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2016年09月10日
レストラン完全禁煙(九月七日)
高校時代の先生は、「かつて、喫煙は文化だった。だから俺はタバコを吸い始めたけど、そんな時代はもう終わってしまった。だからお前らは吸うな」という説得力があるようなないような理由で、生徒達に喫煙をしないように呼びかけていた。高校生に文化だからという理由が理解できたとも思えないが、こんな台詞を八十年代の半ばに言えた先生は先見の明があったと言ってもいいのかもしれない。
自分自身のことを言えば、タバコとお酒のどちらを選ぶかで、酒を選んだ。煙草は吸ったことがないとは言わないが、煙を肺まで入れて見ろと言われて試したら咳き込んでえらい目にあったので、それ以来試したこともない。酒もはじめて飲んだときにはあまり美味しいとは思えなかったけれども、煙草とは違って、少なくとも飲むことはできた。
昔は、飲み屋なんかに出かけて、周りが喫煙者ばかりで煙がもうもうと立っていても、あまり気にならなかったのだが、最近はすごく気になるようになった。大学時代に飲み屋で夜中まで煙にいぶされたセーターなんかを翌朝に着てもまったく平気だったのは、鼻が悪かったのか、自分自身の悪臭に煙草の臭いがまぎれてしまったのか。最近は、オロモウツでも禁煙の飲み屋、もしくは禁煙席のある飲み屋にしか行かないので、それほど臭いがつくわけではないけど、それでも料理の臭いなんかが気になって、しばらく風通しをしてからでないと着られなくなった。
交通機関でも、八十年代ぐらいから、鉄道や飛行機にも禁煙席、喫煙席が導入され、それが全席禁煙に変わるまでにそれほど長い時間は必要としなかったのではなかったか。正確にはいつだったか覚えていないが、日系の航空会社に喫煙席が残っているのをヨーロッパの人に責められたことがある。日系の航空会社は、確か禁煙席の導入は早かったけれども、全席禁煙にするのは一番遅かったのではなかったか。そのことを航空会社とは関係のない人間に言われても困る。
喫煙はお前らが世界に広めた習慣だろうがと文句を行ってやりたかったが、悲しいことに当時は語彙が足りていなかった。捕鯨問題にしても、喫煙の問題にしても、宗教の問題にしても、森林破壊の問題にしても、自分たちがこれまでやってきたことを棚上げにして、世界中に自分たちの正義を押し付けようとするのは、虫がよすぎる。それが世界中に根強く残る西欧的、アメリカ的価値観に対する反感につながっているのだろう。
それで、禁煙の話に戻すと、交通機関とは違ってなかなか進まなかったのが、レストランや喫茶店などでの禁煙である。チェコでも2000年代の初頭ぐらいから完全禁煙をうたったレストランが、ぽつぽつと現れ始めてはいたが、主流になることはなく、国会でも完全禁煙の法律が採択されることはなかった。それが、いつごろだっただろうか、レストランなどに対して、分煙を義務付ける法律が成立した。それまでは、お昼のランチの時間帯だけ禁煙にするレストランが多かったのだが、禁煙の部屋と、喫煙できる部屋を完全に分けなければならなくなったらしい。場合によっては、一軒全体を禁煙、喫煙のどちらかに統一してもよかったのかな。ただし、入る前にそれがわかるような表示をすることが義務付けられた。
この頃から、飲食店での完全禁煙を求める声が高まり、ニュースなんかでも飲食店経営者の声を伝えていたが、禁煙にすると客が減るという人と、禁煙にして客が増えたという人がいてなかなか興味深かった。客が減るといういう理由は、常連の大半が煙草を吸うので、禁煙になったらうちに来る理由がなくなるというもので、客が増えるというのは、煙草の煙が苦手で外で食事をしたり、お酒を飲んだりするのを避けている人は多いはずだから、完全禁煙にすれば新しい客を呼び込めるというものが多かった。
結論から言うと、後者の意見のほうが正しかったようだ。分煙から完全禁煙に切り替える飲食店が増えている。かつては煙が立ち込めていて外から見るだけで中には入りたくないと思ったこともあるドラーパルも、ポッド・リンポウも禁煙になったし。それでも、喫煙のできる飲食店を求める声は消えないようで、一部の飲食店はかたくなに喫煙できる状態を維持している。住み分けという意味ではうまくいっていると言ってもよさそうだ。
現在、国会には既に何回目かの飲食店の完全禁煙に関する法案が提出されていて、夏休みが明けたら審議が始まるらしい。しかし、自らも煙草を吸う国会議員が法案に賛成するだろうか。夜な夜な白煙立ち込める飲み屋で酒を飲むのが趣味という人もいるみたいだし。考えてみれば、日本の航空会社が全席禁煙にしないことを責められたときには、会社の偉い人が煙草を吸うから禁煙にできないんだろうよと答えたのだった。
近年の世界的な喫煙撲滅運動を見ていると、中途半端な法律なんか作らずに、煙草を麻薬指定して禁止してしまえばいいのにとも思う。マリファナ解禁論者が、煙草よりも健康にいいなんてトチ狂ったことを言うのを防ぐにもちょうどいいし、子供が見たらトラウマになりそうな写真をパッケージに貼り付けるなんていうこともしなくてよくなる。禁止できないのなら、薬扱いにして処方箋がなければ購入できないようにするという手もある。これなら喫煙量も管理できるし。ただ禁止にした場合もそうだけど闇での取引が増えるか。
喫煙が健康保険に与える負担の大きさを減らすのが、禁煙の場所を増やそうという理由だというなら、喫煙者の保険料を上げるなり、高額の煙草税を設定して健康保険に投入するなりする手もあろう。喫煙者の負担が増えれば、禁煙する人も増えるはずなのだから。それでも煙草はやめられないと言う人は一定数残るだろうけど。
9月9日14時。
2016年09月09日
チェコ−北アイルランド(九月六日)
本当は、この試合については、特に書くこともないので、次の十月に行われるドイツとの試合の後にしようかとも思ったのだが、やはりここで書いておくことにする。今日U21の試合もあったし。実は、ネタがないというのも大きいのだけど。
肝心の試合は、前半の最初の最初は、チェコがアルメニアとの試合の調子を維持して、いい形で何度か攻め込み、カデジャーベクが大きなチャンスを迎えたりもしたのだけど、次第に北アイルランドの堅い守備の前に簡単に跳ね返されてしまうようになった。ミスが多かったというべきなのか、パスの受け手と出し手の意図が微妙にずれていて、ボールは持っているけど、決定的なチャンスはほとんどできないといういらいらした展開に落ち込んでいった。
