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2016年06月02日
オロモウツの伝説(五月卅日)
オロモウツのドルニー広場とホルニー広場は、日本語に訳すと、「下広場」「上広場」とすることができる。この上下関係は、土地の高低を表しているわけではない。二つの広場の接している部分から少しドルニーに入ったあたりが一番高く、どちらの広場もそこから離れるにつれてだんだん低くなっていくから、どちらが高い、どちらが低いとは言いにくい。最高地点も最低地点もドルニーにあるような気がする。
実は、建物の重要さ、それから住民の身分の高低で、ホルニーとドルニーの名前がついたといわれている。ホルニーには、市庁舎があり、劇場があり、そして世界遺産にもなってしまった聖三位一体の碑があることを考えると納得できなくもない。かつてはトラムもホルニー広場を通っていたというし。
師匠の話によると、ドルニー広場のほうには、どうも売春宿まで置かれていたらしい。ドルニー広場にある聖母マリアとイエスの母子像に関して、こんな話がある。普通、この手の聖母マリアが幼いイエスを抱きかかえている像の場合、マリアが幼子の顔を見ているらしいのだが、オロモウツの像はそのようになっていない。これは、像を設置する際に、聖母マリアの顔をイエスのほうに向けると、その視線の先に、売春宿が入ってくることに気づいて、こんなものをマリア様の目に入れてはいけないと考えた人たちが、顔の向きを変えることにしたのだという。師匠の話なので、どこまで本当なのかはわからないんだけどね。
母子像が乗っている柱の下の基礎の部分には大きな横穴が開いている。今の時期、五月から六月にかけての時期になると、夜暗くなってからこの穴を潜り抜けようとする若い人に気づくことがある。この若者たちは、オロモウツにあるパラツキー大学の学生で、試験の前日にこの穴を潜り抜けると試験に合格するというジンクスがあるらしい。一説によれば、潜り抜けるだけでは足りずに、一晩その穴の中で過ごさなければならないとも言うのだが、溺れる者は藁をもつかむというところか。
パラツキー大学で日本語を勉強し優秀な成績で卒業した我が畏友は、そんな無駄なことをする時間があれば、勉強したほうがましだろうにと鼻で笑っていた。そして、試験の前夜なんて、いまさま勉強してもしょうがないんだから、ビール一杯ひっかけてとっとと寝ちまうのが一番だということで意見が合ってしまうのは、我々だけだろうか。
さて、マリア様がイエスのほうを見ていた場合の視線の先に入って来る建物に二つ三つあたりを付けると、そのうちの一つに、壁から馬の上半身が突き出たようになっている建物がある。オロモウツに伝わる伝説によれば、この馬は人間が造った像なんかではなく、もともとは生きていた馬なのだそうだ。
その伝説によれば、昔この建物に飲み屋兼宿屋が入っていて、そこで働いていた娘が、客の一人に一目ぼれしてしまった。振り向いてもらうために魔女のところに行って惚れ薬を買って来る。あとは大体想像できると思うが、惚れ薬を入れた水を間違えて馬が飲んでしまう。馬は惚れた娘を追いかけ、娘は逃げる。建物の上に逃げても、馬がついてくるので、絶望のあまり飛び降りてしまう。馬も後を追って飛び降りようとしたのだが、途中で引っかかって、前半分だけが壁から突き出したような状態になってしまったのだという。
それから、オロモウツで最も重要な教会である聖バーツラフ教会では、本来正午に鳴らすはずの鐘を、一時間前の十一時に鳴らす。この習慣は、三十年戦争のときに、スウェーデン軍にオロモウツの街が包囲されていたときにさかのぼるらしい。
包囲攻撃が長く続いて、いつまでたってもオロモウツが落ちないのに業を煮やしたスウェーデン軍の指揮官が、ある日、次の日の正午までに落とすことができなかったら、包囲を解いて別の街に向かうことを決めた。それをオロモウツ側のスパイが聞いていてというのが何だか怪しいのだけれども、とにかく翌日は、これが最後と決めたスウェーデン軍の猛攻にオロモウツ側は、それまで以上に大苦戦し、落城も近いかと思われたときに、バーツラフ教会の鐘が正午を告げて鳴り始めた。それを聞いたスウェーデン軍は戦闘を停止し、包囲を解いてオロモウツの周囲から姿を消した。十一時に鳴らされた鐘によって街が救われたことを記念して、それ以来、バーツラフ教会の正午の鐘は十一時に鳴らされるようになったのだという。
この話をオロモウツで聞いたときには、歴史の教科書でしか知らなかった三十年戦争におけるスウェーデン軍の活動が、実感を持って理解できたような気がして感動を覚えたのだが、その後、ブルノに出かけたときにも、ブルノの教会で十一時に正午の鐘を鳴らす理由として、ほとんど同じ話を聞かされて、感動して損したという気分を禁じえなかった。
伝説はしょせん伝説で、どこまでが歴史的な事実なのかは、歴史書で確認する必要があるということなのだろう。オロモウツがスウェーデン軍に攻撃されたというのぐらいは、歴史的な事実であってほしいと思う。
5月31日18時30分。
2016年04月25日
フローラ(四月廿二日)
以前は、定期券を買ってトラムで職場まで通っていたのでいたのだが、数年前に医者に行ったら高血圧だと言われ、薬を毎朝飲むようになって以来、歩くことが多くなった。運動不足どうこうというのもあるのだけれど、トラム停での待ち時間を考えると、歩きでも大差がないことがわかってしまったのも大きい。いや、目と鼻の先でトラムに乗り遅れた場合には、歩いたほうが早いことさえある。
オロモウツの旧市街の周囲には、たくさんの木が植えられた公園が広がっている。オロモウツの城壁の直下、ムリーンスキー川との間に川沿いに曲がりくねっているのが、ベズルチ公園で、小川の対岸には植物園や、バラ園などもある。あまり知られていないが、南スラブ兵士の廟があって、第一次世界大戦で命を落とした旧ユーゴスラビアに当たる地域出身の1188人にのぼる兵士たちの遺体が葬られているらしい。ただ神殿風のこの建物は長年にわたって放置されてきたため、崩壊寸前の姿を見せている。
先日たまたまTVモラバで、クロアチアだったかセルビアだったかの外交官が、この廟を訪れたというニュースを見た。第一次世界大戦でなくなった先祖の遺体がこんなところに眠っていることを知っている遺族はいないのではないかと言っていた。改修の計画はあるようだけれども、それがいつから始まるのか、具体的なことはまだ決まっていないようである。
ベズルチ公園から、青空市場とバスの発着所を越えると、スメタナ公園に入る。ビアホールのモリツの近くにも入り口があって、このスメタナ公園を通るのが毎日の通勤路になっている。それが、今週は木曜日と金曜日は通勤に使えなかった。スメタナ公園内にあるフローラという展示会場で、フローラというイベントが日曜日まで行われているため、午前八時から午後六時までは、入場券なしには、公園内に入れなくなってしまっているのだ。
