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2018年03月11日
ミロシュ・ゼマン大統領就任式(三月八日)
五年前の2013年と全く同じ3月8日に、ミロシュ・ゼマン大統領は、二期目の大統領就任の式典を行った。プラハ城の大ホールに集まった上下両院の国会議員たちを中心とする出席者の前で、憲法の原本に対して宣誓を行うという儀式なのだが、それに引き続いて就任演説を行うのが例となっている。その演説が、五年前以上に問題のある内容で……。
そもそも今回の就任式には、出席するはずの国立大学の学長たちがさまざまな理由を付けて欠席するなど、ゼマン大統領が大統領選挙の後に語っていた国民統合のための大統領というのが絵に描いた餅にすらなっていないことを示唆する事実には事欠かなかったのだけど、前回もあれだけ批判された就任演説で、それを上回るような発言をするとは、さすがゼマン大統領というべきなのだろうか。
今回は、自らの一期目の功績を誇った上で、大統領選挙に際してゼマン氏を批判するような報道を行ったマスコミの批判を始めた。一般的に一部のジャーナリストの姿勢を批判していたところまではまだましだったのだが、次第に批判が具体的になり、バビシュ首相と並ぶ成金のバカラ氏とその所有するメディアの批判になり、公共放送であるチェコテレビを批判するに至った。この時点で、市民民主党の元党首ニェムツォバー氏が席を立って退出した。
ゼマン氏が主張するように、バカラ氏が非合法すれすれの手法で自らの資産を拡大し、チェコの財政に大きな損害を与えていて、それを政治家たちが、自分たちのクライアントだったからという理由で野放しにしてきたことは批判されるべきであろうし、そんな人物がメディアを所有しているのは問題でもあろう。しかし、バカラ氏が資産の大半を獲得した90年代に政界の中心にいた一人がゼマン大統領であることを考えると、この批判は天に唾するようなものである。
話を戻すとゼマン大統領の具体的すぎる批判にあふれた演説に、右寄りの政党を中心に退席する議員が続出した。市民民主党、TOP09、キリスト教民主同盟あたりの議員はほぼ全員退席したのではなかったか。海賊党は退席はしない代わりに演説が終わった後の拍手もしないという、この政党、意外すぎるほどにまともだなあという対応を見せていた。それに対してANOも含めて左寄りの政党は、問題はあったにしても退席して抗議の姿勢を見せるほどでもないと評価していたようである。大統領の演説を手放しで絶賛していたのは、オカムラ氏だけである。
演説の直後から、チェコテレビでは、各党の関係者や学者をスタジオに招いて解説する番組を報道していたが、やはり一番の問題は大統領の就任演説で話すような内容だったのかということである。特に国民を分断するのではなく、つなぎ合わせるような大統領になると宣誓した人物が、その就任演説でいきなり国民を賛成と反対と無関心に分けてしまうような内容の発言をするのは、宣誓は何だったんだということになりかねない。
ゼマン大統領が、自分の親派以外のメディアに対してどんな意見を持っているかというのはすでに周知のことで、いまさら大統領の就任演説で繰り返すまでもない。それをあえてやってしまうところに、ゼマン大統領、老いてますます盛んというべきなのか、老いてこらえ性がなくなったというべきなのか。
こういうゼマン大統領も含めた既存の政党、政治家のでたらめっぷりを見ていると、さまざまな問題を起こしながらもANOの支持が減らない理由、意外とまともな現実路線を走る海賊党の支持が伸び続けている理由が見える気がする。既存の正当に反省の色の見えない現状では、新しい政治家であるという一点でも支持の理由になりうるのである。
2018年3月9日23時。
2018年03月10日
ロマ人のホロコースト(三月七日)
下院議員として二期目に入り、第四の政党を率いるトミオ・オカムラ氏は、国会の数の論理、政党の順位の論理に基づいて、下院に数人存在する副議長の座に座っているのだが、中道から右寄りの既存政党に解任動議を起こそうという動きがあった。政治の世界に進出して以来問題発言を繰り返しているオカムラ氏だが、今回問題にされたのは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがユダヤ人虐殺のための強制収容所と同様に運営していたロマ人に対する強制収容所に関する発言である。
南ボヘミアのレティと呼ばれる地にチェコでは最も大きなロマ人用の強制収容所が設置され、多くのロマ人たちが犠牲となったのだが、その跡地をどうするかというのがここ十年ほどのチェコの政治問題の一つとなっている。そこにオカムラ氏がくちばしを突っ込んで、既存の政党からすればありえない発言をしたのである。
ユダヤ人に対するホロコーストほどは知られていないが、ナチス・ドイツがユダヤ人と並ぶ撲滅の対象としてロマ人を選び、ドイツ本国、占領地だけでなく、ドイツと同盟を結んでいたいわゆる枢軸国でもロマ人に対する迫害と虐殺が行われた。ドイツの保護領となっていた現在のチェコでも事情は同様で、虐殺のための強制収容所の一つがレティという場所に置かれた。
