えるために学校をというのも、現在のシリアの状況に大きな責任を追うべきEUの負担でチェコが立てるというのも悪くない。ただ、最初のチェコによって救済されるはずだった50人の孤児たちはどうなるのだろう。他の子供たちと一緒にチェコ政府が建てる学校に通わせるのか。特別扱いをするのか。
孤児を救済するという目的があるのなら、現状でどのような状況にあるのか確認した上で支援の内容を考えるべきであろう。孤児院のような施設があって子供たちの面倒を見ているのなら、孤児院に対して支援をし、どこかの家族に居候して面倒を見てもらっていたり、周りの人たちが共同で面倒を見ていたりするのなら、孤児院のような施設を準備するなり、孤児の面倒を見ている人たちに支援をしたほうがよかろう。
それから、チェコに庇護された孤児たちが、他の多くの孤児、子供たちと一緒に同じ学校に通うことになった場合に、特別扱いされていることを理由にいじめにあったりしないかなんてことも考えてしまう。仮定の仮定になるけれども、孤児の面倒を見ている人たちに援助を与えた場合も、援助をもらえない人たちのやっかみ、特にチェコ政府に選ばれなかった孤児の面倒を見ている人たちのやっかみを受けることになって、ただでさえいいとは言えない難民キャンプの雰囲気悪化につながり、孤児たちの生活も悪化しかねない。すべては仮定でしかないけど。
ただそう考えると、支援する孤児たちをチェコに連れてくるというのは、隔離するという意味では悪くない。民間団体が主導して、政府が許可を与える形だったらもろ手を挙げて賛成なのだけど、政府主導というのはどうなのだろうか。地方議会と上院議員の選挙を前に、孤児の問題を政治問題化使用としているところがあるのもなんだかなあである。
例えば、キリスト教民主同盟の所属議員たちが議院報酬の一部を拠出してシリア難民の孤児を救済する基金でも設立して、現地の難民キャンプで孤児の実態を調査し、保護する孤児にある程度めどをつけ、チェコ側でも引き取って育ててくれる里親にもめどをつけた上で、政府側との交渉を行っていれば、積極的な支援は無理でも、孤児たちの入国許可を出すぐらいのことはしたのではないかとも思う。チェコで孤児院に入れるというのでは、連れて来る意味はあまりないからどこかの家庭で養育してもらう必要があるはずだ。
シリア難民の中にはチェコ人が考えるような孤児はいないという発言をしている人も、シリアの法律では外国人がシリア人の子供を養子にとることはできないことになっているから、下手に養子縁組などすると将来問題になるかもしれないなんてことを言うシリアの人もニュースに出てきたから、ちゃんと調べて準備していたら提案に至らなかった可能性もある。
いずれにしても、EU議会議員の提案は拙速というか、調査不足というか、単なる思い付きだったんじゃないかという批判は免れまい。その一方でバビシュ首相の発言も具体性のないもので口からでまかせじゃないかといいたくなるものだから、どっちもどっちというか、目くそ鼻くそというか。このままうやむやのまま孤児の受け入れは実行されずに終わるのではないかとみている。
2018年9月23日22時55分。
2018年09月23日
プラスチックゴミ再び(九月廿日)
ストローからの連想でプラスチックのリサイクルについて記事をでっちあげたのは今月の初めのことだった。それが、あそこに書いたことが前提から間違っていたことを最近知った。ソースはニューズウィークの七月の末の記事。
中国に輸出されたプラスチックのゴミは、リサイクルされて新たに原料として生まれ変わるのではなく、コミとしてゴミ捨て場に捨てられるのだという。掲載されている写真を見るとおぞましささえ感じてしまう。こんなところで餌を探すカモメが、餌と一緒に、もしくは餌と間違えてプラスチックを食べてしまう恐れが高いのは想像に難くない。それに放置されたプラスチックゴミがさまざまな要因でゴミ捨て場の外に出て、汚染の原因になっているというのもありそうである。東京のゴミ捨て場兼埋立地だった通称「夢の島」もこんな感じだったのだろうか。
そしてこの記事によれば、ゴミとして分別回収されたプラスチックのうち、本当にリサイクルされるのは14パーセントでしかないらしい。ゴミの分別さ盛んでプラスチックゴミの回収率の高いいわゆる先進国で集められたプラスチックゴミは、中国などに輸出され、ゴミ捨て場に野ざらしで放り出される。これが、プラスチックのリサイクルの実態だったのである。これはもう詐欺としか言いようがない。
