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2023年04月24日
AMD Ryzen 5 3600 CPU 搭載パソコンのブルースクリーン不具合の原因
不具合の発生したPC詳細
CPU : AMD Ryzen 5 3600
マザーボード : B450 GAMING PLUS MAX
メモリー : DDR4 8GB
ストレージ : M.2 512GB
症状
ウィンドウズアップデート時やパソコンに少し負荷がかかった時に突然以下のようなブルースクリーンがでます。
※上記では 停止コード「MEMORY_MANAGEMENT」とありますが、他の表記も出ていました。
頻度としては、20〜30分に一回程度です。二種類のエラー表示があります。勝手に再起動し、再起動後は普通に動作はします。
初期の検証
当初、ウィンドウズアップデート中にシャットダウンしてしまった事が原因でプログラムが破損し、このようなエラーが出るようになったものだと思っていました。
そこで切り分けをする為に、新品の SSD を付け OS をインストールしましたが、インストール完了後の最初のウィンドウズアップデートで同じ症状がでてしまいました。
この時点でプログラムが問題の症状ではなく、ほぼハードの問題だと分かりました。それでは、と次にチェックしたのがメモリーです。メモリーテストを2時間以上しましたが、エラーは検出しませんでした。ケースのUSBケーブル、オーディオケーブル、光学ドライブのケーブルなど外せるケーブルを全て外しましたが、やはりブルースクリーンが出てしまいました。
次に電源 BOX を別のものに交換してみましたがダメ。この時点で原因がほぼマザーボードか CPU だろうと判断しました。
故障個所の推察
そこで同じような症状が出ている人がいないか調べてみることにしました。そうすると、予想外に多くの同じ症状の方が見つかりました。
故障の場所として最終的に見つかったのは「CPU」が最も多い原因でした。初期不良という方もいれば使っていてそのような症状になったという方もいました。
また、ある対策で改善したという方もいたのです。
その改善方法とは、BIOSの設定変更です。「Precision Boost OVerdrive」を「無効」にするというものです。この機能はざっくり説明すると「CPUを無理のない範囲で自動オーバークロック」するというものです。
CPUオーバークロックは、本来 CPU にもパソコンにも負荷がかかるため、玄人の遊びと考えられる領域です。失敗すると CPU が故障する危険があるため通常では利用しないものです。
しかし、このマザーボードではこの自動オーバークロック機能が初期設定で「利用する」設定になっているのです。
そして、ネットにはこのマザーボードと同じBIOSと Ryzen CPU の組み合わせでの CPU 故障があまりにも多かったので、CPU が原因だろうと完全に思い込みました。
故障特定作業
CPU が不具合の原因であると特定するために、AM4 ソケットのCPUを調達することにしました。
まったく同じ CPU はすでに流通量が少なくなり、価格も高騰していたため「Ryzen 5 4500」の新品を購入しました。価格は10,500円。思ったよりも安く販売されています。
もし違った時のために、可能性のあるマザーボードもいっしょに購入することにしました。一番安いもので 約8,000円。ついでに、エラーは出なかったものの可能性を考えて、メモリーも1枚調達することにしました。
そして、いざ一番可能性の高い CPU を交換してみました。最初の30分ほどは何事もなく動作していたため、「やっぱり CPU だったか…」と結論を出しそうになっていたその時です。同じブルースクリーンが出てしまったのです。
心臓が止まりそうになりました。CPU じゃないんかい。「という事はマザーか…」交換作業が一番やっかいなのと、リカバリ・ソフトインストール・データ移行と大作業になる事を嘆きました。
まあ、その前に念のため、「メモリーも調達してるから交換してみるか…」と交換して動作テストを行ったところ、どんなに負荷をかけても一時間以上動作させてもブルースクリーンが出なくなったのです。
たまたまの可能性もあるので、元のメモリに戻してみました。そうすると、数分もせずブルースクリーンが出ます。そして、メモリ交換をしたものをさらに入念にチェックしたところ、完全に直ってしまいました。
結論はいわゆる「メモリーの相性」と言うものでしょうか。メモリーテストでは何事も無いものの突然ブルースクリーンになる…。
しかし一連の検証にて、このようなエラーの引き金になっているのは、「自動オーバークロック機能によるものではないか」という疑念が生まれました。メモリーテストでは一切エラーが出ないのに、負荷をかけると稀にエラーが出るということは、何かしらの要因である可能性があります。
念のため、自動オーバークロック機能は「オフ」にしたままにしておきました。
何はともあれ、同じような不具合が確認された場合は、メモリーの交換も視野に検証されるのが良いかと思います。
まとめ
エラーを解消できたメモリはシリコンパワー の「SP008GBLFU320B02」というメモリです。PC4-25600 8GB です。運悪く次に購入したメモリーも相性が悪かった場合は、完全に故障の原因特定ができなかったと思います。相性問題として参考になればと思います。
今回、時間が無かったため一気に部品を調達しましたが、メモリー、CPU、マザーボードと、一つづつ調達すればそれほどの費用はかからなかったと思います。
また、「メモリーテストでエラーが出なくても、メモリーが原因の不具合がある」という良い経験でした。
「全ての部品を交換しても直らなかった」という方がネットにも居ました。もしかすると、その方もメモリーが原因で、新しく入手したメモリも相性が悪かった可能性があります。
同じ症状で悩んでおられる方がいれば、メモリーを最初に疑ってみるのが良いかもしません。そして相性が検証されているメモリーを調達されるのが良いと思います。費用もそれほどかからず、違った場合でも増設に利用すればムダがありませんので。
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posted by エコ8 at 11:14| ハードウェアの不具合
2023年03月24日
PINコードの再設定でログインできなくなった場合の最短対処法
依頼内容
Windows 11 のノートパソコンで PINコードが分からなくなった。
そのため再設定を行ったところ、「問題が発生し、暗証番号 (PIN)を使用できません」と表示され解決できない。
対応内容
セーフモードでログインし、アクセス権を編集し再設定するなどの対処法がネットにはありました。しかし、それでも解決できなかった方の書き込みがあり、試してみる時間の余裕はない案件であったため、違う方法で確実なものを行いました。
幸いな事に、大切なデータは無く、購入して使用する設定を行っている時に起こった出来事だったため、初期化する対応を選びました。
調べてみると対象のノートパソコンは、リカバリ領域というものは無く、自分でリカバリ用ディスクを作成する仕様でした。そのため、ディスクを作成していない状態では、メーカーからディスクを取り寄せる必要があったのです。
特殊なドライバを利用している機種ではないと判断し、マイクロソフトから提供されている「リカバリ用Windows 11 USB」を作成して作業を行いました。
>Windows 11 Media Creation Tool のダウンロード