V.カドレツもあまり目立っていなかったし、予想に反して先発したDFのM.カドレツは、パスミスで相手に得点をプレゼントしそうになるし、これはカウンタカーから失点してあせるあまり、ミスを連発して相手ハーフにも入れなくなるパターンかもという悪い予感が頭をよぎった。幸い、北アイルランドの攻撃陣もミスが多く、失点することはなかったのだけど。
後半も半ば過ぎぐらいからだろうか、北アイルランドの選手たちの動きが鈍くなって、チェコが押し込めるようになった。ゴール前までボールを運べる回数が増え、決定的なチャンスもいくつかあったのに……。V.カドレツのシュートはキーパーに止められ、ノバークとクレイチーのシュートは、わずかに右にそれてしまった。
結局、両チーム無得点の引き分けに終わってしまったが、勝っておきたい試合だった。これが親善試合だったら、大満足なのだけど……。まあチェコのグループはドイツが一位抜けするのは、ほぼ確定なので、二位の座を北アイルランド、ノルウェーと競うと考えれば、負けなくてよかったという評価でもいいのかな。前回のEUROの予選でも、オランダが一位勝ち抜けはほぼ確定だと思われていたのに、沈没してしまったから、ドイツもそうならないとは限らないのだけど。
今回の試合ではノバークがよかったけど、ドイツとの試合では守備を重視してプディルを使うのかなあ。センターバックは、できればキャプテンのスヒーと、若いカラスを組ませてほしいと思う。同じミスをするなら若手のミスのほうが先につながる気がするし。
今日行なわれたU21代表の試合は、来年行なわれるヨーロッパ選手権の予選である。A代表とは予選のサイクルがずれているので、現在予選の最終段階で、チェコは八試合を終えて、六チームのグループで勝ち点20で首位。相手のベルギーは、七試合終えて勝ち点15の二位というのが試合前の状況だった。簡単に言うと、チェコは勝てば一位が確定、ベルギーはこの試合に勝って残りの二試合を連勝すれば一位。引き分けの場合には、チェコが最終戦で負けなければ、ベルギーが残りを連勝しても、チェコが一位ということだったのかな。
前半の最初は、勝つしかないベルギーが、攻め込んでチェコは防戦一方になってしまう。先制点を決められてから、少しずつ落ち着いてきたのか、盛り返して反撃、前半の真ん中ぐらいに同点に追いつくと、あとはチェコ優勢で前半が終わった。
後半に入るとチェコがさらに攻勢を強め、一方的な展開になる。夏にイタリアに移籍したシク、オランダで順調に成長中のチェルニーを中心にした攻撃は、見ていて楽しくなるほどに魅力的で、ベルギーは手も足も出ないという感じだったので、得点は時間の問題で、最悪でも引き分けでは終われるだろうと思ったのに……。
残り十五分もなくなったぐらいから、チェコの選手たちが守りに入ってしまった。このまま引き分けでいいやということで、カウンターを警戒したのか、ずるずる後に下がって、ベルギーに押し込まれるようになってしまった。チェコがこれやると、ろくなことがないんだよなと思って見ていたら、案の定、80分過ぎにあっさり失点してしまった。あとは何もできずにそのまま敗戦。
戦況の変化は本当に突然で、選手たちも自分が何をやっているのか、何でこんなプレーをしているのかわからないままにおたおたしているようなそんな印象だった。それまでの圧倒的な強さが完全に消えてしまって、完全に悪いときのチェコ代表になってしまった。
A代表ではノバークが、ベテランのプディルをさしおいての抜擢に応えるプレーを見せてくれ、U21ではイタリアに移籍したシクが好調を維持していたのが、今後に向けては大きい。特にシクは、U21の予選が終了したらヨーロッパ選手権まではA代表に呼ばれるのではないかと思う。それで点が取れないのが解消されるかというとそんなこともないのだろうけど。
ワールドカップの予選にしては、久しぶりに楽しめそうだということで、十月に行なわれるドイツとの試合を楽しみにすることにする。
9月8日13時。
スパルタのマテヨフスキーが、ムラダー・ボレスラフ復帰。ロシツキーの加入で出番が減りそうなので、出場機械を求めて育ててくれたクラブに戻ったということかな。9月8日追記。
2016年09月08日
天元五年五月の実資〈下〉(九月五日)
承前
九日は、まず左大臣源雅信のところへ。右近衛府の真手結には都合が悪いと言って不参加。前日の女官たちのための酒宴に出席しなかった内裏や官司の女官たちに、褒美の禄を分け与える手配をしていたようだ。旧例に基づいて銭をもらった人もいたらしい。着物や布などをもらうのと、銭をもらうのとどちらがよかったのだろう。
十日は久しぶりに雨。呼び出されて天皇の許と、おそらく職御曹司にいた頼忠のところに出向く。密教の儀式を行うべきだと言うので、陰陽師の賀茂光栄に占わせたところ、僧の寛朝に孔雀明王の修法を行わせるのがいいという。そうしたら、二回もお願いをしたのに、痔だと言って断ってきた。
十一日には、餘慶僧都に仏事を依頼。こちらは引き受けて不動の調伏法を実施することになる。新しい検非違使の官人の任命に関して、安和年間、貞元年間の前例をもとにどうするかと言う話になっているけれども、結論がどうなったのかは、十二日から十五日の記事が欠落しているため、何とも言えない。検非違使の官人の数は十分だとは言っているけれども、ここまで何度か怠慢を責められているからなあ。怠慢な官人を辞めさせてから、新しい官人を任命しないと意味がないような気がする。
十六日には、十一日に依頼のあった不動の調伏法が実施される。一緒に来た普通の僧が廿人である。終わったら全員に褒美の禄が与えられるんだろうなあ。この日、興福寺の仁宗に宿曜をもとに占いをさせたのは、実資だろうか。具体的に何について占わせたのか知りたいところである。
十七日に室町に行っているのは、十八日の実頼の法事のための準備だろうか。伊予介からまだ出されていないという米八百石の解文は、二月に起こった海賊事件に関係するものであろうか。長官である守ではなく、次官である介が文書を出すことになっていることから、伊予守の藤原佐理は、やはり在国していなかったと考えてよさそうだ。
五月十八日は、実資の祖父で養父でもある実頼の祥月命日である。雨の降り続く中、実頼が創建した法性寺の子院の東北院で法事が行われている。これは毎年のことらしい。銭三千というのは多かったのか、少なかったのか、当時の物価がわからないので何とも言えないが、それなりの額ではあるはずである。いつもの十八日と同じで清水寺に行くのだが、理由がちょっとわからなくなってきた。祥月命日の法事は東北院で行われているわけだし。