我々が面倒だと思いつつもプラスチックゴミを分別して処理しているのは、これがリサイクルされて新たなプラスチック製品の材料になると信じているからであって、中国に輸出されてゴミ捨て場に放置されるという現実に、何のために分別しているのだろうと言いたくなる。中国で野ざらしにされたゴミは、さまざまな形で日本の環境に悪影響を与えることになるだろうし。
今年に入って、マクドナルドなどがプラスチックのストローを廃止するとか言い出したときに、日本はゴミはゴミ箱にという文化があってプラスチックのストローもちゃんとプラスチックのゴミ用のゴミ箱に入れるからあまり関係ないとか、プラスチックのストローはプラスチックのリサイクルに乗りにくいから、ストローの使用量を減らそうというのは理にかなっているとかいう意見を目にしたものだが、どれもこれも、この回収されたプラスチックゴミの処理の現実の前では的外れだったというしかない。
ストローがプラスチックのゴミとして回収されたとしても、中国のゴミ捨て場から外に流れ出して環境汚染の一因となる可能性は高いのである。そもそもプラスチックのゴミを放置するゴミ捨て場の存在自体が環境汚染だともいえる。汚染を一地域に押し込めているのだという言い訳は成立するにしても、プラスチックゴミを分別して回収することが、絶対的に環境汚染の防止につながるとはいえないだろう。
そう考えると、プラスチックのストロー廃止の動きも、世界のゴミ捨て場となっていた中国が、プラスチックゴミの輸入を停止したため、捨て場のなくなった回収されたゴミが国内にあふれかえるのを防ぐためのゴミ削減の一環だと考えられそうである。その第一歩として廃止しても反対の少なそうなストローが選ばれたということか。
九十年代の初めに川崎市に住み始めたときに、ゴミの分別がまったく求められていないのに驚いた記憶がある。瓶や缶は別になっていたかもしれないが、当時田舎では当然だった燃えるものと燃えないものの分別も不要だったのである。川崎市では市民に分別という余計な手間をかけさせるのは行政サービスの衰退だとど主張し、同時にゴミ処理場の焼却能力が高いのでプラスチックなどを焼却しても有害物質が発生することはないと自慢していた。その市の姿勢は、環境意識の高い人たちによって強く批判されており、90年代の後半には、ゴミの量が焼却炉の能力を超える恐れが出てきたという理由をつけて、ゴミの分別収集を導入したのだが、実際には批判のうるささに耐えられなくなったというのが真相ではなかっただろうか。
しかし、今回のプラスチックゴミをめぐる騒ぎから考えると、正しかったのは環境保護にうるさい連中ではなく川崎市のほうだったようだ。高性能の焼却炉でプラスチックゴミを燃やして、発電や発熱に利用すれば、プラスチックが環境に流れ出すこともなく、発電の燃料費も抑制できるはずである。それに、中国などに輸出するための輸送にかかる燃料なども減らせるから、ゴミとして中国に輸出してリサイクルしたふりをするよりははるかに環境にかかる負荷が小さくなる。
現在の状況は、自然環境保護のための手段であったはずのプラスチックの分別回収が、目的と化してしまった結果、プラスチックの回収率は上ったのに、リサイクルによる再生産は増えず、リサイクルできないゴミが増え続けているというところだろうか。仮に中国のゴミ輸入の停止がなくても、早晩この見た目だけのプラスチックリサイクルが破綻していたであろうことは想像に難くない。
いま必要なのは、回収したリサイクルには回せないプラスチックゴミをどう処理するかの対策であるはずなのだが、その対策がプラスチックのストローの禁止というのでは貧弱に過ぎる。ゴミを減らそうという試みとしては評価できるが、どんなに削減に努力したところでリサイクル可能なレベルである現在のゴミの量の14パーセントにまで削減するのは、無理な話である。可能であるとすれば、法律で強制的にプラスチックの使用を禁止するぐらいか。
ならば、プラスチックゴミは、プラスチックを燃やしても有毒物質の出ない設備を備えた発電所で燃料として使用するしかないのではないか。ゴミを焼却処分するというとイメージが悪いけど、プラスチックゴミ発電と名前を変えたら、ちょっと環境によさそうに響かないかな。環境保護論者なら飛びつきそうな気もする。少なくとも森林や田畑を破壊しての太陽光発電よりは、現実にも環境への負荷は少なくなるわけだし。
2018年9月21日18時。
2018年09月22日
寛和三年四月の実資〈下〉(九月十九日)
承前