かつての東側の共産主義諸国の高官には、実はナチスの高官が変名でなんて話がまことしやかにささやかれていたのは冷戦の時代だが、そのせいでなのかどうかはともかく、共産主義の時代にはナチスによるロマ人虐殺はなかったことにされていたようだ。そして、強制収容所の痕跡を無くすため(と断言できるかどうかは不明だが)、跡地に養豚場が建設された。
最初の問題は確か、ビロード革命後に民営化された養豚所にロマ人強制収容所の記念碑を設置するかどうかという問題だったはずだ。養豚所のオーナーと政府の話し合いが政治問題化したりしてややこしいことになっていたのだが、最終的には国が養豚所を買収した上で記念碑を設置するということになった。恐らく養豚所は廃止して記念館のようなものを建てる計画があるはずである。
遺族のロマの人たちにとっては、養豚所に記念碑というのもあまり歓迎できることではなかったようだし、養豚所のオーナーも政治問題化したことで大変だったようだから、一番いい形で落ち着いたはずなのだが、そこに余計なくちばしを挟んだのがオカムラ氏だった。
オカムラ氏の最初の発言によれば、レティの強制収容所には、周囲に柵がめぐらされていなかったのだという。後にその発言は誤りだったと謝罪していたが、それでも出入りを監視する者はいなかったのだという。つまり、強制収容所とはいっても、監視されていなかったのだから出入りは自由で、ロマ人たちは自分たちの意志で収容所にいたのだと主張しているのだろうか。批判を受けた結果、ロマ人に対するナチスのホロコーストを記念する日を制定して、この事実を知らしめる一助にしようなとと提案していたが、実はすでにそういう趣旨の日は存在していることを指摘されるという恥をさらしていた。
オカムラ氏の政党SPDは反移民政策を掲げていて、チェコ国内では少数民族になるロマ人に対しても排斥を訴えているようである。反ロマ人的な風潮はチェコにも存在するけれども、すでに何世紀にもわたって定住している人たちを、難民だとか不法移民だとかと同列に扱うのは無理がって、この件に関しては、難民問題でオカムラ氏を支持する人たちの中にも批判は存在するようである。
レティのロマ人強制収容所の問題に関しては、かかった経費をドイツに請求するように主張するぐらいにしておけばよかったのに。ユダヤ人とは違って、ロマ人に対するドイツ政府の対応は、西ドイツの時代から冷淡なもので、まともな補償など、特に旧共産圏のロマ人の遺族たちに対して補償などされたはずはないのだから、そこを指摘するのが反EU、反ドイツのオカムラ党の取るべき道だと思うのだけど。ロマ人を支援してドイツに補償を求める運動を起こすとなると、オカムラ党のカラーからは大きく外れてしまうけれども、ドイツの戦後処理の不備を言い立てて経済的な負担を迫るぐらいだったら支持者の許容範囲内じゃないかな。
オカムラ下院副議長の解任動議は、与党のANOと共産党の画策でうやむやのうちに提案さえされないままに終わってしまったらしい。どうしてそんなことになったのかはニュースを見ていてもさっぱりわからなかった。
2018年3月9日14時。
2018年03月09日
過去に捕らわれる男(三月六日)
昨年の下院の総選挙の結果が出て、国会内の役職をめぐる政党間の駆け引き、取り引きが本格化して以来、大きな問題の一つとなっているのが共産党選出の下院議員ズデニェク・オンドラーチェク氏の処遇である。おとなしく一般の国会議員として活動する分にはそれほど大きな反発もなかったのだが、所属する共産党がGIBSと呼ばれる警察の監査する組織を監督する国会議員からなる委員会の委員長としてオンドラーチェク氏を推薦したことで過去の行状が蒸し返されることになった。
この人、1989年のビロード革命に際して、デモを鎮圧するための警察の部隊の一員として派遣されたという過去があるのである。それでも目立っていなければよかったのだろうけれども、積極的に任務をこなすさまがテレビカメラに収められ、この件に関してインタビューまで受けているのである。父親が共産党政権の高官だったという事情もあって特別扱いされたらしい。そんな人物が民主国家の警察を監査する組織にかかわるのはおかしいというのである。
あのときの鎮圧部隊は、警棒を片手に、あれこれ抗議するデモの参加者をばんばん叩いて流血の巷を演出していた。オンドラーチェク氏は命じられた仕事を全うしただけで、何ら恥じるところはないと明言していて、それも一般社会の反感を買っている。ただ、父親が以前もらした話によると、オンドラーチェク氏も含めて、鎮圧に向かわされた部隊のメンバーは大半が、採用されたばかりのほとんど何の経験もない若者ばかりで、デモの群衆の圧力に負けてパニックを起こして、あれだけの暴力沙汰になってしまったのだという。
