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2018年03月21日
プラハダービー289回目(三月十八日)
週末に行なわれたチェコサッカーリーグ21節の一試合として、すでに289回目だというスパルタとスラビアのプラハダービーが、今回はスパルタの本拠地であるレトナーで行なわれた。ダービーの前のチームの状況から言うと、スパルタがストラマッチョーニ・ショックから快復できないでいるのに対して、スラビアは春に入って初戦のイフラバには負けたものの、以後は三連勝で首位のプルゼニュとの差を7にまで縮めている。スパルタはその二位のスラビアから勝ち点7差の五位に沈んでいる。
こういう試合前の下馬評が当てにならないのが、プラハダービーだと言われるのだが、スラビアが圧勝するものと予想していた。スラビアの不安は、前の試合でゴールを決めた後に、喜びのあまりグラウンドに降りてきたファンが広告パネルを押し倒したせいで怪我をしたシュコダが出場できるかどうかわからないといわれていたことと、オーナー企業の中国の投資会社CEFCのボスが中国で経済犯罪か何かの容疑で逮捕されたという情報ぐらいである。このボスは、ミロシュ・ゼマン大統領のアドバイザーとしても任命されているらしく、大統領府でも対応に追われているようである。
さて、チェコのHETリーガでは、当初はこの春からすべての試合にビデオ判定を導入することになっていたのだが、秋の実験がうまく行かなかったのか、準備が整っていないのか、各節もっとも重要だと目される試合でだけビデオ判定が使われることになった。この週末は、もちろんプラハダービーがビデオ判定の適用試合に選ばれた。そして、ビデオが試合の結果に大きな影響を与えたのである。正確には、ビデオのおかげで正確な判定が下されたというほうがいいか。
チェコテレビが、チェコリーグの一次放映権を失ってしまった結果、各節のもっとも注目を集める試合は、携帯電話会社のO2が運営する有料チャンネルで放送されるようになった。当然、このプラハダービーもチェコテレビのスポーツチャンネルでは中継されず、ネット上のテキスト速報で経過を追いかけるしかなかった。
ほかのことをしながらときどきテキスト速報を覗いていたら、驚きの展開が待っていた。この冬、チェコ史上最高額でベルギーからやってきたルーマニア人のスタンチュが大活躍で、スパルタが前半だけで3点も取ったのである。こんな展開を予想した人は、ファンの中にもいなかったのではないかと言いたいぐらいのスパルタにとって理想的な前半だったのだが、後半に入って一変した。
スラビアが反撃するのは当然としても、スパルタの勝ちは動かないだろうと予想していたのに、後半の最後の最後にPKからスラビアが同点に追いついてしまった。そのPKの判定が、試合がしばらく継続した後、ビデオ判定によって下されたというのが、スパルタ側がぶーぶー言っている理由のひとつになっている。
この試合、全部で4回ビデオによって主審が判定を変えることになった。一回目は、スパルタが1−0のリードで迎えた前半20分ぐらいのことで、スパルタのプラフシッチのパスを、スラビアのユガスが腕で止めハンドの反則を取られた。最初はペナルティエリア内だったということでPKの判定だったのだが、ビデオで確認した結果、ボールが腕に当たったのはエリア外ということで直接FKに判定が変わった。
二回目は、その直後、スタンチュが蹴ったFKが壁に当たり、跳ね返ったボールをスタンチュがもう一度シュートしてゴールに放り込んだ。主審は最初ゴールを認めたのだが、ビデオで確認した結果、スパルタのシュテティナがオフサイドの位置にいてキーパーがボールを取りに行くのを妨げていたということで、オフサイドの判定で得点は取り消された。このシーンは、線審がしっかり見ていればビデオ判定の世話になる必要のない明らかなオフサイドだった。
三回目は、スタンチュのコーナーキックからソウチェクがオウンゴールを決めて2-0になった後の37分のシーンである。ゴール前でパスを受けたシュコダが戻したパスをペナルティエリアの角の辺りで受けたボジルがゴールを決めた。これも最初は得点が認められたのだが、ビデオ判定の結果、最初のパスを受けたシュコダがオフサイドだったとうことで得点は取り消された。これも、ビデオはなくても線審が判定できるプレーだった。ビデオがあるという安心感から線審の判定が消極的になるなんてことがなければいいのだけど。
四回目が試合終了間際のプレーで、スパルタゴール前の混戦からテツルがボールを持ってシュートをしようとして空振りして倒れた。そのとき主審は何もなかったかのようにそのままプレーを続けるように支持したのだが、ビデオアシスタントからの連絡で、ビデオで状況を再確認した結果、テツルが空振りしたのは、シュートしようとした足をシュテティナが蹴ったからだということで、PKの判定が下った。
最初の三つの判定が変わったのは、正確な判定になったということだろうから異論はないのだが、最後のはプレーの直後にビデオ判定が行われなかったことが問題になっている。スパルタ側は、テツルのプレーにもファウルがあったとしてビデオ判定が正確じゃないと批判している。監督のハパルはスラビアの一点目も、ストフが肩でトラップしたのをハンドだったと言っていた。完全な勝ち試合を引き分けに持ち込まれてしまったスパルタとしてはビデオに不満が出てくるのだろうなあ。試合後のコメントでもスパルタのカドレツが、「俺には理解できない」とか、「ビデオで公平になるんだろうけどサッカーを壊すと思う」なんてことを言っていたし。
最大の問題点は、各節一試合しかビデオ判定が行なわれないことで、他の試合ではオフサイドからのゴールがあろうが、PKが見逃されようが、確認の使用もない場合があるという点である。ビデオ判定用のシステムが導入されていない場合、判定の是非を判断するのは、テレビの中継用の映像が唯一の手がかりになるのだが、カメラの位置によってはどうしようもない場合も多いのである。
