新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2014年10月26日
高師直のクーデター「太平記 13」
高師直を執事から解任した直義だったが追撃の手をゆるめなかった。口実を設けて三条の直義亭におびき寄せ
暗殺しようとしたのである。このたくらみを直義の家臣のひとりから伝え聞き師直は屋敷を脱出した。
そのころ鎌倉にいた尊氏の嫡子義詮(片岡孝太郎)は、この謀略を知りながらな尊氏が下手人を罰しないのかいらだっていた。
すべて直冬に奪われることの恐れもあった。
一方尊氏はそんな騒ぎをよそに邸内で申楽三昧であった。屋敷を訪れた佐々木判官がほとんど出席者のいない宴を
怪訝に思ったが、尊氏はひそかに手を打っていた。
尊氏の意を受けて師直、師泰兄弟が五万の兵を率いて三条の直義亭を急襲したのだ。斯波高経、吉良満義、桃井刑部(高橋悦史)らが直義亭にいたが
狼狽し直義は尊氏亭に逃げ込んだ。師直は直義を追って尊氏の将軍亭を五万の兵で取り囲んだ。
これは尊氏の思惑通りだった。尊氏は嫌がる直義を政治から遠ざけ変わって嫡子義詮を呼び戻し政務にあたらせることを直義に迫る。
しかし言うことを聞かない直義に手を焼いた尊氏だったが、判官が中に入り、屋敷の外の師直が足利一族もろとも滅ぼす野心がちらついている。
早く決断せねば大変なことになると告げるとさすがの直義も折れ、師直は執事に復帰しクーデターは
成功したのである。
鎌倉より呼び戻された義詮に政務が引き継がれ直義は権力を失った。
直義の養子になっていた直冬(筒井道隆)も長門探題を解任され不満に思った直冬は西国へと流れていった。
暗殺しようとしたのである。このたくらみを直義の家臣のひとりから伝え聞き師直は屋敷を脱出した。
そのころ鎌倉にいた尊氏の嫡子義詮(片岡孝太郎)は、この謀略を知りながらな尊氏が下手人を罰しないのかいらだっていた。
すべて直冬に奪われることの恐れもあった。
一方尊氏はそんな騒ぎをよそに邸内で申楽三昧であった。屋敷を訪れた佐々木判官がほとんど出席者のいない宴を
怪訝に思ったが、尊氏はひそかに手を打っていた。
尊氏の意を受けて師直、師泰兄弟が五万の兵を率いて三条の直義亭を急襲したのだ。斯波高経、吉良満義、桃井刑部(高橋悦史)らが直義亭にいたが
狼狽し直義は尊氏亭に逃げ込んだ。師直は直義を追って尊氏の将軍亭を五万の兵で取り囲んだ。
これは尊氏の思惑通りだった。尊氏は嫌がる直義を政治から遠ざけ変わって嫡子義詮を呼び戻し政務にあたらせることを直義に迫る。
しかし言うことを聞かない直義に手を焼いた尊氏だったが、判官が中に入り、屋敷の外の師直が足利一族もろとも滅ぼす野心がちらついている。
早く決断せねば大変なことになると告げるとさすがの直義も折れ、師直は執事に復帰しクーデターは
成功したのである。
鎌倉より呼び戻された義詮に政務が引き継がれ直義は権力を失った。
直義の養子になっていた直冬(筒井道隆)も長門探題を解任され不満に思った直冬は西国へと流れていった。
新品価格 |
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
2014年10月25日
尊氏と直義の対立高師直の解任「太平記12」
そのころ、吉野では後醍醐天皇は重い病に倒れ最後のときを迎えようとしていた。
帝は阿野廉子 が寄り添う中皆を呼び遺言を授ける。「朝敵足利を討ち天下を太平ならしめよ」後継者には義良親王(後
村上天皇)が指名された。帝崩御の知らせが京に伝わると尊氏は悲嘆にくれた。
敵である帝が逝去したのを嘆くのを見て弟直義以下配下のものは戸惑い怒った。
帝の太平の願いもむなしく各地で南朝方の反乱は相次いだ。又尊氏は政事を直義に任せ幕府は二頭体制をとり
軍事面は執事の高師直、師泰兄弟が仕切り三条に住む直義と対立し始めた。
