2014年10月13日
鎌倉幕府の滅亡と建武の新政「太平記 7」
数万の新田軍が、笛吹峠をこえたとの知らせを受け信じられない思いの長崎円喜であったが、かねて足利を外に出すこと
を危惧していた金沢貞明(児玉清)は「だから言わないことではない。足利は野に放った虎も同然、六波羅はどうでもよい。
まず鎌倉の新田を討つべき」と半狂乱になる。千早城に立てこもっていた楠木正成(武田鉄矢)も六波羅陥落の知らせを
受け安堵する。高氏は戦のあと京都の治安維持にあたっていた。新田軍は高氏の嫡子千寿王を大将に立てて鎌倉に
攻め上る。
赤橋守時(勝野洋)も戦死し北条高時(片岡鶴太郎)以下北条一族は、紅蓮の炎の中、東勝寺で田楽舞を見ながら滅亡してゆく。
ここに140年の歴史を誇る鎌倉幕府が滅んだが、高氏に喜びはなく焼野原になった京都の再建に心を砕く日々が始まった。
後醍醐天皇は京に帰還し、高氏は佐々木判官らとともに拝謁し理想の政治が始まるかに思えた。
しかし建武の新政は最初から同床異夢だった。帝と公家たちと武家たちの間に根本的に利害が対立していた。
護良親王(堤大二郎)は高氏の力量を恐れこれを警戒、新田側と足利側の部下たちの間も激しく対立した。
そして護良親王は新田義貞を上洛させて、これを高氏にぶつけようとの謀を巡らすのだった。
事態を危惧した公家の北畠親房(近藤正臣)は護良親王と高氏を引き合わすが互いの溝は埋まらずそんなおり高氏は正成の弟
正末(赤井秀和)の配下のものに闇討ちにあう。
公家と武家だけではなく、武家同志も利害は一致しなかったのである。
幸い事なきを得たが、高氏は参内して後醍醐天皇に拝謁し、武蔵の国司に任じられ帝より諱の尊治の一字をもらって尊氏をこの日から名乗ることになる。
高氏の高は北条高時の高からもらったものだったのである。
を危惧していた金沢貞明(児玉清)は「だから言わないことではない。足利は野に放った虎も同然、六波羅はどうでもよい。
まず鎌倉の新田を討つべき」と半狂乱になる。千早城に立てこもっていた楠木正成(武田鉄矢)も六波羅陥落の知らせを
受け安堵する。高氏は戦のあと京都の治安維持にあたっていた。新田軍は高氏の嫡子千寿王を大将に立てて鎌倉に
攻め上る。
赤橋守時(勝野洋)も戦死し北条高時(片岡鶴太郎)以下北条一族は、紅蓮の炎の中、東勝寺で田楽舞を見ながら滅亡してゆく。
ここに140年の歴史を誇る鎌倉幕府が滅んだが、高氏に喜びはなく焼野原になった京都の再建に心を砕く日々が始まった。
後醍醐天皇は京に帰還し、高氏は佐々木判官らとともに拝謁し理想の政治が始まるかに思えた。
しかし建武の新政は最初から同床異夢だった。帝と公家たちと武家たちの間に根本的に利害が対立していた。
護良親王(堤大二郎)は高氏の力量を恐れこれを警戒、新田側と足利側の部下たちの間も激しく対立した。
そして護良親王は新田義貞を上洛させて、これを高氏にぶつけようとの謀を巡らすのだった。
事態を危惧した公家の北畠親房(近藤正臣)は護良親王と高氏を引き合わすが互いの溝は埋まらずそんなおり高氏は正成の弟
正末(赤井秀和)の配下のものに闇討ちにあう。
公家と武家だけではなく、武家同志も利害は一致しなかったのである。
幸い事なきを得たが、高氏は参内して後醍醐天皇に拝謁し、武蔵の国司に任じられ帝より諱の尊治の一字をもらって尊氏をこの日から名乗ることになる。
高氏の高は北条高時の高からもらったものだったのである。
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