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2016年09月07日

天元五年五月の実資〈上〉(九月四日)



 一日には、頼忠と共に藤原季平の邸宅であった三条の邸宅に向かっている。藤原季平は、天元五年の後半に治部卿になり、翌年に没するのだけど、資産の処分として売却したのか、関白の頼忠に邸宅を献上して、任官を求めたのかはわからない。これが、事典などにでてくる頼忠の三条第なのであろう。とすると、これまでの頼忠はどこに住んでいたのだろうかと言う疑問が持ち上がって来る。今後の課題である。
 二日は、内裏で、右大将、つまり中宮大夫の藤原済時と共に、中宮の内裏への移動の準備である。ただし、参議が来なかったため、右中弁に仕事をさせている。翌三日に予定された天皇の八省院への行幸に関しては、左大臣の源雅信が里第、つまり自宅から指示を出している。左大臣は賀茂社に参っているけれども、賀茂祭の後始末なのか、特別に参拝したのかは不明。

 三日は、豊作を祈るために各地の神社に奉幣する祈年穀奉幣の儀式である。神社の数は時代と共に移り変わるが、この時代は伊勢神宮を含めて十六社である。それだけの数があれば、辞退者が出ても仕方がないのか、雨が降っているせいなのか、二つの神社に向かう予定だった参議が、行けないと言い出したので、松尾神社には藤原懷遠、平野神社には実資が兄弟で向かっている。小野宮の官人はまじめだなあ。
 雨の影響で天皇が八省院に行幸するのは中止。その代りに紫宸殿から伊勢神宮のほうに向かって遥拝している。ただし、奉幣使に宣命を与える儀式は予定通り八省院で行われているため、使に選ばれた人たちは、内裏から八省院に移り、宣命を受け取って、それから出発したようだ。
 四日は、前夜の宿直から早朝帰宅して、昼頃から頼忠のもとに、その後内裏へと移動。いそがしく働いているようである。除目や仏事など処理すべきことがたくさんあるようで、内裏と頼忠邸の間を往復している。

 五日は、中宮のところで、中宮大夫とともに、左大臣の同席のもとで、中宮の移動について細かいことを決めている。その後は、五月五日の端午の節句の様子である。目を引くのは菖蒲と薬玉が献上されていること。菖蒲だけでなく、薬玉も端午の節句と関係があったんだねえ。誰にどんな理由でどんな褒美の禄を与えるかで、ちょっともめたみたいだけど。
 端午の節句には騎射による手結が行われるが、三日に行われるはずの左近衛府の荒手結がこの五日に行われている。これは三日に祈年穀奉幣の儀式が行われたからだという。今日も雨で行幸が中止になっているから、雨の中馬を走らせて弓を射た近衛府の官人たちも大変だっただろう。

 六日は、まずいよいよ翌日に迫った中宮の内裏への移動について、参入した中宮大夫の済時と共にあれこれ決めている。細かい決定が毎日記述されるほど多かったということなのだろう。本日は太政大臣の頼忠が同席。
 そして、中宮になったものが初めて内裏に入るときには、中宮の里第で慶賀の儀式が行われるのが例だと言うので、延長元年の醍醐天皇の中宮藤原穏子の例に習って行うことになる。
 この日は前日の左近衛府に続いて、右近衛府の荒手結が行われているが中宮関係の準備が忙しくて、出席できていない。右大将の中宮大夫も行かなかったのだろうか。本文にはないが、中宮大夫と実資で、遵子が入る予定の殿舎弘徽殿に向かってあれこれ確認している。

 七日は中宮遵子が内裏に入る儀式である。事細かに書いても仕方がないのだが、まず十か所のお寺で読経が行われているのが目を引く。割注によれば、以前からこの日に風雨の難がないように祈願する儀式が、各地の寺や神社で行われていたようだから、この日も雨が降らないように、風が吹かないようにという御祈りだったのだろう。そのかいあってのことか、この日は雨についても、風についても、雷についても記述がない。それにしても、この天元五年はやはり天候不順である。
 その後、さまざまな官人たち、女官たちが中宮の里邸に集まり儀式が始まる。気になるのは、「一本理髪」なんだけど、どんな髪の様子を想像すればいいのだろうか。それから、中宮大夫の済時と中宮亮の実資は、ともに近衛府の武官を兼ねているという理由で、儀式に際して弓矢を帯びている。衛門府の人もそうだなあ。
 こちらでの儀式が終わると、行列が邸宅を出て内裏に入る。その経路もある程度細かく書かれているが、地図がないと想像しにくいのでここでは省略。内裏の北の門から入って、中宮は弘徽殿に入られる。弘徽殿周辺の殿舎を使って酒宴が行われ、その際に、中宮遵子の弟である公任が、天皇の仰せで一階昇進することが決められる。従四位上にあがるのかな。
 天皇は弘徽殿に入ったが、深夜に出ていったようだ。どうも方角が悪いというので、朝までは滞在しなかったようである。この記事でも細かいことは省略したが、実資のほうも、「事は多きも之を記さず」と記しているので、書かなかったこと、書けなかったことが多々あると考えてもよさそうだ。

 翌八日は前日の儀式の後始末のようなもの。いろいろ仕事をしてくれた女官たちのために、酒宴を設けて褒美を与えている。中宮職の責任者である済時をはじめ、源保光、実資が、お酒を勧めている。実資たちと酒宴を共にしたのは、命婦とおそらく女蔵人合わせて十一人と女史とよばれる女官だから、それほど数は多くない。内侍が出席しなかったというのは何か理由があるのだろうか。
 末尾に、左近衛府の真手結が行われたことが思い出したように書かれている。
 以下下に続く。

9月5日15時。


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