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2019年01月16日
英語はチェコ語の学習に役立つか(正月十四日)
これも、頂いたコメントに対する回答になるのだけど、先に結論から言ってしまえば、我があるかなきかの英語力では、チェコ語の勉強に役に立たなかった。ある外国語を別の外国語の勉強に役に立てるためには、基本的な辞書に出てくる言葉の意味ぐらいはすべて覚えていて、文法の説明を理解できるレベルの能力が必要になる。大学に入ってすぐ忘れた我が受験英語ではそんなところまではたどり着けるわけがない。
チェコ語−英語の辞書をひいて出てきた英語の単語が理解できず、さらに英和辞典が必要になるぐらいなら、最初からチェコ語−日本語辞典をひいたほうがマシだし、ある程度チェコ語能力が付いてからならチェコ語−日本語辞典に載っていない単語は、チェコ語の辞典でひいた方が勉強にもなる。今なら、むしろ、チェコ語を使って英語を勉強する方が現実的である。今更そんな気はないけど。
英語に堪能な人であれば、チェコ英、英チェコの辞書も充実しているし、教科書もチェコで書かれた外国人向けのものも含めてたくさん存在するから、英語をチェコ語の学習に役立てることもできるだろう。それでも、外国語で外国語の文法の説明を理解するというのは、普通の人にとっては至難の業のはずだから、日本語の教材を使いながら、英語のものを補助的に使うというのがいいと思うけれども。
かつてサマースクールで勉強したときに使用した教材は、文法的な説明が英語で書かれたものだった。それでも何とかなったのは、日本語の教材で学習済みの内容だったのと、先生がチェコ語で丁寧に説明してくれたおかげである。練習問題の説明なんか英語で読んでもわからなかったけど、例があったので何とかなった。昔のサマースクール参加者は、英語話者でも、英語は使わずに必死でチェコ語で話していたから、皆で一緒につたないチェコ語で頑張れたという面もあるし。去年のサマースクールは、チェコ語がかなりできる人でも私的な会話は英語を使おうとする人が結構いて、ちょっと幻滅したけどね。
英語が我がチェコ語の学習に役に立ったとしたら、それはかつて失敗した英語学習を反面教師にできたことぐらいである。発音に関しては、英語がよくできる人が英語の発音に引きづられて、なかなかチェコ語の発音を身に付けることができないのを見て、自分がアルファベットの羅列を見て、自動的に英語風に発音してしまうところまでは英語ができるようになっていなかったことに感謝した。英語の単語の読み方にかつて苦労した分、チェコ語のほぼローマ字読みという発音のルールは、英語の影響で苦労している人には申し訳なかったけど、ありがたかった。
だから、日本人が、英語に頼らず、日本語、チェコ語のあわいで苦労しながらチェコ語を勉強するのは正しいと断言しておく。チェコ語を説明するのに英語を取り出してくるチェコ人の説明は、どこかずれていて、理解の妨げになることの方が多かったような気もする。そんな人に説明を求めることはほとんどなかったから、特殊な例かもしれないけど。
チェコ語の学習において気をつけるべきこととしては、何だろう。先ず、最初に教科書で文法的に正しいチェコを身につけることを勧めておこう。最近の日本の外国語の学習は、会話重視で文法的な正確さを軽視する嫌いがあるけど、先に崩れたチェコ語を身につけてしまうと、読み書きには使えないし、正しいチェコ語に訂正するのは難しい。
あとは、チェコ人の説明を信じすぎないことだろうか。プラハ方言(一般チェコ語とは言いたくない)が、テレビなどを通じてチェコ中に広まった結果、モラビアでも文法的に正しいチェコ語を使っていない、人によっては使えない人もいる。そんな人に説明させると、「by」の一人称複数が、「bysme」になったり、「mě」の発音が、「ムニェ」ではなく「ミェ」になったりする。地元の方言を教えてくれるのなら大歓迎なのだけどね。「sú」とか、「z kama」とかさ。
独学とはいえ、チェコ人の知り合いがいるのなら、そのチェコ人の中から自分のチェコ語の規範にする人を選ぶのも悪くない。理想はチェコ語の先生のチェコ語なんだけど。我がチェコ語も師匠のチェコ語を規範にして作り上げたものだし、こんなチェコ語で話したいという目標はあったほうがいい。特に発音とか、言葉遣いなんかに関してはね。
2019年1月14日23時35分。
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2019年01月15日
ややこしいToの話続続(正月十三日)
前回は、細かいことを考えずに使えるという意味では便利だけど、文法的な正しさを意識して使おうとすると覿面ややこしくなってしまう「to」の厄介な面について説明したが、今回は「to」の使いやすい面について取り上げよう。とはいっても単純な文にはならないので、初級者向けというよりは、中上級者向けなのだけど。
「to」の後に「že」をつけて文をつなげることで、「〜(という)こと」という連体修飾節が作れるのである。いくつか例を挙げれば、
Problém je to, že nemám peníze.
問題はお金がないことです。
Vadí mi to, že se musím vstávat brzo ráno.
