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2016年04月20日

新しいOSなんていらない(四月十七日)



 最近、自宅でも職場でも、コンピュータの電源をを入れると、ウィンドウズ10へのアップデートを促す表示が現れて、いい加減にしろと言いたくなることが多い。最近は、勝手にこの日のこの時間にアップデートを予定するなんて表示も出て、ちゃんと処理しないと勝手にアップデートされそうで、たまったもんじゃない。ウィンドウズなんてやめてしまおうかと思っても、他に使えそうなOSがない。今更、マイクロソフトのあこぎな商売のモデルになったアップルに手を出す気にはなれないし、リナックスは敷居が高いし、日本のトロンは、チェコのコンピューターで使えるかどうかわからないし。

 初めて、コンピューターに触ったのは、今から三十年ほど前、友人が持っていた、おそらく日本の独自規格だったMSXのパソコンで推理ゲームなるものをやったときにさかのぼる。記憶媒体がカセットテープで、読み込みに失敗することも多く、ゲーム自体も、こんなに苦労してまでするかいのあるものではなかった。友人はベーシックがどうこうとか言っていたけれども、興味は持てなかった。
 その後、大学に入ってから高校時代の先輩が使っていた98シリーズに触らせてもらったが、ワープロソフトで文章を書くためにはフロッピーディスク(5インチ)を抜き差しする必要があって、反応も欠伸が出るほどに遅く、これなら手で書いたほうが早いし正確だと思ったのだった。父親が購入したので使ったことがあった同じくNECのワープロ文豪のほうがはるかに使えたので、その後、文章をを書くための機械が必要になったときに、本体を買っただけでは使えず、それ以外にもモニター、プリンター、それにソフトも購入しなければいけないコンピューターではなく、ワープロ専用機を購入することにした、選んだのは現在では凋落してしまったシャープの書院だった。
 文章を書くという目的において、現在までこの書院以上のものは使ったことがない。日本人の中に推奨する人の多かった一太郎にも、もちろん今この文章を書いているワードにも、満足したことがないのは、ノスタルジーも加わった書院の印象が強いからに他ならない。

 さて、本当の意味でコンピューターを使うようになったのは、ウィンドウズ95がブームを巻き起こしたころのことだ。書院は既に手放していたあのころ、機械が必要になったとき、知り合いが95へのアップデート前提で、ウィンドウズ3.1のパソコンを購入したのにあおられて、自分でも3.1のパソコンを購入したのだった。高々、ワードで文章を書いて印刷するためだけに、プリンターまで合わせて、30万円ほど。当時は、新しいものを買った喜びで不満もなかったけど、今考えたら高い買い物だったよなあ。
 そのコンピューターはすぐにウィンドウズ95にアップデートしたが、3.1を使い慣れるほど使っていたわけでもないので、特に不満は感じなかった。その後、新しいコンピューターを買うたびに、新しいバージョンのウィンドウズを使うことになり、2000、98、vista、 7と使い次いできた。そのたびにコンピューターを、あれこれ設定し直す必要はあったけれども、基本的な使い方は変わらなかったので、OSに関しては許容範囲と言えた。

 いい加減にしてほしいのは、ワードの余計な機能が最初からオンになっていることだ。改行を入れると勝手に一時下げになって段落を作るとか、行頭に数字を入れて行末で改行すると、勝手に連番になってしまうとか、勝手に人の日本語を判断して間違っているとクレームをつけてくるとか、そんな編集補助機能は、どうしても必要な人が追加で設定するものであって、最初から使えるようになっていて便利でしょう、すごいでしょうという感じで威張られても、ちっともありがたくない。文章を書くのにはリズムがあって、改行を入れた後に、一時下げのスペースを入れるのも、ちょっと前の部分を読み返して間違いに気づくのも、そこに含まれるのだ。
 だから、新しいコンピューターを手に入れて最初にするのは、毎回ワードの余計な設定を解除することなのである。しかも何年に一回かしか操作しないことので、やり方を忘れていたり、バージョン違いで操作が微妙に変わっていたりで、無駄な時間を費やしてしまうことになる。それに、チェコで買ったコンピューターを使い始めたときには、日本語版のウィンドウズ2000で作ったワードのファイルを、チェコ語版のウィンドウズ98上で開くと書式が微妙に変わってしまうのにも悩まされた。特に読み仮名や表などがずれてしまって、修正に多大な時間を取られた。

 とにかく便利は便利な機械であるけれども、機械に振り回されている気がしてならなかった。その機械ごときが何様のつもりだという怒りが爆発したのが、職場のコンピューターが新しくなりウィンドウズ8に初めて触れたときだ。これまでのウィンドウズとは操作性がまったく違っているのだから、ウィンドウズを名乗るなとまで思ってしまった。
 結局、そのままでは使う気になれなかったので、フリーウェアでウィンドウズ7風にカスタマイズしてくれるものを見つけ出して、インストールすることで何とか仕事に使えるようになった。快適に仕事ができるように新しいコンピューターにしてくれたのだろうが、そのコンピューターを使うために大きなストレスを感じるのでは、本末転倒である。一度は古いコンピューターを再度引っ張り出そうかとさえ思ったのだ。
 やはり、OSは軽くて余計な機能は付いていなくて基本的な部分では変わらないほうがいい。OSになくてもいい機能はアプリケーションを使うか、必要だと感じる人が追加するようなシステムにしてくれればいいのだ。電源を入れてから使えるようになるまでの長さが、ソニーのリーダーに200冊以上の本が入っているときと大差ないと言うのは、遅すぎる。

 そして、執拗に繰り返されるウィンドウズ10へのアップグレードの要求は、押し売りと言う言葉を思い出させる。金は取らないのだから押し売りではないと言うのなら、嫌がらせである。訴訟大好き社会のアメリカで、誰か仕事の効率が下がったとか言って裁判起こしてくれないかな。一応ネットで調べて、アップグレードの表示が出ないようにする対策をしてみたが、効果のほどはわからない。これで効果がなかったら、ウィンドウズなんてやめてやると思っても、上にも書いた通りほかに選択肢がない。仕方なく、本当に仕方なく使っているのだから、マイクロソフトには、もう少し謙虚になってもらえないものかね。
4月18日23時。







posted by olomoučan at 06:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2016年04月19日

政治家の日本語(四月十六日)


 作家の丸谷才一氏が書いた日本語に関する本の中に、「総理大臣の日本語」と題する一節があって、当時の総理大臣田中角栄氏の著作『列島改造論』を俎上にあげていた。確か、こんな空疎な文章を一国の首相が書くのかと批判し、いわゆる角栄節が感じられないから、実は本人が書いたのではなくゴーストライターがいるんじゃないかというのが、主な内容だった。文学者ならぬ身には、書かれた文章を読んで評価するなんてことはできそうもない。

 さて、最近、日本の安倍首相の発言を、テレビのニュースで見る、正確には聞く機会が何度かあった。衝撃的だったのは、内容ではなく、ちゃんと聞き取れないことだった。何を発言しているかは、チェコ語の字幕があるから問題ないのだが、同時に耳に入ってくる日本語が、何を言っているのか理解できなかった。日本人が出てくるニュースを見る意味の一つは、チェコ語の字幕と耳で聞く日本語を比べてチェコ語の学習に役立てるところにあると言うのに、まったく使えなかった。
 一般の人がインタビューを受けて、しどろもどろな答を返したり、記者会見でしゃべるのになれていない人の発言が、声が小さすぎて聞き取れなかったりというのはしかたがない面がある。しかし、しゃべることが仕事の一部である政治家の言葉が聞き取れるレベルにないというのは、ちょっと勘弁してほしい。正直な話、チェコの元外務大臣であるシュバルツェンベルク氏のチェコ語と同レベルで聞けなかった。シュバルツェンベルク氏の母語はドイツ語であるし、チェコ人たちには聞き取れるらしいのである。