これは 8GB 以上の USB メモリであれば作成可能です。また、ダウンロード速度さえ速ければ10分ほどで作成可能です。その USB メモリを利用して1時間程度でリカバリを行うことができました。OSのインストールには時間はかかりませんでしたが、ウィンドウズアップデートに数時間を要しました。これを行わなければドライバ類がきっちり入らないため、ある程度まで進めることにしました。
その後、複合機のドライバインストール、サーバーへのアクセス設定、オフィスのインストールをなどを行い作業を終了しました。
PINコードの再設定後にログインできなくなった場合の最短対処法 (まとめ)
時間に余裕がある方は、念のためセーフモードでログインする方法を試されるのが良いと思います。
もし、時間がなく中に大切なデータが無い場合は、リカバリを行うのが最短です。
原因は分かりませんでしたが、PINコードの再設定中に再起不能に陥る事例が多くあります。
2023年02月24日
旅先で SDメモリーカードを購入する時に気を付ける事
先週、東京へ旅行へ行ってきました。
家族となので、はとバスツアーから浅草、吉祥寺のジブリ美術館などを巡りました。
新宿で昼食を摂った時に、デジタルカメラのメモリカードがいっぱいだったことを思い出し、SDメモリーカードを購入することにしました。
幸いなことに新宿駅東口には家電量販店が沢山あり、店を探すのは迷いませんでした。
店舗に入ってメモリーカードの売り場を聞き、32GB か 64GB のものを買おうとしたのですが……。驚愕しました。
普段からアマゾンで買い物を良くするので SDカードの相場は良く知っています。セブンイレブンで買い物をする時に SDカードを売っているのを見かけて、「最近はセブンでもメモリーカードが買えるんだなぁ」と感心したものです。
アマゾンでは、32GB と 64GB の SDカードは、あまり金額に差がありません。どちらも 1,000円 前後で売られています。64GBで書き込み速度が速い優れた製品でも 2,000円 弱程で購入できます。
とはいうものの、一般の店舗です。セブンと同じくらいの値段かなと思っていました。ちょっとくらい高くても、買っちゃおうと考えていたのですが、さすがに購入するのをためらう値段でした。
32GB で 3,000円 強。64GB に至っては 7,000円 強で販売されていました。書き込み速度までは見ませんでしたが、明らかに有名メーカーのものではありませんでした。
結局、購入を諦めてセブンイレブンで購入することにしました。セブンでは、Class 10 対応 32GB 1,650円でした。普段は絶対に購入しませんが、旅先ではありがたみさえ感じました。
これがもし、自分の親や相場を良く知らない知人なら、7,000円でも絶対に購入していたと思います。決して悪く言っているのではありません。むしろ、東京の新宿という世界でもトップクラスに地価が高いところで販売しているんです。これが当然だなと思いました。
一方、セブンイレブンは全国どこでも置かれた商品の値段に違いはありませんでした。旅先でちょっとた物を調達するには、コンビニエンスストアが最適だと思います。
それから、妻が NHK の番組で放送されたブックカフェに行きたいというので、神保町へも行きました。
福岡で中古本といえば、新品のようなものばかりです。ちょっとでも傷んでいると売れにくいので、すぐに価格が下げられ、廃棄されてしまいます。
しかし東京は違いました。店先に並んでいる本はどれも年期の入ったものばかりです。それでも、立ち読みをする人や実際に購入している人をみかけました。本の奥付のページに値段が書いてあるのですが、何冊か確認したところ、結構いい値段が書いてありました。
同じ日本の都市でも、ここまで違うんだ。と、真実の発見に感動してしまいました。
家族となので、はとバスツアーから浅草、吉祥寺のジブリ美術館などを巡りました。
新宿で昼食を摂った時に、デジタルカメラのメモリカードがいっぱいだったことを思い出し、SDメモリーカードを購入することにしました。
幸いなことに新宿駅東口には家電量販店が沢山あり、店を探すのは迷いませんでした。
店舗に入ってメモリーカードの売り場を聞き、32GB か 64GB のものを買おうとしたのですが……。驚愕しました。
普段からアマゾンで買い物を良くするので SDカードの相場は良く知っています。セブンイレブンで買い物をする時に SDカードを売っているのを見かけて、「最近はセブンでもメモリーカードが買えるんだなぁ」と感心したものです。
アマゾンでは、32GB と 64GB の SDカードは、あまり金額に差がありません。どちらも 1,000円 前後で売られています。64GBで書き込み速度が速い優れた製品でも 2,000円 弱程で購入できます。
とはいうものの、一般の店舗です。セブンと同じくらいの値段かなと思っていました。ちょっとくらい高くても、買っちゃおうと考えていたのですが、さすがに購入するのをためらう値段でした。
32GB で 3,000円 強。64GB に至っては 7,000円 強で販売されていました。書き込み速度までは見ませんでしたが、明らかに有名メーカーのものではありませんでした。
結局、購入を諦めてセブンイレブンで購入することにしました。セブンでは、Class 10 対応 32GB 1,650円でした。普段は絶対に購入しませんが、旅先ではありがたみさえ感じました。
これがもし、自分の親や相場を良く知らない知人なら、7,000円でも絶対に購入していたと思います。決して悪く言っているのではありません。むしろ、東京の新宿という世界でもトップクラスに地価が高いところで販売しているんです。これが当然だなと思いました。
一方、セブンイレブンは全国どこでも置かれた商品の値段に違いはありませんでした。旅先でちょっとた物を調達するには、コンビニエンスストアが最適だと思います。
それから、妻が NHK の番組で放送されたブックカフェに行きたいというので、神保町へも行きました。
福岡で中古本といえば、新品のようなものばかりです。ちょっとでも傷んでいると売れにくいので、すぐに価格が下げられ、廃棄されてしまいます。
しかし東京は違いました。店先に並んでいる本はどれも年期の入ったものばかりです。それでも、立ち読みをする人や実際に購入している人をみかけました。本の奥付のページに値段が書いてあるのですが、何冊か確認したところ、結構いい値段が書いてありました。
同じ日本の都市でも、ここまで違うんだ。と、真実の発見に感動してしまいました。
2023年01月11日
あるパソコン修理屋の「生きた証」
パソコン修理屋かけだしだった頃、不具合について調べていたら、よくたどり着いたブログがあります。「オフィスオービットの笹本さん」のブログです。
この方もパソコンの修理を営んでいる人で、修理した内容や直し方について丁寧にブログにアップされておられました。同じパソコン修理屋として、当時とても助かりました。
よくある不具合の予習がてら、毎日のように更新されていないか確認をしたものです。
しかし、ある日を境に更新がパッタリと途絶えてしまったのです。
ブログにも「これが表示されているということは、私の身に何かありました。もうこれ以上、更新はできません。」と、意味深な内容が自動更新で表示されていました。後の知人の方の報告では、亡くなられてしまったという記載を見つけました。
顔も拝見したことが無い方なのに、あんなに残念で悔しい気持ちになったのは人生で初めてでした。その報告も何かの間違いではないかと思い、数か月後、一年後、二年後でもブログが更新されていないか確かめに行っていました。ブログはご家族の意向で少しの間は残されるというような報告もありましたので、ブログ自体は見る事がができておりました。