公家や朝廷の立場を重んじ形式に走る直義の政事に、血を流して南朝方と戦う新興の武士と大きな祖語が生まれたのだ。
そんなとき、 土岐頼遠が光厳上皇の行列に狼藉を働く事件が発生、厳罰を主張する直義側と尊氏は激しく対立
尊氏の意見も無視して土岐は三条河原で斬首される。二人の決裂は決定的に見えたが母清子のとりなしで収まったかに
見えたのだが・・
一方、直義の養子となっていた不知哉丸は直冬と名前を変え立派な武士に成長していた。
直冬は尊氏の反対も無視して光厳上皇の吉野方討伐の院宣を得て南朝軍に攻め込んだ。
尊氏は和平をさぐるべく天敵親房と京都天竜寺で密会していた。
ことを聞いた直義は激怒して尊氏に詰め寄るが、このことはこれ以上追及せず、そのかわり獅子身中の虫、高師直を
執事より解任する。
師直は狼狽し尊氏のもとに駆け込んでくる。この政変で師直は終わったかに見えたが・・・
帝は阿野廉子 が寄り添う中皆を呼び遺言を授ける。「朝敵足利を討ち天下を太平ならしめよ」後継者には義良親王(後
村上天皇)が指名された。帝崩御の知らせが京に伝わると尊氏は悲嘆にくれた。
敵である帝が逝去したのを嘆くのを見て弟直義以下配下のものは戸惑い怒った。
帝の太平の願いもむなしく各地で南朝方の反乱は相次いだ。又尊氏は政事を直義に任せ幕府は二頭体制をとり
軍事面は執事の高師直、師泰兄弟が仕切り三条に住む直義と対立し始めた。
公家や朝廷の立場を重んじ形式に走る直義の政事に、血を流して南朝方と戦う新興の武士と大きな祖語が生まれたのだ。
そんなとき、 土岐頼遠が光厳上皇の行列に狼藉を働く事件が発生、厳罰を主張する直義側と尊氏は激しく対立
尊氏の意見も無視して土岐は三条河原で斬首される。二人の決裂は決定的に見えたが母清子のとりなしで収まったかに
見えたのだが・・
新品価格 |
一方、直義の養子となっていた不知哉丸は直冬と名前を変え立派な武士に成長していた。
直冬は尊氏の反対も無視して光厳上皇の吉野方討伐の院宣を得て南朝軍に攻め込んだ。
尊氏は和平をさぐるべく天敵親房と京都天竜寺で密会していた。
ことを聞いた直義は激怒して尊氏に詰め寄るが、このことはこれ以上追及せず、そのかわり獅子身中の虫、高師直を
執事より解任する。
師直は狼狽し尊氏のもとに駆け込んでくる。この政変で師直は終わったかに見えたが・・・
2014年10月24日
楠木正成新田義貞北畠顕家の死「太平記11」
わずか千の兵力で数万の足利軍と戦っていた楠木軍だったが、もはや勝ち目はなく死に場所を求めて山中を彷徨っていた。
一同は偶然見つけたお堂に集まり互いに顔を見合わせここを終焉の地とした。最後に正季が「七度生まれかわっても
鬼となり朝敵を討ち滅ぼしましょうぞ」と言い切り正成と差し違え自害した。
尊氏は首をさらさず河内の家族へ送り届ける温情を見せた。そのころ都で新田義貞が帝に拝謁していた。
敗戦の責任を問われ公家に叱責される義貞、さりとて朝廷側に策があるわけでなく結局戦の前に正成が進言していた
ように叡山に逃げ込んだのである。
一方義貞は京を舞台に尊氏と終わりなき戦いを繰り広げていた。しかしそんな義貞を尻目に叡山から尊氏と和睦して京に戻った後醍醐天皇から光明天皇に三種の神器
が引き渡され尊氏は権大納言に任じられ京都に幕府を開く。が花山院に幽閉されていた後醍醐天皇は吉野へ逃亡し
ここに南北朝時代の始まる。奇怪なことに朝廷が二つ存在することになるのである。
そのころ奥州では南朝軍の北畠顕家が怒涛のように鎌倉に攻め込み足利軍を蹴散らす。
尊氏は成長した不義の子不知哉丸と再会するが不知哉丸が武士になりたいと所望するが反対し不知哉丸は怒って
飛び出してゆく。顕家は河内和泉と転戦し天王寺で細川軍を破るが高師直軍の不意を突かれ胸に矢を受け絶命する。
又越前で戦っていた義貞も戦いの最中落馬しぬかるみに足を取られたところを矢を受け帝のご宸筆を口に加えたまま