共産党政権の内部に、デモを鎮静化させるのではなくて、拡大させることを狙った勢力があったということなのだろうか。そうなると、オンドラーチェク氏もある意味陰謀の犠牲者と言えなくはないし、当時の社会で命令を受けて遂行しないことは、自分自身が逮捕されることを意味していたから、命じられたことをやったのだという主張に説得力がないわけではない。ただ、現在でも共産党員を続けている人たちはみなそうなのだが、ビロード革命前に共産党に命じられて行ったことを謝罪していないのが、社会に受け入れられにくい理由になっている。
オンドラーチェク氏は12月に一度GIBSの監督委員会の委員長に選出されたのだが、そのときの手続きに問題があるということで、改めて選出の手続きが行われ、先週の金曜日に与党のANOの支援を受けて、委員長に選出された。これに対して、国会だけでなくチェコ各地で、反対のデモが行われることになった。あまりの反対の大きさに一度はオンドラーチェク氏の選出を支持したバビシュ辞任中首相も、解任なんてことになるとあれだから、オンドラーチェク氏が自主的に辞任するのが一番いい解決法だなどと言い出していた。
反共産党の政党が、解任動議を出すとか出さないとか騒いでいる中、オンドラーチェク氏は今日になって突然辞任を表明した。直前まで共産党の同僚議員がオンドラーチェク氏の任命に何の問題もないことを演説で述べていたのにである。本人の言葉によれば、自分が選出されない理由も、解任される理由も、辞任しなければならない理由もあるとは思えないが、家族の身の危険を感じるようになったので家族を守るために辞任するというのである。デモとか抗議集会で反対の意を示すのはいいのだけど、調子に乗りすぎて脅迫じみたことまでやってしまうのが、その脅迫じみた言葉が届いてしまうのが、現在のネット社会の恐ろしいところである。
それにしてもビロード革命から30年近いときを経て、当時の行動が原因で批判を受ける。ゼマン大統領が大統領を続けているという事実も考えると、日本で戦後という時代がいつまでたっても終わらないように、チェコでもブロード革命後の90年代が未だに継続しているのではないかという気がしてしまう。仮にオンドラーチェク氏が、仕事だったとはいえ、デモ隊を警防で叩いたのは確かなのだから、その叩かれた人に対して謝罪をしていたら、今回の騒ぎは起こらなかったのだろうか。
2018年3月8日23時。
2018年03月08日
ストラマッチョーニ解任(三月五日)
難しいことを考えられる状態ではないのでスポーツネタが続く。巨額の資金と半年という時間を投入したスパルタの試みは壮大な失敗に終わった。昨年の夏に就任して以来、結果だけでなく内容の面でも成果を上げることができず、ファンたちからの解任要求にさらされて久しいイタリア人監督のストラマッチョーニの解任が決定したのだ。後任は、外国人監督という冒険を避けてチェコ人監督の中から選ぶようである。これによって、多国籍の有力選手を集めて外国人監督に采配を任せるというスパルタの国際化路線はいったん頓挫ということになる。
後任として有力視されているのが、選手としてスパルタでもプレーしたことのあるハパルで、現在はスロバキアのU21代表の監督を務めている。ハパルは選手としてはオロモウツでも活躍したことがあるし、監督としてはチェコではオパバを率いていたのを覚えている。その後、スロバキアやポーランドに活躍の舞台を移していたのだが、今回救世主としてスパルタに戻ってくることになったのだが、果たしてどれだけの手腕を見せてくれることだろうか。
今回の解任に関しては、スパルタにしては長い間我慢したというのが率直な感想である。これがチェコ人の監督だったら、昨年の夏のヨーロッパリーグの予選で敗退した時点で解任されていてもおかしくはなかった。外国人監督で時間が必要だという判断は正しかったのだろうが、ここまで我慢したのならシーズン終了まで任せてしまえばよかったのにと思わなくもない。中途半端な遠慮しいしいの指揮の目立った監督が遠慮をかなぐり捨てて、自分の好き勝手にチームを作るのが見たかったのだが、最後まで中途半端なチーム編成に終わってしまった。結局監督の目指すチームというものが、勝っても負けても見えてこなかったのが一番の問題と言えるだろうか。
不満分子と化しつつあったバーハを出したのは正しい。それならラファタも出してしまうべきだったし、出場できない不満を移籍志願という形で表明したフリーデクあたりも放出しておけばここまでチームが形にならないということはなかったのではないかと思う。完全に開き直って獲得した外国人選手を全員先発メンバーに並べるとかいうことができなかったのは、フロントからのチェコ人選手を必要以上に減らすなという指示でもあったのだろうか。すべての外国人選手が、監督の求めた選手ではなかったという事情もあるのだろうけど。
フロントの監督に対する支援もなんかちぐはぐな感じで、どこまで本気でイタリア人監督を支えようとしていたのか疑問がなくはない。外国人監督だというのに専門の通訳を置くことなく、イギリスでプレー経験のあるコバーチが、英語の苦手なチェコ人選手向けの通訳を務めるという話を聞いたときには、最初から失敗を願っているのではないかと疑ったものだ。その一方で結果が出ない監督を半年も引っ張ったわけで、選手も混乱したのではなかろうか。
