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2017年12月31日
チェコ語の動詞2(十二月廿八日)
一人称単数が、「-ím」で終わるものに関して、一つ追加しておくべきことがあった。「mít」の一人称単数が「mám」となるように、「bát se(怖い/怖がる)」の一人称単数は、「bojím se」となるのであった。原形「-ít」が「-ám」となり、「-át」が「-ím」となるのには、嫌がらせかと言いたくなりもするのだけど、外国人としては頑張って覚えるだけである。
さて、一人称単数が、「-i」もしくは「-u」で終わるものの人称変化は以下のようになる。例としては「pít(飲む)」をあげておこう。
単数 複数
1人称 pij-i pij-eme
2人称 pij-eš pij-ete
3人称 pij-e pij-í
もしくは
1人称 pij-u pij-eme
2人称 pij-eš pij-ete
3人称 pij-e pij-ou
見ての通り、一人称単数と、三人称複数以外は、どちらの場合でも共通である。問題は、原形から一人称単数の形が規則的に導き出せないものが多いことである。それでも、いくつか規則化できるものもあるので、それからとりあげる。
まずは、原形が「-ovat」で終わるものである。この「-ovat」は、日本語の「する」のように名詞について動詞化する機能のあるものである。ただし、名詞が微妙に形を変えることが多いので注意しなければならない。一番よく例として挙げられるのは、「studium」からできた「studovat(勉強する)」だろうか。
この手の動詞は、まず「-ovat」を取り、「uj」をつけてから、語尾の「-i」もしくは「-u」をつけて、一人称単数の形を作る。「studovat」の場合には、「studuj-i」か「studuj-u」になるわけである。他にも「děkovat(感謝する)」は、「děkuji」か「děkuju」になるという具合である。
一般的に語尾の前が子音「j」になるものの場合には、「pít」など「-ovat」で終わらないものも含めて、一人称単数は「-i」でも「-u」でも、どちらでもかまわないが、「-i」のほうが古い書き言葉的な形で、「-u」は話し言葉的な形だとみなされている。
もう一つ、規則的に一人称単数を作ることができるのは、原形が「-nout」もしくは、数は少ないが「-mout」で終わるものである。こちらは、「-out」を取り去って、語尾の「-u」をつけて一人称単数の形にする。「-i」のほうは使えない。例を挙げれば、「sednout(座る)」の一人称単数は「sedn-u」で、「přijmout(受け入れる)」の場合は「přijm-u」という具合である。
上に上げた以外の動詞に関しては、一人称単数の語尾と原形の末尾が共通であっても、一人称単数の作り方に共通性はない。例えば、「moct(できる)」「péct(焼く)」「říct(言う)」はいずれも「ct」で終わるが、一人称単数の形は、「můžu」「peču」「řeknu」と、語尾が「u」になる以外共通点はないのである。
また、一人称単数に「i」が現れるものに関しては、「přát(願う)」「mýt(洗う)」などのように、原形が長母音+tで終わるものの中に、一人称単数に「j」が現れ、語尾として「i」でも「u」でも取れるものが多いということは言えるが、絶対ではない。上の二つの動詞の一人称単数は、それぞれ「přeju」「myju」だけでなく、「přeji」「myji」も使えるのに対して、「jít(行く)」の場合には「jdu」と、一人称単数の語尾は「u」しか取ることができないのである。
この手の原形と一人称単数の形が、規則的に変化させられないものの極北としては、「hnát(追う)」をあげるべきであろう。この動詞の一人称単数の形は、なんと「ženu」になるのである。これなど最初に見たときには、動詞ではなく女性名詞の「žena」の4格だろうと考えてしまったくらいである。その結果文意が取れず、辞書を引き、あまりのことに辞書を投げ出してしまうことになる。師匠には、「h」が「z」「ž」に変化する例は他にもあるんだから云々と言われたけれども、今でもこれを不規則動詞として扱わないチェコ語の文法には不満たらたらである。
我々外国人にとって、原形から一人称単数が直接導き出せない動詞は、すべて不規則動詞である。一人称単数をもとに人称変化させる部分が規則的であったとしても、一人称単数から三人称複数までの間に現れる不規則性よりも、原形から一人称単数に変化させる部分での規則性のなさのほうがはるかに大きく、覚えるのに苦労する。だからこの手の動詞に関しては、それぞれ一人称単数の形を覚えていくしかない。
ということで、我々の学習にどう役立てるかということを念頭において、動詞を分類するとしたら、次のようになる。番号は便宜的なもので、これでなければならないというものではない。
@一人称単数の語尾が「ám」になるもの。
1.規則的。原形が「at」で終わる。「dělat」など。
2.不規則。「mít」「dát」。
A一人称単数の語尾が「ím」になるもの。
1.規則的。原形が「it」「et」で終わる。「mluvit」「myslet」など。
2.不規則。「bát se」「spát」など。
B一人称単数が「i」または「u」になるもの。
1.規則的。原形が「ovat」で終わる。「studovat」「děkovat」など。
2.不規則。「pít」「přát」など。
C一人称単数が「u」になるもの。
1.規則的。原形が「nout」か「mout」で終わる。「sednout」「přijmout」など。
2.不規則。「jít」「hnát」など。
D人称変化の中に不規則性があるもの
どうだろうか。辞書、教科書の類を見ずに記憶だけで書いているので、規則性があるものを度忘れしている可能性はあるが、それほどひどいことにはなっていないと思う。とにかくチェコ語の動詞の人称変化を覚えるためには、一人称単数の形が最も重要なのだということを改めて強調しておきたい。それさえ覚えてしまえば、変化自体は名詞の格変化に比べればはるかに楽である。
ということで、チェコ語の文法で言う不規則動詞についてはまた明日。
2017年12月29日24時。
2017年12月30日
永観三年二月の実資〈下〉(十二月廿七日)
承前
十九日は、前夜より引き続き雨が降り続いている。実資はまたまた物忌で、重い物忌なのか閉門して二日間の仮文を提出している。伝聞で昌子内親王の創建した観音院の仏事が、雨のために中止になったことが記される。御堂会というのは、創設記念のイベントでいいのかな。
廿日は午後になってまた雨が降り始め、物忌が続いているため上皇からの呼び出しも断っている。上皇が女御だった藤原兼家の娘の詮子を訪問して、兼家の東三条第に出向いたことを伝え聞いている。詮子の里第となっていたのはそのうちの南院と呼ばれる部分だったようである。
