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2019年04月13日
オロモウツ観光案内順路2(四月十一日)
微妙に題名が変わっているがそこは気にしてはいけない。とにかく昨日の続きである。すでに関連したことを書いたものもあるので、リンクを貼りたいところではあるのだが、自分でもどこに何を書いたか覚えていないので、時間に余裕があったらということにさせてもらう。継続が力になっていないよなあ。
とまれかくまれ、本日のスタートはドルニー広場である。テレジア門の方からドルニー広場に近づくと、広場の真ん中にそびえる聖母マリアの碑が目に入ってくる。その碑の説明に入る前に、広場に出たところの左側の角にある建物に注目しよう。レリーフつけられているので、見落とすことも間違えることもないと思うが、幼少のころに父親に連れられてオロモウツにやってきたモーツァルトが最初に滞在した建物である。もっともモーツァルト父が身分の低い人が住むといわれたドルニー広場を嫌って、教会関係者が住んでいたバーツラフ広場に転居したため実際にこの建物にいたのは、ほんの数日だったと言う話だけどね。
もし、チェコ語を勉強している人を案内している場合には、この建物に入っているレストランのハナーツカーについての解説を忘れてはいけない。内装の一部として壁にチェコ語の文章があしらわれているのだが、ハナー方言で書かれているため、外国人のチェコ語学習者には理解できないものが多いのである。どのぐらいわかるか挑戦してみる? と挑発してもいいかな。
ビール好きであれば、ハナーツカーとハナー地方を表す形容詞を店名にしていながら、ハナー地方のビールが飲めないことを話題にしよう。たしか、今ここで飲めるのは、遠く西ボヘミア産のピルスナー・ウルクエル傘下のブランドだったはずである。ラデガストはこっちのほうで生産されているとはいえ、モラビアシレジア地方のノショビツェというヒュンダイの工場がある町の生産だからなあ。オロモウツの地ビールのホモウトが置いてあれば完璧だけど、ハナー地方だからリトベルでもプシェロフのズブルでもいいと思うんだけどね。
さて、聖母マリアの碑に戻ろう。一番上には赤子のイエスを片腕に抱いた聖母マリアの像が置かれている。マリア様がイエスのほうを見ていない理由については、視線の先に売春宿が来ることになるからという理由を師匠から聞いた。ただ、それで納得しては面白くない。幼子イエスもマリア様のほうを見ておらず、反対側を向いているのである。ということは、イエスの視線の先に売春宿があってもかまわないという認識を当時の人は持っていたことになるのだろうか。
それからイエスの視線だけでなく、マリア様がイエスのほうを向いた場合の視線をたどると突き当たる建物が、前面から馬の前半分が突き出しているような装飾のついた建物である。この建物で仕事をしていた娘が、魔法使いから手に入れた惚れ薬を間違えて馬に飲ませてしまって、馬に追い回された娘が窓から飛び降りて逃げたのを、馬が追いかけて飛び降りようとした結果、こんな装飾が出来上がったと言う伝説が残っている。
この二つをあわせて考えると、娘が仕事をしていたのは売春宿で、売春婦の境遇から脱出するために惚れ薬を手に入れて、金持ちか貴族の男に飲ませようとしていたのではないかという気がしてくる。最初にこの話を聞いたときには、けなげな女の子の話だと思ったんだけど、印象が大きく変わってしまった。昔話に真実を求めても仕方がないと言うのはその通りなんだけどさ。
ここで、ドルニー広場とホルニー広場の関係を見ておこうか。この二つの広場は、「ホルニー=上の」、「ドルニー=下の」と訳せるのだが、それぞれの広場の標高の上下を表しているのではない。その証拠に一番高い点は、二つの広場が接触するあたりで、どちらの広場からでも反対側の広場に行くためには上り坂を登ることになるのだ。一番高い点も低い点もドルニー広場にあるんじゃないかというのが実感である。ドルニーのほうが傾斜がきついし。
このドルニーとホルニーの区別は、住んでいる人の身分の上下で決められたのだという。だからモーツァルト父は、ドルニー広場での滞在を嫌って、ホルニー広場よりも高位の聖職者たちが住んでいたバーツラフ広場に転居することを選んだのである。この上下関係は形を変えて現在にも残っているようで、建物の改修なんかに関してはホルニー広場のほうが優先されているような観がある。
ドルニー広場で見ておくべきものとしては、あとはネプチューンとユピテルの二つの噴水があるぐらいである。冬場だと、広場の下半分で特設スケート場が営業しているのだけど、今は駐車場である。ドルニー広場には二、三軒喫茶店ができていて、プラハの知人が言っていた、十年ぐらい前と比べたら美味しいコーヒーが飲めるお店が格段に増えたというのに賛成できる根拠となっている。とはいえ、あのころはチェコでまともなコーヒーが飲める店はなかったと言うのは、オロモウツのことを考えるといいすぎだと思うけど。
ドルニー広場を出て、ホルニー広場とは反対側にある通りに入ろう。右手前方に大きな教会らしき建物、その奥にレンガ造りの典型的な昔の工場の建物がスーパーになっているのを横目に見ながら、最初の角を左に曲がる。坂道を登っていくとオロモウツで一番知られていないブラジェイ広場にでる。特に見るべきものがあるわけではないのだが、オロモウツ一周と称するからには見ておく必要がある。
広場に入って、すぐに右に曲がって建物に沿って歩いていくと、城下公園の位置口に下りていく階段に出る。この辺は敵に攻撃されにくいように、がけ下にまで水が流れ込むような堀があったらしいのだが、現在では埋め立てられて、かつての水堀の名残は、モラバ川の支流ムリーンスキー川が残るのみである。
ここらで、話しつかれたし二回目の休憩といこうか。
2019年4月12日17時30分。
