2016年09月28日
チェコ史の闇(九月廿五日)
H先生に
そういうことがあったというのは知っていた。ただチェコの歴史でもタブー扱いされているのか、あまり詳しく語られることはなかったし、具体的にどこでどんな事件が起こったのかについては、ほとんど情報はなかった。数年前の、たしかイフラバの近くの村の外れで遺骨が発見されたというニュースと、これも数年前に公開された映画「ハブルマン氏の製粉所」は、この件に関しては例外的な存在である。
第二次世界大戦における虐殺というと、チェコではリディツェの焼き討ちや、ユダヤ人やロマ人のの強制収容所が有名で、こちらについては毎年慰霊祭の様子がニュースで放送されるなど情報には事欠かない。しかし、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の終結後にチェコ人がドイツ人、ドイツ系の住民に対してやったことはあまり語られることはない。その点では終戦直後のドイツで、毒入りのパンをドイツ人たちに配布しようとしたユダヤ人のグループと同じである。
第二次世界大戦までのチェコの領域内には、かなりの数のドイツ人、ドイツ系の住民が生活していた。特にズデーテン地方と呼ばれる国境地帯や、都市部ではドイツ人の割合が高かった。ハプスブルク家の統治下、第一共和国の時代を通じて、チェコ人とドイツ人の間には軋轢や差別はあったものの、それが他民族の虐殺やいわゆる民族浄化につながることはなかったらしい。
状況が変わり始めたのは、ナチスの台頭以降で、ドイツ人たちがナチスの威光を背景にチェコスロバキア政府に敵対的な行動を取るようになり、チェコ人とドイツ人の間の民族的な対立が激化する。ミュンヘン協定、ナチスドイツのチェコ侵攻と保護領化などを経て、第二次世界大戦中はドイツ人が支配民族としてチェコ人を支配、場合によってはしいたげるという状況になる。ユダヤ人、ロマ人の殲滅が終わったら次はスラブ人を絶滅させようとしていたなんて話もあるぐらいである。もちろん、少数ではあるが、チェコ人の中には、ドイツ人に擦り寄って自分だけ優遇されようとした人もいたし、ドイツ人であってもチェコ人たちとの友好関係を崩さないように努力した人もいたらしい。
第二次世界大戦が終結し、ドイツの敗北が決定すると、チェコ人たちの報復が始まる。一般にはこの報復は、ベネシュの大統領令によってドイツ系の住民が資産を奪われ着の身着のまま国外に追放されたこととして説明される。しかし、一部ではチェコ人の住民や、ソ連軍と共に祖国解放のために進出してきた軍隊が暴発することもあったらしい。
住民が暴走したのが、イフラバの近くの村で発見された遺骨の事件と、「ハブルマン氏の製粉所」に描き出された事件である。ハブルマン氏は第二次世界大戦中多くのチェコに住むドイツ人が我が世の春を謳歌しチェコ人に対して横暴に振舞う中、チェコ人に対する差別をせず、村人があらぬ嫌疑を掛けられたときにはかばうこともあった公正な人だったらしい。しかし、ドイツの敗戦後、ドイツ人であるというだけの理由で、資産を持っているというだけの理由で家族もろとも惨殺されてしまった。ハブルマン氏を殺すことに反対したチェコ人もいたらしいが、集団の狂喜に飲み込まれて、止めることはできなかったのだという。意味でタブーに挑戦したこの映画、専門家の評価はともかく、観客を集めることはできたのだろうか。
そして、軍隊が暴走して起こった事件が、プシェロフの近くにある丘の上での虐殺事件である。終戦から一月半ほど後のこと、スロバキアからプシェロフに進出してきたブラチスラバのスロバキア人部隊が、町に残されていたドイツ系の女性、子供、そして老人を丘の上に集めて、全員まとめて銃殺してしまうという事件を起こしたらしい。犠牲者の数は250人以上、中には生後一年に満たない乳児もいて、母親に抱かれたまま銃殺されたのだという。
この話を教えてくれた方は、チェコでは何かというとリディツェを取り上げて、ドイツ軍の残酷行為を喧伝するけれども、このプシェロフ郊外で起こった事件は、リディツェの事件よりも残酷で痛ましいものだと語ってくれた。