夕方室町に行っているのは法事についての後始末だろうか。また内裏では仁王会が行われている。
十九日は、まず大臣源雅信のところに寄って内裏に向かう。御読経というのは、四日にちらっと話の出た不断の御読経、つまり昼夜を問わず読経し続ける儀式のことだろうか。夕方には太政大臣頼忠のところに寄っているが、左大臣、天皇、太政大臣の間を行き来して話を伝えるのが蔵人の仕事だったのだろうか。
廿日は十八日に始まった長雨の記述の最後の日。ただしこの日以降も雨が続く。不断の御読経の開始である。
廿一日、廿二日は、雨が降ったという記事以外は、特に重要なことは書かれていない。
廿三日もときどき雨。この日は不断の御読経に追加で参入した光禅が、順番を下げられて、面目を失ったということですぐに退出している。一方、今日終わった十六日に始めた不動の調伏法に関しては、褒美の禄と、出家者とが与えられているが、蔵人で式部丞であある藤原公正が担当したのが実資には気に入らない。近衛府の次将の仕事じゃないか、と実資は言っているようである。
廿四日もときどき雨という以外には特別なことはなし。翌廿五日もときどき雨だが、この日は不断の御読経が結願している。公卿が五人出席しているのは、最近では多いのかな。夕方になって大納言藤原為光のところに出向いている。用件は頼忠の願いと関係があるようだが、具体的なことはわからない。
最後にまたまた犬が死んだことによる穢れである。『枕草子』に、翁丸とかいう名前の犬を、蔵人たちが叩いて半殺ししにして、死んだのか死んでいないのかわからなくなってしまったという話があったけれども、死んだら死体を外に捨てたとしても穢れになるんだから、そんなことしていいのかと言いたくなってしまう。
廿六日も廿七日も雨がちな天気が続く。廿七日には、検非違使が捕らえた罪人の罪状を検討して牢獄に送る儀式である著鈦政が行なわれているのが目を引く。二月の海賊騒ぎで捕まった連中も判決を受けた中にいたのだろうか。
廿八日は久しぶりに晴れ。中宮大夫の藤原済時とともに中宮職に関することを決めている。それから春の季御読経について決めているが、来年のことと考えるよりは、中宮職で行うものと考えたほうがいいかもしれない。
廿九日も前日話が出た阿闍梨の地位についての決定が降りている以外は、何もない。この月の下旬は、内裏の天皇と、太政大臣藤原頼忠、左大臣源雅信、時に大納言藤原為光の間を、行ったりきたりしているだけの記述が多い。ただし、本当に忙しいときとは違って、一日に何度も行き来するわけではない。具体的にどんな話が出てきたかについては、ほとんど書かれていないのが残念である。
9月6日23時。
2016年09月07日
天元五年五月の実資〈上〉(九月四日)
一日には、頼忠と共に藤原季平の邸宅であった三条の邸宅に向かっている。藤原季平は、天元五年の後半に治部卿になり、翌年に没するのだけど、資産の処分として売却したのか、関白の頼忠に邸宅を献上して、任官を求めたのかはわからない。これが、事典などにでてくる頼忠の三条第なのであろう。とすると、これまでの頼忠はどこに住んでいたのだろうかと言う疑問が持ち上がって来る。今後の課題である。
二日は、内裏で、右大将、つまり中宮大夫の藤原済時と共に、中宮の内裏への移動の準備である。ただし、参議が来なかったため、右中弁に仕事をさせている。翌三日に予定された天皇の八省院への行幸に関しては、左大臣の源雅信が里第、つまり自宅から指示を出している。左大臣は賀茂社に参っているけれども、賀茂祭の後始末なのか、特別に参拝したのかは不明。
三日は、豊作を祈るために各地の神社に奉幣する祈年穀奉幣の儀式である。神社の数は時代と共に移り変わるが、この時代は伊勢神宮を含めて十六社である。それだけの数があれば、辞退者が出ても仕方がないのか、雨が降っているせいなのか、二つの神社に向かう予定だった参議が、行けないと言い出したので、松尾神社には藤原懷遠、平野神社には実資が兄弟で向かっている。小野宮の官人はまじめだなあ。
雨の影響で天皇が八省院に行幸するのは中止。その代りに紫宸殿から伊勢神宮のほうに向かって遥拝している。ただし、奉幣使に宣命を与える儀式は予定通り八省院で行われているため、使に選ばれた人たちは、内裏から八省院に移り、宣命を受け取って、それから出発したようだ。
四日は、前夜の宿直から早朝帰宅して、昼頃から頼忠のもとに、その後内裏へと移動。いそがしく働いているようである。除目や仏事など処理すべきことがたくさんあるようで、内裏と頼忠邸の間を往復している。
五日は、中宮のところで、中宮大夫とともに、左大臣の同席のもとで、中宮の移動について細かいことを決めている。その後は、五月五日の端午の節句の様子である。目を引くのは菖蒲と薬玉が献上されていること。菖蒲だけでなく、薬玉も端午の節句と関係があったんだねえ。誰にどんな理由でどんな褒美の禄を与えるかで、ちょっともめたみたいだけど。
端午の節句には騎射による手結が行われるが、三日に行われるはずの左近衛府の荒手結がこの五日に行われている。これは三日に祈年穀奉幣の儀式が行われたからだという。今日も雨で行幸が中止になっているから、雨の中馬を走らせて弓を射た近衛府の官人たちも大変だっただろう。
六日は、まずいよいよ翌日に迫った中宮の内裏への移動について、参入した中宮大夫の済時と共にあれこれ決めている。細かい決定が毎日記述されるほど多かったということなのだろう。本日は太政大臣の頼忠が同席。
そして、中宮になったものが初めて内裏に入るときには、中宮の里第で慶賀の儀式が行われるのが例だと言うので、延長元年の醍醐天皇の中宮藤原穏子の例に習って行うことになる。
この日は前日の左近衛府に続いて、右近衛府の荒手結が行われているが中宮関係の準備が忙しくて、出席できていない。右大将の中宮大夫も行かなかったのだろうか。本文にはないが、中宮大夫と実資で、遵子が入る予定の殿舎弘徽殿に向かってあれこれ確認している。
七日は中宮遵子が内裏に入る儀式である。事細かに書いても仕方がないのだが、まず十か所のお寺で読経が行われているのが目を引く。割注によれば、以前からこの日に風雨の難がないように祈願する儀式が、各地の寺や神社で行われていたようだから、この日も雨が降らないように、風が吹かないようにという御祈りだったのだろう。そのかいあってのことか、この日は雨についても、風についても、雷についても記述がない。それにしても、この天元五年はやはり天候不順である。
