2022年06月24日
文系の私がSE (システムエンジニア) を目指して挫折した理由 (その1)
システムエンジニアという言葉だけにあこがれていたのかもしません。
「パソコンのソフトを作り上げるまとめ役の人」というイメージを当時は持っていました。
仕事の中心は「プログラマーの中の一人としてパソコンの前で仕事をするんだろうな」とも考えていました。
就職超氷河期に文系の三流大学を卒業した自分には、成りたい職業を選ぶという事ができない時代でした。
それでも、パソコンが好きで大学時代には200万円以上を注ぎこみ、機器やソフトを揃え、パソコンに触ったことが無い人が多い時代に、それなりに扱えるようになっていました。
田舎の社員募集を見ると、パソコン関連の会社は1社のみ。募集人員も数名なのに、そこへ百人以上応募するようなイカれた時代でした。
大学は九州でしたが、福岡で就職活動をしてみると、田舎の数百倍とも言えるような募集がありました。
IT系の募集は特に多く、SEをなんとなく意識し始めていた自分には好都合でした。
それでも厳しい就職難。就職説明会、入社試験・面接をたくさんしていると、正直、心が折れました。
自分は元々、自分を良く見せようと説明するのが苦手なのです。
それでも面接ではそのアピールが必要です。
「犬に木に登れ」と言ってもできる訳がありません。
また、「圧迫面接」というものが当時は普通に行われていました。
故意に侮辱したり怒らせるような発言をされます。今考えれば、冷静に対応でき、ストレスに耐えうる人間を見分けるのに必要だったんだと納得できます。
しかし当時は、圧迫面接を理解せずに暴言をあびせられ、半分病んでしまいました。
仕事を見つけなければ生きていくことができない。
そう思った私は、ハローワークへ足を運んだり、就職雑誌、はたまたバイト雑誌まで入手し、新卒がやる事ではない行動をし、情報だけでも得ようと必死でした。
そんな中、目に止まったのがバイトの求人広告に出ていた「IT派遣」というものでした。
「バイトと社員の中間?」と考えていた私は、すぐにプログラマーやオペレーターの派遣募集している会社の面接に申し込んだのです。
就職難の時代でしたが、当時の福岡は後に「ITバブル」と言われるほどパソコンに関わる仕事があったんです。
面接をして数日後でした。
電話があり、「夜勤の仕事なんだけど、大丈夫?」という内容でした。
仕事は、ある上場企業の印刷オペレーター。
保険証や診断書、公的な書類を印刷する仕事です。
特殊な印刷工程作業をパソコンを使って操作するというもの。
本来なら正社員として就職したいところですが、文系の自分が正攻法で目指せる世界ではないと気づき始めていたので、二度返事で受け入れました。
印刷オペレーターの仕事は、1年間でした。仕事を始めて1ヵ月で10kg痩せたり、30時間ぶっ続け労働を体験したこともありました。
死ぬような思いをした事もありましたが、そんなことでSEを諦めようとは思いませんでした。
仕事にも慣れ、落ち着いた頃、上司の SE の方と仲良くなり仕事内容を見る機会がありました。
その SE は日中でも、夜勤上がりの午前3時ころでも、祝日の日も、いつも会社にいるのです。
寝袋は常備。椅子を並べて寝る方法も教えてもらいました。
まるで会社に住んでいるようでした。
どんなにサボっているように見えても、会社の社長がこの人だけには逆らえない状況も垣間見ました。
それから、SE の生態で一番驚いたのは「パソコンを触っているのをほとんど見たことが無い」という事です。
SE なのにパソコンに触らないのか?と思うところですが、その時に私が理解したのは、 SE とは顧客との打ち合わせ。設計作成。プログラマーに手書きの個別仕様書を渡す。
という流れです。パソコンはあまり必要ないのです。
SE に必要な技能にはプログラミングの深い理解もありますが、「コミニュケーション能力」の方が大事だと感じました。
打ち合わせで何度も何度も顧客と合って話すからです。
先生のトップである校長は授業をしません。
野球監督もバットを振るワケではりません。
そう、校長や野球監督のような存在が SE です。
成りたいと思うべき職業ではなく、行き着く職業だったんです。
それを理解し始めた私は、SE に対する憧れが急に冷め始めたのを覚えています。
とは言え当時は、急な方向転換ができず、プログラマーの端くれまでは経験をしました。
以降の内容につきましては (その2) で述べさせていただきます。