チェコ語で書かれたオロモウツについての文章には、必ずこのフローラについて言及されているので、何だかよくわからないけど、ものすごいイベントなのだろうと考えていた時期がある。実際には、園芸関係の見本市で、チェコの各地から業者が集まってきて商品を展示即売するイベントだった。カレル・チャペックが『園芸家の十二ヶ月』なんて本を書いてしまったことからもわかるように、チェコ人には園芸家が多い。自宅の庭でさまざまな果物を育てたり、花を植えて美しく飾り立てたりすることを趣味にしているのである。共産主義政権は、政権への不満をそらすための政策のひとつとして、都市部に住む住民に、田舎にある庭付きの別荘や、都市郊外に小さな個人用の菜園(ちなみにこれもザフラートカと呼ばれる)を提供していたと言われることからも、チェコ人の園芸好きは察せられる。
だから、このフローラというイベントは、チェコ人にとっては非常に重要で魅力的なイベントなのだろう。チェコ各地からたくさんの人が集まってきて、駐車場が足りないために、会場周囲の道路に路上駐車された車があふれることになる。また、貸切のバスでやってくる団体さんたちもいて、公園の入り口には、オロモウツらしからぬ人だかりができている。チェコスロバキア時代の名残か、国境を越えてスロバキアからやってくる人たちもいるようだ。
では、このイベントが、外国人観光客を引き寄せられるほどに魅力的かというと、首をひねるしかない。メインのパビリオンの中には、その年のテーマに基づいて、花や木などを植えて作り出した絵や何かの像が展示されるのだが、すごいねとしかいえないし、園芸にそれほど興味がなく、植物を植える庭も持たない人間には、買うべきものもない。園芸や庭弄りが趣味という人だったら楽しめるのだろうけど、それが目的で海外旅行しようなんて人はほとんどいるまい。
一番の問題は、クリスマスやイースターのマーケットにも言えることなのだけれど、特にイベントと関係のないものまで売られていることだ。最近は少しはましになったけど、クリスマスのマーケットで、青空マーケットの靴屋や服屋と同じような品揃えの店をいくつも見つけたときには、期待しただけにがっかりしたし、最近はプンチというお酒を出す店の多さに辟易する。もう少し考えて出店させる店を選んでほしいものである。
フローラでも、以前うちのと話の種に出かけたときに買ったのは、なぜかお店が出ていた調味料だけだった。最初は何か鉢植えでも買おうかと言っていたのだが、野菜を材料にした調味料だったから植物関係と言うことだったのかなあ。それはともかく、毎年春だけではなく、夏や秋も含めて何回か行われるこのイベント、オロモウツでは珍しい定期的に客を呼べるものなのである。
4月23日22時。
2016年04月23日
オロモウツ噴水巡り(四月廿日)
オロモウツの旧市街には、全部で七つの噴水がある。そのうちの六つは、十七世紀末から十八世紀の初めに設置されたバロック様式の石像の噴水で、最後の一つだけが十年ほど前に設置されたブロンズ像の噴水である。簡単に紹介してみることにする。
まずは、共和国広場のトリトンの噴水から。トリトンというと、手塚治の漫画や、それを原作にした子供向けのアニメーションの影響で、海神ポセイドンの息子というイメージがある。もちろんトリトンは一人だと思っていた。しかし、トリトンというのは複数いるという神話もあるらしく、オロモウツのトリトンの噴水もその複数説に基づいている。
この石像のトリトンは、一番上に立っている少年ではない。下で貝殻を肩に乗せて支えている二人の男がトリトンなのである。最近までそのことを知らずに少年をトリトンだと思い込んでいたのは、やはり漫画やアニメの影響だろう。この噴水は、ローマにある「フォンタナ・デル・トリトーネ」という噴水をモチーフにしているらしい。ローマの噴水がどんなものなのか知らないので、なんともコメントのしようがないのだけれども。
共和国広場からトラムの線路に沿って、道なりに街の中心に向かうと、左側に聖モジツ教会が現れる。ここの塔は、特に管理人がいるわけでもないので、昼間の時間であれば、適当な寄付金を箱に入れれば登れるようになっている。オロモウツでは一番高い登れる塔のはずである。結構高いし、唐の上に出るところにあるドアが結構あれで、怖い思いをすることもあるけど、高いところが好きな人にはお勧めの場所である。
その聖モジツ教会の先には、以前は社会主義時代の典型的なデパート(のようなもの)だったプリオールがあったのだが、今では完全に改装されて、ガレリエ・モジツという小さなショッピングセンターになってしまっている。昔のプリオールも旧市街の雰囲気にはあっていなかったけれども、小じゃれて近代的になった現在の姿も、旧市街に溶け込んでいるとは言いがたい。
ガレリエ・モジツの脇のトラムの停留所を超えたところにあるのが、メルクリウスの噴水である。ローマ神話のメルクリウスは、ギリシャ神話のヘルメスと同一視された神で、かんがみの伝令役を勤めたといわれる。水星の名前の起源になったとはいえ、あまり有名ではないこの神が噴水の像として選ばれたのは、道路、交通の神でもあったらしいので、このあたりの交易の中心だったオロモウツにとっては大切な神だとみなされたからかもしれない。
メルクリウスの噴水のある道を通ってホルニー広場に出たところには、ヘラクレスの噴水がある。このヘラクレスの像は、オロモウツの町のシンボルである市松模様の鷲を、七つの頭のあるヒュドラから守っているらしい。
ヘラクレスの噴水から、市庁舎天文時計の前を通って、喫茶店マーラーのほうへ向かうと、カエサルの噴水がある。馬に乗ったカエサルは、以前も書いたように伝説上のオロモウツの町の創設者である。背中を市庁舎に向けて、顔は聖ミハル教会のある丘のほうを見ているが、これはここに古代ローマ時代の軍隊の駐屯地が置かれていたからだという。馬の足元に横たわる二人の男は、モラバ川とドナウ川を象徴し、座っている犬はオロモウツの町の領主に対する忠誠を示しているのだという。そんなことを言われても、西洋美術の象徴だのアレゴリーだのというのはよくわからないものである。
カエサルによってオロモウツが建設されたという伝説はともかく、ローマ時代の軍の駐屯地の遺跡はオロモウツで発掘されているらしい。高校時代に世界史で勉強した古代ローマ帝国とゲルマン人の領域の境界線がこのあたりにあったようである。
