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2021年09月17日

教員の意識

いよいよ私の学校でも、黙食給食を始めたのだが、生徒たちは、「少しなら話をしてよい」と思っているようである。

そのように話している中1の女子の姿を見て、他の学年の先生から注意を受けた。

「話をしているので、注意をしてください。監督の先生は誰ですか…。」

「ここからは私の責任ではありません」、と自らが動かない、教員にありがちな悪癖である。

教員をしていると、いつしか、「私のクラス」、「私の学年」、「私の生徒」、「私の部活」などという思いが芽生え、それ以外は、自分のテリトリーでないという錯覚に陥り、責任逃れをする。

「せめて自分の担当する部分くらいは…」、という思いは大切なのだろうが、セクショナリズムに陥ると、大局が見えず、「学校全体を全員の教員で見ている」という意識がうすくなってしまう。

これが、学年間の対立になったり、中高の対立になったりする。

黙食にせよ、何にせよ、「生徒たちが、「意味を理解し、その理由と、そうならないときの結果を認識し、一人ひとりが守ろう」という意識がない限り、完璧に行うことはできないのだ。

強権で従わせることも可能だろう。
泣き落としもできる。

だが、一番大事なことは、「一人ひとりの教員が、全生徒に対して責任を負う」ということだ。

「あの生徒は知らないから指導しない」では済まされない。

老若男女関係なく、それぞれのアプローチは違えども、同じ目的に向かっていなくてはいけないのだと思う。

一人であって一人ではない。
全体であって、それは一人ひとりの集合体。

皆で学校をよくしていくことに力を注ごうではないか。




2021年09月16日

お返しの人生

「五十を越えたらお返しの人生なのに、いつの間にか還暦も過ぎ、未だにお返しの人生ができていません。」

職員会議でI先生がスピーチした。

「今でも、自分と意見が一致する人は応援し、自分とは意見が違う人は、時に妨害するようなことがあるのです。」

確かに、意見の相違は、「親しい・親しくない」や、「協力・非協力」の基準につながりやすく、時に、「味方・敵」にすらなり得る。

「そう考えると、私はまだまだ人間ができていないな、と思います。そんな中でも、まだ私がお役に立てることはないか、日々格闘しているところです。」

正直に赤裸々に語れるI先生はさすがだ

私は、二十代の時に「これからはお返しの人生だ」と決意したが、結局は、人に迷惑ばかりをかけ、自己中心的に生きている。

齢五十五を越えるというのに、まだまだ未熟な人間のままだ。

「他の人のお役に立てる」ことは、人生の生きがいでもある。
自分が、世の中で役に立つ存在ではなくなったら、生きている意味もなくなってしまう、というものだ。

果たして私は、お役に立っているのだろうか。

最近、「ありがとう」を求めている自分がいる。

他の人に、「ありがとう」、と言われるようにと、行動していることに気がつく。

自分ではやや醜いことと思ってはいるが、無意識のうちに人はそうしたこのを求めようとしてしまうのかも知れない。

ふと、「嬉しいんです。みんなのために役に立てることが…」と、奮闘した『弱虫ペダル』の小野田坂道君の言葉を思い出す。

人は、他の人のために生きられてこそ、自らの幸福感を増大させるのだ。




2021年09月15日

模試対策

最近少し徒労感がある。
「教えても教えても、なかなか分かってもらえない…」、という思いだ。

最近、中学校でも外部模試があって、その対策として、復習中心の授業を行っていた。
生徒たちが苦手そうな問題を、類題として何度も演習したり、計算間違いしやすい部分を詳しく解説したりもした。

だが、彼等はなかなか完答までたどり着いてくれない。

教え方が悪いのかな。
さらなるスモールステップが必要なのかな。
生徒達のモチベーションも下がっているのかな。

とにかく、生徒たちのやる気を引き出し、分かる授業で、自分で解ける喜びを与え、実際に試験で点数を取れるようにするのが、我々教師の務め。

それが今、揺らいでいる。

コロナのせい、ばかりではあるまい。

「授業の内容を分からせる」ことは、教員としての当たり前かつ必要不可欠なことだ。
「彼等がどの部分で躓いているか」、が分からなければ、教員としても失格だろう。
さらにはコミュニケーションの不足と言っても良い。