ビデオはともかく、スパルタのスタンチュは最高額で購入された選手としてふさわしい活躍を見せ始めている。問題は前半と後半で別のチームになってしまって、リードしていても守りきれないところである。かといって、いいときのプルゼニュみたいに守らないで攻め続けて勝つというのは今のスパルタには無理そうだし。今年のリーグは上位のヨーロッパリーグの出場権争いも、下位の残留争いも大混戦でなかなか追いかけ甲斐がある。スパルタが一度下位に低迷しても面白いと思うのだけど、今の6位以下には落ちないかなあ。
2018年3月19日20時。
2018年03月20日
形容詞の話(三月十七日)
最近、チェコ語の話を書いていないことに気が付いた。体調不良が続いていた間は気にもならなかったし、書こうという気にもならなかったのだけど、体調が回復してコーヒーも美味しく感じられるようになってくると、間が空きすぎているのが気になるようになってきた。ということで久しぶりにチェコ語の話である。前回何を書いたか覚えていないので、名詞の次に取り上げようと考えていた形容詞の話をしよう。
チェコ語の形容詞を勉強するとき、最初にうるさいぐらいに注意されるのは、形容詞と名詞の性と数の一致である。これは格変化以前の問題で、後に来る名詞が一格の場合にも、その名詞の性、単複の別によって形容詞の語尾が変わるのである。形容詞が述語になっている場合には、主語になっている名詞にあわせて形を変えなければならない。
チェコ語には形容詞にも硬変化と軟変化の二つの種類があり、硬変化は長母音の「ý」、軟変化は「í」で終わるのが原形である。どちらになるかは、末尾の長母音の前に来る子音によって決まっているのだが、「n」のように、どちらの長母音も取れるものがあるのが厄介である。チェコ人は「ný」と「ní」では子音が違うと言うのだが、その違いを耳で聞き分けられるぐらいなら、最初から厄介だなどと言ったりはしないのである。
いつものように硬変化から説明をすると、男性名詞の単数につくときには、活動体であっても不活動体であっても、形容詞の語尾は「ý」となる。わかりやすい例を挙げると、「starý muž(年老いた男)」「starý hrad(古城)」といった具合である。女性名詞の場合には「á」で、女性名詞硬変化の語尾「a」と対応するので覚えやすい。中性名詞は残念ながら「ó」にはならず「é」を取る。これも例を挙げておけば、「stará žena(老婆)」「staré město(旧市街)」ということになる。
それに対して軟変化の場合には、ありがたいことに名詞が男性でも女性でも中性でも語尾は変わらない。これについて、黒田龍之助師が、「nárdná banka」にならないのは、スラブ語の原則に反しているようで気持ち悪いと書いていたと思うが、チェコ語からスラブ語に入った人間には、他のスラブ語は勉強していないけど、スロバキア語で「nárdná banka」となるののほうが気持ち悪く感じられるのである。やはりチェコ語では、「národní tým(代表チーム)」「národní banka(中央銀行)」「národní divadlo(国民劇場)」となるのが自然である。男性名詞の活動体で「národní」がつけられるものは思いつかなかった。
せっかくなので複数の場合も説明をしておくと、男性名詞活動体、不活動体、女性名詞、中性名詞の四種類を考えなければならない。一番厄介なのが男性名詞活動体なので、それ以外から行くと、男性名詞不活動体と、女性名詞の場合には形容詞の語尾が中性の単数と同じで「é」となる。この二つの形容詞の語尾が同じになるのは、硬変化の名詞の語尾が「y」で共通しているからだと考えておこう。例は「staré hrady」「staré ženy」。中性名詞の複数につく場合には、硬変化の複数一格の語尾が「a」になることから予想できるように、女性の単数と同じで、形容詞の語尾は「á」で「stará města」になる。
男性名詞の活動体につく場合には、硬変化の名詞の複数の単語尾形が「i」となるように、形容詞の語尾も「í」となる。問題は「軟らかいイ」と呼ばれる「i」が、硬子音の後では使えないことで、その場合子音交代が起こってしまうのである。だから、年老いた男の複数一格は「staří muži」になるのである。
他の硬子音の場合、「-tý」「-dý」「-ný」で終わる形容詞に関しては、「ý」を「í」に変えれば子音も変化してくれるからあまり気にする必要はない。「-ký」「-hý」「- chý」で終わる形容詞に関しては、女性名詞の硬変化の三格、六格を思い出そう。あれと同様に、「-cí」「-zí」「-ší」と子音が変化するのである。
それぞれ形容詞だけ例を挙げておくと次のようになる。
bohatý→bohatí(お金持ちの)
mladý→mladí(若い)
silný→silní(強い)
velký→velcí(大きい)
mnohý→mnozí(多くの)
hluchý→hluší(耳の聞こえない)
しかし、厄介なのは「-ký」で終わるもの中に、もう一つ前の子音まで意識する必要があるものがあることで「-ský」「-cký」で終わるものは、「-ští」「-čtí」となるのである。
český→čeští(チェコの)
politický→političtí(政治的な)
軟変化のほうは、複数でも一格は三性共通である。一体に形容詞の複数変化は硬変化でも三性共通の格が多いのだが、軟変化は一格から七格まで全て三性共通で覚えるのは楽である。ただし使うときには、後に来る名詞の性が意識しにくくなるという問題があるのだけど。
形容詞における最大の問題は、硬変化と軟変化の区別がつかないことがある点にある。特に数の多い「-ný」「-ní」で終わる形容詞は、教科書に出てきて書いて覚えたもの以外は、毎回のように頭を悩ませ、しばしば間違えることになる。名詞から派生したものは軟変化であることが多いとか、区別するためのヒントになる傾向は存在するのだけど、例によって100パーセント割り切れるものではないし、耳で聞いただけでは「-ný」「-ní」の区別はつかない。いや、チェコ人の発音を聞いた場合には区別できるかもしれないが、自分で確認のために「-ný」「-ní」と発音してみても、どちらが正しいのか全く確信が持てない。
チェコ語の発音自体は、自分が区別して発音することは、それほど難しくないのだけど、正しく聞き分けるのは滅茶苦茶難しいのである。真面目に勉強していた頃は手で紙に書いて覚えたからよかったんだけど、PC上では何度書いてもなかなか覚えられないのである。
