新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2016年09月01日
天元五年四月の実資〈前半〉(八月廿九日)
四月一日には、恒例の旬座というものが行なわれるのだが、この日は天皇が紫宸殿に出てこなかったために、平座とよばれる略儀で行なわれている。この儀式で大切なのは、酒宴が行われるということ。今回は宜陽殿で行なわれている。
実資自身はこの日、延妙という僧を遣わして賀茂社に奉幣をさせている。「例幣」といい、「二月・三月の料」ということから、毎月のことだったのかもしれない。
二日の記事では、前日の儀式について外記から報告を受けている。特に批判の言葉は書かれていないが、わざわざ「参議参らず」などと書かれていることから考えると、報告した外記も、実資も批判の気持ちはあったのだろう。
この日、藤原北家の師輔の孫に当たる光昭が亡くなっている。父の伊尹も摂政、太政大臣にまで昇ったわりには知名度の低い人だが、光昭も右少将というあまり高くない地位で亡くなっていることから、それほど長生きはしなかったようだ。
丑の時に五条のあたりで火事が起こっている。先月も確か夜中に火事が起こって実資がこっそり見に行くという記事がなかったか。日記に書くほどの火事が二月続けて起こるというのは、世情不穏の証拠の一つであろうか。
三日の記事は、光昭の死去によって、円融天皇の女御である尊子内親王が内裏を退出するというもの。尊子内親王は、冷泉天皇と藤原伊尹の娘の間に生まれた皇女なので、光昭は母方の叔父に当たるのである。
四日は特に大切なことはないのだが、本日より三日間の予定で休暇を取るために仮文を提出している。仮文に何が書かれていたのかが気になるところである。
五日から、中宮遵子の内裏への帰還についての定めが始まる。主要な出席者は父の関白頼忠、中宮大夫の藤原済時と実資。いろいろ忙しいのだろうか。翌六日も「室町」に出かけたという記述しかない。
七日は、内裏へ戻るための儀式の一環なのかどうかは不明だが、中宮遵子の元で、馬を見る儀式が行なわれている。
それが終わって内裏に向かうと、六位以下に叙す官人についての名簿を天皇に相乗する儀式である擬階奏が天皇の出御のない形で行われている。しかも儀式に参入した公卿が左兵衛督の源重光ただ一人という体たらく。公卿たちの怠慢がひどいなあ。
八日も関白頼忠と中宮遵子の所に行っているが、内裏に入る準備なのだろう。四月八日はお釈迦様の誕生日で、本来は宮中でも潅仏会が行なわれるのだが、この日は中止。四月最初の巳の日なので、山科神社の祭礼が行われる。そのため仏事である潅仏会は行われないということのようだ。
九日は中宮の経済基盤のひとつとなるはずの御給を賜ったという話。「雑用」に宛てるためということは、この給による収入を中宮職の運営に宛てるということだろうか。
三日に内裏を出た尊子内親王が、密かに髪を切ったということは、出家したようだ。すでに有力者の祖父を亡くし、遵子に中宮に立たれたところに、叔父が亡くなったことで、気落ちしたのだろうか。それに対して、「邪気の致す所」とはひどい感想である。この人のことはよくは知らないけれども、「年来の本意なり」と解釈したいところだ。ただ誰も何が起こったのか言おうとせず、髪を切ったと言っても額の髪をちょっと切っただけという話もあって、情報が錯綜している。「主上頻に仰せ事有り」というのも、円融天皇が非常に気にかけていることを示しているのだろう。
十日は関白頼忠のところに行っている以外は特になし。雨が降ったことが記されるが、この時期雨が多い印象がある。だからこの年は雨が多かったのだろうと考えていたら、七月に入って連続で雨乞いの儀式が行われていた。
十一日も、中宮が平野祭に祭使を送った以外は、いつものように、実資が頼忠のところと中宮のところに出向いたという記事だけである。おそらく内裏へ戻る件に関してあれこれ忙しいのだろう。時間がないのか、日記に書くまでもないことなのか、実資なので前者だと解釈しておく。
十二日には、中宮の許で、頼忠が奉ったお弁当のような食事が配られている。中宮職に属する予定の官人たちが集まって、それぞれの詰所で食事をもらって、恐らく食べている。陣という言葉が使われているということは、中宮が滞在している四条の邸宅を内裏に見立てて、それぞれのいるべき場所を指定したのだろうか。
末尾に陰陽師の縣奉平に命じて鬼気祭を行わせたことが書かれているが、これは実資の自宅でのことであろうか。家族に病気の人がいたのだろう。
十三日には、円融天皇の姉に当たる資子内親王が内裏に参上している。伝聞ではあるが、中宮大夫の藤原済時が、前日の頼忠に続いて食事の準備をして、役人たちに配っている。檜破子や金銀で装飾された破子を献上しているが、これは器を贈物として献上したのか、中に入っていた食事が重要だったのか、どちらだろう。普通の破子は食事のためのもので、金銀のついているのは贈物と考えるのが無難か。中宮には大夫に任命されたお礼として献上し、少将乳母には立后までの働きに対して褒美として与えたと考えておこう。
十四日も、内裏から頼忠、中宮の許に移動しているだけで特にない。
十五日には、頼忠のところで、一度この月の十九日と決められた中宮が始めて内裏に入る儀式が、加茂際の時期に近すぎるという理由で、変更になっている。陰陽師を召して改めて日時を選ばせた結果、来月五月の七日という意見が出てくる。頼忠の方からは五月はよくないのではないかという質問がなされるのだが、陰陽師は特に問題になるようなことはないと答えており、五月七日に遵子が中宮になって初めて内裏に入ることが決定される。
「四月の節は節用の時に随ふ」と読んだ部分が意味がよく分からないのだけど、文脈からいうと、四月に内裏に入るほうが問題が起きそうだということだろうか。民部卿の藤原文範のもとから借りた馬具は来月七日に使うものだろうか、いや賀茂祭用かもしれない。
最後に内裏で犬が死んでいたせいで、穢れが発生したという話を聞いている。これはおそらく飼い犬ではなく野犬である。内裏に野犬というと想像もできないのだが、この頃の内裏は、度重なる火事などのせいで、周囲を囲んだ壁のあちこちが崩れ、穴が開いており、殿舎の床下などに野犬が生息していたらしいのだ。衛府の武人たちを集めて内裏の野犬を処理する「犬狩」という儀式が行われていたぐらいである。
続く
8月30日15時。