その後、さまざまな官人たち、女官たちが中宮の里邸に集まり儀式が始まる。気になるのは、「一本理髪」なんだけど、どんな髪の様子を想像すればいいのだろうか。それから、中宮大夫の済時と中宮亮の実資は、ともに近衛府の武官を兼ねているという理由で、儀式に際して弓矢を帯びている。衛門府の人もそうだなあ。
こちらでの儀式が終わると、行列が邸宅を出て内裏に入る。その経路もある程度細かく書かれているが、地図がないと想像しにくいのでここでは省略。内裏の北の門から入って、中宮は弘徽殿に入られる。弘徽殿周辺の殿舎を使って酒宴が行われ、その際に、中宮遵子の弟である公任が、天皇の仰せで一階昇進することが決められる。従四位上にあがるのかな。
天皇は弘徽殿に入ったが、深夜に出ていったようだ。どうも方角が悪いというので、朝までは滞在しなかったようである。この記事でも細かいことは省略したが、実資のほうも、「事は多きも之を記さず」と記しているので、書かなかったこと、書けなかったことが多々あると考えてもよさそうだ。
翌八日は前日の儀式の後始末のようなもの。いろいろ仕事をしてくれた女官たちのために、酒宴を設けて褒美を与えている。中宮職の責任者である済時をはじめ、源保光、実資が、お酒を勧めている。実資たちと酒宴を共にしたのは、命婦とおそらく女蔵人合わせて十一人と女史とよばれる女官だから、それほど数は多くない。内侍が出席しなかったというのは何か理由があるのだろうか。
末尾に、左近衛府の真手結が行われたことが思い出したように書かれている。
以下下に続く。
9月5日15時。
2016年09月06日
新生チェコ代表(九月三日)
八月晦日に行なわれた新しいチェコ代表の最初の試合は、メンバーはほぼ代表経験者だったが、内容はなかなか新鮮で、チェコ代表ファンとしては嬉しい驚きだった。ヤロリームというと、スラビアでチェコリーグを連覇するチームを作り上げたことよりも、その後さらにチームを改造しようとして崩壊させてしまったときの印象が強いのだけど、やはりチームを作り上げる能力はあるのだ。
何よりも、素晴らしかったのは、親善試合で交代人数は両チームの相談で決めることができるのを活用して、前半と後半で11人全員を入れ替えたことだ。ワールドカップの予選前の唯一の親善試合だったので、できるだけ多くの選手を試したかったという事情はあるにしても、ここまで思い切ったことをするとは想像もしていなかった。
以前のU21代表の監督、ドバリルも親善試合では、選手を一気に入れかえることが多かったのだが、それでも、大抵は先発の選手たちに60分ぐらいまでプレーさせて、そこで数人代えるという形だった。どちらかというと、2004年のEUROのグループステージで、二勝して勝ちぬけが決まった後の三戦目で選手をほぼ完全に入れ替えたブリュックネルのやり口に近いのかもしれない。チェコが苦手なワールドカップの予選ではあるけど、期待してもいいような気がしてきた。
フランスでのEUROでは疲れきった印象を与えていた選手たちも、夏の休暇を終えてリフレッシュしたのか、颯爽としたプレーぶりっだった。EUROの代表でも、調子のいい選手を集めた監督の目がよかったということかな。代表復帰組も復帰を喜ぶかのように元気に走り回っていたし。
まだまだパスが後ろにずれたり、お互いの意思がかみ合わずにパスが通らなかったりというシーンはあったが、EUROのときのパスが遅すぎてゆるすぎて届かないというシーンがなかったのは、見ている側にとっては心臓に優しかった。DFは相変わらずカウンターに対する対策に課題を残したけれども、相手のミスにも助けられて、無失点に抑えた。ブルバのときは完封なんてほぼありえなかったからなあ。
相手のアルメニアが、フランスでのEURO2016の予選で、勝ち点2しか取れなかった惨敗から再建中という事情はあるにしても、前半の二点だけでなく、後半にも得点を重ねて3対0で勝ちきったというのは大きい。この調子が明日日曜の北アイルランドとの試合でも継続できればいいのだけど。
今までも、親善試合ではそこそこの内容で快勝して、予選の本戦では内容も結果もぐだぐだなんてのを、ブリュックネル以後には何度も見せられてきたから、ヤロリーム監督に、本当に期待するかどうかは明日の試合を見てから決めることにしよう。
怪我のシボクが復帰したら、またシボク―カドレツのベテランコンビになるのかと思っていたセンターバックだが、ヤロリームが柱として考えているのはスヒーのようだ。スラビアで若き日のスヒーを抜擢して、チャンピオンズリーグでも出場させて国外移籍への道を開いたのがヤロリームだったのだった。ブリュックネルがU21代表から引き上げたロゼフナルを、代表の中心選手に育て上げたように、ヤロリームにはスヒーを、できればカラスも、柱となるセンターバックに育て上げてほしいところだ。
他に気になった選手としては、スパルタに帰ってきたV.カドレツと、プルゼニュで開幕以来唯一好調を保っているといってもいいコピツだろうか。この二人が、アルメニアとの試合のような出来を続けてくれれば、代表の得点力不足も快勝されると思うのだけど。
北アイルランドとの試合の前にあげられるようなタイミングで書けばよかったのだけど、サッカーチェコ代表よりは、チャースラフスカーのほうがはるかに重いのである。
追加で召集されたプルゼニュのホジャバが、軽い怪我で使えないことが判明し、代役の代役でオロモウツ育ちで現ヤブロネツ所属のポスピーシルが招集された。それから、EURO前の韓国との親善試合でレッドカードをもらって退場したゲブレセラシエが、アルメニアとの親善試合に出場停止だったのでスパルタのザフステルが召集されて出場した。親善試合でもらったカードや出場停止が、親善試合に持ち越されていくというのは知らなかった。
9月4日16時。
2016年09月05日
ブログ異変(九月二日)
八月に入って、ブログへのアクセスが急増した。急増とは言っても、今までせいぜい一日平均10から15だったアクセスが、一気に25ぐらいになっただけだが。確かに一月が一番少なく、記事が増えると共に少しずつアクセス数は増えてはいた。それでも七月までは、474という数字が月間最高の値だったのに、一気に、倍は行かなかったが。300も増えて、790になった。これはもう、月間四桁1000が見えてくる数字である。よそ様のブログに較べれば微々たる数字なんだろうけど、こっそりひっそり文字だけで地味に続けている割には、なかなか数が増えていると思う。