朝早く起きなければならないのが気に入らない。
過去にすると前者はまたちょっと悩むのだけど、こうかなあ。
Problémem bylo to, že nemám peníze.
Vadilo mi to, že se musím vstávat brzo ráno.
それから、こんな一見複雑な文もチェコ語にできてしまう。
To, že umíte česky, neznamená to, že můžete pracovat jako tlumočník.
チェコ語ができるということは、通訳として働けるという意味ではない。
ワードの校正機能で緑色の波線が引かれているから、自然なチェコ語というわけではないのだろうけど、言いたいことはわかってもらえるはずである。
使うのは1格でなくてもよくて、
2格
Kromě toho, že umím česky, jsem normální Japonec.
チェコ語ができること以外は、私は普通の日本人です。
4格
Jsem hrdý na to, že neumím anglicky.
私は英語ができないことが誇りです。
7格
Olomouc je známá tím, že je tam hodně kostelů.
オロモウツは教会がたくさんあることで有名です。
また「že」以外で受けることもできて、
6格
Diskutovali jsme o tom, kam půjdeme na pivo.
どこにビールを飲みに行くかについて議論した。
4格
Jde nám o to, jak vyřešíme tento problém.
この問題をどう解決するかを問題にしているのです。
といった具合なのだが、こういうのが使えるようになると、チェコ語ができるようになった気がして、ついつい濫用してしまうのが問題である。その結果、日本語で書く場合と同じように、長々と続く文を作ってしまって、後で読み返して自分でも何が書きたかったのかわからんという事態を引き起こしてしまう。最近はマシになったと思うのだけど、サマースクールの作文でも無駄に長い文作ってたからなあ。
ということで、まだ書くべきことはあるかもしれないけど、「to」についてはこのぐらいにしておこう。
2019年1月13日23時30分。
2019年01月14日
ややこしいToの話続(正月十二日)
ここからが本題なのだが、「ten/ta/to」の中で、例外なのが中性を指す「to」である。これ、特にあとに来る名詞を意識しない場合に、つまり単に「それ」という場合に、1格でも、4格でも使うことができる。名詞の性、単複を意識しない場合だから、前に出てきた名詞を受けることはできない。
まず簡単4格からいくと、例えば誰かが手に持っている本を、よこせと言うときに「Dej mi to」、見せろと言うときに「Ukaž mi to」という類である。具体的な名詞を使って「Dej mi tu knihu」と言ってもいいけど、「to」を使って済ませることのほうが多い。これは、原則として物をさすときに使う表現なので、人を指す場合には4格では使わない。
それに対して、1格の場合は厄介である。「これは何々だ」という文を作るときに動詞býtと組み合わせて使うのだが、チェコ語の文法の大原則から外れたような使い方をするのだ。チェコ語の勉強を始めたばかりのころに、嫌になるぐらい注意されるのが、実際よく間違えるから注意されるのも仕方がないのだけど、主語と述語の性と数の一致である。
話者が男性のときには「Já jsem Japonec」で、女性のときには「Já jsem Japonka」となるし、過去形にしたら、「Já jsem byl nemocný」「Já jsem byla nemocná」となる。複数の場合も「Oni jsou Češi」(男がいる)、「Ony jsou Češky」(女性のみ)と述語になる名詞の形に注意が必要である。být以外の動詞でも、「Já jsem jel do Prahy」(男)、「Naše dítě jelo do Prahy」(中)、「My jsme jely do Prahy」(女性のみ)と主語の性、単複に合わせて動詞の語尾を変えなければならない。
これを頭の中に叩き込まれたあとにやってしまう間違いが、「Ten je můj kamarád」「Ty jsou Japonci」のように、指示代名詞の「ten」を述語の性と数にあわせてしまうものである。どちらも何も考えずに、「to」を使えばいいらしい。かつて師匠にチェコ語を習っていたときに、一生懸命考えて、「Ti jsou mí kamarádi, kteří …」なんて文を作ったのだけど、「to」でいいと言われてがっかりしたことがある。性も数も完璧だぜと思ったのだけどね。
だから、知り合いを誰かに紹介するときも、弾性であれ女性であれ、単数であれ複数であれ、「to」を使う。例えばH先生に知り合いを紹介するときも、「Pane doktore, to je pan S z Japonska」「Pane doktore, to je paní S z Japonska」「Pane doktore, to jsou japonští komeniologové(コメンスキー研究者)」と言うことになる。動詞býtの形は名詞の単複に合わせる。