カエサルの噴水からモラビア劇場のほうに市庁舎の裏側を通っていくと、オロモウツでは最も新しいアリオンの噴水にぶつかる。噴水の数が六つというのは縁起がよくないので、七つにしようという計画は、十八世紀からあり、一度はマリアテレジアによって、許可も出されていたらしいのだが、ちょうど戦争が始まったために、中止せざるを得なくなったと言う。その計画が百年以上の時を経て実現したのが、二千年代の初めのことである。
モチーフになっているのは、ギリシア神話のアリオンの伝説で、詩人で音楽家でもあったアリオンは、海で遭難したときに歌を歌い、その歌を聴いたイルカによって命を救われたのだという。噴水の脇にはカメの像もあって、噴水ができたころには名前を募集視しているという話もあったのだが、名前が付けられたという話は聞いていないので、決められなかったのかもしれない。
ホルニー広場を出てドルニー広場に入ると、まずネプチューンの噴水がある。ギリシャ神話のポセイドンに当たるこの神の像は、三叉の矛を下に向けて持っているが、支配下にある水、つまり川を穏やかにさせるという意味を持つらしい。もっとも、1997年にモラビア全体を襲った大洪水のときには、機能しなかったようだけど。
そして最後の一つが、ドルニー広場の奥にあるユピテルの噴水。ギリシャ神話の主神ゼウスに当たる神様が、一番目立たないところに置かれているのは、何か意味があるのだろうか。
アリオンの噴水ができたときに、七という数は縁起がいいと言っていたので、八つ目の噴水が追加されることはないのだろう。八が末広がりで縁起がいいというのは、漢字文化圏の我々にしか理解できないことだ。このほかにも噴水と呼べるものがないわけではないのだけれども、歴史的な記念物としてのオロモウツの噴水群というと、今回取り上げた七つ、いや歴史的なのはアリオンをのぞいた六つなのである。
4月21日0時30分。
2016年04月04日
オロモウツ大勝(四月一日)
仕事帰りに街中を歩いていたら、妙に警官の姿が目立っていた。トラムが通る大通りを渡るために信号待ちをしていたら、警察の車が何台か通り過ぎた。サイレンを鳴らしているわけではないので、大事件が勃発したというわけではなさそうだ。ベルギーでのテロを受けて警戒態勢を強化したというには、始める時期が遅すぎる。それに、プラハならともかく、オロモウツでテロというのは、ちょっと想像しづらい。
うちに帰って、テレビのニュースを見て納得。オロモウツでオストラバのサッカーチーム、バニーク・オストラバとの試合が行われるのだ。バニークのファンは、あらゆるスポーツを通じて、チェコで最悪のファンである。だから、オストラバとの試合が行われるときには、ファンが移動する電車にも警察が乗るし、駅に着いてからスタジアムまでは、余計なことをしでかさないように、警察官が包囲して連れて行く。そして、集団と一緒に来なかったファンが街中で問題を起こさないように、警備体制も強化されることになる。
ファンを直接批判することがタブーになっている嫌いのあるスポーツマスコミによって、バニークのファンは熱狂的な応援で素晴らしいとか、チームが低迷していても応援をやめない素晴らしいファンだとか褒められることも多いが、発炎筒を持ち込みグラウンドに投げ入れたり、相手チームのゴールキーパーに向けて爆竹やビールの入ったプラスチックカップを投げつけたりするような連中は、スポーツを見に来る資格はない。もちろん、バニークのファンがすべてこんな連中というわけではないし、他のチームのファンにもこんな連中はいるのだけれども、サッカースタジアムで大きな問題が起こるのは、たいていバニークかスパルタの試合なのである。
もう十年以上も前の話になるが、ファン同士のオロモウツとのライバル関係が今よりも強かった時代に、オロモウツファンがオストラバでの試合の応援に出かける電車に襲撃をかけて、石だのガラス瓶などを、通行する電車の窓に投げつけた結果、乗っていたファンが大怪我(失明だったかな)をしたという痛ましい事件も起こしている。それに、バニークがスパルタとの試合でプラハに行くだびに、チェコ鉄道の車両は、ファンたちによってかなりの被害を受けているのである。最初からおんぼろの多少は壊されても問題のない車両を使っているとはいえ、試合会場に向かう電車の中で酒飲んで暴れるのは、許されることではなかろう。サッカー協会も、この手のファンに対して妥協しないで、強硬な手段をとらないと、一般のサッカーを見たいファンが会場に足を運ばなくなると思うのだが。
さて、肝心の試合のほうである。バニーク・オストラバは、ここ数年財政上の問題から成績が低迷しぎりぎりで残留というのを繰り返してきたのだが、今年はそれが頂点に達し、ダントツの最下位に定着している。22節を終えて勝ち点8という成績は、チェコのリーグでも滅多に見られない圧倒的な成績である。一方のオロモウツも、秋には何とか残留圏内にいたものの、春に入ってから一勝もできず、降格圏内に碇を下ろしてしまった。勝ち点はここまで17、バニークに抜かれることはないだろうけど、一つ上のイフラバとの差は6点もあり、残留は難しくなってきている。最悪なのは点を取れないことで、ここまでの22節で17点、春になってリークが再開してからの六試合では3点しか取れていない。
前半は、見ていないのだが、互角の展開だったらしい。それでも地力で勝るオロモウツが、オストラバに先制されたものの、すぐに逆転して2対1で終了。後半、テレビのチャンネルをチェコテレビスポーツに替えてすぐに、オロモウツのゴール前の混乱から、オストラバの選手がサイドに出そうとしたパスに、オロモウツの選手の足が当たって、ゴールに吸い込まれて同点。今期のオロモウツを象徴するようなしょうもないゴールで、今日も勝てそうにないと思った。
それが、今日のオロモウツは違った。二年前には、オストラバとの試合で、大逆転負けを喫して、立ち直ることができずそのままずるずると降格してしまった。試合中の選手同士の当たりの激しさという意味でも、結果から見ても非常に痛い試合だったのだが、その再現は御免だとばかりに、攻勢をかけ、まずペナルティエリアでシュートしようとした選手が腰をつかまれたファウルでPKをもらって勝ち越し。そして二年前も主力選手だったオルドシュからナブラーティルへの絶妙のウリチカパスで4点目を取ると、あれよあれよという間に、更に2点追加して、全部で6点も取ってしまった。オロモウツが一部リーグでこれだけ点を取ったのは、2009年ぐらいに、インフルエンザの流行でぼろぼろだったテプリツェを粉砕した時以来じゃなかろうか。これをきっかけに何とか一部に生き残ってほしいものである。