今後は、スパルタが路線変更をして、またチェコ人中心のチーム作りにもどるのか、チェコ人監督の下外国の代表クラスの選手を集めて強化を図るのかに注目である。チェコ人監督では外国人選手をまとめきれないというのがイタリアから監督を招聘した理由だろうけれども、チェコ人の監督を据えた上で、外国人中心のチーム作りを続けるのだろうか。
今更チェコの有力選手をかき集めようとしても、以前とは違って、地方のチームから直接外国に移籍することも多いし、プルゼニュとスラビアという獲得のライバルになるチームも存在する。資金力では、オーナー企業が本国の中国で問題を抱えているらしいけれどもスラビアに叶わず、現時点のチームの魅力としてはプルゼニュに勝てずで、獲得できないことも予想されてしまうのである。
中途半端に上位に入ってヨーロッパリーグの出場権を獲得するぐらいなら、以前のスラビアのように、一度どん底まで落ちて一から再建するスパルタってのも見てみたい気がするけどね。
何とか深夜更新に復帰。いつまで続くか。
2018年3月7日23時。
2018年03月07日
イフラバの変(三月四日)
チェコのサッカーリーグは、ヨーロッパの多くの国と同様、所謂秋春制で行われているが、秋と春の間の中断期間が二ヶ月以上あり、選手の出入りも激しいために、秋と春とではほとんど別のチームになっていることも少なくない。それでも、秋に好調だったチームが、春になって突然調子を落とすことは多くても、秋に前々駄目だったチームが、突然勝ち始めるということは滅多にない。
その滅多にない例になりつつあるのが、秋のシーズンを16試合で勝ち点僅か10の最下位で終えたイフラバである。中断期間にフォワードのラブシッツ、キーパーのハヌシュという中心になるべき二人の選手を放出していたこともあって、降格候補の筆頭だと目されていた。しかも、春のシーズンの初戦がスラビア、次がプルゼニュという上位チームを相手にする日程になっており、浮上の目はなさそうだった。
それが、二月下旬のリーグ再開初戦で、スラビアに1-0で勝ってしまったのである。このときはビソチナと呼ばれる高原地帯のイフラバでの試合で、試合が延期になるほどではなかったけれども寒さの影響でグラウンドのコンディションがよくなく、特に後半は雪が降り出してスラビアの長所であるパスをつないでのコンビネーションがほとんど機能しなくなっていたから、運がよかったという面もあるようにも見受けられた。これで、春になっても調子の上がらないバニークを抜いて15位に浮上した。
そして、再開二戦目のプルゼニュでの試合でも、同様に前半に上げた得点を守りきって勝利する。こちらは特に気候の影響ということもなく、ヨーロッパリーグで勝ち抜けを決めたチーム相手に堂々の勝利だった。上のチームとの勝ち点の差が大きかったため、勝ち点は16でスロバーツコに並んだものの順位は15位のままだった。
この二試合は、チェコリーグ最強チームが相手ということで、失うものなどないイフラバが開き直った結果であまり参考にはならず、次の三試合目の順位では真ん中ぐらいに位置するテプリツェとの試合こそが、イフラバが残留できるかどうかを判断する基準になるという見かたもあった。上位とはいい試合ができても中堅下位に負け続けて降格した二年前のオロモウツの例もあるし。
テプリツェとの試合は、どちらが順位で上にいるチームかわからないような状態でイフラバが完勝した。三連勝で勝ち点が9、秋の終わりが10だったから、たった三試合で16試合分とほぼ同じ勝ち点を獲得したことになる。順位も12位まで浮上した(日曜日の試合でブルノが引き分けたため、現時点では13位)。この調子が続けば、残留するのは間違いなさそうである。
秋とはまったく違うチームを作り上げることに成功したのは、今シーズン開幕当初はムラダー・ボレスラフで監督をしていて、総監督のウフリン若ともめて解任されたシュベイディーク。去年の春もボレスラフの建て直しに成功したんだったかな。それからフロントが毎年残留争いを繰り返すのに嫌気が差していたのか、これまでの場当たり的なチームの改造をやめ、長期的な強化策をとる方向に舵を切ったのもよかったのだろう。新監督は降格しても解任されないという約束とともに就任し、今のところチームの改築に成功しつつある。
問題は選手が引き抜かれて入れ替わることになりそうな来シーズンどうなるかである。チェコの若手監督は優秀な人でも、自分が一度作りあげたチームが悪循環に陥ったときに立て直しきれないまま解任されることが多いので、春に入って調子が上がらないオロモウツも心配なのだけど、お手並み拝見というところである。
イフラバの覚醒で、いよいよバニーク・オストラバの降格が確実になりつつある。個人的な思い入れはないけれどもチェコ第三の都市のチームが一部リーグにないというのは寂しいものがある。二つ目の降格チームがぶるのになる可能性もなくはないんだけどさ。
2018年3月7日14時。
2018年03月06日
スロバキア政府とイタリア・マフィアの親密な関係(三月三日)