 それでか、と納得したのが、日本のテレビの画面のうるささだ。ニュースなどでも誰かの発言が流れると、必ず字幕、それともテロップっていうのかな、が入る。明瞭なしゃべり方で字幕なんかなくてもいいような発言であっても、文字が画面に浮かび上がるのである。チェコテレビだと、チェコ語の発言は、電話などを通じての聞き取りにくい場合にだけ、字幕が入るのだけど。そうか、聞き取りにくい発言にだけ、字幕をつけたら、この人の日本語は聞き取りにくいとテレビ局が判断したことになって、字幕を付けられた政治家から批判されることになる。だから、誰彼かまわず字幕をつけてしまうというわけか。それが広まって、バラエティ番組あたりで乱用するようになって、見るにたえない画面が生まれたと言うことなのだろう。テレビの、しかも即興性を尊ぶはずのバラエティー番組で文字を乱用するのは、テレビの存在意義を否定するようなものだと思うのだが、どうせ見ないからどうでもいいか。
 確かに、過去には「言語明瞭意味不明瞭」などと批判された首相もいたし、あの人の話も決して明瞭に聞き取れるものではなかったような気がする。安倍首相に限らず、日本の政治家のコメントがチェコのニュースで流れると、何を言っているのかわからないことも多い。声が小さいからではなく、発音が不明瞭で耳に届かないのだ。政治家、少なくとも大臣や、首相となって、国を代表して発言する人たちには、見た目よりも、しゃべり方に気を使ってほしい。大きな声で勢いよくしゃべっていれば伝わるというものではない。特に今回のような自然災害が起こったときには、しゃべり方一つで、人々を落ち着かせることも、不安を感じさせることもできる。

 それで思い出したのが、東日本大震災のときの枝野氏である。地震直後の政府を代表してあれこれ自分でもわかっていないことを発表していたときの姿ではなく、その後のラジオ番組での枝野氏の話し方は素晴らしかった。発音、滑舌、間の取り方など玄人はだしで、近年レベルの低下の著しいNHKの一部のアナウンサーなどより聞きやすいぐらいだった。震災直後の話しぶりから考えると、おそらく話し方の訓練をして番組に臨んだのだろう。落ち着いた語り口で、聞く人にわかりやすく伝えようとする姿には、感心させられた。
 将来は、枝野氏のような、きれいな日本語で聞きやすい話し方のできる人に、世界に向けて日本を発信するような立場に立ってほしいものである。政治的にどんな主張をしているのか、どの政党にいるのかなんてことはどうでもいい。顔で政治家を選ぶなんて見た目重視の投票をする人もいるし、耳への響きで選ぶ人がいてもいいじゃないか。90年代中盤以降、どの政党が政権をとっても、目くそ鼻くその差異しかないことを、証明してしまったのが日本の政治なのだから。国外在住の身では選挙権を行使する機会もなく、何を言っても無責任な発言になってしまうのだけど。
4月17日15時30分。


posted by olomoučan at 06:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2016年04月18日

原子力発電(四月十五日)



 この問題に関しては、自分の中でも考えがまとまっているとは言えないのだが、考えていることを垂れ流しに書いててみる。そこから何か見えてくるものがあるかもしれない。

 昔、原子力発電が、石油に代わるクリーンなエネルギーとしてもてはやされていたころは、原子力を推進する連中にものすごく違和感を感じていた。そもそも、将来石油がなくなるというのが眉唾物だったし、産油国が原油の価格を上げるために意図的に広めているものにしか思えなかった。本当に、数十年後に、枯渇するのなら、毎年残りの年数が減りそうなものなのに、いつまでたっても減らなかったし。考えてみたら、最近はそんなこと言われなくなったなあ。産油国の大油田が原油を採掘しつくしたなんて話も、本当はあったのかもしれないけど、聞いた覚えがない。だから、特に石油に代わるエネルギーなんて要らないんじゃないのなんて考えていた。
 それに、太陽電池の発電効率が非常に悪いこと、その効率がなかなか上がっていかないことを知らなかったから、原子力ではなく、太陽光発電こそ、将来のエネルギーだろうと思っていた。太陽光発電が普及した結果、現在のドイツやチェコの醜悪な状況が生まれるだなんて、思ってもいなかったのだ。
 核エネルギーという危険なものを扱っているというのに、安全が強調されるのもなんだか気持ちが悪かった。どんなに万全を期しても、危険なものは危険であろうに。もっとも、この原子力は安全でクリーンなエネルギーという主張は、反対派が声高に危険だ危険だと叫んでいたことに対する反論だったのかもしれないが。
 地球温暖化にも懐疑的だったから、クリーンなエネルギーというのもピンと来なかった。石油を燃やす火力発電では、二酸化炭素以外にもいろいろ出るのだろうけど、そこまでは考えが回っていなかった。

 その一方で、原子力反対の意見にも、賛成しがたいものがあった。原子力発電に関しては、ある種の都市伝説がつき物である。冷却水の排水口の周囲の生態系がおかしくなって変な生物が生息しているとか、原子力発電所の放射能を浴びそうな危険な職場では、日本人でなくアジアのどこぞの国から連れてこられた労働者が働かされているとか、そんな話をどこまで信じていいのかわからなかったし、そんな話を元に原子力発電はやめるべきだといわれても、賛成のしようもない。
 広島、長崎を経験した日本が、核エネルギーを使用してはいけないという主張には、心情的には賛成できないわけではなかったが、それを言ってしまったら議論にならないところがある。それに科学技術をこの手の感情論で判断するのは間違っているような気がした。
 結局、原子力発電への批判で説得力を持っていたのは、原子力発電所を受け入れた自治体に多額の補助金が流れ込み、その結果自体に規模に不相応な稼働率の低い施設が乱立していること、一度原子力発電所を受け入れた自治体が補助金欲しさに次を誘致してしまうことを批判したものと、そんなに原子力発電所が安全だというのなら東京の真ん中に建てろという主張ぐらいだった。冷却水の問題から、実際に東京に建てるのは難しいだろうけど、確かに東京電力が、電気を提供している関東地方に原子力発電所を建設していないのは、怪しいことではあった。

 そして、福島の爆発事故の後、世論は一気に原子力発電反対に傾き、原子力発電所廃止の声が高まるのだが、そんなに単純でいいのだろうか。確かに日本人の大好きなドイツは、原子力発電所をすべて廃止することを決定した。しかし、パニックも覚めやらない中でエネルギー政策という国の根幹にあたることを、短絡的に決定したのに幻滅するなら理解できるが、それを高く評価するのは間違っていないか。私はあれでドイツに対する幻滅が更に一段と進んだのだが。
 かつて、スウェーデンだったか、北欧のどこかの国が、国民投票で原子力発電の使用をやめることを決定し、新たに建設するのをやめ、現在稼動しているものは耐用年数が来るまで使うという決定をしたと記憶する。こちらを高く評価するのならわかる。問題なく稼動しているものを、大した議論もなしに廃止と決めてしまうのは、あらゆる意味で無責任である。エネルギーの面でもEU内の結びつきが強くなってしまった現在、ドイツの原子力発電所の廃止が影響を及ぼすのは、ドイツ国内だけではないのである。