日別で見ても、67、71、78、64と、当ブログ的には膨大な数である50を超えた日が四日もあったのである。これまでは50を超える日なんて月に一度あるかないかぐらいだったのに。おかげで用もないのに、ログインして数が増えていないか確認してしまう回数も増えてしまった。これが数字の魔力という奴か。
昔は二桁行っただけで、ちょっとビビッていたのだけど、八月は二桁行かなかった日が五日しかなかった。最低が3というのは七月と同じだけど、その日以外は少なくても7という四捨五入すれば二桁の数字である。一体全体何が起こったのだろう。ちょっと大げさかな。
もう一つの大きな変化は、トップページへのアクセスの割合が、21パーセントにまで下がったこと。多い月には45パーセント以上がトップページで、七月でも30パーセントを超えていたのだけど。トップページを開けば、最新の記事が10本表示されるようになるから、特に個々のページに行かなくてもまとめて読める。それと、ファンブログのページからトップページに来て、文字の多さにそのまま戻っていく人が多いのとで、トップページのアクセスの割合が高いのだと思っていた。でもよく考えたらファンブログの新着記事からだと、直接最新の記事に行くのだった。
それが、個々のページへのアクセスが増えて、ページよっては10を超えたのもある。ヤフーやグーグルなんかの検索から、直接個々のページを見に来る人が増えたということなのかな。このトップページの割合が減るという傾向は九月に入ってからも顕著で、九月二日(日本時間では既に三日)現在で、月間60のうちの3だけがトップページへのアクセスである。このまま続くことはないと思うが、少しびっくりしてしまった。
キーワードに関しては、表示されないキーワードがあることに気づいた。つまり検索してこのブログにたどり着いたのだけど、その検索に使用した文字列がこちらでは判別できないのか、表示されない例が多いようなのだ。八月は表示されている文字列のアクセス数を合計しても12にしかならないのに総計は30になっている。つまり18はどんな言葉で検索されたのかわからないのだ。
そこで、リンク元を確認すると、「ブックマーク(リンク元なし)」が圧倒的なのは、いつもどおりなのだけど、その下に並ぶファンブログ関係のアドレスの中に、ときどきグーグルやヤフー、ビングという検索ページと関係ありそうなアドレスがいくつかあることに気づいた。それをクリックしたらどうなるのか確認してみた。http://search.yahoo.co.jp/ や、https://www.bing.com/、http://www.google.com/は、何で検索したか出てこないのだが、前後にあれこれ文字列のあるアドレスをクリックすると、ヤフーとビングでは検索の結果が表示される。表示されたページに本ブログの記事が出ていることもあれば、出ていないこともあるのだけど、それは時間の経過で検索の結果が変動したと考えておくのがいいのかな。それに対して、グーグルのアドレスの場合には、直接本ブログの記事に飛ぶので、検索に使われた言葉を知ることはできない。ちょっと残念。
あれこれ試した結果、どうもチェコのビザ取りで問題があって、「チェコのビザ申請を巡る問題」というこのブログにしてはまともな記事にたどり着く方が多かったようだ。多少なりとも役に立てていればいいのだけど。この件に関しては最近また新しい話が聞こえてきているので、情報の収集ができたら改めて記事にまとめる予定である。
検索結果でびびったのが、ヤフーを使って、ゲネティフで検索したページには、四つしか結果が表れず、そのうち三つがここの記事だったことだ。ノミナティフも五つのうち三つがうちだったし、チェコ語の文法用語をカタカナでそのまま使う人はあんまりいないのだろう。チェコ語について書く人でも英語読みしちゃうのかな。
それから思いがけない結果が出てきてついページを開いて読んでしまったなんてこともあった。オロモウツにいる日本人のブログを発見して、オーと思って開けたら、記事が二つしかなくてがっかりしたなんてこともあった。ベルディフの名前の読み方を、考察しているテニスファンのブログがあって、チェコ語側からではなくテニス側から見たこの問題の側面に触れてなかなか興味深かった。チェコ大使館に問い合わせたら、読み方がわからないという答が返ってきたという話には、チェコ大使館何やってんだよと言いたくなった。
九月のと言っても、まだ二日ちょっと(日本とチェコの平均値)しかたっていないが、新しい事象として、ページ別一覧に、「コメント(スマホ)」というのが出現した。クリックできないので何のかはわからないけど、誰かがコメントしようとしてやめたのかな。コメントはまだもらったことがないので、もらうとうれしいのかどうかはわからない。
ブログのブログネタにブログランキングとかいうのに登録してみようかと思ったりもするのだが、面倒くさいことになりそうな気もするので、踏み切れていない。そこまでして読んでもらうべきブログでもないんだよなあ。でもネタができるのは、最近ネタ切れ気味でマンネリ気味なのでありがたいことではある。要検討としておこう。
久しぶりのブログネタ、相変わらずのわけのわからなさである。
9月3日0時30分。
2016年09月04日
チャースラフスカーを悼む(九月一日)
日本にいたころ、チェコ関係の集まりに行くと、年配の方々が、東京オリンピックのチャースラフスカー選手の思い出を感情をこめて話すのを聞かされることが多かった。残念ながら、次のメキシコオリンピックでも生まれる前の話なので、現役時代の姿を同時代で見たことがあるわけではないのだが、体操がくるくる目覚ましく回って何をしたのかもスローで見ないとわからなくなる前の、美しさと優雅さを体現した選手だったようだ。
ソ連の選手の優勝に抗議の姿勢を見せたメキシコオリンピック以後、政治信条のせいで、民主化が始まるまでは迫害を受けていたようだが、ビロード革命後名誉を回復し、現在でも、ダナ・ザープトクコバーと並んで、チェコのスポーツの、スポーツ選手の象徴のような存在であった。そんなチャースラフスカーが亡くなったというニュースが、昨日チェコを揺るがした。
つい最近も、サーブリーコバーの自転車競技の参加をめぐって、IOCの会長に個人的なお願いをしたり、リオに向かう選手たちに応援のメッセージを送ったりして、少なくともテレビで人前に出るときには、病気に苦しんでいる様子は見せていなかっただけに、驚きも大きかった。人前で苦しむ姿は見せられないという意地があったのだろうか。
