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2017年12月28日

永観三年二月の実資〈上〉(十二月廿五日)



 二月一日は、室町の邸宅に出向く以外はいつも通りというか、関白の頼忠のところに出かけただけ。ただし、伝聞で花山天皇の姉に当たる宗子内親王の住む飛香舎で、子の日の遊びが行われたことが記される。本来、子の日の遊びは、新年最初の子の日に、野に出て行なう行事のはずだが、宮中で行なうこともあったのだろうか。問題は天皇の参加だが、遊び好きの花山天皇のこと、参加したものと見る。

 二日は、またまた天皇が馬をご覧になっている。まずは清涼殿で庭が狭かったせいで、五頭ずつ二回に分けて見た後、紫宸殿に出御して、南庭を駆ける馬を見ている。天皇の馬好きは、臨時で(思いつきで)馬を見る儀式を行なうところまできているようで、実資もいぶかしんでいる。馬には平文の蔵というから、漆塗りの金銀で装飾された鞍を置いている。天皇自らがこのような華美なことをしているのだから、公卿以下の過差が止まらないのも当然かもしれない。
 末尾の「地火爐次」は供応のことかと考えられるが、実資が内裏に出仕している間に、自宅を訪れた勘解由判官明尹に対する供応が行われたということだろうか。

 三日は前夜候宿した内裏から自宅に戻ると、呼び出しがあって頼忠の元に向かう。夕方退出しているが、その前に「地火爐次」があったようだから、実資が不在の間に自宅で供応させたと考えるのがよさそうである。夜になって、今度は円融上皇の元に出向いてそのまま候宿している。地震があったようだが、特に被害は記されていない。

 四日は、前日候宿した院を早朝退出し、今日は内裏で候宿である。昨日内裏で行われたこととして、大嘗祭の悠紀の国・主基の国と、行事の担当の公卿を決める会議が行なわれている。公卿の会議を主催するのは原則として左大臣である。占いで選ばれる悠紀の国・主基の国だが、今回は近江・丹波などの国々が選ばれたようである。
 藤原氏が平安京西方に氏神の春日大社を勧進して創建した大原野神社の祭礼のために、円融上皇が馬を奉っている。使になったのは院の判官代の藤原師長だが、この人物のことはよくわからない。この馬を奉る使いを出すのは今年が初めてのようである。
 実資自身は、憚るところがあるということで、早朝祓を行っており、個人の奉幣はしていない。朝廷から大原野神社に発遣された使者は近衛府の官人である小野為信。

 五日は、内裏を出て帰宅。特にこともない日だったのだろうが、午の時だから、お昼ぐらいから降り始めた雨が、一晩中降り続いたようである。

 六日は、まず特別な三日間の休暇を求める書類の仮文を提出する。理由は犬の死によって穢れたからだという。自邸の庭で野犬の死体が発見されたとかなのかな。この時代内裏にも野犬が入り込んでいて犬狩りなんて行事が行なわれるぐらいなのである。今日も昨日に続いて雨、雨だけでなく霙も降っている。

 七日は物忌のために閉門。だから外出していないのだが、鍛冶師を召しだして銀で器を打たせている。閉門しているときに、人を呼ぶのはかまわなかったのだろうか。多分穢れのレベルがあれこれあって、閉門の厳しさもそれによって変わるのだろう。

 八日も実資は出仕していないが、蔵人所から牒が届いている。その内容がいまいちよく分からないのだけど、紀伊国伊都郡にある天笠寺の舞面を取って来いということのようである。使いとしてやってきたのは、蔵人所に属する武士の良岑惟望、この件の担当者は蔵人の藤原信理である。藤原信理は正月元日の節会で壁代が落ちたことを理由に天皇の怒りを受けた人物である。それを許す代わりに無理難題を吹っかけられたということかもしれない。実資も何でこんなことをと納得はできていないようだが、天皇のご意向ということで牒に書名を加えている。「愍へつつ」というあたりに実資の心情が現れている。
 最後に春日祭使となった藤原実方に摺袴を送っているが、これも物忌閉門中にやっていいことなのか疑問ではあるが、実資がやっているということはかまわないのだろう。

 物忌の終わった九日は、まず内裏、次いで円融上皇の元に向かう。上皇はまず朱雀院を訪れているが、馬に乗っていったようである。あちこち見た後、馬に乗って淳和院を見に行き、再度朱雀院に寄って、最後は車に乗って堀河院に戻っている。引っ越しの下見だろうか。三位中将である藤原義懐と道隆が騎馬で同行している。藤原義懐も甥の花山天皇にべったりというわけではないようだ。
 伝聞の形で、昨日のこととして、春日祭使の藤原実方が天皇の御前に召し出され、公卿副使も参入したことが記される。「公卿副使」というのがよくわからないのだが、公卿ではない実方の副使に公卿が選ばれるとも思えない。その後の三位中将のコメント、「こんなこと誰が言いだしやがったんだ(意訳)」というのを考えると公卿が副使になったのかもしれない。問題は藤原義懐と道隆のどちらの三位中将の台詞かである。道隆かなあ。花山天皇に近い義懐が実資にこんな個人的な感想を述べるとは思えないし。
 末尾にはまた、昨日終わったばかりなのに、今日と明日が物忌だと記される。今回の物忌はそれほど思う内容で、内裏や院には出かけているのだが、春日祭への奉幣ははばかられたようで祓を行っている。

 十日はまず内裏から退出。前日の記事から院に候宿したものと思っていたのだが違ったようだ。右大将の藤原済時からの、春日祭使が発遣される日に来なかったんだから、今日は絶対来いという伝言を使の藤原輔忠が届けているが、実資は事情があって行けないと断っている。
 その後、円融上皇に呼ばれて参上している。上皇の用件は、院を警護する武士の詰め所である武者所の武士十人に弓矢を使用する許可を天皇に求めてほしいというものだった。弓矢が厳しく禁止されているので身につけることができないでいるからと、十人の名簿を付して天皇に奏上して許可を求めることにしたようである。

 十一日は、まず頼忠のもとに向かってから参内し、昨日上皇に依頼された武装の許可を求めて奏上している。天皇はすぐに賛成し、許可の宣旨を下すようにいい左衛門督の源重光に言うようにと言っている。円融上皇の武者所に詰めていたのが衛門府の官人だったということだろうか。実資は院に戻って許可がもらえたことを報告している。
 この日、太政大臣の頼忠が、娘の中宮遵子の居所を訪問し食事を献上している。そして恐らく天皇の求めに応じて、錦を献上しているが、何に使うのであろうか。
2017年12月25日23時。




小右記(1(寛和元年春夏・正暦元年秋冬) (尊経閣善本影印集成) [ 藤原実資 ]









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