そして現在、あれから12年の歳月が経ちました。とうとう笹本さんのブログも表示されなくなっていました。今でも修理屋界隈では、笹本さんをご存じである方が多くいらっしゃいます。
一介のパソコン修理屋が、それだけ多くの同業者の助けになっていたという事だと思います。
自分自身も修理屋を始めて20年が過ぎようとしています。この世界に「生きた証」として何が残せるだろうか。そう考えることが多くなりました。たとえ自分の身が朽ち果てても、何年、何十年後も多くの人にささやかに思い出してもらえる。
残りの人生はそのために全力をつくしたいと考えています。
この方もパソコンの修理を営んでいる人で、修理した内容や直し方について丁寧にブログにアップされておられました。同じパソコン修理屋として、当時とても助かりました。
よくある不具合の予習がてら、毎日のように更新されていないか確認をしたものです。
しかし、ある日を境に更新がパッタリと途絶えてしまったのです。
ブログにも「これが表示されているということは、私の身に何かありました。もうこれ以上、更新はできません。」と、意味深な内容が自動更新で表示されていました。後の知人の方の報告では、亡くなられてしまったという記載を見つけました。
顔も拝見したことが無い方なのに、あんなに残念で悔しい気持ちになったのは人生で初めてでした。その報告も何かの間違いではないかと思い、数か月後、一年後、二年後でもブログが更新されていないか確かめに行っていました。ブログはご家族の意向で少しの間は残されるというような報告もありましたので、ブログ自体は見る事がができておりました。
そして現在、あれから12年の歳月が経ちました。とうとう笹本さんのブログも表示されなくなっていました。今でも修理屋界隈では、笹本さんをご存じである方が多くいらっしゃいます。
一介のパソコン修理屋が、それだけ多くの同業者の助けになっていたという事だと思います。
自分自身も修理屋を始めて20年が過ぎようとしています。この世界に「生きた証」として何が残せるだろうか。そう考えることが多くなりました。たとえ自分の身が朽ち果てても、何年、何十年後も多くの人にささやかに思い出してもらえる。
残りの人生はそのために全力をつくしたいと考えています。
posted by エコ8 at 15:38| 印象深い人々シリーズ
2022年12月07日
プログラマーが明かした「福引・クジ」の必勝法
この話を聞いた方は、人生においてクジの当選率が格段に上がります。
クジっていうのは、100%運だと思っている方は「目からウロコ」だと思います。
この話は20年以上前に上司のプログラマーから直接聞いた話になります。
当時私が勤めていた会社は大きなシステムの受注の傍ら、ちょっとしたプログラム作成の依頼も入る会社でした。仲良くなった上司のプログラマーが休憩がてらに話してくれた内容です。
その上司は、パソコンのキーを押したらアニメーションと共に画面に等数やハズレが表示されるプログラムを作っていました。
「いいこと教えてやろう」
「今、イベントの福引プログラムを組んでるんだけど…」
「テーブル方式なんだよ」「抽選方式じゃない」
オペレーターという操作専門の仕事をしていた私には、その時、その意味をあまり理解していませんでした。
それを知った上司は、分かりやすく説明してくれました。
「通常はランダムに抽選してクジの当たりハズレが決まるだろ」
「今、作ってるのは何番目に当たるかが決まってる」
「イベント最終日の午後1時ごろに特賞が出るようにした」
「特賞は海外旅行だからな」
「狙って行っていいぞ」
もちろん冗談で言ったのであって、納品会社の関係者が特賞を引き当ててしまったら、それこそ大問題になります。当然、「行きませんよ」と返しました。
イベントは3日間行われるものでした。
1本しか入っていない特賞が初日に出てしまうと、その後に福引を引く人たちは盛り上がりません。
かと言って、イベントが終わる直前だと、人も少なく盛り上がりません。
イベントが最高潮に達する時間、かつ人が一番多い時間を狙って特賞が出るのが望ましいのです。
この事を知ってからは、私はイベントは最終日がねらい目だと思って生きてきました。驚くような賞品はありませんが、数千円から1万円程度の賞品は何度も当たりました。それは偶然ではありませんでした。
最終日に当たりやすい理由がもう一つあったのです。予想よりも人の入りが少なかった場合、賞品を最終日に放出するのです。本来よりも当たりやすく調整して福引やクジを引いてもらうんです。
用意した賞品が大量に残ってしまうと、来場者に印象が良くありません。また、残っても処分しなければならないものもあります。
そのような理由から、福引やクジはイベントが終わる数時間前に引くのが一番期待値が高いのです。パソコンでの抽選の話をさせて頂きましたが、アナログのガラポン抽選機や紙のクジにおいても、最終前に特賞や一等を入れるのは常識なんです。
子どものころ、身内が食料品販売店をしていたのですが、クジ式のおもちゃを置いていたことがありました。クジはシート状になっており、1枚づつ切り離して箱に入れるようになっていました。
切り離す前のシートの状態だと等数が分かるのです。そして店舗向けの説明書には、「一等は最後あたりで投入してください。」という一文が記載されていたんです。子どもながら、衝撃を受けた記憶があります。
いきなり一等が出てしまうと、誰もクジを引かなくなります。「ラストワン賞」なんていう画期的なシステムが当時はありませんでした。
SNSなんて無い時代だから許された説明書ですが、今、このような事があったらすぐに炎上してしまいそうですね。
大人買いして全部引いたら、当たりが入っていなかったなんて動画が良く上がっていますが、店の人は「入れるタイミングが無かった…」と思っているところも多いはずです。
2022年10月31日
サポート代金踏み倒し被害の回想記録
修理やサポートを長年行っていると、当然、踏み倒しに何度もあっています。印象に残るものを3つほど紹介させて頂きます。
女性の方の依頼でした。最初は店舗へ来店されて、年賀状のデータ入力を忙しくてできないとのことでデータ入力とハガキへの印字、両方を依頼されました。印刷枚数もそれほど多くはなく、代金は数千円程度でした。
店舗に取りに来られた時に、財布を忘れたと言われ、振込するとの約束で対象物を引き渡してしまったのです。当時、対応したのがアルバイトだったので、そのような予期しない対応には不慣れもあり、当人の判断としてしまったものです。私が対応していたら、信用のある顧客以外は、そのような対応はありえません。
後日、パソコンの修理も一緒にお願いしたいと電話があり、家に出向向きましたが不在。出張料金分も上乗せで未払いの状態になりました。何度連絡しても電話に出られないようになり、最終的に踏み倒し案件となりました。
出張でパソコン修理に出向きましたが、ハードディスクが故障しておりました。ノートパソコンで、店舗から近くの方だったので、そのまま預かり修理とになりました。
修理後に連絡をしてもつながらず。ご自宅に何度か出向いてチャイムを鳴らすもまったく応答がありませんでした。郵便で連絡も取りましたが、連絡はありませんでした。事情がある事も考え、パソコンを5年ほど保管しておりましたが、諦めた案件です。代金はともかく、パソコンの保管に困りました。
古いパソコンでしたので、買い替えの選択を途中でされたのかもしれません。廃棄に料金がかかるので、「そのまま捨ててしまえ」だったのだと思います。何度連絡をしても引き取りに来られない案件は他にも比較的多いです。