 ところで、東日本大震災で、あれだけの地震と津波に襲われた東北地方で、問題を起こしたのが福島の一つだけだったというのは、実は日本の原子力発電所の安全対策が高いレベルにあることを示しているのではないのだろうか。危険極まりない核エネルギーを扱う以上、どれだけ安全対策をとっても危険を完全にゼロにすることはできないだろう。それは、原子力発電所を建ててしまった国が、将来にわたって引き受けていかなければならないリスクである。
 現在停止中の原子力発電所の再稼動を巡って議論が行われているが、知りたいのは、原子力発電所は停止していれば安全なのか、稼働中と停止中で安全性にどのくらい違いがあるのか、ということである。停止中であれ原子炉の中には放射性の物質はあるはずである。例えば、川内原子力発電所の再稼動に反対する声の中に、桜島が大爆発を起こして溶岩が発電所に流れ込んだ場合を心配するものがあったが、その場合、稼働中と停止中でどのぐらいの差があるのだろうか。正直な話、川内まで被害を及ぼすような桜島の激しい噴火が起こったとしたら、稼働中であっても停止中であっても大差はないような気がする。

 原子炉から出る核廃棄物の最終処理の方法も決定していないところで、原子力発電所の廃止を決定して、解体できるのだろうか。それとも解体しないでそのまま放置するのだろうか。そのうち予算を理由に最小限の保守もしないままに、本当に放置されるようになって、やがて建物が崩壊する未来図が頭に浮かんでしまう。稼動させても停止させても、山積する問題に突き当たる袋小路に入り込んでしまった観もある。
 結局、推進派も反対派も、初めに結論ありきの議論をしているのが問題なのだ。この批判は、反対派が推進派を批判するときに使われることの多い言説だけど、傍から見ていると、反対派の議論も初めに結論ありきでしかない。双方の議論がまったくかみ合っていないのは、見るにたえないので、稼動させるにせよ、廃炉にするにせよ、もう少し建設的な議論を経て最終的な結論を出してほしいものである。どちらを選んでも茨の道が待ち受けているに違いないけど。
4月16日23時。


 自分で読み直しても意味不明な、中途半端なものになってしまった。結局、今の日本での議論を見ていると、推進派も反対派もどっちもなんか嫌という感情論なのだけど、それに無理やり理由を見つけてみたらこうなったというお話。4月18日追記。





posted by olomoučan at 06:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2016年04月17日

地震雑感(四月十四日)


 以前もちょっと触れたような気がするが、チェコの原子力関係の報道は極めて正確である。解説のために登場するのは本物の原子力の専門家で、事実に基づいた説明は説得力にあふれている。ヒステリックに原子力発電反対を叫ぶような、自称専門家が登場することはない。福島の原子力発電所の爆発の際にも、正確な発言でパニックを抑えていた。

 それに対して、不満なのは地震に関する報道である。チェコでは地震など起こらない、いや起こらないわけではないが、被害がほとんど出ないため、細かい情報が必要ないのかもしれない。震度はおそらく日本独自の基準なので、なくても許そう。でも地震に関する情報が、マグニチュードだけというのは問題である。チェコの人の中には、マグニチュードが大きければ大きいほど、揺れも被害も大きくなると思っている人もいそうである。
 だから、大きな地震で被害が出たというニュースを見ても、震源や震源の深さなどの情報が足りないので、揺れが大きかったから被害が大きかったのか、建築物が耐震構造じゃなかったから被害が大きかったのかさっぱりわからない。わかったからどうなるというものでもないのだが、日本の地震報道に慣れていると、情報の少なさに不満を禁じえないのである。
 そう考えると、震度という発明は、素晴らしいものであったのだなあ。外国の地震にも適応されないものだろうか。ヨーロッパでも地震の多い国ならマグニチュードだけでなく、揺れの大きさを知りたいと考える人々はいそうな気はするのだけど、チェコ以外のほかの国のことは知らない。
 実際にその場にいなくても、震度のおかげで、大体どのぐらいの揺れだったのか、過去の経験から想像することができる。いや、私が経験したのはせいぜい震度3から4ぐらいまでだけど、中学校の理科で習った震度についていた「烈震」「強震」などの言葉と、「家屋が倒壊する」などの説明を思い出せば、被害はある程度想定できる。いや、想定できると思っていた。

 2011年の東日本大震災が起こったときも、チェコのニュースではマグニチュードを伝えるだけだったが、インターネットで各地の震度を確認して、震度7が出ているのに驚いた。これは、たしか阪神淡路大震災の後に新しく設置されたカテゴリーではなかったか。震度3か4でも、当時住んでいた家は軋みを上げ、天井が落ちてくるのではないかという恐怖に震えたのだ。震度6や7に襲われた地域では、家屋の倒壊が相次いでとんでもないことになっているのではないかと思った。阪神淡路大震災のときの高速道路の高架の倒壊が頭にこびりついていて、あれ以上の壊滅的状態を想像して、暗澹たる気分になってしまった。
 それが、今回の熊本での大地震もそうだけれども、意外と倒壊している家屋は少なかった。こんなことを言うのは、地震で被害を受けた方々には、申し訳ないけれども、意外なほど被害が小さいことにほっとしてしまった。東日本大震災に関しては、言ってもせん無きことながら、津波さえ来なければ、今回は本震と同程度の余震が繰り返さなければ、被害は格段に少なかったはずである。
 当時、オロモウツにいた宮城県の人に話を聞いたら、自宅は二段組のたんすの上段が落ちていたぐらいで、大きな被害はなかったと言っていた。自宅を新築する際に、工務店の人の勧めで当時最新だった耐震工法を使うことにしたらしい。高かったけれども、あの時、お金を出しておいてよかったとは、その方の言葉だが、阪神淡路大震災を機に、日本の耐震建築は格段と進歩を遂げたようだ。

 日本では地震慣れして、多少の地震では被害が出ないことが当然のようになっているけれども、実はものすごいこと、ある意味で奇跡的なことなのではないだろうか。過去に起こった地震の悲劇を繰り返さないこと、被害、犠牲を無駄なものにしないことを目標として、これだけ地震に強い社会を作り上げたことこそ、誇るべき日本である。クールジャパンだか何だか知らないが、アニメだのマンガだのは、放っておいても関心を持つ人は出てくるのだから、これだけ地震に強い社会を作っておいて、なお被害を減らすために対策を積み重ねていく日本の姿を発信してほしいと、外国在住の日本人としては強く思う。
 世界各地で地震で建物が倒壊して大きな被害が出ているのを見るたびに、日本だったら、ここまでの被害は出なかったのではないかという思いを抑えきれない。結果の出ない地震予知はほどほどにして、日本以外にもある地震地帯に、耐震技術、地震対策を伝えていけないものだろうか。日本の技術がどこでも使えるというわけではないだろうから、それを現地に適応させる研究などにも支援を与えていく必要があるだろう。もし、すでにそのようなプロジェクトが進行していると言うなら、それを拡大して、情報を世界に発信してほしい。それは、世界に恥をさらし続けている東京オリンピックを開催するよりもはるかに価値のあることである。