Olomouc 1:12 000, plan mesta =: Stadtplan = City map (Czech Edition) |
2019年04月12日
オロモウツ観光散歩ルート1(四月十日)
昨日オロモウツに来られた方が、午後は時間が空くと仰るので、こちらも時間の調整のしやすい仕事だし、一時過ぎから昼食に出かけて、その後町の案内をすることにした。せっかくオロモウツまで足を延ばしてくれたのである。洗脳してオロモウツ好きになって帰ってもらわねばなるまい。問題はどういうルートで、見せたい場所を案内するかである。ということで、実際に昨日案内したのとは違うけれども、理想的に近いルートを想定してみよう。地図は例えばここを参照。
始まりは当然、旧市街のホルニー広場からである。天文時計でがっかりして終わるというのも捨てがたいから、ホルニー広場で終わるという手もあるのだが、12時きっかりに戻ってくるような時間の調整が難しいから、12時に天文時計の前からスタートするスケジュールにするのが望ましい。少し早めに到着したら、世界遺産の聖三位一体の碑や、天文時計の前にある昔のオロモウツの街を再現したモデルやヘラクレスの噴水を見てから天文時計の前に移動する。
残念なことに、現在オロモウツの市庁舎は改修中で、周囲に足場が組まれていて、塔の上の部分の解体作業が続いているのだが、天文時計だけはおおわれていないから、人形とニワトリの動きはみられるはずである。ただ下の天文時計の本体は見にくくなっていて、いつもよりがっかりドが高まっているかもしれない。
天文時計とその前の聖三位一体の碑や噴水を見たら、塔のある方から市庁舎の裏側に向かおう。二つ目の噴水が目に入ってくるはずである。これがオロモウツの伝説上の建設者シーザー、別名カエサルの噴水である。シーザーが顔を向けているほうの丘の上でローマ軍団の駐屯地の遺跡が発掘されたなんて蘊蓄を垂れてもいい。
シーザーの噴水のある広場の角のところには、マーラーという名の喫茶店があって、これは作曲家のグスタフ・マーラーにちなんでいる。マーラーと細い通りを挟んで反対側の建物、広場からはちょっと引っ込んだ、魚の紋章のついた建物がマーラーが住んでいたと言われる家である。案内するのがマーラーファンなら、喫茶店マーラーか、マーラの住んでいた建物に入っているお店で一服するのも手である。
マーラーつながりで市庁舎の裏を通って広場の反対側に向かおう。オロモウツで7つ目の噴水、例外的にブロンズ製のアリオンの噴水の先に、マーラーが仕事をしていたモラビア劇場の建物が目に入ってくる。多少の値段の高さをいとわないのなら、その隣の建物のモラビア・レストランで食事をとるもいい。なかなか雰囲気のいいお店である。以前は高そうで敬遠していたのだけど、予想していたほどは高くなかった。
反対側に入っているカフェ・オペラは、昔々第一次共和国時代にも有名な喫茶店が入っていたところらしいから、昔をしのべるかもしれない。どうだったかなあ。ひところの自転車店よりは確実にしのべるけど、モラビア・レストランのような凝った内装ではなかったかもしれない。アリオンの噴水の脇にはカメがあって、その近くには最近できた、水が出るらしい地面から突き出した円柱についている蛇口もある。ただここの水が飲めるのかどうかは知らない。
市庁舎が改修中でなければ、中庭には入れるのだが、現在は市庁舎の建物の中に入ろうと思ったら、ツェーザル(シーザーのこと)という名前のレストランに入るしかない。レストランで食事するだけでなくトイレにも行くと、建物の中がもう少し見られる。ガラス張りのドアが開いていれば、上の階にあるホールまで行けるのだけど、開いていないだろうなあ。
これで、ホルニー広場で見るべきものはすべて見たことになる。これからどちらに向かうかだが、坂を上って下の広場に行ってもいいのだが、一筆書きでオロモウツの見るべき場所を一周するには、アリオンの噴水から一番近い通りに入っていくほうがいい。この通りの右側にキキリキという鶏の鳴き声を名前にしている鶏肉料理専門のレストランがあるのは、指摘しておこう。
通りがトラム通に突き当たるところで止まろう。横断歩道を渡ってまっすぐ行くと、展示会会場のフローラにつくのだが、今回の散歩コースには関係ない。右手前方に見える立派な建物が、地方裁判所である。これはイギリスのスコットランドヤードの建物を模したものだと言われているので、案内する人の中にイギリス好きがいたら感想を聞くのを忘れてはいけない。
裁判所の二軒ぐらい隣の建物が、珍しく赤レンガで建てられた教会のような建物で、本来は教会として建てられたのだが、現在では隣にある図書館の書庫として使われている。もし、信じてくれない人がいる場合には、近くにまで行って教会の窓を見上げると、本棚の棚があるのが見えることを指摘しておこう。
交差点の左手手前には、大きな城壁の残骸が残っている。かつては兵舎としても使われていたので、厚い壁の内部には飲食店がいくつか入っている。壁の切れ目のところから半地下に入っていくのは喫茶店で、その市内側の隣の階段を上っていくとレストランがあるらしい。改修が終わってきれいになっているので、壁の上に上って上から辺りを見下ろすのも悪くない。
その後は壁の外側を通っても、内側を通ってもいいのだが、ここは内側を通ろう。チェコ語を勉強していたころに学生たちに連れられていったことのあるキャプテン・モルガンというピザ屋(学生がよく行くのは国際学生証があれば二枚目がただになるというサービスをやっていたからである)を初め二つ三つレストランか飲み屋を越えると、城壁に穴が開いていて外側に出られる通路があるはずだ。半地下の短い通路を通って城壁の外側に出るとトラムの通る大通りである。ここで、この現在はトラムが通っている大通りが、かつてオロモウツが城塞都市だったときには、川が流れていてお堀の役割を果たしていたことを説明しておこう。