仕事でCADに使われている方のパソコンを修理し、代金約2万円を踏み倒されました。何度も何度も連絡をし、連絡をする度に払う日程を約束するも、期日に支払われないのを繰り返されたものです。
後日、直接出向いてお支払いを求めたのですが、暴言を吐かれながら修理内容について難癖をつけられました。今まで一度もそんな話は出なかったのに、半年以上も経って支払いを拒絶するために、暴言をあびせられました。
修理人生の中で一番悔しかったです。しかし、訪問して家の中を見て、その人の必死に抗おうとしている姿を目の当たりにして、もう回収は諦めてもいいかな。と、思ってしまいました。
ここでは詳しい内容は控えさせて頂きますが、その理由は、おそらく借金を多く抱えている状態で、家族に重度の病人もおり、精神的に参ってしまっている状態だと分かったからです。
困窮して支払い能力が無い人間に、これ以上、話をしても無理であると感じました。
このような事があり、修理後のパソコンは代金を受け取れない場合は、お渡しできないようにしました。それから言葉遣いの悪い方や信用できない方の依頼は受けない。と、いう事を徹底してからは、踏み倒しにあうことも無くなりました。
この経験で言えるのは、踏み倒されるだけならそれほどの被害は無いのですが、何度も連絡をさせられる事、パソコンの保管を長期間させられる事、精神的なダメージが大きい事が修理屋としてものすごく負担になりました。
年賀状のデータ入力印刷サポート代金の踏み倒し
女性の方の依頼でした。最初は店舗へ来店されて、年賀状のデータ入力を忙しくてできないとのことでデータ入力とハガキへの印字、両方を依頼されました。印刷枚数もそれほど多くはなく、代金は数千円程度でした。
店舗に取りに来られた時に、財布を忘れたと言われ、振込するとの約束で対象物を引き渡してしまったのです。当時、対応したのがアルバイトだったので、そのような予期しない対応には不慣れもあり、当人の判断としてしまったものです。私が対応していたら、信用のある顧客以外は、そのような対応はありえません。
後日、パソコンの修理も一緒にお願いしたいと電話があり、家に出向向きましたが不在。出張料金分も上乗せで未払いの状態になりました。何度連絡しても電話に出られないようになり、最終的に踏み倒し案件となりました。
パソコン修理代金の踏み倒し
出張でパソコン修理に出向きましたが、ハードディスクが故障しておりました。ノートパソコンで、店舗から近くの方だったので、そのまま預かり修理とになりました。
修理後に連絡をしてもつながらず。ご自宅に何度か出向いてチャイムを鳴らすもまったく応答がありませんでした。郵便で連絡も取りましたが、連絡はありませんでした。事情がある事も考え、パソコンを5年ほど保管しておりましたが、諦めた案件です。代金はともかく、パソコンの保管に困りました。
古いパソコンでしたので、買い替えの選択を途中でされたのかもしれません。廃棄に料金がかかるので、「そのまま捨ててしまえ」だったのだと思います。何度連絡をしても引き取りに来られない案件は他にも比較的多いです。
設計事務所の方の踏み倒し
仕事でCADに使われている方のパソコンを修理し、代金約2万円を踏み倒されました。何度も何度も連絡をし、連絡をする度に払う日程を約束するも、期日に支払われないのを繰り返されたものです。
後日、直接出向いてお支払いを求めたのですが、暴言を吐かれながら修理内容について難癖をつけられました。今まで一度もそんな話は出なかったのに、半年以上も経って支払いを拒絶するために、暴言をあびせられました。
修理人生の中で一番悔しかったです。しかし、訪問して家の中を見て、その人の必死に抗おうとしている姿を目の当たりにして、もう回収は諦めてもいいかな。と、思ってしまいました。
ここでは詳しい内容は控えさせて頂きますが、その理由は、おそらく借金を多く抱えている状態で、家族に重度の病人もおり、精神的に参ってしまっている状態だと分かったからです。
困窮して支払い能力が無い人間に、これ以上、話をしても無理であると感じました。
このような事があり、修理後のパソコンは代金を受け取れない場合は、お渡しできないようにしました。それから言葉遣いの悪い方や信用できない方の依頼は受けない。と、いう事を徹底してからは、踏み倒しにあうことも無くなりました。
この経験で言えるのは、踏み倒されるだけならそれほどの被害は無いのですが、何度も連絡をさせられる事、パソコンの保管を長期間させられる事、精神的なダメージが大きい事が修理屋としてものすごく負担になりました。
posted by エコ8 at 16:18| パソコン修理屋として学んだ事
2022年09月26日
会社をある日突然辞めることになり路頭に迷う
当時、働いていた派遣会社の事務ですが、特に不満はありませんでした。派遣社員60名ほどのケアをするのは楽しくも感じました。
しかし、それはある日突然やってきました。派遣会社の所長兼上司からこのような話をされたのです。
自分が親しい大きな会社で、派遣部門を立ち上げる。いわゆる「引き抜き」をされた。待遇も良いとのこと。
そこへお前も一緒に連れて行きたい。同時に会社を辞めると本社から詮索されるおそれがあるから、先に会社を辞めて待っていて欲しい。後始末が済んだらそこへ呼ぶ。とのことだった。
そして、突然、2週間ほどの引継ぎを行って辞めることとなりました。
辞めたはいいけれども、仕事を探すわけにはゆかない事に気づきました。すぐに仕事に就くためには、仕事をせずに待たなければならない。たとえバイトにしても、引継ぎをしている時間は無いし、すぐに連絡が来たら、バイト先には申し訳ない。そんな思いから仕事を探すことはやめました。蓄えはあったので、少しの間ならそのような状況でもよいかもしれませんでした。
とはいえ、いつまもでもジリジリと蓄えを減らしながら待ってはいられないと、悩みました。そこで始めたのが「パチンコ」です。パチンコと言っても、時間つぶしにやっていたわけではありません。
収入がある事を考え、勝つパチンコを始めたのです。実は「スロット」の方が主なんですが。学生時代には、ちゃんとプラス収支を出していました。月の収支で負けたことはありません。
勝つ自信はありました。しかし長い間離れていたため、初月は12万円しか勝つことができませんでした。それでも、まったく収入が無いという状況は打破することができました。そうして、2ヵ月目からはそこそこ稼げるようになり、貯蓄はどんどんと増えて行きました。
当初、一か月後くらいには連絡があるだろうと考えていました。しかし、2ヵ月経っても、3ヵ月経っても連絡が来ません。後に聞いたは話では、引き抜きであることが会社側にバレて大変なことになったというのを知らされました。しかし、それを聞いた時、「辞めさせるために騙されたのかな」という考えも脳裏をよぎりました。さらに後々会った時には、その元上司も会社が変わっており、ウソであるとは考えにくい状況でした。
転職の待機をするために始めたスロットですが、結局気づいたら4年以上もそのような生活をしていました。いわゆる「スロプロ」として生活していたことになります。4年もブランクがあり、再就職をするのは難しいとも考えていました。
パチプロになりたいと思う人は少なからずいると思います。しかし自分はなりたいからなった訳ではありませんでした。生活をしのぐ為に仕方なく始めたのです。
ここで詳細はあえて書きませんが、なかなか特異な経験でした。
20代後半のある日、ある人物からの電話でその生活が終わりを迎えました。派遣会社の上司ではありません。
大学時代に将来、会社を設立しようと話していた知人からの電話でした。何の業種で立ち上げればよいのか、迷いはありませんでした。パソコン関連です。
