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2016年04月10日
シュムナー・ムニェスタ(四月七日)
建築探偵と言う言葉を聞いて、「藤森照信」という名前がすぐに思い浮かぶ人は、この番組が気に入るはずである。日本の藤森建築探偵は、明治以降の洋風建築に関する調査から始まって、外国にも調査の足を延ばして、我々一般の人間にもわかりやすく書籍と言う形で提供してくれた。自分自身では建築ファンなどではないと思っているが、普通の人よりは建築や建築用語に詳しいのは、昔友人に勧められて、『建築探偵の冒険』以下の本を読んだからに他ならない。さすがに赤瀬川源平のトマソンには付いていけなかったけど。
チェコ版『建築探偵』と言うべきものが、今回取り上げるテレビ番組「シュムナー・ムニェスタ」で、建築探偵の役を果たすのは、自身も建築家である俳優のダビット・バーブラである。バーブラは俳優としては、スクレプ劇団を立ち上げた人物として知られている。スクレプというのは本来、一軒家やアパートなどの地下にある物置のことを意味し、南モラビアの丘陵地帯にある丘の斜面に穴を掘って作られたワインの醸造、熟成用の地下蔵もこの言葉で呼ばれる。劇団はバーブラの祖母の家の地下室で誕生したことから、このように名づけられたらしい。地下劇団と訳してもいいのかな。ただし、この劇団が本当にアンダーグラウンドの存在だったのかどうかはわからない。
この番組は、チェコ各地に残された建築物、特に過小評価されがちな近代の建築物を紹介するドキュメンタリーである。チェコの番組にしては珍しく、時間がほぼ一定で25分前後、建築物を紹介して回るさすらいの建築家を演じるバーブラのほかに、必ず最初と最後に子供たちが出てくる。子供たちに教えるという設定なのかもしれないが、子供たちは建築物めぐりには同行しない。建築家が移動に使うのは、毎回、何これといいたくなるような変なものである。古い自転車だったり、トラクターだったり、取り上げる町に関係のありそうなものを使っているのだろうか。
それから、毎回欠かせないのが、喫茶店に入って、年老いたウェーターにコーヒーを出してもらうシーンである。その町で、かつてもっとも有名だった喫茶店があった建物に入るのだが、そこに喫茶店が残っているとは限らない。たとえば、オロモウツではモラビア劇場の隣の「喫茶店」に入る。そこが撮影当時は自転車屋になっていたため、コーヒーではなくスポーツドリンクのようなものが出てきていた。ちなみにこの場所は、番組のおかげか、自転車屋は撤退し、現在では喫茶店に戻って営業している。
思い返してみると、かつての有名な喫茶店がかつての姿で喫茶店としてあり続けていた町のほうが少ないような気がする。荒れるに任されていて崩壊寸前という建物もあったなあ。カメラは、美しく改修された建物ばかりでなく、このような残酷な現実をも、そのまま映し出す。現在まで生き残った建築的に貴重な建物で文化財に指定されている建物であっても、所有者によっては、まったく改修もされず、改修されても本来とは違う使い方をされてしまうのである。
オロモウツでは、かつて、ホルニー広場の市庁舎の天文時計の向かい側の一番目立つところにある建物に中華料理屋が入っていて、真っ赤な看板に漢字で店名が書かれていた。あれは、興ざめだったなあ。この店はなくなり、広場の反対側に入った中華料理店は看板が控えめになっているので好感が持てる。広場にはマクドナルドもあったけど、あれもあまり好ましいとは思えなかった。今では移転か撤退かで広場から姿を消したので、目に優しくなった。
「シュムナー・ムニェスタ」は、全部で66本が制作され、すべてチェコテレビで放送された。最初のオストラバ、オロモウツ、オパバの三本は、独立した作品として作られたものを後から、シリーズに組み入れたものらしい。撮影年は古いのに真ん中付近に位置づけられているのはそのためである。それにしても、モラビア地方の町から始められたのが素晴らしい。そして、ブルノが最後の町というのも悪くはないが、プラハを完全に無視してしまったのが私にとっては最高である。プラハについて、プラハの建築物についてのドキュメンタリーなんて、すでに腐るほど存在するのだ。この番組の関係者なら新しい視点から面白い番組を作り出すだろうけれども、そんなことに労力を使うぐらいなら、これまで誰も取り上げなかった地方の忘れられた建築物に光を当てるほうがはるかに重要な仕事であろう。この番組で取り上げられたことで、保存が決まったり改修されることになった建物もあるのではないかと思う。
さて、66ものチェコの町(場合によっては地方)に残る建築物の紹介を終えたバーブラたちは、今度は国外に眼を向ける。そして誕生したのが、続編とも言える「シュムネー・ストピ」である。こちらは、近代にチェコを出て国外で活躍したチェコ人建築家の活動の後を追ったドキュメンタリーである。今度は国ごとに、そして建築家ごとに作品が紹介されていく。
その記念すべき第一回目の国が日本だったのである。よく知られた広島の原爆ドームを設計したヤン・レツル以外にも、東京の聖路加病院の建築にかかわったレーモンド、フォイエルシュタイン、シュバグルなど、日本で活動した建築家は意外に多い。一部はチェコ人としてではなくアメリカ人としての仕事だったりとよくわからない部分もあるらしいのだが。
以上のチェコ人四人のうち、シュバグル以外の名前は、この番組を見る以前から知っていた。それは日本の建築探偵藤森先生の著作に登場していたからである。そうしたら、「シュムネー・ストピ」に、なんと藤森探偵自身が登場した。チェコの建築探偵と日本の建築探偵が、それぞれチェコ語と日本語で話すというなかなかシュールなシーンになっていたが、チェコテレビ、もしくはチェコ大使館の文化部、いい仕事したなあ。
日本編が数回続いた後は、旧ユーゴスラビア、南米などのチェコ人建築家の足跡を紹介している。だから、南米にある製靴会社バチャの創った町なんかも出てくる。日本では企業城下町というと、悪いイメージで語られることも多いが、チェコでは、少なくともバチャの工場城下町に関しては高く評価されることが多いようである。
とまれ、私が日本の人にオロモウツの建築物について、あれこれ説明するときの説明、特にジャーマン・セセッション様式の傑作プリマベシ邸の説明は、ほとんどこの番組が元ねたになっていて、建築用語は『建築探偵』で覚えたものを使っている。読書もテレビの視聴も、たまには役に立つということか。
4月7日18時。
この本がまだ絶版になっていないのは、さすが筑摩書房というところだろうか。面白いので次々に新たな読者を獲得しているということなのかもしれないけど。4月9日追記。
2016年04月09日
オロモウツに行こう(四月六日)
日本からチェコに来る人は、みんなプラハにやってくる。そして、プラハだけを見て、これがチェコだと満足する。そこから南のチェスキー・クルムロフに足を伸ばす人も多いけど、東のオロモウツまで来てくれる人はめったにいない。そんなもったいないことはしないで、プラハなんて誰でも行ったことのあるところに行っても自慢にはならないんだから、オロモウツまでおいでよ、ということで、飛行場からオロモウツまでの経路をまとめておく。
以前は、プラハの空港は、交通の便が非常に悪かった。プラハ市営の路線バスはいくつか走っていたが、郊外の団地や地下鉄の駅に向かうものばかりで、町の中心に向かうためには、119番のバスに乗ってデイビツカーまで行って、そこから地下鉄に乗るしかなかった。もしくは悪名高いプラハのぼったくりタクシーを使うしかなかった。