十六日は、再び休暇を願う文書を提出。今回は三日分。
伝聞の形で摂政兼家の賀茂社参詣のことが記される。公卿と三位の非参議が合わせて十人同行したようだ。その中で左大将の藤原朝光だけが兼家の車の後ろに乗って、他は騎馬で同行している。注目すべき名前としては「高三位」こと高階成忠であろうか。兼家の長男道隆の正室貴子の父で高階氏としては初めて公卿と呼ばれる地位に昇った人物である。ただ実資の書きぶりを見ていると、この頃は参議以上の役職についた上での公卿と、三位に昇っただけの非参議の公卿とは区別されているようにも見える。
十七日は、四月の二番目の酉の日で賀茂社の例祭が行われる。実資は休暇中のため伝聞の形になるが、祭りに際して、右大臣為光と摂政兼家の息子たち、道綱と道長の間にいさかいが起こったことが記される。具体的には為光のところの雑色が、為光が見物している前を通った道綱と道長の車めがけて石を投げつけたようである。二人は当然父の兼家に訴え、右大臣為光は事態の収拾のために、家司を兼家のところに遣わしたり、日が落ちて暗くなってから自ら出向いたりしている。兼家は為光との面会を拒否したようである。
十八日は、毎月清水寺に参拝するのだが、今月は穢れの疑いがあるので中止している。
昨日の賀茂祭における出来事に関して、右大臣為光の家司や雑色などに「召名を下さる」というのだが、よくわからない。褒美なのか処罰なのか。
十九日は記事無し。
廿日は、久しぶりに参内し、しばらくしてから円融上皇のことろに向かい、暗くなってから退出。この日右大臣為光が賀茂社に参詣したらしいが、賀茂祭の際の出来事と関係するのだろうか。末尾に「雪雨」とあるのは、四月が旧暦では夏であることを考えると意外である。
廿一日は、新中納言の藤原道兼のところからの連絡で、道兼の元に出向いている。実際は道兼からの用件ではなく、父の摂政兼家からの命令を伝えられている。その詳細は書くことができないといのうだが、その後太政大臣頼忠のところに向かっていることから、頼忠に関する、もしくは中宮遵子に関することであろうか。
夜に入って、内裏のつまり天皇の物忌に参加するために参内している。
廿二日は前日から引き続いて内裏の物忌に候じている。
廿三日は物忌への参籠を終えて早朝内裏を退出。円融上皇の許に出向いて、巳の時だからまだ午前中に退出。暴風が吹き激しい雨が降ったがしばらくしてやんだという。
廿四日は、再び二日の休暇願を提出。円融上皇の許に出向いてしばらくして退出。
廿五日は記事無し。休暇を取って何をしていたのか気になるところである。
廿六日は、参内してから円融上皇の許へ。摂政兼家が菓子と瑠璃の壺に入った造花を献上している。唐仏の供養のためのようである。その後実資は夜になって退出。最後に伝聞で皇太后宮藤原詮子が「食物を殿上に出さる」というのだが、殿上間に詰めていた官人たちに食事の提供をしたということだろうか。
廿七日は、中宮藤原遵子の許に出向いてしばらくして退出。
廿八日は、朝早くから円融上皇の許へ。左右近衛大将藤原朝光と藤原済時も参入し、上皇は御堂へ出御している。上皇はすでに御願寺の円融寺を居所にしていると考えていいのかな。この日は御堂の荘厳が行われているが、詳しくは別紙に記すとして、ここには書かれていない。儀式には村上天皇の皇女で出家した資子内親王も出席し、礼堂に宿泊のための部屋が設けられたらしいことが伝聞で記される。
また夜中も近い戌の時に木工寮の庁舎が焼亡し、兄高遠の邸宅の近くであることから実資も慌ててそちらに向かっている。亥の刻には堀河の北、大内裏陽明門の南にある地区が、牢獄と藤原為昭の邸宅を残して全焼。大内裏当面の待賢門の南の邸宅にも飛び火している。実資は、おそらく火事のために一度参内してすぐに退出している。
廿九日は早朝から円融上皇の許へ。上皇の生母である村上天皇の皇后藤原安子のための法要、頭注によれば法華八講が始まっている。その法会の様子は、どんな役割の僧が何人いたかなどは記されるが、作法や式次第については細かく別紙に書いたということでこの日の記事では読むことができない。深夜になって夕方の部が終わった後散会。実資も退出している。
この日は、左大臣源雅信の子扶義を円融院の別当とする宣旨が下されている。
2018年09月21日
寛和三年四月の実資〈上〉(九月十八日)
一日は、まず円融上皇の季御読経の結願に出席してる。この御読経については三月に開始の記事は見られないが、十四日に上皇の許で済時らとともに参加する僧について定めているから、三月末の兼家の春日社参拝の行われた時期に始まったものだろうか。