今期のオロモウツは、上位チーム相手には結構互角に戦えている。春になってからも、負けはしたけれども、プルゼニュともスパルタともいい試合をしたのだ。特にスパルタとの試合は、スパルタのバーハのプレーがちゃんと判定されていたら勝てていた可能性もある。バーハは、この試合でフィールドプレイヤーのくせに、GKみたいにパンチングでゴールに向かうボールをはじき出したのだが、後ろにGKもいて一緒にボールに触ったせいか、反則も取られなかった。これは退場でPKを取られても仕方がないプレーである。大事なところでこんな信じられないようなプレーを繰り返すバーハは、代表では絶対に使ってほしくない選手である。こいつ使って負けたら絶対悔いが残るし。チェコのU21代表は、ロンドンオリンピック出場をかけた試合で負けたのだが、止めを刺したのが、こいつのあからさまに意図的なハンドと退場だったもんなあ。
それはともかく、比較的下位のチーム相手に勝てないのが、今期のオロモウツの問題である。これから上位チーム相手の試合が続くみたいだけど、内容はどうでもいいので何とか勝ってもらいたい。このオストラバとの試合でのゴールを、別の試合に残しておけばよかったと言われなくてもいいことを祈ろう。いや、その前に、この試合がエイプリルフールの冗談でしたということにならないことを祈るべきか。
4月2日15時。
2016年03月25日
オロモウツレストラン巡り(三月廿二日)
二月の終わりから三月にかけては、日本から来るお客さんが多く、毎週誰か彼か来ていて、昼食、夕食を一緒にすることが多かった。毎回同じところではつまらないので、いろいろなレストランに出かけることになってしまう。最近オロモウツについてあまり書くネタがないので、今回出かけたオロモウツのレストラン(ビアホールかも)について書くことにする。
一番よく行ったのは、以前も書いたミニビール醸造所のスバトバーツラフスキーである。ここでジェザネーという黒と金色が半分半分に分かれたビールを飲んでもらうのが、オロモウツに来て最初のイニシエーションになりつつある。最近は近くの郵便局だったところに、高級バージョンのレストランも誕生したので、落ち着いた雰囲気のスノッブな雰囲気に浸りたいときには、そっちに行くのもいいのかもしれないけど、オロモウツらしからぬ値段になっているのが問題である。
ミニ醸造所のモリツもビールはとても美味しい。でも、混んでいることが多く予約しておかないと入れないのが玉に瑕である。今回は人数が四人と少なかったので何とか入れたけれども、数が増えると予約も取れないことがある。こんなビアホールで、大声でワイワイしゃべりながらビールを飲むのは幸せである。しかも、日本の居酒屋風にみんなで頼んでみんなで食べるという方式が使えるので、チェコにいながら日本で飲んでいるような気分になれる。これはモリツに限ったことではないけど。
ピルスナー・ウルクエルが指定するオリジナルレストランになっているドラーパルにも、最近よく行くようになった。以前はたばこの煙がもうもうと立ち込めていて、あんまり行きたくなかったが、完全禁煙になったので行きやすくなった。ホルニー広場のアリオンの噴水のわきを通って広場から外に出ていく通りが大通りにぶつかるところの交差点にある。お店の前に一服のために人がたむろしているのはお店としてどうなんだろう。通行の邪魔になることもあるので、何とかしてほしい。
この三軒は、食べるよりも飲むために出かけるので、料理はおつまみ感覚で、あまり意識したことはないのだが、連れて行った人から不満が出たことはないので、それなりには美味しいのだろう。一体にオロモウツのレストランの味は、この十五年で見違えるほどによくなっているので、よほど変なところに行って変なものを頼まない限り、まずくて食えねえと思うことはないはずである。
そして今回初めて行ったのが、オロモウツ三軒目の醸造所付きレストランのリーグロフカである。小麦のビールと週替わりの特別ビール(果物などの風味の付いたビール。今回は西洋ニワトコの花風味のビールだった。飲んでないけど)以外には、ちょっと黒めのビールしかないのが残念だった。十分以上に美味しかったけど、普通の黄金のビールが一種類は欲しい。ホルニー広場からバチャの脇の通りを入ったところで交通の便は非常にいいところである。ただお店の入り口の看板などが完成していなくて、営業しているのかどうかわかりにくくなっている。
クラシック音楽のファンには、ドルニー広場のモーツァルトの滞在した建物に入っているハナーツカーがお薦めである。再開店してから行ったことがないので、何が食べられるかは知らない。ハナー地方の料理だろうとは思うけど。それが、不安な場合には隣の赤牛の店(別名赤べこ屋)のほうがいいかもしれない。インテリアに古い家具や楽器などが、使われていて落ち着いて食事するにはいい店である。大人数で行っても大声で話さなくて済むのがありがたい。さらに隣の階段を登ったところに最近移ってきたのがネパール料理の専門店である。以前は少し離れたアイリッシュパブでネパール料理のカレーなんかを出していたのだが、それがドルニー広場に進出してきたらしい。ただ、この場所はレストランの入れ替わりが激しいところなので、近いうちにまた別の店に代わるかもしれない。
それから、音楽ファンにはホルニー広場のシーザーの噴水の近くにある喫茶店マーラーと、その角の通りを少し入ったところにあるマーラーの住んでいた家に入っているカフェ・デスティニも薦めておこう。デスティニは、カフェという名前がついているけど、お昼の定食は毎日出している。夜はどちらかというとお酒を飲むお店になりそうな感じである。
これも、今回、人に連れられて初めて夕食を食べに行ったのが、カフェ・ニュー・ワンというお店である。カフェーと言いつつ普通のレストランで、ただチェコ料理はなくイタリア料理のスパゲッティとかリゾットとかそんなのが中心だった。大通りを通るトラムの中からインテリアの大きな丸い形のシャンデリアが見えるので、高級店なのかなと思っていたら、みんな普通のジーパンなんかで来ていたから、そういうわけでもないらしい。ホームページを見ると本格的なコーヒーのお店のようにも見えるので、今度はコーヒーを飲みに行ってみよう。
これから、新しく改修されたクラリオン・コングレス・ホテル(旧名シグマ・ホテル)のレストランベナダに行くことになっている。ホテルのレストランは、一年半ぐらい前にサッカーのスタジアムの近くのNHホテルに行って以来かな。あそこは何を食べるか悩んだけれども(その理由は察してほしい)、今回はどうだろうか。
さて、つらつらと何軒かのレストラン(むしろビアホールかも)を紹介してきたが、今でも私にとってオロモウツで一番いいレストランは、ホテル・ブ・ラーイのレストランである。数年前に閉店してしまったのが残念でならない。それまでは、日本からお客さんが来ると、食事に行く場合には、必ずそこに連れていっていたのだ。復活してくれないかな。
3月23日15時30分。
2016年03月18日
オロモウツ土産(三月十五日)