リオオリンピックで銅メダルを獲得したオンドジェイ・シネクが、「リオが終わった後に電話をかけたんだけど、遅かった」と言い、結局リオで出場できなかったサーブリーコバーが、「チャースラフスカーのような方は、不滅の存在なんだ」と言ったというスポーツ新聞の見出しを読むだけで、不覚にも涙がこぼれそうになって、記事を読むことができなかった。年をとると涙もろくなっていけない。
記事の見出しを追うだけでも、チェコのスポーツ選手たちにとっては、いかに大切でかけがえのない存在だったのかが見て取れる。癌で闘病されていたという話だが、オリンピックに出場したチェコの選手たちは知っていたのだろうか。
日本に対しては、本当に友好的でいてくださったようで、東日本大震災の後、被災地の子供たちをチェコに招待して、スポーツをさせるイベントにも笑顔で参加して子供たちを元気づけてくださっていた。一番喜んだのは、子供たちの親、もしくは祖父母の世代だったかもしれないけれども。こういうイベントこそ、スポーツの持つ力というものを如実に表していると言ってもいいのかもしれない。その象徴がチャースラフスカーだったのだ。
チェコのニュースでは、日本のニュースでチャースラフスカーの死が大々的に取り上げられて、日本中が哀悼の意を示しているというニュースが流れされた。日本での注目され方で言えば、ハベル大統領よりも上かもしれない。やはり、東京オリンピックを同時代で知っている人たちにとっては、不滅の存在だと言えるのだろう。
さほど思い入れのないはずの私のような人間ですら、ニュースの見出しを見て思わず絶句してしまったのだから、現役時代を知る人たち、精神的な支援を受けたチェコのスポーツ選手たちの受けた衝撃は押して知るべしである。
最後に、これまでの功績と、日本への友好に感謝を捧げ、御冥福をお祈りすることで本稿を終わりとしたい。「チャースラフスカーさん」も、「チャースラフスカー氏」も、「チャースラフスカー女史」も書いてみてしっくりこなかったので、敬称は省略させていただいた。多分、現役時代を知らないにもかかわらず、いつまでたってもスポーツ選手として意識してしまうために、何もつけないのが一番しっくりくるのかもしれない。
9月2日21時。
意あまりて言葉足りずになってしまった。9月3日追記。
2016年09月03日
ロシツキー復帰(八月卅一日)
うちに帰って、インターネットで何気なく、チェコのスポーツ新聞「スポルト」のページを開いたら、待望のニュースが目に飛び込んできた。ロシツキーが、あのトマーシュ・ロシツキーが、スパルタに復帰することが決定したというのである。これが、チェコリーグに復帰でも、かつてのガンブリヌスリーガに復帰でも、非常に嬉しく思えるのだけど、エーポイシュチェニー・リーガに復帰と言われると、嬉しさが半減するのは、気のせいだろうか。
十五年前に、ほぼ五億コルナというチェコリーグ史上最高の移籍金で、スパルタからドルトムントに移籍したロシツキーが、アーセナルでの怪我に悩まされた十年間の後にスパルタに帰ってくるのである。これはもう、チェコにとってはお祝いをするしかない事態である。ロシツキー自身は、代表引退を明言しているわけではなく、新監督のヤロリームもロシツキーが元気でスパルタで活躍すれば、代表に呼ばないのは犯罪的だというようなことをコメントしていたが、本気でまだロシツキーを頼りにする気なのだろうか。
正直な話、チェコ代表はもうお役ごめんでいいよ。スパルタでは、チェコリーグだけでなくヨーロッパ・リーグもあるわけだし、本人の言葉では優勝するために戻ってくるわけだから、来年はチャンピオンズ・リーグの舞台での活躍が期待されるわけである。それに代表の重要な試合なんかが加わったら、怪我がちだったアーセナル時代の再現にもなりかねない。
この一年ほども、昨年のEUROの予選のアイスランド戦で怪我をして、シーズン前半を棒に振り、年明けにアーセナルで復帰したかと思ったら、またすぐ怪我をして、フランスに間に合うかどうか、間に合っても招集するべきかどうかで大議論になった。結局間に合いはしたけれども、二戦目で怪我をして三試合目は欠場することになってしまった。
その結果、ただでさえあいまいだった、アーセナル退団後の行先が不透明になってしまった。スパルタは、ロシツキーの復帰を今回の移籍期間の最大の目標として、戻ってきてくれるように声をかけ続けていたようだが、決断にここまで時間がかかったのは、アラブ諸国行きとかアメリカ行きとかの選択肢があったからなのだろうか。
これでまた一つ、チェコのサッカーを見る楽しみができたと言いたいところなのだけど、最近チェコリーグの一次放映権を握っているのが、どうもチェコテレビではなく、有料チャンネルを展開している会社のようなのである。そこからチェコテレビが二次放映権として毎節二試合分買い取るような形で、放送しているようなので、ロシツキー復帰で人気が高まるとスパルタのチェコテレビでの試合の放送が減ってしまうかもしれない。一時権利者がチェコテレビに売らなくなる可能性が高くなるからね。
仕方がないので、ヨーロッパリーグのスパルタの試合をチェコテレビが優先的に放送してくれることを願おう。こっちは多分チェコテレビがチェコのチームの試合の放映権は握っているはず。チャンピオンズ・リーグのほうは、チェコテレビは二次権利なので、以前は火曜日の試合も、水曜日の試合も放送していたのに、週に一試合しか放送しなくなってしまった。
だから、ロシツキーにはチェコリーグよりも、ヨーロッパリーグを優先してくれるように願っておく。チャンピオンズリーグでも見られないかもしれないので、来年もヨーロッパリーグでいいやというとスパルタファンに怒られるかな。
ついでなので、移籍の情報を追加しておくと、ベルギーのアンデルレヒトに行く予定だったスパルタの若手DFブラベツは、アンデルレヒト行きがつぶれた後、同じベルギーのゲンクだか、ヘンクだかに移籍することになった。ヨーロッパリーグのプレーオフで、勝ち抜けを決める得点を決めるなど、得点感覚に優れたDFである。いずれはプルゼニュのバラーネクとともに、代表のセンターバックとして定着してほしいところである。ベルギーリーグで成長して代表の主力になったDFといえば、オロモウツ育ちのロゼフナルがいるし。
ズリーン好調の立役者ともいえるポズナルは、結局プルゼニュに行くことになったみたいである。ぎりぎりまでリベレツなのか、プルゼニュなのか決まらず本人もやきもきしたに違いない。
プルゼニュを出たコラーシュとライトラルは、トルコの同じチームに移籍。チーム名は覚えていないが、シリアとの国境に近い町のチームらしい。ちょっと移籍をためらってしまいそうな場所である。
