2019年07月09日
真の教育
今朝のSNSに、「小学校のトイレで、男子も全部個室にして欲しい」、というものがあった。
個室に入ると言うことは、ウンチをするわけで、それが他の人に知られることで、精神的な抵抗を感じる、というものだ。
もしかしたら、その背後には、「冷やかされる」、という構図もあるのかも知れない。
私は「万事、生徒や児童の思いを満たすような施策をしてはらない」、と思う。
よかれと、思って手を差し伸べたことで、結果的にその人をダメにすることは多い。
「地獄への道は善意で舗装されてる」、という言葉もある。
一般的には、もっとたくましく育って欲しい。
トイレに関しても、別のアプローチがある。
人間に限らずすべての動物は、その排泄行動に安全性を求める。
それを脅かすような、社会性は、指導者が断固として排除しなくてはいけないのだ。
例えば、「冷やかす」ような雰囲気を野放しにしてしまうのは、教師としての失策であろう。
どうしても、小便ができない生徒は、個室を使えばいいが、そのように育ててしまったという教育面でのマイナスもあるはずだ。
物理的な環境を変えるよりまず先に、精神的な部分、集団での社会的な部分への対処を考えるべきだろう。
当然、個別対応しなければならない子供もいるはずだが、すべてが個別対応ならば、学校で集団生活する意味はなくなってしまうのではないだろうか。
時代の流れとともに、子供の数が減少し、より手をかけて育てるようになった。
そのためか、子供の要求をすべて大人が満たすような風潮も出てきた。
愛する子供に背を向けられるのが、何よりも辛く苦しいと感じる親が多いのだろう。
それ故、学校にもそうした対応を求め、「うちに子には…」、と始まる。
我が儘な子供が増え、学校での指導が成り立たない場面も増えている。
だが、もっと大局的な観点から教育を考える時期が来ているのではないだろうか。
一人一台のタブレットなんて、噴飯ものだ。
モノでは代えられない、『心』を教えてこそ、『教育』と言える。
今朝、ちょうど通学時間に自動車を運転していたら、前の車が通学中の小学生を横断歩道前で徐行し、道路を横切らせた。
すると、その小学生三人組は、全員立ち止まり、車に向かって深々と頭を下げたのだ。
朝から良いものを見た。
そういうことが、自然とできるようにするのが、真の教育だと思う。
個室に入ると言うことは、ウンチをするわけで、それが他の人に知られることで、精神的な抵抗を感じる、というものだ。
もしかしたら、その背後には、「冷やかされる」、という構図もあるのかも知れない。
私は「万事、生徒や児童の思いを満たすような施策をしてはらない」、と思う。
よかれと、思って手を差し伸べたことで、結果的にその人をダメにすることは多い。
「地獄への道は善意で舗装されてる」、という言葉もある。
一般的には、もっとたくましく育って欲しい。
トイレに関しても、別のアプローチがある。
人間に限らずすべての動物は、その排泄行動に安全性を求める。
それを脅かすような、社会性は、指導者が断固として排除しなくてはいけないのだ。
例えば、「冷やかす」ような雰囲気を野放しにしてしまうのは、教師としての失策であろう。
どうしても、小便ができない生徒は、個室を使えばいいが、そのように育ててしまったという教育面でのマイナスもあるはずだ。
物理的な環境を変えるよりまず先に、精神的な部分、集団での社会的な部分への対処を考えるべきだろう。
当然、個別対応しなければならない子供もいるはずだが、すべてが個別対応ならば、学校で集団生活する意味はなくなってしまうのではないだろうか。
時代の流れとともに、子供の数が減少し、より手をかけて育てるようになった。
そのためか、子供の要求をすべて大人が満たすような風潮も出てきた。
愛する子供に背を向けられるのが、何よりも辛く苦しいと感じる親が多いのだろう。
それ故、学校にもそうした対応を求め、「うちに子には…」、と始まる。
我が儘な子供が増え、学校での指導が成り立たない場面も増えている。
だが、もっと大局的な観点から教育を考える時期が来ているのではないだろうか。
一人一台のタブレットなんて、噴飯ものだ。
モノでは代えられない、『心』を教えてこそ、『教育』と言える。
今朝、ちょうど通学時間に自動車を運転していたら、前の車が通学中の小学生を横断歩道前で徐行し、道路を横切らせた。
すると、その小学生三人組は、全員立ち止まり、車に向かって深々と頭を下げたのだ。
朝から良いものを見た。
そういうことが、自然とできるようにするのが、真の教育だと思う。
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