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2017年06月07日

オロモウツに来る方に(六月四日)



 オロモウツの旧市街は、現在あちこちで改修工事が行なわれている。最初はスコットランドヤードを模したと言われる裁判所と、飲み屋ドラーパル、ホテル・ゲモのある交差点のところの城壁の改修から始まった。今年の二月ぐらいには、城壁の内部に入っている喫茶店やピザ屋が、改修工事のために休業に入っていたはずである。

 そのホテル・ゲモの脇の通りを抜けてホルニー広場に入ると、オロモウツのシンボル、市庁舎の周りに工事のための足場が組まれているのが目に入って来る。こちらから見えるのは裏側だが、表側も側面も工事中であることには変わりない。一応市庁舎への入り口、その反対側のピザ屋への入り口、天文時計脇のインフォメーションセンターへの入り口は生きているので、入れなくはないけれども、あえて入りたいと思うような光景ではない。
 プラハの市庁舎も改修工事に入り、天文時計は修理と整備のために分解されて運び去られたようだが、オロモウツの天文時計は分解もされず、改修工事の足場に隠されるようなことにもなっていない。近づけないように柵で囲まれているけれども、改修工事が行われている屋根の上から観光客に物が落ちないようにという配慮であろう。
 だから、チェコに二つしかない天文時計を見ようと思ったら、これからしばらくはオロモウツに来るしかないのである。社会主義的レアリズムの洗礼を受けたデザインだし、周囲が改修工事中で風情のないことこの上ないけれども、天文時計自体は見られる。わざわざ見に来るかいがあるかというと微妙だけれども。

 以上の二つは建物の改修工事で、街中の移動には差しさわりはあまりないのだが、ホルニー広場を出てトラムの通りを登って共和国広場に出ると、路面の石畳をはがしての改修工事が行われており、そのためにトラムの旧市街の中を通る部分が完全に運行停止になっている。共和国広場から駅のほうに曲がりながら降りていく五月一日通りが完全に掘り起こされていて、歩道は通れるようだけれども、不便なことこの上ない。
 この五月一日通りが、ムリーンスキー川にぶつかる辺りに、かつてオロモウツに三つしかなかったと言われる街に入るための門の一つがあったらしく、今回の改修工事に際しても発掘が行われ、建物の跡や人骨などが出てきたようである。道路の地下から出てきたものだけに、さすがにその遺跡を、遺跡として保存するわけにはいかず、埋め戻して模型のようなものかレリーフのようなものを設置したいと市の担当者が語っていた。

 とまれ、この工事のせいでトラムの運行がめちゃくちゃになっている。オロモウツに来られる場合には、旧市街のホルニー広場に行こうと思ったら、いつもとは違うトラムで裏側から入らなければいけなくなっている。もちろん歩いても行けるし、代替のバスもあるのだけど、工事区間を歩くのは大変だし、バスは乗り換えが必要になる。

 一応これから半年近くは続きそうなオロモウツのトラムの運行状況を説明しておくと、駅前から間左に曲がって旧市街の裏側に向かう1、5、7のトラムは通常通り運行している。5番はモラバ川を越えてシャントフカのところで左に曲がってムリーンスキー川とモラバ川にそって郊外に向かう。1番はもう少し道なりに進んで、テレジア門を越えて、裁判所のところで左に曲がってフローラの会場を経て郊外に向かっている。7番はさらにまっすぐ進んで、英雄広場のところで、フス派の教会を見ながら左折してネジェジーンに向かう。
 本来旧市街を通って走っている4番は、X4番になって、駅前からは1番と同じ経路を走っている。2番と6番は運行停止。3番は、X3番となって、1番の終点と5番の終点を結んで走っているので、駅前には来ない。旧市街の近くを走るのもシャントフカと裁判所の間だけである。

 代替のバスは駅前からはXが走っていて、駅前からまっすぐマサリク通りを走って、二つ目の停留所ジシカ広場を越えて、橋を渡って右折したところで終点。ここが一応ウ・ドムー停留所の代替停留所なのだけど、本来の停留所までは100メートルぐらい坂を上る必要がある。ホテル・パラーツに行くにはちょうどいいかな。

 そして最近、共和国広場からパラツキー通りを結ぶ代替バスのX2が運行を始めた。こちらはXよりも短く、共和国広場、聖モジツ教会、パラツキー通の三つの停留所を結んでいるだけなので、最初は不要だと思われていたのだろうか。共和国広場のバス停が、広場の上の方に移動している以外は、トラムの停留所と同じである。
 駅から共和国広場まで公共交通を使うと、トラムの7番でパラツキー通まで行って、そこでX2に乗り換えるということになるのだが、歩いたほうが早いような気もする。数分とはいえ待ち時間があるわけだし。

 トラムの状況がこうなので、オロモウツに旅行で来られる方は、宿をとるなら駅前か、トラムの1番、5番、7番の停留所の近くがいいだろう。バス停の近くでもいいのだろうけど、旅行中の移動で、電車から降りてバスに乗るというのに、なぜか抵抗があって、トラムをお勧めしてしまう。この文章を読んでオロモウツに来られる方には、「šťastnou cestu」という言葉を捧げよう。
6月5日20時。






2017年04月24日

オロモウツ観光案内3――大司教宮殿(四月廿一日)



 共和国広場から、町の中心とは反対のほうを向くと、図書館と郵便局に挟まれた細い通がある。郵便局よりも聖バーツラフのレストランの看板のほうが目立つかもしれない。その細い道の奥に見えている白い建物が、大司教宮殿である。最初のこの場所に宮殿が立てられたときには、まだ大司教座には昇格していなかったので、司教宮殿と呼ばれていたらしい。
 その細い通を抜けて大司教広場というにはささいな空間に出ると、右手にある薄い緑色の建物が、大司教宮殿の見た目を阻害しているのに気づくだろう。以前も書いたがこれがマリア・テレジアの立てた武器庫である。大司教広場の半分を占めることで、左右対称の建物の半分だけしか見えなくなっているのである。一説によるとそれだけでなく、正面の出入り口からの馬車の出入りも威風堂々とできないようにするのも目的だったのだという。
 たちが悪いのが、正面の入り口自体はふさがれていないので、出入り自体はできることである。ただ大司教が乗った馬車を、どちらに向けてもマリア・テレジアの武器庫の存在が邪魔になる。ましてや、お供をたくさん引き連れての行列で出発をしようと思ったら、武器庫沿いを進んでいくか、出てすぐに向きを変えるかしかない。
 マリア・テレジアには、オロモウツの司教座が大司教座に昇格するのに貢献したという話もあるのだけど、代替わりした後の大司教との関係がよくなかったということなのだろうか。興味がないわけではないけれども、何せこの辺のオロモウツの大司教とマリア・テレジアの仲が悪くて云々という話のネタ元は師匠なので、本科何かで読んだのではなくて口伝えで聞いた話の可能性もあるから、ついついためらってしまうのである。