プラハにおける諸悪の根源だとプラハ在住の知人が批判していた元市長のベームの退任後は、プラハ市でもこのタクシー問題を解決しようと、あれこれ手を打っているのだが、運転手たちの抗議に譲歩することが多く、世界でも最悪と言われることの多い状況は、今でも大して変わっていないようである。一応法定の最高料金とかはあるんだけどね。そういえば、昔、プラハの空港からタクシーでオロモウツまで来たっていうアメリカ人がいたなあ。一体いくら払わされたんだろう。
最近、と言ってももう数年になるが、空港と中央駅を結ぶ直通バスができたので、プラハなんかには滞在しないでオロモウツに向かう場合には、このバスを使うのが一番いい。プラハに滞在する場合も、中央駅の近くに宿を取ってこのバスを利用するのが一番楽で、安上がりだろう。
プラハの空港は、チェコ航空が大韓航空に買収されたときに、一緒に韓国資本のものになってしまったので、空港の表示はチェコ語と英語、それに韓国語でなされている。どれも理解できなくてもバス停のマークを目指して空港のホールを出ると、道を渡ったところに路線バスの乗り場が二つある。電光掲示板にAE、つまりエアポートエキスプレス(時刻表はここ。一ページ目が冬期、二ページ目が夏期になっている)の表示のあるほうで待っていれば、日中なら冬でも30分に一本の割合で、夏なら15分間隔でバスがやってくる。チケットは、外国から事前に買うのは大変だし、バスの運転手に60コルナ払えば乗れる。中央駅まで30分ほど、途中でマサリク駅の停留所にも止まるので、ホテルの場所によってはそっちで下りてもいいだろう。反対に駅から空港に向かう場合には、ターミナルの1で降りるのか2で降りるのか確認しておいたほうがいい。
駅に着いたら、渡れない道路なのでエレベーターを利用しなければならない。歩道に突き出した突起のように建っている一見正体不明の二つの物体が、エレベーターで、駅の構内の各フロアに下りることができる。
オロモウツに行くために利用できる電車は、四種類。一つ目はチェコ鉄道の誇るペンドリーノ、所要時間も一番短く、と言っても10分かそこらの違いだけど、2時間5分、途中の停車駅もパルドビツェ一つだから、間違えにくい。日中は二時間に一本程度の割合で走っていて、乗車券とは別に座席の指定券が必要になる。事前に日本からチェコ鉄道のページでチケットを購入することもできる。日本で発行されたクレジットカードも支払いに使えるらしい。以前は購入した際に出てきたPDFファイルを印刷して持参する必要があったが今はどうなっているだろう。
もちろん、事前に買っていなくても、駅で直接買うことは可能なので、それほど心配する必要はない。その際にどのペンドリーノに乗りたいのかをしっかり告げるのを忘れてはいけない。金曜日の夕方は売り切れていることもあるので覚悟はしておいたほうがいい。まあ座席指定券が買えなくても、買い忘れても、チェコ鉄道のほかの特急ECには乗れるので、これが二番目の方法。ただし停車駅の多い急行Rは、時間がかなり余計にかかるものがあるのでお勧めはしない。
三つ目は私鉄のレギオ・ジェットを使う方法。これはチケットを買う際には座席指定もついてくる。三つのカテゴリーがあって一番下は、すべての方法の中でも一番安いチケットである。ネット上で購入できるようにはなっているけど、日本のクレジットカードが使えるかどうかは不明。二時間に一本の割合で出ていて、売り場にはまだ座席があるかどうかの表示がされているからわかりやすい。チケットがちゃちいのが難点と言えば難点だけど、車内での検察はなかったし、サービスはいい。途中の停車駅はペンドリーノより二つ多くて三つ、その分時間もかかるのか所要時間は2時間15分ほどになっている。
最後は、私もまだ使ったことがない私鉄のレオエキスプレス。この前日本から来た方は、チェコの友人に勧められたと言ってこれを使っていた。ここは定価で買うとかなり高く特に一番上のカテゴリーは、ペンドリーノの一等よりも高い。その分サービスは良さそうだけど。問題はさまざまな条件でチケットの値段が変わることで、特別割引キャンペーンをやっていたり、購入の時期によって安くなったり、料金体系が理解できないし、ペンドリーノとレギオジェットに満足しているので、使うことはなさそう。ただ時間帯によっては毎時間運行しているので、プラハ到着の時間によっては、これを使うのが一番早いかもしれない。途中停車駅は、レギオジェットとと同じで三つ、所要時間もほとんど同じである。
プラハ駅でも、チェコの例のもれず、毎日同じホームから出発するというわけではないので、電光掲示板で自分の電車が出るホームを確認するのを忘れてはいけない。電光掲示板の両脇にチェコ鉄道のチケット売り場があって、そのフロアか、もう一つ下のフロアの奥のほうからスロープで下に降りていくフロアにレギオジェット、レオエキスプレスのチケット売り場があるはずなので、出発直前まで買うことができる。直接車掌から買う手もあるかもしれない。
プラハ−オロモウツに限らず、電車バスなどの交通機関の接続を調べたいときには、ここが便利。一番上の部分で検索対象を変えることができ、電車、電車+バス、市内交通機関など必要に応じて切り替える必要がある。
とまれ、すべてが順調に進んで、接続もよければ、プラハ空港到着から3時間ちょっとでオロモウツまで来られるのだ。複雑怪奇で外国人料金にあふれたプラハで彷徨うよりオロモウツ来ちゃったほうがいいんじゃない? プラハなんぞ見ずとも死ねるよ。
4月7日16時。
2016年04月08日
クリーシュチェ(四月五日)
四月になって気温が上がり、春と呼んでもいい季節がやってきた。チェコは薄着の人が多いので、半ズボンにTシャツ一枚で動き回っている人も見かける。実際は、そこまで暖かいわけじゃない。それにしても、日本と違って花粉症が存在しないのが非常にありがたい。いや、存在はするけれども、自分には関係ないのがありがたい。最近、ちょっと鼻がむずむずしてくしゃみが出ることがあるけど、これは季節の変わり目で風邪気味だと思うことにする。
暖かくなると公園の芝生の上で寝転がったり、山歩きに出かけたりする人、畑で仕事をする人が出てくる。そんな人たちに対して、気をつけるように言われるのが、クリーシュチェという虫である。この虫は日本でいうダニの一種で、どのダニに相当するのかはわからないが、野山に生息していて、気温が高くなると活動を開始し、人の服などについた後に、人体の皮膚のやわらかいところを求めてもぐりこみ、噛み付いて血を吸うらしい。吸血前は小さな虫が、血を吸ってまるまると大きくなったのを見ると、気持ち悪さを感じてしまう。
日本でもダニが媒介するツツガムシ病などの病気が知られているが、チェコのこのダニも、二種類の病気を媒介するらしい。一つは毎年、死亡者も出る脳炎で、毎年シーズンが近づくと予防接種を呼びかけるキャンペーンが行われている。もう一つが、ボレリオーザとか、ライム病といわれる病気で、こちらには予防接種に使えるワクチンはまだ開発されていないようである。