これは人の場合に限らない。「To je překvapení(そいつは驚きだねえ)」は、中性だから性と数が一致しているけど、「To je náhoda(そいつは偶然だ)」「To je zázrak(奇跡だ)」とやれば、述語になる名詞が女性でも、男性でも「To」が使われることはわかるだろう。「To jsou výsledky!(なんて結果だ!)」なんて複数にすることもある。
問題は、過去にしたときで、人なら「To byl můj kamarád」と述語の名詞に合わせて性と数を決めればいいと思うのだけど、「To byla náhoda」にするのがいいのか、「To bylo náhoda」がいいのか、正直よくわからない。チェコ人に聞いても、なんだかすっきりしない答えしか返ってこないので、いつまでたっても確信を持って使えるようにならないのである。
実はこれは、「To」を使わない文にも飛び火する問題で、例えば「Karel Gott je největší hvězda v České republice(カレル・ゴットはチェコ最大のスターだ)」と、主語は男性なのに、述語が女性名詞というのは、実は結構存在して、主語と述語の性と数の一致の原則というのは何だったんだといいたくなるのだけど、これを過去にしたときに、「Karel Gott byl největší hvězda」と「Karel Gott byla největší hvězda」なら前者が正しいと思うのだけど、語順を入れ替えた場合に「Největší hvězda byl Karel Gott」でいいのか、まったく自信がない。
以前、これについて、チェコ人の知り合いに相談したら、7格にしてしまえば、と言われた。名前のような一生ついて回るものは、7格にできないけれども、職業や肩書きのような、時期がくれば変わる可能性のある物は、「〜は〜だ」という文の中で7格にすることができるのである。なので、「Největší hvězdou byl Karel Gott」と1格になっている名詞に動詞を合わせればいいはずである。
この話、もう少し続く。
2019年1月12日22時35分。
2019年01月13日
ややこしいToの話(正月十一日)
久しぶりにコメントが増えていた。かなり前の記事へのコメントだったので、一瞬、例の何でこのブログに書くのかわからないコメントかと思ったのだが、これまで何度かコメントをいただいている、チェコ語学習者の方だった。「to とhoの使い分け」についてコメントされているのだが、そんなこと書いたっけと思わず自分が何を書いたか確認に行ってしまった。
九月の初めのサマースクールの名残でチェコ語についてあれこれ書き散らしていたころの記事で、語順を扱ったものだった。その中で、指示代名詞の「ten/ta/to」と人称代名詞の「ho」についてちょっとだけ触れていた。ちょっとだけ過ぎて申し訳ない気もするので、使いやすいのだけど、正確に使おうと思うと実はややこしいtoについて、もう少し詳しく説明しておく。
まず、一般に指示代名詞とされる「ten/ta/to」だが、実際には日本語の連体詞「その」と同様に名詞を伴って使われることが多い。単数だけ例示すれは、「ten pán(その男)」「ta žena(その女)」「to město(その町)」となる。確かに「ten」だけで使われることもなくはないのだが、それは後に来る名詞、指すものの性が明確に意識されているときで、そうでなければ、「ten/ta/to」のどれを使うのか決められないのだから、むしろ名詞が省略された形だと言いたくなるほどである。
正月に、またまた見てしまった「トルハーク」の名場面、郵便局でティハーチェク氏の姉の郵便局員が、窓の外の森林管理間のマトゥシュカに見とれて窓から離れられなくなるシーンで、ティハーチェク氏の姉が「Ten je ale fešák(あの男の人かっこいいよね)」と言っていた。「Ten」だけで使われているのは、男であることは目で見てはっきりわかっているからであろう。もちろん、ここは「on(彼)」を使ってもいいはずだ。
もう一つ例を挙げれば、会話の中である女性が話題に上がったのを受けて、「Ta je hezká(あの女はきれいだよ)」なんて使う。男性の場合には「ten」になるが、どちらも1格で使われているということである。これが、4格になると、「Znám ji(彼女を知っています)」か「Znám tu ženu」になって、「Znám tu」とはしにくいのである。
これに準じて、前に出てきた、人ではなく物を指す場合でも、4格の場合には、「ten/ta/to」の4格ではなく、人称代名詞の「on/ona/ono」の4格が使われることが多いし、「ten/ta/to」を使うのであれば、名詞も一緒に使うのである。複数の4格の「je」が正しく使えたときには、自分のチェコ語も進歩したものだと感慨を抱いてしまった。何せ、初めてこの「je」を見たときに、動詞býtの三人称単数の形だと思って、文が理解できずに頭を抱えたのだから。
会話をでっち上げてみる。
Koupil jsem si nový slovník.
新しい辞書、買ったんだ。
Ukážeš mi ho (ten slovník)?
それ(その辞書)、見せてくれる?