 そして、今回の熊本の地震を受けて、東日本大震災のときと同じように、自然への敬意や感謝を忘れた日本人への警告だとか妄言を吐くやつらが出てきて、それに同調する愚か者も続出することだろう。冗談ではない。人間の敬意のあるなし如きで自然の動向を左右できると考えているお前らのほうが、自然に対する敬意を欠いているのだ。人間の手で地震という自然災害をどうこうできると思っている時点で、自然に対する冒涜だとしか言えない。我々ちっぽけな人間にできるのは、せいぜい地震の恐怖に震えながら、それでも前を見て生き続けることだけである。

 余震が続いているらしい熊本の地震が、できるだけ早く収束に向かい、これ以上犠牲者が増えないことを願うのみである。
4月15日22時。

 東北のときにも思ったが、どうして大地震のあとには天気が崩れるのだろうか。今後は、震度6の地震が連続しても耐えられるような耐震建築と、その後の天候の悪化に対応できるような建築を生み出すことが、東京オリンピックで懐の潤う建築業界に課された課題ということになる。4月16日追記。






posted by olomoučan at 07:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2016年04月16日

一体何人? その二(四月十三日)



 最近、以前にもまして、何を書くか悩むことが多い。ネタはあるのだけれども、それで、量的な意味に一つの記事になるのか、確信がなくあれこれ考えているうちに、無駄に時間を通夜してしまっている。それでは、さっと書き始めてさっと書き終わる練習という本来の計画からの逸脱が大きすぎるので、分量が少なくなってもいいことにしよう。いや、今書いている分量が当初の計画と比べると多すぎるのだ。と言うことで、その一を書いて以来、忘れていたこのテーマから。

 精神医学のフロイト、現象学のフッサール、音楽家のマーラー、文学者カフカ、遺伝の法則のメンデルなどなど、チェコに来るまではドイツ人だと思っていた人たちが、実は現在のチェコの出身であることを知った。しかしこの人たちは自分を何人だと意識していたのだろうか。例えば、チェコ人の父、オーストリア人の母から生まれ、パリでの生活も長かったヤラ・ツィムルマンも何人と決めがたいが、自らをチェコ人たと認識していたという。
 フロイトとフッサールは、チェコとほとんど関係がないようだから、チェコ人だという意識はなかっただろう。マーラーは、ウィーンのドイツ人の中で疎外感を感じたりもしていたようだから、微妙なところか。カフカは、プラハに住んでプラハでドイツ語で作品を書いていたわけだし、チェコの人は、特にプラハの人は自分たちの作家だとみなしているわけだけれども、はやり本人の意識としてはユダヤ人だったのかな。

 この点で、最近、気になるのが、高校の世界史で、三十年戦争のところで勉強したワレンシュタイン将軍である。ボヘミアの傭兵隊長とか何とか書かれていたのは覚えているし、ボヘミアが現在のチェコの西三分の二を占める領域であることはわかっているのだが、実感としてそれが意識できるようになったのはチェコに来てからである。
 ワレンシュタインはボヘミアの小貴族の出身で、軍事的な成功を収めて軍内での地位を高めるとともに、婚姻を通じて貴族としての地位も向上させていったと言われる。そしてたどり着いたところが、フリードラントの公爵という地位である。フリードラントは、プラハから北東、ポーランドとの国境にも近い小さな町だが、公爵領の中心都市となったのは、フリードラントではなく、よりプラハに近いイチーンという町だった。
 ワレンシュタインはイチーンの町の改築計画を立て、城館も自らの居館として改築するなど、イチーンの発展に大きく寄与した。半ば独立国と化していたフリードラント公爵領は、ワレンシュタインが西ボヘミアのヘプで暗殺された後、崩壊してしまい、イチーンの町の改築計画も完成を見ることはなかったが、イチーンの人たちにとっては郷土の偉人であるようだ。街の中心となる広場にも、城館にもワレンシュタイン広場、ワレンシュタイン城という名前がつけられており、城館の中に入っている地域博物館の展示においてもワレンシュタインは重要な役割を果たしているらしい。

 では、ワレンシュタインはチェコ人だったのかどうかという点だが、なんとも答えの出せない問題である。以前も紹介した「もっとも偉大なチェコ人」に選ばれたカレル四世は、ワレンシュタインと同じくドイツ系の貴族家の出身だが、チェコ人として選ばれている。上位百人には、マリア・テレジア、ルドルフ二世など、一般にはドイツ人、もしくはオーストリア人だと考えられている人たちも入っているのに、ワレンシュタインの名はない。宗教戦争の時代に、ボヘミア出身でありながら、カトリック側に立って参戦したことが、忌避される理由になっているのだろうか。
 ワレンシュタイン自身がどう考えていたかとなると、ちょっと想像のしようがない。フリードラント公爵領が半独立国だったといわれることを考えると、チェコ人でもドイツ人でもない第三の道を目指していたのではないかと思わなくもないが、それは今となっては知る由もない。ただ、当時の貴族に求められる素養として、領民の言葉を身につけるのは必須だったらしいので、ワレンシュタインもチェコ語はできたはずである。多くの領民が領主の言葉を学ぶよりも、数少ない領主一族が領民の言葉を学ぶほうが効率がいいという考えなのだろうか。カレル四世がドイツ系でありながらチェコ人としてみなされるのは、チェコの国家に貢献したからだけではなく、チェコ語ができたこともその理由のひとつになっているはずだ。
「人間は使える言葉の数だけ人間である」というチェコのことわざ(コメンスキーの言葉だと思っていたのだけど違うみたい)に則れば、チェコ語ができればチェコ人、ドイツ語ができればドイツ人ということでいいだろう。ことわざの解釈が正しいかどうかはわからないが、ワレンシュタインはチェコ人だった。いやチェコ人でもあったというのを結論にしておこう。

 もう一人、気になるのが、ウィーンの音楽家一族シュトラウス家の誰かが功績を讃えるために行進曲を書いたラデツキー将軍である。典型的なチェコ語の地名を基にした形容詞が名字になっていることから、チェコ系の貴族であることは間違いない。「ラデツ」は、おそらく「フラデツ」の最初の「H」が落ちたものだろうから、この一族はフラデツ・クラーロベーに関係するに違いない(いや、違うかもしれないけど、断言しておく)。
 この人も、本人の意識はともかく、チェコ人でいいのだろうけれど、最近ヤラ・ツィムルマンが書いた(ことになっている)戯曲『チェコの天国』をテレビでながら見していたら、コメンスキーや聖バーツラフなどで構成されるチェコの天国評議会に、ラデツキー将軍が登場して、オーストリアの天国の代表として振舞っていた。戯曲が書かれた(ことになっている)時代を反映して、チェコの天国は機能を停止して、ハプスブルク家の天国に吸収されるべきだというようなことを主張していたんだったかな。つまり、戯曲では、チェコ人でありながらオーストリアについた裏切りもの的な扱い方をされていたのである。
 過去の人物に対する評価というのはなかなか難しいものがあって、当時の事情も何も知らない人間が、批判も評価もするべきではないのは重々承知の上で、ラデツキーもチェコ人であったと言っておく。だって、毎年オロモウツでラデツキーを記念した式典が行われているし、オロモウツがチェコ人ではない人物の式典を行うなんて考えたくもない。
4月14日18時。



posted by olomoučan at 06:28| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年04月15日