困るのが、同じクリーシュチェに刺されても、病気になる場合とならない場合があることで、これは地方によって、病原菌をもつ個体がいる地域と、いない地域があるかららしい。新聞紙上で見た地図によると、オロモウツ近辺は、ちょうど境界に当たり、チェコに来たころの数年間は、今よりは活動的で山歩きをすることもあったので、予防接種を受けるかどうか悩んでいた。処置が遅れると重態化して、ひどいときには死に到ると言われて、刺されたらどうしようと不安になってしまったのである。周囲に予防接種を受ける人が一人もいなかったことと、山歩きをしても一度も刺されたかったことで、予防接種の存在を忘れていった。
それが、数年ぐらいたったころだっただろうか。オロモウツに住んでいた日本の方に、「クリーシュチェに刺されたんだけど」と相談を受けた。チェコ人の知り合いに誘われてオロモウツ郊外のスバティー・コペチェクという大きな教会のある丘に出かけて、その周囲の森の中を散歩して、うちに帰ってシャワーを浴びようとしたときに、変な虫が足に噛み付いているのに気づいたらしい。「病院に行かなくていいでしょうか」と聞かれて、自分も予防接種を受けて、この人にも受けるように勧めておけばよかったという思いが頭をよぎった。
どう答えていいのかわからなかったので、周囲にいたチェコ人(もちろん知り合い)に片っ端から尋ねることにした。すると、みな異口同音に「病院なんか行く必要はない」と言うのだ。根拠として、これまで何度も刺されたことがあるけど、病気になったことはないと言う。テレビで病気で苦しんでいる人のニュースが流れるじゃないかと言うと、あれは例外的に危険な地域での出来事で、オロモウツの近くならクリーシュチェに刺されても大丈夫だと言う。地元の人の言うことだからと、多少の不安はあったけれども、病院に行かないことにしたら、結局何の問題もなかった。
その後、今度は知り合いのチェコ人が、クリーシュチェに刺されたという話を聞いた。夏休みを利用して、オロモウツではなく、どこか別の町の近くの山の中でキャンプをしていたときのことで、運悪く病気をもらってしまったらしい。脳炎ではなく、ライム病のほうだったので大事にはならなかったけれども、薬を一年以上飲み続ける必要があると言っていた。
大変だったのは、その後、日本に一年間滞在する予定があったことで、さすがに薬を一年分も出してもらうことはできず、日本で医者に行って同じ薬を出してもらえるかどうか心配していた。実際は、その心配は杞憂に終わったらしいのだが、お医者さんが、病気のことも薬のことも知らず、初耳だと言いながらあれこれ調べて取り寄せてくれたのだという。日本滞在のいい思い出にはなったはずである。
この話を聞いたときにも、予防接種を受けようかという気になりかけた。ただ、以前と比べて外に出る機会が減っていたし、そもそも注射は苦手だったしで、結局一度も受けることなく今まで来てしまった。これからも、受けることはないだろう。願わくは、ダニに刺されて死ぬなんてことにはならないことを。
4月6日23時。
これって、刺されたダニを取るのに使うのかな。似たようなのをこちらでも見たような気がする。4月7日追記。
2016年04月07日
バビシュ危うし(四月四日)
最近は日本でもそういう傾向があるみたいだが、チェコでは選挙の前に誕生したようなぽっと出の政党が意外に大量の票を獲得してしまって国会に議席を得、連立内閣にまで参加してしまう事例が最近いくつかある。そして、与党時代の失政が原因で次の選挙では議席を失ってしまうのである。
この手の泡沫政党でありながら、権力を握ってしまい舞い上がって勘違いして転落するという政党の嚆矢は、緑の党であろうか。この病めるヨーロッパを象徴する政党は、チェコでも90年代の初めから活動を開始したようであるが、下院に議席を得たのは2006年の選挙が唯一のことである。既存の政党が分裂したものや、連合したものではない新しい政党が議席を得たのは、ちょっとした驚きだったが、そのまま連立政権に参加したのには更に驚かされた。政治家がいいというわけではないが、この党から任命された素人大臣たちの業績は、内閣が倒れた後に行われた選挙で、大幅に得票を減らし議席を失ったことからどんなものだったのかは理解できるだろう。頻発した内紛も原因だったのだろうけど。
政権参加時の党首、副党首が別組織を作って追ん出てしまった緑の党は、最近また勢力を盛り返しているようで、上院には議席を持っているかもしれない。プラハの市議会にも議席を確保して、連立与党の一角を担っているが、わけのわからないことをして市政に混乱を巻き起こしている。こんな迷惑政党はとっととつぶれてくれたほうがいいのだが、エコロジーといううたい文句にだまされる人はまだまだ多いのだ。日本にこのヨーロッパの病が浸透していないのは喜ぶべきことである。
緑の党が自業自得で国会から去った後、2010年の選挙で、下院に大きな勢力を得たのが、VVと略されることの多いビェツ・ベジェイネーである。「公共の物事党」と訳すと政党名っぽくないので、「公共の福祉党」とでも訳してみようか。この党は、警備会社を経営するビート・バールタという人物が、ラデク・ヨーンというテレビ関係者を擁して下院選挙に参戦し、緑の党を見限った人々を含む、既存の政党に飽き足らない層の支持を得て国会に議席を獲得した。そしてそのまま政権に参加したのだが、連立している政党ODS(市民民主党)の仕掛で、一部の所属議員が造反しODSに合流して、バールタ氏の金を使った政党運営を暴露したり、バールタ氏が経営していた警備会社を使ってODSの政治家を監視していたという疑惑がマスコミにし報じられたりして、求心力を失っていった。
結局、交通大臣を務めていたバールタ氏も、内務大臣を務めていたヨーン氏も辞任し、連立を解消し野党へと転じる。このあたりの経緯で、二人とも政治に対するやる気を、少なくとも資産を投じてまで政治の世界にしがみつく気を失っていたようで、VVは2015年には解党されてしまうのである。
次にチェコの政界に登場するのが、VVの凋落のきっかけの一つとなったバールタ氏の疑惑を報じた新聞「ムラダー・フロンタ」(青年戦線?)を所有する会社の経営者アンドレイ・バビシュ氏が組織したANOである。バビシュ氏が所有する会社は、チェコでは最も大きい企業連合体の一つであるアグロフェルトで、本来は農業関係の会社なのだが、前記の「ムラダー・フロンタ」と、「リドベー・ノビニ」という二大紙も傘下におさめている。
バビシュ氏は2013年の選挙で、財界での経験を政界にもたらすことで、国の財政を健全化することができるというようなことを主張して、ANOを成功に導いた。同時に財政の専門家を自任する政党TOP09の当主カロウセク氏のプライドを刺激したのか、以後犬猿の仲というか、目くそ鼻くその批判し合いを繰り返している。ANOは、選挙に勝ったČSSD(チェコ社会民主党)の主導する連立政権にキリスト教民主同盟とともに参加することになり、いくつかの大臣のポストを得た。バビシュ氏が財務大臣に就任し、交通大臣には最初は党員でなりたがった人が就任したが、すぐに経済界から党員ではないスチューデント・エージェンシーというバスと鉄道の会社を経営していたテョク氏を招聘して就任させるなど、経済界の実力者の経験を政界に生かすという方向性は、公約どおりに見せている。
その後、小さなごたごたはあったが、大きな問題は起こらなかったので、ANOは、これまでの緑の党や、VVとは違って、比較的平穏に次の選挙を迎え、議席を維持するのかなと思い始めていたら、大きなスキャンダルが発覚した。その名も「コウノトリの巣」事件である。
コウノトリの巣というのは、宿泊施設もついた小さな農場ということになっている。現在はバビシュ氏の所有するアグロフェルト社の保有する施設になっており、実質的にはバビシュ氏一家の住居として使われているらしい。