2018年3月18日12時。
2018年03月19日
プルゼニュ終戦(三月十六日)
昨日、サッカーのヨーロッパリーグの準々決勝進出をかけた試合の第二戦が行われ、チェコから唯一春まで生き残ったプルゼニュが、試合には勝って二試合合計で同点に追いついたものの延長戦で力尽きて、敗退が決まった。残念ながら三度目のベスト8への挑戦も失敗に終わった。
ヨーロッパリーグの春の初戦は、セルビアのパルチザン・ベオグラード相手に二試合合計3−1で勝ち抜けを決めたけれども、再開後のチェコリーグではあまりいいところがなかった。初戦のオロモウツとの試合は、0−0で引き分け。これで秋の最終戦から二試合連続で引き分けということになった。次の試合は、春の最大の驚きであるイフラバ相手に得点できずに0−1で敗戦。シーズン最初の負けを記録した。
春の第三節は再開に沈むバニーク・オストラバ相手で勝ってヨーロッパリーグの試合に勢いをつけたいところだったのだが、オストラバのビートコビツェのスタジアムの融雪装置が前時代的なもので、突然戻ってきた寒波と雪に対応できずグラウンドのコンディションが悪すぎて選手が怪我をしかねないと言うことで中止になった。
悪い流れを止めることができないまま、リスボンでのスポルティングとの試合に臨んだのだが、この試合はひどかった。ディフェンスはいつも以上にざる状態で、オフェンスはほとんどチャンスの兆しもなく、負けるべくして負けた。ディフェンスがざるでも、取られる以上に点を取ることで勝つのがプルゼニュのスタイルだというのに、攻撃が全く機能しないのでは勝てるわけがないのである。特に長年攻撃を支えてきたコラーシュとペトルジェラの調子が上がっていないのが問題だった。
救いは二つ。一つはかつてプシーブラムの象徴だったゴールキーパーのフルシュカが好調で、4、5点取られてもおかしくない状況で、失点を2に抑えられたことである。これで、プルゼニュでの第二戦に多少の希望が残った。もう一つは、プルゼニュに移籍して以来怪我などもあってあまり出場もできていなかったコバジークが途中から出場して、いくつかチャンスを演出していたことである。ヤブロネツ時代は、コバジークが左サイドからセンタリングを上げて、ラファタが得点するというのがパターンになっていたように、コバジークの左足の正確さは他のサイドの選手をしのいでいるのだけど、プルゼニュではこれまで目立った活躍ができていない。
第二戦を前に行われたリベレツとの試合では、ブルバ監督は珍しいことに点が取れない攻撃陣を大きく変えてきた。コラーシュを外してクルメンチークとホリーの二人の電柱型フォワードを並べ、中盤の左サイドにコバジークを出場させたのである。これが当たって、コバジークのセンタリングからホリーが移籍後初のゴールを決め、同点に追いつかれた直後にはホリーのパスからディフェンスの裏に抜けたクルメンチークが得点と采配が見事にはまった。
ただ守備の不安定さは相変わらずで、とくに後半はリードを守りに入ってリベレツに押し込まれた結果、失点するのは時間の問題という状態になっていた。同点にされてからはまた攻めにまわっていたのだけど、プルゼニュみたいなチームが守りに入ってはいけないのである。ただスポルティングとの第二戦を前に多少は状態が上向きになったといってもよさそうだった。
そして迎えたプルゼニュでの試合は、二月末の大寒波はすでに去ったというものの、一度暖かくなった後、また少し冷え込んでおりポルトガルの選手たちにはすこし厳しい環境だったかもしれない。正直な話、開始直後に失点し、勝ちぬけのために4点必要になったプルゼニュが、全面的に攻撃にまわるけれども、2点か3点しか取れずに、敗退というシナリオを予想していた。失点しないように慎重に試合に入りすぎて守りに回って失点するというパターンが見えるような気がしたのだ。
しかし、展開は全く逆だった。開始早々に今回はサイドバックで出場したコバジークが珍しく右足でゴール前に上げたボールを、久々に出場のバコシュが頭で合わせて先制。ディフェンスもリンベルスキーの出場停止の影響でコバジークとハベルというここまで出場機会の少なかった選手が出ていたにもかかわらず意外と堅く、というよりは、リスボンでの試合と違って防戦一方にならずに、プルゼニュの攻撃が効いていたおかげで、相手にチャンスをあまり与えていなかった。たまに与えたチャンスには、フルシュカの存在がプレッシャーになったのか、スポルティングの選手たちのシュートは、ゴールを外れるかフルシュカにぶつかるかしていたのである。
後半に入ってハベルのパスからバコシュが二点目を決めて、二戦合計で同点に追いついた直後は、スポルティングの選手たちの絶望みたいなものが感じられたのだが、そこで迎えたチャンスに3点目を取れなかったのが最終的にはプルゼニュの敗退を決めた。終了間際にジェズニークが微妙な判定で取られたPKは、フルシュカがきっちり止め、跳ね返ったボールに詰めた選手のシュートはフルシュカに当たらないように打たれた結果、ゴールの枠をとらえられなかった。この日のスポルティングの選手たちにはシュートが入らない呪いがかかっているような感じだった。勢いはプルゼニュ側にあったはずなのだけどね。
試合はそのまま延長戦に入り、スポルティングが延長前半終了間際にコーナーキックからゴールを決め、点が取れない呪いを解いた。そしてそのまま試合は終わり、プルゼニュは二戦合計2−3で敗退したのである。延長に入ってからは、足をつって引きずる選手が多くPK戦になるんじゃないかと思っていたのだけどねえ。
ブルバ監督の誤算は、途中バコシュに代わって入ったクルメンチークと、ゼマンと交代したペトルジェラが攻撃を活性化できなかったことだろうか。延長後半から交代出場したヘイダは、出場直後に決定的なシュートを放つなど活躍しただけに、リスボンでもいい所のなかった二人以外の選択肢はなかったのかと思ってしまう。
それはともかく、初戦での絶望的な惨敗から一週間でここまで立て直したのは、ブルバ監督の有能さを示しているのだろう。2016年のヨーロッパ選手権で惨敗して代表監督の座はひいたわけだけれども、もう一度代表の監督としてチームを率いる姿を見てみたい気もする。
2018年3月17日19時。
2018年03月18日
スロバキアの政党2野党(三月十五日)