アンデルレヒトにぼろ負けしたスラビアは、監督のウフリンを解任した。解任して元ドゥクラ監督で、現在U17を率いているコゼルに白羽の矢を立てたのだが、話がまとまらなかった。オロモウツ、オストラバで選手として活躍し、次の候補であったポーランドで監督として業績を残し始めたラータルもポーランドに戻るらしくダメ。結局イタリアに行って伝説となったゼマンが監督になりそうである。チェコチームの監督としてのゼマンは見たことがないので、ちょっと楽しみ。
9月2日15時。
ロシツキーに続いて、バーツラフ・カドレツのスパルタ復帰も決定。一億コルナでドイツに売って、七千五百万コルナでデンマークから買い戻したらしい。その結果カドレツはチェコリーグ史上最高金額で移籍視してきた選手になった。さてさてどうなる事やら。9月2日追記。
2016年09月02日
天元五年四月の実資〈後半〉(八月卅日)
承前
十六日は、まず牛が死んだ穢れである。これにはついては場所が書かれていないから、実資邸だろう。頼忠のところに行って、穢で仕事を休むという届けを出している。外出しているし大神使の右近将監播磨貞理に穢れてるけど使えと言って袴を送っているから、この牛の死の穢はそれほど重い穢ではなかったようだ。貞理が使いに出て西京の身分の低い人の所に泊まったのは、穢が消えてから神社に到着するためだろうか。
十七日には、頼忠から馬具の鞦を借りている以外は、天気のことしか書かれていない。雨が降ってしばらくして晴れたというのだからにわか雨か。晴れの日には特に書かないのだろうから、雨の記述が目立つのは当然なのかなあ。
十八日も雨である。十六日の牛の死の穢れがある上に、大神祭だという理由で、恒例の清水寺への参拝を中止している。仏事と神事というものをある程度峻別していた証拠だと考えてもいいのだろうか。
十九日は天気の情報だけ。時々雨が降って、申の刻ぐらいだから、午後遅くなって晴れたようだ。
廿日は、晴れたけれども、午前中に雷。天候も不順である。以前の天皇の求めによってヒノキで作った扇を四枚献上している。夏に向けた暑さ対策だろうか。夕方になって室町に向かっているが、相変わらず誰が住んでいるのか確証がない。
廿一日は、内裏でまたしても犬の死。作物所の床下だから蔵人所の管轄である。太政大臣頼忠の奏上によると、使用する予定の唐鞍がすべて穢れてしまって使用できなくなったという。だから馬寮にある平文の鞍を唐鞍の代わりに使って、親王家にあるはずの鞍も借りてきて一緒に使ってしまおう。執物というから、手に持って使う何かの道具か飾りなんかはなくてもいいだろうとかなり乱暴なことを言っているが、穢れたものを神事に使うよりは、ましなのだろう。
この日は賀茂祭の斎院の禊が行われている。実資も見物に出かけたが、暗くなったので見ないままかえって来たらしい。実際に斎院が河原に向かったのは亥の刻という真夜中であった。この日も公卿たちが怠慢で出仕せず、責任者であるはずの上卿すら出てきていないので、左中弁という地位の藤原懐忠が代理をしている。「事已に希有、奇驚し了ぬ」とは実資の感想。
昨日の実資の提言によって、この日賀茂神社、松尾神社の禰宜たちに賀茂祭が平穏に終るように祈らせている。さすがに神事が無事に終るようにという祈りを寺にさせることはないようだ。理由としては「世間の謡言云々雲の如し」というのが上げられている。世情不穏、天候不順、公卿怠慢の状況で口さがない連中があれこれ噂しているのだろう。円融天皇の気持ちが退位に傾いていくのもむべなるかなである。
廿三日には、太政大臣の頼忠が賀茂社に向かっている。実資も命令でお供している。本当は明日の準備があるから行きたくなかったみたいだけど、無理やり連れて行かれたようだ。太政大臣が賀茂祭の始まる前日に賀茂社で何をしたのかは書かれていない。
内裏では大祓が行われた。これは賀茂祭の間に内裏に穢があるときには、必ず行われるようだ。ただし、この日も公卿たちが出仕せず、本来公卿が努めるはずの上卿がいないため、また左中弁の藤原懐忠が代理をしている。公卿どもは賀茂祭の個人的な準備にかまけていると考えておく。実資もそうしたかったみたいだし。
廿四日は賀茂祭である。中宮の許での儀式を終えて、出発。賀茂祭にも天皇だけではなく様々な人、官司が使いを出すのだが、中宮の使いは、まだ内裏に入る前だけれども、式御曹司で髪を整えたらしい。馬寮の正使が、兄の死で参列できなかったり、皇太后宮は穢で、東宮も親族の喪に服しているのか使を立てなかったりと、神事というのも大変である。
太政大臣と左大臣は賀茂社でのお祭りを見物しているが、この日の斎院での儀式には公卿は二人しか来なかったらしい。
廿五日は,斎院の帰還である。まずは出先でちょっとした宴会とご褒美授与。斎院の本院に戻ってさらに宴会とご褒美。こちらは近衛府の連中が伴奏付きで歌を歌ったりしている。実資が、家に帰り着いたのが未の刻だから、午後早い時間から今度は自宅で宴会を主催。「所の饗」とあるので、蔵人所に属している人々を呼んだのかと思ったら、近衛府の官人も参加している。
廿六日は、祭の後で、記事が少なく、以前民部卿に借りた馬具を返しただけ。自分で返しに行ったのではなく、誰かに行かせたのだろうけど。
廿七日もまずは祭の後始末。借りたあれこれを返してから、内裏に向かうと、天皇から儀式に欠席した連中の言い訳が、理由になっていないから太政大臣が詰問しろという、頼忠への伝言を賜る。もう少しましな言い訳を考えろというところか。
備前守の藤原理兼が赴任の挨拶に参内したら、天皇は御前に召しだして着物を与えられた。これが実資には納得できないようである。
廿八日には、前日の天皇の伝言を頼忠に伝えている以外には記事無し。賀茂祭の後始末が大変だったのだろうか。
廿九日は村上天皇の皇后藤原安子の忌日で仏事が行われている。その間、大雨が降って雷も鳴っているので雷鳴の陣が敷かれたようである。天候不順は夜に入っても続き、夜も雷雨である。
卅日には太政大臣頼忠が、早朝密かに競馬を行っている。参内すると左大臣を中心に臨時の仁王会のことを決定する。次いで文章得業生について、前日に太政大臣頼忠のところに実資が持っていって見せた評価の文章を天皇に奏聞している。その際、出席してしかるべき問頭博士が源伊行出てこないので喚問することになる。賀茂祭の禊の日に出てこなかった納言たちのうち民部卿の藤原文範と左衛門督の源重光の言い訳がひどいのでこの二人も呼び出されたのだが、源重光しか出てこなかった。