左手前方に、テレジア門と呼ばれるマリア・テレジアにちなんで名前が付けられた門の残骸が見えてくる。城壁の中に入っているアイリッシュパブの入り口の前まで行って、門のほうを向くと、城壁に開いている穴、つまりアイリッシュパブの入り口の穴と、テレジア門の真ん中の穴が対応していいることが見て取れる。そうすると堀に橋が渡されていて、ここから要塞都市への出入りができていたことが想像できるはずである。
テレジア門の左手は、現在では駐車場になっているのだが、ここにはかつてシナゴーグがあった。第二次世界大戦中にナチスによって破壊されたのだが、他の多くの町とは違って再建されることがなかったのである。駐車場の奥に見える白い大きな建物は、ドイツ騎士団の経営するギムナジウムだから、世界史好きの人の説明すると喜んでもらえるかもしれない。また、テレジア門の外側には、オロモウツが城塞都市としての地位を失うまでは、見晴らしを確保するために建築物はもちろん木も存在することが許されなかったという話はここでしておこうか。
城壁が残っているのはほんの一角だけで、残っている部分の反対側の終わりは、城壁の上にさらに建物が継ぎ足された感じになっていて、兵舎が足りなくなって収容人数を増やすための対策だったのかななんてことを考えさせる。とまれみょうちくりんなアートの描かれた城壁の切れ目のところを左に曲がって、旧市街、具体的にはドルニー広場に向かおう。
ちょっと疲れたのでここらで球形を入れるのも悪くないかな。
2019年4月11日23時。
2019年03月18日
オロモウツの花冠(三月十六日)
花冠というけれども、実際にはそんなかわいらしいものの話ではなく、ちょっと物騒なものの話で、昨日の話しにもちょっと出てきた城塞都市オロモウツの周囲に配置された砦の配置が、オロモウツにかぶせられた花冠のようだというのである。その様子はこのページで確認できる。チェコ語では「fortový věnec」と呼ばれている。一つ一つの砦を「fort」と呼び、それの配置を「věnec」、つまり花冠と呼んでいるのである。昨日のラディーコフの砦は、オロモウツの東側の山の中に配置された4つのうちのひとつである。
スバティー・コペチェクを見学した後、夕食にはまだ早すぎる時間だったので、自分もまだ行ったことのないこの手の砦の一つに案内することにした。冠の内側にある二つの砦のうちの北側のほうである。南側のやつはトラムの停留所から急な坂を登る必要があるので、ちょっと避けたかったので、トラムの路線沿いにあるこちらを選んだ。
問題はどの停留所で降りるかだったのだが、見事に失敗した。一番近い停留所のプラシュスカーからは入っていく道がなく、一つ手前の停留所シベニークまで戻って、入っていいのかどうかもわからない空き地を抜けてフォルト・ガルゲンベルクに向かった。砦の一部なのか外側にあるのかよく分からない一番手前の建物だけは改修されて見られる姿になっていたが、それ以外の砦の本体というか、指揮所が置かれたと思しき建物も、それを守るように二重に囲んでいる建物もレンガが、むき出しになっていた。
一部は現在も使用されているようだったけど、一番外側と二番目の建物の間は、荒れるに任されていた。昔何かに使用されていたことを物語るように外付けのダクトがめぐらされている部分もあったが、ところどころでつながっておらず、長らく使用されていないのは明らかだった。オロモウツの花冠をテーマにしたサイトのこの砦のページには、わりときれいな写真が使われているけど、実際はさらに荒れ放題で、案内した知人は、日本だったら犯罪の温床になるとして破壊されている可能性が高いという感想を漏らしていた。
冠の内側にあるもう一つの砦は、パラツキー大学の医学部の大学病院ある丘の上にあって、大学病院の所有物になっているらしい。こちらは文書保管庫として利用されているというから、シベニークのものよりは整備されているのではないかと思うのだけど、大学病院でも最寄のトラムの停留所から昇っていく坂の急さにうんざりするのである。さらに上まで登っていく気には今のところなれていない。ちなみにこの砦の名前はフォルト・タフェルベルクである。人名に由来しているのだろうか。
本来は、もう一箇所、花冠の内側にこの手の砦が建設される予定だったが、計画だけで建設が始まる前に、オロモウツの要塞都市指定が解除されてしまったらしい。いやそれだけでなく花冠を構成する砦の一部も建設されなかったという。特に東南の部分が建設が間に合わなかったんだったかな。仮想敵国は北方のプロシアだったわけだから北側を先に整備するのは当然だったのだろう。
全部で20以上になる砦群の多くは、特に改修を受けることもなく放置されていて、何に利用されているのかもわからないのだが、オロモウツから北西にあるクシェロフにおかれた十七番砦は、改修を受けて博物館として一般公開されている。ラディーコフの砦と合わせて二つということになるのか。オロモウツ市内にあるのが改修公開されていないのは、他に文化財が多すぎてそこまで手が回らないということだろうか。こういうのが好きな人は、建物の中には入れなくても、外から建物を観察するだけでも喜んでくれそうだけど。ということでオロモウツ花冠ツアーというのを企画する旅行会社ないだろうか。
2019年3月17日23時55分。
2019年03月17日
スバティー・コペチェク(三月十五日)
チェコ語の動詞の話はいったんお休みにして、オロモウツの近くの巡礼地のお話である。今までこの地について書いていなかったのが不思議なぐらいなのだが、こういうのは一度タイミングを失してしまうと、なかなか機会が巡ってこないものなのだろう。書く予定で暖めていながら、文字にできていないものがいくつもあるし、その中には忘れてしまったものもあるような気もする。