風邪で寝込みつつあった間にスロバキアが結構やばいことになっていた。すでに先週のことになるが、スロバキアの北西部の小さな村で、若手のジャーナリストが婚約者と共に自宅で銃殺されるという事件が起こった。
最初はそれほど大きな騒ぎにはなっていなかったと思うのだが、このジャーナリストが生前取材を続けていた事件についての詳細が明らかになるにつれて、単なる殺人事件ではなく、記事が発表されることによって窮地に追い込まれるグループが雇った殺し屋による殺人事件ではないかと言われるようになっている。
ジャーナリストのヤーン・クツィアク氏が仕事をしていたスロバキアのネット上のメディアによれば、ここ一年半ほど追いかけていたのは、イタリアの南カラブリアに本拠のあるイタリア・マフィアのヌドランゲタと、スロバキア政府の上層部とのつながりらしい。どうも、フィツォ首相周辺の人物がヌドランゲタとつながっていて、さまざまなEUの助成金を詐取するのを支援していたのではないかと言われているのである。
スロバキアも、チェコと同じで政治的に分断が進んでいて、親フィツォと反フィツォの対立が進んでいるのだが、この件でも反フィツォ派が政権の責任を追及して辞任を求めるデモなどを行っている。大統領のキスカ氏も、フィツォ内閣の退陣、もしくは国会を解散しての総選挙の実施を求める発言をして、反フィツォ派に同調した。事件が必要以上に政治化して、解決が困難になりそうな予感もある。
フィツォ首相が、犯人逮捕につながる情報に賞金を出すと言って、記者会見の際に脇に置かれたテーブルの上に札束を積み上げたのも茶番だったけれども、事件の全貌が明らかにならないうちから首相の責任を言い立てて辞任を求めるのも短絡すぎる。穏当な方針で犯人逮捕、および背後関係を明らかにできるような捜査体制を確立してもらいたいところである。
すでにこの件で疑惑の舞台となった東スロバキアに居住するイタリア系のヌドランゲタの関係者と見られる人たちが何人か逮捕されている。これがトカゲの尻尾きりにならないことを願う限りなのだが、スロバキアのヌドランゲタの触手はチェコにまで伸びているようで、逮捕された中心人物の一人がチェコの会社を買収して企業活動を始めようとしていたらしい。これがチェコの政界にも根を生やしつつあるということになれば話はできすぎなのだけど、現時点ではそこまでの情報はない。
ただ、スロバキアでの補助金の詐取、農場の近代化のための補助金を申請して補助金を受領したはずの農場が何の改修も受けておらず、補助金が何に使われたのかもわからない、いやそれ以前に、当の農場関係者が補助金の申請がなされていたことも知らない場合があるというのと同じような事例はすでにチェコでも発生しているらしいし、何らかのつながりがあってもおかしくはないのかもしれない。
今日はこれ以上は無理なので、短いけどお仕舞い。しばしリハビリが続く。
2018年3月6日14時。
2018年03月05日
厳寒と大風邪(三月二日)
今年も暖冬だと思って喜んでいたら、二月の終わりになって急激に気温が下がった。正確な気温は覚えていないが、オロモウツでも久しぶりにマイナス二桁まで行ったようで、体力と気力をすり減らすことになってしまった。
その上、どうも風邪を引いてしまったらしく、頭痛、喉の痛みが止まらない。というのが二月末の状況で、三月に入って記事の更新時間が普段よりも二、三時間早くなっていたのも、早く寝るためだった。風邪は寝て治すものである。なかなか治らないのが問題である。
PCに向かって文章を読むのも一苦労で、考えて書こうとすると吐き気に襲われるという状態だったために、こんなときのために書き溜めておいたストックを放出したのだけど、それも尽きてしまった。ということで、体調が回復するまで、お休みということになるかもしれない。今回のような短文でお茶を濁す可能性もあるけれどもさ。
一応お詫びの意味も込めて報告である。
2018年3月5日11時。
2018年03月04日
森雅裕『平成兜割り』(三月一日)
森雅裕にとって四つ目の出版社となる新潮社から1991年にハードカバーで出版された作品である。純文学系の印象の強い新潮社から森雅裕の本が出ることに驚いた記憶がある。新潮社もノベルズのレーベルを持っていなかっただけで、実際には推理小説に力を入れていなかったわけではないのだけど、講談社や光文社のようなノベルズで推理小説を積極的に刊行していた出版社に比べると地味な印象を与えてしまうところがある。いや、新潮文庫ってSFやファンタジーの分野でも意外な作家の意外な作品を刊行していたりするのだけど、レーベルのカラーとまったく合っていなかったせいか、話題に上がることも少なかったのである。本作は文庫化されなかったけどさ。
森雅裕が新潮社と縁を持つにいたったのは、若手推理作家たちのグループ「雨の会」のアンソロジーを出版したのが新潮社だったからだったろうか。どこかの図書館でこのアンソロジーを発見したのが先だったか、本書の刊行が先だったか覚えていないが、あの森雅裕が同業の作家たちとこんな形で交流を持っていてアンソロジーまで出してしまったという事実に、失礼ながら驚いてしまった。