 ところで、大司教宮殿の一般公開は、年に何回か決められた日だけだと思い込んでいたのだが、大司教宮殿のホームページで確認したら、いつの間にか、四月から十月の観光シーズンには、一般公開をするようになっていた。四月と十月は、月〜金は事前に連絡をして時間を予約する必要があって、土曜日と祝祭日は10時〜17時までが開館時間。五月から九月は、月曜日だけが予約が必要で、火曜から土曜は10時〜17時の開館となっている。入場料は80コルナで、50コルナ追加すれば写真撮影も許可されるようである。
 大司教宮殿の近くはよく通るのだけど、観光客と思しき人々が中に入っていくのを見かけることはほとんど見かけたことがなかったし、中に入っていくときにはたいてい入り口のところに、「ヨーロッパ文化財の日」とか、一般公開される理由だと理解したことが書かれていたから、特別の日だけの公開が続いているものだと思っていた。そういえば数年前に、十年内外かかった大改修工事が終わったというニュースを目にした記憶もあるから、その時期から公開されるようになったという可能性も考えられるのか。

 改修といえば、以前バーツラフ広場にある大司教博物館で働く知人から、相談を受けたことがある。改修工事の際に壁の中に塗りこめられていた象牙細工が大量に発見されたというのだ。それがどうも日本の根付と呼ばれるものらしいので見てほしいと博物館に呼ばれた。日本の昔話をモチーフにしたものが多かったので、その説明をして、作者名が読めるものは読み方を教えたけれども、芸術には疎いので、あまり役に立てなかった。
 そのとき聞いた話では、二十世紀前半の大司教がオリエント趣味の人で、共産党が政権をとったときに、没収されることを警戒して、厳重に封をして誰にも発見されないように壁の中に塗りこんでしまったらしい。それを誰にも告げていなかったために、改修工事の最中に発見されたときには大騒ぎになったと言う。
 現在大司教博物館になっている建物も、二千年代の初頭には、荒れ放題の幽霊屋敷と言われても仕方がないような惨状だったのだ。その前にモーツァルトの記念碑だけがあって荒涼とした印象を強めていた。それが、今では立派な博物館が出来上がっているのだから、隔世の感がある。そう考えると大司教宮殿の中の見学をしてから十五年以上になるわけだから、大司教宮殿のほうも大きく変わっているに違いない。どこかで時間を見つけてもう一度見学してみるべきか。問題は、いつにするかだけど、日本から歴史に興味のある知り合いが来たときにしようか。
4月22日23時。



2017年04月15日

ラファイエットのオロモウツ(四月十二日)



 オロモウツのホテルを探したときに、ホテル・ラファイエットというのを見つけて不思議に思った人はいないだろうか。町の中心からはちょっと離れた住宅街の中にある知る人ぞ知るという感じの小さなホテルだけれども、知り合いに泊まった人がいないので、中がどうなっているのかはわからない。高級そうな感じはするけど。オロモウツでは、他にもドルニー広場から、テレジア門に向かう通りがラファイエット通と名付けられている。

 では、アメリカの独立戦争とフランス革命で名前をはせたラファイエットとオロモウツにどんな関係があるのかというと、以前オロモウツを取り上げてドキュメンタリー番組で、ラファイエットがオロモウツの城壁の壁の中にあった牢獄に収監されていたことがあると言っていた。そのときは特に関心もなかったから、フランス革命の前にハプスブルク領にやってきて、何か革命的活動でもやって逮捕されてすぐ釈放されたのだろうと考えて済ませていた。
 そもそも、ラファイエットって何したんだったっけ。高校の世界史の授業のフランス革命のところでは、カタカナの本流に圧倒された記憶がある。結構頑張って真面目に覚えたはずなんだけど、固有名詞は残っていても、それが何なのか誰なのかはっきりしない。ジャコバン、ジロンド、ロベスピエール、テルミドールなどなど。さすがにルイ16世、マリー・アントワネットに、ナポレオンの果たした役割は大体わかっているけどさ。

 ということでちょっと調べてみたら、フヤイン派というのの領袖としてパリ国民軍の司令官になったと書かれていた。フヤイン派というのは記憶にないけど、軍の司令官として失態を犯して失脚したのだっただろうか。
 カレル・クリルのレリーフに気づいたときに、共和国広場の一角、聖母マリア教会の隣の建物の壁にラファイエットのレリーフがあることを思い出して、書かれていることを読んでみた。それによるとラファイエットがオロモウツで牢獄に入っていたのは、1794年から1797年のことだったらしい。と言うことはフランス革命の後である。失脚した後に亡命したか、フランス革命に対する干渉戦争の際に捕虜になるかしたのだろうか。

 この場所に記念のレリーフが最初に設置されたのは、1928年9月9日のことで、1938年にナチスドイツがチェコスロバキアに侵攻して、ボヘミア・モラビア保護領が設置されたあと、レリーフは撤去され破壊されたらしい。自由の闘志としてのラファイエットを顕彰することは、ナチスドイツに対する抗議につながったのかもしれない。
 同じテキストが刻まれた新しいレリーフが製作され、再び設置されたのは1997年9月のことだった。これはラファイエットの出獄200周年を記念してのことだったらしい。オロモウツ市や地方の役所だけではなく、ホテル・ラファイエットの経営者も、この新しいレリーフの作成に協力したと言うことが、下に設置されたもう一枚のレリーフに記されている。

