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2016年04月11日

ヤボジチコ(四月八日)



 チェコで第二次世界大戦中に、ナチスドイツによって焼き討ちされた村というと、プラハの北西20kmほどのところにあるリディツェが有名である。ロンドンにあったチェコスロバキア亡命政府が、送り込んだ決死の落下傘潜入部隊が、1942年にプラハで、当時ボヘミア・モラビア保護領の副総督であったラインハルト・ハイドリヒの暗殺に成功した。その潜入部隊に住民が協力したという疑いで、住民の多くは虐殺され、リディツェにあった建物はすべて破壊されてしまった。実際にはこの村の住民とハイドリヒの暗殺暗殺部隊には何の関係もなかったらしいが、見せしめにはちょうどよかったのだろう。
 戦後になって、数少ない生き残りの女性たちと子供たちが戻ってきて、少し離れた場所に村は再建された。本来の村があった場所には、ナチスの被害を象徴する慰霊のための場所となり、記念碑や、記念館などが建てられていて、毎年6月の慰霊祭をはじめ、さまざまな平和を求める行事が行われている。ある意味、このリディツェは、日本における広島のような平和運動のシンボルになっていると言ってもいい。

 同じように、ハイドリヒの暗殺部隊にに協力したことを疑われて壊滅させられたのが、東ボヘミア地方にかつて存在したレジャーキという村である。こちらは実際にロンドンの亡命政府との連絡用の通信装置が近くに隠されていたというのが直接の原因になっているらしい。こちらはリディツェよりも小さく人口もはるかに少なかったせいか、戦後に復興されることはなかった。現在でも村のあったところには、いくつかの記念碑が建ち並んでいるだけである。
 レジャーキは、村というには小さい集落に過ぎなかったせいか、チェコでも以前は知る人が少なかったらしい。チェコ語の師匠に、日本人はみんなリディツェは知っていても、レジャーキは知らないから、お前が広めておけと指示されたこともあるので、ここに紹介しておく。

 そして、もう一つ、ナチスドイツによって存在を抹消された村(集落)が、オロモウツ地方にあるヤボジチコである。現在はルカーという町の一地区になっているが、リトベルから西に十キロほど、丘陵地帯に入ったところにある。リディツェとレジャーキが、1942年の6月に破壊されたのに対して、ヤボジチコが破壊されたのは1945年5月、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線もそろそろ決着がつくころのことである。
 4月にヤボジチコでドイツ人女性と子供が殺害されるという事件が起こる。この女性が重要人物だったのかどうかはわからないが、殺人を実行したのはロンドンの亡命政府が送り込んだ潜入部隊の一つだったらしい。その報復として、ボウゾフ城に駐屯していたSSの部隊が5月5日に、礼拝堂と学校を除く、村にあったすべての建物を破壊しつくした。こちらもリディツェと比べるとはるかに小さな村だったが、村は小さいながらも復興されて、かつての学校の建物は博物館になっている。
 もちろん、第二次世界大戦のナチスドイツによってもたらされた被害と、戦争の悲惨さを後世に伝えるための記念施設も設置されている。こういう歴史を見ると、独裁者に対する抵抗のためとはいえ、暗殺という行為をなすべきだったのかどうか考えさせられる。実行犯であれば、殺されようが拷問されようが、それは覚悟の上であり、ある意味で自業自得である。しかし実行犯とは関係のない、関係があったとしても多少協力したに過ぎない普通の人々が、見せしめのためだけに殺されていくのは、何ともやるせないものである。ロンドンの亡命政府ではどう考えていたのだろうか。
 ナチスドイツは、ユダヤ人のあとはスラブ人も根絶する計画を立てていたとも言うから、暗殺事件がなくても、殺されたスラブ人の数に大差はなく、抵抗する姿勢を見せることが大切だったのかもしれない。でも、自分に関係のないことを理由に殺されていった人たちは無念だっただろう。だから、一般人を巻き込むテロや、戦争は憎むべきだといえばありきたりな結論になってしまうが、それ以外に何とも言いようがないのが正直なところである。

 さて、私がヤボジチコに行ったのは、まだリディツェの存在も知らないころだったので、戦争の記念碑の存在は知らなかった。オロモウツで長期滞在していたホテルの人に、強く勧められたのがヤボジチコの鍾乳洞だった。チェコでも有数の広さを誇る鍾乳洞は、洞内に形成されたさまざまな鍾乳石の豊富さ美しさでも有名らしい。日本でも鍾乳洞といえば、山口県の秋芳洞にしか行ったことはなかったけれども、そこまで言うならということで、出かけることにしたのだった。
 ただ、どうやってヤボジチコまで行ったのかが思い出せない。今試しに、バスの接続を調べてみたのだが、バス停はあっても運行しているバスはないようだ。ボウゾフから4kmほど山の中を歩いたのだろうか。チェコは、ハイキングコースというわけでもないのだろうけど、街中にも山の中にも歩いて移動するためのコースが設定してあって、家の壁や大きな木の幹などに、コースごとに色分けしてしるしがつけてある。要所要所には小さな掲示板があって、ここから目的地まで何キロなんてことも書いてあるので、そのしるしをたどって歩けば、森の中でも迷うことはない。

 あのときは、このヤボジチコをきっかけに、あちこちの鍾乳洞を見に行ったのだった。そのおかげで、記憶に残っている鍾乳石がどこの鍾乳洞のものだったか思い出せない。ヤボジチコの近くには、ムラデチという鍾乳洞もあって、ここは人類学、考古学的にも貴重な鍾乳洞らしい。旧石器時代のクロマニヨン人の人骨や石器、火の使用された跡、動物の骨などが発見されたことでも有名だという。ハナー地方では、プシェロフの郊外でも、マンモスの骨などと共に先史時代の集落の遺跡が発見されているから、昔から住みやすい環境だったということなのだろう。
4月9日16時。



 ヤボジチコのホテルは出てこなかった。ボウゾフあたりに泊まるのが一番いいかなあ。4月10日追記。




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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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