それだけなら何の問題もないのだが、問題は、この施設がEUの助成金を使って建てられたことである。本来、中小企業が農場とそれに付随する施設を建設するプロジェクトを対象にした助成金を、バビシュ氏は家族名義で設立した会社に申請させて受領し、施設の建設が終わって助成金の会計処理も済んだ時点で、名義を自分の会社であるアグロフェルトに書き換えたのだという。つまり、アグロフェルトは大企業でこの助成金の対象とはならないので、あまり大きな声では言えない抜け道を使って助成金を獲得したということになる。さらにその会社の資産を個人的に使っているのだから、批判されても仕方がない。
EU評議会でも問題にする声が上がったことで、チェコ国内のマスコミが飛びつき大きな問題だとして批判のキャンペーンを始めた。更に強く批判されたのが、バビシュ氏のアグロフェルトの子会社である二つの新聞社が、これまで他の政治家のスキャンダルに関しては積極的に報道して批判してきたのに、このバビシュ氏の件に関しては、まったく取り上げないことだった。この批判が出た後で、「ムラダー・フロンタ」では記事にしていたが、他のメディアほどの鋭い記事ではなかった。
国会においてもバビシュ氏に対する批判の声が高まり、国会での説明を求める動きや、また大臣が経営に関与、もしくは株主として決定権を持つ会社が国の発注する仕事に入札できないようにする法律や、政治家がマスコミ関係の会社を経営るることを制定しようという動きが出ている。企業の経営者が大臣となって自分の会社に便宜を図るのを防ぐということだが、実質的には反バビシュ法とでもいうべきものである。
バビシュ氏は自らのEUの助成金の獲得と活用に関して規則に反したことはしていないと弁明している。その上、同じような抜け道を使って助成金を悪用しているのは自分だけではないと言って、反撃に出たらしいけれども、どうなのかね。仮に皆やっているからといって、それが自分もやる理由にはならないし、規則に反していなくてもモラルに反しているものもある。いずれにしても、こんな形で助成金を得るなんてのはチェコ有数の企業の経営者がやるべきことでないのは確かである。
バビシュ氏とANOがこのスキャンダルを乗り越えて、次の選挙でも議席を確保して国政政党であり続けるのか、それともこれまでのポッと出政党と同じで、一期だけのあだ花に終わるのかは、このコウノトリの巣をどう解決するかにかかっている。
政権に参加しなかった政党でも、オカムラ氏のポッと出政党ウースビットも分裂して次はなさそうだし、ゼマン支持者が設立したいわゆるゼマン党も内紛などの問題があって一期だけで議席を失ったし、ANOもそうなりそうな気がする。とまれ、これだけ国会に議席を得る泡沫政党が出てくるのは、有権者の既存の政党への絶望を示しているのだろう。どこが政権をとっても同じ、同じなら新しいところに任せてみたほうがましだと考えるのは自然なことである。
ANOの次に国会に議席を得て与党になりかねない政党は、地方議会ではすでに与党になっているところもある海賊党かな。
4月5日23時。
2016年04月06日
無意味な支援(四月三日)
以前、チェコではイラクに少数派として暮らすキリスト教徒を受け入れるプロジェクトを実施しているということをチラッと書いたが、このプロジェクトの主体はゲネラツェ(ジェネレーション)21というキリスト教系の団体で、政府は支援を与えているだけだった。このプロジェクトで、今年の二月から八十人を越えるイラク人がチェコに来て難民認定を受けているのだが、そのうちの一部がやらかしてくれた。
ある老人が、やっぱり自分の国で死にたいと言い出して、その家族が全員、イラクに帰ることになったのはいい。いや、よくはないけれども、心情は理解できる。老い先短い人生で、同じキリスト教徒の住む国ではあっても、言葉も含めて、まったく新しい環境に適応しなければならないのが、事前の想定を越えていたのかもしれないし、今年は暖冬だったとはいえチェコの寒さに耐えられなかったのかもしれない。ただ、本人が帰国するのはそれでいいだろうが、家族も一緒に帰ってしまうのはどうなのだろうか。今後はイラクでもキリスト教徒への弾圧の激しくない別の地方に住む親戚を頼って移住するという話である。
このプロジェクトでは、イラクでは弾圧が厳しくてキリスト教徒として生きていくのが大変な人々で、チェコに移住したいと希望する人たちが選ばれているはずなのだが、イラク国内で移住する伝があるなら、そしてそこが安全な地であるのなら、そちらに行くほうがましであろう。この辺りは、プロジェクトを実施する団体の調査不足、準備不足を責められても仕方がない。政府としても、EUから半ば強制されている難民受け入れの定数を拒否するための材料の一つとして、独自の難民受け入れをやっていることを、それがうまく行っていることをアピールする必要があって、あせっていたのかもしれない。
許せないのは、いったん手にした難民認定を返上して、当初の目的地であったらしいドイツに向かったグループである。特別なプロジェクトでチェコに呼んだということで、本来難民申請者は、不法入国者が入れられる収容所に入れられて、不自由な生活を強いられるのだが、この連中は、チェコ政府の特別機でプラハの空港まで連れてこられ、収容所ではなくキリスト教系の団体が保有する宿泊施設に、賓客扱いで宿泊し、チェコ社会に適応できるようにチェコ語の授業も受けていたのである。
これでは、チェコが差し伸べた善意の手を悪用したと言われても仕方がない。ヨーロッパまで行けば何とかなると思ったのか、チェコの関係者が優しいのでお願いすればドイツに行かせてくれると思ったのか、困ったものである。もちろん、ドイツに行ったからといって受け入れられるわけがなく、最初に難民申請をした国、つまりチェコに送還されてしまった。EUの規定から言えば、これで当然なのである。 チェコに戻された後は、難民収容施設に放り込まれ、イラクに送り返されるのではないかと言われている。チェコで再度難民の受け入れ申請をすることは可能らしいが、認定するのかね、こんなの。
チェコ政府は、今回の件を受けて、このプロジェクトを全面的に停止する決定をした。つまり、今後チェコに逃げて来られたかもしれないキリスト教徒たちは、今回チェコ側の善意を悪用した連中のせいで、来られなくなってしまったのである。実際に、イラクのキリスト教徒で、イスラム国の脅威にさらされていて、チェコで新しい人生を送りなおしたいと考えている人がどのぐらいいるのかは知らないが、その人たちの可能性を摘んだのが、右翼の外国人排斥主義者たちの行動ではなく、同じ境遇にある一部の人間の所業であると言う事実は、非常に重い。
今回の件を喜んでいるのは、政府の政策を批判するのが仕事の野党を除けば、右翼の外国人排斥主義者たちだけだろう。現在イラクから逃げてきた人々が暮らしている場所の一つ、オストラバの近くの村では、受け入れを巡って住民の反対運動が起こっていたが、今後はその手の反対運動が、他の受け入れた町でも発生する可能性がある。それにこの件で、難民受け入れプロジェクト自体が、世論から嫌われるのではないかという恐れもある。