以上が、指示代名詞と人称代名詞を使う際に、気をつけていることである。ただし、これが正しいチェコ語の使い分けかどうかは知らない。無意識に使えるところまではきていないけど、これまで説明されたり、指摘されたりしてきたことから、帰納的に作り出したルールなのでである。
ところで、チェコの人の感覚で使い分けているというのはどうなんだろう。この辺は、チェコ人もある程度学校で勉強しないと正確には使いわけられないと思うんだけど。チェコ語であれ、日本語であれ言葉を自覚的に使っていない人には、文法的な説明は求めないで、不自然なところを直してもらう程度がいいということかな。黒田師の本にもそんなことが書いてあったし。
本題に入る前に1ページ越えたし、TOの説明は長くなりそうなのでまた明日。
2019年1月11日24時30分。
2019年01月12日
オロモウツのサッカー史(正月十日)
サッカー史とは言っても、系統立てて歴史を語るのではなく、シグマ・オロモウツの創立百周年のニュースを、シグマのサイトで読んでいて気づいたクラブの歴史についてのコーナーの記事を読んで知った昔の話をいくつか書きたてるだけである。ということで、いつものように雑多な話が、脈絡もなく並ぶことになる。
シグマ・オロモウツの本拠地とするスタジアムの名称は、「アンドルーフ」スタジアムである。「アンドルーフ」は、「Ander」という人名から作られた所有を表す形なので、アンデルという有名なサッカー選手がいて、その人の名前にちなんで名づけられたものだと思っていた。アイスホッケーのスタジアムで選手の名前をつけたのがあったはずだし。
残念ながら、この思い込みは誤りで、アンデルというのは、オロモウツのサッカーの最初の大スポンサーの名前だった。第一次チェコスロバキア共和国時代にASOというデパート(でいいのかな)を経営していたのがヨゼフ・アンデルで、オロモウツにサッカーを根付かせるために、チームのスポンサーとなることを決め、当時としては画期的なスタジアムを建設したのだという。2年の歳月をかけて1940年に完成したスタジアムを本拠地にしたチームの名前はASOオロモウツ。ASOは「Anděl」「syn(息子)」「Olomouc」という三つの言葉の頭文字を並べたものらしい。
当時のスタジアムの収容人数は20000人で、この数は現在の収容人数の12500人よりずっと大きい。鉄筋コンクリートで建設された観客席は、残っていれば現在でも使用に耐えたのではないかというが、第二次世界大戦末期に撤退するドイツ軍によって破壊されてしまった。終戦後再建されたのは木造の観客席で、1976年まで使用されたという。
ASOオロモウツは、1912年に創設されたクラブで、ASOがスポンサーについたのが1937年。1940年には初めて行なわれたチェコカップで優勝している。ただし、ウィキペディアによれば初年度はスパルタ、スラビアなどの強豪チームは参加していないらしい。1941年から1944年の3シーズンは、ボヘミア・モラビア保護領の1部リーグに参戦し、戦後も1946/47の1シーズンだけ1部リーグに出場したが、あっさり降格して以後は低迷し、1949年にはチームが消滅している。
おそらく、1948年に共産党が政権を握った後の国有化でASO自体が国有化され、ブルジョワに支援されていたASOオロモウツは見せしめのために解体されたのだろう。旧市街からアンドル・スタジアムに向かう途中の大通の角に、ASOというロゴの入った白い建物があったような気がする。ウィキペディアで確認したら、あれはASOの事務所と倉庫の入った建物だったらしい。ASOの店舗は取り壊されてプリオールが建てられたというから、ガレリエ・モリツのあるところである。
主を失ったスタジアムは、1950年にミール(平和)・スタジアムと名前を代え、1955年までは、軍のチームであるクシーダ・ブラスティ(祖国の翼)・オロモウツが本拠地として使っていたようだ。1部リーグに参戦したのは1953と54の2シーズンだけで、軍のクラブの例に倣ってドゥクラと名前を変えて、後にフラデツ・クラーロベーに移転してしまったという。このクシーダ・ブラスティが降格して以来、1982年にシグマが昇格するまで、オロモウツに1部のチームは存在しなかったのだから、サッカーが盛んな土地ではなかったのだろう。
スタジアムのほうは、サボイ・ゾラ・オロモウツというチームが短期間使用したあとは、1969年にシグマ・オロモウツが引っ越してくるまで放置されていたらしい。その後1977年に古いスタジアムの解体と新しいスタジアムの建設が始まり現在に至るってサッカーよりはスタジアムの歴史になってしまった。
2019年1月10日22時15分。
今回主に参考にしたのはここ。
https://www.sigmafotbal.cz/historie/historie-hrist/
2019年01月11日
日本IWC脱退2(正月九日)
捕鯨問題について別の面から考えてみよう。
今回日本はIWCを脱退して商業捕鯨を再開するというのだが、同時にIWCの枠内で行ってきた調査捕鯨は停止するらしい。その結果、捕鯨が行われるのは日本近海ということになり、頭数も調査捕鯨とほぼ変わらない数になりそうである。