チェコのビザ申請を巡る問題、あるいは、ふざけんな、チェコその2(四月十二日)



 三月の初めに、一年の予定でチェコに来る予定だった人が、なかなか来ないので連絡をしてみたら、ビザの発給が遅れていて出発できないとのことだった。それから更に時間が経って、ビザがなぜか発給されなかったという連絡を受けた。日本の人がビザをもらえなかったという話は、初めて聞いたので、ちょっとその事情を探ってみることにした。
 最初は、その人が以前しばらく外国に滞在していたために、その滞在していた国の無犯罪証明を提出する必要があり、それを提出しなかったために書類不備で発給が認められなかったのだろうと言われていた。しかし、本当に必要な書類であれば、申請書に外国滞在について記載してあれば、日本のチェコ大使館が受付の際にチェックをして、追加で書類を提出するように求めるはずである。申請書に外国での滞在を記載しなければ、チェコ国内で審査する時にも、外国滞在の事実を知ることはあるまい。つまりそんな書類など必要はなくなる。まあ、日本のチェコ大使館が不親切だったという可能性もなくはないのだが。

 先日、チェコ側からビザが発給されなかった公式の理由が書かれた書類が届いたというので、お願いして送ってもらった。チェコ語ができない日本人に、チェコ語で書かれた理由説明書を、そのまま何の説明もなしに送りつけたらしいチェコ大使館の対応も信じられないものであるが、ビザが下りなかった理由を読んで、さすがにそれはないだろうと、いやふざけるなと思ってしまった。
 書類に書かれていたビザが下りなかった理由は、滞在中の生活費をまかなえることを証明する書類である銀行の残高証明書の残高の額が足りなかったことだった。理解不能な法律が引用された部分によると、法律で規定された「生存のための最低限度額」というものが存在して月額いくらと決められているらしい。そして、ビザを申請するものは、最初の一ヶ月に関しては、十五ヶ月分、それ以降一ヶ月増えるごとに二ヶ月分加算した額を持っていることを証明しなければいけないと言うようなことが書いてあった。ただし、チェコ人もよくわからんと言っていたので、この解釈が正しいかどうかはわからない。
 最悪だったのが、「生存のための最低限度額」がいくらなのかも、この人の場合いくら必要だったのかも、まったく書かれていないことで、日本円でこれこれということは、現在のレートで言うとこの額になるから、滞在期間の生活費をまかなえるとは言えないと結論付けていた。しかし日本人が、自分で適当にこのぐらいで足りるだろうからで、銀行の残高を設定するはずはない。大使館からの指示で最低限必要な額を超えるように調整しているはずである。

 本人に確認してみたところ、日本のチェコ大使館のHPのビザ申請の説明のページに、最低三十万円と書いてあったらしい。そちらをチェックしてみると、5,5000コルナというのが、半年分として必要な額で、これを為替のレート変更などのリスクを考えて換算し三十万円という額を提示しているらしい。しかし、書類には預金をコルナに換算すると7,0000コルナぐらいになると書いてあったのだ。何が問題だというのだろう。

 再び理由説明書に目を戻す。申請書に書かれた滞在期間が約一年の予定になっていること、受け入れの書類も、住居の書類もすべて一年の期限で出されていることをあげつらっている。ということは、あれか。ビザは最長でも半年分しか出さないのに、滞在費用は一年分用意しろってことか。ふざけんなである。でも、今まで問題になっていなかったのは、何故なのだろうか。担当者が変わったとかそんなところだろうなあ。チェコだし。

 それで、最近チェコに来た人で、現在ビザを申請中の人にビザがどうなったか聞いたところ、預金残高が足りないから額を増やして証明書を再提出するように言われたという。この人は、ウィーンのチェコ大使館で申請したのだが、日本にあるものより、オーストリアにあるチェコ大使館の方が親切ってのはどういうことなんだろう。
 最近、日本のチェコ大使館のビザ関係の人って、評判悪いんだよなあ。対応がつっけんどんで不親切で共産主義時代の役人みたいだとかなんとか。以前は、もう廿年近く前になるけど、親切なチェコ人の女の人がいて、細かいところまで指導してくれたんだけど。サマースクールの奨学金がもらえたのもある意味あの人のおかげだったし、名前なんだったかな。それはともかく、外国の大使館に雇われた日本人が、他の日本人に対してむやみやたらと威張っているのは昔から変わらないということか。

 話を戻そう。そのウィーンで申請中の人の話では、8,5000コルナ相当額が必要だと言われたらしい。ただ、その後、書類の原本を提出する前にビザができたから取りに来いと言われたとも言っていたので、以前の額でよかったということなのだろうか。チェコの役所の困るところは、担当者によって恣意的な決定をすることがあることで、前例無視してるだろお前、と言いたくなることも間々あるのだ。その点オロモウツだと問題があれば事情を説明してくれて対策が取れるんだけど、今回のビザの決定はプラハで下されているから、説明不足でも当然なのか。

 改めてまとめておこう。

1)チェコのビザは、滞在予定が一年でも二年でも、最長で半年分しか発給されない。
2)日本のチェコ大使館では、半年分の滞在費として三十万円=5,5000コルナ必要と言っている。
3)チェコの法律によれば、必要な滞在費の計算式は、恐らく、次の通り。
  15n+2n(m−1)=13n+2mn
   ※n=生存のための最低限度額。m=月数。
4)滞在予定期間半年の場合から、一月あたりの生存のための最低限度額を算出すると、
  13n+2×6n=25n=55000 n=2200
5)滞在予定が半年ではなく、一年の場合には、滞在費として一年分の額を要求されることがある。
  その場合予想される額は、数式から2200×37=81400コルナである。
6)一年分の滞在費として、ウィーンのチェコ大使館から出た85000コルナという数字がある。
7)ウィーンでは額を増やした残高証明送付以前にビザが発給された。

 以上のことを考え合わせると、一年の滞在予定でビザを申請する場合には、二つの対策が考えられる。

 一つは、申請書の滞在予定期間や出国予定日に、入国から180日で出国するように記入する方法。その場合、受け入れ先の証明書や住居証明なども半年で出しておいたほうがいいかも知れない。

 もう一つは、単純に滞在費として銀行に入れる額を増やすことである。その場合、いくらにするかが問題になるのだが、ウィーンの情報を信じれば、85000コルナを円換算して、四十万円ちょっと、余裕を見て五十万円、もしくは、大使館で出している半年三十万円を単純に二倍して六十万円というところだろうか。

 ウィーンでの事例から、滞在費が一年分なければビザが認められないというのは、一時的な現象だった可能性もあるが、また突然、運用が変わる可能性は大なので、安全のためにも、大使館の勧める三十万円ではなく、金銭的に問題がなければ五十万円から六十万円で、残高証明を出しておいたほうがいいだろう。

 これまで十分に機能している制度の無意味な変更や、運用の恣意的な変更はやめてもらいたいものである。それでも、こういうのを予告も、移行期間もなしにやってしまう、これこそがチェコであると言えば、まったくその通りなのであるが。
4月13日14時。



 この情報がチェコのビザを申請する人の役に立てば嬉しい。ホテルはあってもビザがなかったら意味がないし。4月14日追記。



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2016年04月14日

スカンゼン、あるいは野外博物館(四月十一日)