『平成兜割り』が手元にないため、あやふやな記憶になってしまうのだが、雨の会のアンソロジーに寄せた「虎徹という名の剣」の設定を基に書いたいくつかの短編をまとめたのが本書だっただろうか。そうすると、森雅裕が最初に刀剣について描いた作品は「虎徹という名の剣」ということになるかもしれない。さすがに雨の会のアンソロジーまでは買わなかったし、何年に刊行されたかなんてことも知らない。
たしか横浜の駅近くで骨董屋を営む六鹿(これでムジカと読ませるのもあれなんだけど)という人物が主人公で、店に現れるお客さんから骨董、時に刀剣にまつわる相談を受けてそれを解決するというのが基本的なパターンだった。最初の事件に登場した依頼主の女子大生が、押しかけ助手のような役割に納まって狂言回しを務めるんだったかなあ。短編集とはいえ、久しぶりの推理色の強い作品で結構嬉しかった。一番記憶に残っているのが、東郷平八郎の人形の貯金箱が出てきて、穴あき人形、アナーキー人形なんて言葉遊びの話が出てきたシーンだというのが我が記憶力の衰退振りを反映している。そのやり取りが妙に面白く感じられたのである。
著者がファンであることを公言していた(と思う)80年代の女性アイドル歌手をモデルにして、その恋愛問題を絡めた話もあったなあ。この辺は、ファンとしても評価の分かれる悪癖である。アイドルとかその恋愛話とかには興味のない人間には、示唆だのあてこすりだのがあっても理解できかかったから、あの人のことらしいということしかわからなかったけど。ここでも覚えているのは、件のアイドル歌手についてこき下ろしていた押しかけ助手の女の子が、当のアイドルが店に現れたら和やかに談笑して、主人公の店主をあきれさせるという本筋とはあまり関係ない部分である。アイドル歌手の恋人の男が店主から買い取った刀を登録もせずに自動車に持ち込んでレースレースに出場して警察に捕まるって落ちだったかな。その刀はアイドル歌手の家に伝わる呪いの刀でという裏があったような気もする。
カバー画も装丁も時代小説とも見まがうような地味なもので、表紙の左上に小さくあしらわれたカバー画は著者が手がけたものだったか。新潮社から出版された三冊の中では、装丁だけでなく内容の面でも一番地味で穏当なものだった。前年に中央公論社から出た『100℃クリスマス』の主人公の女剣客が最後の作品に登場したのには、驚かされたけど、それが作品の題名につながるのは出版社としてはどうなのだろう。女剣客に頼まれた兜割り用の刀を探す店主が、行方不明になった剣客の友人を探す手伝いをするんだったか、女剣客も誘拐されたんだったか。だめだなあ20年近くも読んでいないから思い出せなくなっている。
本書は森雅裕の本の中でも、古本屋で手に入れるのが難しい一冊である。新潮社は比較的絶版にするのが早いという話もあるし、ファンが二冊目三冊目を確保する前に絶版裁断になって古本屋に出回るものが少ないのかもしれない。日本の再販制度では本は金券に近い価値を持っているため、在庫が資産として課税の対象になるのが問題なのである。
それはともかく、もう一度手に入れて読み直したいのだけど、チェコから古本を手に入れるのは無理だろう。かといって復刊ドットコムで復刊の要望がそんなに集まるとも思えない。森雅裕の名を高めた乱歩賞受賞作の『モーツァルトは子守唄を歌わない』を刊行当時に読んだ最初期のファンのうち、どのぐらいの人がこの『平成兜割り』まで読み続けたのだろうか。
中断期間のある人間は、最初期のファンとは言えないよなあ。森雅裕のファンだと自認するに至ったのは『歩くと星がこわれる』を読んで以来のことだし、パソコン通信の時代に存在したらしい鮎村尋深親衛隊という名のファンクラブにも、ちょしゃがしばしば出現していたらしいどこぞの大学の推理研究会の掲示板にも関係したことはないしさ。
それでも、森雅裕の作品にこだわってしまうのは、他の作家にはない言葉にするのが難しい魅力を感じ続けていたからである。そんな魅力的な作品が売れず出版されなくなってしまった現実には文句を付けたくもなるけれども、一介の読者にはいかんともしがたいのである。
2018年3月2日21時。
2018年03月03日
寛和元年冬の実資(二月廿八日)
花山天皇は前年の八月に即位したために、即位年には大嘗祭が行われておらず、翌年の寛和元年に大嘗祭が行われる。大嘗祭が行われて、これからというところで、次の寛和二年には退位してしまうのである。この年の冬は、十月、十一月の記事が大嘗祭関係を中心に残されている。
十月は月半ばの十五日であるが、大嘗祭のための禊が行なわれる場所が決められている。
実際の禊は廿五日に行われ、左大臣源雅信が、かなり無茶なことをしている。この時期、花山天皇に近いと見られていた義懐、惟成に加えて、為光と源雅信が天皇との関係を深め、混乱を引き起こしている印象がある。