チェコから日本にお土産を買って行くとなると、ぱっと思いつくのはボヘミアガラスだろうか。でも、重い。飛行場の荷物の扱いを考えると割れるかもしれない。では、カルロビ・バリの薬草酒ベヘロフカはどうだろう。これも重い。アルコールの国内持ち込み制限があるのも痛い。ガラスなら、グラスなどの大きなものではなく小さなガラス細工、ベヘロフカなら、普通の500mlの瓶ではなく50mlぐらいのごく小さい瓶を買えば、問題なさそうである。でも、そこにオロモウツ的な要素はまったくない。
では、オロモウツ的な、オロモウツを代表するようなお土産として、何があるかと考えても、思い浮かんでくるものがない。もちろん、観光案内所などに行けば、オロモウツの名所の写真の印刷されたT-シャツや、マグカップなどの、いかにもという観光グッズは手に入るけれども、旅行者が旅の記念に買うならともかく、オロモウツ在住の人間がお土産にするには物足りない。
いや、必要なのは自分が日本に持って帰るお土産ではなかった。日本からお客さんが来てくれたときにお礼に差し上げるお土産を考える必要があるのだ。初めてオロモウツに来られる方なら、上記の観光グッズ的なものの中から、趣味のいいもの(ほとんどないけど)を選んでもいいし、ガラス細工の小物でもいいのだが、大抵はすでに何度かオロモウツに来たことがある人だ。
瓶の重さや、割れることを考えなければ、地元のビール、ワインなどはいいお土産になるだろう。しかし、オロモウツには、以前も書いたがビール工場はない。いや、工場の建物はあるがビールの生産はしていないし、二つあるミニ醸造所では瓶や缶の持ち帰れるビールは作っていない。ワインも一番近いワイン生産地はおそらくクロムニェジーシュになってしまう。
ところで、チェコでオロモウツ名物と言ったときに、多くの人が思い浮かべるのは、トバルーシュキとか、シレチキといわれる一種のチーズである。オロモウツ地方の特産であり、EUの生産地に基づく特別商標にも登録されているはずである。EUのこの原産地商標も、チェコのような新しい加盟国には対応が厳しく、なかなか認められないのに対して、昔からの加盟国が申請するとすんなり通ることが多いのは気のせいだろうか。とまれ、このオロモウツのトバルーシュキと同じようなチーズは、オーストリアのどこかでも作られているらしいのだが、2010年に原産地に基づく商標として認定されたのである。
ただ、このチーズをお土産にするには問題が一つある。それはにおいである。チーズが好きな人は気にしないのかもしれないが、なかなか強烈なにおいがする。ちゃんと密封してスーツケースに入れないと、一緒に入れた服などににおいがついてしまって大変なことになる。以前、師匠がトバルーシュキを使った揚げ物は、自宅のキッチンで作ってはいけないと言っていたことがある。においがひどくて、一週間ぐらいは作るものにトバルーシュキのにおいがついてしまうのだそうだ。ただ、最近のものはそれほどひどい匂いはしないような気もする。それでも相手を選ぶお土産であることには変わりはない。ここまで書いて日持ちの問題もあることにも気づいてしまった。いや、長持ちするかもしれないんだけど。
このトバルーシュキは、オロモウツを中心としたハナー地方で作られてきた伝統的なチーズだが、現在生産している会社は、オロモウツではなくリトベルから更に北に行ったところ、ボウゾフからも近いロシュティツェという村にある。ここには、トバルーシュキの博物館もあり、世界で最初のトバルーシュキの自動販売機もあって、トバルーシュキ好きの人たちが訪れているらしい。最近、オロモウツの街中では、トバルーシュキを使ったデザートを食べさせる洋菓子屋も見かける。トバルーシュキとデザートの組合せがうまく想像できなくて、入ったことはないけれども、好きな人にはたまらないのだろう。
さて、話をお土産に戻そう。結局、誰にでも喜ばれるようなオロモウツ的なお土産をさがすのは大変なのである。だから、オロモウツ的を、モラビア的にちょっと広げて、自家製の蒸留酒スリボビツェを差し上げることが多い。これも好き嫌いの分かれるお酒だが、日本に帰ってからお客さんにチェコのお酒として勧めると喜ばれるらしいので、今のところこれが一番のお土産ということになる。
それとは別に、おいしいビールを飲むのがお土産と称して、モリツや聖バーツラフの醸造所に一緒に飲みに出かけることが多いのだけど。
3月16日17時30分。
半分以上冗談で「オロモウツ」で検索してみたら、こんなのが出てきた。オロモウツ市の紋章入りだけど、お土産にするのはどうなんだろう。それはともかく、楽天侮るべからずである。3月17日追記。
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2016年03月10日
オロモウツプロスポーツ事情(三月七日)
オロモウツには、プロのスポーツチームだと確実に言えるチームが二つある。一つはサッカーのSKシグマ・オロモウツで、もう一つはアイスホッケーのHCオロモウツである。
サッカーのシグマは、昨期二部で優勝して今期から一部のシノット・リーガに復帰したものの、調子が上がらず、シーズンが半分と少し終わった時点で、降格圏内の下から二番目十五位という位置に沈んでいる。以前は、不調のシーズンでも落ちそうで落ちないチームだったのだが、このままではフラデツ・クラーロベーやチェスケー・ブデヨビツェのような降格と昇格を繰り返すエレベーターチームになってしまいそうである。
アイスホッケーのほうは、昨期から一部に復帰してレギュラーシーズンでは下位に沈んで、14チーム中のうち下4チームが参加するプレイアウトを経て、13位に終わったために入れ替え戦への出場を余儀なくされた。何とか残留を果たして、今期は好調で5位に入り、プレーオフに直接進出する権利を得たのである。こちらは一部リーグに定着しそうである、と言いたいのだが、近年のアイスホッケーは、順位の入れ替わりが非常に激しく、前年の優勝チームが入れ替え戦に回ったりするので、油断は大敵である。ヤロミール・ヤーグルを生み、ヤーグルがオーナーを務めるクラドノも、プラハ第二のチームであるスラビアも、現在は一部にはいないのだ。
私がこちらに来た2000年前後、シグマ・オロモウツは一部のガンブリヌス・リーガでがんばっていたが、アイスホッケーのチームは存在しなかった。1993-94のシーズンに、チェコスロバキアが分離して最初のチェコ一部リーグで優勝したのがオロモウツのチームなのだが、その後財政難でチームが分解していき、90年代の後半には、一部リーグに参戦する権利を、カルロビ・バリのチームに売却し、オロモウツは二部リーグに参加する。しかし1999年には二部リーグ参戦の権利も売却され、オロモウツからプロチームは消滅してしまう。優勝時の中心選手で長野オリンピックでも活躍したイジー・ドピタは、フセティーンに移籍し、フセティーンの六回の優勝のうち五回に貢献することになる。