非業の最期を遂げるのである。
一同は偶然見つけたお堂に集まり互いに顔を見合わせここを終焉の地とした。最後に正季が「七度生まれかわっても
鬼となり朝敵を討ち滅ぼしましょうぞ」と言い切り正成と差し違え自害した。
尊氏は首をさらさず河内の家族へ送り届ける温情を見せた。そのころ都で新田義貞が帝に拝謁していた。
敗戦の責任を問われ公家に叱責される義貞、さりとて朝廷側に策があるわけでなく結局戦の前に正成が進言していた
ように叡山に逃げ込んだのである。
一方義貞は京を舞台に尊氏と終わりなき戦いを繰り広げていた。しかしそんな義貞を尻目に叡山から尊氏と和睦して京に戻った後醍醐天皇から光明天皇に三種の神器
が引き渡され尊氏は権大納言に任じられ京都に幕府を開く。が花山院に幽閉されていた後醍醐天皇は吉野へ逃亡し
ここに南北朝時代の始まる。奇怪なことに朝廷が二つ存在することになるのである。
そのころ奥州では南朝軍の北畠顕家が怒涛のように鎌倉に攻め込み足利軍を蹴散らす。
尊氏は成長した不義の子不知哉丸と再会するが不知哉丸が武士になりたいと所望するが反対し不知哉丸は怒って
飛び出してゆく。顕家は河内和泉と転戦し天王寺で細川軍を破るが高師直軍の不意を突かれ胸に矢を受け絶命する。
又越前で戦っていた義貞も戦いの最中落馬しぬかるみに足を取られたところを矢を受け帝のご宸筆を口に加えたまま
非業の最期を遂げるのである。
新品価格 |
2014年10月23日
尊氏の逆襲と決戦湊川「太平記10」
覚悟を決めた尊氏の動きは早く義貞の弟脇屋義助の陣を襲撃しあっと言う間に崩壊させた。
箱根で足利直義を壊滅寸前に追い詰めた新田義貞にもこの知らせは伝わり義貞は焦った。このとき義貞に味方していた
佐々木判官はさっそく足利方に寝返り新田は形成不利となって退却した。
このことは京にも伝わり公家たちは狼狽し、しかも播磨の赤松円心、四国の細川も京に攻め上ってきた。
このとき去就がはっきりしない楠木正成の動向を確かめるために尊氏は正成と極秘に会談し新たに幕府を作る
ときに正成に参画するよう促すが物別れに終わった。尊氏は正成軍を避けて淀の新田を撃破して入京したが、
そのとき奥州にいた北畠顕家(後藤久美子)が電撃の速さで京に攻め上がり尊氏の背後をついてせめ落としたのである。
尊氏は丹波から兵庫へ逃げここで赤松円心と会う。賊軍の立場に不利なものを感じていた尊氏は円心の助言で
後醍醐天皇に皇位を簒奪れた持明院統の光厳上皇の院宣を出してもらいこちらも官軍になるべく画策するが
新田に敗れて九州に落ち延びる。
一方後醍醐天皇側は勝利の美酒に酔っていた。しかし院宣を手にした尊氏は九州の武士を引き連れて船で都を
目指していた。数万の大船団で瀬戸内を進む尊氏軍、尊氏を迎撃すべく陸路山陽道を目指す.義貞だったが、
播磨白旗城で大苦戦、尊氏側は軍を海路と陸路に分け直義は陸路、京を目指した。
結局、義貞は退却し事態を憂慮した後醍醐天皇は正成を呼び対策を尋ねるが、正成はこの戦はわが方の負けで
あり、一旦京都を放棄し帝は叡山に退却しゲリラ戦を仕掛けるしか勝ち目がないことを奏上するが、面子にこだわる
公家の坊門清忠に叱責され、不利と知りつつ兵庫湊川で尊氏軍を迎え撃つべく出立する。
しかし人心はすでに帝から離れており、河内や和泉でも兵は集まらなかった。
一方2万五千の大軍を率いた尊氏軍は光厳上皇の院宣を受けた官軍であることを強調し錦の御旗を掲げる。
足利直義軍と楠木正季軍が大乱戦となり、錦の御旗を見た新田は狼狽し和田岬より生田へと退却、楠木軍は
少数で足利軍の真っただ中に孤立、孤軍奮闘するが多勢に無勢、敗北は時間の問題だった。
箱根で足利直義を壊滅寸前に追い詰めた新田義貞にもこの知らせは伝わり義貞は焦った。このとき義貞に味方していた
佐々木判官はさっそく足利方に寝返り新田は形成不利となって退却した。