当初、修理をすることは考えていませんでした。周辺機器の販売をするつもりで会社を立ち上げたのです。
最近になって、NHK党の立花隆さんや、俳優の阿部寛さんが昔パチプロをやっていたという話をききました。ちょうど自分がそうだった時期と重なり、とても稼ぎやすい時代だったから、そんな人が多かったんだと、納得しました。
会社を設立して18年以上経ちました。人生の中では、そちらでの出来事の方がとても印象深い事だらけです。そんな修理屋としての出来事をたくさんつづっておりますので、他の記事も是非読んで頂ければと思います。
しかし、それはある日突然やってきました。派遣会社の所長兼上司からこのような話をされたのです。
自分が親しい大きな会社で、派遣部門を立ち上げる。いわゆる「引き抜き」をされた。待遇も良いとのこと。
そこへお前も一緒に連れて行きたい。同時に会社を辞めると本社から詮索されるおそれがあるから、先に会社を辞めて待っていて欲しい。後始末が済んだらそこへ呼ぶ。とのことだった。
そして、突然、2週間ほどの引継ぎを行って辞めることとなりました。
辞めたはいいけれども、仕事を探すわけにはゆかない事に気づきました。すぐに仕事に就くためには、仕事をせずに待たなければならない。たとえバイトにしても、引継ぎをしている時間は無いし、すぐに連絡が来たら、バイト先には申し訳ない。そんな思いから仕事を探すことはやめました。蓄えはあったので、少しの間ならそのような状況でもよいかもしれませんでした。
とはいえ、いつまもでもジリジリと蓄えを減らしながら待ってはいられないと、悩みました。そこで始めたのが「パチンコ」です。パチンコと言っても、時間つぶしにやっていたわけではありません。
収入がある事を考え、勝つパチンコを始めたのです。実は「スロット」の方が主なんですが。学生時代には、ちゃんとプラス収支を出していました。月の収支で負けたことはありません。
勝つ自信はありました。しかし長い間離れていたため、初月は12万円しか勝つことができませんでした。それでも、まったく収入が無いという状況は打破することができました。そうして、2ヵ月目からはそこそこ稼げるようになり、貯蓄はどんどんと増えて行きました。
当初、一か月後くらいには連絡があるだろうと考えていました。しかし、2ヵ月経っても、3ヵ月経っても連絡が来ません。後に聞いたは話では、引き抜きであることが会社側にバレて大変なことになったというのを知らされました。しかし、それを聞いた時、「辞めさせるために騙されたのかな」という考えも脳裏をよぎりました。さらに後々会った時には、その元上司も会社が変わっており、ウソであるとは考えにくい状況でした。
転職の待機をするために始めたスロットですが、結局気づいたら4年以上もそのような生活をしていました。いわゆる「スロプロ」として生活していたことになります。4年もブランクがあり、再就職をするのは難しいとも考えていました。
パチプロになりたいと思う人は少なからずいると思います。しかし自分はなりたいからなった訳ではありませんでした。生活をしのぐ為に仕方なく始めたのです。
ここで詳細はあえて書きませんが、なかなか特異な経験でした。
20代後半のある日、ある人物からの電話でその生活が終わりを迎えました。派遣会社の上司ではありません。
大学時代に将来、会社を設立しようと話していた知人からの電話でした。何の業種で立ち上げればよいのか、迷いはありませんでした。パソコン関連です。
当初、修理をすることは考えていませんでした。周辺機器の販売をするつもりで会社を立ち上げたのです。
最近になって、NHK党の立花隆さんや、俳優の阿部寛さんが昔パチプロをやっていたという話をききました。ちょうど自分がそうだった時期と重なり、とても稼ぎやすい時代だったから、そんな人が多かったんだと、納得しました。
会社を設立して18年以上経ちました。人生の中では、そちらでの出来事の方がとても印象深い事だらけです。そんな修理屋としての出来事をたくさんつづっておりますので、他の記事も是非読んで頂ければと思います。
2022年08月24日
文系の私がSE (システムエンジニア) を目指して挫折した理由 (その3・最終回)
大したプログラミングの知識もないのに、アクセスで1回アプリケーションを作成しただけで勘違いしていました。
しかし、あっさりと上司はプログラマーとして派遣にOKをくれたのです。
派遣先は、アパレルの卸問屋から6億円の商品管理・経理システムを受注した企業。臨時で6か月間の人員増強のための派遣でした。
私と一緒にもう一人、自分よりも5歳ほど年上の方と一緒に派遣されました。私よりも確実に経験と知識のある方でした。
最初に与えられた仕事は、仕様書と出来上がった部分的なプログラムを渡され、不具合が無いか、出力される数値に間違いがないかをチェックする作業です。いわゆる「デバッグ」です。
アクセスで SQL を学んでいたおかげで、難解な仕様書を理解する事ができ、なんとか仕事をこなすことができました。それから、たまたま簿記の資格を持っていたことも、仕様書に出てくる科目の理解の助けとなりました。
現在、思い返してみると、あの程度の知識でよくプログラマーとして働きたいと思ったものだと恥ずかしくなります。
プログラミングの知識が低いのを補うため、コミュニケーションに特に気を使いました。挨拶は快活に。返答や受け答えは、はっきりと活舌よく、を心掛けました。そうしていると、一ヵ月ほど経ったある日の事。
一緒に派遣されたもう一人の方が、契約解除されてしまったのです。上司の話によると派遣先に仕事ができないと判断されてしまったようです。確実に自分の方が知識がないにもかかわらずです。
その方は仕事はできるのに、コミュニケーションを取るのが少し苦手がゆえに、解除されてしまったのです。本当は自分も苦手なのですが、必死に補おうとしていました。
結局、仕事において重要なのは「コミュニケーション」というのを学んだ25歳夏の出来事です。
少しずつ、難しい仕事もするようになり、半年はあっという間でした。半年といいますか、一日があっという間なんです。物事に集中していると会社に来て、あっという間に昼になり、あっという間に夜になる。という日々を繰り返しました。別に楽しいからではありませんよ。
現在でも、パソコンを使って長丁場な仕事をしていると、時間の進みを速く感じ、一日では大した作業がこなせない事にいら立ちを感じることがあります。これに似た感覚です。
プログラマーとしての派遣の半年が過ぎ、派遣会社の事務へ戻ってくることになりました。仕事の満足感はあったものの、目指している SE は、はたして本当に自分がやりたい仕事なのか、という疑問にブチ当たりました。
やりたい仕事ではなく、体験してみたい仕事、だったのかもしれません。一日中、パソコンと向き合って、あっという間に日が暮れる生活に一気に熱がさめた気がしました。
作るのは好きですが、与えられた設計図を組み立てる。同じことを延々と毎日繰り返す。この事に冷めてしまったのだと思います。
自分はどちらかというと、自分で考えたアイデアを形にしたい。色々な仕事をやりたいと思う性格です。SE になれば、自分の考えたアイデアをある程度形にはできます。しかし、下積みを何年もやっての話です。それから、いくら SE でも顧客の要望を無視してアイデアを形にすることはできません。そして SE になるとパソコンにあまり触らなくなるという現実。
そういった「自分の性格に合ってないんじゃないか」という仕事内容を、より垣間見ることができて挫折してしまったのです。
最後は体よく言葉にしましたが、「もっと楽しそうな他の仕事が見えて来た」というのも大いにあります・・・。