結局、チェコで生活したいという意思を持たない難民を受け入れてもうまく行かないということなのだ。チェコ社会に受け入れられようと努力する難民たちの姿を見れば、一部の例外を除いては、受け入れに寛容になるだろうし、今回のような善意を土足で踏みにじるようなまねをされれば、反対派の声が強くなる。これは何もイラクからチェコへの難民に限った話ではない。シリアからの難民達でも、自分さえ、自分たちさえドイツにいければ、通行する国の人も含めて他人はどうでもいいという態度を取る連中がいるから、自分たちがドイツにたどり着けたから後はどうでもいいという態度を取る連中がいるから、ただでさえ難民のあまりの多さに根を上げかけているヨーロッパで難民排斥の意見が強くなっていくのだ。
現在ヨーロッパに押し寄せている難民達に、難民になったことに対する責任はないと言ってもいいだろう。ここまで状況が悪化した原因は、EUやNATOの失策にあるのだから。しかし、現在ヨーロッパで難民の受け入れ条件が厳しくなり、いわゆるバルカンルートが閉鎖されている原因の一端は、すでにヨーロッパに入った難民達の振る舞いにある。そして現在の悪循環をとく鍵も、難民達の行動にあると思うのだが、どうだろうか。
4月4日23時。
2016年04月05日
チェコの道路はどこでも高速道路(四月二日)
この週末は、自動車の冬用のタイヤを、普通のタイヤに交換する必要もあって、うちのの実家に滞在することになった。オロモウツからブジェツラフのほうに向かって南に下りていくルートは、高速道路の建設の計画はあるものの、完成しているのはごく一部、プシェロフの先からオトロコビツェまでの20kmぐらいしかない。それにもかかわらず、時速100km以上で走っている車の数が多いのがチェコの交通事情である。
チェコの道路交通法における最高時速は、市街地が時速50km、それ以外が90km、高速道路が130kmということになっている。市街地は道路を走っていて、町や村の入り口の名前の書かれた看板が道路の右側に立っているところから、名前に赤い斜線の引かれた看板が立っているところまでで、この間は特に指定のない限り、時速50km以下で走らなければならない。特に市街地に入るところでスピードを落とさない自動車が多いために、スピードをはかるカメラを設置して、速度が表示されるようにして、制限速度を越えるスピードの場合には、「スピード落とせ」という表示が出るようなシステムや、ダミーの信号が赤になるシステムを導入しているところも多い。
一時期は、市街地でスピードを出しすぎる車の多さに業を煮やした、自治体の間で、スピード違反の車を感知して自動で撮影するシステムを導入して、それを罰金の請求に使用するのが流行ったのだが、プライバシーの侵害に当たるとかいう意味不明の理由で使用が禁止されてしまった。「この区間は速度を測定しています」という表示なしに、自動車の速度を測定して写真を取るのはいけないのだそうだ。こういう人の生命に関わる部分では、自動車を運転するものの権利よりも、安全の方が優先されるべきだと思うのだが、それを許さない当たり、チェコは病んでいるなあ。もしかしたらEUの指示かもしれないけど。同じようなよくわからない理由で、普段は青でスピード出しすぎの車にだけ赤を表示するダミーの信号の使用も禁止されてしまった。
今回も、市街地で50kmで走っていたのに、しかも追い越し近視区間にもかかわらず、われわれの車を追い抜いていった車は片手の指の数では足りなかった。市街地の外に出てからも、時速90kmという日本では高速道路でしか出せないスピードで走っているのに、無理やり抜いていく車は多かった。休日だからこの程度で済んだが、平日の交通量の多いときであれば、反対車線で追い抜きをかける車も多く、恐怖を感じることもあるほどである。
道路脇に小さな十字架が設置されていて、花やろうそくが供えられていることがある。これは交通事故の犠牲者を悼んで遺族が事故現場に設置するものなのだが、すべての遺族がこんな追悼の碑を建てるわけではないことを考えると、その数はびっくりするほど多い。だた、スピードの出しっぷりを見ていると、事故が多いのも納得してしまう。今回もオロモウツの郊外で、点滅するランプが見えると思っていたら、交通事故現場で警察と消防が事故処理の作業をしているところだった。おかげでその場からUターンさせられて、30分以上も時間のロスをしてしまった。
チェコは、街の外に広がる畑の中のところどころにこんもりとした森が残っており、そこに意外なほどたくさんの動物達が生息している。畑で芽を出した農作物を食べている鹿の群などは、牧歌的でほほえましい光景であるが、ときどきウサギやリス、ハリネズミなどが、道路を渡ろうとして車に轢かれて尸をさらしているのには、思わず目を背けてしまう。これが鹿だったら、多分車のほうもただでは済まないはすだ。
チェコの高速道路には規格が二つある。一つはDと一桁の数字で呼ばれるもので、もう一つはRと二桁の数字で呼ばれている。Dで規定されるものの方がランクが高いみたいなのだが、その違いはよくわからない。プラハからブルノを経て現在はプシェロフの近くまで延びているD1は舗装がアスファルトではなく、コンクリート製のパネルを敷き詰める方法を使っているという特徴がある。しかし、これがほかのD高速道路にも適用されているのかどうかはわからない。よくわからないのが、最近、R高速道路の一部がDに格上げされたことである。今回使ったプシェロフの先からオトロコビツェまでの道路も、以前はR55だったのが、D55に名称が変更されていた。その根拠は不明である。
とまれ、どちらも制限速度130kmで、走行のためには、高速道路走行券を買ってフロントガラスの右下の部分に貼っておかなければならない。カミオンなどの大型自動車の場合には、走行料金を自動で調整するシステムがあって端末を購入して登録すると、各地に設置されている装置で高速道路を何キロ走ったかがわかるようになっているらしい。
この高速道路でも、時速130kmを超えて走っている車の数は多く、昔日本で流行った「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」というスローガンを思い出してしまった。日本よりもチェコの方がずっと狭く、制限速度も高いのに、スピード違反だらけなのである。
しかも、最近国会では、高速道路の一部で最高時速を150kmに引き上げ、一般道でも一部100kmに引き上げる法案が出されたらしい。それに、サイクリスト向けにビール二杯までだったら自転車に乗ってもいいという法案も提出されているというから、この国の国会議員には交通事故を減らそうという気はあまりないようである。だから、平日の車での移動は避けて、なるだけ車の少ない休日に移動するようにしているのである。
4月3日23時。
2016年04月04日
オロモウツ大勝(四月一日)
仕事帰りに街中を歩いていたら、妙に警官の姿が目立っていた。トラムが通る大通りを渡るために信号待ちをしていたら、警察の車が何台か通り過ぎた。サイレンを鳴らしているわけではないので、大事件が勃発したというわけではなさそうだ。ベルギーでのテロを受けて警戒態勢を強化したというには、始める時期が遅すぎる。それに、プラハならともかく、オロモウツでテロというのは、ちょっと想像しづらい。
うちに帰って、テレビのニュースを見て納得。オロモウツでオストラバのサッカーチーム、バニーク・オストラバとの試合が行われるのだ。バニークのファンは、あらゆるスポーツを通じて、チェコで最悪のファンである。だから、オストラバとの試合が行われるときには、ファンが移動する電車にも警察が乗るし、駅に着いてからスタジアムまでは、余計なことをしでかさないように、警察官が包囲して連れて行く。そして、集団と一緒に来なかったファンが街中で問題を起こさないように、警備体制も強化されることになる。