このことは京にも伝わり公家たちは狼狽し、しかも播磨の赤松円心、四国の細川も京に攻め上ってきた。
このとき去就がはっきりしない楠木正成の動向を確かめるために尊氏は正成と極秘に会談し新たに幕府を作る
ときに正成に参画するよう促すが物別れに終わった。尊氏は正成軍を避けて淀の新田を撃破して入京したが、
そのとき奥州にいた北畠顕家(後藤久美子)が電撃の速さで京に攻め上がり尊氏の背後をついてせめ落としたのである。
尊氏は丹波から兵庫へ逃げここで赤松円心と会う。賊軍の立場に不利なものを感じていた尊氏は円心の助言で
後醍醐天皇に皇位を簒奪れた持明院統の光厳上皇の院宣を出してもらいこちらも官軍になるべく画策するが
新田に敗れて九州に落ち延びる。
一方後醍醐天皇側は勝利の美酒に酔っていた。しかし院宣を手にした尊氏は九州の武士を引き連れて船で都を
目指していた。数万の大船団で瀬戸内を進む尊氏軍、尊氏を迎撃すべく陸路山陽道を目指す.義貞だったが、
播磨白旗城で大苦戦、尊氏側は軍を海路と陸路に分け直義は陸路、京を目指した。
結局、義貞は退却し事態を憂慮した後醍醐天皇は正成を呼び対策を尋ねるが、正成はこの戦はわが方の負けで
あり、一旦京都を放棄し帝は叡山に退却しゲリラ戦を仕掛けるしか勝ち目がないことを奏上するが、面子にこだわる
公家の坊門清忠に叱責され、不利と知りつつ兵庫湊川で尊氏軍を迎え撃つべく出立する。
しかし人心はすでに帝から離れており、河内や和泉でも兵は集まらなかった。
一方2万五千の大軍を率いた尊氏軍は光厳上皇の院宣を受けた官軍であることを強調し錦の御旗を掲げる。
足利直義軍と楠木正季軍が大乱戦となり、錦の御旗を見た新田は狼狽し和田岬より生田へと退却、楠木軍は
少数で足利軍の真っただ中に孤立、孤軍奮闘するが多勢に無勢、敗北は時間の問題だった。
【送料無料】 Nhk大河ドラマ / NHK大河ドラマ 太平記 完全版 第五巻 【DVD】 価格:11,664円 |
2014年10月20日
尊氏の反逆「太平記9」
関東での北条残党は手強く、尊氏の弟直義は各地で敗戦を続けていた。事態を案じた尊氏は自ら兵を率いて
これを鎮圧すべく参内して帝に拝謁し、大義を得るため征夷大将軍に任じてくれるよう帝に働きかけるが尊氏の
力量を恐れた帝はこれを拒絶する。
しかし背に腹は変えられず帝の命に背き尊氏は執事の高師直(根本明)とともに兵を関東に出した。
そのころ、京都で尊氏と一夜をともにした藤夜叉(宮沢りえ)は小役人に斬られひん死の重傷を負っていた。
知らせを聞いて尊氏は藤夜叉のもとに駆け付け藤夜叉との間にできた不知哉丸と対面する。
一方直義は三河まで落ち延び撤退するおり護良親王を北条に奪われることを恐れ殺害するのである。
藤夜叉の死も見届けることなく疾風のように関東に駆け付けた尊氏は北条残党を壊滅させ鎌倉に入り登子や
千寿王も後に続く。そのころ奥羽では反乱軍相手に北畠親子が戦っていた。北畠は足利の真意を知るべく京に使いを
出すが、京では名和長年らが足利討つべしと息巻いていた。
帝も護良親王逝去の知らせを受け嘆き悲しむ。
帝は尊氏のもとに勅使を送るが高師直や直義はこれに反対し追い返す。
このことは帝と尊氏の対立が決定的になったことを意味した。帝は新田義貞を呼び足利討伐の綸旨を下す。
新田は6万の大軍を率いて三河に攻め込んだ。だが尊氏は優柔不断で賊軍になることを恐れ帝の怒りを鎮めるため突如出家する。
しかし出家したとて新田が攻撃の手を緩めない。
そんな尊氏の態度を危惧して佐々木判官が尊氏のもとに赴き督戦する。
直義らが新田軍にさんざん打ち破られたことを聞いた尊氏は逆賊の汚名を受けても新田と戦うことを決意するのだった。
これを鎮圧すべく参内して帝に拝謁し、大義を得るため征夷大将軍に任じてくれるよう帝に働きかけるが尊氏の
力量を恐れた帝はこれを拒絶する。
しかし背に腹は変えられず帝の命に背き尊氏は執事の高師直(根本明)とともに兵を関東に出した。