深夜にはまた、今回は三条のあたりの小屋が焼ける火事が起こっている。雨も多いけど火事も多い。いつものことではないと思いたい。
9月1日10時。
正確に記事の内容を理解したい場合にはこの現代語訳を見られたい。私のは適当適当だから。9月1日追記。
2016年09月01日
天元五年四月の実資〈前半〉(八月廿九日)
四月一日には、恒例の旬座というものが行なわれるのだが、この日は天皇が紫宸殿に出てこなかったために、平座とよばれる略儀で行なわれている。この儀式で大切なのは、酒宴が行われるということ。今回は宜陽殿で行なわれている。
実資自身はこの日、延妙という僧を遣わして賀茂社に奉幣をさせている。「例幣」といい、「二月・三月の料」ということから、毎月のことだったのかもしれない。
二日の記事では、前日の儀式について外記から報告を受けている。特に批判の言葉は書かれていないが、わざわざ「参議参らず」などと書かれていることから考えると、報告した外記も、実資も批判の気持ちはあったのだろう。
この日、藤原北家の師輔の孫に当たる光昭が亡くなっている。父の伊尹も摂政、太政大臣にまで昇ったわりには知名度の低い人だが、光昭も右少将というあまり高くない地位で亡くなっていることから、それほど長生きはしなかったようだ。
丑の時に五条のあたりで火事が起こっている。先月も確か夜中に火事が起こって実資がこっそり見に行くという記事がなかったか。日記に書くほどの火事が二月続けて起こるというのは、世情不穏の証拠の一つであろうか。
三日の記事は、光昭の死去によって、円融天皇の女御である尊子内親王が内裏を退出するというもの。尊子内親王は、冷泉天皇と藤原伊尹の娘の間に生まれた皇女なので、光昭は母方の叔父に当たるのである。
四日は特に大切なことはないのだが、本日より三日間の予定で休暇を取るために仮文を提出している。仮文に何が書かれていたのかが気になるところである。
五日から、中宮遵子の内裏への帰還についての定めが始まる。主要な出席者は父の関白頼忠、中宮大夫の藤原済時と実資。いろいろ忙しいのだろうか。翌六日も「室町」に出かけたという記述しかない。
七日は、内裏へ戻るための儀式の一環なのかどうかは不明だが、中宮遵子の元で、馬を見る儀式が行なわれている。
それが終わって内裏に向かうと、六位以下に叙す官人についての名簿を天皇に相乗する儀式である擬階奏が天皇の出御のない形で行われている。しかも儀式に参入した公卿が左兵衛督の源重光ただ一人という体たらく。公卿たちの怠慢がひどいなあ。
八日も関白頼忠と中宮遵子の所に行っているが、内裏に入る準備なのだろう。四月八日はお釈迦様の誕生日で、本来は宮中でも潅仏会が行なわれるのだが、この日は中止。四月最初の巳の日なので、山科神社の祭礼が行われる。そのため仏事である潅仏会は行われないということのようだ。
九日は中宮の経済基盤のひとつとなるはずの御給を賜ったという話。「雑用」に宛てるためということは、この給による収入を中宮職の運営に宛てるということだろうか。
三日に内裏を出た尊子内親王が、密かに髪を切ったということは、出家したようだ。すでに有力者の祖父を亡くし、遵子に中宮に立たれたところに、叔父が亡くなったことで、気落ちしたのだろうか。それに対して、「邪気の致す所」とはひどい感想である。この人のことはよくは知らないけれども、「年来の本意なり」と解釈したいところだ。ただ誰も何が起こったのか言おうとせず、髪を切ったと言っても額の髪をちょっと切っただけという話もあって、情報が錯綜している。「主上頻に仰せ事有り」というのも、円融天皇が非常に気にかけていることを示しているのだろう。
十日は関白頼忠のところに行っている以外は特になし。雨が降ったことが記されるが、この時期雨が多い印象がある。だからこの年は雨が多かったのだろうと考えていたら、七月に入って連続で雨乞いの儀式が行われていた。
十一日も、中宮が平野祭に祭使を送った以外は、いつものように、実資が頼忠のところと中宮のところに出向いたという記事だけである。おそらく内裏へ戻る件に関してあれこれ忙しいのだろう。時間がないのか、日記に書くまでもないことなのか、実資なので前者だと解釈しておく。
十二日には、中宮の許で、頼忠が奉ったお弁当のような食事が配られている。中宮職に属する予定の官人たちが集まって、それぞれの詰所で食事をもらって、恐らく食べている。陣という言葉が使われているということは、中宮が滞在している四条の邸宅を内裏に見立てて、それぞれのいるべき場所を指定したのだろうか。
末尾に陰陽師の縣奉平に命じて鬼気祭を行わせたことが書かれているが、これは実資の自宅でのことであろうか。家族に病気の人がいたのだろう。
十三日には、円融天皇の姉に当たる資子内親王が内裏に参上している。伝聞ではあるが、中宮大夫の藤原済時が、前日の頼忠に続いて食事の準備をして、役人たちに配っている。檜破子や金銀で装飾された破子を献上しているが、これは器を贈物として献上したのか、中に入っていた食事が重要だったのか、どちらだろう。普通の破子は食事のためのもので、金銀のついているのは贈物と考えるのが無難か。中宮には大夫に任命されたお礼として献上し、少将乳母には立后までの働きに対して褒美として与えたと考えておこう。
十四日も、内裏から頼忠、中宮の許に移動しているだけで特にない。
十五日には、頼忠のところで、一度この月の十九日と決められた中宮が始めて内裏に入る儀式が、加茂際の時期に近すぎるという理由で、変更になっている。陰陽師を召して改めて日時を選ばせた結果、来月五月の七日という意見が出てくる。頼忠の方からは五月はよくないのではないかという質問がなされるのだが、陰陽師は特に問題になるようなことはないと答えており、五月七日に遵子が中宮になって初めて内裏に入ることが決定される。
「四月の節は節用の時に随ふ」と読んだ部分が意味がよく分からないのだけど、文脈からいうと、四月に内裏に入るほうが問題が起きそうだということだろうか。民部卿の藤原文範のもとから借りた馬具は来月七日に使うものだろうか、いや賀茂祭用かもしれない。
最後に内裏で犬が死んでいたせいで、穢れが発生したという話を聞いている。これはおそらく飼い犬ではなく野犬である。内裏に野犬というと想像もできないのだが、この頃の内裏は、度重なる火事などのせいで、周囲を囲んだ壁のあちこちが崩れ、穴が開いており、殿舎の床下などに野犬が生息していたらしいのだ。衛府の武人たちを集めて内裏の野犬を処理する「犬狩」という儀式が行われていたぐらいである。
続く
8月30日15時。