ただただ静か座って授業を受けているだけでは駄目なのだ。

授業は、あくまで楽しく、面白く、興味深く、知的好奇心をくすぐり、それでいて分かって解けた達成感がなくてはいけない。

理想の授業とは言うが、私自身、そんな授業が一時間中できたことは、おそらくは一度もないだろう。

「瞬間理想」や「五分間理想」などはあるのだろうが、なかなか満足がいくようにはならない。

もう、こんな生活を何十年も続けている。
恐らくは「好き」で続けているのだろう。

「よっしゃ…。」
そう自分を鼓舞しながら、今日も授業に行く。

授業は、私自身も楽しいのだ。




2021年09月14日

コロナウイルスと不安感

同僚のM先生が言う。
「丹澤先生、オレがコロナに罹ったらどうしよう…。」

「今の株は、筋肉質で、定期的に運動をして体を鍛えている人が、罹りやすい」、と聞いて、途端に不安になったのだろう。

「しばらくは、家族と別れて暮らそうと思うんだ。」
不安感はまさに本気モード。

「オレが罹ったら、妻も仕事を休まなきゃいけないし、娘もいる。その上、学校に迷惑をかけてしまう…。逆に、娘らが罹っても、同じことが起こる。それならば、自分だけでも隔離されていた方がいい…。」