次回は、そんな目指すものが無くなってしまった私が、ある日突然、無職になったお話をさせて頂きます。
しかし、あっさりと上司はプログラマーとして派遣にOKをくれたのです。
派遣先は、アパレルの卸問屋から6億円の商品管理・経理システムを受注した企業。臨時で6か月間の人員増強のための派遣でした。
私と一緒にもう一人、自分よりも5歳ほど年上の方と一緒に派遣されました。私よりも確実に経験と知識のある方でした。
最初に与えられた仕事は、仕様書と出来上がった部分的なプログラムを渡され、不具合が無いか、出力される数値に間違いがないかをチェックする作業です。いわゆる「デバッグ」です。
アクセスで SQL を学んでいたおかげで、難解な仕様書を理解する事ができ、なんとか仕事をこなすことができました。それから、たまたま簿記の資格を持っていたことも、仕様書に出てくる科目の理解の助けとなりました。
現在、思い返してみると、あの程度の知識でよくプログラマーとして働きたいと思ったものだと恥ずかしくなります。
プログラミングの知識が低いのを補うため、コミュニケーションに特に気を使いました。挨拶は快活に。返答や受け答えは、はっきりと活舌よく、を心掛けました。そうしていると、一ヵ月ほど経ったある日の事。
一緒に派遣されたもう一人の方が、契約解除されてしまったのです。上司の話によると派遣先に仕事ができないと判断されてしまったようです。確実に自分の方が知識がないにもかかわらずです。
その方は仕事はできるのに、コミュニケーションを取るのが少し苦手がゆえに、解除されてしまったのです。本当は自分も苦手なのですが、必死に補おうとしていました。
結局、仕事において重要なのは「コミュニケーション」というのを学んだ25歳夏の出来事です。
少しずつ、難しい仕事もするようになり、半年はあっという間でした。半年といいますか、一日があっという間なんです。物事に集中していると会社に来て、あっという間に昼になり、あっという間に夜になる。という日々を繰り返しました。別に楽しいからではありませんよ。
現在でも、パソコンを使って長丁場な仕事をしていると、時間の進みを速く感じ、一日では大した作業がこなせない事にいら立ちを感じることがあります。これに似た感覚です。
プログラマーとしての派遣の半年が過ぎ、派遣会社の事務へ戻ってくることになりました。仕事の満足感はあったものの、目指している SE は、はたして本当に自分がやりたい仕事なのか、という疑問にブチ当たりました。
やりたい仕事ではなく、体験してみたい仕事、だったのかもしれません。一日中、パソコンと向き合って、あっという間に日が暮れる生活に一気に熱がさめた気がしました。
作るのは好きですが、与えられた設計図を組み立てる。同じことを延々と毎日繰り返す。この事に冷めてしまったのだと思います。
自分はどちらかというと、自分で考えたアイデアを形にしたい。色々な仕事をやりたいと思う性格です。SE になれば、自分の考えたアイデアをある程度形にはできます。しかし、下積みを何年もやっての話です。それから、いくら SE でも顧客の要望を無視してアイデアを形にすることはできません。そして SE になるとパソコンにあまり触らなくなるという現実。
そういった「自分の性格に合ってないんじゃないか」という仕事内容を、より垣間見ることができて挫折してしまったのです。
最後は体よく言葉にしましたが、「もっと楽しそうな他の仕事が見えて来た」というのも大いにあります・・・。
次回は、そんな目指すものが無くなってしまった私が、ある日突然、無職になったお話をさせて頂きます。
2022年07月31日
文系の私がSE (システムエンジニア) を目指して挫折した理由 (その2)
仕事を始めて半年もたった頃、会社からの信頼も得ることができました。
そのおかげでオペレーターをこなしつつ、その会社のホームページ作成やCG検定試験セミナーの講師助手を任されるようになりました。
大学に入った直後には、日本でインターネットはまだ知られていませんでした。代わりに「パソコン通信」というものがあり、利用していました。大学3、4年あたりで日本でもやっとインターネットが普及し始め、のめり込んだのを覚えています。
周りの誰もインターネットをしていないのに、本を買ってきて見よう見まねでホームページを作成しアップロードしたのを覚えています。
今は会社のホームページがあって当たり前ですが、当時はそうではありませんでした。たまたま、ホームページを持っているという話をしたことで、会社のホームページ作成を任されたのです。ただの派遣社員が一部上場企業のホームページ作成です。当然クオリティは低いものでしたし、与えられた資料を見やすく表示させるように組んでいくだけでした。
ちなみに自分のホームページでは、大学時代に描いた絵を紹介していました。そこで自分用にリンク集を作成し、公開もしていました。本を沢山買ってきて、便利そうなサイトをかたっぱしから追加していました。そうすると、いつの間にか、なかなかなのアクセスがあるようになっていたんです。
「グーグル」や「Yahoo!!」 がまだ無い時です。インターネットで人が一番欲しているのは良いサイトのアドレスなんだ、と、当時、少し気づいていましたが、それ以上広げることができなかったのが残念です。
また、後に「絵画に関するディスカッション掲示板」のコンテンツを追加した時も、大量の書き込みがあり、管理が大変な時期がありました。「2ちゃんねる」がまだ無い時です。だから「2ちゃんねる」が全盛になった時には、「ああ、コレもみんなが求めていたものだったなぁ」となりました。
「人が求めるものを、一番最初に便利に提供できる人が成功をつかむんだなぁ」と、思っていたのを思い出します。
さて、話は戻りましてSEに加えプログラマーの人とも仲良くなり、「プログラミングの仕事もやってみるか?」、「上司に相談してやろう」というところまで行っていました。ちょうど会社に入って1年が経過しようとしていた頃です。
当時、派遣社員の契約は1年単位。継続で更新があればもう1年働くことができる話でした。しかし、社員の知り合いが入社することになり、私が行っていたオペーレーターの席を空ける必要があったのです。
残念ながら、ちょうど1年で辞める事になり、次の仕事を探さなければいけない状況となったのです。
本来、派遣期間が終了すると次の仕事がすぐに用意されているわけではありません。しかし、たまたま簿記の資格を持っていたので、「派遣会社の経理をやらないか」という話をもらいました。
選んでいる余裕はなかったので、不本意ではあるものの承諾しました。初めの話では派遣会社の経理・営業を主に行うということでした。
実際に働いてみると、60名ほどいる派遣社員の給与計算や勤怠確認、派遣社員の募集を見て来た方の面接、派遣先の会社へ訪問でした。
派遣されていた従業員は理系を卒業して、プログラマーとして派遣されているプログラマーとSEがほとんどでした。
能力はあるのに社員として入社せず、派遣社員で SE をしているのはなぜなのか。それは実際に働いている人と仲良くなって知ることができました。私は給与管理をしていたので、従業員全員の給与金額を知っていましたし、能力も分かっていました。
ある能力のある SE の月給は60万円ほどでした。能力のあるSEにしては少ないです。しかし、この SE さん。遅刻・欠勤しまくりなのに60万円だったんです。
派遣先からクレームはしょっちゅう。しかし、派遣先はSEの能力が高すぎて本人には強く言えてなかったんです。「突然欠勤するけど、来たら人の何倍もの成果を出す」本人も給料分の仕事はやってるから文句言うなよ的な感覚だったんでしょう。