廿一日は、円融上皇の住まいである堀河院で、御遊、つまり管弦を伴う宴が行われている。左大臣の源雅信が欠席して、右大臣藤原兼家が出席しているのが目に留まる。兼家と円融上皇の間は、天元五年の遵子立后以来あまりよくなかったのだけど、この辺りで皇太子(円融上皇の子、後の一条天皇)の即位を考えて関係の改善が始まっているのかもしれない。上皇は来ている服を脱いで兼家に与えている。
公卿たちへ褒美である禄とは別に、五位、六位の者たちに引出物として馬四匹が与えらている。この引出物の意味が分からんと実資は不満である。引出物の馬に騎乗したうちの一人が、兼家の子道長で、久しぶりの『小右記』登場である。
廿二日は小雪の中を、院から退出して、頼忠のもとを経て内裏に向かう。この日の朝、内裏では勅計が行われたという。これは、降雪や雷鳴などの異変に際して、六衛府や帯刀などの武官系の役所に勅使を派遣して出仕しているものを調べて名簿を天皇に奏上したものである。まじめに仕事に出ているかどうかの確認であろうか。でもたかが小雪でやるかあ。
十九日に中止になった皇太后昌子内親王の創設した観音院の供養が行われている。皇太后は未明に車に乗って出発している。この観音院の創建に合わせて出家することを許された僧がいて、恐らく観音院の僧になるのだろう。当時は仏僧になるにも、国の許可が必要だったのである。
実資自身は、皇太后から参入するように求められていたが、内裏に講ずる必要があったために、参入していない。蔵人頭として天皇を優先したということかな。一日中雪が降り続いたとあるので、観音院まで出かけるのは大変だっただろう。
廿三日は、雪が積もっていてその高さが二寸、6センチほどか。前日候宿した内裏を出て、また内裏に戻っている。除目の間違いをただす直物が行われている。上皇のところに出向いたのは、上皇の申請した任官に辞退者が出て代わりのものを申請する必要があったからか。実資がそれを取り次いで天皇に奏上したわけである。
深夜になって皇太后の昌子内親王のもとに出向いて、昨日の観音院のお堂会に出なかったことについて、怒られお詫びを申し上げている。直接ではなくて女房に取り次いでもらったのかな。実資の聞くところによると、僧正の寛朝が昨日の儀式に、華美な唐車に乗って、華美な服装をした童法師を引き連れて登場したという。天下の人が驚奇したというのは、大げさにしても、実資にとってはとんでもないことなのだろう。
廿四日は、参内しているが、花山天皇自身の弓射や管弦をともなう遊びが行われている。「御遊」に「雑々の」と付けているあたりに実資の不満を見るのは間違いか。
廿五日は内裏を退出して、頼忠のもとに向かう。御読経の始まりの日なのである。それが終わって上皇の許に向かうが、特筆するようなことは起こっていない。
廿六日も前日に続いて雨が降り、内裏に参上しただけである。
廿七日は、中宮、上皇の許に出向いた後、参内して候宿している。地方からの重要な文書を天皇に太政官が奏上する官奏が行われている。式部卿から、明日諸国の国司の史生を任命する儀式である一分召を行うという奏上がなされ、天皇の許可が下りている。この儀式は式部省で行われるものである。
また藤原師輔の子である権僧正尋禅(右大臣兼家の弟にあたる)を天台座主にするという意向を左大臣に伝えて宣命を作らせている。天台座主任命の勅使は、通例では少納言なのだが、みんな都合が悪いと言って参入しないので右少将の源惟賢が勅使を務めている。ただし乗っていく馬がないというので、馬寮の馬をもらっている。
実資は今日から四日間物忌だが、あちこち外出しているということは軽い物忌のようである。
廿八日は、早朝内裏を出て、廿五日に始まった頼忠第での御読経の結願に出席。その後、内裏に参入して一分召に間する手続きを行っている。天皇の仰せで、明日侍臣たちを二つに分けて弓を射る競争をすることになっている。臨時というか、突然の行事である。
廿九日は、前日の仰せの通り射場殿で、競射である。それぞれ七人ずつのグループに分かれている。三位中将が参加しているが、これは天皇に近い義懐かな。突然決まった儀式なので、実資の書きぶりも「臨時にて卒尓の事」などと不満気である。天皇の寵姫である藤原忯子が、競射の褒美を提供しているというのも、何かなあ。仮に忯子に皇子が生まれていた場合、父親の為光が外戚として摂関になっていた可能性があると考えるとね。この時点で大納言だから摂関になるための条件である大臣までは後一歩なのだ。それにしても、花山天皇と関白為光ってのは、最悪の組み合わせじゃないかい。
2017年12月27日23時30分。
2017年12月29日
永観三年二月の実資〈中〉(十二月廿六日)
承前
十二日は、干支があるのみで記事は存在しない。明日の行事の準備で忙しかったのだろうか。
十三日は、円融上皇の子の日の遊びである。この日のことは、『大鏡』などにも記されているため、よく知られている。会場の紫野まで公卿たちは騎馬で向かうのだが、左右大臣以下非参議の藤原道隆まで、多くの公卿の名前が挙がっている。上皇は途中から馬に乗り換えたようである。その公卿をはじめとする官人たちの行列を見るために出てきた人々の車が「雲の如し」というから、ものすごくたくさんあったのだろう。
子の日の遊びの儀式としては「小松引き」というのがあるらしいが、今回は上皇の前に持参してきた小松を植えている。どこかで引き抜いてきたから「小松引き」なのか、一度植えたものを引き抜くからなのかはわからない。この松も、この後は題詠の題に出てくるだけで、どのように扱われたのかは記されない。当時の人たちにとっては当たり前だったから、書くまでもなかったということだろうか。
この日は、和歌に堪能な者たちを呼んで和歌を作らせることになっていたようで、平兼盛などが召し出されている。ただし参上したうちの曽祢好忠と中原重節は、呼ばれていないのに出てきたということで、追い出されている。『大鏡』では実資が追い払う役になっていたような気がする。しかし、源時通の話では、曽祢好忠は召された人の中に入っているという。
上皇が平兼盛を召して、左大臣源雅信に和歌の題を出させたところ、「紫野に於て子の日の松を翫す」というのが返ってきた。この辺は事前の打ち合わせがあったのだろうなあ。平兼盛は今回の和歌に関して序文を書くことを命じられている。恐らく歌人たちが和歌を作っている間に、蹴鞠が行われ実資も参加している。
夕方になって上皇が、和歌と序文は院に戻ってから献上しろというので、公卿以下の官人も堀河院に向かう。実資はそこで歌を読み上げる役を務めている。右大臣以下が和歌を献上した中で左大臣だけが献上しなかった。「如何々々」と書かれているが、これこそ如何々々で、実資も歌があまり上手ではなく、詠まずに済ませてしまうことがあるのだから、ここは非難しちゃいけないだろう。それとも、後世日記を読むであろう子孫への教訓ということか。