そこで疑問なのが、年間数百頭の捕鯨で商業的に成り立つのかどうかということである。これまでは、調査捕鯨ということで採算は度外視で捕鯨を行なっていたはずだが、商業捕鯨となるとそういうわけにも行くまい。政府から補助金が出ることは予想できるが、ある程度の採算性がなければ長期的に捕鯨を続けていくことは難しいだろう。
IWCによる捕鯨の禁止は、かつて日本に存在した鯨肉を食べる文化を、一部を除いて破壊した。1980年ぐらいまでは、小学校の給食にも鯨肉が登場することがあったし、鯨のベーコンなんて食材を見かけることもままあったが、90年代になると鯨肉は普通に流通するものではなくなり、食べるためには、特別なレストランに出かけて大枚はたくしかなくなっていた。
鯨肉が流通しないのが当然になって久しい現在では、食べたことのない人の方が多くなっているのではないだろうか。あと十年、二十年もすれば、鯨肉を食べたことがあるのは、高齢者だけということになり、伝統的な捕鯨の行なわれていた地域では鯨肉を食べる習慣も残り続けるだろうが、需要も先細りしていく一方だろう。
これもまた政府が商業捕鯨の再開を決定した理由の一つになっているのかもしれない。鯨肉の味を知っている、鯨肉にノスタルジーを感じる世代がまだ健在なうちに再開しておかないと、環境保護団体の原理主義に思想汚染された日本人、マスコミ関係者も増えている以上、取り返しのつかないことになりかねない。
確か縄文時代から食料にされてきた鯨が日本で食べられなくなるというのは、食文化の喪失である。その喪失の原因が外国のごり押しというのだから、日本人はもっと怒っていい。反捕鯨派は、鯨肉が食べられるようになったのは戦後の食糧難の時代だとか言うけれども、それは大々的に捕鯨が行われ鯨肉が大量に流通するようになったのが、戦後だという話であって、鯨肉を食べる習慣自体ははるか昔から続いているのである。
土井全二郎氏の『最近捕鯨白書』(丸善ライブラリー)と、小松正之氏の『くじらは食べていい!』(宝島社新書)を読んで思うのは、最近流行のフェイク・ニュースとか、ヘイトスピーチってのは実は反捕鯨団体が、環境保護団体が日本に対して大々的に行ったのが、その嚆矢だったのではないのかということである。政治家が有権者のご機嫌取りをするポピュリズムもそうだなあ。ポピュリズムが民主主義の終わりだというのなら、それは80年代の反捕鯨政策に始まったと言えそうだ。
それに、この捕鯨の問題が完全に感情の問題になってしまっていて、そこには科学的のカの字もなければ理性のリの字もないことも問題である。日本やアイスランド、ノルウェーなどの伝統的な捕鯨国にとっては、かたくなに自らの正義を疑わず、感情的な主張をやめない反捕鯨派との議論は苦痛以外の何物でもなかったに違いない。捕鯨反対派の議論は宗教の狂信者との議論を思い起こさせる。
そう考えると、環境保護や反捕鯨というのは、キリスト教への信仰を失い、共産主義を崩壊させた欧米にとっては新たな宗教と化していると言ってもいいのかもしれない。そう考えれば、他国の食文化を破壊して平然としている傲慢さも理解できる。アジア、アフリカ、アメリカの現地文化をほぼ壊滅に追いやったキリスト教の宣教師どもと思考レベルが同じなのだ。
そうか、オーストラリアやニュージーランドが、魔女狩りめいた狂信ぶりで、かたくなに捕鯨に反対するのは、原住民を虐殺した過去の原罪に対する贖罪のために、鯨をトーテムにしたトーテミズムに走ったと考えればいいのか。いずれにしても、ヨーロッパ的な宗教は世界の迷惑でしかない。最近民主主義も宗教化しつつある嫌いがあるからなあ。
うーん、全くうまくまとまらなかった。
2019年1月9日24時15分。
2019年01月10日
シグマオロモウツ創立100周年(正月八日)
去年は、チェコスロバキア第一共和国独立から100周年ということで、事前に期待したほどではなかったという嫌いはあるものの、さまざまな記念行事が行なわれた。今年はビロード革命30周年で、特に11月には、またあれこれイベントが行なわれるのだろう。
それはともかく、今年はオロモウツのサッカーチーム、シグマ・オロモウツが創立100周年を迎えるらしい。もちろん、本来スポンサーの企業の名前だったシグマという名称のついたチームが1919年に設立されたわけではないが、前身に当たるチームがオロモウツのへイチーン地区に設立されたのがこの年なのだそうだ。現在スタジアムがあるところは、旧市街からへイチーン向かう途中に当たる。
FKへイチーンとして設立されたこのチームの名前にオロモウツがつくようになったのは、戦後の1948年のことで、スポンサーの企業の名前をつけてHSKバーンスカー・ア・フトニー・オロモウツというチーム名だった。その後、他のチームとの合併や、スポンサー企業の変更、企業の名称変更などがあって、チーム名はころころ変わるが、初めてシグマの名前が入ったのが1965/66年のシーズンで、シグマ・オロモウツになったのは、1996年のことだそうだ。それまでは他の企業の名前も並んでいたのである。