2001年にはチームが再建され、三部リーグの参戦権を購入することで、チェコのホッケーシーンにオロモウツが復帰する。すぐに二部リーグに昇格するがそこから一部リーグに上がるまでには、十年以上の歳月が必要だった。途中でオロモウツが生んだ英雄ドピタがチームを買収してオーナーになったり、ドピタが選手としてオロモウツに復帰したりして、チームの強化が進み2013-14のシーズンになってやっと入れ替え戦に勝利して、一部リーグに復帰できたのである。
ただ、今シーズンが始まるころに、HCオロモウツの事務所が警察の捜査を受けたというニュースが流れ、ほぼ同時にドピタがチームの株式を売却してオーナーから外れたというニュースもあった。ドピタは、その後、一部リーグのトシネツの監督に就任したので、警察の捜査とは関係ないのかもしれない。さすがにチェコでも、あるチームのオーナーが別のチームの監督になるというのは問題になるだろうし。元選手がオーナーになることのあるアイスホッケーでは、オーナーが自チームの監督になるというのはたまにあるのだけど。
一方、2000年代初頭のシグマオロモウツは、一部リーグに欠かせないチームの一つとなっていた。当時のチェコリーグは、スピードもなくチャンスも少なく点も入らないというつまらない試合が多く、オロモウツも例に漏れず、0対0の引き分けを連発していて、見ていて面白いと思えるような試合はほとんどなかった。当時のことをよく言えば守備は堅かった。GKとして足元はいまいちだけど、ライン上でボールを止めるだけなら世界有数の魔術師とまで呼ばれたバニアクが君臨し、攻撃よりも守備に手間をかけていたのだから、点が取れれば勝てることも多かったのだが、スパルタなどの上位チームには本当にいいようにやられていた。しょうもないミスで失点をすることも多かったけど。何かの間違いでFWに点の取れる選手がいると、上位に進出できたけれども、大抵は中盤から下位をうろついているというのが、シグマ・オロモウツというチームの立ち位置だった。
ハパルやラータルなど、オロモウツで活躍して代表に呼ばれ、ドイツなどに買われていった選手が戻ってくることもあったが、それが成績の向上にはほとんどつながらなかった。
以前から、ウイファルシやロゼフナル、コバーチなどを代表に輩出し守備よりの選手の育成には定評のあったオロモウツだが、いつのころからか、攻撃よりの選手も育ち始め、チェコには珍しい攻撃的なチームが出来上がったのが2009〜10年ごろだったと記憶する。このころのオロモウツの試合は勝っても負けても面白かった。
チェコ全体を見ると、2005年ぐらいからスパルタの一強時代が終わり、リベレツやスラビア、オストラバがかわるがわる優勝を遂げ、スパルタ以外のチームでも、優勝を目指して攻撃的なサッカーを志向するようになるのもこの時期である。そして、2010年代に入ると、プルゼニュが攻撃偏重のサッカーで、スパルタとならぶチェコを代表するクラブになっていくのである。
その一方でオロモウツは、攻撃はするけれども得点ができないというよくないパターンにはまってしまって、若手の評価の高かった監督のプソトカでは悪循環に向かった流れを止めることはできずに、成績が凋落していき、2013-14年のシーズンに15位で二部降格の憂き目にあったのだった。
先日久しぶりにテレビで見たオロモウツのサッカーは、攻撃がかみ合わない昔の姿を見ているような気がした。ユース出身の若手を次々に使って上昇気流に乗っていた時代の面影はあまり感じられなかった。若手ばかりで苦境を乗り切れなかった反省から、ベテラン選手を補強したようだが、なんだかやっていることがバラバラで、今年も残留は難しそうだなあというのが正直な感想である。
サッカーにしてもアイスホッケーにしてもオロモウツのチームというだけで応援してしまうのだけれども、応援するからには頑張ってほしいとも思ってしまう。だから今期は、サッカーよりもアイスホッケーということになりそうだ。
3月8日14時30分。
これは優勝したチェコの選手なのかな? 3月9日追記。
2016年02月07日
音楽家たちのオロモウツ(二月四日)
オロモウツのドルニー広場からテレジア門のほうに向かう通りに入る角に、ハナーツカーという名のレストランがある。店名が「ハナー地方の」という意味の形容詞であることからもわかるように、ハナー地方の料理を出す店である。料理が実際にハナー地方独自のものなのか、同じ料理でも独自の味付けや調理法があるのか、なんてことはわからないのだが、メニューがハナー地方の方言で書いてあってなかなか強烈である。壁にも方言であれこれ書いてあったけど、正直ほとんどまったく理解できなかった。普通のチェコ語で「ズビ(=歯)」というのを、「ゾベ」と言われたり書かれたりしても、外国人にはお手上げなのである。
このハナーツカーは、何度も開店と閉店を繰り返していて、最近の再開店のあとはまだ行ったことがないから、内部は変わっているかもしれないが(名前がレストランから、「ホスポダ」(=飲み屋)に変わっていた。2月5日追記)、この店の入っている建物の壁に、レリーフがはめ込んであって、建物の謂れが書かれている。本当に目立たないひっそりとしたものなので、気付かずに通り過ぎてしまう人も多いだろうが、モーツァルトが、父親に連れられて家族とともにこの建物に滞在したことがあると書かれているのである。
とはいっても、父親に天才少年音楽家として売り出されて、客寄せパンダとして食い扶持を稼ぐためにドサ回りをしていたころのことだから、あまりいい印象を持って帰ってくれたとも思えない。しかも、ここには書いてないが、もう一ヶ所、モーツァルトが滞在したといわれる建物があって、そちらの説明によれば、ハナーツカーでの滞在環境に不満のあったモーツァルト父が、有力者と交渉して移ってきたのだという。
その建物が、バーツラフ広場にある、今では大司教関係の文物を集めた博物館となっている建物である。オロモウツの広場の名称「ホルニー(=上の)」と「ドルニー(=下の)」は、土地の上下、高低に基づくものではなく、比較的身分の高い人たちが居を構えていたのが「ホルニー」と呼ばれ、下の身分の人たちが集まっていた広場が「ドルニー」呼ばれるようになったというから、プライドだけは高かったらしいモーツァルト父には、環境がどうこう以前に、「ドルニー」に滞在するというのが耐えられなかったのだろう。
移転先のバーツラフ広場は、現在でも大司教座関係、キリスト教関係の建物が並ぶところなので、おそらく当時は高位のキリスト教関係者が集まっていて、モーツァルト父を満足させたに違いない。こちらにはハナーツカーと比べると大きく目立つ記念碑が設置されている。それでも、知らなければ見逃してしまうだろうけど。モーツァルトがオロモウツに来る途中の馬車の中で、何とかいう曲を作曲しただのいう話もあるが、この手の神童伝説は真に受けるのではなく、話半分に聞いておくべきものである。その曲が演奏されるの聴いたことないし。