 伝統的な建築物を一ヶ所に移築して保存し一般に公開するスカンゼンという発明は、北欧でなされたものだと聞いている。明治時代の建築物を集めた日本の明治村もスカンゼンといえるのかもしれない。チェコにも、各地にスカンゼンがあって、家屋などの伝統的な建築物だけでなく、室内の家具や農具なども見られるようになっている。

 オロモウツのあるハナー地方のスカンゼンは、それほど大きくないのだけれど、オロモウツから少し北にいったところにある村、プシーカジにあるらしい。モラビアでも最も肥沃な土壌に恵まれ、経済的にも豊かだったハナー地方の豪農の家が博物館になっており、母屋だけでなく、大きな庭、納屋などを見学することができる。
 これはテレビで見たのだが、ハナー地方の民族衣装は、チェコのほかの地域と比べても、装飾豊かで、襟の高さや靴なども、この地方の経済的豊かさを反映しているという。また独身の人が着るものと結婚した後に着るものが違っているとか、細かいルールがあるらしい。ハナー地方の結婚式の様子を、民族衣装を着た後のリボンなどの飾りつけの仕方も含めて説明していた番組の撮影された場所が、プシーカジの野外博物館で、そこの民族舞踊の団体が、結婚式を実演していたのだった。
 そういえば、一月ほど前に日本の知り合いからNHKの衛星放送の旅番組でチェコが取り上げられて、オロモウツも出てくるという連絡を受けた。オロモウツの何が出てくるのだろうと思って番組のホームページを見たら、民族衣装を着た人たちの写真がオロモウツのものとして出ていた。オロモウツじゃなくて近くの村なんじゃないかな。民族衣装の専門家になると、服を見ただけでどの地方のどの村のものかわかるらしいけれども、私には無理な話である。

 民族衣装のバリエーションの豊富さという意味では、ハナー地方よりも、むしろその南にあるスロバーツコ地方の方が有名であろう。スロバーツコは、乱暴な言い方をすると南モラビア地方の東半分というのが一番わかりやすいだろうか。英語名を日本語訳すると「モラビアのスロバキア」という意味不明な名称になる地域である。主要な町としては、四年に一度スロバーツコの年と呼ばれる民俗の祭典の行われることで知られるキヨフ、初代マサリク大統領の出身地とされるホドニーン、大モラバ国の中心地のひとつだったと言われるウヘルスケー・フラディシュテなどがある。ワインの生産で知られた地方である。
 このスロバーツコ地方のスカンゼンがあるのが、スロバキアとの国境にあるストラージュニツェという町である。この町は、チェコの民俗芸能の中心にもなっていて、毎年チェコ国内だけでなく、世界中から民俗音楽や、民俗舞踊の団体を集めたフェスティバルが行われている。ここのスカンゼンは、広大な土地にたくさんの建物が集められたものである。普通の農家の建物以外にもワイン関係の建物などもあって、入館料とは別にお金を出せばその場で試飲できるなんてサービスも昔はあったんだけど、今はどうだろう。

 そしてモラビアでもう一つ特筆しておかなければいけないスカンゼンは、バラシュスコ地方にある。バラシュスコは、ハナー地方の東、スロバーツコの北にある地域で、南のズリーンから奥に入ったビーゾビツェから、北に向かってフセティーン、バラシュスケー・メジジーチーを経て、ロジュノフ・ポット・ラドホシュテムのあたりまで広がる地域である。山がちな地域で、昔から羊飼いが多く、その羊飼い達が、今ではルーマニアになってしまったバラキア(ワラキアとも)から来たという伝説があることからバラシュシュコと呼ばれるようになったと言われている。方言も独特なものがあるし、ハナー地方やスロバーツコ地方とは違って、家屋に木造建築を使っていた地域でもある。
 バラシュスコ地方の木造建築物を集めて作られたのがロジュノフの野外博物館である。丘の斜面に点在する建物を全部見て回るのは一苦労だった。昔の山村での生活が再現されているので、映画の撮影などにもしばしば使われているようである。また、伝統的な焼き菓子や、工芸品などをお土産として買えるようになっていたんじゃなかったかな。
 この博物館というかロジュノフのそばにあるのが、町の名前にも使われている山、ラドホシュトである。山頂にはスラブ人にキリスト教をもたらしたツィリルとメトデイの兄弟の像と、スラブ神話の豊穣の神ラデガストの像が建っている。ラデガストに関しては、資料が少なく、実際に神の名前なのか、神に関係する地名なのか判然としないらしい。学問的なことはともかく、一般のチェコ人にとってはラデガストという神様の名前は、定着しているのでそれでいいのではないかと思う。ヒュンダイの工場ができたことで知られているノショビツェで作られているビールの名前はこの神様の名前にちなんでラデガストというのだから。ビールのラベルに描かれた神の姿は、豊穣神というにはいかめしい。ラデガストは、実は戦争の神でもあるらしいのである。

4月12日0時30分。


2016年04月13日

イラク難民続報(四月十日)



 以前、チェコに送り返されて、イラクへ戻ることが予想されていると書いた、チェコからドイツに向かったイラクのキリスト教徒たちのグループだが、今でもドイツに拘留されているらしい。ドイツ側とチェコ側でどちらが引き取るかで交渉中だという。チェコ側とすれば、ドイツに行きたいと言ってチェコを出た連中なのだから、ドイツにいてもらうのが一番ありがたいのだ。

 チェコ政府はこの件で、イラクからのキリスト教徒の受け入れプログラムを停止したのだが、当初の予定では、150人ほどの受け入れを予定していた。その選別は既に終わっており、今月にも次のグループがチェコに来るはずだったのだ。それが、心ない25人の振る舞いのせいで、半分ほどの人がイラクに残されたということになる。さらに悪いことに出発は確定だと思われていたため、イラクに所有していた資産はすべて処分し、子供たちの学校も退校の手続きを済ませてしまっているらしい。これ、このままプロジェクトを停止していいのだろうか。
 チェコに残っているイラクから逃げてきたキリスト教徒たちも、今回ドイツに向かった「仲間」の所業には腹を立てているようで、テレビのインタビューに答えて、「あいつらは自分のことしか考えていない利己的な連中だ」と批判していた。チェコのプロジェクトに関わっている人たちは、チェコに来てから心変わりしたんじゃないかと、弁護するようなことを言っていたが、チェコに来て一週間もたたないうちにドイツに行くと言い出したのだ。あまりにも好意的な見方としか言いようがない。いや、自分たちのプロジェクトの遂行に問題がなかったと言いたいだけなのだろう。

 実際、ドイツに向かった連中は、ドイツに住んでいる親類のところに行きたいなどと言っていたのだから、最初からドイツに近づくための手段として考えていたに決まっている。ドイツが受け入れてくれるかどうかについて、正体不明の弁護士に相談していたという話もあるし、ドイツに行きたいと言い出す前のイースターの時期に、ドイツから親類が訪問してきたらしい。そこで何が話し合われたかはわからないが、おそらく ドイツが受け入れれるかどうか、受け入れられるためには何が必要かなどであろう。その話し合いのときの写真を、難民の一人がフェイスブックに公開していたらしい。これで難民の待遇が悪いと言われたら、チェコ政府でなくても腹を立てるだろうなあ。

