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2017年10月06日

H先生の叙勲を寿ぐ(十月三日)



 コメンスキー研究者のS先生のブログをチェックしたらこんな記事があった。
http://japanknowledge.com/camp/mgm/?km=1104867
http://oh39somuch.jugem.jp/?eid=1639
(※情けないことにコピーするアドレスを間違えてしまった。こちらが正しい)
このブログにも何度か登場しているチェコのH先生が、ドイツ政府から勲章を授与されたのである。ちょっとだけドイツを見直す気になった。S先生のブログでは、ご本人もH先生も実名で登場するけれども、このブログでは直接の知り合いについて書く場合には、匿名の原則を貫くことにする。
 夏にお目にかかったときに、ドイツ大使館から連絡があって、大統領の決定で勲章がもらえることになったという連絡があったという話はうかがっていた。あのときは、日程とその式典に誰を呼ぶかの調整を大使館としているところなんだけど、仰々しいのは苦手だからどうするか悩んでいるんだなんてことをこぼされていた。
 写真を見る限りでは、たくさんの招待客を交えての式にはならなかったようなので、先生もほっと一息というところなのだろうか。夏にお目にかかったときよりもお元気そうなのが嬉しい。共産主義の時代に迫害を乗り越えてコメンスキーの研究を続け、民主化後の民族主義的に流れがちだった社会の中でチェコスロバキア側の戦争犯罪を暴く研究を続けてこられたH先生のような方には、いつまでも長生きして研究を続けてほしいものである。

 先生のすごいところの一つは、自らは共産主義体制に反対することを選んでおきながら、体制の中に入ることで研究の継続を許された研究者のことを一方的に批判しない点である。共産主義のイデオロギーに基づいてコメンスキー研究をゆがめたと批判されることのある研究者について、あの人がいたからこそ、曲がりなりにもチェコスロバキアでコメンスキーの研究が続いたのだと仰るのを聞いたことがある。体制派、反体制派という立場の違いを越えて、お互いのことを評価し合っていたということだろうか。自然と役割分担ができてたということなのかもしれない。
 それから、2000年代に入って、コメンスキーの著作がほとんど読まれなくなっていることに、特に若い世代がコメンスキーの著作を読まなくなっていることに業を煮やして、コメンスキーの作品の現代語訳を企画し出版したことがあるらしい。このときも多くのコメンスキー研究者からありえないと批判を浴びたらしいけれども、現在では英断だったと評価されることが多いらしい。とにかく、自分が正しいと思われたことは、周囲の評価などは気にかけずに実行に移せるだけの強さを持った方なのだ。人生の師として、少しでも近付ければと思う。そんな先生と年に何度かとはいえ、親しくお話しする機会を頂けるというのは、光栄なことである。

 しかし、今回先生が勲章をもらうことになったのは、コメンスキーの研究ではなく、以前も紹介した(詳しくはここ)プシェロフ市の近郊の丘の上で起こったドイツ人虐殺事件の研究とその成果の出版に対してである。ドイツのバイツゼッカー大統領の名言、「過去に盲目なものは未来に対しても盲目になる」というのを体現なさっているのがH先生なのである。チェコ人としてこんな事件が起こったことを悲しく思うけれども、その過去の悪に目を背けることは、歴史学の徒としてはできないことだというのが先生がこの研究に手を染められた理由だと以前伺った。

 プシェロフでの事件に関して、一つだけプシェロフの人々を弁護しておけば、この事件を引き起こしたのは、プシェロフとは何の関係もない軍隊だったという点である。
 たとえば、この時期のドイツ人虐殺事件の中でも、最も残酷なものの一つに北ボヘミアのウースティー・ナド・ラベムで起こったものがある。これはドイツ系の住民がラベ(エルベ)川に架かる橋の上に追い立てられ川に落とされ、おぼれないように泳ごうとしているところに、銃撃を受けたという事件で、溺死した人、銃撃を受けて死んだ人、合わせて百人を超える犠牲者を出したという。ドイツ側は3000人近い数字を出してくることもあるようだが、被害者側の数字がいつの間にか水増しされて増えていくのは、アジアもヨーロッパも大差ないらしい。
 ウースティーでドイツ人虐殺の中心となったのは、革命防衛隊とでも訳せる民兵組織で、実際には地元の解体されたチェコスロバキア軍の元軍人、警官などが中心になって組織されたものだったようだ。つまり、この虐殺を主導したのは、ある意味で殺されたドイツ人達の隣人たちだったのである。同じように大戦中のドイツ人達の行為に対する復讐として地元の人々が引き起こした虐殺事件は、各地で大小あれこれ起こったようである。

 それに対して、プシェロフの事件の主犯は、ソ連軍による「解放」に伴って再建されたチェコスロバキア軍の一部隊である。ブラチスラバ郊外のペトルジャルカ地区に本拠地があった部隊がソ連軍の解放部隊とともにモラビア中部のプシェロフにまで進出してきて、事件を引き起こしたということのようだ。
 そもそもチェコスロバキアに派遣されたソ連軍というのが、軍隊というよりはごろつきの集まりと言った方がいいような集団で、各地で解放と称して略奪などの蛮行を繰り返していたらしい。それが、戦後すぐの選挙で、共産党独裁のソ連軍による国家の解放という実績を元に過半数を狙っていた共産党が第一党になったとはいえ単独過半数を獲得できなかった理由のひとつだったという話を聞いたことがある。実際にソ連軍に接した人たちは、共産党の支持に回れなかったというのだ。
 その是非はともかくとして、ソ連軍の影響下にあったチェコスロバキア軍が、同じレベルでならず者の集団で蛮行を恥ともしない連中であったとしても何の不思議もない。そんな連中の残虐な行為を白日の下にさらすことは、チェコの歴史にとっても重要なことである。多分そう考えたから先生は、周囲の反対にもめげずに、実証的に調査を重ねてその成果を刊行したのだろう。やはり、それが研究者としてあるべき姿であり、我が人生の目標とすべき方なのだ。足元にもたどり着けないだろうけど。

 そんな、先生の姿勢が、勲章と言う形で認められたことは喜ばしいことで、自称不肖の弟子として、お祝いのメールを送ってしまった。来年の二月に再びお目にかかって、この件についてお話しするのを楽しみにしつつ、今日の分(一昨日が正しい)については筆を擱く。
2017年10月5日23時。



 H先生が出てくるからカテゴリーはコメンスキーだな。うん。10月5日追記。



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