「パソコンのソフトを作り上げるまとめ役の人」というイメージを当時は持っていました。
仕事の中心は「プログラマーの中の一人としてパソコンの前で仕事をするんだろうな」とも考えていました。
就職超氷河期に文系の三流大学を卒業した自分には、成りたい職業を選ぶという事ができない時代でした。
それでも、パソコンが好きで大学時代には200万円以上を注ぎこみ、機器やソフトを揃え、パソコンに触ったことが無い人が多い時代に、それなりに扱えるようになっていました。
田舎の社員募集を見ると、パソコン関連の会社は1社のみ。募集人員も数名なのに、そこへ百人以上応募するようなイカれた時代でした。
大学は九州でしたが、福岡で就職活動をしてみると、田舎の数百倍とも言えるような募集がありました。
IT系の募集は特に多く、SEをなんとなく意識し始めていた自分には好都合でした。
それでも厳しい就職難。就職説明会、入社試験・面接をたくさんしていると、正直、心が折れました。
自分は元々、自分を良く見せようと説明するのが苦手なのです。
それでも面接ではそのアピールが必要です。
「犬に木に登れ」と言ってもできる訳がありません。
また、「圧迫面接」というものが当時は普通に行われていました。
故意に侮辱したり怒らせるような発言をされます。今考えれば、冷静に対応でき、ストレスに耐えうる人間を見分けるのに必要だったんだと納得できます。
しかし当時は、圧迫面接を理解せずに暴言をあびせられ、半分病んでしまいました。
仕事を見つけなければ生きていくことができない。
そう思った私は、ハローワークへ足を運んだり、就職雑誌、はたまたバイト雑誌まで入手し、新卒がやる事ではない行動をし、情報だけでも得ようと必死でした。
そんな中、目に止まったのがバイトの求人広告に出ていた「IT派遣」というものでした。
「バイトと社員の中間?」と考えていた私は、すぐにプログラマーやオペレーターの派遣募集している会社の面接に申し込んだのです。
就職難の時代でしたが、当時の福岡は後に「ITバブル」と言われるほどパソコンに関わる仕事があったんです。
面接をして数日後でした。
電話があり、「夜勤の仕事なんだけど、大丈夫?」という内容でした。
仕事は、ある上場企業の印刷オペレーター。
保険証や診断書、公的な書類を印刷する仕事です。
特殊な印刷工程作業をパソコンを使って操作するというもの。
本来なら正社員として就職したいところですが、文系の自分が正攻法で目指せる世界ではないと気づき始めていたので、二度返事で受け入れました。
印刷オペレーターの仕事は、1年間でした。仕事を始めて1ヵ月で10kg痩せたり、30時間ぶっ続け労働を体験したこともありました。
死ぬような思いをした事もありましたが、そんなことでSEを諦めようとは思いませんでした。
仕事にも慣れ、落ち着いた頃、上司の SE の方と仲良くなり仕事内容を見る機会がありました。
その SE は日中でも、夜勤上がりの午前3時ころでも、祝日の日も、いつも会社にいるのです。
寝袋は常備。椅子を並べて寝る方法も教えてもらいました。
まるで会社に住んでいるようでした。
どんなにサボっているように見えても、会社の社長がこの人だけには逆らえない状況も垣間見ました。
それから、SE の生態で一番驚いたのは「パソコンを触っているのをほとんど見たことが無い」という事です。
SE なのにパソコンに触らないのか?と思うところですが、その時に私が理解したのは、 SE とは顧客との打ち合わせ。設計作成。プログラマーに手書きの個別仕様書を渡す。
という流れです。パソコンはあまり必要ないのです。
SE に必要な技能にはプログラミングの深い理解もありますが、「コミニュケーション能力」の方が大事だと感じました。
打ち合わせで何度も何度も顧客と合って話すからです。
先生のトップである校長は授業をしません。
野球監督もバットを振るワケではりません。
そう、校長や野球監督のような存在が SE です。
成りたいと思うべき職業ではなく、行き着く職業だったんです。
それを理解し始めた私は、SE に対する憧れが急に冷め始めたのを覚えています。
とは言え当時は、急な方向転換ができず、プログラマーの端くれまでは経験をしました。
以降の内容につきましては (その2) で述べさせていただきます。
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