チェコ人として、かつてのチェコスロバキアの国民としてこのような事件が起こったことは辛いし、この件について語るのも辛い。ただ目の前にある悪事に目を背けて見ない振りをするのは、歴史学者にとっては自ら悪事に加担するのと同じだという恩師の言葉を胸に、この事件について調査を重ね、全貌を明らかにする本を出版したのだという。
日本だとこういうのは、日本人が自ら日本人を貶めるような行為だとして非難するやからが続出するのだろうが、チェコでも調査、出版に反対する人はいたらしい。ただ、この事件を歴史の闇の中に葬り去るのではなく、事実を知りたいと考える人は多いようで、意外なほどに売れ行きがよく、第二版を出版することになりそうなのは、著者としてだけでなく、チェコ人としても嬉しいと語ってくれた。
この手の終戦後、敗戦国の国民に対して行われた残虐な事件というものは、戦争責任を問われた敗戦国側からはなかなか発言しにくいものである。だからこの方のような存在は非常に貴重である。ただし、このような事件を起こして、チェコ人はひどい、ドイツ人がかわいそうなどという感想を抱いておしまいというわけにはいない。ミュンヘン協定のときには、ドイツ人やポーランド人がチェコ人の経営する農場を襲ったり、チェコ人の店に放火したりなんてことをしていたのだから。
この手の憎しみの連鎖というものはどこかでどちらかが断ち切らない限り、報復が報復を呼ぶことになる。チェコやスロバキアなどの旧東欧圏は、共産党というさらに大きな悪が存在したことで、結果として対戦前後の民族の憎しみ合いが軽減されたようである。それに対して、共産主義の悪を経験しなかったバイエルン州では、未だに追放されたことの恨みつらみを抱えて、ドイツ人の追放を決めたベネシュの大統領令の無効を主張してヘンライン党の残骸が政治活動を続けている。困ったものである。
そして、現在のドイツの旧東側のEU加盟国に対する強権的な姿勢が、過去の亡霊を呼び起こし、かつてナチスドイツによって大きな被害を受けた国々に反ドイツ的な感情を引き起こすのではないかと危惧するのみである。
そういうことがあったというのは知っていた。ただチェコの歴史でもタブー扱いされているのか、あまり詳しく語られることはなかったし、具体的にどこでどんな事件が起こったのかについては、ほとんど情報はなかった。数年前の、たしかイフラバの近くの村の外れで遺骨が発見されたというニュースと、これも数年前に公開された映画「ハブルマン氏の製粉所」は、この件に関しては例外的な存在である。
第二次世界大戦における虐殺というと、チェコではリディツェの焼き討ちや、ユダヤ人やロマ人のの強制収容所が有名で、こちらについては毎年慰霊祭の様子がニュースで放送されるなど情報には事欠かない。しかし、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の終結後にチェコ人がドイツ人、ドイツ系の住民に対してやったことはあまり語られることはない。その点では終戦直後のドイツで、毒入りのパンをドイツ人たちに配布しようとしたユダヤ人のグループと同じである。
第二次世界大戦までのチェコの領域内には、かなりの数のドイツ人、ドイツ系の住民が生活していた。特にズデーテン地方と呼ばれる国境地帯や、都市部ではドイツ人の割合が高かった。ハプスブルク家の統治下、第一共和国の時代を通じて、チェコ人とドイツ人の間には軋轢や差別はあったものの、それが他民族の虐殺やいわゆる民族浄化につながることはなかったらしい。
状況が変わり始めたのは、ナチスの台頭以降で、ドイツ人たちがナチスの威光を背景にチェコスロバキア政府に敵対的な行動を取るようになり、チェコ人とドイツ人の間の民族的な対立が激化する。ミュンヘン協定、ナチスドイツのチェコ侵攻と保護領化などを経て、第二次世界大戦中はドイツ人が支配民族としてチェコ人を支配、場合によってはしいたげるという状況になる。ユダヤ人、ロマ人の殲滅が終わったら次はスラブ人を絶滅させようとしていたなんて話もあるぐらいである。もちろん、少数ではあるが、チェコ人の中には、ドイツ人に擦り寄って自分だけ優遇されようとした人もいたし、ドイツ人であってもチェコ人たちとの友好関係を崩さないように努力した人もいたらしい。
