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2017年10月12日
外国語を勉強すると言うことは(十月九日)
またまた、ネット上の話で申し訳ないのだが、こんなページを発見してしまった。
http://www.gendaishokan.co.jp/wW2WWW201.htm
我が外国語学習に関する師である黒田龍之助師のロシア語学習記が、『羊皮紙に眠る文字たち』の版元である現代書館のHPで連載されているのである。著者が通ったすでになくなってしまったロシア語学校時代の学習の思い出が記されている。
その学校の名前が「ミール・ロシア語研究所」。同じスラブ系のチェコ語から推測すると、「ミール」は「平和」ということになるのだろうか。かつてチェコスロバキアなど東側の国を舞台に行なわれていた自転車のステージレースも、ザーボット・ミールだったし、どことなく時代を感じさせる名前である。ソ連の宇宙関係のものの中にもミールって名前のものがなかったっけ。
現在13回まで連載が進んでいて、仕事の合間についつい最後まで読みふけってしまったのだけど、やはり語学の勉強というものは大変なものなのだと思わされた。語学というのは、一部のいるかどうかもわからない天才を除けば、短時間で大きな成果を上げられるようなものではなく、時間と労力をかけて少しずつ進歩していくしかないものなのである。
このことは、これまでの著書にも書かれていることではあるのだけど、本人の実体験をもとに書かれていると説得力が違う。今語学を勉強している人が読めば、この著者でさえこれだけ苦労して、楽しそうだけど、苦労してロシア語を勉強してきたのだから、自分も頑張らなきゃいけないというモチベーションにつながりそうな気がする。自分もチェコ語を勉強していたころならそんな思いを抱いただろうし、あの頃読めていたらなあと思わなくもない。
チェコ語の勉強というものをしなくなって、時々復習はするけれども、あの頃のように何が何でも新しい言葉や文法を覚えようなんてことはしなくなって久しい身には、スラブ語関係の専門書をかけるような人ですらここまで苦労されたのだから、自分があれだけ苦労したのは当然なんだとか、同病相哀れむではないけれども、同じように外国語の学習で苦労した人に対する同士のような感情を抱いてしまう。
こんなことを書くと、お前も楽しそうに思い出しているんだから、苦労したと言いつつ楽しかったんじゃないのかなんて疑問も起こるかもしれない。でも、語学を勉強する際の苦労と苦しみを正面から受け止めて、それを乗り越えたからこそ、今となってはあのときはあんなに苦労したんだよねえなんて笑い話にできるのだ。一年目のサマースクールの話とか、受験勉強でもあんなに苦しんだ記憶はない。
外国語つながりで言えば、英語に関しては苦労を避けて楽して勉強することしか考えていなかったし、受験前には諦めて受験さえ何とかなればいいという方向にシフトしたから、英語の勉強を回想すること自体がほとんどない。むしろ忘れてしまいたい記憶で、触れるとすれば、英語の勉強には失敗したからと一言で済ませるぐらいである。
この連載に登場するミール・ロシア語研究所の授業は、ものすごく独特である。とにかく声を出して、下手をするとロシア人よりも正確な発音を身につけさせようとしていたようである。しかし、大切なのは、そのために繰り返し繰り返し、正確に発音できるまで暗唱を繰り返し、他の学生の暗唱を自分のと比較しながら繰り返し聞いていたことなのだろう。語学の学習で大切なのは、特に初学の頃に大切なのはこの繰り返しなのだ。繰り返すことで、知識が骨身にしみこみ、普段は考えることなく使えるようになる。そして、その言葉で考えるための基礎となるのである。
自分が高校生だったときのことを思い返すと、こんな勉強方法は拒否していた可能性が高い。当時から暗記、暗唱などのいわゆる詰め込み教育は批判されていたし、努力しない言い訳を探していた怠け者は、英単語すら受験勉強が本格化していよいよやばいという状況になるまでは、単語帳を使ってひたすら覚えるという勉強法は拒否していたのだ。古文の助動詞の活用も、詰め込むのは拒否していたのだが、覚えやすかったこともあって、数回テストを受けさせられたらいつの間にか覚えてしまっていた。
今なら、いや、チェコ語の勉強を始めたころなら、この繰り返しの学習の意味とその価値を正当に評価することが可能になっていたかもしれない。基本的な知識のない応用、基本的な知識を身につけないまま考察することの無意味さはすでに十分以上に思い知らされていたし。日本人の例にもれず、他人の前で外国語を大きな声で発音するのは苦手だったので、最初の壁を乗り越えるのは大変だっただろうけど。
最近も、教育に関して、知識よりも考える力だとかいう声が高まっているけれども、基本的な知識もないのに考える力もくそもあるものか。昔から言うじゃないか、馬鹿の考え休むに似たりと。そして考える力なんて教えられるものではないのだ。もし、かつての日本の教育が批判されるべきだとしたら、基本的な知識を詰め込もうとしたことではなく、応用までも、考える方法までも詰め込もうとしたことにある。
その意味で、このミール・ロシア語研究所の授業の単語や文法事項など自分で勉強できることは自分でやっておけと言わんばかりの姿勢(そんな印象を受けたけど実際は違ったのかもしれない)は素晴らしい。先生に手を引っ張ってもらって最初から最後まで教えてもらうのは、小学校だけで十分だし、何を学ぶのであれ高校生以上であれば、勉強したくなければしなくてもいいという突き放すような厳しさは必要だろう。
もう一度繰り返しておく。チェコ語も含めて語学の学習というのは死ぬほど大変で、好むと好まざるとにかかわらず、基本的な語彙や文法事項は繰り返し繰り返し勉強して頭に詰め込まなければならない。詰め込んだ知識がなければ、話そうとしたところで内容のない空虚なものになり、あえて話すまでもないということになるのである。
2017年10月10日24時。