それはともかく、今週日本から知人がオロモウツに来ていて、たまたま午後から時間が空いた日があったのだが、何度もオロモウツに来ている方なので、街中で案内すべき場所が思いつかない。ふと思いついて聞いてみたら、コペチェクには行ったことがないということなので、二人して駅前から11番のバスに乗った。11番は終点がいくつかあるのだが、どれもスバティー・コペチェクまでは行くはずなので、どれに乗っても問題ない。111番という途中の停留所に停車しない直行便もあったはずなのだが、今回は見かけなかった。
乗ったのはラディーコフというコペチェクよりも奥にある集落行きで、ここは19世紀の後半に要塞都市オロモウツの防御力を高めるために周囲いくつも建設された出城のようなものの一つが残っているらしく、一度行ってみたいと思っているのだが、有料で見学できる施設になっているようで、予約もせずにふらっと出かけて、中に入れるかどうかわからないので、今回はパスである。
駅前の停留所を出たバスは線路沿いに北に向かう。東西に流れるビストジツェ川を越えてしばらく行ったところで、線路の下をくぐって駅の裏側に出る。そこからフバールコビツェという地区を抜けて東北東に向かう。オロモウツの東に広がる平地が丘の麓に突き当たるサモティシュキで道は右に曲がり、バスは左に大きなカーブを描きながら丘を登っていく。
麓から、並木の間を抜けてまっすぐ登っていく道もあるのだが、傾斜が急すぎて歩いてもぼるのも大変である。ただ、その大変さが宗教的熱狂に駆られた信者にとっては、巡礼地にたどり着く前の最後の障害として重要だったのかもしれない。コペチェクとはオロモウツ、モラバ川をはさんで反対側にあるドゥプも、ホレショフの近くのホスティーンも、巡礼地が川沿いの平地から見上げるような高台、山の上に置かれているのは、遠くから見えるというだけでなく、そういう理由もあるのだろう。
スバティー・コペチェクのバス停で降りて、横断歩道を渡り、オロモウツのほうに引き返すような方向に道をたどると、大きな教会の裏側が見えてくる。教会の側面にへばりつくようにお土産屋が並んでいるのが、チェコには珍しいような気がする。シーズンオフのせいか、教会が改修中のせいか、空いているお店は一軒もなかった。あったとしてもこちらが欲しくなるようなお土産は置いてないに違いないと思っていたら、しまっているお店に「ハナー共和国」の紋章が飾ってあった。これは売り物だったら欲しいかも。
教会の正面に出ると、遠くに、参道の並木の上に、オロモウツの町並みが目に入ってくる。空気が濁っていてくっきりと見えたわけではないけれども、聖バーツラフ大聖堂の塔なんかはよく見えた。ちょっと感動物の景色なのである。そして振り返ると、白と黄色の目に優しい巨大な教会を見上げることになる。これがスバティー・コペチェクの巡礼地の中心聖母マリアを記念した教会である。
現在の巨大な教会が姿を表したのは17世紀後半のことだが、最初にここに教会関係の施設ができたのは17世紀前半のことらしい。正確には覚えていないが、オロモウツの商人が妻の死をきっかけに礼拝堂を建てたのが最初だという記事を読んだ記憶はある。ただ随分昔の話なので、記憶違いの可能性もある。調べればいいのだろうけど、時間がない。
EUの助成金で改修中ということを声高に主張する看板が教会の景観を汚していたとおり、中には入れなかった。開くかどうか試してみようとしたら、中から工事の人が出てきたので諦めた。内装もだけど、中庭も見たかったんだけどねえ。とまれ、こんな巨大な建築物は、以下に当時のキリスト教が信者たちから多くの金を集めていたか、もしくは世俗領主としてのキリスト教の大司教がいかに領民を収奪していたかを、如実に物語っているなんていうのは野暮なんだろうけど、金や資産に異常なまでにこだわる現在のチェコのキリスト教を見ていると、幻滅してしまうのも確かである。
教会の脇にある、以前(と言っても15年以上前)入ったときにはあまりぱっとしなかった喫茶店が、見違えるようにしゃれた店になっていたのにはちょっとびっくりした。オロモウツ周辺の企業が生産している商品の販売もしていて、お土産探しにも悪くなさそうだ。ただ、コーヒーとか紅茶が多いのは、お土産の観点からすると、ちょっと勘弁してくれだったけど、コペチェク絵や写真の印刷された箱にはいったお菓子なんかもあったから、探せばいいものが出てくるかもしれない。次は日本に送るオロモウツ土産を買いに来ようかな。
2019年3月16日24時。
タグ:S先生
2019年03月04日
オロモウツ三連勝(三月二日)
先日、オロモウツ在住の日本人の集まりがあり、出席者の一人にシグマ・オロモウツの年間チケットを買って観戦に通っている方がいて、今年のシグマの成績の悪さの愚痴になった。秋に負けまくったのはもう過去のことだから忘れるにしても、春のシーズンが始まってからも初戦があまりにもふがいなかったのである。
その人とは補強選手がチームに会っていないのがいけないなんてことで意見が一致したのだけど、去年の冬にFWのホリーをプルゼニュに放出した穴埋めができていないのが痛い。もう一つの得点現になっていたプルシェクのシュートが入らなくなったのと合わせて、とにかく点が取れなくなったのが、秋のシーズンの成績が最悪だった理由である。いや徴候は去年の春の時点で出始めていたのだ。
今シーズンが始まる前にホリーの代役としてオロモウツに移籍してきたのはネシュポルだった。ベテランであちこちのチームで活躍してきたらしいけど、ほとんど名前を聞いたことのない選手で、これでいいのかと不安だった。オロモウツに来て化けたベテランFWというとオルドシュという前例はあるのだけど、移籍してきてすぐ活躍し始めたわけではないし。
それに若い頃にチェルシーに買われていった過去があるというスロバキア人のMFを取ってきたのだけど、この選手もまた中途半端な選手で……。こういう選手を連れてくるぐらいなら、チェコでも有数の育成能力を誇るオロモウツなのだから自前の若手を抜擢した方が、負けた場合に応援しているほうとしてはまだ納得できる。