そのころ、京都で尊氏と一夜をともにした藤夜叉(宮沢りえ)は小役人に斬られひん死の重傷を負っていた。
知らせを聞いて尊氏は藤夜叉のもとに駆け付け藤夜叉との間にできた不知哉丸と対面する。
一方直義は三河まで落ち延び撤退するおり護良親王を北条に奪われることを恐れ殺害するのである。
藤夜叉の死も見届けることなく疾風のように関東に駆け付けた尊氏は北条残党を壊滅させ鎌倉に入り登子や
千寿王も後に続く。そのころ奥羽では反乱軍相手に北畠親子が戦っていた。北畠は足利の真意を知るべく京に使いを
出すが、京では名和長年らが足利討つべしと息巻いていた。
帝も護良親王逝去の知らせを受け嘆き悲しむ。
帝は尊氏のもとに勅使を送るが高師直や直義はこれに反対し追い返す。
このことは帝と尊氏の対立が決定的になったことを意味した。帝は新田義貞を呼び足利討伐の綸旨を下す。
新田は6万の大軍を率いて三河に攻め込んだ。だが尊氏は優柔不断で賊軍になることを恐れ帝の怒りを鎮めるため突如出家する。
しかし出家したとて新田が攻撃の手を緩めない。
そんな尊氏の態度を危惧して佐々木判官が尊氏のもとに赴き督戦する。
直義らが新田軍にさんざん打ち破られたことを聞いた尊氏は逆賊の汚名を受けても新田と戦うことを決意するのだった。
【中古】yb7■DVD■NHK大河ドラマ 太平記 全13巻Set★真田広之★【全巻セット】 価格:54,000円 |
2014年10月19日
公家か武家か「太平記8」
鎌倉幕府の滅亡で、台頭してきたのは、武家よりむしろ公家であった。千草種明や坊門清忠らは北条の土地を
切り取り放題であった。武家でも後醍醐天皇に近い楠木正成は河内守、名和長年は伯耆守に任じられたが主要な
機関の長には足利一門からが誰ひとり任じられなかった。
又、六波羅壊滅にもっとも功績のあった播磨の赤松円心はわずかに佐用庄を与えられたにとどまり多いに不満の残る
内容だった。
そのころ各地で北条残党による反乱が相次ぎ後醍醐天皇は、北畠親房を呼び親房は嫡子顕家(後藤久美子)と
奥州に行くことを決める。本来この仕事は武家のものであるはずである。尊氏の弟直義(高島政伸)らはこれは
奥州に公家政権を立てる布石ではないかと疑う。
そして尊氏は武家の面目を保つべく帝に奏上するのである。尊氏は関東平定のため足利一門を派遣するよう帝に
奏上するが帝は尊氏が鎌倉に新たに幕府を作ることを警戒するがついに直義が出兵することを認めざるを得なかった。
がこのことはますます護良親王の尊氏に対する憎しみを募らせるのであった。
帝はまた大内裏造営のために過酷な税を民衆から取り立てる。都の治安は乱れ強盗が続出、武家の不満も頂点に
達したころ護良親王は息のかかった武家を集めて都で戦を画策するが、結局武家の大半は尊氏につき、新政が乱れる
ことを恐れた帝は尊氏が親王を排除することを了解し護良親王は電撃的に逮捕され鎌倉にいた直義のもとに護送
されるのだがこのことが新な悲劇を生むのである。
切り取り放題であった。武家でも後醍醐天皇に近い楠木正成は河内守、名和長年は伯耆守に任じられたが主要な
機関の長には足利一門からが誰ひとり任じられなかった。
又、六波羅壊滅にもっとも功績のあった播磨の赤松円心はわずかに佐用庄を与えられたにとどまり多いに不満の残る
内容だった。
そのころ各地で北条残党による反乱が相次ぎ後醍醐天皇は、北畠親房を呼び親房は嫡子顕家(後藤久美子)と
奥州に行くことを決める。本来この仕事は武家のものであるはずである。尊氏の弟直義(高島政伸)らはこれは
奥州に公家政権を立てる布石ではないかと疑う。
そして尊氏は武家の面目を保つべく帝に奏上するのである。尊氏は関東平定のため足利一門を派遣するよう帝に
奏上するが帝は尊氏が鎌倉に新たに幕府を作ることを警戒するがついに直義が出兵することを認めざるを得なかった。