さらに暴露すると、派遣先から支払われていた契約額は月120万円でした。半分ピンハネです。当時、能力のある SE であれば月120万円でも引っ張りだこの時代でした。
また、そこそこ能力のあるプログラマーは突然、会社を3ヵ月休みたいと申し出ました。貯めたお金で世界一周を計画していたそうです。
普通に就職していたら、却下される相談です。しかし、派遣会社だから契約の期間さえ調節すれば、何の問題もありません。3ヵ月後、戻ってきて普通に働いていました。
そんな仕事をこなしていたある日、私の上司が一人の派遣プログラマーにある相談をしていました。それは、「給与計算の管理と帳票印刷ができるようソフトを作成して欲しい」というものでした。
特殊な入力項目が多く、対応したソフトが無いため毎回エクセルで全て作成していました。毎月あるのですが、約60名分を一覧で確認できる表を作成するだけで数時間かかるのです。
ソフトをつくれば、その作業が数字の入力だけでできるようになる予定でした。
私は経理の仕事の間に、マイクロソフトの「アクセス」を使って作成に挑戦してみたのです。本を一冊買ってきて、試行錯誤して作成してゆきました。
出来上がったものを、上司に見てもらうと採用されてしまいました。この件がきっかけで、プログラマーとして世に出てみたい気持ちが再び燃え上がってしまいました。
そして、上司に「派遣に出してください」とお願いしたのです。
そのおかげでオペレーターをこなしつつ、その会社のホームページ作成やCG検定試験セミナーの講師助手を任されるようになりました。
大学に入った直後には、日本でインターネットはまだ知られていませんでした。代わりに「パソコン通信」というものがあり、利用していました。大学3、4年あたりで日本でもやっとインターネットが普及し始め、のめり込んだのを覚えています。
周りの誰もインターネットをしていないのに、本を買ってきて見よう見まねでホームページを作成しアップロードしたのを覚えています。
今は会社のホームページがあって当たり前ですが、当時はそうではありませんでした。たまたま、ホームページを持っているという話をしたことで、会社のホームページ作成を任されたのです。ただの派遣社員が一部上場企業のホームページ作成です。当然クオリティは低いものでしたし、与えられた資料を見やすく表示させるように組んでいくだけでした。
ちなみに自分のホームページでは、大学時代に描いた絵を紹介していました。そこで自分用にリンク集を作成し、公開もしていました。本を沢山買ってきて、便利そうなサイトをかたっぱしから追加していました。そうすると、いつの間にか、なかなかなのアクセスがあるようになっていたんです。
「グーグル」や「Yahoo!!」 がまだ無い時です。インターネットで人が一番欲しているのは良いサイトのアドレスなんだ、と、当時、少し気づいていましたが、それ以上広げることができなかったのが残念です。
また、後に「絵画に関するディスカッション掲示板」のコンテンツを追加した時も、大量の書き込みがあり、管理が大変な時期がありました。「2ちゃんねる」がまだ無い時です。だから「2ちゃんねる」が全盛になった時には、「ああ、コレもみんなが求めていたものだったなぁ」となりました。
「人が求めるものを、一番最初に便利に提供できる人が成功をつかむんだなぁ」と、思っていたのを思い出します。
さて、話は戻りましてSEに加えプログラマーの人とも仲良くなり、「プログラミングの仕事もやってみるか?」、「上司に相談してやろう」というところまで行っていました。ちょうど会社に入って1年が経過しようとしていた頃です。
当時、派遣社員の契約は1年単位。継続で更新があればもう1年働くことができる話でした。しかし、社員の知り合いが入社することになり、私が行っていたオペーレーターの席を空ける必要があったのです。
残念ながら、ちょうど1年で辞める事になり、次の仕事を探さなければいけない状況となったのです。
本来、派遣期間が終了すると次の仕事がすぐに用意されているわけではありません。しかし、たまたま簿記の資格を持っていたので、「派遣会社の経理をやらないか」という話をもらいました。
選んでいる余裕はなかったので、不本意ではあるものの承諾しました。初めの話では派遣会社の経理・営業を主に行うということでした。
実際に働いてみると、60名ほどいる派遣社員の給与計算や勤怠確認、派遣社員の募集を見て来た方の面接、派遣先の会社へ訪問でした。
派遣されていた従業員は理系を卒業して、プログラマーとして派遣されているプログラマーとSEがほとんどでした。
能力はあるのに社員として入社せず、派遣社員で SE をしているのはなぜなのか。それは実際に働いている人と仲良くなって知ることができました。私は給与管理をしていたので、従業員全員の給与金額を知っていましたし、能力も分かっていました。
ある能力のある SE の月給は60万円ほどでした。能力のあるSEにしては少ないです。しかし、この SE さん。遅刻・欠勤しまくりなのに60万円だったんです。
派遣先からクレームはしょっちゅう。しかし、派遣先はSEの能力が高すぎて本人には強く言えてなかったんです。「突然欠勤するけど、来たら人の何倍もの成果を出す」本人も給料分の仕事はやってるから文句言うなよ的な感覚だったんでしょう。
さらに暴露すると、派遣先から支払われていた契約額は月120万円でした。半分ピンハネです。当時、能力のある SE であれば月120万円でも引っ張りだこの時代でした。
また、そこそこ能力のあるプログラマーは突然、会社を3ヵ月休みたいと申し出ました。貯めたお金で世界一周を計画していたそうです。
普通に就職していたら、却下される相談です。しかし、派遣会社だから契約の期間さえ調節すれば、何の問題もありません。3ヵ月後、戻ってきて普通に働いていました。
そんな仕事をこなしていたある日、私の上司が一人の派遣プログラマーにある相談をしていました。それは、「給与計算の管理と帳票印刷ができるようソフトを作成して欲しい」というものでした。
特殊な入力項目が多く、対応したソフトが無いため毎回エクセルで全て作成していました。毎月あるのですが、約60名分を一覧で確認できる表を作成するだけで数時間かかるのです。
ソフトをつくれば、その作業が数字の入力だけでできるようになる予定でした。
私は経理の仕事の間に、マイクロソフトの「アクセス」を使って作成に挑戦してみたのです。本を一冊買ってきて、試行錯誤して作成してゆきました。
出来上がったものを、上司に見てもらうと採用されてしまいました。この件がきっかけで、プログラマーとして世に出てみたい気持ちが再び燃え上がってしまいました。
そして、上司に「派遣に出してください」とお願いしたのです。
2022年06月24日
文系の私がSE (システムエンジニア) を目指して挫折した理由 (その1)
システムエンジニアという言葉だけにあこがれていたのかもしません。
「パソコンのソフトを作り上げるまとめ役の人」というイメージを当時は持っていました。
仕事の中心は「プログラマーの中の一人としてパソコンの前で仕事をするんだろうな」とも考えていました。
就職超氷河期に文系の三流大学を卒業した自分には、成りたい職業を選ぶという事ができない時代でした。
それでも、パソコンが好きで大学時代には200万円以上を注ぎこみ、機器やソフトを揃え、パソコンに触ったことが無い人が多い時代に、それなりに扱えるようになっていました。
田舎の社員募集を見ると、パソコン関連の会社は1社のみ。募集人員も数名なのに、そこへ百人以上応募するようなイカれた時代でした。
大学は九州でしたが、福岡で就職活動をしてみると、田舎の数百倍とも言えるような募集がありました。
IT系の募集は特に多く、SEをなんとなく意識し始めていた自分には好都合でした。