 そして、もう一人、この件に絡んでいるのではないかと見られている人物がいる。イラク出身のチェコに住んでいる人物で、最初はこのイラクのキリスト教徒のチェコへの受け入れプロジェクトの協力者だったらしい。それが自分の弟を、プロジェクトでチェコに受け入れるリストに押し込もうとして反対され、喧嘩別れすることになったのだという。
 このイラク人は、袂をわかった理由を、プロジェクトの実行団体であるゲネラツェ21の責任者が、緑の党の関係者であることを理由にしている。そしてあてつけのように、反イスラムを叫ぶ、外国人排斥主義者達の集会の特別ゲストとして呼ばれて、嬉々として演説をしていた。オカムラ氏の場合と同じで、チェコ人だけでなく外国人も反イスラムを叫ぶというアリバイ作りの意味で呼ばれたに過ぎないと思うのだけど、本人が喜んでいるんだったら、それでいいのか。
 この人物は、喧嘩別れをしたにもかかわらず、チェコにやってきたイラク人たちの歓迎の場などにも顔を出して、チェコに住むイラク人代表のような顔をしていた。そこで、ドイツ行きを希望する集団に接触して、いらんことを吹き込んだのかもしれない。正体不明の弁護士がこの人かどうかはともかくとして、ドイツから親類が来るのが早かったことなどを考えると、チェコ側に協力者がいたことは間違いない。
 結局この問題で最悪なのは、現在の状況を金儲けや自分の立場の強化のために悪用するEU内の人間がいることなのだ。ギリシャ、マケドニアの国境地帯から難民達が離れようとしないのも、ありもしないデマを広める連中がいるからだという話である。この件に関しては、人間輸送業者だけでなく、現地で取材をしているマスコミ連中や、ボランティアと称して支援活動をしている連中も疑いから逃れ得ないと思う。

 それにしても、と思わずにはいられない。どうして、あと一月、二月待てなかったのだろうか。プロジェクトが成功するにせよ、失敗するにせよ、一期目の受け入れが終わったら、いったん停止して第二期への準備を始めたはずである。その時期に、ドイツ行きを希望していれば、財産を処分してチェコ行きを待っているイラク人もチェコに着ていただろうから、その分問題も反感も少なくてすんだはずなのだが。
 プロジェクトが今後も第二期以降も継続されるかどうかはともかくとして、第一期の残りのチェコ行きの準備の済んだ人たちだけでも、チェコに受け入れられるようになってほしいものである。特に、すでに家族の一部がチェコに来ている人についてだったら、特別に便宜を図る価値はあるのではないだろうか。
4月11日12時。






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2016年04月12日

チェコ−オーストリア(四月九日)



 昼食後にテレビを見ていたら、オーストリア代表とチェコ代表のハンドボールの試合が始まった。世界選手権出場をかけたマケドニアとのプレイオフに向けた調整のための親善試合で、木曜日にはオーストリアで試合をし、今日は南ボヘミアのトシェボーニュで試合が行われた。木曜日の試合では戦前の予想に反して、チェコが一点差で勝ったらしい。
 チェコもオーストリアも、ヨーロッパの中では典型的な中堅国である。ヨーロッパ選手権や世界選手権には出場できたりできなかったりで、出場できても四チームからなる一次リーグで敗退か、運がよければ二次リーグまでいけるかという感じのチームである。だから、今日の試合も大接戦になるだろうと思っていたら、その通りだった。

 チェコ代表のGKには長きにわたって、シュトフルとガリアというドイツリーグで活躍する大ベテラン二人組が君臨してきた。一つの試合で二人とも調子が悪いということは滅多になく、チェコ代表がしばしばドイツ、フランスなどの強豪チームに善戦したり勝ってしまったりするのは、この二人のどちらかが大当たりをしたときに限るのである。
 それが、この試合では、久しぶりに若手の登用ということでムルクバが出場していた。シュトフルが病気だというのもあったらしいが、やはり親善試合で若手に出場経験を与えておく必要があると監督達が考えたものだろう。ムルクバは前半はオーストリアのGKの活躍の陰に隠れてそれほど目立たなかったが、後半に入ると調子を上げて、チェコが最終的に三点差で勝利した立役者になった。後半オーストリアに9点しか取らせなかったのは、ディフェンスがよかったからではなく、完全にキーパーの功績だった。

 両サイドは、現在監督のヤン・フィリップ、代表マネージャーのカレル・ノツァルがいたころが懐かしいなあ。ユルカもフルストカも悪い選手じゃないのだけれど、いまひとつ安定感に欠ける。結局サイドで今日一番の活躍をしたのはベテランのソボルだったし。
 ポストはオロモウツ出身でフランスリーグで活躍したユジーチェクの引退後は、いろいろな選手をとっかえひっかえしてきたが、ようやく代役と呼べそうな選手が出てきた。プルゼニュからポーランドのチームに移籍したレオシュ・ペトロフスキーは、最初にチェコリーグの試合で見たときには、太りすぎと言うとよくないので、上半身の重さを下半身が支えきれていないような不安定感があった。いくらスピードよりも体重を生かした動かないプレーが必要なポストプレーヤーでも、代表に呼ばれた試合を見る限り、もう少し体重を落とすか、下半身を強化したほうがいいだろうと思われた。それが、今日のプレーを見る限り、重量感はそのままに、動きにメリハリがついてきた感じで、これが強いチーム相手にもできれば、しばらくポストはこいつ中心でいけそうだ。試合開始当初はボールが手についておらずミスを繰り返したのに、後半に出てきたときにはきっちり修正していたのも評価できる。

 センターに関しては、現在大砲が二枚欠けている。イーハとホラークがいないと、チェコの攻撃力はがた落ちする。ベテランとしてチームを支えてほしいのはステフリークなんだけど、この人のプレーはいまいち迫力に欠ける。この試合ももう代えちゃえよと思いながら見ていたのだが、左利きのセンターの選手がステフリークしかい斐ない現状では、プレイオフやその先のことを考えるとステフリークに復調してもらうしかないんだよなあ。フランスリーグでも、怪我などの影響であまり活躍できていないと言うし。
 意外とと言うと申し訳ないのだが、よかったのが国内のプルゼニュでプレーするシュクバジルだった。イーハやホラークなどの巨体ではないけど、遠目からのロングシュートは迫力十分で、ペトロフスキーのポストプレーが有効になったのも、この人の活躍があったからだ。木曜日の試合で大量に点を取ったのできついマークにあって、そんなに点は取れなかったけど。あとは、密接にマークされたときの突破力がどうかというところかな。本来は、若くしてバルセロナに買われていったカサルが、イーハ不在時のセンター陣を引っ張らなければいけないのだろうけど、十代での代表デビューから数年、思いっきり伸び悩んでいるからなあ。

 対戦相手のオーストリアの選手については、ヨーロッパのハンドボールを追いかけているわけではないので知らない選手ばかりだった。ただ、チェコ人じゃないのと思ってしまうような名前がいくつか出てきて、両国の複雑な歴史を思い起こさせた。バニーチェクは、表記がドイツ語化していて、耳で聞くのと目で見るのが一致しなかったが、イェリネクという名字は、見ても聞いても完全にイェリーネクだった。チェコでイェリーネクといえば、スリボビツェなどの蒸留酒を作っている会社である。バウエルとベーブルは、チェコでもよく見かける名字だけど、こちらは、ドイツ語からチェコに入った名字だと考えたほうがよさそうだ。
 試合のほうは、チェコが三点差で勝ったとしか言えないが、一番よかったのは、両チームともGKだったかな。サイドからのシュートがGKの軸足に当たるとか、速攻からのシュートが連続で止められるというのは、攻めていた側からするとげんなりするのだけど、この試合はそんなシーンをGKたちが連続で演出していた。