冬の中断期間の親善試合で、期待の若手FWのユニスが活躍したと聞いたときには、ドレジャル、ホリーに続くオロモウツ育ちの大型FWが攻撃の中心になるかと期待したのだけど、そんなことはなかった。ユニスは下の世代ではチェコ代表で活躍してきたけれども、A代表としてはイラク代表から声がかかっているらしい。父親がイラク出身の人なのかな。
そういう事情はともかく、今年に入って最初の公式戦はホームで上位争いをするヤブロネツとの試合だった。正直、オロモウツを応援する立場からすると、ベネシュの同点シュート以外には見るべきところは一つもなかった。選手たちが自信を失っているのが見え見えで、攻撃の際にはミスからのカウンターを警戒してか無難なプレーに終始して、しかもミスが多く得点できそうな予感は全くなかったし、守備で相手ボールを奪うと無駄にリスクを犯してボールを保持しようとして奪いかえされてピンチを招いていた。決勝点を決めたのがオロモウツ育ちのドレジャルだったというのだけが救いである。
二試合目は、プラハでのボヘミアンズとの試合。秋のホームでの試合は2−0でリードしていながら逆転負けという最悪の結果になったが、ボヘミアンズも調子はよくなさそうで下位に沈んでいるから、残留のためには勝っておかなければならない試合である。内容はひどかったらしいのだけど、なんとか前半の得点を守って、1−0で勝って、順位を13位に上げた。
三試合目はホームでこれも残留を争う相手のプシーブラム。この試合では、前半に挙げた得点を守るだけでなく、終了間際に2点目を追加することにも成功して、二連勝。久しぶりにプルシェクが得点を挙げたのもうれしい。今シーズン初めての連勝である。
四試合目は、最下位のドゥクラ・プラハとプラハのユリスカでの試合。連勝のおかげか、相手があいてとはいえ、去年のよかった頃のオロモウツを思い出させるようなところが増えている印象で、4−0で勝って三連勝。倍、倍できているから次は8点だなんて浮かれてしまう。残留を争う相手との直接対決で三連勝できたのは大きい。しかもこれで10位まで順位が上がった。
チェコリーグは今年から、本来の30節に加えて、三つのグループに分けて追加のリーグ戦が行われるわけだが、10位に入れば、残留を争う追加リーグではなく、ヨーロッパリーグの予選出場権一枠を駆けたリーグに入ることになる。しかも優勝とヨーロッパのカップ戦の出場権を争うの追加リーグに出場できる6位のチームとの差は勝ち点5にまで縮まった。
と景気のいいことを欠いておきながらなんだけど、次の相手は今7位だけど上位争いをしてきたリベレツなので、次は負けるだろうなあ。と言うことでまける前に景気のいい話を書いておきたかったのである。
2019年3月3日24時。
2019年02月23日
ホテル・アリゴネ(二月廿一日)
オロモウツに現存するホテルの中で、一番最初に中に入ったのがこのホテルである。中に入ったとは言っても、フロントの前を通って、奥の中庭に屋根をかけて屋内にして営業しているホテル付属のレストランに入ったのが最初だけど。あれは、初めてサマースクールに参加して、受付を済ませた同曜日だったか、日曜日だったかに、オープニングの夕食会がここで行われたのである。サマースクールの食券が使える指定のレストランにもなっていたから、しばしばここで食事をしたのだけど、あんまりよく覚えていない。
このアリゴネは、位置的にはオロモウツで最も町の中心にあるホテルだと言ってもいいかもしれない。共和国広場から、市庁舎のほうに向かってすぐのところにある左にそれていく道を、パラツキー大学のコンビクト沿いに登って行って、正面に見えてくる神学部の建物と道を挟んで右側にある。だから中心にあるのと同時に、市内では一番高いところにあるホテルだと言うこともできるか。そのため大きな荷物を抱えて宿泊する場合には、タクシーを使ったほうがいい。細い道を入り込んだところにあるけど、車一台なら通り抜けられるだけの幅はある。
以前はレストランの入っている建物だけで営業していたと思うのだが、この辺りは古くからある小さめの建物が立ち並んでいるところなので、キャパシティの問題があったのか、現在では同じ通りののいくつかの並びの建物も改修されてホテルの一部になっている。本館には一度入ったことがあって、二階、三回に登る階段が、螺旋階段で趣があるのはよかったのだが、狭いのには閉口させられた。一人で登っていても壁に肩をぶつけてしまい、すれ違うなんてとんでもないという状態だった。
何でこのときホテルの中に入ったんだったけとしばし考えて思い出した。オロモウツ市長の知り合いとかいう日本人が、日本で芸事をやっている人たちを連れて来て、公演を行ったんだ。そのときに頼まれて、ホテルまで案内して、年配の方が多かったから荷物を上の階の部屋まで運んだんだった。荷物持ってあの階段を上り下りするのは結構厄介だったから、さすがに改修したんじゃないかと思う。ただ、歴史的な建築物として保護されているはずなので、どこまでの改築が許されているのかが問題である。
10年以上前の話になるけれども、日本から来た知り合いがこのホテルに泊まったことがある。当時はまだ日本からネット上で予約できるホテルが多くなく、そのうちの一つがアリゴネで、町の中心にあるから選んだと言っていた。この知人は本館ではなく、隣の隣の建物にある別館の二階に泊まったのだが、階段はまっすぐで幅広く上り下りがらくで、こちらの方が滞在には快適ではないかと思ったものである。
ホテルの評判は、利用した知人は特に文句も言っていなかったから、値段相応には満足したのかな。ただ、あのときは、オロモウツに到着するまでに問題がいくつも発生して、予約がちゃんと取れていて泊まれただけでも大満足という状態だったからなあ。今でも覚えているのは、チェコには珍しい日本人の感覚でも土砂降りの雨に降られて、ホテルまで行くが大変だったことと、ホテルのレストランで食事中雨音がうるさくてろくに話もできなかったことである。