ファンを直接批判することがタブーになっている嫌いのあるスポーツマスコミによって、バニークのファンは熱狂的な応援で素晴らしいとか、チームが低迷していても応援をやめない素晴らしいファンだとか褒められることも多いが、発炎筒を持ち込みグラウンドに投げ入れたり、相手チームのゴールキーパーに向けて爆竹やビールの入ったプラスチックカップを投げつけたりするような連中は、スポーツを見に来る資格はない。もちろん、バニークのファンがすべてこんな連中というわけではないし、他のチームのファンにもこんな連中はいるのだけれども、サッカースタジアムで大きな問題が起こるのは、たいていバニークかスパルタの試合なのである。
もう十年以上も前の話になるが、ファン同士のオロモウツとのライバル関係が今よりも強かった時代に、オロモウツファンがオストラバでの試合の応援に出かける電車に襲撃をかけて、石だのガラス瓶などを、通行する電車の窓に投げつけた結果、乗っていたファンが大怪我(失明だったかな)をしたという痛ましい事件も起こしている。それに、バニークがスパルタとの試合でプラハに行くだびに、チェコ鉄道の車両は、ファンたちによってかなりの被害を受けているのである。最初からおんぼろの多少は壊されても問題のない車両を使っているとはいえ、試合会場に向かう電車の中で酒飲んで暴れるのは、許されることではなかろう。サッカー協会も、この手のファンに対して妥協しないで、強硬な手段をとらないと、一般のサッカーを見たいファンが会場に足を運ばなくなると思うのだが。
さて、肝心の試合のほうである。バニーク・オストラバは、ここ数年財政上の問題から成績が低迷しぎりぎりで残留というのを繰り返してきたのだが、今年はそれが頂点に達し、ダントツの最下位に定着している。22節を終えて勝ち点8という成績は、チェコのリーグでも滅多に見られない圧倒的な成績である。一方のオロモウツも、秋には何とか残留圏内にいたものの、春に入ってから一勝もできず、降格圏内に碇を下ろしてしまった。勝ち点はここまで17、バニークに抜かれることはないだろうけど、一つ上のイフラバとの差は6点もあり、残留は難しくなってきている。最悪なのは点を取れないことで、ここまでの22節で17点、春になってリークが再開してからの六試合では3点しか取れていない。
前半は、見ていないのだが、互角の展開だったらしい。それでも地力で勝るオロモウツが、オストラバに先制されたものの、すぐに逆転して2対1で終了。後半、テレビのチャンネルをチェコテレビスポーツに替えてすぐに、オロモウツのゴール前の混乱から、オストラバの選手がサイドに出そうとしたパスに、オロモウツの選手の足が当たって、ゴールに吸い込まれて同点。今期のオロモウツを象徴するようなしょうもないゴールで、今日も勝てそうにないと思った。
それが、今日のオロモウツは違った。二年前には、オストラバとの試合で、大逆転負けを喫して、立ち直ることができずそのままずるずると降格してしまった。試合中の選手同士の当たりの激しさという意味でも、結果から見ても非常に痛い試合だったのだが、その再現は御免だとばかりに、攻勢をかけ、まずペナルティエリアでシュートしようとした選手が腰をつかまれたファウルでPKをもらって勝ち越し。そして二年前も主力選手だったオルドシュからナブラーティルへの絶妙のウリチカパスで4点目を取ると、あれよあれよという間に、更に2点追加して、全部で6点も取ってしまった。オロモウツが一部リーグでこれだけ点を取ったのは、2009年ぐらいに、インフルエンザの流行でぼろぼろだったテプリツェを粉砕した時以来じゃなかろうか。これをきっかけに何とか一部に生き残ってほしいものである。
今期のオロモウツは、上位チーム相手には結構互角に戦えている。春になってからも、負けはしたけれども、プルゼニュともスパルタともいい試合をしたのだ。特にスパルタとの試合は、スパルタのバーハのプレーがちゃんと判定されていたら勝てていた可能性もある。バーハは、この試合でフィールドプレイヤーのくせに、GKみたいにパンチングでゴールに向かうボールをはじき出したのだが、後ろにGKもいて一緒にボールに触ったせいか、反則も取られなかった。これは退場でPKを取られても仕方がないプレーである。大事なところでこんな信じられないようなプレーを繰り返すバーハは、代表では絶対に使ってほしくない選手である。こいつ使って負けたら絶対悔いが残るし。チェコのU21代表は、ロンドンオリンピック出場をかけた試合で負けたのだが、止めを刺したのが、こいつのあからさまに意図的なハンドと退場だったもんなあ。
それはともかく、比較的下位のチーム相手に勝てないのが、今期のオロモウツの問題である。これから上位チーム相手の試合が続くみたいだけど、内容はどうでもいいので何とか勝ってもらいたい。このオストラバとの試合でのゴールを、別の試合に残しておけばよかったと言われなくてもいいことを祈ろう。いや、その前に、この試合がエイプリルフールの冗談でしたということにならないことを祈るべきか。
4月2日15時。
2016年04月03日
我が読書の記録――SFの時代(三月卅一日)
児童文学だけではなく、推理小説も読むようになったころに、SFにも出会った。出会った作品が高千穂遙の『クラッシャー・ジョウ』だったのは、その後の読書にとって幸せだったのかどうだったのか。自分で言うのもなんだが、かなり偏狭なSF読者であったような気がする。いや、今でもそうだなあ。
たしか、親戚のうちに泊まりに行ったときに、従姉が持っていたのを読ませてもらって、面白かったので、いや、とても面白かったので、小遣いをはたいて当時出版されていた六冊すべて自分でも買ったのだった。友人に貸して、これで完結なのか、主人公のジョウは、六巻の最後で死んでしまったのかどうか、議論したなあ。二、三年続編が出ないぐらいで、おたおたするなんて当時はまだまだ餓鬼だった。
映画ができるころに、七冊目と映画のノベライズが発売されて小遣いのやりくりに困った記憶もある。当時の田舎の子供の小遣いなんて、たかが知れていた。本を買うだけでなく、地元の町には映画館はあったが廃業していたので、映画を見るために従姉の住んでいた町まで行って連れて行ってもらう必要があった。アニメ映画とはいえ、小学生と中学生の境目辺りの餓鬼が一人で行くのは許されなかったのだ。
当時、別の従姉の影響で、『クラッシャージョウ』のイラストを担当していた安彦良和の漫画『アリオン』にも出会っている。これも遊びに言ったときに読ませてもらって、「ジャンプ」的なマンガしか読んだことのなかった餓鬼の目には、とんでもなくすごい作品に見えた。もっとも、自分の好きな『クラッシャージョウ』のイラストを書いている人の漫画だという事実が評価を高めた嫌いもあるのだけど。
この辺りまでが中学時代に読んだSF作品ということになる。栗本薫の『グインサーガ』は存在は知っていたけれども、まだ読み始めてはいなかったはずだ。『魔界水滸伝』は最初の何冊かだけは読んだから、このころ手を出していただろうか。これでいわゆる「クトゥルー神話」を知って、ソノラマ文庫の『クトゥルーオペラ』を読んだんだったか、その逆だったか。ソノラマ文庫の菊池秀行や夢枕獏の作品も読んだが、これが中学時代だったか、高校時代だったかが判然としない。いずれのしても本格的なSFの時代は高校時代ということになりそうだ。