 ただ、この親善試合の本来の目的、マケドニアとの試合に向けての準備と言う点ではどうだったのだろう。オーストリアのハンドボールは、北ヨーロッパの強豪チームのような正統できれいなハンドボールだった。正確には、その手のチームには必ずいるイーハ的なスーパーエースは欠けていたけど。そうしたら、監督はアイスランドの人だった。
 しかし、対戦相手のマケドニアは、典型的なバルカンハンドボールのチームである。見ていていらいらするような、ルールぎりぎりの汚いプレーを仕掛けてくるからなあ。スウェーデン辺りに負けると、大敗でも惜敗でも、相手が強かったというすっきりした気持ちで負けを受け入れられることが多いんだけど、マケドニアとかセルビアとか、勝っても後味の悪い試合になることが多いし、負けると何でこんな相手に負けたんだというイラつきしか残らない。
 現有戦力でもオーストリアレベルの相手には互角以上に戦えることがわかったから、イーハとホラークが復帰して、マケドニアを粉砕してくれることを期待しよう。でも、プレーオフっていつなんだろ?

4月10日23時。


 この試合でもう一つ印象的だったのは、何度もタオルでボールを拭いていたことだ。松脂をべたべたに付けすぎてプレーしにくくなっていたらしい。4月11日追記。

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2016年04月11日

ヤボジチコ(四月八日)



 チェコで第二次世界大戦中に、ナチスドイツによって焼き討ちされた村というと、プラハの北西20kmほどのところにあるリディツェが有名である。ロンドンにあったチェコスロバキア亡命政府が、送り込んだ決死の落下傘潜入部隊が、1942年にプラハで、当時ボヘミア・モラビア保護領の副総督であったラインハルト・ハイドリヒの暗殺に成功した。その潜入部隊に住民が協力したという疑いで、住民の多くは虐殺され、リディツェにあった建物はすべて破壊されてしまった。実際にはこの村の住民とハイドリヒの暗殺暗殺部隊には何の関係もなかったらしいが、見せしめにはちょうどよかったのだろう。
 戦後になって、数少ない生き残りの女性たちと子供たちが戻ってきて、少し離れた場所に村は再建された。本来の村があった場所には、ナチスの被害を象徴する慰霊のための場所となり、記念碑や、記念館などが建てられていて、毎年6月の慰霊祭をはじめ、さまざまな平和を求める行事が行われている。ある意味、このリディツェは、日本における広島のような平和運動のシンボルになっていると言ってもいい。

 同じように、ハイドリヒの暗殺部隊にに協力したことを疑われて壊滅させられたのが、東ボヘミア地方にかつて存在したレジャーキという村である。こちらは実際にロンドンの亡命政府との連絡用の通信装置が近くに隠されていたというのが直接の原因になっているらしい。こちらはリディツェよりも小さく人口もはるかに少なかったせいか、戦後に復興されることはなかった。現在でも村のあったところには、いくつかの記念碑が建ち並んでいるだけである。
 レジャーキは、村というには小さい集落に過ぎなかったせいか、チェコでも以前は知る人が少なかったらしい。チェコ語の師匠に、日本人はみんなリディツェは知っていても、レジャーキは知らないから、お前が広めておけと指示されたこともあるので、ここに紹介しておく。

 そして、もう一つ、ナチスドイツによって存在を抹消された村(集落)が、オロモウツ地方にあるヤボジチコである。現在はルカーという町の一地区になっているが、リトベルから西に十キロほど、丘陵地帯に入ったところにある。リディツェとレジャーキが、1942年の6月に破壊されたのに対して、ヤボジチコが破壊されたのは1945年5月、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線もそろそろ決着がつくころのことである。
 4月にヤボジチコでドイツ人女性と子供が殺害されるという事件が起こる。この女性が重要人物だったのかどうかはわからないが、殺人を実行したのはロンドンの亡命政府が送り込んだ潜入部隊の一つだったらしい。その報復として、ボウゾフ城に駐屯していたSSの部隊が5月5日に、礼拝堂と学校を除く、村にあったすべての建物を破壊しつくした。こちらもリディツェと比べるとはるかに小さな村だったが、村は小さいながらも復興されて、かつての学校の建物は博物館になっている。
 もちろん、第二次世界大戦のナチスドイツによってもたらされた被害と、戦争の悲惨さを後世に伝えるための記念施設も設置されている。こういう歴史を見ると、独裁者に対する抵抗のためとはいえ、暗殺という行為をなすべきだったのかどうか考えさせられる。実行犯であれば、殺されようが拷問されようが、それは覚悟の上であり、ある意味で自業自得である。しかし実行犯とは関係のない、関係があったとしても多少協力したに過ぎない普通の人々が、見せしめのためだけに殺されていくのは、何ともやるせないものである。ロンドンの亡命政府ではどう考えていたのだろうか。
 ナチスドイツは、ユダヤ人のあとはスラブ人も根絶する計画を立てていたとも言うから、暗殺事件がなくても、殺されたスラブ人の数に大差はなく、抵抗する姿勢を見せることが大切だったのかもしれない。でも、自分に関係のないことを理由に殺されていった人たちは無念だっただろう。だから、一般人を巻き込むテロや、戦争は憎むべきだといえばありきたりな結論になってしまうが、それ以外に何とも言いようがないのが正直なところである。

 さて、私がヤボジチコに行ったのは、まだリディツェの存在も知らないころだったので、戦争の記念碑の存在は知らなかった。オロモウツで長期滞在していたホテルの人に、強く勧められたのがヤボジチコの鍾乳洞だった。チェコでも有数の広さを誇る鍾乳洞は、洞内に形成されたさまざまな鍾乳石の豊富さ美しさでも有名らしい。日本でも鍾乳洞といえば、山口県の秋芳洞にしか行ったことはなかったけれども、そこまで言うならということで、出かけることにしたのだった。
 ただ、どうやってヤボジチコまで行ったのかが思い出せない。今試しに、バスの接続を調べてみたのだが、バス停はあっても運行しているバスはないようだ。ボウゾフから4kmほど山の中を歩いたのだろうか。チェコは、ハイキングコースというわけでもないのだろうけど、街中にも山の中にも歩いて移動するためのコースが設定してあって、家の壁や大きな木の幹などに、コースごとに色分けしてしるしがつけてある。要所要所には小さな掲示板があって、ここから目的地まで何キロなんてことも書いてあるので、そのしるしをたどって歩けば、森の中でも迷うことはない。

 あのときは、このヤボジチコをきっかけに、あちこちの鍾乳洞を見に行ったのだった。そのおかげで、記憶に残っている鍾乳石がどこの鍾乳洞のものだったか思い出せない。ヤボジチコの近くには、ムラデチという鍾乳洞もあって、ここは人類学、考古学的にも貴重な鍾乳洞らしい。旧石器時代のクロマニヨン人の人骨や石器、火の使用された跡、動物の骨などが発見されたことでも有名だという。ハナー地方では、プシェロフの郊外でも、マンモスの骨などと共に先史時代の集落の遺跡が発見されているから、昔から住みやすい環境だったということなのだろう。
4月9日16時。



 ヤボジチコのホテルは出てこなかった。ボウゾフあたりに泊まるのが一番いいかなあ。4月10日追記。




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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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