チームの成績のほうは、設立以来戦前、戦中、戦後を通じてぱっとせず、下のほうのリーグに低迷していたようだが、画期的だったのは1974年に、選手兼任監督だったあのカレル・ブリュックネルの指揮のもと、3部リーグへの昇格を決めたことだ。以後オロモウツのサッカーは上昇を続け、1982年には初めて1部リーグであるチェコスロバキア連邦リーグへの昇格を果たした。
そのときは一年で降格したものの、すぐに1984年に再昇格を果たし、以来チェコスロバキアが分離してチェコだけの1部リーグが誕生してからも、2014に2部に降格するまでは、ずっと1部リーグに在籍し続けていたのである。分離直後の1993年から2013年までの20シーズンで常に1部に在籍していたチームは、スパルタ、スラビア、リベレツ、オストラバとシグマ・オロモウツの5チームしかない。残念ながらオストラバとオロモウツは、その後2部落ちを経験しているから、2部以下のリーグに所属したことのないチームは3つだけになってしまっている。
シグマ・オロモウツのサイトに載せられている歴史的な成績表によれば、オロモウツの名前を冠したチームは、他にもクシードラ・ブラスティ・オロモウツ、ASOオロモウツの2チームがチェコスロバキア時代の連邦リーグに参戦したことがあるようだが、シグマとの関係はよくわからない。シグマの前身のチームが下部リーグで苦しんでいたころに、1部で活躍したチームで、現在では存在しないチームということになるのかな。
監督別の成績も上げられていて、監督を務めた試合数もその結果もダントツなのは、オロモウツにとっては伝説のカレル・ブリュックネルである。1984-87、1990-93、1995-97と都合三回にわたって監督を務めたブリュックネルは、247試合指揮して109勝64分74敗という成績を残している。3部昇格を達成したのもブリュックネルだし、オロモウツのサッカーを語るには欠かせない存在なのだ。その後の代表監督としての実績を考えるとチェコのサッカーの貢献者でもあるのだけど。
ブリュックネルが監督時代の1991/92のシーズンには、UEFAカップで準々決勝にまで進出し、レアル・マドリードと対戦している。結果はホームで1-1で引き分けた後、マドリードで0-1での敗戦という現在では考えられないような善戦だったようだ。レアルとの試合で得点を決めたのが、現在スロバキアの代表監督であるパベル・ハパルである。この人もブリュックネルの弟子に当たるのかね。
シグマ・オロモウツの創立百周年を記念したイベントしては、1月22日から28日までショッピングセンターのシャントフカで、特別展示が行われるらしい。展示はその後オロモウツの博物館に移るようだ。去年ハンドボールの展示をやっていた、常設展とは入り口の違う展示スペースが使われるのだろう。博物館に入る気はないので、期間中にシャントフカに行く機会があったら覗いてみようか。
2019年1月8日22時15分。
参照したのは以下のページである。
https://www.sigmafotbal.cz/historie/dejiny-klubu/
https://www.sigmafotbal.cz/historie/treneri/
https://www.sigmafotbal.cz/historie/evropske-pohary/
カメラのレンズしか出てこなかったけど、チェコのシグマはポンプの会社である。今もあるのかな?
SIGMA 標準ズームレンズ 17-50mm F2.8 EX DC OS HSM キヤノン用 APS-C専用 583545 |
2019年01月09日
日本IWC脱退1(正月七日)
日本が30年以上も前から機能不全を起こしていることを指摘されていた国際捕鯨委員会を脱退すると言うニュースは、チェコのニュースでも年末に報道された。ヨーロッパ的な価値観に毒されていることを誇りにしているチェコでも、多分にもれず否定的な、批判的な文脈での報道だったが、さすがはチェコテレビで、捕鯨というものが日本にとっては単なる水産業の一分野に過ぎないものではないことも付け加えていた。
日本でもこの政府の決定を批判する向きが存在するようだが、その正気を疑う。IWCの実態が国際捕鯨委員会ではなく、国際捕鯨禁止委員会に過ぎなくなってしまっていることについては、すでに80年代の終わりから批判され続けていることである。ごり押しとごね得が支配する現在の国際関係の先駆をなしたのが、このIWCだったのだから、捕鯨国が付き合いきれないと脱退するのは当然のことであり、日本の国際関係にいては、近年まれに見る全うな判断だったと高く評価したい。
しかも、脱退して商業捕鯨を再開するとは言っても、かつてのように世界中の海に出かけて行って捕鯨をするのではなく、日本の領海、排他的経済水域(EEZ)内においてのみ捕鯨を行うというのだから、反捕鯨国にも一定の配慮はしているし、内政干渉を許すいわれはない。反捕鯨のテロリストグループが捕鯨の妨害のために領海内に進入してきたら国際法に基づいて拿捕して、悪名高き日本の留置所に放り込んでやればいい。そこまでできるのかどうかは知らんけど。