 ラファイエットとオロモウツの関係についてチェコ語で書かれたものを斜め読みしていたら、面白い話が出てきた。ラファイエットは、オロモウツの監獄に収容されてすぐの1794年11月に脱獄に成功したらしいのだ。ラファイエットが捕まったことを知ってイギリスとアメリカから、二人の人物が解放のために、わざわざオロモウツくんだりまでやってきて、脱獄の手引きをした。残念ながら三人ともすぐに捕まってしまう。ラファイエットが捕まったのはオロモウツから少し北に行ったシュテルンベルクだったらしい。
 イギリスとアメリカからやってきた二人は、両国の政府とフランス政府の抗議によってすぐに釈放されたというが、ラファイエットだけは牢獄に残された。ただし、高名な囚人への配慮だったのか、家族を呼び寄せて牢内で生活することを許されたらしい。完全な囚人扱いではなかったのかもしれない。
 そして、1797年にラファイエットが釈放されたのは、ナポレオンの命令によるらしい。当時はヨーロッパ中がナポレオンに震撼させられていた時期だから、内政干渉なんてことも言わずに唯々諾々と従ったのだろう。ナポレオンの側としては、ラファイエットを釈放させることで恩を売り、革命の英雄を自らの陣営に迎え入れようという下心があったのだろうか。

 フランス王の宮廷で教育を受けたカレル四世もそうだけれども、必ずしも近いとは言えないフランスとチェコの間には、意外と密接な関係のあったことに驚いてしまう。この辺の国を超えたつながりというのも日本にいたのでは、実感しづらいものである。

4月13日23時。


昨夜も今朝も投稿に失敗。何がいけなかったのだろうか。4月15日追記。


2017年04月14日

オロモウツ観光案内2――カレル・クリルのレリーフ(四月十一日)



 昨日の記事はまじめに、本当にまじめに書いたので本日はかるく、ちゃらんぽらんに書いてみよう。前回書いたって言っても先月の話になるけど、バーツラフ広場からトラムの通る通に出て右に曲がって、共和国広場のほうに向かう。バーツラフ大聖堂に背を向けてトラム通と平行している細い道を突き当りまで行って左に曲がってもいいけど、とにかくトラム通に出て共和国広場に向かって歩く。
 最近その道を歩いていて気づいたのが、右側にあるウ・フベルタというレストランの入っている建物の壁に、カレル・クリルを記念したレリーフが設置されていることだ。このレストランというよりは、飲み屋と言いたくなるお店は、確かサマースクールの指定のレストランの一つで、しばしば通った記憶がある。当時はどちらかと言うと、煙草の煙の充満する安さを売りにするようなお店だったのだけど、改装されてこぎれいなレストランに変わったとビール好きの知人が言っていたが、改装されてからは行ったことがない。

 カレル・クリルは、日本ではほとんど知られていないに違いない。ただ、ビロード革命のときにハベル大統領と一緒に歌を歌っていたギターを持った髭のおっさんと言えば、あの人かと思い当たる人もいるかもしれない。同じく歌手のマルタ・クビショバーとともにビロード革命でチェコスロバキアが変わったことを象徴する人物だった。
 クリルの存在を知ったのは、最初に参加したサマースクールのときだっただろうか。先生がチェコの歌を聴くならこの人の歌を聞けといって紹介してくれたのだ。この人の歌は、言葉の正しい意味でのプロテストソングである。1968年8月22日、ワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵攻してきた夜に、軍隊による制圧を目にしながら書かれたという「Bratříčku, zavírej vrátka」なんか、あのとき授業中に聞いて、完全に理解できたわけではないけれども、心が震えるような歌詞に歌いっぷりだったのを覚えている。

 プラハの春のあとのいわゆる正常化が始まった後、クリルは1969年には、西ドイツへ亡命する。確か自動車工として働きながら、音楽活動を続けたらしい。その音楽はラジオ局自由ヨーロッパの放送を通してチェコの人たちも聞くことができ、共産主義に疲れ果てていた人々にとってはある意味反共のシンボルとなっていたらしい。
 ビロード革命の際、1989年11月末に廿年ぶりにチェコに帰国したわけだけれども、民主化後のチェコスロバキア社会の動向は、クリルを満足させるものではなかったようで、再びドイツに戻ってしまう。そして1994年にミュンヘンで、49歳で亡くなってしまう。ビロード革命でチェコに帰国した亡命者のシンボルとしてクリルをさんざん利用した政治家たちは、ほとんど葬儀に参加しなかったらしい。葬儀自体はプラハで行われたというのにハベル大統領も出席しなかったのである。

 ときにギターを持つ詩人とも言われるこの希代のフォーク歌手は、チェコにおいては孤高の隔絶した存在である。同じくフォーク歌手のノハビツァが、強制されてとはいえ、秘密警察の協力者名簿に名前が残っており民主化後の社会をもうまく泳いでいるのと比べると、クリルの生き様は、激しくそしてすがすがしい。保身のために共産党に擦り寄る奴らにも、体制が変わったとたんに手のひらを返して拝金主義者に成り下がった奴らにも、「くそったれ」と罵倒して国を捨てたのだ。
 実際に身近にいたらちょっと感情の激しすぎる困った人だったかもしれないが、遠目に見る限り其の颯爽とした生き様は、かっこいいしあこがれてしまう。だからこそクリルは今でもチェコ人にとって特別な、曲が頻繁に流れるというわけではないけれども、特別な存在になっているのだろう。

 ウ・フベルタの壁のレリーフには、カレル・クリルが、若いころこの建物の中にあったデックスという名前のクラブで音楽活動を始めたということが書かれている。クリルは実はオロモウツから遠くないハナー地方のクロムニェジーシュの出身らしいのだ。それもこれも含めて知らんかったぜ。
 久しぶりにクリルの曲が聞きたくなったんだけど、アルバムは持っていないのだった。サマースクールでイタリア人の参加者が、PCのハードディスクにネットでダウンロードしてきたものがたくさん入っていると言っていたのをコピーさせてもらっておけばよかったぜ。当時はまだUSBメモリーも一般的ではなかったから、無理だったかな、やはり。

