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2018年03月02日
寛和元年秋の実資(二月廿七日)
この年の七月からは、所謂略本系統の写本しか残っていないようで、大日本古記録に収録されている『小右記』も毎日の記事はなくなり、飛び飛びになってしまう。七月の記事は、半ば過ぎの十七日から始まる。
『大日本史料』の寛和元年七月の部分を確認すると、七月六日に大極殿で雨乞いのための読経が行われ、十日には牢屋に囚われていた囚人のうち軽犯の者に恩赦を与えている。これも日照り対策であるという。そして十三日には、十六の神社に対して雨乞いのための奉幣使が発見されているが、それが十七日の記事につながる。
十七日には、大和の国にある広瀬社と龍田社に向かった奉幣使が途中の山城の国で、強盗に襲われて幣帛を奪われたという話が伝わっている。使者たちが内裏に帰参し、その報告をすると検非違使が派遣されているが犯人は捕まらないだろうなあ。
十八日は、穢れの恐れがあって、毎月恒例の清水寺参拝を中止している。
この日は、お昼ごろに花山天皇寵愛の弘徽殿の女御が亡くなったという知らせが入っている。大納言藤原為光の娘忯子は、妊娠して七ヶ月目に入っていたという。六月三日に亡くなった為光の妻の四十九日が空けるのが、今月廿二日だというのに今回は娘である。世間の人が恐れているという。
また、紀伊国にある丹生社に派遣された奉幣の使いも途中の和泉国で襲撃を受けて同行した従者たちが怪我をさせられたようである。この件に関しても検非違使が派遣されている。ちなみに被害者の丹生社への使いを務めたのは、紫式部の夫として知られる左衛門尉藤原宣孝。
二日とんで次は廿一日。珍しく右大臣藤原兼家の元に出向く。これは藤原氏の氏神である春日大社のことについて相談するためだったようだ。その後報告のためか、頼忠のところによって参内。
春日大社の件というのは、造春日社使の藤原忠廉が、社殿の建造のための費用を大和国司に奪われてしまったという事件で、検非違使を遣わしているが、その後音沙汰がないという。藤原氏の氏神の社の造営を国司にやらせるというのも、懲罰の意味はあるにしても本末転倒である。ということでしばしば実資も頼忠も奏上してきたのだが、天皇は決定を下してくれない。藤原氏以外の人に氏神の造営をさせるのはよくない。藤原忠廉が造営を担当するということは、円融天皇の時代に右大臣藤原兼家が担当して宣旨が出されたもののなので、兼家のところに事情を説明して相談するために出向いたようだが、兼家は、このところ病気でとか、喪に服さなければいけないからとかあれこれ言い訳をして、他の公卿に担当させるように奏上しろと言う。
そのことを天皇に奏上したら、藤原氏の公卿のほとんどは服喪のために休暇を取っていて、右大将藤原済時だけが休暇をとっていないから、済時を呼び出して宣旨を下させろという答えが返ってきた。それなのに左大臣源雅信が参入して宣旨を右中弁の藤原懐忠に下してしまった。事情を確認するとどうも花山天皇の側近である藤原惟成がやらかしたようである。天皇から出る宣旨とはいえ、藤原氏の氏神に関するものを源氏である左大臣が担当して宣旨を下すのは、奇怪なことである。
八月は、月末の二日分しか記事がない。どちらも円融上皇の病気にかかわる記事である。
廿七日は、早朝寅の刻に上皇のところに参入。丑の刻ぐらいから発病したらしい。普通の病気とは様子が違ったようで、上皇自らが「元方卿の霊」と語ったらしい。上皇の口から出た言葉の中には天皇の耳に入れておくべきことがあり実資は折を見て奏上のために参内している。夜に入って上皇は西の対に居を移しているが、あれこれ書けないことがあったという。病状は昼前にはよくなったようだったのが、酉の刻ぐらいからまた悪化している。
ここに上がった元方卿というのは、藤原南家出身の大納言で、娘を村上天皇の後宮に更衣として入れ、天皇にとって最初の皇子の誕生を見ているが、立太子されなかったためにそれを怨んで死後怨霊になったというのだが、元方本人の地位が大納言で大臣に進んでいないこと、娘が更衣で女御でないことを考えると、第一皇子とはいえ、他に皇子が生まれなかったのならともかく、立太子するにはかなり無理があったんじゃなかろうか。皇位についたものの短期間で譲位に追い込まれた冷泉天皇、三条天皇の病気の原因が元方のたたりだといわれることが多いようである。花山天皇も入れていいかもしれない。
一日置いて廿九日には、右大臣藤原兼家、左近衛大将藤原朝光が上皇のもとに参入し、上皇は出家を遂げている。突然のことで実資も前例があるのかどうか確認することもできなかった。参内して天皇にそのことを奏上すると、病気のことを聞いて嘆いていたら今度は出家という話で云々という返事が返ってきている。実資が上皇の許に帰参すると、すでに出家のための儀式は終わっていて見ることはできなかったようだ。上皇にとっても出家は突然のことだったのか、戒を授けた僧侶に対する褒美も準備できておらず、衣服を与えただけだったようである。
九月はまず八日の記事から。上皇の許に参入するといつものように病気に悩まされており、僧侶達に調伏をさせている。深夜になって退出するが、実資は上皇に対して石榴を献上している。この果物は十世紀前半に日本に到来したらしい。上皇は託宣を受けて、北野の天神様に奉幣させている。使者になったのは藤原為雅と僧侶の穆算。
この日、内裏では秩父の官牧から献上されてきた馬を天皇が見る駒引の儀式が行なわれているが、馬を迎えたのは「四位少将」。誰だろう。左少将藤原実方、道綱、右少将藤原信輔、源惟賢が候補である。詳しく調べればわかるのかもしれないが、そこまでの余力はない。
十四日は、頼忠のところを経て参内。臨時の除目が行われ、夜に入って参内した左大臣源雅信が差配したようである。但しその内容は異論を挟まざるを得ないものだったようで、まず実資と同年の藤原義懐が参議に昇進しているが、欠員がないのに任命するのは異常だと避難している。参議の定員が一般に言われるように八人であるのなら、義懐任命で八人になっているので問題はない。実資が問題にしているのは公卿全体の定員で、本来は十六人なのに、これで十九人になってしまったというのである。公卿の数はこの語も増え続け、二十人を越えることも珍しくなくなる。地方官の任官もおかしいところが多く、京官でも任官が昇進ではなくて左遷に見えるようなものが多かったという。この花山天皇の政治に不満を抱いていたのは実資だけではなさそうだ。
円融上皇のところでは、また恐らくは病調伏のための修法が行なわれている。
2018年2月28日23時。