紫野での子の日の遊びが行われていたときに内裏の花山天皇からの使いがやってきている。実資はその使者に褒美を与える役を務めているが、使者のお礼のための拝礼が失礼ばかりだと怒っている。それから、行事に参加した四位、五位、六位の官人たちの服装が華麗なものだったことにも、批判を向けている。自分は華美にならないように白と薄色の衣服を身につけていたのだという。公卿たちの多くは布衣だったから、これから公卿になれそうな連中が派手な格好をしているということかな。
十四日は実資の実父である藤原斉敏の忌日で、仏事を修めている。夕方室町の邸宅に出かけているが、「小児は乳母の宅に在り」とあるのは、実資の子であろうか。
内裏から召があったようだが、父の忌日を理由に断っている。伝聞によると、この日花山天皇は射場殿で、自ら弓矢を射たようである。
十五日は、頼忠のところに出向いた後、内裏に向かう。花山天皇の御前で石清水の臨時祭についてのことを定めている。冷泉天皇の時代に使っていた和歌を、円融天皇の時代になって改めたけれども、今回改めるのかどうか天皇の考えを聞いたところ、改めずにそのまま円融天皇の時代の歌を使うということになっている。祭りに和歌が必要だったのかな。
よくわからないけれども祭使の手間を省くための提案が、祭使や祭で舞を舞う舞人たちが退出した後だったので、何の意味もないと評されている。誰の提案だったのだろうか。
諸国の負担を軽減するために豊楽院の改修工事を停止すること、大嘗会が行われる八省院の工事も急がずに進めることを公卿たちが決め、天皇の許可も得ている。この時代火事が多かったのか、内裏、大内裏の建物の再建が必要なことが多いのである。それに貢献すれば位階を上げることができるから、資産家にとっては悪くないことだったのかもしれないけど。
十六日は、内裏を退出して、昼頃上皇の許に向かう。夕方頼忠に呼び出されているが、頼忠から天皇に奏上したいことがあって、明日奏上するように求められている。関白ともなると、直接天皇のもとに出て奏上する機会は多くないというべきか、花山天皇と頼忠の関係があまりよろしくないというべきか。実資は夜になって中宮の許に出向いて、中宮に使える女房と会っている。
二月一日に、皇太后である昌子内親王から岩倉大雲寺内の観音院の建立の仏事に侍従を派遣することを願う奏上がなされたという。この情報を、中宮の女房から聞いたということなのか、単に並べられているだけなのかは不明。
十七日は、祈年穀の奉幣である。伊勢神宮を筆頭に畿内の有力な神社に発遣するものだが、神社の数は時期によって変動がある。このときは十六社だったという。発遣の儀式は内裏ではなく八省院で行われ天皇も出御している。使いに選ばれていながら、不都合を称して出仕しなかった参議が三人いたが、権中納言源保光と、非参議の三位藤原義懐と道隆が内裏を務めている。
準備を担当する女官の中に月の障を訴えたものがいて、こちらも代理が務め、行幸に同行するはずの内侍のなかに欠席者もいて、こちらも代理ということで、実資は欠席者と代理が多いことに苦言を呈している。
小安殿に移ってからの儀式はいつも通りで、内裏式に書かれているのとは違う式次第があったが、それも村上天皇の時代に改変されたものだから問題ないということを天皇に奏上している。準拠できる前例があれば儀式書の記述と多少違っていても問題ないのである。
十八日は、毎月恒例の清水寺参詣である。戻って夕方頼忠のところに出向く。頼忠は、実資を伴って皇太后の昌子内親王のもとに出向き、明日の観音院の建立の仏事に出るように言われたけれども、差しさわりがあって出席できないことのお詫びを申し上げている。深夜になって退出しているが、酉だから夜の八時前後から一晩中雨が降っていたらしい。頼忠が、直接、しかも布衣で出向いてお詫びをするということは、昌子内親王は小野宮家の人々にとって重要な人物だったのかもしれない。そう言えば、『公卿補任』の実資関係の記事に「皇太后宮」が理由になって位階が上がったという記述があったような気がする。昌子内親王のことだったのか。
2017年12月26日23時30分。
2017年12月28日
永観三年二月の実資〈上〉(十二月廿五日)
二月一日は、室町の邸宅に出向く以外はいつも通りというか、関白の頼忠のところに出かけただけ。ただし、伝聞で花山天皇の姉に当たる宗子内親王の住む飛香舎で、子の日の遊びが行われたことが記される。本来、子の日の遊びは、新年最初の子の日に、野に出て行なう行事のはずだが、宮中で行なうこともあったのだろうか。問題は天皇の参加だが、遊び好きの花山天皇のこと、参加したものと見る。
二日は、またまた天皇が馬をご覧になっている。まずは清涼殿で庭が狭かったせいで、五頭ずつ二回に分けて見た後、紫宸殿に出御して、南庭を駆ける馬を見ている。天皇の馬好きは、臨時で(思いつきで)馬を見る儀式を行なうところまできているようで、実資もいぶかしんでいる。馬には平文の蔵というから、漆塗りの金銀で装飾された鞍を置いている。天皇自らがこのような華美なことをしているのだから、公卿以下の過差が止まらないのも当然かもしれない。
末尾の「地火爐次」は供応のことかと考えられるが、実資が内裏に出仕している間に、自宅を訪れた勘解由判官明尹に対する供応が行われたということだろうか。
三日は前夜候宿した内裏から自宅に戻ると、呼び出しがあって頼忠の元に向かう。夕方退出しているが、その前に「地火爐次」があったようだから、実資が不在の間に自宅で供応させたと考えるのがよさそうである。夜になって、今度は円融上皇の元に出向いてそのまま候宿している。地震があったようだが、特に被害は記されていない。
四日は、前日候宿した院を早朝退出し、今日は内裏で候宿である。昨日内裏で行われたこととして、大嘗祭の悠紀の国・主基の国と、行事の担当の公卿を決める会議が行なわれている。公卿の会議を主催するのは原則として左大臣である。占いで選ばれる悠紀の国・主基の国だが、今回は近江・丹波などの国々が選ばれたようである。
藤原氏が平安京西方に氏神の春日大社を勧進して創建した大原野神社の祭礼のために、円融上皇が馬を奉っている。使になったのは院の判官代の藤原師長だが、この人物のことはよくわからない。この馬を奉る使いを出すのは今年が初めてのようである。
実資自身は、憚るところがあるということで、早朝祓を行っており、個人の奉幣はしていない。朝廷から大原野神社に発遣された使者は近衛府の官人である小野為信。
五日は、内裏を出て帰宅。特にこともない日だったのだろうが、午の時だから、お昼ぐらいから降り始めた雨が、一晩中降り続いたようである。
六日は、まず特別な三日間の休暇を求める書類の仮文を提出する。理由は犬の死によって穢れたからだという。自邸の庭で野犬の死体が発見されたとかなのかな。この時代内裏にも野犬が入り込んでいて犬狩りなんて行事が行なわれるぐらいなのである。今日も昨日に続いて雨、雨だけでなく霙も降っている。
七日は物忌のために閉門。だから外出していないのだが、鍛冶師を召しだして銀で器を打たせている。閉門しているときに、人を呼ぶのはかまわなかったのだろうか。多分穢れのレベルがあれこれあって、閉門の厳しさもそれによって変わるのだろう。