がこのことはますます護良親王の尊氏に対する憎しみを募らせるのであった。
帝はまた大内裏造営のために過酷な税を民衆から取り立てる。都の治安は乱れ強盗が続出、武家の不満も頂点に
達したころ護良親王は息のかかった武家を集めて都で戦を画策するが、結局武家の大半は尊氏につき、新政が乱れる
ことを恐れた帝は尊氏が親王を排除することを了解し護良親王は電撃的に逮捕され鎌倉にいた直義のもとに護送
されるのだがこのことが新な悲劇を生むのである。
新品価格 |
2014年10月13日
鎌倉幕府の滅亡と建武の新政「太平記 7」
数万の新田軍が、笛吹峠をこえたとの知らせを受け信じられない思いの長崎円喜であったが、かねて足利を外に出すこと
を危惧していた金沢貞明(児玉清)は「だから言わないことではない。足利は野に放った虎も同然、六波羅はどうでもよい。
まず鎌倉の新田を討つべき」と半狂乱になる。千早城に立てこもっていた楠木正成(武田鉄矢)も六波羅陥落の知らせを
受け安堵する。高氏は戦のあと京都の治安維持にあたっていた。新田軍は高氏の嫡子千寿王を大将に立てて鎌倉に
攻め上る。
赤橋守時(勝野洋)も戦死し北条高時(片岡鶴太郎)以下北条一族は、紅蓮の炎の中、東勝寺で田楽舞を見ながら滅亡してゆく。
ここに140年の歴史を誇る鎌倉幕府が滅んだが、高氏に喜びはなく焼野原になった京都の再建に心を砕く日々が始まった。
後醍醐天皇は京に帰還し、高氏は佐々木判官らとともに拝謁し理想の政治が始まるかに思えた。
しかし建武の新政は最初から同床異夢だった。帝と公家たちと武家たちの間に根本的に利害が対立していた。
護良親王(堤大二郎)は高氏の力量を恐れこれを警戒、新田側と足利側の部下たちの間も激しく対立した。
そして護良親王は新田義貞を上洛させて、これを高氏にぶつけようとの謀を巡らすのだった。
事態を危惧した公家の北畠親房(近藤正臣)は護良親王と高氏を引き合わすが互いの溝は埋まらずそんなおり高氏は正成の弟
正末(赤井秀和)の配下のものに闇討ちにあう。
公家と武家だけではなく、武家同志も利害は一致しなかったのである。
幸い事なきを得たが、高氏は参内して後醍醐天皇に拝謁し、武蔵の国司に任じられ帝より諱の尊治の一字をもらって尊氏をこの日から名乗ることになる。
高氏の高は北条高時の高からもらったものだったのである。
を危惧していた金沢貞明(児玉清)は「だから言わないことではない。足利は野に放った虎も同然、六波羅はどうでもよい。
まず鎌倉の新田を討つべき」と半狂乱になる。千早城に立てこもっていた楠木正成(武田鉄矢)も六波羅陥落の知らせを
受け安堵する。高氏は戦のあと京都の治安維持にあたっていた。新田軍は高氏の嫡子千寿王を大将に立てて鎌倉に
攻め上る。
赤橋守時(勝野洋)も戦死し北条高時(片岡鶴太郎)以下北条一族は、紅蓮の炎の中、東勝寺で田楽舞を見ながら滅亡してゆく。
ここに140年の歴史を誇る鎌倉幕府が滅んだが、高氏に喜びはなく焼野原になった京都の再建に心を砕く日々が始まった。
後醍醐天皇は京に帰還し、高氏は佐々木判官らとともに拝謁し理想の政治が始まるかに思えた。
しかし建武の新政は最初から同床異夢だった。帝と公家たちと武家たちの間に根本的に利害が対立していた。
護良親王(堤大二郎)は高氏の力量を恐れこれを警戒、新田側と足利側の部下たちの間も激しく対立した。
そして護良親王は新田義貞を上洛させて、これを高氏にぶつけようとの謀を巡らすのだった。
事態を危惧した公家の北畠親房(近藤正臣)は護良親王と高氏を引き合わすが互いの溝は埋まらずそんなおり高氏は正成の弟
正末(赤井秀和)の配下のものに闇討ちにあう。
公家と武家だけではなく、武家同志も利害は一致しなかったのである。
幸い事なきを得たが、高氏は参内して後醍醐天皇に拝謁し、武蔵の国司に任じられ帝より諱の尊治の一字をもらって尊氏をこの日から名乗ることになる。
