2014年10月27日
観応の擾乱高師直の非業の死「太平記14」
九州へと逃亡した直冬だったが、土着の土豪を集めて勢力を伸ばし危機感を覚えた幕府は直冬を討つべく
兵を派遣することに決めたが政務を仕切っていた義詮を無視して師直は兄師泰の派遣を決めてしまう。
しかも失脚してもなお不穏な動きを見せる直義
とその一派を討つべしと尊氏に進言し叱責を受ける。
師泰は石見で思わぬ苦戦をし義詮は動揺し、事態を重く見た尊氏は師直を引き連れて自ら出兵することを決める。
そのころ幽閉されていた直義は師直の放った刺客から逃れて密に脱出するのだった。そして大和賀名生に逃れていた
南朝の北畠親房に和議の申し入れをし、これを受けた南朝側は、天下を平定すべしと綸旨を出すのだった。
この直義の奇策に愕然とする尊氏だったが・・・
そして天王寺に陣を置いた直義のもとには細川顕氏が駆けつけ、桃井刑部が京を目指して進撃を始めた。
思わぬ事態に尊氏は派遣を中断し京を守っていた義詮は桃井の軍の勢いに押され京を放棄する。
この情勢に尊氏も京に攻め上るが桃井軍に敗退し丹波に逃れる。
直義の陣には高師直によって暗殺された上杉重能の 息子能憲と、畠山国清が師直抹殺を語りあう。
そして摂津打出浜にて尊氏師直軍は直義軍と激突、さんざんに打ちのめされるのだった。
直義は和議の条件に師直、師泰兄弟を引き渡すことを要求したが尊氏はこれをことわり、結局師直兄弟が出家
することで落ち着いた。
しかし、二人を京への護送中、上杉の手の者によって摂津武庫川にて襲撃され高師直、師泰は無残な.最期を遂げる
のであった。バサラ武士高師直の非業の死であった。
兵を派遣することに決めたが政務を仕切っていた義詮を無視して師直は兄師泰の派遣を決めてしまう。
しかも失脚してもなお不穏な動きを見せる直義
とその一派を討つべしと尊氏に進言し叱責を受ける。
師泰は石見で思わぬ苦戦をし義詮は動揺し、事態を重く見た尊氏は師直を引き連れて自ら出兵することを決める。
そのころ幽閉されていた直義は師直の放った刺客から逃れて密に脱出するのだった。そして大和賀名生に逃れていた
南朝の北畠親房に和議の申し入れをし、これを受けた南朝側は、天下を平定すべしと綸旨を出すのだった。
この直義の奇策に愕然とする尊氏だったが・・・
そして天王寺に陣を置いた直義のもとには細川顕氏が駆けつけ、桃井刑部が京を目指して進撃を始めた。
思わぬ事態に尊氏は派遣を中断し京を守っていた義詮は桃井の軍の勢いに押され京を放棄する。
この情勢に尊氏も京に攻め上るが桃井軍に敗退し丹波に逃れる。
直義の陣には高師直によって暗殺された上杉重能の 息子能憲と、畠山国清が師直抹殺を語りあう。
そして摂津打出浜にて尊氏師直軍は直義軍と激突、さんざんに打ちのめされるのだった。
直義は和議の条件に師直、師泰兄弟を引き渡すことを要求したが尊氏はこれをことわり、結局師直兄弟が出家
することで落ち着いた。
しかし、二人を京への護送中、上杉の手の者によって摂津武庫川にて襲撃され高師直、師泰は無残な.最期を遂げる
のであった。バサラ武士高師直の非業の死であった。
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