八日も実資は出仕していないが、蔵人所から牒が届いている。その内容がいまいちよく分からないのだけど、紀伊国伊都郡にある天笠寺の舞面を取って来いということのようである。使いとしてやってきたのは、蔵人所に属する武士の良岑惟望、この件の担当者は蔵人の藤原信理である。藤原信理は正月元日の節会で壁代が落ちたことを理由に天皇の怒りを受けた人物である。それを許す代わりに無理難題を吹っかけられたということかもしれない。実資も何でこんなことをと納得はできていないようだが、天皇のご意向ということで牒に書名を加えている。「愍へつつ」というあたりに実資の心情が現れている。
最後に春日祭使となった藤原実方に摺袴を送っているが、これも物忌閉門中にやっていいことなのか疑問ではあるが、実資がやっているということはかまわないのだろう。
物忌の終わった九日は、まず内裏、次いで円融上皇の元に向かう。上皇はまず朱雀院を訪れているが、馬に乗っていったようである。あちこち見た後、馬に乗って淳和院を見に行き、再度朱雀院に寄って、最後は車に乗って堀河院に戻っている。引っ越しの下見だろうか。三位中将である藤原義懐と道隆が騎馬で同行している。藤原義懐も甥の花山天皇にべったりというわけではないようだ。
伝聞の形で、昨日のこととして、春日祭使の藤原実方が天皇の御前に召し出され、公卿副使も参入したことが記される。「公卿副使」というのがよくわからないのだが、公卿ではない実方の副使に公卿が選ばれるとも思えない。その後の三位中将のコメント、「こんなこと誰が言いだしやがったんだ(意訳)」というのを考えると公卿が副使になったのかもしれない。問題は藤原義懐と道隆のどちらの三位中将の台詞かである。道隆かなあ。花山天皇に近い義懐が実資にこんな個人的な感想を述べるとは思えないし。
末尾にはまた、昨日終わったばかりなのに、今日と明日が物忌だと記される。今回の物忌はそれほど思う内容で、内裏や院には出かけているのだが、春日祭への奉幣ははばかられたようで祓を行っている。
十日はまず内裏から退出。前日の記事から院に候宿したものと思っていたのだが違ったようだ。右大将の藤原済時からの、春日祭使が発遣される日に来なかったんだから、今日は絶対来いという伝言を使の藤原輔忠が届けているが、実資は事情があって行けないと断っている。
その後、円融上皇に呼ばれて参上している。上皇の用件は、院を警護する武士の詰め所である武者所の武士十人に弓矢を使用する許可を天皇に求めてほしいというものだった。弓矢が厳しく禁止されているので身につけることができないでいるからと、十人の名簿を付して天皇に奏上して許可を求めることにしたようである。
十一日は、まず頼忠のもとに向かってから参内し、昨日上皇に依頼された武装の許可を求めて奏上している。天皇はすぐに賛成し、許可の宣旨を下すようにいい左衛門督の源重光に言うようにと言っている。円融上皇の武者所に詰めていたのが衛門府の官人だったということだろうか。実資は院に戻って許可がもらえたことを報告している。
この日、太政大臣の頼忠が、娘の中宮遵子の居所を訪問し食事を献上している。そして恐らく天皇の求めに応じて、錦を献上しているが、何に使うのであろうか。
2017年12月25日23時。
2017年12月27日
藤原氏の歴史(十二月廿四日)
以下は、平安時代の歴史についての知識を復活させるための試みであるので、他人様にお見せできるようなものではないのだが、せっかく書いたので投稿させてもらう。いつもと文体が違うとは言うなかれ、たまにはまじめな文章を書いてみようという試みでもあるのだ。いや、違うよね、いつもとはさ。
藤原氏は、645年の大化の改新に功績のあった中臣鎌足(614-669)が、天智天皇八年(669)十月十五日に、臨終の前日病床で内大臣の地位と、藤原の姓を賜ったことに始まる。本姓の中臣氏は、『日本書記』の天孫降臨の段に、高天原から地上に、瓊瓊杵尊のお供として降臨した五柱の神の中に、「中臣が上祖天児屋命」と見えているから、皇族の先祖神出身の氏ではないが、高天原出身の氏だということになる。
鎌足が藤原という姓を賜った理由については、旧居のあった大和国高市郡の地名からとられたと言われている。後に都となる藤原京のあった辺りであろうか。このときは、中臣氏すべて、もしくは、鎌足の子供たちすべてが、藤原氏に改姓をしたようだが、後に文武天皇二年(698)八月十九日の詔で、鎌足の嗣子不比等(659-720)の子孫以外は中臣氏に戻ることが決められている。
藤原氏の歴史にとって重要なのは、不比等が娘を天皇の後宮に入れ、娘が次代の天皇を産んだり、皇后になったりしたことであろう。宮子(?-754)は即位前の文武天皇(683-707、在位697-707)の夫人となり後の聖武天皇(701-756、在位724-749)を産んでいるし、光明子(701-760)は聖武天皇の夫人となり後に皇族出身ではない初めての皇后となり、孝謙天皇(718-770、在位748-759、称徳天皇として746-770)を産んでいる。鎌足の二人の娘も天武天皇(?-686、在位673-686)の後宮に入っているが、天皇が即位したのは鎌足の没後のことであり、あまり大きな意味は持てなかったようである。
不比等の作り上げた藤原氏が天皇の外戚として権威をふるうという体制は、公卿の地位に昇っていた不比等の四人の息子たち武智麻呂(680-737)・房前(681-737)・宇合(694-737)・麻呂(695-737)が、天平九年(737)の疱瘡の流行で相次いで亡くなることで一度は崩壊する。重要なのは、この四人を祖として、順に南家、北家、式家、京家といういわゆる藤原四家が成立していることである。ただし、末子麻呂の子孫である京家だけは、大臣を輩出することなく終わった。
平安時代初期には、藤原南家の継縄(727-796、右大臣789-796)、三守(785-840、右大臣838-840)、北家の内麻呂(756-812、右大臣806-812)、園人(756-818、右大臣812-818)、冬嗣(775-826、右大臣821-825、左大臣825-826)、式家の緒嗣(774-843、右大臣825-832、左大臣832-843)などが、相次いで大臣の地位に昇っており、北家が比較的有力とはいえ、完全に権力を握ったというわけではなかった。
承和13年(848年)に北家の藤原良房が右大臣に昇って以降は、一時の例外を除き、北家出身の人物が必ず大臣の一席を占め続け、北家以外の藤原氏からの大臣は輩出されなくなる。代わって勢力を伸ばしたのが皇族出身の源氏である。良房が平安時代としては初めての太政大臣になる天安元年(857年)までの平安時代初期は、大臣に欠があることの多い時代で、則闕の官と言われる太政大臣はもちろんのこと、左大臣が欠けていることも多く、大臣が一人もいない時代もあったのである。
これには、奈良時代から続く、政変の多さが影響を与えているという面もあろう。その際たるものが、平城上皇が復位を狙った、いわゆる薬子の変であるが、政変が起こるたびに、公卿の一部が左遷され姿を消すことになり、その結果として大臣の地位に上れる人材を欠くという事態が発生していたのである。