 またなんか失敗した感が強いなあ、今日の記事。
4月12日23時。




 何これ? カレルチャペックのティータイムセット? チェコのお茶ってことだろうか。4月13日追記。

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2017年04月02日

オロモウツ観光案内1(三月卅日)



 オロモウツの観光名所というか、記念物については、折を見て書いていくつもりだったのだが、いくつか書いた時点ですっかり失念していた。冬の寒さも和らぎ四月も近づきオロモウツに来る観光客も増えるかもしれないし、そんな人がこの駄文を読むとも限らないけれども、もしかしたら何かの役に立つかも知れないと言うことで、相も変わらずだらだらと書き散らすことにする。

 まずは、すでにどこかに書いたバーツラフ広場から始めよう。この広場の奥に三本の尖塔を伴って聳え立っているのが、聖バーツラフ大聖堂である。もともとは1107年ぐらいからロマンス様式で建築が始まったらしいのだが、その後何度も改修、改築を受け、最終的には十九世紀の終わりに当時の大司教の命令で、ネオゴシック様式に改築された。その結果として、教会の前面にそびえる高さ68メートルの二本の塔と、南側に約102メートルの塔が建てられた。この南の塔は、モラビア地方の協会の塔としては最も高いものになる。
 プシェミスル王家のモラビア地方支配の拠点の一つだったオロモウツに司教座がおかれたのは十一世紀後半のことで、1207年には司教を自分たちで選ぶ権利を獲得した。1270年代にオロモウツの司教とチェコ王のプシェミスル・オタカル二世が、大司教座への昇格を図ったようだが、それが実現したのは五世紀以上を経た1777年のことだった。聖バーツラフ教会がオロモウツの司教座の教会になったのは、すでに1141年のことだという。それ以前は今は存在しない聖ペトル教会が司教座教会となっていたようだ。

 チェコの教会で、いや他の国もそうかもしれないけれども、気に入らないのは、ミサなどで使用するためのスピーカーやモニターなどの電気製品が設置されていることだ。厳粛なはずの宗教施設で行なわれる宗教儀式で、マイクを使うなんて許せないと感じてしまうのは、日本人ゆえだろうか。教会の建物は音響がいいはずなのだから、マイクなんぞに頼る必要はあるまいに。
 教会建築に興味のある人なら、聖バーツラフ教会の内装についてもあれこれ薀蓄を傾けられるのだろうけれども、無駄に高い天井を見上げてすごいなあと思うぐらいである。一番奥の祭壇ところまで行くと、脇の階段から地下に下りられるようになっている。大司教の儀式用の衣装などが展示されている。ポーランド出身のヨハネ・パウロ二世はチェコでも人気があって、1995年にオロモウツを訪問したときの写真もあったかな。さらに階段を下りると、オロモウツの大司教座にとって重要な人物の遺骸が納められた棺が置かれた部屋がある。誰だかの心臓もどこかに納められていると言っていたかな。棺も心臓も教会に興味のない人間が覚えていられるような有名人のものではなかった。

 聖バーツラフ教会の隣には、ゴシック様式で建てられた控えめな聖アナ教会がある。最古の記録は十四世紀の半ばにまでさかのぼるらしい。この教会が重要なのは、オロモウツの司教、後には大司教を選出するための選挙が行なわれたことである。いや、もしかしたら現在でも行なわれているのかもしれないけれども。

 そして、聖バーツラフ教会と、聖アナ教会の間にあるのが、プシェミスル宮殿の入り口である。もともと、このバーツラフ広場にはプシェミスル家がモラビア支配のために建築した城があったらしい。その一角に建てられたのが聖バーツラフ教会であり、このプシェミスル宮殿である。ただ、最近は建設した人物の名前を取ってズディーク宮殿と呼ばれることが多いようだ。それから、チェコ語の宮殿(パラーツ)という言葉も要注意で、日本語でイメージする王の居城、もしくは大貴族の居城という意味はない。宮殿様式で建てられた建物ということで、商人が建てたものであっても、宗教関係者が建てたものであっても、一律に宮殿と呼ばれてしまうのである。
 この宮殿は、バーツラフ広場側からは、聖アナ教会の陰に隠れて入り口しか見えないのだけど、裏側に回って、城下の公園から見上げると、聖バーツラフ教会から城壁の上に連なる建物が、大きな城を構成しているのがよくわかる。ただし、現在まで残っているのは建物の一部だけだという。本来の宮殿の姿を再現したモデルが、隣接する大司教教区博物館に展示されている。

 バーツラフ広場で、1306年に最後のプシェミスル家の王であるバーツラフ三世が暗殺された。遺体は、プラハに移されるまで20年の間、聖バーツラフ教会の地下に安置されていたという。
3月31日23時。


 既出の記事と重なる内容もありそうだけど、細かくチェックしている暇はないのでこのまま行く。4月1日追記。




2017年03月01日

進化するメヌ(二月廿六日)



 メヌは、メニューと書いてもいいのだけど、日本語のレストランの料理の名前と値段がかいてあるメニューではなくて、ランチ定食のようなものである。チェコでは、普通は料理と付け合わせがセットになっておらず、自分でフラノルキとか、ゆでたジャガイモとか選んで追加で注文しなければならない。これは注文する側も面倒だけど、客が多い時間帯にはレストラン側にも煩雑に過ぎるようで、昼食の時間帯11時から14時ぐらいまでを限って、日替わりのランチメニューを用意しているところが多い。日本で夜は単品でつまみを注文する居酒屋なんかが、お昼のランチをやっているのと同じようなものだと考えればいい。
 昔は、毎日一種類か二種類しか出していないレストランが多かったのだが、最近はいくつかのメニューの中から選べるようになっている。毎日三種類とか五種類というところが多く、そのうちの一品は肉を使わない菜食主義者向けのものを提供しているも増えているような気がする。最近と言っても、もう何年も前からの話ではあるけれども。