昨日に続いてスロバキアの政党である。野党第一党は2016年の総選挙で議席を21獲得した「自由と連帯」党である。略称がSaS。スロバキアの政党は妙に略称に凝るなあ。まあさすがに「a」を省いてSSを略称にはできんか。ちなみに、スロバキア語では「Sloboda a Solidarita」だか、チェコ語では「Sloboda」が「Svoboda」になる。似ていると言えば似ているけれども、見ただけ、聞いただけで気づけるかというと、外国人には無理だな。
この党も、2009年に設立された比較的新しい党である。設立直後の2010年の選挙では22議席を獲得しているが、スロバキア初の女性首相イベタ・ラディチョバー氏の内閣が倒れた後、2012年の選挙では大きく議席を減らしている。これはラディチョバー内閣の信任案への反対に賛成できなかった一部の国会議員が脱党したことが原因のようである。ラディチョバー氏もなあ、期待は大きかったのだけど……。
野党第二党はスロバキア語で「OBYČAJNÍ ĽUDIA a nezávislé osobnosti」党。強いて訳すとすれば、「一般人と独立した個人」党。何ともコメントしにくい名前である。略称は「OĽaNO」で、「オリャノ」と読むのだろうか。政党として設立されたのは2011年のことで、ラディチョバー内閣への対応をめぐってSaSと袂を分かった四人の国会議員が設立したもののようである。2016年の選挙での議席数は19。
その四人の国会議員はもともとSaSの党員ではなく、市民団体として存在した「OBYČAJNÍ ĽUDIA」が、SaSの候補者名簿に記載される形で選挙に立候補し当選したというから、最初から分裂含みだったということか。この党員以外の考えの近い専門家を自党の候補者名簿に載せて、票を集めるというやり方はチェコでも使われているし、選挙の制度としては問題ないのだろうけれども、選挙後に候補者として立ててくれた政党を離脱するのは問題ないのだろうか。日本でもそうだけれども、比例代表で選ばれた議員が党を離脱したり、別の党に移籍したりするのを見ると釈然としないものを感じる。
三つ目の野党は、極右の民族主義政党とみなされている「我らがスロバキア」人民党、である。同じ名称の党が存在したのか何なのか、党の正式名称には前に設立者のコトレバ氏の名前が入るようである。スロバキア語で「Kotleba – Ľudová strana Naše Slovensko」。設立されたのは2010年だが、2010年と2012年の二回の総選挙では議席を獲得することができず、難民危機を経た2016年の選挙で、いきなり14の議席を獲得している。さすがにSNS以上に極右のこの党とはフィツォ氏も手を結べなかったようで、連立には参加していない。
この党の前身にあたるコトレバ氏が設立した急進派の民族主義的な政党があったようだが、裁判所の命令で解党を余儀なくされている。チェコのこちらもしばしば裁判所から解党命令を受けている極右の労働者党と協力関係にある。チェコの労働者党はオカムラ党の台頭で支持基盤を失ったところがあるから、国会に議席を得るための5パーセントの壁を越えることはなさそうだが、スロバキアのコトレバ党は、現在のスロバキアの政情、EUの状況を見るにつけ、与党になることはなさそうだが、国会には議席を確保し続けそうである。極右の政党は、知名度の高い個人を表に出したほうが支持を集めやすいのかね。
四つ目は、「SME RODINA - Boris Kollár」党。後半は創立者の名前だろうから、党名としては前半を使うことになる。ということで、あえて訳せば、「我ら家族」党である。設立されたのは2011年で、当時はスロバキア市民党という名称だったようだ。ボリス・コラール氏は、政治の世界に入るまでは実業家だったというから、設立年といい、党首の経歴といいチェコのバビシュ氏のANOと重なるのだが、国会に議席を獲得できたのは2016年の総選挙が初めてのことで議席数は11である。
主義主張はよくわからないけれども、チェコ語のウィキペディアには、ポピュリズムとしか書いてない。現在の政党はどれもこれも、大なり小なりポピュリズム的であるけれども、この「SME RODINA」党は目に余るということだろうか。名称だけ見ると保守的な伝統的な家族主義を主張する政党のようにも見えるけど。
以上がスロバキアの一院制の国会に議席を持っている党だが、最近のニュースの報道を見ていると当選後に離脱して無所属になっている議員も数人いるようである。
意外なのは、チェコよりもキリスト教の信仰の強いスロバキアで、キリスト教系の政党が議席を獲得できていないことである。革命直後の1990年から存在するキリスト教民主党は2016年の選挙で議席を失っているが、獲得したのは4.9パーセントで、わずか0.1パーセントの差で、5パーセントを越えることができなかった。議席を確保するための最低の得票率が5パーセントというのは高すぎで、死票が多くなると思うのだが、これを下げるとただでさえ小党乱立で混乱の多い政局がさらに不安定になるだろうから、この規定は変えないほうがよさそうである。隣国のオーストリアにも同様の規定があって、こちらの境界線は4パーセントだという。
チェコ以上に既存の、ビロード革命で誕生した政党の衰退が進んでいるのがスロバキアだと言えそうである。チェコの既存の政党も、これまでのやり方を反省しないと、共産党を除いてスロバキア同様全滅ということになりかねないと思うのだけど、それはそれで悪いことではないのかもしれない。
2018年3月16日20時。
2018年03月17日
スロバキアの政党1(三月十四日)
先日、スロバキアの若手のジャーナリストのヤーン・クツィアク氏が、殺し屋に殺害されたと見られる事件で、フィツォ首相の政権が激しい非難と抗議にさらされているという話を書いたのだが、その後のスロバキアの政局についての報道を見るにつけ、自分がほとんどスロバキアの政治状況を知らないことに気づいてしまった。首相のフィツォ氏の政党がスメル(方向)党で、チェコの社会民主党に対応するものだというのは知っていたし、フィツォ氏の政府が連立政権だというのも知っていた。しかし、ニュースで連立政権に参加している他の政党の名前を聞いても、野党の名前を聞いても全くピンと来ない。スロバキアの政党の名称はチェコ以上に混沌としているのである。