最初は、禊に際して重要な役で、左大臣が務めることの多い節下の大臣の役について、体調が悪くて馬に乗れないと辞退するようなことをいい、雅信の準備した物を使って右大臣の藤原兼家が内裏を務めることになる。馬に乗れないのならおとなしく療養していればいいのに、馬に乗れないのは節下の大臣の役としてのことであって、ただ禊の行われる場に候ずるだけであれば馬でいけるからどうしましょうかと天皇にお伺いを立てたら、天皇からは同行するように命じられている。実資が「頗る奇しむべき事なり」と書いているのにはまったく同感である。
そのあと、内裏を出て鴨川のかわらに向かうのだが、儀式の詳細は省く。ただ、実資の言葉によれば、節下の大臣の役を辞して、兼家に任せたはずの雅信が、節下の大臣がするべきことを行っていたようである。この日の記事で節下の大臣の役を務めたはずの兼家はまったく目立っていない。関白の頼忠といい、右大臣の兼家といい、天皇の言動に振り回されるのに嫌気が差して、翌年の陰謀と呼ばれる出来事で天皇を退位させるにいたるのかもしれない。
末尾に、参列した人々の名前だけでなく、衣服や馬の飾りの有様も記しているのは、後世への覚書なのか、衣服が華美に過ぎることへの戒めなのか。特に批判めいたことは書かれていなかったと思うが、禁色の一つで天皇の許可がなければ着用できなかったとされる麹塵を着用していた人が多いという記述が少し気になる。
十一月も月半ばの十五日から。この日は、天皇の即位を知らせる使者を、全国の主要神社に派遣している。使者となったのは蔵人所の下級官人たち。その際普通の幣帛だけではなく、神宝も奉ることになる。皇室にとって重要な宇佐神宮には前周防守藤原中清、畿内の重要な神社には侍臣が使いを務めている。
廿一日は叙位の手続きの一つである位記のことが記されるが、この日の記事で重要なのはなんと言っても、大嘗祭である。あれやらこれやら前例に合わないことがあって、実資は怒っているのだが、すべては「又た是れ惟成等の行ふ所なり」ということで、花山天皇の近臣たちに対する実資ら実務派の官人の苛立ちが高まっていることが見て取れる。
廿二日は大嘗祭の二日目。この日は左大臣の源雅信が、異例なことをして「是れ失誤なり」実資に批判されている。特に批判はされていないが、途中で病気だと言い立てて内弁の役を大納言の為光に譲っているのはどうなのだろうか。雅信と為光の結びつきは思いのほか強いようである。
廿三日は三日目である。この日は内弁の左大臣源雅信が参上しなかったため、最初から為光が内弁として行事を仕切ったのだが、本来前日と同じ形で進むべき行事が、前日とは違う進行になっており実資は疑義を呈している。前日の左大臣の間違いについては為光が、天皇に事情を説明してどうすればいいか相談しているが、誰かの入れ知恵があったかとも思われる。
廿四日は、昨日終了した大嘗祭の後片付けである。片づけにも手順が決められていて「式の如し」というのが平安時代である。この日まで大嘗祭の一部と考えたほうがいいのか。参議になったばかりの藤原義懐にまた加階が行われるというのだが、大嘗祭に小忌の人として奉仕したのが理由になっているのだろうか。同じく小忌の人として奉仕した藤原佐理にはそんな話が出ていないように読める辺り、花山天皇が恣意的に昇進させていると実資が感じていることをうかがわせる。
それにしても、悠紀殿、主基殿などというと、平成初年の今上陛下の大嘗祭が行なわれた後に、一般公開されたのを思い出す。皇居の一部に設置された大嘗宮を見学に出かけて、木造の殿社が切り倒した木をそのまま使ったような荒々しい様子だったのを覚えているのだけど、記憶違いだろうか。建物の細かいところは覚えていないけれども、材木が皮もはがれないままに使われていたのは覚えている。
2018年3月1日20時。
2018年03月02日
寛和元年秋の実資(二月廿七日)
この年の七月からは、所謂略本系統の写本しか残っていないようで、大日本古記録に収録されている『小右記』も毎日の記事はなくなり、飛び飛びになってしまう。七月の記事は、半ば過ぎの十七日から始まる。
『大日本史料』の寛和元年七月の部分を確認すると、七月六日に大極殿で雨乞いのための読経が行われ、十日には牢屋に囚われていた囚人のうち軽犯の者に恩赦を与えている。これも日照り対策であるという。そして十三日には、十六の神社に対して雨乞いのための奉幣使が発見されているが、それが十七日の記事につながる。
十七日には、大和の国にある広瀬社と龍田社に向かった奉幣使が途中の山城の国で、強盗に襲われて幣帛を奪われたという話が伝わっている。使者たちが内裏に帰参し、その報告をすると検非違使が派遣されているが犯人は捕まらないだろうなあ。
十八日は、穢れの恐れがあって、毎月恒例の清水寺参拝を中止している。
この日は、お昼ごろに花山天皇寵愛の弘徽殿の女御が亡くなったという知らせが入っている。大納言藤原為光の娘忯子は、妊娠して七ヶ月目に入っていたという。六月三日に亡くなった為光の妻の四十九日が空けるのが、今月廿二日だというのに今回は娘である。世間の人が恐れているという。