高氏の高は北条高時の高からもらったものだったのである。
中古価格 |
新品価格 |
2014年10月11日
六波羅探題崩壊「太平記」6
高氏は、執事の高師直と弟直義を呼び出し、北条打倒の決意を打ち明ける。一方長崎円喜は呼び出しになかなか応じない高氏にいらつくが、高時は高氏の忠誠を豪も疑わない。
西国へ出立の日、高時に拝謁した高氏は、北条打倒の決意を秘めていた。高氏は三河で足利一門と合流、あらためて
六波羅探題をせめ落とすことを一同に打ち明ける。士気は上がるが近江で佐々木判官が兵を率いて待ち構えていた。
足利に謀反のきざしあらば殲滅せよと円喜より命を受けていたのだ。
だが高氏はそのような策略をものともせず、判官に京都攻略の戦略を打ち明ける。高氏は判官と戦う気はなく、黙って
兵を通すよう依頼する。
気を見るに敏な判官はそれを聞き自分も一枚加えるよう高氏に打ち明ける。驚く高氏だったが百万の味方を得た思い
だった。後醍醐天皇より北条討伐の綸旨を受け取った高氏は、丹波篠村八幡宮にて源氏の白旗をかかげ六波羅に
攻め込んだ。
そのころ鎌倉にいた登子は右馬助の助けで鎌倉を脱出する。足利軍に赤松則村、千草忠明の軍も加わり六波羅の北条軍はなすすべもなく壊滅する。
そのころ関東では新田義貞が高氏に呼応して蹶起するはずだったが兵の数はわずか150騎、弟の脇屋義助は蹶起を
ためらうが、横暴な徴税吏の無法なふるまいに義貞は怒りこれを斬り捨てその勢いで鎌倉に攻め込んだ。
「目指すは鎌倉われらに八幡大菩薩のご加護を」義貞に付き従う兵は続々と増え、北条軍は六波羅滅亡で完全に
士気が落ちていた。
一撃で国府を粉砕した義貞が鎌倉に近づくにつれ、円喜は焦り高時は悪夢のような出来事に茫然とするだけだった。
西国へ出立の日、高時に拝謁した高氏は、北条打倒の決意を秘めていた。高氏は三河で足利一門と合流、あらためて
六波羅探題をせめ落とすことを一同に打ち明ける。士気は上がるが近江で佐々木判官が兵を率いて待ち構えていた。
足利に謀反のきざしあらば殲滅せよと円喜より命を受けていたのだ。
だが高氏はそのような策略をものともせず、判官に京都攻略の戦略を打ち明ける。高氏は判官と戦う気はなく、黙って
兵を通すよう依頼する。
気を見るに敏な判官はそれを聞き自分も一枚加えるよう高氏に打ち明ける。驚く高氏だったが百万の味方を得た思い
だった。後醍醐天皇より北条討伐の綸旨を受け取った高氏は、丹波篠村八幡宮にて源氏の白旗をかかげ六波羅に
攻め込んだ。
そのころ鎌倉にいた登子は右馬助の助けで鎌倉を脱出する。足利軍に赤松則村、千草忠明の軍も加わり六波羅の北条軍はなすすべもなく壊滅する。
そのころ関東では新田義貞が高氏に呼応して蹶起するはずだったが兵の数はわずか150騎、弟の脇屋義助は蹶起を
ためらうが、横暴な徴税吏の無法なふるまいに義貞は怒りこれを斬り捨てその勢いで鎌倉に攻め込んだ。
「目指すは鎌倉われらに八幡大菩薩のご加護を」義貞に付き従う兵は続々と増え、北条軍は六波羅滅亡で完全に
士気が落ちていた。
一撃で国府を粉砕した義貞が鎌倉に近づくにつれ、円喜は焦り高時は悪夢のような出来事に茫然とするだけだった。
中古価格 |
2014年09月16日
鎌倉幕府の混乱「太平記」5
後醍醐天皇は、阿野廉子(原田美枝子)と小宰相を連れての隠岐での幽閉生活は侘しいものであった。
一方、楠木の一党は河内で復活し、またも幕府を窮地に落としいれていた。
さらに、護良親王は吉野に立てこもりこれまた幕府には頭痛の種だった。
幕府軍が、正成のゲリラ戦に苦しんでいるころ、隠岐の帝は伯耆の武士名和長利(小松方正)の助けを得て
隠岐を脱出、その知らせを聞いた幕府は大混乱となり、兵の不足からついに足利一族を反幕府勢力の追悼に駆り出す
ことを管領長崎円貴は考えるが、金沢貞顕(児玉清)は、外様の足利を外に出すと、三河で各地の一族と合流、反転して
鎌倉に襲い掛かることを警戒し大反対する。