こうした不安は、勤め人ならば誰でも持っているのだろう。

家族で陽性者が出れば、一緒に生活している人、皆が、ほぼ濃厚接触者になる。
当然のごとく、保健所の指導により、隔離。

今は、家庭内隔離になるが、家庭内では完全な隔離ができないので、家族皆が、仕事や学校を、長い期間、休まなくてはならなくなる。

収入が大幅に減ることもあり得るし、学校では下手をすればいじめの標的にもなる。

幸い、軽症で済めばよいが、まれに命にも関わることもあり、油断はできない。
無症状で出歩けば、他の人に感染させるリスクもある。

そう考えると、とにかく「コロナに罹りませんように…」、と祈るくらいしか方法はなくなるのだ。

一切他の人と接触を断つこともできないし、生活必需品の購入も必要だ。

この何とも言えない不安感が、日本国中を襲い、国民全体を苦しめている。

「丹澤先生は、別宅があるんだよね…。そこに住ませてくれない?」
私は、「そこまで本気なのか」、と驚いた。

大人でも不安感にさいなまれているのだから、子どもなら尚更だろう。

本来、子どもを護るべき大人が、子どもを護れずにいる。

学校でも、教員たちは、自らの生活に加え、子どもたちの生活をも護ろうと必死である。

きっとこうした生活が、あと何年も続くのだろう…。




2021年09月13日

部活に参加するエネルギー

「今日はYが久しぶりに部活に来てくれて嬉しかった」
学習ノートの中1のKがそんなことを書いていた。

中1のYは気まぐれで、部活に来たり来なかったりする。

昨今、そういう生徒が増えてきた。
これはどの部でも同じだ。

ちょっと疲れて面倒になると、部活には行かないのだ。
理由を聞けば、何かしらの言い訳はあるのだろう。
そんなことを聞いても仕方ないので、私は聞かない。

来ないならば、それでもいいが、当然上手くはならないし、意識も上がらない。
だが、試合で美味しいところだけ取るということは、絶対にさせない。

来るようになった時には、意識も上がって上がってきているだろうから、相応のペナルティを与える。

それでもやっていけないのならば、仕方がない。

私は本人のやる気が出るまで待っている。
再度、やる気が出たときには、どんな困難にも踏ん張る力が湧いてくるはずだ。
そうやって立ち直った生徒も何人かいる。

Yとは別に中2のYもしばらく来ていない。

部活はサボり続けると、次に行こうとすると、ものすごいエネルギーが要る。
そのエネルギー量が得られずに、ますます落ちてしまう時もある。

ひとたび怠け心に負けると、負け続けることは容易だが、それにうち勝つことはとても難しいものだ。

中1のYは、だんだんと体力もつき、やっていけるのだろう。
だが、中2のYは、おそらく難しかろう。

何度も落ちそうになり、その都度這い上がってはきたが、何でも人のせいにしてしまう正確は、なかなか治らない…。

いつか自分で奮起して、立ち上がることも来るのだろう。

私は、それを祈って、見守る敷かないのかも知れない。




2021年09月11日

学校と幽霊

学校にはしばしば幽霊話が出てくる。
歴史のある古い学校ほどその確率が上がるようだ。

私も、学校での幽霊体験はある。

以前務めていた学校で、夕方、日直で校内を回っていた時、薄暗くなった校舎は、なかなかドキドキする。

トイレを見回った際には、「鏡にこの世ならざるものが見えたらいやだな」、などと警戒する。

見えないながらも、そうした存在の気配を感じることもある。

そんな中、校舎の三階の隅に、一人の女性がうずくまっている姿が一瞬見えた。

「あぁ、居たか…」
私はそれが霊であることがすぐに分かった。

基本的に彼等と会話をすることはしない。
そのまま連れ帰っても面倒なので、努めて知らんぷりをする。

都会の町中にあり、たとえ校舎内の電気が消えていても、街の明かりで照らされるような学校であったが、夜の学校にはやはり不気味さがある。

それほどまだ暗くはなっていなかったので、わざわざ廊下の電気をつけるまでもなかったのであるが、わたしはそそくさとその場をあとにした。

のちに密かに古くから居る先生に尋ねたところ、以前、夜中に外部から校内に侵入して、三階の窓から飛び降り女性がいたそうである。

彼女は、今でも地縛霊として、その場にいる…。
迷惑な話だ。

こんな話は、そうそう生徒にできるものではない。

古い学校だと、工事中の事故や、物故者があり、時に成仏していないことがある。
学校ができる前は病院だったりすると、あまりよろしくない。

病院で亡くなったものの、行き場を失った霊が、新しくなった学校にも居着いてしまう。

「死んだら、あの世に行くんだよ。」

その一言でも生きているうちに知っていれば、彼等は困惑しないはずなのだが…。

今の学校にはそういう存在を感じない。
とても有り難い。

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2021年09月08日

臨戦態勢

どこの学校での新学期になってコロナ対応で戦場状態だろう。
一学期に流行っていたものとは違い、ほとんどが家庭感染で、子どもが家庭に持ち込む場合が多いのだという。
逆に、家庭から学校にもたらす場合もあるのだろう。

ただし、もはやウイルスは世に溢れていると考えてよい。
要は、抵抗力や免疫力が低下し、精神的にも弱っている人に症状が出る。

おそらく、「検査をすれば陽性だが、無症状で、普通に生活している人も、巷にはたくさん溢れていると考えられる」、そんな状況になってきた。

こうなると、コロナウイルスとのつきあい方は、以前とは変わってくるはずだ。
マスクをしていようとうつる。
だからといって、マスク不要と言うつもりはない。多少は効果があるのだろう。

また、ワクチンを打ってもうつる。
発症したときの重症化が防げるようだが、ワクチンを打ったから感染しないと言うわけでもない。
おそらくは、免疫力が低下すれば、同じように症状が出るのだろう。

指針によると、マスクをしていたならば、濃厚接触者からは免れるようだが、だからといって、うつらない訳でもないのだ。

学校では、活発に生徒達が活動している。
マスクを外す機会もあるだろう。

最近は『黙食』という言葉もはやってきて、給食時には、徹底されているらしい。

もはや一人、発熱者が出ただけでも、大騒ぎになるほど、学校は臨戦体制になり、教員たちも右往左往する。

公立校なら、いろいろな報告が必要になってくるのだろう。

それもこれも、「2類相当かそれ以上のレベル」扱いされているからだろう。
一刻も早く、ルーチン化できるような工夫が必要だ。

「インフルエンザ並の5類に下げるべき」という意見も出ているが、時の政府が選挙前に治療費自己負担となる政策を打ち出すはずがない。

「人生に無駄なことはない」、とも言う。

我ら人類、コロナ禍の中、「何かを学び、つかみ、乗り越えよ」、という天の声に耳を傾ける時期が来ているのかも知れない。




2021年09月07日

劇練習

文化祭中は、各クラスの劇練習をすべて見た。
私は撮影係でもあるし、練習時の舞台も撮っておこうと思ったのである。

今の舞台練習は、マスクを外せない。
だから、撮影しても、表情までなかなか撮れないのだが、本来は、本番を迎えたはずの劇。
彼等の熱意と思いを写真を撮りながら感じる。