それでも厳しい就職難。就職説明会、入社試験・面接をたくさんしていると、正直、心が折れました。
自分は元々、自分を良く見せようと説明するのが苦手なのです。
それでも面接ではそのアピールが必要です。
「犬に木に登れ」と言ってもできる訳がありません。
また、「圧迫面接」というものが当時は普通に行われていました。
故意に侮辱したり怒らせるような発言をされます。今考えれば、冷静に対応でき、ストレスに耐えうる人間を見分けるのに必要だったんだと納得できます。
しかし当時は、圧迫面接を理解せずに暴言をあびせられ、半分病んでしまいました。
仕事を見つけなければ生きていくことができない。
そう思った私は、ハローワークへ足を運んだり、就職雑誌、はたまたバイト雑誌まで入手し、新卒がやる事ではない行動をし、情報だけでも得ようと必死でした。
そんな中、目に止まったのがバイトの求人広告に出ていた「IT派遣」というものでした。
「バイトと社員の中間?」と考えていた私は、すぐにプログラマーやオペレーターの派遣募集している会社の面接に申し込んだのです。
就職難の時代でしたが、当時の福岡は後に「ITバブル」と言われるほどパソコンに関わる仕事があったんです。
面接をして数日後でした。
電話があり、「夜勤の仕事なんだけど、大丈夫?」という内容でした。
仕事は、ある上場企業の印刷オペレーター。
保険証や診断書、公的な書類を印刷する仕事です。
特殊な印刷工程作業をパソコンを使って操作するというもの。
本来なら正社員として就職したいところですが、文系の自分が正攻法で目指せる世界ではないと気づき始めていたので、二度返事で受け入れました。
印刷オペレーターの仕事は、1年間でした。仕事を始めて1ヵ月で10kg痩せたり、30時間ぶっ続け労働を体験したこともありました。
死ぬような思いをした事もありましたが、そんなことでSEを諦めようとは思いませんでした。
仕事にも慣れ、落ち着いた頃、上司の SE の方と仲良くなり仕事内容を見る機会がありました。
その SE は日中でも、夜勤上がりの午前3時ころでも、祝日の日も、いつも会社にいるのです。
寝袋は常備。椅子を並べて寝る方法も教えてもらいました。
まるで会社に住んでいるようでした。
どんなにサボっているように見えても、会社の社長がこの人だけには逆らえない状況も垣間見ました。
それから、SE の生態で一番驚いたのは「パソコンを触っているのをほとんど見たことが無い」という事です。
SE なのにパソコンに触らないのか?と思うところですが、その時に私が理解したのは、 SE とは顧客との打ち合わせ。設計作成。プログラマーに手書きの個別仕様書を渡す。
という流れです。パソコンはあまり必要ないのです。
SE に必要な技能にはプログラミングの深い理解もありますが、「コミニュケーション能力」の方が大事だと感じました。
打ち合わせで何度も何度も顧客と合って話すからです。
先生のトップである校長は授業をしません。
野球監督もバットを振るワケではりません。
そう、校長や野球監督のような存在が SE です。
成りたいと思うべき職業ではなく、行き着く職業だったんです。
それを理解し始めた私は、SE に対する憧れが急に冷め始めたのを覚えています。
とは言え当時は、急な方向転換ができず、プログラマーの端くれまでは経験をしました。
以降の内容につきましては (その2) で述べさせていただきます。
「パソコンのソフトを作り上げるまとめ役の人」というイメージを当時は持っていました。
仕事の中心は「プログラマーの中の一人としてパソコンの前で仕事をするんだろうな」とも考えていました。
就職超氷河期に文系の三流大学を卒業した自分には、成りたい職業を選ぶという事ができない時代でした。
それでも、パソコンが好きで大学時代には200万円以上を注ぎこみ、機器やソフトを揃え、パソコンに触ったことが無い人が多い時代に、それなりに扱えるようになっていました。
田舎の社員募集を見ると、パソコン関連の会社は1社のみ。募集人員も数名なのに、そこへ百人以上応募するようなイカれた時代でした。
大学は九州でしたが、福岡で就職活動をしてみると、田舎の数百倍とも言えるような募集がありました。
IT系の募集は特に多く、SEをなんとなく意識し始めていた自分には好都合でした。
それでも厳しい就職難。就職説明会、入社試験・面接をたくさんしていると、正直、心が折れました。
自分は元々、自分を良く見せようと説明するのが苦手なのです。
それでも面接ではそのアピールが必要です。
「犬に木に登れ」と言ってもできる訳がありません。
また、「圧迫面接」というものが当時は普通に行われていました。
故意に侮辱したり怒らせるような発言をされます。今考えれば、冷静に対応でき、ストレスに耐えうる人間を見分けるのに必要だったんだと納得できます。
しかし当時は、圧迫面接を理解せずに暴言をあびせられ、半分病んでしまいました。
仕事を見つけなければ生きていくことができない。
そう思った私は、ハローワークへ足を運んだり、就職雑誌、はたまたバイト雑誌まで入手し、新卒がやる事ではない行動をし、情報だけでも得ようと必死でした。
そんな中、目に止まったのがバイトの求人広告に出ていた「IT派遣」というものでした。
「バイトと社員の中間?」と考えていた私は、すぐにプログラマーやオペレーターの派遣募集している会社の面接に申し込んだのです。
就職難の時代でしたが、当時の福岡は後に「ITバブル」と言われるほどパソコンに関わる仕事があったんです。
面接をして数日後でした。
電話があり、「夜勤の仕事なんだけど、大丈夫?」という内容でした。
仕事は、ある上場企業の印刷オペレーター。
保険証や診断書、公的な書類を印刷する仕事です。
特殊な印刷工程作業をパソコンを使って操作するというもの。
本来なら正社員として就職したいところですが、文系の自分が正攻法で目指せる世界ではないと気づき始めていたので、二度返事で受け入れました。
印刷オペレーターの仕事は、1年間でした。仕事を始めて1ヵ月で10kg痩せたり、30時間ぶっ続け労働を体験したこともありました。
死ぬような思いをした事もありましたが、そんなことでSEを諦めようとは思いませんでした。
仕事にも慣れ、落ち着いた頃、上司の SE の方と仲良くなり仕事内容を見る機会がありました。
その SE は日中でも、夜勤上がりの午前3時ころでも、祝日の日も、いつも会社にいるのです。
寝袋は常備。椅子を並べて寝る方法も教えてもらいました。
まるで会社に住んでいるようでした。
どんなにサボっているように見えても、会社の社長がこの人だけには逆らえない状況も垣間見ました。
それから、SE の生態で一番驚いたのは「パソコンを触っているのをほとんど見たことが無い」という事です。
SE なのにパソコンに触らないのか?と思うところですが、その時に私が理解したのは、 SE とは顧客との打ち合わせ。設計作成。プログラマーに手書きの個別仕様書を渡す。
という流れです。パソコンはあまり必要ないのです。
SE に必要な技能にはプログラミングの深い理解もありますが、「コミニュケーション能力」の方が大事だと感じました。
打ち合わせで何度も何度も顧客と合って話すからです。
先生のトップである校長は授業をしません。
野球監督もバットを振るワケではりません。
そう、校長や野球監督のような存在が SE です。
成りたいと思うべき職業ではなく、行き着く職業だったんです。
それを理解し始めた私は、SE に対する憧れが急に冷め始めたのを覚えています。
とは言え当時は、急な方向転換ができず、プログラマーの端くれまでは経験をしました。
以降の内容につきましては (その2) で述べさせていただきます。