第二次世界大戦が終結し、ドイツの敗北が決定すると、チェコ人たちの報復が始まる。一般にはこの報復は、ベネシュの大統領令によってドイツ系の住民が資産を奪われ着の身着のまま国外に追放されたこととして説明される。しかし、一部ではチェコ人の住民や、ソ連軍と共に祖国解放のために進出してきた軍隊が暴発することもあったらしい。
住民が暴走したのが、イフラバの近くの村で発見された遺骨の事件と、「ハブルマン氏の製粉所」に描き出された事件である。ハブルマン氏は第二次世界大戦中多くのチェコに住むドイツ人が我が世の春を謳歌しチェコ人に対して横暴に振舞う中、チェコ人に対する差別をせず、村人があらぬ嫌疑を掛けられたときにはかばうこともあった公正な人だったらしい。しかし、ドイツの敗戦後、ドイツ人であるというだけの理由で、資産を持っているというだけの理由で家族もろとも惨殺されてしまった。ハブルマン氏を殺すことに反対したチェコ人もいたらしいが、集団の狂喜に飲み込まれて、止めることはできなかったのだという。意味でタブーに挑戦したこの映画、専門家の評価はともかく、観客を集めることはできたのだろうか。
そして、軍隊が暴走して起こった事件が、プシェロフの近くにある丘の上での虐殺事件である。終戦から一月半ほど後のこと、スロバキアからプシェロフに進出してきたブラチスラバのスロバキア人部隊が、町に残されていたドイツ系の女性、子供、そして老人を丘の上に集めて、全員まとめて銃殺してしまうという事件を起こしたらしい。犠牲者の数は250人以上、中には生後一年に満たない乳児もいて、母親に抱かれたまま銃殺されたのだという。
この話を教えてくれた方は、チェコでは何かというとリディツェを取り上げて、ドイツ軍の残酷行為を喧伝するけれども、このプシェロフ郊外で起こった事件は、リディツェの事件よりも残酷で痛ましいものだと語ってくれた。
チェコ人として、かつてのチェコスロバキアの国民としてこのような事件が起こったことは辛いし、この件について語るのも辛い。ただ目の前にある悪事に目を背けて見ない振りをするのは、歴史学者にとっては自ら悪事に加担するのと同じだという恩師の言葉を胸に、この事件について調査を重ね、全貌を明らかにする本を出版したのだという。
日本だとこういうのは、日本人が自ら日本人を貶めるような行為だとして非難するやからが続出するのだろうが、チェコでも調査、出版に反対する人はいたらしい。ただ、この事件を歴史の闇の中に葬り去るのではなく、事実を知りたいと考える人は多いようで、意外なほどに売れ行きがよく、第二版を出版することになりそうなのは、著者としてだけでなく、チェコ人としても嬉しいと語ってくれた。
この手の終戦後、敗戦国の国民に対して行われた残虐な事件というものは、戦争責任を問われた敗戦国側からはなかなか発言しにくいものである。だからこの方のような存在は非常に貴重である。ただし、このような事件を起こして、チェコ人はひどい、ドイツ人がかわいそうなどという感想を抱いておしまいというわけにはいない。ミュンヘン協定のときには、ドイツ人やポーランド人がチェコ人の経営する農場を襲ったり、チェコ人の店に放火したりなんてことをしていたのだから。
この手の憎しみの連鎖というものはどこかでどちらかが断ち切らない限り、報復が報復を呼ぶことになる。チェコやスロバキアなどの旧東欧圏は、共産党というさらに大きな悪が存在したことで、結果として対戦前後の民族の憎しみ合いが軽減されたようである。それに対して、共産主義の悪を経験しなかったバイエルン州では、未だに追放されたことの恨みつらみを抱えて、ドイツ人の追放を決めたベネシュの大統領令の無効を主張してヘンライン党の残骸が政治活動を続けている。困ったものである。
そして、現在のドイツの旧東側のEU加盟国に対する強権的な姿勢が、過去の亡霊を呼び起こし、かつてナチスドイツによって大きな被害を受けた国々に反ドイツ的な感情を引き起こすのではないかと危惧するのみである。
9月27日10時。
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