このバーツラフ広場は、もう一人有名な音楽家とかかわりがあって、それが、モーツァルトの死の謎を、弟子のチェルニー(この名字もあまりにチェコ的で想像を広げたくなるのだが)とともに解決しようとしたベートーベンである(もちろん森雅裕の『モーツァルトは子守唄を歌わない』でのお話)。
ベートーベンは、当時のオロモウツ大司教と親交があり、大司教が死んだら葬儀用の曲を書き、葬儀にも出席するというようなことを約束していたらしいのだ。それが、ベートーベンの体調などの問題もあって、作曲がなされることはなく、ベートーベンのオロモウツ訪問も約束だおれに終わってしまったということである。スメタナもそうだが、作曲家と耳の問題というのは、余人には推し量りがたいものなのだろう。
最後に、最後のドイツ系の大物作曲家マーラーを挙げておこう。ホルニー広場のシーザーの噴水のそばの角に、マーレル(マーラーと読んでもいいけど……)という名の喫茶店があるが、これはマーラーにちなんでいるである。この喫茶店と市庁舎をはさんで広場の反対側にあるモラビア劇場で、マーラーが一時期働いていたことがあって、喫茶店が面している広場から出て行く通りの向かい側の建物に、住んでいたらしいのである。
マーラーという人物は、一般にはドイツ人だと認識されているが、民族的には非常にややこしいところに位置する人物である。出身はボヘミアとモラビアの境界付近の銀山で有名だったイフラバという町の近く、ウィーンに出て音楽の勉強をしているから、ドイツ語ができたことは間違いない。ただ、ウィーンでは田舎者として馬鹿にされ、同じような境遇の仲間たちとチェコ語なまりのドイツ語で話す会というのを開催していたらしい。がんばって気取ったウィーン風のドイツ語で話すのに疲れて、田舎のチェコ語が混ざったような気楽なドイツ語で話す時間を求めたということなのだろうか。
こういう話は、チェコテレビで、グスタフ・マーラーが大叔父に当たるというズデニェク・マーレル氏が語っていたものである。マーレル氏は、チェコ人として登場し、もちろんチェコ語で話をしていたのだが、マーラーがチェコからドイツ化したのか、マーレルがドイツからチェコ化したのか、答えに悩む問題である。
ほかにもオロモウツに関係のある有名な音楽家はいるのだろうが、私の関心がある作曲家としてはこの三人ということになる。ベートーベンはちょっと強引だけど、一番のお気に入りだからいいのである。
2月5日14時30分。
クリムトのベートーベン・フリーズがジャケットに使われていた交響曲のCDがあったはずなんだけど、誰の指揮だったかなあ。スウィトナーも以前は持っていたような気もするのだけど、覚えていないなあ。カラヤンとフルトベングラーは持っていなかったと思う。2月6日追記。
2016年01月18日
マリア・テレジアのオロモウツ(一月十四日)
日本にいると、ハプスブルク家はオーストリアのものであるという意識が強くて、知識としてチェコもその支配下にあったということはわかっていても、モラビア、ひいてはオロモウツとハプスブルク家の関係は実感としては意識しにくい。それはハプスブルク家についての文章が日本語で書かれるとき、チェコの地名もチェコ語の名前ではなく、ドイツ語の名前で表記されることが多いからかもしれない。オロモウツとオルミュッツという二つの地名を見て、似ているとは思っても、知らなければ同じ町の別名だとは気づくまい。
しかし、実際にはハプスブルク家は長期にわたって、神聖ローマ帝国内では、ボヘミア、モラビアとシレジアの一部からなる現在のチェコの領域を、神聖ローマ帝国外では、上部ハンガリーとして現在のスロバキアを支配しており、チェコスロバキア、ひいてはチェコとスロバキアに大きな影響を与え続けてきた。オロモウツにハプスブルク家の足跡がいくつか残されているのも当然ではあるのだ。
オロモウツのバーツラフ広場から、トラムの走る通りに降りて、向かい側に見える道を登っていくと小さな広場に出る。ここが名前だけは立派な司教広場で、左手前方にある白い大きな建物が、大司教宮殿である。1848年にウィーンで革命騒ぎが起きたときにオロモウツに逃げてきた当時の皇太子が、この建物の中の一室で戴冠式を挙げたと言われている。残念ながら大司教宮殿が一般に開放されるのは年に何回かしかないので、いつでも見学できるというわけではないが、改修が終わる前でさえ一見の価値があったので、折を見て見に行きたいと思っているのだが、なかなか予定が合わない。
大司教宮殿の入り口の前に立って広場のほうを向いた時に、右手前方、若しくは、視界の右半分を遮るように立っているのが、マリア・テレジアが建てた武器庫と呼ばれる建物で、現在はチェコで二番目に古い大学であるパラツキー大学の図書館になっている。
チェコ語の師匠の話では、私生活を何度もオロモウツの大司教に批判されたことに腹を立てたマリア・テレジアが、かつては広かった司教広場の半分を使って、左右対称に建てられた大司教宮殿への景観と、大司教宮殿からの視界を半分だけ遮るように建てたものだという。これ以上批判を続けるなら、この中の武器を使うぞという脅しの意味も兼ねていたのだろう。
旧市街の反対側、ホルニー広場からドルニー広場(この日本語訳は何とかしたいのだが……)に入って右手に下って行って、一つ目の角を曲がって細い通りを抜けると、トラムの通る大通りに出る。そこから右手前方に見えるのがテレジア門と呼ばれる建物である。
かつてオロモウツはシレジアを失ったハプスブルク領の北の国境を押さえる要塞都市としての機能を担わされていた時期があり、テレジア門はその時代の名残なのである。現在トラムの走る大通りは堀の代わりの川が流れており、こちら側から街に入るためには、テレジア門を入って橋を渡る必要があったらしい。そして当時は、この門から外側、街の反対側では大砲の置かれた砲台の外側には、建物はおろか、木さえも存在することが許されなかったのだという。できる限りの見通しを確保することが最優先されたのである。その結果、この旧市街の外側に当たる部分は、内側と比べて新しい建物が多く、建物の正面上部に記載されていることの多い建築年紀を見ると、19世紀の終わりから20世紀の初めに建てられたものが多いことがわかるのである。
再びバーツラフ広場からトラム通りに下りて来たところに戻って、左折し歩道を道なりに下りていくと、名前から水車用に引かれたと思われるムリーンスキー川にでる。橋の上から左、上流のほうを見るとほぼ正面に見えるなかなか壮麗な建物が、本来は修道院で、現在は軍の病院になっているクラーシュテルニー・フラディスコ(訳を考えたくないのでカタカナ表記にさせてもらう)である。以前は改修されておらず漆喰がはげていたり壁の白色がくすんでいたりとなかなかひなびたたたずまいを見せていたのだが、改修後は小奇麗な印象になってしまった。