IWCの欺瞞に満ちた運営についてはいくつか本が出ていて、1992年に出た土井全二郎氏の『最近捕鯨白書』(丸善ライブラリー)と、2000年刊行の小松正之氏の『くじらは食べていい!』(宝島社新書)を読むと、関係者の努力と苦労に頭が下がる思いがするし、自らの正義を信じて疑わない反捕鯨団体、ひいては環境保護団体の実態には怒りさえ感じてしまう。この二冊の本を読んだことも、環境保護団体の主張に対して常に懐疑的になってしまう理由になっている。
興味深いのはほぼ十年のときを経て書かれた二冊の本が、ともにIWCと捕鯨の将来に希望を持たせるような終わり方をしている点である。描かれた希望はどちらも結局は実現することなく、捕鯨国の絶望につながったからこそ、日本政府は今回の決断にいたったものであろう。仏の顔も三度までとはよく言ったものである。この交渉の経緯は北方領土を巡るロシアの詐欺めいた交渉を思い起こさせる。つまり、どんなに粘り強く交渉しようと、どんなに鯨の数が増えようと、捕鯨禁止委員会であるIWCでは捕鯨の再開は認められるわけがないのである。それを粘り強い交渉をなどというのは、泥棒に追い銭というものである。
今回の政府のIWC脱退の決定を受けて、反捕鯨を強く主張するニュージーランドやオーストラリアなどとの関係が悪化することを懸念する違憲もあるようだが、シーシェパードのようなテロ組織としか言えないような団体を支援する国との関係など悪化してもかまうまい。いや、捕鯨ごときで悪化するような関係なら、それはそれでかまうまいと言うほうが正しいか。戦前の日本は、欧米の正義の押し付けにいやいや譲歩を続けて最後に爆発して戦争をおっぱじめてしまったけれども、その再現を防ぐためにも、ここらで日本にも譲れないものがあることを示しておくことは、国際関係上も悪いことではないだろう。交渉相手にずるずると譲歩することが、国際協調ではないのだから。
惜しむらくは、他の捕鯨国、アイスランドやノルウェーと足並みを揃えられなかったことだ。アイスランドは1990年代の初めに一度脱退し、後に例外的に捕鯨ができるという条件付で復帰したらしいし、ノルウェーはIWCの枠内でなぜか商業捕鯨を行なえているらしい。これを捕鯨国をIWCにとどめておくため、そして捕鯨国陣営を分断するための反捕鯨国の策略だと考えるのは穿ちすぎだろうか。
ナイーブな日本人は国際機関というと無条件で正しいもの、従うべきものだと考えてしまいがちだが、国連の安全保障委員会のように機能不全を起こして改善のしようもない組織も少なくない。そんな組織内で不毛な議論につきあう余力があるのなら、別のことに注力した方がはるかにましである。
以上が日本を離れて欧米的な価値観に対する不信を禁じえなくなった日本人の目から見た今回のIWC脱退に関する意見である。
2019年1月7日23時30分。
2019年01月08日
チェコの貴族2メッテルニヒ(正月六日)
貴族に関する事典をぺらぺらめくっていたら、意外な貴族家の名前、チェコではなく、ハプスブルク家のオーストリアと結びつく形で覚えている名前が出てきて、意外な思いをした。考えてみれば、今日のチェコの領域は、1918年までは、数百年にわたってハプスブルク家の支配下にあったのだから、オーストリアの貴族がチェコに所領を持っていたのは不思議でもなんでもないのだけど、なかなか実感を持って理解できておらず、ことあるごとにはっとさせられる。
三十年戦争で活躍したワレンシュタイン将軍、チェコ語だとアルブレフト・ズ・バルトシュテイナ(Albrecht z Valdštejna)がボヘミアの人だというのはチェコに来る前から知っていたが、傭兵隊長なんて言葉で世界史の教科書に登場したので、フリートラント侯爵として、イチーンを中心とした領地を有していたことを知ったときには、驚きを禁じえなかった。森雅裕のベートーベンシリーズで名前だけ登場したキンスキーやロプコビツがボヘミアの貴族であることも、チェコに来てから知ったが、この人たちは特に世界史上に残る活躍をしたというわけではない。
今回事典をめくっていて最初に目に飛び込んできたのが、会議は踊ると揶揄されたウィーン会議を主催したオーストリアの外相で後の宰相メッテルニヒの名前である。本来ドイツの貴族であったメッテルニヒ家は、三十年戦争に際してワレンシュタイン将軍の下で指揮官として活躍して現在のチェコ国内に所領のキンジュバルト伯爵領を得たらしい。
西ボヘミアのキンジュバルト伯爵領を領有することを許されたのは17世紀前半だが、メッテルニヒ家の人々は城址しかなかったキンジュバルトに城館を建築はしたものの、あまり滞在することはなく、北ドイツの領地からたまに出てくる程度だったらしい。それが、18世紀の終わりに普仏戦争でプロシアが負けた結果、メッテルニヒ家は、北ドイツのライン川流域に有していた領地をすべて失い、キンジュバルトが重要な拠点となったようだ。
また、西ボヘミアのプルゼニュの近くのプラシ(Plasy)という町には、教会を改築したメッテルニヒ家の墓所が残っていて、メッテルニヒ宰相を含めて二十二人の棺が納められていたらしい。この手の貴族の墓所に対して共産党政権はかなりひどいことをしたというから、この棺が現在も無事なのかどうかは知らないけど、世界史の授業でも覚えるのが必須だったメッテルニヒの墓地がチェコにあるなんて、ちょっと感動ものである。