そう言えば、昨年末のある日の夕方、この辺りを通ったら、新しくホテルの一部となった建物の改修工事が終わってオープニングのセレモニーをやっていた。その建物では単なるホテルでなく、流行のウェルネス設備(具体的に何を指すのかは知らない)があるらしく、開店記念に無料体験していきませんかと声をかけられた。自分の住んでいる町のホテルでウェルネストかいわれてもぴんとこないのだけど、顧客としてはオロモウツの住民を想定しているのだろうか。
2019年2月22日24時。
タグ:ホテル
2019年02月21日
事件か?(二月十九日)
いつものように午前中を無駄に過ごして、お昼頃に職場に向かった。鉄道の踏切を越えて、植物園の入り口の前を通って、公園の中に入ると、いつもとは違った異様な(大したことはないけど)雰囲気だった。入ってすぐのところに警察の車が二台、ライトバン型の救急車が一台停まっていたのだ。救急車があるということは、病人かけが人が出たということかと思ったのだが、医者なのかなんなのか男の人が一人手持無沙汰に車の脇に立っているだけだった。
入り口の正面の芝生が植えられたところの奥の方にある潅木の茂みに、赤と白のテープが張り巡らされていて立ち入り禁止になっているようだった。その近くに制服の警察官が二人立っていたが、この二人も、何もすることがないのか、どこか手持無沙汰にしていた。別にクリップボードを手にした私服の人もいたが、特に何か書いているという様子はなかった。警察関係者だったのか、報道関係者だったのか。
潅木の茂みが横から見えるところまで足を進めて振り返ると、茂みの下の空間に、人間らしいものが横たわっているのが見えた。ちらっと見た限りでは、全く動いていなかったし、救急車の人も何もしていなかったから、誰かがそこで亡くなったのかなと考えて足を速めた。野次馬も集まっておらず、大騒ぎになっていないところを見ると、事件性は少なそうである。
というような話を、うちのにしたら、「olomouc.cz」ニュースが上がっていることを教えてくれた。それによると、発見されたのは11時半ごろだというから、その少しあとにそばを通ったことになる。発見されたときにはすでに亡くなっていて、警察ではよく知っている人物だったらしい。ということは公園をねぐらにしていたホームレスのうちの一人ということになるのかな。
冬の寒さが厳しい時期には、ニュースでもホームレスの窮状や、支援団体が様々な支援をしてる様子が報道されるが、その厳しい寒さを乗り越えて、暖かくなり始めてから亡くなったというのは、本人にとっては残念なことだろう。殺されたわけではないようなので、寒さで亡くなったのかもしれない。最初一瞬、何かの事件かと思ったときには、職場への行き帰りにここを通るのはやめようかと思ったのだけど、亡くなった方には悪いけど一安心である。
安心していたら、「olomouc.cz」の次のニュースは、二月初めに同じ公園で、17歳の少年が男女の二人組に襲われてナイフで刺されたという事件が起こったことに関してだった。この事件については知らなかったのだが、警察では犯人を見つけられていないので、犯人が写った防犯カメラの映像を公開して、一般の人々の協力を求めることにしたということのようである。こういうのを公開捜査というんだったっけ?
事件が起こったのは二月二日の午後十時半過ぎらしい。土曜日だから一日うちに引きこもっていたなあ。ということで証人にはなれそうもない。もしオロモウツに住んでいる方で、しかもこの記事を読んでいて、この時間帯に「スメタノビ・サディ」を通ったという人がいたら、こちらをご覧いただきたい。
https://www.olomouc.cz/zpravy/clanek/Mladika-v-parku-na-zacatku-unora-pobodali-cizinci-Policiste-prosi-o-pomoc-svedky-29731?utm_source=otvirak
警察への情報提供は個人の信条に任せるということで。
とりあえずは、刺された17歳の少年が怪我だけで済んだとおもわれることを喜んでおこう。問題は、こんな事件のあった公園を、通るべきか通らざるべきかである。春が来ると、モルモン教を布教に来た人たちや、神様について大声で演説をする人が現れるようになるから、避けることが多いんだけどね。まあ街灯もあるし、夜中じゃなければいいか。
2019年2月20日20時30分。
2019年02月12日
クラリオン・コングレス・ホテル(二月十日)
駅の目の前にあるホテルで、鉄道で移動することを考えると一番便利なホテルである。その代わりオロモウツ市内の観光にはちょっと不便といえば不便。オロモウツは小さな町で、駅前から歩いても20分ほどで旧市街に入れるから、そこまで気にしなくてもいいかもしれない。駅前のバスターミナル停からあちこちの町へ向かうバスにも乗れるし。
昔は、ホテル・シグマという古びた、共産主義の時代を思わせる外観のホテルだったのだが、数年前に全面的な改築が行われ、見た目はものすごく改善された。そして名前もクラリオン・コングレス・ホテルに変わってしまった。ただ、建築途中の様子を見ていた限りでは、内装はともかく建物自体は日本人の目からするとびっくりするような方法で建てられていた。おそらく一部屋単位の大きさのコンテナのような直方体のブロックを積み重ねて行っていたのだ。外壁にあたる前面と奥の面は空いていたから、建物の向こう側が筒抜けに見えるという奇妙な状態になっていた。
駅前の背の高いビルの建設の際にも思ったのだが、地震が頻繁に起こるというのは建築に際して、大きな制約になっているのである。このホテルも隣の背の高い建物も、チェコの誇る集合住宅パネラークも、おそらく日本では耐震性の欠如によって建築に許可が下りないだろう。他のホテルも郊外の背の高いものは似たり寄ったりの建て方なのだろうが、建築の過程を見てしまったこのホテルに泊まるのは、泊まる必要はないけど、ためらってしまう。