ちなみに80年代に一世を風靡したSFアニメ「ガンダム」に関しては、見ていない。他にもあれこれ放送されていたが、SF的アニメはほとんど見ていない。SFは読むものだという思い込みと、SFアニメは「クラッシャージョウ」さえあればいいという偏狭な認識のせいである。いや、みんな見ているから見ないという現在まで続く天邪鬼的な思考の結果だった可能性も高い。高校時代には、ベストセラーになった『ノルウェーの森』を、みんな読んでほめているからという理由で、読まなかったし。自分が読んでいた本がベストセラーになるのは許せるのだが、ベストセラーだとわかっている本を読むのは耐えられないのだ。だからベストセラーは、読むとすれば、時間がたって忘れられた頃になることが多い。ひねくれ者の本読みの無意味なプライドである。
高校に入ってからは、図書館に入っていた早川文庫のSF作品をむさぼるように読んだ。『グインサーガ』は最初の十巻ちょっとしか入っていなかったが、今思い返すとこの作品に関してはあのあたりを読んでいたころが一番幸せだったなあ。それでも好きな作品だったので、その後も五十巻ぐらいまでは読んだ。この『グインサーガ』本編のあとがきと、外伝の解説で高千穂遥がヒロイックファンタジーの『美獣』という作品を書いていることを知ったが、田舎では手に入れるすべがなく、実際に手に入れて読めたのは大学に入るために東京に出てからになる。
翻訳物の作品を読み始めたのも高校時代だった。ドイツの『ペリー・ローダン』シリーズに手を出し、変な名前の変な日本人が出てくるのにショックを受けたり、訳者の松谷健二のあとがきから北欧神話に興味を持ったりしたが、図書館に入っている巻を読み終わった時点で読むのをやめてしまった。巻ごとに執筆者が交代するせいか、自費で買って読もうと思うところまでは行かなかったのだ。北欧神話への興味は、一時東海大学にあった日本で唯一の北欧文学科を目指そうかと血迷うぐらいだった。そこの谷口という先生の訳した『エッダ』を本屋で注文して買ったのが、初めての本屋での注文購入だった。
田舎の本屋はそれほど品揃えがよかったわけではないので、新刊が出ていても気づかないことが多かった。『クラッシャージョウ』の刊行が途絶えていた時期に、ある日NHKのFMを聞いていたら、「FMアドベンチャー」というラジオドラマが始まり、「高千穂遥原作『黄金のアポロ』」というナレーションが流れてきて、角川ノベルズでそういう作品が出ていることを知った。ラジオは毎回聞いて堪能したが、活字で読んだのはこれも大学時代である。「FMアドベンチャー」では、他にも『僕らの七日間戦争』や『グリーンレクイエム』などを聴いた。懐かしいなあ。
偏狭なSFファンであったせいで、高校時代には半村良も、小松左京も、田中芳樹も、山田正紀も存在は知っていながら、読みはしなかった。もちろん、後には読んだけれども、何で読まなかったんだろう。我ながら不可解な選択だとしか言いようがないのだが、翻訳作品でも、マイケル・ムーアコックに手を出す一方で、ハインラインやアシモフは、この時期はまだ読んでいなかったのだ。光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』を初めて読んだのは、高校時代だっただろうか。理解できて読んでいたのかなあと、今頃になって不安になる。
とまれ、中学から高校にかけて、いろいろというよりは限定的だけど、SF作品を読みふけったのだが、SFファンの例に漏れず、当時の自分も偏狭だったなあと反省する。大学に入ってからの方が視野が広がり、読書の対象となるSF作品、作家も増えていくのだが、大学時代以降は、ジャンルや作家を意識しない濫読の時代とでも言うべき時代になってしまうので、本稿の対象とはしない。本格的に漫画を読むようになったのも、大学に入ってからだもんなあ。
4月1日23時。
2016年04月02日
大丈夫かチェコサッカー(三月卅日)
中国の国家主席とミロシュ・ゼマン大統領の出席したイベントにチェコサッカー界の誇るパベル・ネドベドが出席していた。今回の公式訪問で締結された協定の中に、スポーツ分野における協力というものもあるらしく、特にサッカーとアイスホッケーに関して、チェコ側が中国に指導者を送ったり、中国選手を受け入れて指導したりすることになったようだ。
その一環として、ネドベドは、本人の希望や金銭的な条件は知らないけれども、チェコサッカーファンの日本人の気持ちとしては、大統領によって中国に売られてしまったのである。いや、売られたのは今回の訪問時ではなく、その前にゼマン大統領が中国を訪問したときに、一緒に連れて行かれているから、そのときなのだろう。中国側がネドベドをどのように使う気なのかはわからないが、中国サッカーの広告塔がネドベドとかなったら嫌だなあ。所属のユベントスとしても、中国市場を重視しているだろうから渡りに船という部分はあるのだろう。まあ、現役時代にそうならなかったことを感謝しよう。
この協定に基づいて、早速プラハでチェコのチームと中国のチームを集めた子供たちのサッカー大会が行われていた。ニュースでは国は違っても監督の言うことは同じだとかいう説明が流れたが、画面に出た字幕を信用する限り、中国人監督が子供たちにかけた言葉と、チェコ人監督の言葉には、大きな違いがあった。それはともかく、この大会を両国の首脳が見物に出かけて、子供たちと歓談するシーンをニュースで流す必要があり、そのために大会は一時中断されたという。うーん。
サッカーに関するもう一つの中国との協定は、スラビアのオーナーとなったCEFCが、本拠地であるエデンのスタジアムも買収して、三万人規模のスタジアムに改修するというものだ。現在の収容人数が二万人ちょっとのはずだから、一万ほど座席を増やすことになる。これは、チェコサッカー界が長らく欲してきた代表戦を行うための専用国立スタジアムの建設を諦めて、スラビアの本拠地を大観衆を集めたい代表戦に使うことを意味する。原則として代表戦専用になる大スタジアムというのは、運営の面から見ても現実的ではなかったので(代表戦をプラハでばかり開催するわけにもいくまい)、既存のスタジアムを改修するというのは、悪くないのだが、それを中国の手にゆだねるというのはどうなのだろうか。
以前、2012年に、ポーランドとウクライナでサッカーのヨーロッパ選手権が開催されたとき、ポーランドではインフラ整備、特に高速道路の建設費用を抑えるために、中国企業と契約したことがある。残念ながらというか、予想通りというか、中国企業は当初の契約条件を全うすることができずに、結局契約解除になって、大会までの建設は間に合わなかった。安く上げようというポーランド政府の目論見は外れて、結局高くつくことになったのだから笑えない。チェコの場合には、中国企業がお金を出してチェコの企業が建設を担当するという形になるだろうけど、途中でややこしいことを言い出して、結局資金負担もチェコ側ということになるんじゃないかというのが心配である。
サッカーのチェコ代表といえば、先週の木曜日と今週の火曜日に、この夏のヨーロッパ選手権に向けた調整のための親善試合が行われた。結果はそれほど芳しいものではなく、スコットランドにはホームで0−1で負け、スウェーデンでは1−1の引き分けだった。それでも、チェコではあまり悲観的な声は聞かれない。親善試合は、勝つに越したことはないけれども、もっと重要な目的がある。前の監督とその前の監督はそれがわかっていなかったので、親善試合でも必死に勝ちに行って、主力選手の疲労を蓄積させた結果、肝心な試合でどうしようもない姿を見せることも多かった。