メッテルニヒ家の墓所がプラシにあるのは、ナポレオン戦争後の1827年に、戦費の負担によって空になったチェコの国庫を満たすために、プラシにあった修道院の所領がその建物も含めてメッテルニヒ家に売却されたことによる。メッテルニヒはその修道院の建物をチェコにおける邸宅として利用していて、近くの教会を改築して墓所にしたということだろうか。
もともと北ドイツに所領があって、ハプスブルク家との縁はそれほどなかった貴族家出身のメッテルニヒは、ハプスブルク家のオーストリアでは外様扱いを受けていたらしいが、マリア・テレジア時代の宰相を出したカウニッツ家と縁を結ぶことで、オーストリアの政界で重きを成すようになる。このカウニッツ家も実は、チェコと縁のある、メッテルニヒ家以上に縁のある貴族家なのである。これについては、長くなったので稿を改める。
メッテルニヒ家の所領だったキンジュバルトは、西ボヘミアのカルロビ・バリやマリアーンスケー・ラーズニェなどの温泉地の集まるところにある。町としてはラーズニェ・キンジュバルトで、マリアーンスケー・ラーズニェからヘプに向かう鉄道の隣の駅である。ただし駅から町は結構はなれているし、城館もまた駅からも町からも1キロほど離れたところにあるのだけど。墓所のあるプラシは、プルゼニュから北、ホモウトフ、モストの方に向かう鉄道沿いにある。
どちらもオロモウツから行くのは大変だけど、プルゼニュからなら簡単に行けそうなので、歴史好き、ハプスブルク好きの人にはお勧めの穴場かもしれない。
2019年1月7日9時。
キンジュバルトには、1930年代にスペインで革命が起こった際に退位させられたスペイン王が亡命先として滞在していたことがあるらしい。
2019年01月07日
オロモウツのホテル2(正月五日)
悪い癖で、シリーズっぽいものを始めるだけ始めて、存在を忘れて続きを書いていないものがいくつもある、と思う。その一つがオロモウツのホテルについてである。その1では、ホテル・ブ・ラーイから始めて、トラムのウ・ドームの停留所のところまで来て終わったのだった。ということでその続き。
ウ・ドームの停留所のところから緩やかに下る通りは、緩やかに右に曲がって液のほうに向かうトラム通りと、真っ直ぐロシア正教の教会のほうに向かうコメンスキー通りに分かれる。昔、オロモウツが要塞都市だった頃には、この二つの通りが分かれるところにしないに入るための3つの門のうちの一つが存在していたらしい。トラムの路線の改修工事の際にその遺構が発掘されたということで、記念碑が設置されるというから楽しみにしていたのだが、実際に設置されたのを見たら、期待はずれのちゃちさだった。交通の要所ではあるので、あまり大々的なものは建てられなかったというのはわかるのだけどね。
その門の記念碑の向こう、トラム通りとコメンスキー通りにはさまれる形で建っているちょっといかつい建物がホテル・パラーツである。建物の記念碑側の一階には喫茶店が入っていて、夏場は建物の前に座席を並べてザフラートカみたいになっているのだけど、この辺りはまだ旧市街の車両進入禁止地帯にはなっていないので、交通量はかなり多く、個人的にはあまり利用したいとは思えない。
以前はこの喫茶店の入っている側にホテルの入り口もあったと記憶するのだが、現在はトラム通り側に入り口がある。あまり目立たない感じなので、通り過ぎてしまうかもしれない。以前この建物が改修中に知り合いが泊まったときには、コメンスキー通りにあるという裏口を探すのが大変だった。素直に喫茶店のある側にホテルの入り口も設置しておいてくれるといいのに。
このホテルは、トラムの停留所で言うと、ジシカ広場とウ・ドームの間にあるのだが、旧市街に入るところは坂になっていることを考えると、ジシカ広場の停留所を使った方がよさそうである。以前トラムの路線の改修工事が行なわれていたころは、代替バスの停留所がジシカ広場からムリーンスキー川を越えてすぐのところに置かれていたから、さらに交通の便がよかったのだけどね。
以前、どこかで、古い、おそらく20世紀初頭のものだと思うのだけど、オロモウツの市街地の地図を見たころがある。その地図でも、このホテル・パラーツがあるところは、ホテルだった。ただ名前がグランドホテルだったんじゃなかったか。昔のオーストリアの町には必ず一つあったホテルだと誰かが言っていたような気がする。ということで確認したらホテルの運営会社の名前がグランド・ホテル・パラーツになっていた。
宿泊費から言うと、ブ・ラーイより少し安いぐらいだろうか。問題は、予約サイトのカタカナ表記が、Booking.comでは、「ホテルパラース」になっていて、トリバゴでは「ホテルパラク」になっていること。どちらもチェコ語表記もあるホテルの中でカタカナで表記されているのはいいんだけど、この二つの表記を見て、同じホテルだとわかる人がどのぐらいいるだろうか。ホテルの写真を見ればわかるといえばその通りなのだけど。
2019年1月6日21時15分。
タグ:ホテル