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2018年03月04日
森雅裕『平成兜割り』(三月一日)
森雅裕にとって四つ目の出版社となる新潮社から1991年にハードカバーで出版された作品である。純文学系の印象の強い新潮社から森雅裕の本が出ることに驚いた記憶がある。新潮社もノベルズのレーベルを持っていなかっただけで、実際には推理小説に力を入れていなかったわけではないのだけど、講談社や光文社のようなノベルズで推理小説を積極的に刊行していた出版社に比べると地味な印象を与えてしまうところがある。いや、新潮文庫ってSFやファンタジーの分野でも意外な作家の意外な作品を刊行していたりするのだけど、レーベルのカラーとまったく合っていなかったせいか、話題に上がることも少なかったのである。本作は文庫化されなかったけどさ。
森雅裕が新潮社と縁を持つにいたったのは、若手推理作家たちのグループ「雨の会」のアンソロジーを出版したのが新潮社だったからだったろうか。どこかの図書館でこのアンソロジーを発見したのが先だったか、本書の刊行が先だったか覚えていないが、あの森雅裕が同業の作家たちとこんな形で交流を持っていてアンソロジーまで出してしまったという事実に、失礼ながら驚いてしまった。
『平成兜割り』が手元にないため、あやふやな記憶になってしまうのだが、雨の会のアンソロジーに寄せた「虎徹という名の剣」の設定を基に書いたいくつかの短編をまとめたのが本書だっただろうか。そうすると、森雅裕が最初に刀剣について描いた作品は「虎徹という名の剣」ということになるかもしれない。さすがに雨の会のアンソロジーまでは買わなかったし、何年に刊行されたかなんてことも知らない。
たしか横浜の駅近くで骨董屋を営む六鹿(これでムジカと読ませるのもあれなんだけど)という人物が主人公で、店に現れるお客さんから骨董、時に刀剣にまつわる相談を受けてそれを解決するというのが基本的なパターンだった。最初の事件に登場した依頼主の女子大生が、押しかけ助手のような役割に納まって狂言回しを務めるんだったかなあ。短編集とはいえ、久しぶりの推理色の強い作品で結構嬉しかった。一番記憶に残っているのが、東郷平八郎の人形の貯金箱が出てきて、穴あき人形、アナーキー人形なんて言葉遊びの話が出てきたシーンだというのが我が記憶力の衰退振りを反映している。そのやり取りが妙に面白く感じられたのである。
著者がファンであることを公言していた(と思う)80年代の女性アイドル歌手をモデルにして、その恋愛問題を絡めた話もあったなあ。この辺は、ファンとしても評価の分かれる悪癖である。アイドルとかその恋愛話とかには興味のない人間には、示唆だのあてこすりだのがあっても理解できかかったから、あの人のことらしいということしかわからなかったけど。ここでも覚えているのは、件のアイドル歌手についてこき下ろしていた押しかけ助手の女の子が、当のアイドルが店に現れたら和やかに談笑して、主人公の店主をあきれさせるという本筋とはあまり関係ない部分である。アイドル歌手の恋人の男が店主から買い取った刀を登録もせずに自動車に持ち込んでレースレースに出場して警察に捕まるって落ちだったかな。その刀はアイドル歌手の家に伝わる呪いの刀でという裏があったような気もする。
カバー画も装丁も時代小説とも見まがうような地味なもので、表紙の左上に小さくあしらわれたカバー画は著者が手がけたものだったか。新潮社から出版された三冊の中では、装丁だけでなく内容の面でも一番地味で穏当なものだった。前年に中央公論社から出た『100℃クリスマス』の主人公の女剣客が最後の作品に登場したのには、驚かされたけど、それが作品の題名につながるのは出版社としてはどうなのだろう。女剣客に頼まれた兜割り用の刀を探す店主が、行方不明になった剣客の友人を探す手伝いをするんだったか、女剣客も誘拐されたんだったか。だめだなあ20年近くも読んでいないから思い出せなくなっている。
本書は森雅裕の本の中でも、古本屋で手に入れるのが難しい一冊である。新潮社は比較的絶版にするのが早いという話もあるし、ファンが二冊目三冊目を確保する前に絶版裁断になって古本屋に出回るものが少ないのかもしれない。日本の再販制度では本は金券に近い価値を持っているため、在庫が資産として課税の対象になるのが問題なのである。
それはともかく、もう一度手に入れて読み直したいのだけど、チェコから古本を手に入れるのは無理だろう。かといって復刊ドットコムで復刊の要望がそんなに集まるとも思えない。森雅裕の名を高めた乱歩賞受賞作の『モーツァルトは子守唄を歌わない』を刊行当時に読んだ最初期のファンのうち、どのぐらいの人がこの『平成兜割り』まで読み続けたのだろうか。
中断期間のある人間は、最初期のファンとは言えないよなあ。森雅裕のファンだと自認するに至ったのは『歩くと星がこわれる』を読んで以来のことだし、パソコン通信の時代に存在したらしい鮎村尋深親衛隊という名のファンクラブにも、ちょしゃがしばしば出現していたらしいどこぞの大学の推理研究会の掲示板にも関係したことはないしさ。
それでも、森雅裕の作品にこだわってしまうのは、他の作家にはない言葉にするのが難しい魅力を感じ続けていたからである。そんな魅力的な作品が売れず出版されなくなってしまった現実には文句を付けたくもなるけれども、一介の読者にはいかんともしがたいのである。
2018年3月2日21時。