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2017年12月27日

藤原氏の歴史(十二月廿四日)



 以下は、平安時代の歴史についての知識を復活させるための試みであるので、他人様にお見せできるようなものではないのだが、せっかく書いたので投稿させてもらう。いつもと文体が違うとは言うなかれ、たまにはまじめな文章を書いてみようという試みでもあるのだ。いや、違うよね、いつもとはさ。

 藤原氏は、645年の大化の改新に功績のあった中臣鎌足(614-669)が、天智天皇八年(669)十月十五日に、臨終の前日病床で内大臣の地位と、藤原の姓を賜ったことに始まる。本姓の中臣氏は、『日本書記』の天孫降臨の段に、高天原から地上に、瓊瓊杵尊のお供として降臨した五柱の神の中に、「中臣が上祖天児屋命」と見えているから、皇族の先祖神出身の氏ではないが、高天原出身の氏だということになる。
 鎌足が藤原という姓を賜った理由については、旧居のあった大和国高市郡の地名からとられたと言われている。後に都となる藤原京のあった辺りであろうか。このときは、中臣氏すべて、もしくは、鎌足の子供たちすべてが、藤原氏に改姓をしたようだが、後に文武天皇二年(698)八月十九日の詔で、鎌足の嗣子不比等(659-720)の子孫以外は中臣氏に戻ることが決められている。

 藤原氏の歴史にとって重要なのは、不比等が娘を天皇の後宮に入れ、娘が次代の天皇を産んだり、皇后になったりしたことであろう。宮子(?-754)は即位前の文武天皇(683-707、在位697-707)の夫人となり後の聖武天皇(701-756、在位724-749)を産んでいるし、光明子(701-760)は聖武天皇の夫人となり後に皇族出身ではない初めての皇后となり、孝謙天皇(718-770、在位748-759、称徳天皇として746-770)を産んでいる。鎌足の二人の娘も天武天皇(?-686、在位673-686)の後宮に入っているが、天皇が即位したのは鎌足の没後のことであり、あまり大きな意味は持てなかったようである。
 不比等の作り上げた藤原氏が天皇の外戚として権威をふるうという体制は、公卿の地位に昇っていた不比等の四人の息子たち武智麻呂(680-737)・房前(681-737)・宇合(694-737)・麻呂(695-737)が、天平九年(737)の疱瘡の流行で相次いで亡くなることで一度は崩壊する。重要なのは、この四人を祖として、順に南家、北家、式家、京家といういわゆる藤原四家が成立していることである。ただし、末子麻呂の子孫である京家だけは、大臣を輩出することなく終わった。

 平安時代初期には、藤原南家の継縄(727-796、右大臣789-796)、三守(785-840、右大臣838-840)、北家の内麻呂(756-812、右大臣806-812)、園人(756-818、右大臣812-818)、冬嗣(775-826、右大臣821-825、左大臣825-826)、式家の緒嗣(774-843、右大臣825-832、左大臣832-843)などが、相次いで大臣の地位に昇っており、北家が比較的有力とはいえ、完全に権力を握ったというわけではなかった。

 承和13年(848年)に北家の藤原良房が右大臣に昇って以降は、一時の例外を除き、北家出身の人物が必ず大臣の一席を占め続け、北家以外の藤原氏からの大臣は輩出されなくなる。代わって勢力を伸ばしたのが皇族出身の源氏である。良房が平安時代としては初めての太政大臣になる天安元年(857年)までの平安時代初期は、大臣に欠があることの多い時代で、則闕の官と言われる太政大臣はもちろんのこと、左大臣が欠けていることも多く、大臣が一人もいない時代もあったのである。
 これには、奈良時代から続く、政変の多さが影響を与えているという面もあろう。その際たるものが、平城上皇が復位を狙った、いわゆる薬子の変であるが、政変が起こるたびに、公卿の一部が左遷され姿を消すことになり、その結果として大臣の地位に上れる人材を欠くという事態が発生していたのである。