しかし、長崎は足利が兵を集めてもせいぜい三千、鎌倉数万の兵力を持ってすれば殲滅できるとして一顧だにしない。
そのころ、赤坂城攻めに駆り出されていた新田義貞は幕府軍の弱体化を見て新に討幕の思いがよみがえる。
高氏は、赤橋守時より正式に出兵を依頼されるが、万一を考え、長崎は高氏の妻登子および、一子を鎌倉に人質として
留め置くことを命じられる。
高氏は平塚において新田義貞と密会し打倒鎌倉の意思を打ち明けるのだった。
一方、楠木の一党は河内で復活し、またも幕府を窮地に落としいれていた。
さらに、護良親王は吉野に立てこもりこれまた幕府には頭痛の種だった。
幕府軍が、正成のゲリラ戦に苦しんでいるころ、隠岐の帝は伯耆の武士名和長利(小松方正)の助けを得て
隠岐を脱出、その知らせを聞いた幕府は大混乱となり、兵の不足からついに足利一族を反幕府勢力の追悼に駆り出す
ことを管領長崎円貴は考えるが、金沢貞顕(児玉清)は、外様の足利を外に出すと、三河で各地の一族と合流、反転して
鎌倉に襲い掛かることを警戒し大反対する。
しかし、長崎は足利が兵を集めてもせいぜい三千、鎌倉数万の兵力を持ってすれば殲滅できるとして一顧だにしない。
そのころ、赤坂城攻めに駆り出されていた新田義貞は幕府軍の弱体化を見て新に討幕の思いがよみがえる。
高氏は、赤橋守時より正式に出兵を依頼されるが、万一を考え、長崎は高氏の妻登子および、一子を鎌倉に人質として
留め置くことを命じられる。
高氏は平塚において新田義貞と密会し打倒鎌倉の意思を打ち明けるのだった。
新品価格 |
2014年09月13日
帝隠岐に流される「太平記」4
謀反の下手人として捉えられた日野利基は、幕府によって処刑されその光景を見た高氏は父貞氏に、無念の
思いを打ち明ける。しかし貞氏は「美しいものでは長崎殿が倒せん、美しいだけではの」と説き高氏に討幕には相応の
覚悟がいることをそれとなく示唆するのだった。
一方、後醍醐天皇へは退位の圧力が強まり危険を感じた後醍醐天皇は笠置山に籠城して挙兵する。
苦戦を重ねる後醍醐天皇であったが、河内の土豪楠木正成(武田鉄矢)の加勢を得て息を吹き返す。
事態を案じた北条幕府は足利家にも兵を出すことを命令する。
高氏は不本意ながら出兵するが、護良親王とともに戦っていた正成も力つき帝も囚われの身となる。
北条幕府は
新しい天皇(光厳天皇)を立てて後醍醐天皇を「先帝」にしてしまったのである。高氏はそのころ京都へ入った。
高氏は、北畠親房と会い親房は帝を守ってくれるように高氏に依頼する。当惑する高氏だったが反幕府の心中を親房に見抜かれているようだった。
正成はそのころ赤坂城に籠ってゲリラ戦を展開し北条軍の攻撃を退けていた。だが1か月に及ぶ攻防もついに終わり
正成は落ち延び、帝は隠岐に流されるのだった。
思いを打ち明ける。しかし貞氏は「美しいものでは長崎殿が倒せん、美しいだけではの」と説き高氏に討幕には相応の
覚悟がいることをそれとなく示唆するのだった。
一方、後醍醐天皇へは退位の圧力が強まり危険を感じた後醍醐天皇は笠置山に籠城して挙兵する。
苦戦を重ねる後醍醐天皇であったが、河内の土豪楠木正成(武田鉄矢)の加勢を得て息を吹き返す。
事態を案じた北条幕府は足利家にも兵を出すことを命令する。
高氏は不本意ながら出兵するが、護良親王とともに戦っていた正成も力つき帝も囚われの身となる。
北条幕府は
新しい天皇(光厳天皇)を立てて後醍醐天皇を「先帝」にしてしまったのである。高氏はそのころ京都へ入った。
高氏は、北畠親房と会い親房は帝を守ってくれるように高氏に依頼する。当惑する高氏だったが反幕府の心中を親房に見抜かれているようだった。
正成はそのころ赤坂城に籠ってゲリラ戦を展開し北条軍の攻撃を退けていた。だが1か月に及ぶ攻防もついに終わり
正成は落ち延び、帝は隠岐に流されるのだった。
中古価格 |