ということで、ちょっとばかりスロバキアの政党について調べてみようと考えたのである。スロバキアはチェコと違って国会は一院制で議院総数は150人、そのうちの約3分の1、49議席を占めているのがフィツォ氏のスメル党で、他の三つの小政党と組んで連立与党となっているらしい。スメル党は2016年の春に行われた総選挙までは過半数の83議席を確保していたようだから、第一党になったとはいえ、チェコと同様、社会民主主義を主張する政党は凋落傾向にあると考えていいのだろうか。
この党が設立されたのは90年代の終わりのことで、所属していた左派民主党に不満を抱いたフィツォ氏を中心とするグループが脱党して設立したものである。2002年の総選挙で議席を獲得して以来支持を増やし、2012年の選挙では過半数の議席を獲得し、ヨーロッパのこの辺りでは珍しい単独与党のフィツォ内閣を成立させたのだが、2016年の総選挙では結党直後の2002年を除けば最低の結果に終わり、連立を組んで内閣を成立させることを余儀なくされ、政権は不安定で運営には苦労しているようである。2014年の大統領選挙に立候補したフィツォ氏が一回目の投票では一位になっていながら、決戦投票で財界出身のキスカ氏に敗れた辺りから支持の低下が始まっていたようである。
連立与党の二つ目は、スロバキア国民党であるが、民族党と訳してもいいかもしれない。チェコ語の「národní」は、名詞「národ」からできた言葉だが、民族と訳したほうがいい場合と、国民と訳したほうがいい場合があって、しばしば悩まされる。プラハの劇場は国民劇場と訳することが多いが、博物館は国民博物館、民族博物館よりは国立博物館のほうがいいだろうし、銀行もチェコ中央銀行と訳すのが穏当だろう。チェコ語ではどれも「národní」という形容詞が使われているである。
とまれ、このスロバキア国民党は、ビロード革命直後から存在する政党で、民族主義的な傾向を帯びた右翼の政党のようである。以前選挙の際に、ロマ人に対する差別を助長するようなキャンペーンを行って批判されたこともあるという。これまで何度か連立与党として政権に関わっているが、同時に当選者を出すための5パーセントの壁を越えられずに議席を失ったこともあるという選挙結果が安定しない党である。2016年の選挙での獲得議席は19。
略称のSNSは、世の中にSNSというものがはびこり始める前から使っていたものであろうか。SNSの隆盛がこの党の党勢に影響を与えていたりはしないかなんて馬鹿なことを考えてしまう。どちらかと言えば左寄りのスメル党と極右に近いとみなされるSNSが組んでいるのは、チェコでバビシュ氏のANOとオカムラ党が組むのに近いのかもしれない。スロバキアにはさらに右を行くコトレバ党があるからそこまでではないか。
三つ目は「MOST-HÍD」党で、議席数は11。スロバキア南部を中心に居住するハンガリー系住民の利害を代表する党のようである。党名も「MOST」がスロバキア語で、「HÍD」がハンガリー語なのだろう。直訳すれば橋だが、スロバキア人とハンガリー人の間の懸け橋になろうという意志を党名にしたと考えておく。設立は2009年と、比較的新しく、結党直後の2010年の選挙以来毎回議席を獲得している。
EUの初期の加盟国を中心に世界中で、スロバキアの右傾化、極右のスロバキア民族主義の台頭が批判されて久しいが、批判する連中はスロバキアにハンガリー系の住民が中心となって組織した政党が存在し、連立政権に参加し、今回のクツィアク氏の事件後の政局でも重要な役割を果たしていることをどのように評価するのだろうか。少数民族とはいえ民族主義的だから極右だとか言い出すのかなあ。何もわかっていないまま批判するやつらが多いからなあ。仮にスロバキアに本当の極右ハンガリー民族主義があるとすれば、それはハンガリー系住民の居住地域のハンガリーへの併合を主張するはずである。
実はスロバキアには、ハンガリー・コミュニティ党とでも訳せるより強くハンガリー系住民の利益を主張する党が存在して、この「MOST-HÍD」党はそこから穏健派が分かれたものらしい。ハンガリー・コミュニティ党は分裂後の2010年からは国会に議席を確保できていないから、スロバキアのハンガリー系の住民は穏健派が多いと考えてもいいのだろうか。
最後に与党として挙げられるのは「#SIEŤ」党。前についているものを無視すれば、網とかネットという意味の言葉なのだが、ネット上での活動を中心にしているのか、スロバキアに網をかけて分裂を防ごうというのかよくわからない。現在はこの党出身の大臣はいないようだから連立与党から脱退した可能性もある。こちらは2014年の大統領選挙に立候補して僅差の三位で決選投票に進出できなかったラドスラフ・プロハースカ氏が設立した政党である。
ちょっと調べてみたけどよくわからんというのが結論である。フィツォ首相は今回の政治危機に関して、連立が解消されて野党が政権を担うことになったら大変なことになるとして、自らが退陣し、連立を維持したままで新しい内閣を組織することを提案したらしい。意外や意外、この人、こういう譲歩はしない人だと思っていた。それはともかく、今回の件でスロバキアの政治情勢がかなり長期にわたって不安定になることは間違いない。せっかくなので次回は野党について書いてみる。
2018年3月15日23時
2018年03月16日
森雅裕『マンハッタン英雄未満』(三月十三日)
あれこれ問題というか突っ込みどころは満載であるけれども、森雅裕の新潮社三部作の最後の作品で、面白さでは頭一つ抜けている作品である。刊行されたのは『ビタミンCブルース』の翌年の1994年5月で、すでにこの頃には4月5日付けの出版にこだわらなくなっているのが見て取れる。
内容は何でもありの伝奇小説で、新しい救世主、つまりはイエス・キリストの再来として日本人女性を母としてニューヨークで生まれた子供を悪魔の攻撃から守るために、過去の偉人を現在に召還するのだけど、選ばれたのが作曲家のベートーベンと、新撰組の土方歳三という組み合わせ。救世主の母親が音楽好きの日本人という設定からの選択だとしても、キリスト教会が異教徒の土方を呼ぶかなんてことは考えてはいけない。著者が自分の好きなものを登場させるために設定したに決まっているのだから。