良房は、天安二年(858年)孫に当たる清和天皇(850-880、在位858-876)の即位とともに事実上の摂政になる。これが皇族以外では始めての摂政、いわゆる人臣摂政で、実際に摂政任命の勅が出たのは、応天門の変のあと貞観八年(866年)のことだった。娘を天皇の後宮に入れて天皇である孫の摂政となるという外戚政治の典型例であるが、実は平安中期までの藤原氏の摂関政治において、この孫の摂政関白を務めるという形は、それほど多くない。
『公卿補任』によれば、良房の死後(872年)すぐ、右大臣になっていた養子の基経が清和天皇の摂政に就任しているが、これは後世書き換えられたもので、実際に摂政になったのは、陽成天皇(868-949、在位876-884)が幼年で即位した際だと言われている。陽成天皇は基経の実の妹高子の子供であり、基経は叔父の立場から天皇を補佐して摂政を務め、元慶四年(880年)には太政大臣に任じられている。
その後、陽成天皇の言動に問題が多かったため、基経は摂政を務める天皇を退位させ、新たに仁冥天皇の第三皇子であった光孝天皇(830-887、在位884-887)を即位させることになる。当時としては珍しい50歳を超えてからの即位であったが、天皇は基経に政治を任せ、実質的な関白が誕生したと言われる。光孝天皇の母は皇族であり基経との近しい血縁関係はない。
基経は、光孝天皇の次の宇多天皇(867-931、在位887-897)の時代にも摂政、関白を務めたが、宇多天皇は基経の死後は摂政、関白を置かなかった。これには関白の職掌をめぐる基経と天皇、その側近の対立があったと言われる。基経の死後(891年)、冬嗣の八男で良房の弟である藤原良世が右大臣(891-9-896)となっているが、摂関の地位に就くことはなかった。
次の醍醐天皇(885-930、在位897-930)の代も摂関は置かれなかったが、延喜元年(901)年に菅原道真が左遷されて以降は、大臣の座は、藤原北家と源氏によって独占されることになる。醍醐天皇の時代も前半は基経の長男、時平が左大臣(899-909)として、その死後は弟の忠平が右大臣(914-924)、後に左大臣(924-936)として天皇の治世を支えた。また忠平が左大臣になった延長二年(924)には、藤原定方が右大臣に昇進している。
忠平は延長八年(930年)の朱雀天皇の即位に際して摂政に任じられ、承平六年には左大臣から太政大臣に移っている。そして、天皇が十九歳になった天慶四年(941年)には、摂政から関白に転じた。村上天皇(926-967、在位946-967)の即位後も関白を続け、天暦三年(949年)に没した。天皇は忠平の死後、関白を任命することはなかった。
この頃までは、良房、基経、忠平と、新たに摂関に就任するのは新天皇の即位と同時であり、天皇の代替わりがあった場合には摂関は引き続き任命され、摂関が没した場合には代替わりがあるまで新たな摂関は任命しないという原則があったようである。平安前期には、人臣摂政が誕生したばかりで、摂関が任じられているのが常態とはなっていなかったのである。また、摂関に任じられる人物が、太政大臣を兼ねることから、太政大臣にふさわしい人物が、摂関にもふさわしいと考えられていたようだ。
一般に、基経死後の宇多天皇と醍醐天皇、村上天皇の時代は、天皇が摂関を廃して、自ら政治を取った時代だといわれることが多いが、上記の原則を考えると摂関没後に新たな摂関を任じなかったことに、どれほど大きな意味があったのかは疑問である。醍醐天皇が即位時に摂関を任命しなかったのは、宇多天皇の意向であろうが、その後も時平を関白にしなかったのは、即位時に任じなかった以上できなかったと考えたほうがいい。そもそも、公卿の合議によって太政官の方針が決められ、摂関といえども、貴族社会の意向を完全に無視することのできなかった時代に、天皇の親政にどこまで天皇個人の意思が反映されていたのかはわからないのである。
2017年12月24日22時。
2017年12月26日
チェコ語の動詞1(十二月廿三日)
チェコ語の動詞の分類が、役に立たないと言うのは、どのレベルでの違いによって分類しているのかがよくわからないことで、さらに細分化することも、もっと大きくまとめることも出来るような気がする。それに現在変化であれば、一人称単数の形を覚えていなければ、動詞の分類のタイプを覚えていたとしても、あまり意味がないので、タイプを覚えるよりは、一人称単数を覚えた方がはるかに役に立つ。
現在の人称変化という点に限れば、極限まで規則化するとチェコ語の動詞は二種類に分けられる。それは、一人称単数が、短母音「u」もしくは「i」になるものと、長母音「í」か「á」+「m」になるものの二つである。現実的には「u」「i」「ím」「ám」で終わるものの四つに分けたほうがよさそうである。
とりあえず簡単なほうから行くと、一人称単数が「ám」で終わるものは、以下のように人称変化する。例は「dělat(する)」
単数 複数
1人称 děl-ám děl-áme
2人称 děl-áš děl-áte
3人称 děl-á děl-ají
一人称複数、二人称単数、複数、三人称単数の語尾の母音に続く形が、順に「-me」「-š」「-te」「-(ナシ)」となるのは、すべての動詞で共通である。一人称単数が「ám」で終わる動詞は原則として原型が「-at」で終わる。問題はすべての「-at」で終わる動詞が、この形の変化をするわけではないということで、特に原形が「-ovat」で終わるものは、違う変化をするというのは絶対に覚えておかなければならない。他には「ukázat(見せる)」「skákat(跳ぶ)」などが、「-at」で終わりながら、この変化をしない動詞である。
それから、この変化をしながら原形が違うというものもある。一つは「dát(与える)」で長母音になっているだけだが、「brát(取る)」を含めて、「-át」で終わる動詞はこの形の変化をしないものが多いのである。もう一つは、「 mít(持つ)」で、この動詞は過去形でも微妙に違った形をとるので、全体としては不規則扱いにするのがいいのだろうが、人称変化に関してだけは、この「dělat」グループに入るのである。「mít」から「mám」、もしくはその反対への変化が問題なくできるようになるまでは、結構間違えたけどね。
続いては、一人称単数が「ím」で終わるものである。例は「mluvit(話す)」
単数 複数
1人称 mluv-ím mluv-íme
2人称 mluv-íš mluv-íte
3人称 mluv-í mluv-í
三人称の複数以外は、前の動詞の「á」が「í」に変わっただけである。この手の動詞は、原形が「-it」「-et」でおわる。長母音になる「-ít」で終わるものは、この形にはならないので注意が必要である。