 良房は、天安二年(858年)孫に当たる清和天皇(850-880、在位858-876)の即位とともに事実上の摂政になる。これが皇族以外では始めての摂政、いわゆる人臣摂政で、実際に摂政任命の勅が出たのは、応天門の変のあと貞観八年(866年)のことだった。娘を天皇の後宮に入れて天皇である孫の摂政となるという外戚政治の典型例であるが、実は平安中期までの藤原氏の摂関政治において、この孫の摂政関白を務めるという形は、それほど多くない。

 『公卿補任』によれば、良房の死後(872年)すぐ、右大臣になっていた養子の基経が清和天皇の摂政に就任しているが、これは後世書き換えられたもので、実際に摂政になったのは、陽成天皇(868-949、在位876-884)が幼年で即位した際だと言われている。陽成天皇は基経の実の妹高子の子供であり、基経は叔父の立場から天皇を補佐して摂政を務め、元慶四年(880年)には太政大臣に任じられている。
 その後、陽成天皇の言動に問題が多かったため、基経は摂政を務める天皇を退位させ、新たに仁冥天皇の第三皇子であった光孝天皇(830-887、在位884-887)を即位させることになる。当時としては珍しい50歳を超えてからの即位であったが、天皇は基経に政治を任せ、実質的な関白が誕生したと言われる。光孝天皇の母は皇族であり基経との近しい血縁関係はない。
 基経は、光孝天皇の次の宇多天皇(867-931、在位887-897)の時代にも摂政、関白を務めたが、宇多天皇は基経の死後は摂政、関白を置かなかった。これには関白の職掌をめぐる基経と天皇、その側近の対立があったと言われる。基経の死後(891年)、冬嗣の八男で良房の弟である藤原良世が右大臣(891-9-896)となっているが、摂関の地位に就くことはなかった。

 次の醍醐天皇(885-930、在位897-930)の代も摂関は置かれなかったが、延喜元年(901)年に菅原道真が左遷されて以降は、大臣の座は、藤原北家と源氏によって独占されることになる。醍醐天皇の時代も前半は基経の長男、時平が左大臣(899-909)として、その死後は弟の忠平が右大臣(914-924)、後に左大臣(924-936)として天皇の治世を支えた。また忠平が左大臣になった延長二年(924)には、藤原定方が右大臣に昇進している。
 忠平は延長八年(930年)の朱雀天皇の即位に際して摂政に任じられ、承平六年には左大臣から太政大臣に移っている。そして、天皇が十九歳になった天慶四年(941年)には、摂政から関白に転じた。村上天皇(926-967、在位946-967)の即位後も関白を続け、天暦三年(949年)に没した。天皇は忠平の死後、関白を任命することはなかった。

 この頃までは、良房、基経、忠平と、新たに摂関に就任するのは新天皇の即位と同時であり、天皇の代替わりがあった場合には摂関は引き続き任命され、摂関が没した場合には代替わりがあるまで新たな摂関は任命しないという原則があったようである。平安前期には、人臣摂政が誕生したばかりで、摂関が任じられているのが常態とはなっていなかったのである。また、摂関に任じられる人物が、太政大臣を兼ねることから、太政大臣にふさわしい人物が、摂関にもふさわしいと考えられていたようだ。

 一般に、基経死後の宇多天皇と醍醐天皇、村上天皇の時代は、天皇が摂関を廃して、自ら政治を取った時代だといわれることが多いが、上記の原則を考えると摂関没後に新たな摂関を任じなかったことに、どれほど大きな意味があったのかは疑問である。醍醐天皇が即位時に摂関を任命しなかったのは、宇多天皇の意向であろうが、その後も時平を関白にしなかったのは、即位時に任じなかった以上できなかったと考えたほうがいい。そもそも、公卿の合議によって太政官の方針が決められ、摂関といえども、貴族社会の意向を完全に無視することのできなかった時代に、天皇の親政にどこまで天皇個人の意思が反映されていたのかはわからないのである。
2017年12月24日22時。




OD版 平安時代史事典 本編 上 あ-そ







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