以前は、メインの背の高い建物の裏には、長期滞在用の安宿があったのだが、改築によって廃止され、イベント会場みたいなものになったのかな。どんなイベントが行なわれているかは知らないけど、改築が済んですぐの年か、その次の年かには、自転車レースのチェック・サイクリング・トゥールの出場全チームの宿泊する宿になっていたから、開幕のセレモニーかなんかが、このイベント会場で行なわれたんじゃなかったか。そのときにあるチームの機材の盗難事件が発生したからか、現在では各チームでいろいろなホテルに宿泊しているようである。
せっかく、きれいに改築したのだけど、どうにもこうにも昔の古いチェコのホテル、よくない意味で共産主義時代のホテルのイメージが付きまとう、ちょっと残念なホテルなのである。オロモウツのある意味威信をかけた自転車イベントで盗難事件が起こったのもそうだけど、知人が宿泊したときに、予約したのよりもカテゴリーが下の部屋に入れられそうになったといって怒っていたことがある。おそらくオーバーブッキングで同じランクの部屋が足りなくなったのだろうが、そこで下のランクの部屋に入れようとするところが、困り者なのである。
知人は、日本人だから多少無理を言っても黙って引き下がるだろうと、なめているのが気に入らないとごねまくって、予約した部屋よりも上の部屋に変えさせたと言っていた。そこまでするかと思わなくもないけど、世界中をあちこち回った経験のある人なので、日本人ならという、足元を見たなめた態度を取られた経験も多く、腹に据えかねるものがあったのだろう。こういうところで、ちゃんとした対応を取っていれば、次も使ってもらえるだろうに、知人はこんなホテル二度と泊まらないと宣言していた。
この辺の対応に旧時代の名残を感じてしまって、どうも他人に勧める気になれない。交通の便はいいし、建物も新しくなって、人気が出てもおかしくないはずなのだけど、いまいちぱっとしないのは、こういうところに問題があるのである。ホテル・シグマ時代の方が、概観と中身があっていたから、印象がよかったんじゃないかと思ってしまう。もちろん、このホテルを利用した人がみんな不満を感じているというわけではない。たまたま知り合いがそうだったというだけの話である。ただ、こういうのは一事が万事というところがあるからなあ。
以前利用したときに、客がぜんぜん入っていなくてこれで大丈夫なのだろうかと心配になったレストランも含めて、NHホテルに対抗しようとして、全然対抗できていないという印象を持ってしまった。数あるオロモウツのホテルの中でも、ちょっと先が心配なホテルである。
2019年2月11日22時30分。
タグ:ホテル
2019年01月12日
オロモウツのサッカー史(正月十日)
サッカー史とは言っても、系統立てて歴史を語るのではなく、シグマ・オロモウツの創立百周年のニュースを、シグマのサイトで読んでいて気づいたクラブの歴史についてのコーナーの記事を読んで知った昔の話をいくつか書きたてるだけである。ということで、いつものように雑多な話が、脈絡もなく並ぶことになる。
シグマ・オロモウツの本拠地とするスタジアムの名称は、「アンドルーフ」スタジアムである。「アンドルーフ」は、「Ander」という人名から作られた所有を表す形なので、アンデルという有名なサッカー選手がいて、その人の名前にちなんで名づけられたものだと思っていた。アイスホッケーのスタジアムで選手の名前をつけたのがあったはずだし。
残念ながら、この思い込みは誤りで、アンデルというのは、オロモウツのサッカーの最初の大スポンサーの名前だった。第一次チェコスロバキア共和国時代にASOというデパート(でいいのかな)を経営していたのがヨゼフ・アンデルで、オロモウツにサッカーを根付かせるために、チームのスポンサーとなることを決め、当時としては画期的なスタジアムを建設したのだという。2年の歳月をかけて1940年に完成したスタジアムを本拠地にしたチームの名前はASOオロモウツ。ASOは「Anděl」「syn(息子)」「Olomouc」という三つの言葉の頭文字を並べたものらしい。
当時のスタジアムの収容人数は20000人で、この数は現在の収容人数の12500人よりずっと大きい。鉄筋コンクリートで建設された観客席は、残っていれば現在でも使用に耐えたのではないかというが、第二次世界大戦末期に撤退するドイツ軍によって破壊されてしまった。終戦後再建されたのは木造の観客席で、1976年まで使用されたという。
ASOオロモウツは、1912年に創設されたクラブで、ASOがスポンサーについたのが1937年。1940年には初めて行なわれたチェコカップで優勝している。ただし、ウィキペディアによれば初年度はスパルタ、スラビアなどの強豪チームは参加していないらしい。1941年から1944年の3シーズンは、ボヘミア・モラビア保護領の1部リーグに参戦し、戦後も1946/47の1シーズンだけ1部リーグに出場したが、あっさり降格して以後は低迷し、1949年にはチームが消滅している。
おそらく、1948年に共産党が政権を握った後の国有化でASO自体が国有化され、ブルジョワに支援されていたASOオロモウツは見せしめのために解体されたのだろう。旧市街からアンドル・スタジアムに向かう途中の大通の角に、ASOというロゴの入った白い建物があったような気がする。ウィキペディアで確認したら、あれはASOの事務所と倉庫の入った建物だったらしい。ASOの店舗は取り壊されてプリオールが建てられたというから、ガレリエ・モリツのあるところである。