今の監督ブルバは、チェコ代表全盛期のブリュックネル監督と同じで、親善試合はあれこれ試す場として割り切っているので、選手に無理をさせてまで勝ちに行きはしない。ブルバが就任した直後の親善試合で勝てなかったときは、ちょっと心配したが、そのあとのヨーロッパ選手権の予選できっちり勝ってみせてくれたので、やはりこの監督は違うと改めて確信した。今回の二試合も、先発メンバーを九人も入れ替えて、あれこれ組み合わせを試すと同時に、代表戦で出場したことのない選手達に出場機会を与えていた。召集した選手は、みな30分は出場機会があったんじゃないかな。以前の監督には、呼んだら使え、使わないなら呼ぶなという批判が一部で飛び交っていたのだが。
今回二試合とも先発したシボクとダリダの二人が、ディフェンスと中盤の柱ということになるのだろう。CBの組み合わせは、シボクとカドレツ、シボクとスヒー、どっちがいいのかねえ。ブリュックネルの時代からチェコの守備は、堅守というイメージはないけど、もう少し安定感がほしい。まあ、期待の若手スパルタのブラベツもデビューしたし、こいつと、若くしてチェルシーに買われていったオロモウツ出身のカラス、プルゼニュでレギュラーの座を奪ったバラーネクあたりは代表経験もあるし、この辺が育てば少しはましになるかな。
中盤はダリダと誰を組み合わせるかは、怪我人の回復次第なのだろう。ロシツキーもプラシルも今更テストが必要な選手ではないので、怪我が治ってちゃんとプレーできさえすれば、戦力になることは間違いない。問題はこの二人が不在の場合だけど、こちらもすでにあれこれ試してあるので、あまり心配はしなくてもよさそう。ただ一つの願いは、バーハだけは使わないでくれということだ。
一番心配なのは攻撃陣かなあ。ここもけが人がどうなるかという問題もあるのだけど、今回ネツィットも怪我する前の調子にはまだ戻っていなかったしなあ。コザークの復帰を期待したいところだ。ラファタはある程度やれそうだけど。
2004年のような爆発的な活躍ができるとは、当時のメンバーと比較するとやっぱりかなり落ちるので、思えないけど、少なくとも、こんなはずじゃなかったという結果にはならないだろう。2004年のバロシュのような馬鹿あたりがあれば、結構いいところまでいけそうな気がする。この監督が駄目だったら誰が監督でも駄目だと思えるのは、ファンとして幸せなことである。
あれ、またなんか話がそれてしまった。
3月31日23時。
2016年04月01日
チェルナー・ホラ――チェコビール列伝(三月廿九日)
中国の習近平国家主席のチェコ公式訪問に関するニュースの一つに、看過できないものがあった。スラビアが中国企業に買われたのは許そう。サッカーのチェコ代表のスポンサーに中国企業がついたのもいい。いくつかのビール会社が、中国資本に買収されたのもぎりぎり許容できなくはない。でも、でもである。どうして、買収されたビール会社の中に、チェルナー・ホラがあるんだ。これは許せん。チェルナー・ホラがチェコの別のビール会社ロプコビツに買収された時点で気に入らなかったのだが、「貴族のビール」「ビールの中の貴族」とか偉そうなこと言ってるんだったら、共産主義の労働者階級に買収されんじゃねえよ。いや、ロプコビツが身売りしたことはいい。たいしたビールじゃないし。でも、チェルナー・ホラを道連れにするんじゃねえ。
ちょっと取り乱しぎみの書き出しになってしまったことからもわかるだろうが、チェルナー・ホラのビールには思い入れがある。まだチェコ語を真面目に勉強していたころに、勉強しながら一番よく飲んでいたのがこの会社のビールだった。学校の近くにあったチェルナー・ホラを飲ませるレストランの入り口近くの席が、チェコのレストランにしては明るく勉強するにはちょうどよかったため、かなり頻繁に通っていたのだ。
この会社のビールは、好みが分かれるビールである。チェコのビール会社の例に漏れず醸造前の糖度で分類されたビールが、10度、11度、12度、14度と四種類置かれていて、その中から毎回三種類のビールを一杯ずつ飲みながら勉強していた。10度のタスは、初めて飲んだときは何と言っていいのか言葉が出てこなかった。特に美味しいと思ったわけではないが、何度も飲んでいるうちに癖になるような味だった。
一番美味しいと思ったのは14度のクバサルだった。このビールは、なんと蜂蜜を加えて醸造したというビールで、濃厚な味が冬の寒い中に飲むのに合っていた。あの年の冬は非常に寒く、冷たい普通のビールを飲むのは辛いと思うこともあったのだ。毎回、このレストランに行くたびに、必ず一杯はクバサルを飲んだものだ。最初にするか、最後にするかそれが問題だったのだけど。ちなみにこのビール、チェルナー・ホラの醸造所で開発したものではなく、自宅でビールの醸造をしている人が、自分用に開発したレシピを買い取って生産するようになったものらしい。
そのレストランも今はなく、よく買い物に行くスーパーマーケットの近くにあったピボテーカというチェルナー・ホラのビールを扱うお店も移転してしまって、久しく飲んでいないが、ミニビール醸造所のビールに通じる個性あるビールだった。そういえば、ピボテーカで買った薬草のビールというとんでもない味のビールもあったなあ。さすがに不評だったのか、製品ラインナップからは既に消えているようだけど。
ブルノから30Kmほど北に行ったところにある山間の町チェルナー・ホラでは、すでに1298年にビールが作られていた証拠があるらしい。当時は、意外なことにチェコにも足跡を残しているテンプル騎士団の関係者が生産し消費していたようである。チェルナー・ホラの看板にはこの1298という数字が書いてあるが、もちろんこの時代のビール生産者と現在の会社が直接つながっているわけではない。
共産主義の時代には、国の都合であれこれ変更はあったものの大半は、ブルノの国営ビール製造企業傘下の一工場としてすごし、1990年代中盤に独立したビール会社として民営化されたらしい。それが、2010年にロプコビツというビール会社に買収されてしまった。最近チェルナー・ホラの看板に小さくロプコビツのロゴが入っているのを見つけて、チェルナー・ホラという会社の個性が失われないことを願わずにはいられないと思っていたら、親会社が中国企業に買収されたというのだ。これは、ピルスナー・ウルクエルが南アフリカビールの子会社になっているということを知ったのよりもショックかもしれない。
今確認したら、ロプコビツの傘下には、チェルナー・ホラだけでなく、イフラバのイェジェクや、フリンスコのリフターシュ、プロティビンのプラタン、ウヘルスキー・ブロットの醸造所など、七つのビール会社があるようだ。これがまとめて中国企業に買収されたかと思うと暗澹たる気分になる。チェコの誇りであるビール業界に、こんなに外資を導入してどうするんだろう。株主の効率化の圧力で、伝統的なチェコのビールの美味しさが失われることを危惧するのみである。
ああ、そうか。2000年代に入って増え続けているミニ醸造所付きのレストランは、チェコ人が外資系ビールの増加に対して抱いている危惧の現われなのだ。つまり、チェコの誇りは、共産主義にも、資本主義にも負けずに続いていくということか。
3月30日23時。
チェルナー・ホラにあるホテルは一軒しか出てこなかった。名前が「スラドブナ」、つまり大麦の麦芽を生産するところなので、ビール工場の中にあるのかもしれない。値段はちょっと高めだけど。3月31日追記。