 さて、今回、火曜日から木曜日まで三日続けてお昼のメニューを食べに行く機会があった。そうしたら、オロモウツで食べた二回は、食後にデザートが出てきたのだ。甘いものはそれほど好きではないので、自分では絶対に頼むことはないのだけど、出されると食べてしまう。食後に甘いものだけというのも何なので、コーヒーなど頼んでしまう。それが狙いなのだろうか。もっとも、デザートがつかなくてもコーヒーを飲んだ可能性は高いのだが。
 二回のうちの一回のプリマベシのレストランには、昨年の秋にもランチを食べに出かけたのだが、そのときには、デザートは付いていなかったような気がする。もう一軒の聖バーツラフ醸造所に一年前に出かけたときには、付いていなかったのは確かである。となると、ここ何ヶ月、場合によっては新年になってからの新サービスなのかもしれない。いや、例のレストランのレジのオンライン接続で値段が上がったので、その分のサービスということも考えられなくはないか。
 気が付けば、かつて十五年以上も前の話だけど、60コルナから70コルナのところが多かったお昼のランチも、今では100コルナ前後のところが増えている。ただ値段を上げるだけでは、客が減る可能性があるので、あれこれサービスを考えているということなのだろう。昔はランチメニューに、ジュース、いや色のついた甘い水が付いているところもあったなあ。

 これがチェコ全体での傾向かというと、おそらくそんなことはない。一回プシェロフで入ったレストランのランチには、値段もオロモウツより安かったけど、デザートも飲み物も付いていなかった。あそこでついつい昼間っからビールを飲んでしまったのは、出先だったし、仕事中じゃなかったし、いいのである。デザート付いてたら、食後にコーヒーも飲んでいただろうなあ。
 その前、ブルノでも、先月と、今月と二回お昼を食べに出かけたけど、どちらもデザートは出てこなかった。先月は土曜日だったからランチはやってなかったかな。とまれ、値段はオロモウツよりは高かったか同じぐらいだったと記憶するのだけど、特にサービスがいいわけでもなかった。

 いや、そもそもランチにデザートをつけるというのが、オロモウツで広がっているのかどうかもわからないのだ。今回出かけた二軒がたまたまデザートを付けるお店だった可能性もある。今週来週も日本からお客さんが来て、お昼を食べに行く機会がありそうだから、他の店を試してみるか。他でも出てくるようだったら、オロモウツのランチメニューは独自の進化を遂げつつあると言えそうだ。無駄に大げさな表現になってしまった。
 まあ、以前から独自にデザートを付けるという取り組みをしていたお店はありそうだから、わざわざ取り立てて書くほどのことはなかったと言えば、全くその通りなのだけど、書き始めたときは何か面白い文章が書けそうな気がしたのだよ。気のせいだったけどさ。
2月27日23時。



 オロモウツのレストランのお昼のメニューのメニューはこちらで確認できる。2月28日追記。
http://menu.olomouc.cz/

2016年12月03日

オロモウツで日本武道(十一月卅日)



 ひょんなことから親交のあるパラツキー大学の体育学部のK先生に招待されて、先生が主催して行なわれた剣術、剣道の紹介イベントを見学に出かけた。プログラムによると居合系の抜刀術、戸山流抜刀術、それから普通の剣道、そして古流である香取神道流の三つの剣技を見せてくれるらしい。
 会場は英雄広場の近くにあるスーパービラの後のアイスホッケーのスタジアムのさらに後にあるパラツキー大学の建物の中に入っている体育館(体育室?)だった。チェコの大学、とくに古くから歴史のある大学はキャンパスというものがないところが多く、パラツキー大学の校舎もオロモウツの市内のあちこちに点在している。だから、今回の会場になっている建物に初めて出向いたときには、住所を見て、地図でどこにあるのか確認してから出かけたのだった。
 イベントの開始時間は午後七時。例によって遅れて始まるだろうと思いつつ、時間通りに到着したら意外なことに、すでに準備は整って始めるだけになっていた。チェコ人とはいえ、武道をやっている人たちだから、時間に厳しいのは当然といえば当然なのか。二年前に初めて見たときにも感じたのだが、演舞は日本人でもびっくりするぐらい本格的であった。

 まず、最初の戸山流抜刀術は、耳で聞いたときにはクラマ、トラマなどと聞こえ、ローマ字表記から富山、外山、また当山、遠山などの表記を思い浮かべたのだが、調べてみると実は戦前の陸軍の戸山学校に由来する流派であった。剣術経験のない徴兵された軍人に軍刀の扱いを身に付けさせるために制定された軍刀術がその後も改良されて、今に到るらしい。
 江戸時代から伝わるような流派に比べれば新しく、近代的で合理的な剣術と言えば言えるのだろうか。それとも戦争で使うことを前提にしているから、肉弾戦になったときに相手を殺すことのみを考えた実践的な剣術なのだろうか。戦前の軍国主義的なのものに対するアレルギーが強かった戦後という時代を考えると、このような剣術が現在でも存続し続けていることが、奇跡的であるように思われる。
 女性も含めて九人の剣士達が、居合刀(多分)を使った、師範は座った状態から、他の人たちは立った状態からの形と、木刀を使った組み太刀の演舞を見せてくれ、最後にはござのようなものを巻いて台座に立てて試し切りも見せてくれた。このござのようなものを巻きしめて水を含ませたのが、人体を切るときの感触に近いなんて、ちょっと怖いことも説明していた。人の前での試し切りは初めてで緊張して空振りしてしまう人もいたけど、それも含めて修行なんだよなんてことをチェコ人師範は語っていた。

 二番目の剣道は、二年前よりは人数が減っていたが、今回は日本人の女の子も参加していた。体育学部では日本体育大学と協定を結んでいて留学生が来ているという話をK先生に聞いていたので、日体大の学生さんだろうと思って、終わった後に聞いてみたら、実は愛知淑徳大学の学生さんで、日本で剣道をしていたので、こちらに来て剣道があることを知って毎週練習に参加しているのだと言っていた。大学を勘違いしたことに関しては、全くお詫びの言葉もない。
 前回は練習の様子を見せるのが中心だったけれども、今回は、最後に試合形式の立会いを見せてくれた。いかな日本人とはいえ、剣道の立会いでどちらの打ち込みが有効だったかなんてのを見極めるのは、素人には無理だということを思い知らされた。
 道場としての体育館の壁には「香川会」と書かれた掛け軸がかけられていたが、日本にある香川会という剣道の団体と協力関係にあるらしい。さて、この香川は、香川という人名なのだろうか。それとも香川県なのだろうか。