また、紀伊国にある丹生社に派遣された奉幣の使いも途中の和泉国で襲撃を受けて同行した従者たちが怪我をさせられたようである。この件に関しても検非違使が派遣されている。ちなみに被害者の丹生社への使いを務めたのは、紫式部の夫として知られる左衛門尉藤原宣孝。
二日とんで次は廿一日。珍しく右大臣藤原兼家の元に出向く。これは藤原氏の氏神である春日大社のことについて相談するためだったようだ。その後報告のためか、頼忠のところによって参内。
春日大社の件というのは、造春日社使の藤原忠廉が、社殿の建造のための費用を大和国司に奪われてしまったという事件で、検非違使を遣わしているが、その後音沙汰がないという。藤原氏の氏神の社の造営を国司にやらせるというのも、懲罰の意味はあるにしても本末転倒である。ということでしばしば実資も頼忠も奏上してきたのだが、天皇は決定を下してくれない。藤原氏以外の人に氏神の造営をさせるのはよくない。藤原忠廉が造営を担当するということは、円融天皇の時代に右大臣藤原兼家が担当して宣旨が出されたもののなので、兼家のところに事情を説明して相談するために出向いたようだが、兼家は、このところ病気でとか、喪に服さなければいけないからとかあれこれ言い訳をして、他の公卿に担当させるように奏上しろと言う。
そのことを天皇に奏上したら、藤原氏の公卿のほとんどは服喪のために休暇を取っていて、右大将藤原済時だけが休暇をとっていないから、済時を呼び出して宣旨を下させろという答えが返ってきた。それなのに左大臣源雅信が参入して宣旨を右中弁の藤原懐忠に下してしまった。事情を確認するとどうも花山天皇の側近である藤原惟成がやらかしたようである。天皇から出る宣旨とはいえ、藤原氏の氏神に関するものを源氏である左大臣が担当して宣旨を下すのは、奇怪なことである。
八月は、月末の二日分しか記事がない。どちらも円融上皇の病気にかかわる記事である。
廿七日は、早朝寅の刻に上皇のところに参入。丑の刻ぐらいから発病したらしい。普通の病気とは様子が違ったようで、上皇自らが「元方卿の霊」と語ったらしい。上皇の口から出た言葉の中には天皇の耳に入れておくべきことがあり実資は折を見て奏上のために参内している。夜に入って上皇は西の対に居を移しているが、あれこれ書けないことがあったという。病状は昼前にはよくなったようだったのが、酉の刻ぐらいからまた悪化している。
ここに上がった元方卿というのは、藤原南家出身の大納言で、娘を村上天皇の後宮に更衣として入れ、天皇にとって最初の皇子の誕生を見ているが、立太子されなかったためにそれを怨んで死後怨霊になったというのだが、元方本人の地位が大納言で大臣に進んでいないこと、娘が更衣で女御でないことを考えると、第一皇子とはいえ、他に皇子が生まれなかったのならともかく、立太子するにはかなり無理があったんじゃなかろうか。皇位についたものの短期間で譲位に追い込まれた冷泉天皇、三条天皇の病気の原因が元方のたたりだといわれることが多いようである。花山天皇も入れていいかもしれない。
一日置いて廿九日には、右大臣藤原兼家、左近衛大将藤原朝光が上皇のもとに参入し、上皇は出家を遂げている。突然のことで実資も前例があるのかどうか確認することもできなかった。参内して天皇にそのことを奏上すると、病気のことを聞いて嘆いていたら今度は出家という話で云々という返事が返ってきている。実資が上皇の許に帰参すると、すでに出家のための儀式は終わっていて見ることはできなかったようだ。上皇にとっても出家は突然のことだったのか、戒を授けた僧侶に対する褒美も準備できておらず、衣服を与えただけだったようである。
九月はまず八日の記事から。上皇の許に参入するといつものように病気に悩まされており、僧侶達に調伏をさせている。深夜になって退出するが、実資は上皇に対して石榴を献上している。この果物は十世紀前半に日本に到来したらしい。上皇は託宣を受けて、北野の天神様に奉幣させている。使者になったのは藤原為雅と僧侶の穆算。
この日、内裏では秩父の官牧から献上されてきた馬を天皇が見る駒引の儀式が行なわれているが、馬を迎えたのは「四位少将」。誰だろう。左少将藤原実方、道綱、右少将藤原信輔、源惟賢が候補である。詳しく調べればわかるのかもしれないが、そこまでの余力はない。
十四日は、頼忠のところを経て参内。臨時の除目が行われ、夜に入って参内した左大臣源雅信が差配したようである。但しその内容は異論を挟まざるを得ないものだったようで、まず実資と同年の藤原義懐が参議に昇進しているが、欠員がないのに任命するのは異常だと避難している。参議の定員が一般に言われるように八人であるのなら、義懐任命で八人になっているので問題はない。実資が問題にしているのは公卿全体の定員で、本来は十六人なのに、これで十九人になってしまったというのである。公卿の数はこの語も増え続け、二十人を越えることも珍しくなくなる。地方官の任官もおかしいところが多く、京官でも任官が昇進ではなくて左遷に見えるようなものが多かったという。この花山天皇の政治に不満を抱いていたのは実資だけではなさそうだ。
円融上皇のところでは、また恐らくは病調伏のための修法が行なわれている。
2018年2月28日23時。