主を失ったスタジアムは、1950年にミール(平和)・スタジアムと名前を代え、1955年までは、軍のチームであるクシーダ・ブラスティ(祖国の翼)・オロモウツが本拠地として使っていたようだ。1部リーグに参戦したのは1953と54の2シーズンだけで、軍のクラブの例に倣ってドゥクラと名前を変えて、後にフラデツ・クラーロベーに移転してしまったという。このクシーダ・ブラスティが降格して以来、1982年にシグマが昇格するまで、オロモウツに1部のチームは存在しなかったのだから、サッカーが盛んな土地ではなかったのだろう。
スタジアムのほうは、サボイ・ゾラ・オロモウツというチームが短期間使用したあとは、1969年にシグマ・オロモウツが引っ越してくるまで放置されていたらしい。その後1977年に古いスタジアムの解体と新しいスタジアムの建設が始まり現在に至るってサッカーよりはスタジアムの歴史になってしまった。
2019年1月10日22時15分。
今回主に参考にしたのはここ。
https://www.sigmafotbal.cz/historie/historie-hrist/
2019年01月10日
シグマオロモウツ創立100周年(正月八日)
去年は、チェコスロバキア第一共和国独立から100周年ということで、事前に期待したほどではなかったという嫌いはあるものの、さまざまな記念行事が行なわれた。今年はビロード革命30周年で、特に11月には、またあれこれイベントが行なわれるのだろう。
それはともかく、今年はオロモウツのサッカーチーム、シグマ・オロモウツが創立100周年を迎えるらしい。もちろん、本来スポンサーの企業の名前だったシグマという名称のついたチームが1919年に設立されたわけではないが、前身に当たるチームがオロモウツのへイチーン地区に設立されたのがこの年なのだそうだ。現在スタジアムがあるところは、旧市街からへイチーン向かう途中に当たる。
FKへイチーンとして設立されたこのチームの名前にオロモウツがつくようになったのは、戦後の1948年のことで、スポンサーの企業の名前をつけてHSKバーンスカー・ア・フトニー・オロモウツというチーム名だった。その後、他のチームとの合併や、スポンサー企業の変更、企業の名称変更などがあって、チーム名はころころ変わるが、初めてシグマの名前が入ったのが1965/66年のシーズンで、シグマ・オロモウツになったのは、1996年のことだそうだ。それまでは他の企業の名前も並んでいたのである。
チームの成績のほうは、設立以来戦前、戦中、戦後を通じてぱっとせず、下のほうのリーグに低迷していたようだが、画期的だったのは1974年に、選手兼任監督だったあのカレル・ブリュックネルの指揮のもと、3部リーグへの昇格を決めたことだ。以後オロモウツのサッカーは上昇を続け、1982年には初めて1部リーグであるチェコスロバキア連邦リーグへの昇格を果たした。
そのときは一年で降格したものの、すぐに1984年に再昇格を果たし、以来チェコスロバキアが分離してチェコだけの1部リーグが誕生してからも、2014に2部に降格するまでは、ずっと1部リーグに在籍し続けていたのである。分離直後の1993年から2013年までの20シーズンで常に1部に在籍していたチームは、スパルタ、スラビア、リベレツ、オストラバとシグマ・オロモウツの5チームしかない。残念ながらオストラバとオロモウツは、その後2部落ちを経験しているから、2部以下のリーグに所属したことのないチームは3つだけになってしまっている。
シグマ・オロモウツのサイトに載せられている歴史的な成績表によれば、オロモウツの名前を冠したチームは、他にもクシードラ・ブラスティ・オロモウツ、ASOオロモウツの2チームがチェコスロバキア時代の連邦リーグに参戦したことがあるようだが、シグマとの関係はよくわからない。シグマの前身のチームが下部リーグで苦しんでいたころに、1部で活躍したチームで、現在では存在しないチームということになるのかな。
監督別の成績も上げられていて、監督を務めた試合数もその結果もダントツなのは、オロモウツにとっては伝説のカレル・ブリュックネルである。1984-87、1990-93、1995-97と都合三回にわたって監督を務めたブリュックネルは、247試合指揮して109勝64分74敗という成績を残している。3部昇格を達成したのもブリュックネルだし、オロモウツのサッカーを語るには欠かせない存在なのだ。その後の代表監督としての実績を考えるとチェコのサッカーの貢献者でもあるのだけど。
ブリュックネルが監督時代の1991/92のシーズンには、UEFAカップで準々決勝にまで進出し、レアル・マドリードと対戦している。結果はホームで1-1で引き分けた後、マドリードで0-1での敗戦という現在では考えられないような善戦だったようだ。レアルとの試合で得点を決めたのが、現在スロバキアの代表監督であるパベル・ハパルである。この人もブリュックネルの弟子に当たるのかね。
シグマ・オロモウツの創立百周年を記念したイベントしては、1月22日から28日までショッピングセンターのシャントフカで、特別展示が行われるらしい。展示はその後オロモウツの博物館に移るようだ。去年ハンドボールの展示をやっていた、常設展とは入り口の違う展示スペースが使われるのだろう。博物館に入る気はないので、期間中にシャントフカに行く機会があったら覗いてみようか。
2019年1月8日22時15分。
参照したのは以下のページである。
https://www.sigmafotbal.cz/historie/dejiny-klubu/
https://www.sigmafotbal.cz/historie/treneri/
https://www.sigmafotbal.cz/historie/evropske-pohary/
カメラのレンズしか出てこなかったけど、チェコのシグマはポンプの会社である。今もあるのかな?
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