もう一つ、注意しなければならないのは、「-et」で終わる動詞の中には、三人称複数が「-ejí」となるものもあることだ。例えば「umět」の三人称複数は「umějí」となる。「-et」で終わる動詞でも、三人称複数が「-í」になるものもあるし、どちらでもいいというものもある。どちらでもいいというのもよくわからないのだけど、とりあえず「-í」で使っておいて、「-ejí」が正しいと言われたものを覚えていくというのが、無難な対処法だろうか。
チェコ人の中にはルールがあると言い張る人もいるかもしれないが、あったとしても外国人には何の役にも立たないものに決まっているので、まともに受け取ってはいけない。逆にそんなのどっちでもいいんだよなんて言う人もいるから、「-et」で終わる動詞の三人称複数は間違ってもいいものと割り切って使っている。日本人なんだから、そんな単数、複数を常に意識してしゃべっているわけではないし、正しい形がわかっていても間違えるものなのだからさ。
おそらく、ここで取り上げた二つが、チェコ語の伝統的な動詞の分類では、5型と4型と呼ばれるものであるが、その番号にはあまり意味はない。少なくとも外国人にはどうでもいいことである。令によってクリスマス進行中なので、次回動詞に触れるのは年明けになるかもしれない。
2017年12月23日24時。
2017年12月25日
バビシュ内閣成立(十二月廿二日)
スポーツ、特にハンドボールにかまけている間に、チェコでは十月の下院の総選挙以来二ヶ月弱のときを経て、新しい内閣が成立したらしい。選挙で第一党になったANOの党首であるバビシュ氏にゼマン大統領が組閣の命令を出して、バビシュ氏が大臣を選んでいるのは知っていたし、他党との連立の交渉がうまく行かず、交渉自体をしていない可能性もあるけど、ANO単独で少数与党として政権を運営していく道を選んだことも知っていた。
だから、内閣が成立したこと自体は意外でも何でもないのだけど、意外なのはいつまでたっても国会で内閣を信任するかどうかの採決が行なわれないことである。内閣の信任投票はそっちのけにして、来年度の予算の審議を進めている。この予算案は、もともとソボトカ内閣時代に作成されて、解散前の議会で審議されていたはずだから、今更審議しても仕方がないと言うか、選挙の前に成立させておくべきだったのではないかという気もする。選挙がない年でも、審議に時間がかかりすぎて年内に成立せず、暫定予算で新年度を始めるなんてこともあるのかな。
日本の場合には、正確には覚えていないけれども、衆議院の総選挙が行なわれた後の最初の招集で首班指名のための選挙が行われるんじゃなかったか。その後、組閣作業を経て、天皇による任命という経過をたどることになっているはずである。組閣が終わった後の内閣への信任投票は行われないと記憶している。首班指名の投票の時点で、首相候補者が過半数を確保しているわけだから、その首相候補者の組閣した内閣に対して、わざわざ信任投票をするまでもないということであろう。
チェコの場合には、首班指名は国会の選挙によるものではなく、大統領の指名に基づくため、指名された時点で、国会内に過半数の支持を確保しているという保証はない。だから、改めて信任を得るための投票が必要になるのだろう。不思議なのは、大統領による首相と閣僚の任命が、その信任投票の前にあることである。
現在のバビシュ内閣は、少数与党のANOの単独政権である。他の政党の動きを見ていると、国会で信任されるとは思えない。信任されなかった場合には、組閣のやり直しということになるのだが、それが大統領に任命された内閣の総辞職という扱いになるのか、信任が得られなかったことで、任命が無効になるのかはわからない。過去に総辞職した内閣の閣僚が、新しい内閣が決まるまで辞任手続き中の大臣とかいうややこしい名目で仕事をしていたことがあるような気もするから前者かな。
とまれ、信任を得られなかった場合、再び大統領が首班指名を行なう。一回目の指名と同じ人物を選んでもいいし、別な党の党首を選んでもかまわないらしい。この前、最初の組閣で信任をえられなかったミレク・トポラーネク氏の場合には、二回目の指名を受けて組閣をやりなおし(閣僚に変化があったかどうかは知らない)、当時政界を引退していたゼマン大統領の支持で社会民主党の議員が何人か投票に参加しなかったことで、辛うじて信任を得られたといわれている。
それを考えると、今回も二回目の首班指名が一回目と同様にバビシュ氏に降りることは、ゼマン大統領が大統領である限り、間違いない。二回目の信任投票で、共産党とオカムラ党の支持を得てバビシュ氏が信任をえるというのが、個人的に想定しているシナリオなのだが、二回目でも信任を得られなかった場合には、三回目の首班指名が行なわれる。この三回目の首班指名を行うのは、大統領ではなく、下院の議長ということになっているらしい。だから、選挙直後に市民民主党が、最大の会派から議長を出すという慣例を破って、議長の座を強硬に求めていたのである。
ANOの議員が議長になっているので、三回目の首班指名もバビシュ氏に降りるのはほぼ決定的である。だからと言って信任されるとは限らないのが、困ったところで、この三回目の試みも失敗に終わった場合には、下院を解散して、再び総選挙が行なわれることになる。こういう事態になると、現状では不満はバビシュ氏側ではなく、かたくなにバビシュ氏を拒否している既存の政党に向かうような気がするが、どうだろうか。
10月の選挙で、ANOが圧勝したけれども過半数には届かないという微妙な結果に終わった時点から、この再選挙の恐れというものは認識されていて、ゼマン大統領が信任を得ない内閣が、今回の下院の任期期間存続してもいいじゃないかと言い出した。不信任案が可決されたり、信任案が否決されたりして、辞職した内閣が、次の内閣が決まるまで辞任中という状態で政権を担当することがあるのだから、その期間が延びただけと解釈すればいいだろうというのだけど、これには当のバビシュ氏からも反対論が出た。
現時点では、バビシュ氏であれ、他の誰であれ、組閣して信任を確実に得られるという候補者は存在しない。だから総選挙を避けるという意味では、ゼマン氏の主張も現実的ではあるのだけど、民主主義の原則に反するという反対論が強いので、実現することはないだろう。だから三回目のバビシュ内閣も信任を得られなかったら、再選挙が行なわれるのは確実である。それにしても、以前は下院は解散できるのかできないのかでもめていたのに、いつの間にか、解散できることが前提になっていることに少々驚いてしまう。
本当は内閣が成立したら、大臣の紹介をするつもりだったのだけど、長続きしない可能性が高いので、国会で信任を得られてから紹介することにする。
2017年12月22日23時。
2017年12月24日
チェコ語の動詞0(十二月廿一日)
久しぶりに、昔々の記事にコメントを頂いた。仕事をしながら真面目にチェコ語を勉強されている方のようで、コメントを読んでちょっと昔の真面目にチェコ語を勉強していた頃の気分を思い出してしまった。チェコ語を始めて半年かあ。一番楽しく、同時に辛い時期かもしれない。ここに書き散らしたチェコ語に関する文章が、勉強の役には立っていないだろうけれども、勉強の合間の気分転換や、気休めになっていれば幸いである。