講談社から出た『流星刀の女たち』でテーマになっていた隕石に含まれる鉄を使って造ったという流星刀まで登場して、その刀を打ったのが、次の作品『会津斬鉄風』の主役の一人兼定である。カバー画を描いているのは魔夜峰央だし、デビュー以来の森雅裕の作品を構成する重要な要素の中で、本書に登場しないのはバイクぐらいのものか。
前作の『ビタミンCブルース』とは違って、この作品には、出版社の意向とか売れ行きとか、そんなものは全て無視して、好きなものを好きなように書こうという開き直りのようなものが感じられる気がした。だからこそ、荒唐無稽きわまる設定にストリーであるのに、十分以上に楽しく読めてしまうのである。読者の勘違いかもしれないけれども。
編集者の立場になって考えると、新潮社第一作の『平成兜割り』はともかく、次の二作はどちらも問題含みの作品で、特に本書は、よくぞ刊行してくれたと思う。しばらくこの伝奇小説路線で行くのも悪くないのではないかと考えていたのだが、売行きが悪かったのか、新潮社から森雅裕の四冊目の本が刊行されることはなかった。森雅裕ファンですらついて行きかねるようなジャンルの振幅に、編集と営業がさじを投げたのかなあ。
作品について言えば、ベートーベンと土方の辛辣な言葉の投げ合いが、昔の『モーツァルトは子守唄を歌わない』や『ベートーベンな憂鬱症』を思い出させて嬉しかった。辛辣な言葉を投げ合いながら殺伐とした印象を残さないのは、登場人物の設定がうまくいっているからだろうけれども、森雅裕の作品にとっては、やはり男性の登場人物が魅力的であることが重要で、それがあって初めて女性のキャラクターの魅力が引き立つのである。その意味でベートーベンと土方のコンビは、森雅裕の作品の中でも一、二を争う存在感を発揮している。
本書に描き出された90年代前半のニューヨーク、アメリカのショービジネスの世界がどこまで事実に即しているのかは評価できないし、するつもりもない。ただ、ブロードウェーのミュージカルから、野球チームに野球場、悪名高き地下鉄などなど、登場する小物の使い方のうまさはさすが森雅裕といいたくなる。荒唐無稽でご都合主義的なストーリに説得力を持たせるには、こういう小道具の使い方が大切なのである。
その意味では、ベートーベンと土方と現代文化の間に生じるカルチャーギャップと、それに対するそれぞれの対応の仕方なども、特にベートーベンは『モーツァルトは子守唄を歌わない』のベートーベンならこんな対応をしそうだというのも、古くからの読者には嬉しい。土方の場合には次の作品『会津斬鉄風』につながっていく。後に集英社から歴史小説、時代小説を刊行することになる芽はここに生じていたのである。『モーツァルトは子守唄を歌わない』も、ヨーロッパを舞台にした時代小説だと言えば言えなくもないけど。
2018年3月14日24時。
2018年03月15日
スパルタ変わらず(三月十二日)
週末、春に入って四節目、今シーズンの第二十節が行われたのだが、春に入ってからの傾向に大きな変化はなかった。
現在チェコリーグの最強チームと言ってもいいイフラバは、金曜日にプラハのユリスカのスタジアムでドゥクラと対戦した。そして圧勝した。二試合連続で3−1での勝利で、チェコリーグでは珍しいラトビア人のイカウニエクスの活躍が止まらない感じである。冬の中断期間にスラビアが触手を伸ばしたという話もあったから、いい選手なのだろうとは思っていたけれども、秋の様子ではここまでの選手だとは思わなかった。
イフラバは、一部に昇格して以来数シーズン下位に定着しているのだけど、結構有望な選手を発掘して育てているという印象がある。リベレツでの活躍が印象深いラブシッツもリーグで最初に活躍したのはイフラバだったはずだし、ヤブロネツを経てプルゼニュに移籍したコピツもイフラバでデビューしたんじゃなかったか。2015年にチェコで行われたU21のヨーロッパ選手権で彗星のように現れてドイツに移籍したクリメントもイフラバの選手だったし、外国人では、フットサルの経験を生かしたトリッキーなプレーで活躍したハルバなんて選手もいた。
シーズン終了後はイカウニエクス争奪戦が、外国のクラブも含めて勃発しそうである。今のイフラバを見ていると一人欠けたぐらいでは、それほど変わらないような気もするけど、代わりに獲得する選手しだいかなあ。イカウニエクスがイフラバに残るという可能性は、チームの財政規模、選手のモチベーションを考えるとなさそうである。
日曜日には、イタリア人監督を解任してチェコ人監督を就任させたスパルタが、秋の不調から立ち直りつつあるカルビナーと対戦した。ハパル新監督はラファタを先発に復帰させた。それがよかったのかどうなのか、前半のうちに新加入のカンガのゴールで先制した。ただ、ここまではストラマッチョーニ監督の下でもできることが多かったのである。スパルタの問題は、下位のチーム相手に、一点目は取れても二点目が取れず、一点差しかないのに無駄に守りに入ってずるずるラインを下げた結果、相手に攻め込まれてミスから失点して同点に追いつかれることが多いという点である。
その悪癖は、この試合でも解消されなかった。後半も残り5分ぐらいのところで、元代表のワーグネルにゴールを決められてまたまた引き分けに終わった。前節のブルノや、このカルビナー、スロバーツコなどの一部残留が現実的な目標となるようなチーム相手に一点しか取れずに守りに入ってしまうなんてのは、スパルタファンが怒りにかられて監督の解任を求めてブーイングをするわけである。ヨーロッパの舞台でもそれなりに戦える強いスパルタが戻ってくるまでには、まだまだ時間がかかりそうである。
カルビナーで一点だけ特筆しておくと、ゴールキーパーを務めるのがベトナム系のスロバキア人で、秋は第二キーパーだったのだが、春に入って先発に定着している。ベトナム代表に呼ばれているなんて話も聞いたことがあるからいずれはアジアでの大会にチェコリーグの選手として出場することになるかもしれない。
秋のどん底状態から春に入っても抜け出せないオストラバは、春に入ってイフラバと並んで連勝を続けるヤブロネツと対戦し、あまりいいところなく0−2で敗戦し、15位のブルノに勝ち点7差の最下位に沈んでいる。一試合消化試合が少ないとはいえ相手は首位のプルゼニュだから大きな影響があるとは思えない。よほどのことがない限りこのまま降格ということになりそうである。試合直後に監督のクチェラが解任されたというニュースが入ってきた。スパルタと同様よくここまで我慢したと言う印象である。