中でも一番熱が入っているのが、クラスをまとめている担任だ。
生徒の監督はいるが、ここまでくると、担任が全掌握する。

「暗転後、音楽先、すぐ照明つけて! 役者は間を空けない!」

彼等が一番気を遣うのがテンポだ。
生徒が作る脚本は、暗転が多く、そこでテンポが崩れる。

演劇部経験者の私は、「暗転は5秒をめどに…」、と伝えてあるが、舞台上では必死に動いているようだが、なかなか難しいようである。

審査には、準備からはけまでの時間制限もあり、当然劇中の時短はとても重要になる。
ほんの数十分の劇だが、こうした細かな所まで練習しておかないと、入賞は難しい。

中1のクラスでは声の響きをチェックしていた。
客席に観客が入ると、また変わってしまうのだが、今の段階で、聞き取れなかったり、聞こえなかったりしたら、致命傷だ。

断トツの安定感があるのが中3。元気もあるしテンポも良い。
中2は、やや苦戦している。

学年が上がるにつれ、自分たちで劇を作るようになる。
中1は手取足取りだが、中2辺りでは自分たちでやらせてみる。

担任としてはそのあたりの手加減が難しいのだ。

中2の学年主任が言う。
「今年の中2の劇、ヤバいでしょ。少し手を入れないと…。」

焦っているのは担任ばかりではなかった。

そんな言葉を知らんぷりして、私はひたすらシャッターを切る。




2021年09月05日

文化祭二日目

犬の散歩から5時半に戻ると、すでに家庭科室の電気がついていた。飲食店関連の団体の仕込みだろうか。

今日も予定通り文化祭が始まった。
概ね高校生が展示、中学生が舞台発表なので、舞台発表が延期になった中学生を中心に、高校生の展示を回る。

最近は景品つきなので、どの展示もお金がかかる。
大体が100円以下で、中学生や高校生にとっては割高感がないようで、この時期、彼等はたくさんのお小遣いを消費する。

それでも、いろいろな学びがあるようで、お金を使いすぎた側も、利益を出そうという側も、いい経験になるのだろう。

さほどのクラス数があるわけでもないので、中学生は、文化祭開催中に交代で劇の練習をしている。

彼等の集中力を維持するために、この並行企画は良かったのだろう。
私も、すべての劇練習を見ることができたし、その演技写真を撮ることができた。

無観客の文化祭は、開校以来初めてのことになる。
それでも、なんとか文化祭は行うことができたのは、学校としては良かったことだろう。

たとえ、どんな状況かにあろうと、学校が動いているというのはm、世の光だ。
学校は人と人とを結びつける安心の場であり、また、同じ年代の友達と喜怒哀楽を分かち合い場でもあるのだ。もちろん、彼等の将来のために、学びの場を提供し続けることも大切なことだ。

私は、たとえミサイル飛び交う状況下であろうと、その間隙を縫ってでも、学びの場は消してはいけない、と思う。
もちろん命の安全が第一優先だが、我々人類は、この先も生き抜いてゆかねばならず、そのための智慧の共有と学びの機会は、決して失ってはいけないものなのだ。

夕方、クロージングセレモニーが行われた。

展示部門の成績が発表され、表彰された。

劇の中学生にはちょっと盛り上がりに欠けるかな、とも思ったが、中1のS君が、「高校生の展示に感動しました。すごかったです。この学校に入学してよかった…」、と述べた。

中学生にも感動を与えられたようである…。




2021年09月04日

文化祭初日

厳戒態勢の中、今年の文化祭が始まった。
今年も文化祭を取り仕切っているのは生徒会の若手の先生。

昨年に引き続きだが、今年はコロナ対応で、何度も文化祭の内容が変わり、時間も変わり、体調不良者対応などで、急な変更続きで、さぞかしご苦労されたことだろう。

彼女は昨日、「いよいよ明日の本番を迎えますが、ここまでのサポート、ありがとうございました」、と打ち合わせ時に謝意を述べた。すると職員室中で拍手が湧いた。

文化祭委員長の挨拶で、開会したが、「こんな状況の中で、文化祭を開かせて頂いて本当にありがとうございました」、と述べた。

中には、「先生たちも大変ですね…」、と気遣ってくれる生徒もいる。

高校生ともなると、その展示のクオリティの高さは脱帽である。
「本当にここは教室か?」、と思うものあり、さすがである。

こうした姿を見ると、「文化祭は教育活動の中でとても大切なのだな」、と改めて思う。

保護者の来校は一切禁止にしてしまったから、あとで動画や写真でお知らせすることにはなろうが、この文化祭での彼等生徒たちの、普段とは違う生き生きとした姿は、ぜひお見せしたかったな、と思う。

生徒と教員だけなので、来客数は少ないはずなのだが、飲食店の売り上げもそこそこで、また別の学びも得たようである。

規模縮小で、一部隔離状態になり参加できなかった生徒もいるが、何とか一日目を終えた。

手作りの稚拙さも残るが、この経験は将来必ずや役に立つに違いない。

「いやぁ、景品、取っちゃいました…。」

若手の先生が射的で景品を取ってきた。

先生が真剣に遊んでくれると、生徒たちも嬉しいはずだ。
そこにまた、新たな関係が築かれそうだ。

「もらってこない方が良かったですかね…。」
と心配している姿が面白かった。




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