ということで、最近ご無沙汰のチェコ語について書くことにする。名詞については全部書いたと思っていたのだが、実は、手、目、耳などの人体に二つずつ付いているものに特別な双数という形についてまだ触れていないことに気づいた。しかし、名詞についてあれだけ書いて、格変化はちょっとうんざりという気分もある。だから次は形容詞だと思っていたのに手を付けることができなかったのだしさ。
コメントには動詞の活用についてリクエストされているようなので、格変化する言葉から目先を変えて動詞について書いてみよう。これも結構厄介ではあるけれども、完了態とか不完了態とか考えなければ名詞よりは楽かな。
その前に、頂いたコメントの中で気になる部分にコメントをしておく。
テキストには簡単そうに法則を説明していますが、納得できない不規則性の壁に何度もぶつかってしまいます。
いやあ、わかる。よくわかる。チェコ語にはルールなどないところに無理やりルールを設定して、それに当てはまらないものを例外だと処理してしまうケースが非常に多く、いい加減にしてくれと叫びだしたくなったのは一度や二度ではない。最初から、こういうものだと決まったルールはなくて、言葉によって変わるんだという説明であれば、面倒ではあっても覚えるだけだからまだ納得はいく。それが、こういるルールがあると言われてそれを必至で覚えこんだ後で、これは例外だからちょっと違うというのが連発して、例外の方が多いんじゃないかといいたくなるようなことがあると、もう止めちまおうかという気分になってしまう。
ルールではなく、こういう傾向があるという説明であれば、それに当てはまらないものが出てきたときに裏切られたという気分にはならないのだろうけど、チェコの人はルールにしたがるのである。いや、チェコ語に関する感覚が鋭いはずのチェコ人であれば、ルールとしても例外の裏側にあるチェコ語的な考えかたが読み取れて、納得できるのかもしれない。ただそれを外国人に求められても困るのである。
最近はチェコ人が主張するルールで説明しきれない部分をコレクションしておいて、いざというときにチェコ人に反撃するための武器にしている。最近も、スポーツの名称で、日本語で「〜ボール」で終わるスポーツの場合に、チェコ語では読みが「ボル」になるものと、「バル」になるものがあるのだけど、それは何でだという質問でチェコ人を困らせることに成功した。ベースボール(baseball)のように英語のつづりをそのまま使っているものは、「ボル」もしくは「ボール」となり、バスケットボール(basketbal)のように、微妙にチェコ語化している(末尾のlが欠落)ものは、「バル」と読まれるようだが、チェコ語化するしないの境目がどこにあるかとなると、誰も答えられない。
だから、不規則性に出会ったときには、こういう使用目的でメモしておくことをお勧めする。チェコ人に対する嫌がらせとして使用していれば、繰り返すことにもなるので、その例外性が覚えやすく忘れにくい物になることは確実である。例外事項ばっかり覚えてしまって、本則事項があいまいになるという弊害もあるかもしれないけれども。
さて、本題の動詞である。本題なんだけど、例によって例の如く、枕が無駄に長くなってしまったので、今回は最初の部分だけ。
チェコ語では、伝統的に動詞の種類を、5つに分けて説明するが、言語学上の研究に関して走らず、外国人がチェコ語を勉強するのには、名詞の格変化の分類ほどには役に立たない。ことに動詞の種類をこれは1型とか2型とか覚えていくのは何の意味もない。動詞の現在の人称変化を覚えるに当たって、大切なのは原型と一人称単数の形を覚えていくことである。
チェコ語の動詞の中には、原形から人称変化させるときに、詐欺だろといいたくなるほど形が変わるものが、特に重要な動詞に多く、原形を覚えただけでは使い物にならない。その代わり一人称単数の形がわかれば、少数の例外を除いて、4つのタイプの変化しかないので、覚えるのは楽である。
次回からは、実際の人称変化について、あれこれいちゃもんを付け、薀蓄をたれていく。
この話、本当は昨日書くはずだったのだけど、ロシツキー引退という衝撃のニュースが入ってきたために一日延期してしまった。
2017年12月21日23時。
2017年12月23日
トマーシュ・ロシツキー引退(十二月廿日)
テレビのニュースを見ていたら、とんでもないニュースが聞こえてきた。ロシツキーが、あのロシツキーが、度重なる怪我にも負けずに、復帰と欠場を繰り返してきたチェコの誇る天才トマーシュ・ロシツキーが引退を決意したというのである。昨年の夏にスパルタに復帰してからも、怪我が重なって本領を発揮したとは言えないのだが、それでもロシツキーがいるだけで、ロシツキーが出るかもしれないと思えるだけで、スパルタに期待が持てたのだが……。特にスパルタのファンでもない人間でさえこうなのだから、スパルタファンの失望は想像に難くない。
イタリア人のストラマッチョーニ監督がファンに嫌われているのは、成績も内容もまったくシーズン前の期待に応えられていないからだが、ロシツキーがなかなか出場しないというのも大きな不満になっていたのではないだろうか。これで、監督がロシツキーに引退を迫ったなんて話が流れたりしたら、とんでもないことになりそうである。
ちらっと目にしたり耳にしたりした本人のコメントによると、すでに体は何年も前からこれ以上無理だと悲鳴を上げていたのを、頭で体にまだ大丈夫だと言い聞かせて頑張ってきたけれども、日本語風に行くと気持ちも切れてしまって、これ以上は続けられないということのようだった。そして、自分がグラウンドに出てプレーしてもチームに何ももたらせなくなってしまったとも語っていた。
どうなのかな。ロシツキーがいるだけで違うという面もあるけど、確かにロシツキーがいると、たとえ絶不調でも、怪我で動きが悪くても、みんなロシツキーに頼ってしまうという面があるから、そういうところまで考えた上での決断なのだろう。ハンドボールのイーハといい、ロシツキーといい、今年はチェコが誇る選手たちの引退が相次いで、時の流れの残酷さを感じさせられることが多い。
チェコに来て、チェコリーグの試合を見始めた頃にはすでにドイツのドルトムントに移籍したあとだったので、ロシツキーの姿を見るのは、ほとんど代表の試合でだった。2002年の日韓ワールドカップの予選のころはまだ住まいにテレビがなかったから、ロシツキーの雄姿が拝めるようになったのは、2004年のヨーロッパ選手権の予選ぐらいからになるのかなあ。
本大会で優勝してもおかしくなかったあのときの代表は、ネドビェット、ポボルスキー、コレル、ヤンクロフスキ、ウイファルシ、グリゲラ、ガラーセク、シュミツル、バロシュなどなど、チェコを出てドイツやイタリアなどの有力チームで主力として活躍する選手が並んでいて、本当に魅力的なチームだったが、その中でも、別格だったのがやはりネドビェットと、当時はまだ若手だったロシツキーの二人である。この二人が、二人とも元気で好調ならどこが相手でも勝てそうだった。監督も策士のブリュックネル爺様だったしさ。