ところで、春に入って秋の好調さが完全に消えてしまった我等がオロモウツは、スラビアに惨敗した。後半に入って専制したところまではよかったのだが、終盤に入って連続して失点して負けてしまった。前節のスロバーツコとの試合では勝ったとは言ってもほとんどいいところがなく、相手のとんでもないミスのおかげで何とか得点できただけだったし。プルゼニュからホリーと入れ替わりでやってきたフォワードのジェズニーチェクが機能していないのかな。秋はホリーが欠場しても点が取れていたから、移籍しても何とかなると思っていたのだけど、まあ一部残留は確定しているから、残り十試合は来シーズンに向けての準備に使ってもいいかな。今のオロモウツがヨーロッパリーグの予選に出たとしてもろくなことにはなりそうにないし、今シーズンは5位、6位ぐらいで終わるのが理想である。
2018年3月12日23時。
2018年03月14日
チェスキー・レフ2018(三月十一日)
去年もこのチェコのアカデミー賞とでもいうべき映画賞に関して、報告した記憶があるので、今年も一応記事を書いておく。授賞式が行なわれたのは昨日の十日のことだけど、テレビ中継をちゃんと見ていなかったこともあって、一日遅れである。以前はカルロビ・バリの映画祭の最終日とか、このチェコのライオン映画賞とか熱心に見ていたのだけど、年々マンネリ感が強くなってきて、最近はほかのことをしながら、気になるところだけを見るという不真面目な視聴者を続けている。
去年は、2016年に制作されたけれども、公開されたのは2017年になってからという「マサリク」がノミネートのときから注目を集め、受賞した数も一番多かったのだが、今年の注目は、傑作「オベツナー・シュコラ(小学校)」の前日譚と言われる「ポ・ストルニシュティ・ボス(シュトルニシュテを裸足で)」だった。ズデニェクとヤンのスビェラーク親子の作品は、どの作品も一定以上のレベルを保ってハズレはないのだけど、最近はちょっとあざとさを感じさせることがあって、昔の「オベツナー・シュコラ」が一番のお気に入りであり続けている。今年も映画ファンの選ぶ賞を獲得していたのはさすがスビェラークだけどね。
今回の授賞式では、そんなスビェラークの作品よりも高い評価を得た作品があった。それが、こちらも常連というべきボフダン・スラーマ監督の「バーバ・ズ・レドゥ(氷の婆)」である。ノミネートの時点で一番多くのカテゴリーにノミネートされていて、今年の表彰の主役になるのはわかりきっていた。ただ、題名も、寒中水泳をする年配の女性が主人公だという内容もあまり心惹かれるものではないのだけど、この賞では、単なるエンターテイメントよりも、ある種のテーマ性を持ったいわば文芸的な作品のほうが、高く評価される傾向にある。だから、表彰と興行成績が一致しないことが多いのである。チェコの映画業界は、かなりの部分を政府からの補助金やテレビ局からの資金で補っているから、そこまで興行成績、観客の人気を気にする必要はないと言う面もあるし。
問題は、今日放送されるらしい「バーバ・ズ・レドゥ」を見るかどうかである。以前はチェコ語の勉強もかねて熱心に映画やドラマを見ていたものだが、最近は最初から最後まで見続けていられないことが多い。「トルハーク」のような、何度見ても見始めたらついつい最後まで見てしまう例外を除くと、途中で見ていられなくなることが多い。よく考えてみたら、日本にいたときから特に映画好きというわけでもなかったのだから、最初から最後まで熱心に見ていたのが例外だったのだ。
さて、もう一作注目していた作品があったのだけど、一つも受賞できなかったようである。共産主義政権の成立直後に国家に対する裏切りの罪で裁判にかけられ処刑されたミラダ・ホラーコバーを描いた「ミラダ」という作品は、チェコ人の政治好きと、共産党の政治犯罪を描いた作品であることを考えると、去年の「マサリク」同様、高く評価されるかと予想したのだが、「アンデェル・パーニェ2」と同様に一部門も受賞できずに終わった。主役のミラダを演じたのが、チェコの女優ではなくて、確かイスラエルの女優だったとか話題には事欠かなかったのだけど。
共産党政権による政治裁判の犠牲者の象徴として取り上げられることの多いミラダ・ホラーコバー氏の名前は、マサリク大統領ほどではないが、各地で通りの名前に使われている。プラハのミラダ・ホラーコバー通りは、確かサッカーのスパルタ・プラハの本拠地のあるレトナーにあるんじゃなかったかな。
こういう記事を書くと、チェコ人は映画好きで、ハリウッドの映画よりも自国の芸術的な映画を優先して見ているような印象を与えてしまうかもしれないが、チェコ国内の興行成績でいえばおそらくチェコの国産映画でハリウッドの大作に勝てるものは少ないはずである。地方の小さな映画館だと、チェコ映画の上映をしようとしても、最低の観客数を満たさず上映中止で払い戻しなんてこともあるようだし。
アメリカ映画や日本映画は、テレビでチェコ語の吹き替え版で勉強のためであっても見る気にはならないけれども、チェコの映画は時間があるときだった見ようかなと思うこともあるから、チェコ映画のファンではあるのだ。非常に中途半端ではあるけど。
2018年3月11日17時。
2018年03月13日
日本選手頑張る(三月十日)
昼食の後、特に見るべきものもなかったので、テレビのチャンネルをチェコテレビのスポーツ専門チャンネルに合わせて、本を読んでいたら、日本チームが予想以上の大健闘をしているというコメントが聞こえてきた。バイアスロンの男女二人組みで二回ずつ走るリレー種目で、日本チームが優勝争いをしていたのだ。
気付いたときにはすでに後半に入り、女子選手が二回目の走行をしているところだったが、最初の伏射でも、次の立射でも、三番目四番目ぐらいで射撃場に入ってきて、二番目三番目ぐらいで射撃場を出て行っていた。上位争いのプレッシャーに負けて射撃でかなり外すのではないかと予想していたのだけど、外しても一回で、リレーでは予備の弾が三発まで使用できることもあって、罰走はせずに済んでいた。