この建物はナポレオン戦争の時代に、オーストリア軍やフランス軍が、接収して傷病兵の療養所として使ったことから軍病院になったらしいが、例のアウステルリッツ(チェコ名スラフコフ)の三帝会戦の前だったか、後だったかにナポレオンその人も滞在したことがあるのだという。そして中には、マリア・テレジアの図書室と呼ばれる部屋があって、現在も図書室として使われているが、当時の本はまったく残っていないというような話を、かつてチェコ語のサマースクールで見学をしたときに、聞いたような記憶がある。もっとも当時の私のチェコ語力は非常に怪しかったので、どこまで本当に聞いたことなのかは保証しかねるのであるが。
軍の病院になっているため一般公開はされていないが、チェコ語のサマースクールなどで見学ができることもあるし、中庭までなら特に許可もなく入ることができる。もっとも患者として軍病院に運ばれて中を見学するという手もあるけど、病院の診察室や病室として使われている部分は、近代化されていて、あまり見てもしょうがないのではないかと言う気もする。
1月15日22時30分
記事には関係ないけど、チェコ関係の我が愛読書の一つである。こんなこともできるようになるなんて、我ながら成長したなあ。1月17日追記。
価格:2,376円 |
2016年01月11日
バーツラフ広場(一月七日)
日本人でもチェコに旅行した人など、チェコに関心のある人に、バーツラフ広場と言うと、たいてい、ああ、あのプラハの、とわかってもらえるはずである。プラハの中央駅の近く、国立博物館の前から、旧市街広場のほうへ緩やかに下っていく広場である。広場と言うよりは、大通りと言ったほうがいいかもしれない。大晦日の夜に外国人も含めてチェコ中からたくさんの人が集まって大騒ぎをするようなにぎやかな場所である。
この広場では、これまでさまざまな機会に、抗議集会やデモ行進などが行われてきたらしいが、記憶に新しいのが、1989年のビロード革命の際の抗議集会である。当時オロモウツに住んでいたチェコ語の師匠の旦那は、1968年のプラハの春のことを生々しく覚えていて、「まだ早い、早すぎる、もう少し待つべきだ」と繰り返していたという。ソ連が、東側ブロックが、完全には崩壊していなかった当時、68年と同じようにソ連が見せしめのために、またチェコスロバキアを軍事的に制圧するのではないかと恐れていたという。プラハ近郊と、オロモウツを中心に国内には多くのソ連兵が駐屯していたし、東でソ連に直接し、西で西ドイツに接していたチェコスロバキアは、ソ連が西側に圧力をかけるのに格好の位置にあったのである。
バーツラフ広場の名前の由来は、チェコの守護聖人である聖バーツラフなのだが、その騎馬像が広場の博物館よりにあって、観光名所のひとつになっている。聖バーツラフはボヘミア最初の王朝であるプシェミスル家の王で、聖人になっているぐらいだから、キリスト教関係で業績を残しているはずだが、一番有名なのは、弟のボレスラフに暗殺されたというその非業の死である。最期の地であるスタラー・ボレスラフには教会が建てられ、巡礼の地となっている。
聖バーツラフの騎馬像について、以前ヤン・ジシカの像だと書いてある本を読んだことがあるのだが、フス派戦争の時代のフス派の軍事指導者である片目のジシカの像は、駅を挟んで反対側、ジシカから名前が付けられたジシコフ地区のビートコフの丘の上にある。この丘を舞台に大規模な戦闘が行われたことを記念しているのだ。
像の後ろにある大きな建物は、現在は軍の歴史関係の博物館になっているようだが、もともとは第一次世界大戦でオーストリア軍の兵士としてロシア戦線に参戦し、ロシア革命で停戦した後も、ロシア国内に残ってチェコスロバキア軍団として活動を続けた兵士たちを記念したものだったという。ちなみにこのチェコスロバキア軍団は、シベリアから日本を経由してヨーロッパに戻ってきたのだが、そのために後にチェコスロバキア初代大統領となるマサリクが日本を訪れて交渉を行ったらしい。
ところで、この建物は、共産主義時代の一時期には、スターリンと非常に仲がよくその後を追うように他界した大統領ゴットワルトの廟となっていた。ブルタバ川の対岸にあるレトナーの丘の上には巨大な
話をバーツラフ広場に戻そう。
バーツラフ広場はプラハだけのものではないのである。チェコ人全体のものだとかそういう意味ではなくて、バーツラフ広場はここオロモウツにもあるのである。
オロモウツの駅前から、トラムでも歩いてでもいいのだが、マサリク通りを抜けて旧市街に近づくと、右手前方上方に教会の尖塔が目に入って来る。これがオロモウツ大司教座に属するカテドラル、聖バーツラフ大聖堂である。この教会の前に、プラハの物に比べれば圧倒的に控えめに広がっているのがオロモウツのバーツラフ広場である。
このバーツラフ広場は、プラハのものとは違って、聖バーツラフにちなむのではなく、プシェミスル家最後の王バーツラフ三世にちなんでいる。ポーランドに向かう途中で、プシェミスル家のモラビア支配の拠点であったオロモウツに立ち寄った際に、この広場で暗殺されたといわれている。これによって、プシェミスル家は、男系で断絶し、ボヘミアの王位は、ドイツ系のルクセンブルク家に移り、チェコが誇る神聖ローマ帝国皇帝カレル四世の登場につながっていくことになる。もっとも、実は幼い男の子が生き残っていたのだが、山中の修道院に幽閉されて殺されたというありがちな伝説もないわけではないのだが。
ところで、このバーツラフ三世の暗殺を巡っては、いろいろな説が唱えられていて、この前見たテレビ映画では、カトリックの修道院内の秘密結社の連中が悪魔をこの世に呼び込むために、魔方陣を作り、それぞれの数字に該当する名前の人物を一人づつ殺し死者の血を魔法陣に吸わせていくという儀式の一環として、バーツラフの名を持つバーツラフ三世が殺されたと言うことになっていた。儀式自体は完結することなく、いくつかの数字を残して暗殺者は死ぬのだが、その暗殺者の生まれ変わりを自任する人物が現代のチェコで、数字に基づく殺人を続けていくという内容で、なかなか面白かった。要はこんなフィクションのネタにできるぐらい謎だということなのだろう。
とまれ、チェコ語の師匠に、バーツラフ広場は、プラハだけでなくオロモウツにも存在することを日本人にも周知するように言われているので、こんな文章を書いてみたのだが、いろんな情報を入れすぎて読みにくく、わかりにくくなってしまった感がある。こういう文章を、さらっと綺麗にまとめられるようになりたいものである。
1月8日22時30分