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2016年09月02日

天元五年四月の実資〈後半〉(八月卅日)



承前
 十六日は、まず牛が死んだ穢れである。これにはついては場所が書かれていないから、実資邸だろう。頼忠のところに行って、穢で仕事を休むという届けを出している。外出しているし大神使の右近将監播磨貞理に穢れてるけど使えと言って袴を送っているから、この牛の死の穢はそれほど重い穢ではなかったようだ。貞理が使いに出て西京の身分の低い人の所に泊まったのは、穢が消えてから神社に到着するためだろうか。

 十七日には、頼忠から馬具の鞦を借りている以外は、天気のことしか書かれていない。雨が降ってしばらくして晴れたというのだからにわか雨か。晴れの日には特に書かないのだろうから、雨の記述が目立つのは当然なのかなあ。
 十八日も雨である。十六日の牛の死の穢れがある上に、大神祭だという理由で、恒例の清水寺への参拝を中止している。仏事と神事というものをある程度峻別していた証拠だと考えてもいいのだろうか。

 十九日は天気の情報だけ。時々雨が降って、申の刻ぐらいだから、午後遅くなって晴れたようだ。
 廿日は、晴れたけれども、午前中に雷。天候も不順である。以前の天皇の求めによってヒノキで作った扇を四枚献上している。夏に向けた暑さ対策だろうか。夕方になって室町に向かっているが、相変わらず誰が住んでいるのか確証がない。

 廿一日は、内裏でまたしても犬の死。作物所の床下だから蔵人所の管轄である。太政大臣頼忠の奏上によると、使用する予定の唐鞍がすべて穢れてしまって使用できなくなったという。だから馬寮にある平文の鞍を唐鞍の代わりに使って、親王家にあるはずの鞍も借りてきて一緒に使ってしまおう。執物というから、手に持って使う何かの道具か飾りなんかはなくてもいいだろうとかなり乱暴なことを言っているが、穢れたものを神事に使うよりは、ましなのだろう。
 この日は賀茂祭の斎院の禊が行われている。実資も見物に出かけたが、暗くなったので見ないままかえって来たらしい。実際に斎院が河原に向かったのは亥の刻という真夜中であった。この日も公卿たちが怠慢で出仕せず、責任者であるはずの上卿すら出てきていないので、左中弁という地位の藤原懐忠が代理をしている。「事已に希有、奇驚し了ぬ」とは実資の感想。
 昨日の実資の提言によって、この日賀茂神社、松尾神社の禰宜たちに賀茂祭が平穏に終るように祈らせている。さすがに神事が無事に終るようにという祈りを寺にさせることはないようだ。理由としては「世間の謡言云々雲の如し」というのが上げられている。世情不穏、天候不順、公卿怠慢の状況で口さがない連中があれこれ噂しているのだろう。円融天皇の気持ちが退位に傾いていくのもむべなるかなである。

 廿三日には、太政大臣の頼忠が賀茂社に向かっている。実資も命令でお供している。本当は明日の準備があるから行きたくなかったみたいだけど、無理やり連れて行かれたようだ。太政大臣が賀茂祭の始まる前日に賀茂社で何をしたのかは書かれていない。
 内裏では大祓が行われた。これは賀茂祭の間に内裏に穢があるときには、必ず行われるようだ。ただし、この日も公卿たちが出仕せず、本来公卿が努めるはずの上卿がいないため、また左中弁の藤原懐忠が代理をしている。公卿どもは賀茂祭の個人的な準備にかまけていると考えておく。実資もそうしたかったみたいだし。

 廿四日は賀茂祭である。中宮の許での儀式を終えて、出発。賀茂祭にも天皇だけではなく様々な人、官司が使いを出すのだが、中宮の使いは、まだ内裏に入る前だけれども、式御曹司で髪を整えたらしい。馬寮の正使が、兄の死で参列できなかったり、皇太后宮は穢で、東宮も親族の喪に服しているのか使を立てなかったりと、神事というのも大変である。
 太政大臣と左大臣は賀茂社でのお祭りを見物しているが、この日の斎院での儀式には公卿は二人しか来なかったらしい。

 廿五日は,斎院の帰還である。まずは出先でちょっとした宴会とご褒美授与。斎院の本院に戻ってさらに宴会とご褒美。こちらは近衛府の連中が伴奏付きで歌を歌ったりしている。実資が、家に帰り着いたのが未の刻だから、午後早い時間から今度は自宅で宴会を主催。「所の饗」とあるので、蔵人所に属している人々を呼んだのかと思ったら、近衛府の官人も参加している。
 廿六日は、祭の後で、記事が少なく、以前民部卿に借りた馬具を返しただけ。自分で返しに行ったのではなく、誰かに行かせたのだろうけど。

 廿七日もまずは祭の後始末。借りたあれこれを返してから、内裏に向かうと、天皇から儀式に欠席した連中の言い訳が、理由になっていないから太政大臣が詰問しろという、頼忠への伝言を賜る。もう少しましな言い訳を考えろというところか。
 備前守の藤原理兼が赴任の挨拶に参内したら、天皇は御前に召しだして着物を与えられた。これが実資には納得できないようである。

 廿八日には、前日の天皇の伝言を頼忠に伝えている以外には記事無し。賀茂祭の後始末が大変だったのだろうか。
 廿九日は村上天皇の皇后藤原安子の忌日で仏事が行われている。その間、大雨が降って雷も鳴っているので雷鳴の陣が敷かれたようである。天候不順は夜に入っても続き、夜も雷雨である。

 卅日には太政大臣頼忠が、早朝密かに競馬を行っている。参内すると左大臣を中心に臨時の仁王会のことを決定する。次いで文章得業生について、前日に太政大臣頼忠のところに実資が持っていって見せた評価の文章を天皇に奏聞している。その際、出席してしかるべき問頭博士が源伊行出てこないので喚問することになる。賀茂祭の禊の日に出てこなかった納言たちのうち民部卿の藤原文範と左衛門督の源重光の言い訳がひどいのでこの二人も呼び出されたのだが、源重光しか出てこなかった。
 深夜にはまた、今回は三条のあたりの小屋が焼ける火事が起こっている。雨も多いけど火事も多い。いつものことではないと思いたい。

9月1日10時。



 正確に記事の内容を理解したい場合にはこの現代語訳を見られたい。私のは適当適当だから。9月1日追記。


送料無料/現代語訳小右記 1/藤原実資/倉本一宏


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