最終区間の男子選手が走り始めてからも、距離がそれほど長くないこともあって、先頭からそれほど離されることなく表彰台争いを続けていたのだが、最後の射撃で二回外して追加の射撃が必要になり、ノルウェーやオーストリアなどの有力チームに逆転されてしまい、最終的には八位に終わった。これまで、日本の選手がリレー種目とはいえ、一桁の順位に入ったことがあるのだろうか。オリンピックではぜんぜんだめだったようだけど、日本のバイアスロンも少しずつ世界に近づいているのかもしれない。チェコ代表なんかオリンピックや世界選手権でメダルを獲得したことのある選手二人でくんでいたのに、射撃の調子が上がらず十八位に終わったのだ。
バイアスロンといえば、日本選手はポイントを取れれば御の字、ノルディック・スキーのクロスカントリー以上に世界においていかれているスポーツである。今年は十位前後に入った選手がいて驚かされたけれども、たいていは射撃の調子がよくて最初のうちは上位で頑張っていても、後半の射撃で崩れて、ポイントも取れないような下位に沈んでいくのがパターンである。そもそも全世界に提供される映像に日本選手が登場すること自体が少ない。そのことを考えると、各国一チームしか出場しないリレー種目とはいえ、20チーム以上が出場した中で八位に入ったのは、最後の射撃ではずしていなければ、三位も狙えただけに残念ではなるけれども、快挙だと言っていい。出場した選手の名前は、男女ともタチザキになっていたから、夫婦なのかな。
夜は、チェコの映画賞の表彰式の裏側で、スピードスケートの世界選手権の総合(短距離から長距離まで四種目二日間で走る)で、日本の高木選手が優勝を遂げた。今年は例年優勝候補の一角となるチェコのサーブリーコバーが体調不良で調子が上がらなかったという面あるものの、最後の5000メートルでも、一位となったオランダのブスト選手や、サーブリーコバーと大差のないタイムで四位に入っているから、来年以降も期待が持てそうである。
数年前までは、500、3000、1500の三種目が終わって、最後の5000メートルに出走できる選手はいても(出場選手が全員最後のレースに出走できるわけではない)、優勝争いはもちろん、上位争いからは遠かったはずなのだけど、日本のスピードスケートも特に女子が強くなったなあ。以前は男子の短距離ぐらいしか上位争いできていなかったのに、総合で勝負できる選手が出てきているのだから。
来シーズン以降は、サーブリーコバーが復調するはずなので、今回のようには行かないだろうけれども、チェコと日本の選手が優勝争いをするなんてことになったら、チェコに住む日本人としてはうれしい限りである。どちらを応援するかと言われたら、もちろんサーブリーコバーなんだけど、高木選手をはじめ日本の選手が上位に入るようには応援できると思う。日本とチェコで優勝争いできそうな競技って他になさそうだし。
2018年3月11日11時。
2018年03月12日
森雅裕『ビタミンCブルース』(三月九日)
森雅裕が新潮社から刊行した二冊目の著作にして、『歩くと星がこわれる』とは違う意味で問題作である。出版されたのは1993年8月のことで、この時期、生まれて始めて日本を離れており、帰国直後に森雅裕読者の友人からそのことを知らされて自分で購入したのだったか、友人が買ってくれたのだったか。とまれすでに読んでいた友人があまり期待しないほうがいいと言っていたのを思い出す。
一読しての感想は、『サーキット・メモリー』以上にこんな本よく出版できたなというもので、同時に妙に筆が荒れているような印象を受けた。森雅裕らしからぬ文章の粗さが目立ち、投げやりに感じられる部分があって読みにくかった。森雅裕の文章というのは、一文が長かったり、妙に凝った比喩や表現が出てきて、一般的な意味では読みやすいとは言えないのかもしれないが、その呼吸に一度なれてしまえば、非常に読みやすいものに変わる。それが、本書は森雅裕の読者にとっても妙な読みづらさを感じさせたのである。何か事情があったのかなと考えはしたけれども、そんな情報の入ってくるような時代ではなく、森雅裕の作品の中では一番低い評価を与えて本棚に並べたのだった。森雅裕読者としては後輩だったけれども、友人の言葉は正しかったのである。
内容は、アイドル歌手本人を主人公にした音楽ミステリーというのが正しいのかな。主人公の名前はしばしば「――千里」と表記されるのだけど、ここまであからさまにして名字だけ伏せる意味があったのだろうか。『推理小説常習犯』の記述によれば、カバーにアイドル本人が鏡か何かに小さく映っている写真を使うという計画もあったらしい。それは肖像権の問題を心配した新潮社によって禁止されたというのだけど、内容は問題なかったのか。主人公で好人物として描かれているから問題ないというわけでもあるまい。
こういう小説を書けた、いや書いて出版できたということは、森雅裕とアイドル歌手との間に何らかの関係があったということだろうか。ゴーストライターの仕事をしたこともあるという森雅裕のことだから、この女性アイドルのためのゴーストライターでも務めたのだろうか。アイドル本人がOKを出しても所属事務所がクレームをつけそうなものだけど、出版できたのは版元が売れっ子作家にも媚びないと言われているらしい新潮社だったからかもしれない。
苦手なアイドル小説で、文章もいまいち読みにくかったために、『モーツァルトは子守唄を歌わない』では気にならなかった楽譜を利用した暗号のわかりにくさが、この作品ではものすごく気になった。それから、登場人物たちの辛らつなやり取りが、いつもの作品とは違って殺伐として感じられたのも読むのが辛い理由だった。森雅裕の作品の魅力というのは、微妙なバランスの上に成り立っているのである。
どんなに熱心なファンであっても、受け入れにくい作品の一つや二つはあるものである。個人的にはこの作品がそれで、つまらないというつもりはないが、いろいろな要素が絡みあって趣味に合わなかったのである。こういう作品が好きだという人もいそうだとは思うけど、そういう人が森雅裕ファンの中にどの程度いるのかは不明である。
アイドル好き、特に「――千里」のファンが読んだらどんな反応をするのだろうというのは、最初に読んだときから気になっているのだが、その答えは未だ得られていない。絶賛と酷評に二分されるような気はするけどさ。
2018年3月10日23時。