 最後の香取神道流は、時代小説などにも登場してくるので名前は知っていたが、どんな流派なのかは知らなかった。説明によれば、戦国時代の戦争が日常的だった時代の実践的な剣術で、自分も相手も甲冑を身にまとっていることを前提として動きが決められているのだという。頭に被っている甲が邪魔になるから、刀を頭上に振り上げるようなことはしない。腕を振り上げずに肩に担いだような位置から刀を振るのがこの流派なのだそうだ。
 そして、刀を振り下ろしても切っ先は下に下げず、その位置からさらに前に出て刀を突き出すように動かすのは、相手の体の甲冑でカバーされていない部分、肩や足の側面などに刀を突き刺すためなのだという。常に相手の体の甲冑に覆われていない部分を狙って刀を使わなければならないらしいということを、甲冑を身につけた人を登場させて示してくれた。着物しか身につけない平時の剣術ではなく、戦時の剣術であり、それが古流たる所以なのであろう。
 また演技の最初と最後には、神前でお祈りをするときと同じく、二礼、二拍、一礼をしていた。戸山流は、普通の礼を一回と刀をささげ持つような礼を一回、剣道は普通の礼だけを一回していたのとは対照的で、これが、香取神道流が、神社に起源を持つ所以なのであろう。

 このように、日本ではどこかの道場にでも出かけないと見られないようなものを、近所の体育館で見せてもらえるのだからありがたい。日本では見たことのない、知らなかった日本の物に、チェコに来て触れるというのもなかなか乙なものである。

 ところで、試し切りをしていたということは使っていた刀は、居合刀ではなく真剣だったのかもしれない。実はチェコには何人かの修行をした刀鍛冶がいるのである。日本と違って作刀制限はないはずなので、たくさん打てるはずで、たくさん討てば、技術の向上も早く、価格も安くなったりするのではないかと想像している。
 以前、趣味で刀鍛冶をしているというチェコ人に頼まれて、銘を切るときに使う刀匠としての名前を一緒に考えた事がある。どんな刀匠名にしたんだったかな。無で始まったのは覚えているんだけど……。刀鍛冶も日本では会ったことがなかったもんなあ。縁というのはこんなものなのである。
12月1日23時。



 昔会ったチェコ人の刀鍛冶はこの人の書いた英語の本を読んで、刀鍛冶の初歩の勉強をしたといっていた。名前だけは森雅裕の小説で知っていたけれども、チェコにまで知られているとは思いもしなかった。12月2日追記。


刀匠 吉原義人作 玉鋼 象嵌刀子 壱位鞘 平成13年製


2016年11月24日

クリスマスマーケット(十一月廿一日)



 オロモウツでもチェコの大きな町の例にもれず、クリスマスが近づくと街の中心であるホルニー広場で、クリスマスのマーケットが開かれる。以前は、市庁舎の天文時計のある側にいくつか屋台というか、出店の小屋が立っている些細なものだったのだが、年を追うにつれて規模が大きくなり、現在では市庁舎の裏側はもちろん、隣のドルニー広場にまで領域を広げていて、用のない人間にとっては通り抜けるのが面倒な事態になっている。

 初めてクリスマスマーケットなるものに足を運んだときには、何かそこでしか売られていない特別な物があるのかと、大きな期待をしたものだが、実際に行ってみたら大したものはなくがっかりしたのを覚えている。最初のころは、常設のマーケットに出ているような、服とか靴とかを売っている出店ばかりだったのだ。
 近年は状況は多少はましになっている。クリスマスにしか使わないガラス製のデコレーションは、自分ではほしいとは思わないが、クリスマスならではだろうし、他にも何種類かのクリスマスツリー用の飾り付けが売られているお店が見られるようになった。
 しかし、冬物だからクリスマスマーケットにあって悪いとは言わないけれども、服や帽子を売る店、シーズンなのかもしれないがベーコンやサラミなどの燻製にして長持ちするようにした肉製品のお店なんかは、イースターのときのマーケットでも見られるような気がする。

 それから、もういいと思ってしまうのが、プンチというアルコールを飲ませる屋台である。今年はましだと信じたいが、数年前屋台の半分ぐらいがプンチを飲ませるものだったことがある。酒好きのチェコ人たちもさすがにこれには腹を立てて、市役所に抗議をしたらしい。その結果翌年からはプンチ屋台の数が減らされたというけれども、それでも多すぎるという印象はぬぐえない。
 ワインになりかけの炭酸ガス入りのお酒ブルチャークが秋口にしか飲まれないのと同様に、プンチというのは、チェコではクリスマスの時期にしか飲めないお酒である。もともとはインド起源で五つの材料が使われることから、サンスクリット語の5にちなんでこんな名前になったのだと、昔レストランのブ・ラーイのプンチのパンフレットに書かれていた。日本語だとフルーツパンチとか言うのかな。日本で飲んだことがないから、どう違うのかわからない。

 ただ、このプンチにさまざまな種類があるようで、使うお酒、果物などが違っているらしい。温めたお酒で、砂糖を使って甘ったるくなっているという点ではどれも同じである。マーケットを見て回っている人が体を冷やさないようにということだろうか。ウィーン風、スウェーデン風、フランス風などなど、どこがどう違うのか考えるのもうんざりしてしまう。基本的に甘ったるい酒も、温めた酒も嫌いなので、マーケットに登場した年以外は飲んでいないのである。
 信じられないのは、ノンアルコールの子供向けプンチもあることで、果物の変わりにお菓子のグミをいくつか放り込んであった。温かいうちはまだいいのだが、冷えてしまうとそのグミが固まってしまってゴムのようになってしまう。グミは色も結構どぎついので、飲み物の見た目の色も飲んで大丈夫かといいたくなるようなものになることが多い。