ロシツキーは、2006年のドイツワールドカップの後に、アーセナルに移籍したのだが、イングランドの過酷なスケジュールのせいなのか、怪我がちになる。元気でもベンチに座っていることが多くて、ロシツキーファンとしてはアーセナルには、文句しかないのだけど、怪我からの復帰が当初の見立てよりもはるかに長くなることが多かったし。でも、10年も在籍したということは、本人は満足していたのだろう。
試合に出ないのは、チェコ代表のために消耗しないように温存してくれていると思えば、まだ許せたけれども、怪我がなかなか治らないのには、チームだけのせいではないと言うことは重々承知の上で恨み言を言いたくなる。トマーシュ・ロシツキーの兄のイジー・ロシツキーも将来を嘱望されて、チェコリーグでデビューする前にスペインに移籍した逸材だったのだけど、こちらも怪我に泣かされ続けて、ほとんど活躍することができなかったしなあ。
昨年スパルタに復帰したときも、もう無理はしてほしくないというのと、復活したロシツキーを見たいというのとで複雑な心境だったけれども、いざ引退となると、残念の一言である。今後、指導者の道を歩むのか、グリゲラのようにチームマネージメントのほうに行くのかはわからないけれども、これまで何人も出現して、一人も物にならなかったロシツキーの後継者、本当の意味でロシツキーの後を継げるような選手を発掘して育ててくれたら嬉しいのだけど。
ネドビェットと同じで、チェコにとっては不世出の存在であってほしいという気持ちもあるんだよなあ。やはり、自分はチェコ代表のファンではあっても、何よりもまず2004年前後のブリュックネルに率いられた代表のファンなのだと、ロシツキーの引退を聞いて思い知らされた。あの大会の試合を、また放送してくれないかなあ。
これからはスパルタの試合を見て、ロシツキーがいればなんてことを考えることさえできなくなるのか……。大晦日の引退選手を中心にした35歳以上、45歳以上とかのカテゴリー分けのあるプラハダービーに出ないかな。今年はコレルが出るという話もあるから、一瞬だけでもかつてのコンビ復活にならないかなあ。
いくら書いても愚痴しか出てこなくなってきたので、この辺でおしまいにしよう。イーハのときもそうだったけど、応援していた選手の引退について書くといつも以上にぐだぐだになってしまう。
2017年12月20日23時30分。
2017年12月22日
ヨーロッパリーグのプルゼニュ(十二月十九日)
ブルバが代表監督に引き抜かれる前のプルゼニュは、チャンピオンズリーグ、ヨーロッパリーグの予選で、無類の強さを誇った。予選に出場し始めた頃はともかく、二年目、三年目ぐらいからはほとんど負けなかったんじゃなかろうか。1点ぐらいリードされても、最低でも同点に追いつき、たいていは逆転してしまうのだった。
それが、今年のプルゼニュは、何人かの監督を経て、ブルバが率いてさえヨーロッパで勝てないプルゼニュに戻っていた。チャンピオンズリーグの予選では、相性の悪いルーマニアのチームのステアウア・ブカレストが相手だったとは言え、アウェーでの初戦で、二度リードしたものの同点に追いつかれ、ホームでは守備が崩壊して負けて、ヨーロッパリーグの予選にまわることになったのである。もともと守備の堅いチームではなかったけれども、大事な試合ではぎりぎりで守り抜くことが多かったんだけどなあ。
ヨーロッパリーグの最終予選もあまりぱっとしない感じで、確か引き分け二試合のアウェーでの得点差で本戦進出を決めたのだった。そして本戦ではグループGに入り、またまたステアウアと対戦するという悪夢のような組み分けになった。それでも勝ち抜けは確実だと思ったのだけど、意外なほど苦戦することになった。スラビアほどではなかったけど。
初戦のルーマニアでの試合は、点が取れずに完封負け。予選の時点でも感じていたのだが、チェコリーグとヨーロッパリーグの対戦相手の違いに感覚が追いついていないような印象を受けた。二試合目のイスラエルのベルシェバとのホームでの試合には勝ったものの、三戦目のスイスリーグでも下位に低迷しているというルガーノでの試合には、攻め込んでいながらカウンターから失点を繰り返して負けてしまった。チェコリーグでなら通るパスが、カットされてカウンターを食らうというシーンが多かったような気がする。
それが、四戦目のホームでのルガーノとの試合に勝ったあたりから、ベテランたちがかつての感覚を取り戻したのか、最後は三連勝で、グループステージを4勝2敗の勝ち点12で終えた。特に第五戦のホームでのステアウア戦では、鬼門のルーマニアチームに初めて勝った。この試合では、本当に久しぶりにヨーロッパのカップ戦で強いプルゼニュを見ることができた。夏のチャンピオンズリーグの予選の時期にこの状態になっていれば、本選まで行けたはずなのに……。
ブルバ監督は以前から、スパルタなどで戦力外の烙印を押されたベテラン選手を再生して、チームの中心にすえることが多かったが、今回も、年齢的にももう無理だろうと言われていた出戻りのコラーシュや、最近ぱっとしなかったリンベルスキーやペトルジェラといった以前の監督時代の中心選手を再び再生して、かつての輝きを取り戻させた。伸び悩みが続いていた感のあるホジャバやフロショフスキー、コピツあたりもプレーの質が、去年と比べるとかなり上がったように見える。
シーズン開始前は、特に大きな補強もせず、ベテランの多い選手構成から、さすがのブルバでも惟では厳しいのではないかという声が、スパルタ、スラビアが外国人の大物を補強していたこともあって、強かったのだが、ふたを開けてみたらチームに在籍して長いベテラン、中堅の選手たちが徐々に調子を上げて、国内リーグでは前代未聞の開幕からの連勝を遂げ、ヨーロッパリーグでもしり上がりに調子を上げて、結局は1位でグループステージを突破したのである。
試合結果は以下の通り。
ステアウア 3−0 プルゼニュ
ブルゼニュ 3−1 ベルシェバ
ルガーノ 3−2 プルゼニュ
プルゼニュ 4−1 ルガーノ
プルゼニュ 2−0 ステアウア
ベルシェバ 0−2 プルゼニュ
最終戦で久しぶりに相手ホームの試合で勝てたのも次に向けて大きいかな。
二月に行なわれる次の試合の相手は、セビリアのパルチザン・ベオグラードに決まった。ベオグラードのチームというと、スパルタがヨーロッパリーグの予選で負けたレッドスターが有名だけれども、こちらも社会主義時代の遺物といいたくなるような名前である。チーム名に、ゲリラを意味するような言葉を使うのは、あんまりないよなあ。
チェコのチームってセルビアのチームともあんまり相性がよくなかったような気もするのだけど、今の復活したヨーロッパでも強いプルゼニュであれば、しっかり勝ちぬけてくれるだろう。2000年代の初めのリベレツの再現が見たいなあなんて思うので、準々決勝ぐらいまで、できれば準決勝まで進んでもらいたいものである。スラビアが一度、ヨーロッパリーグの前身となった大会で、90年代に準決勝まで進出しているんだよなあ。
2017年12月19日23時。