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2018年03月03日

寛和元年冬の実資(二月廿八日)



 花山天皇は前年の八月に即位したために、即位年には大嘗祭が行われておらず、翌年の寛和元年に大嘗祭が行われる。大嘗祭が行われて、これからというところで、次の寛和二年には退位してしまうのである。この年の冬は、十月、十一月の記事が大嘗祭関係を中心に残されている。


 十月は月半ばの十五日であるが、大嘗祭のための禊が行なわれる場所が決められている。
 実際の禊は廿五日に行われ、左大臣源雅信が、かなり無茶なことをしている。この時期、花山天皇に近いと見られていた義懐、惟成に加えて、為光と源雅信が天皇との関係を深め、混乱を引き起こしている印象がある。
 最初は、禊に際して重要な役で、左大臣が務めることの多い節下の大臣の役について、体調が悪くて馬に乗れないと辞退するようなことをいい、雅信の準備した物を使って右大臣の藤原兼家が内裏を務めることになる。馬に乗れないのならおとなしく療養していればいいのに、馬に乗れないのは節下の大臣の役としてのことであって、ただ禊の行われる場に候ずるだけであれば馬でいけるからどうしましょうかと天皇にお伺いを立てたら、天皇からは同行するように命じられている。実資が「頗る奇しむべき事なり」と書いているのにはまったく同感である。
 そのあと、内裏を出て鴨川のかわらに向かうのだが、儀式の詳細は省く。ただ、実資の言葉によれば、節下の大臣の役を辞して、兼家に任せたはずの雅信が、節下の大臣がするべきことを行っていたようである。この日の記事で節下の大臣の役を務めたはずの兼家はまったく目立っていない。関白の頼忠といい、右大臣の兼家といい、天皇の言動に振り回されるのに嫌気が差して、翌年の陰謀と呼ばれる出来事で天皇を退位させるにいたるのかもしれない。
 末尾に、参列した人々の名前だけでなく、衣服や馬の飾りの有様も記しているのは、後世への覚書なのか、衣服が華美に過ぎることへの戒めなのか。特に批判めいたことは書かれていなかったと思うが、禁色の一つで天皇の許可がなければ着用できなかったとされる麹塵を着用していた人が多いという記述が少し気になる。


 十一月も月半ばの十五日から。この日は、天皇の即位を知らせる使者を、全国の主要神社に派遣している。使者となったのは蔵人所の下級官人たち。その際普通の幣帛だけではなく、神宝も奉ることになる。皇室にとって重要な宇佐神宮には前周防守藤原中清、畿内の重要な神社には侍臣が使いを務めている。

 廿一日は叙位の手続きの一つである位記のことが記されるが、この日の記事で重要なのはなんと言っても、大嘗祭である。あれやらこれやら前例に合わないことがあって、実資は怒っているのだが、すべては「又た是れ惟成等の行ふ所なり」ということで、花山天皇の近臣たちに対する実資ら実務派の官人の苛立ちが高まっていることが見て取れる。

 廿二日は大嘗祭の二日目。この日は左大臣の源雅信が、異例なことをして「是れ失誤なり」実資に批判されている。特に批判はされていないが、途中で病気だと言い立てて内弁の役を大納言の為光に譲っているのはどうなのだろうか。雅信と為光の結びつきは思いのほか強いようである。

 廿三日は三日目である。この日は内弁の左大臣源雅信が参上しなかったため、最初から為光が内弁として行事を仕切ったのだが、本来前日と同じ形で進むべき行事が、前日とは違う進行になっており実資は疑義を呈している。前日の左大臣の間違いについては為光が、天皇に事情を説明してどうすればいいか相談しているが、誰かの入れ知恵があったかとも思われる。

 廿四日は、昨日終了した大嘗祭の後片付けである。片づけにも手順が決められていて「式の如し」というのが平安時代である。この日まで大嘗祭の一部と考えたほうがいいのか。参議になったばかりの藤原義懐にまた加階が行われるというのだが、大嘗祭に小忌の人として奉仕したのが理由になっているのだろうか。同じく小忌の人として奉仕した藤原佐理にはそんな話が出ていないように読める辺り、花山天皇が恣意的に昇進させていると実資が感じていることをうかがわせる。
 それにしても、悠紀殿、主基殿などというと、平成初年の今上陛下の大嘗祭が行なわれた後に、一般公開されたのを思い出す。皇居の一部に設置された大嘗宮を見学に出かけて、木造の殿社が切り倒した木をそのまま使ったような荒々しい様子だったのを覚えているのだけど、記憶違いだろうか。建物の細かいところは覚えていないけれども、材木が皮もはがれないままに使われていたのは覚えている。
2018年3月1日20時。







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