 おそらく、クリスマスマーケットという言葉に、過剰に期待してしまうのがいけないのだ。売り手にとっては、クリスマスプレゼントとして買ってもらえそうなものを並べるのが大事なのだろう。プレゼントなので、特にクリスマスのときだけのものである必要はない。そう考えるといろいろなイベントのあるとき出される屋台と品揃えに大差ないのも許せるような気がしてくる。
 うちが毎年このマーケットで購入しているのは、メドビナという蜂蜜から作ったお酒ぐらいである。同じ店で蜂蜜の蝋燭も買うか。メドビナはクリスマスのときにしか買えないというわけではないが、うちで愛飲しているのは、オロモウツではこの時期にしか手に入らない。最初に買ったのがクリスマスマーケットだったので、思い込んでいるだけかもしれないけど。
 他のものは、チェコ人と違って、借金してまでクリスマスプレゼントを買うほど命を懸けていないので、めったに買うことはない。今年は何かすごいものがあるかもと見物に出かけることはあるが、すごいものを発見したことはない。
 このマーケットは、毎年クリスマスの四週間前の週末、十一月の下旬に始まるので、この時期にオロモウツに滞在するのなら、何かを買うためというよりは、見物して雰囲気を楽しむぐらいの気持ちでクリスマスマーケットに出かけるのがいいのではないだろうか。何事も期待しすぎは、よくないのである。
11月22日23時。


2016年11月09日

オロモウツ復活近し? 秋の暮れ(十一月六日)



 前回、シグマ・オロモウツが二部に降格したときは、主力選手のほとんどが残り、監督もズノイモから、かつての監督カルボダが戻ってきてくれ、圧倒的な成績で優勝し、一年での昇格を決めた。しかし、復帰した一部ではシーズン開幕当初から守備が安定せず、攻撃もちぐはぐでなかなか成績が上がらなかった。それでも秋はまだましだったのだ。年が明けてからはトンと勝てなくなり、あえなく一年で二部へと逆戻り、一緒に落ちたのが前回オロモウツと生き残りを争ったバニーク・オストラバだった。
 そして、ここ三年で二度目の二部でのシーズンが始まった今年の夏、オロモウツは勝てなかった。三試合連続で1対1の引き分け、この時点で監督を解任しようという声も上がっていたようで、監督自身もこの時期、いつ解任されてもおかしくないと考えてたらしい。

 現在の監督はバーツラフ・イーレクで、去年の秋に、カルボダが解任された後、監督に就任したが、二部への降格を防げなかった。以前はオロモウツで下の世代の監督を務めていたのだが、U19代表でフジェビークのアシスタントを務めた縁で、フジェビークがスパルタのジェネラルマネージャーになったときに、引き抜かれてラビチカ監督のアシスタントをしていた。そして、ラビチカ解任後にオロモウツに戻ってきて、しばらくしてAチームの監督になったわけだ。
 前回降格したシーズンは、シーズン中にも一度ならず監督を代えていたし、降格直後にも監督を代えた。それでも一部に復帰した後はうまく行かなかったので、今回は監督を変えないことを選んだようだ。前回と違って夏の移籍期間に選手の入れ替わりもあったし、降格で選手たちの意気も上がらないだろうしで、最初から圧倒的な成績を残すとは期待していなかったのだが、三試合連続引き分けというのは、試合内容の渋さもあいまって大きな期待はずれだった。現在二部で最下位を独走中のプロスチェヨフ相手にも引き分けてしまったからなあ。

 結局、代表の試合でリーグ戦が中断した時期に、解任するかどうかの話し合いが行われ、結論が出ずに、当時中東でバカンス中だったクラブの会長マーチャラに結論を一任したらしい。マーチャラは、チェコスロバキア代表の監督を務めた後、長らく中東諸国の代表監督を務めていたから、日本でもそこそこ名前は知られているだろう。いつの間にかオロモウツに戻ってきてシグマの会長になっていたのである。
 マーチャラが出した結論は、もうすこしチャンスを与えようというもので、そのチャンスをイーレクと選手たちは十分以上に生かした。第四節の試合で、内容はよくなかったらしいが何とか勝利を収めると、あとはつき物が取れたように、試合内容も結果も一気に向上し、怒涛の九連勝で、こちらは降格後シーズン当初から好調を続けているバニーク・オストラバを抜き去って、首位に浮上した。ただ、連勝中も一点差で勝つ試合が多かったから、オロモウツが圧倒的な存在になっているというわけではないようだ。

 第十四節でフリーデク・ミーステクに苦戦して、何とか同点に追いついて引き分けたときには、勢いもとまるのかなと思っていたら、次の試合でウースティー・ナッド・ラベムを5−0で粉砕してしまった。これで十五節まで終わって、11勝4分0敗である。このまま、無敗で二部を優勝して、一部昇格してと、来期の皮算用をしていたら、気になるニュースが新聞の地方欄に出ていた。
 その記事によると、オロモウツのクラブは存続の危機に瀕しているらしい。何でもここ数年赤字経営が続き、総額が七千万コルナ、日本円にして三億円前後に上っているというのだ。チャンピオンズリーグ出場を夢見て、毎年多額の投資をして補強を進めているスパルタが垂れ流す赤字に比べればかわいいものだが、オロモウツにはスパルタと違って、大きなスポンサーも、大金持ちのオーナーもいない。結構お金を出してくれるオーナーはいたのだが、これ以上は無理だといってクラブから離れたのが、前シーズンの終わりだったかな。

 かなり昔の話になるトマーシュ・カラスのチェルシー移籍はともかくとして、ホジャバ、ドレジャル、ポスピーシル、ナブラーティル、プシクリル、シェフチークなどなど育て上げた若手選手を、チェコのほかのチームに売却してきたから、それなりにお金は入ってきたと思うんだけどなあ。ホジャバとか、チェコの国内移籍では上限とも言える二千万コルナぐらいでは売れたはずだし……。去年の開幕当初の調子が上がらなかった時期に、あれこれ何人も無駄な中途半端なベテラン選手を補強していたからなあ。あの手の無駄遣いが積み重なっての結果ということなのだろう。
 ということは、イーレクを解任しなかったのも、財政的にしたくてもできなかったという面もあるのかもしれない。記事によれば、本来クラブのものだったスタジアムをオロモウツしに移管することで、一息ついたらしいが、それが資産の売却という意味なのか、市の物にして維持管理を担当することでお金がもらえるようになったのか、それとも別の方法なのかはよくわからない。