四月一日は、形式化して年に二回しか行われなくなっていた旬政、もしくは旬儀が行われる日だが、摂政が参内しなかったために天皇も紫宸殿に出御していない。この情報は藤原北家の人で蔵人頭を務めていた安近の伝えたものである。旬儀のほうは、中止になったのか、平座で行われたのかよくわからない。摂政が不在ということは、頭注に倣って中止と見たほうがいいだろうか。
毎月一日の賀茂社への実資の個人的な奉幣は、先月分も合わせて二か月分。使者となったのは僧の厳康である。
最後に伝聞で、左近衛府の馬場が本来の場所に戻されたことが記される。「初めて」とあるから、左近衛府の馬場に騎射などを見るための馬場殿が新たに建てられたのだろうか。次に天皇の宣旨によって「直し立つ」とあるのを見ると、以前あったものを復元したようにも読める。
二日は、陰陽道にいう土公神のいる方角を犯す工事を行うのを避けるために、方違えとして進宅に向かっている。実資の二条第で建築工事が予定されていたのだろうか。その後中宮の許に出向き、中宮の生母で太政大臣頼忠の正室である厳子女王と会っている。夜に入って二条第に戻る。
三日は伝聞で、大内裏内の主税寮に強盗が入ったことが記される。諸国の文書を探して持って行ったようなので、単なる物取りではなく役人がやらかしたことなのかもしれない。
四日は太政大臣頼忠のもとに出向いた後、参内して候宿。未の時以後暴風と雷雨に襲われている。この日は四月最初の申の日で、花山天皇の時代に始まった平野神社の祭礼が行われ、祭使としては散位藤原景斉が派遣された。「其の歌を彼の時に用ふ」というのは花山天皇の御製の歌が祭りに使われたということだろうか。
最後に伝聞で、前日主税寮に入った強盗の容疑者が検非違使によって捕縛されたことが記される。どうも主税寮の役人が犯人だったようである。仕事上の失態を隠す必要でもあったのだろうか。
五日は早朝内裏を退出して、召しを受けて円融上皇の許へ。四日に左大臣源雅信と、左右の近衛大将藤原朝光と藤原済時が参入して仏事の御八講について決めたのだが、院の別当である非参議が参入しなかったことについて問われている。このころ非参議、参議になっていない三位は三人いたようだが、実資が問われているということは、兄の懐平であろうか。よくわからない。よくわからないのは、その後のやり取りもで、結局再度問い合わせるのがいいだろうとということで、実資は退出。
伝聞の形で、源正清が三日に参内するよう求められたのに参内せず、天皇の御叱りを受けたこと、またこの日代替わりの改元が行われ年号が永延に代わったことが記される。この時期、改元は天皇の即位の翌年に行われることが多かったのである。これちょっと形を変えて現代にも援用できると思うんだけどなあ。来年譲位と即位、それに大嘗祭をやって、再来年の一月一日から新年号にするとかさ。天皇の崩御による代替わりではないのだから、それぐらいの融通をきかせてもいいような気がする。
六日は参内した後、円融上皇の許に出向いて五日に問題になったことについて話しているが、詳細はよくわからない。「小舎人茂真」のところに問い合わせたら、わけのわからないことを言うので、召し出して問い詰めるから、お前(実資)は恐れる必要はないということだろうか。その後、内裏に戻って候宿。主殿司が遭っていないということを言ったというのだが、これも前日の別当の件と関係するか。
七日は早朝内裏から退出したことだけが記される。
八日は、灌仏会が行われるため、実資もお布施としての銭を内裏と上皇の許に贈っている。実資自身は病気で参入しないということを蔵人のところに連絡している。
九日は上皇の許に参上して、しばらくして退出。十日は内裏に参入して退出。十一日は二日分の休暇を請い、十二日は上皇の許に参上してしばらくし退出。この時期、記事の内容が少ないのは実資が忙しいからなのか、特に記すべきことがなかったからなのか。体調不良の可能性もあるか。
十三日は病気療養のための休暇願を提出。摂政藤原兼家の長男である道隆が賀茂社に参詣して雅楽の東遊を奉納したことが伝聞の形で記される。参詣のさまは甚だ華美であったようである。
十四日は、地震が起こったことが記される。また中宮亮の藤原永頼がやってきてあれこれ話し込んでいる。永頼は藤原南家の出身で、実資の母の異母兄にあたる縁で実資のところに出入りしているのであろうか。
十五日は午後に入って小雨が降る。夜に入って太政大臣の頼忠のもとに出向いて深夜退出。