 せっかく選手たちががんばって、このまま行けば一部昇格を勝ち取れそうなのに、かつてのボヘミアンズ・プラハのようにクラブが消滅するという事態だけは避けてほしいところだ。必要なのは強力なスポンサー、もしくはオーナーだというから、ビロード革命後のどさくさにまぎれて大金持ちになった連中の中から誰か出てこないかねえ。オストラバの炭鉱会社の所有者で金がないから倒産させるとか言っている、自転車のクイックステップのオーナーのバカラあたりがトチ狂ってくれないかな。無理だろうなあ。
 ここはやはり市民民主党のラングルとか、社会民主党のロズボジルとかの不祥事起こして人気を落とした政治家の出番だな。自分で溜め込んだお金を出したら、あるいは便宜を図って金儲けさせてやったやつにお金を出させたら、人気回復で、次の選挙勝てるかもよ。
11月6日20時。



 タイトルに深い意味はない。またまた無駄な文学趣味の発露である。11月8日追記。

2016年09月27日

ブリュックネルとの遭遇(九月廿四日)



 毎週土曜日に、オロモウツのホルニー広場で、生産者直売という名目の朝のマーケットが開かれる。実際には生産者ではない転売業者も参入できていて本当の生産者直売をやっている人たちの間には不満がたまっているらしいが、そのマーケットに買い物に出かけていたうちのが帰ってくるなり、「誰を見かけたと思う」と聞いてきた。職場の偉いさんとかあれこれ名前を挙げたけど、どれもはずれ。答は、カレル・ブリュックネルということで、思わず「ツォジェ」とチェコ語で声を上げてしまった。
 これが十年前であれば、カレル・ブリュックネルといえば、日本でも結構有名で、知っている人も、ヨーロッパサッカーのファンを中心にいたと思うのだけど、監督を引退して久しい今となっては、チェコ国外、とくに遠く離れた日本なんかでは忘れられた人になっているだろう。チェコではたまにメディアに登場して、相変わらずの皮肉な戦術狂ぶりを見せてくれるけれども、普段は悠々自適の生活をしているらしい。

 知らない人のために、ちょっとだけ説明をしておくと、カレル・ブリュックネルは、サッカーのチェコ代表で史上最高の監督である。2002年の日韓ワールドカップの予選で敗退した後に、監督を引き受けたブリュックネルは、自ら鍛え上げてヨーロッパ選手権で優勝させたU21代表の選手たちをA代表にも積極的に登用し、ネドベドなどの世代と融合させることで、最強のチェコ代表を作り上げたのだ。
 ヨーロッパ選手権でも、ワールドカップでも優勝や準優勝などの成績は残せなかったが、予選を危なげなく勝ち抜いていただけでも、あの時期の代表は別格だった。任期の終盤は長期政権の弊害か、選手選考のマンネリや、コンディショニングコーチを置かないことなどを批判されることが多くなったが、残した成績だけでなく、試合を見ていて楽しく、試合後の記者会見を聞いても楽しいという点でも、最高の監督だった。

 そのブリュックネルは、オロモウツの人なのである。出身は違うかもしれないけれども、オロモウツの人なのだ。90年代にはシグマ・オロモウツの監督として国内リーグで好成績を残すだけでなく、ヨーロッパのカップ戦でもかなりいいところまで進出したらしい。さすがにこの辺はチェコに来る前なので、詳しいことは知らない。
 チェコ代表監督時代にもシグマのスタジアム内にブリュックネルの事務所みたいなものが置かれていてそこで仕事をすることも多かったというし、オロモウツでのサッカーの試合の中継で客席で観戦している姿が映し出されることもある。だから、ブリュックネルはオロモウツの人でオロモウツに住んでいるのだ。

 マーケットでのブリュックネルは、特に目立つこともなく、買い物をするお爺さんという姿が様になっていたらしい。そう言えば、もう何年前になるだろうか、オロモウツの南の郊外にできたオリンピアというショッピングセンターの駐車場で、買い物袋を提げて買い物帰りのお爺さんといいたくなる姿を、一度見かけたことがある。ということは、うちのは二度目のブリュックネルとの遭遇ということになる。うらやましい。

 そうしたら、ベランダ園芸用の土を求めて出かけたオビという園芸用品のお店にいたのだ。我々が店内に入ったら、白髪の老人の後姿がレジに並んでいるのが見えた。うちのがあの人だよというので、こっそりと顔が見えるように場所を移動して、久しぶりにブリュックネルの渋さにあふれる尊顔を拝することができた。やはりこの爺さんかっこいいなあ。こんな爺になれたらいいなあなどと考えてしまった。
 その後、行く予定だったスーパーテスコでも遭遇するかもなんて笑っていたのだけど、残念ながらそんなこともなく、ブリュックネルがどんな車に乗っているのか興味があったんだけどと言ったら、うちのは、シュコダのオクタビアじゃないかななんて言っていた。シュコダはチェコのスポーツ関係者に自動車を提供することがあるから、ありえなくはない。サッカー選手御用達のドイツの高級車とか、サッカー代表のスポンサーのヒュンダイの車とかよりは、ブリュックネルに似合っているし。

 オロモウツで見かけたサッカー関係の有名人は、ブリュックネルだけではない。有名人と言ってもチェコレベルでの有名人だけど、うちのは、スーパーマーケットで自転車を停めようとしている元オロモウツなどの監督のペトル・ウリチニーにこれでいいのかねなんて質問されたことがあるらしいし、テニスをしにいったら隣のコートにいたのもウリチニーだったと言っていたかな。
 キャリアの最後にスラビア・プラハで活躍し、チャンピオンズリーグに出場させたマルティン・バニアクは、同じレストランで食事しているのに居合わせたことがあるし、トラムの中から街を歩いている姿を見かけたこともある。
 この二人も、オロモウツの出身かどうかは知らないけれども、個人的にはオロモウツの人としてカテゴリーしているので、ついつい応援してしまう。二人とも、ウリチニーは監督を、バニアクは選手を引退してしまって、今は応援のしがいがないが、今後バニアクが監督になったらどこのチームであっても応援してしまうだろうなあ。
9月25日11時30分。


 これは、当然オロモウツの話になるよね。9月26日追記。
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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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