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2019年01月06日

チェコの貴族(正月四日)



 チェコの貴族で最も有名なのはと考えると、王家の出身でもなく、王族と姻戚関係を結んだわけでもないのに、ボヘミア王に選出されたポデブラディのイジーだろうか。この人物の名前はチェコ語で、Jiří z Poděbradと書くのだが、z Poděbradは、温泉で有名なポデブラディに所領があったことをウォ示しているのだろう。出身地と考えてもいいのかもしれないが、このポデブラディのイジーの出生地についてはいろいろな説があって、オロモウツの近くのボウゾウフ城に比定する説もある。
 チェコの貴族の名前に現れる「z」は、ドイツ語の「von」みたいなものだろうと想像するのだが、ポデブラディのイジーを輩出した貴族は、ポデブラディ家とは呼ばれず、クンシュタート家と呼ばれる。クンシュタートは、南モラビア地方のブルノから40キロほど北に上ったところにある町で、この町を家の本拠地、もしくは重要拠点としていたことから、チェコ語で「z Kunštátu」と呼ばれるのである。そのクンシュタート家の所領の中にボウゾフ城やポデブラディがあったため、イジーの出生地が確定できないのだろう。

 さて、問題はこの町の名前である。クンシュタート家を創設した人物の名前は、クナだと言われている。人名の「Kuna」に「štát」を付けて地名化したものと考えて問題あるまい。典型的なチェコ語の人名からの地名の作り方だとはいえないのだが、「štát」はドイツ語から入ったものであろうかと推測できる。
 何を問題にしているかと言うと、人名と地名の関係である。このクンシュタート家の場合には、恐らく何らかの功績を挙げたクナが、所領として得た町、もしくは自らの出身地だった町にクンシュタートという名前を付け、その町の名前に基づいて貴族としての家名が決められたと考えればよさそうなのだが、初代のクナを「Kuna z Kunštátu」と呼ぶのには、違和感を禁じえない。

 チェコの貴族家の初代にはこういう例が多く、この前買った事典の最初のほうを見ただけでも、ベネショフ家のBeneš z Benešova、ディビショフ家のDiviš z Divišovaなどいくつも出てくる。こちらは末尾に「ov」をつける典型的なチェコ語の地名の作り方で、BenešやDivišは、現在でも名字としてしばしば出てくるものなので、それぞれベネシュ家、ディビシュ家と呼んだほうがいいような気もしてくる。
 ベネショフという地名は、中央ボヘミアのもの以外にも、シレジアのオパバの近くにドルニー・ベネショフとホルニー・ベネショフという町があるらしい。こちらはベネショフ家が領有したことで、ベネショフと呼ばれるようになったと考えていいのだろうか。もちろんこちらが最初にベネショフと名づけられた可能性もあるだろうけど。貴族の家名から地名がつけられた例と考えてよかろう。
 ディビショフ家のほうは、子孫がディビショフの近くのチェスキー・シュテルンベルクに所領を得てシュテルンベルク家の祖になるのだが、こちらは人名起源ではない地名起源の貴族の家名ということになる。シュテルンベルク家は後にモラビアに所領を得て、建設した町に家名のシュテルンベルクという名前を与えることになるのだが、どうして新しいモラビアのシュテルンベルクが形容詞なしで、本来の拠点であるホヘミアのシュテルンベルクにチェスキーという形容詞がつくことになったのかはわからない。

 地名と家名の関係で言えば、日本でも名字の地なんてのがあって、領地の地名を家名にするのはよくあった話だし、その家名の地から別な土地に移った場合に、移った先の地名を家名と同じものに変えてしまうなんてこともあったはずだ。いや、それ以前に古代の豪族の氏の姓自体が、地名をもとにしているか。吉備の国の吉備氏とか、葛城山の葛城氏とか、地名が先か氏の名が先か疑問は残るけど、『小右記』の時代にも、下級官人で姓が播磨とか美濃、下野なんて旧国名になっている人が結構登場する。
 こんなことを考えて、上に書いた違和感の正体が見えた。日本では地名と関係があるのは、姓、名字であって、個人個人の名前ではないのだ。個人の名前が付けられた地名がないとは言わないが、それはあまり一般的ではないし、個人の名前のついた地名から名字が付けられたなんてのは探せばあるのかもしれないが、誰でも知っているようなレベルでは存在しない。

 チェコでは、王家であるプシェミスル家からして、伝説上の祖プシェミスル・オラーチの名前から取られている。そう考えると、貴族家の家名も初代の名前を取ったほうがいいような気もするのだが、そうすると他の地名に基づいてつけられた貴族の整合性が取れなくなるか。
2019年1月5日22時。









タグ:家名 貴族

2019年01月05日

失われしもの4ハバーニのワイン(正月三日)



 消えた四回目は、ハバーニ派についての続き。思い返せば、ハバーニ派の存在を知ったのは、かつてコメンスキー研究者のH先生と食事に出かけたときのことだった。ワインを頼もうとなったときに、先生がリストの中にハバーンスケー・ビーノがあるのに気づかれて、注文することになったのだ。ハバーンスケーというから、ハバナからできた形容詞かと勘違いして、キューバのワインなのかと思ったのだが、先生の説明によれば、かつてモラビアに定住していた人たちで特殊な技術を持っていることで知られているのだという。

 その技術の中でも特に有名だったのが陶器で、貴族たちがこぞって買い集めるような製品だったらしく、現在でもかつての貴族の城を博物館として一般公開しているところでは、ハバーニの陶器が展示されているところがあるようだ。特徴は白地に4色の色を使って、植物をモチーフにした装飾が描かれているところだという。4色は、参考にした雑誌によれは、緑、黄色、青、紫だったかな。
 モラビアのお城の見学をしていて、そんな陶器を見つけたら、案内の人にハバーニのものですかと聞いてみると、面白い反応が返ってくるかもしれない。ただ、観光シーズンのお城の案内人は、歴史の専門家ではないアルバイトがテキストを丸暗記して語っていることが多いので、反対に何それと質問されることになるだろうか。

 それはともかく、きっかけとなったワインだが、モラビアに一時定住していたハバーニ派の人たちが、ワインの醸造に長けていたのは事実らしい。ただ、ハバーニ派がモラビアから追放されてしまったことを考えると、現在でもハバーニ派の人々がモラビアでワインを造り続けているとは考えにくい。カトリックに改宗することで追放を逃れた人たちの子孫が造っているワインだったらできすぎの物語になるのだけどどうだろうか。
 というわけで探してみた。それで見つけたのが、このハバーンスケー・スクレピという会社である。H先生と飲んだワインのラベルがどんなデザインだったかなんてもう覚えていないし、あれからもう何年もたって変更されている可能性もあるから、これがあのとき飲んだハバーンスケー・ビーノを造った会社だと断言はできないのだけど、ハバーニ派のワイン醸造の伝統を受け継いでいることを売りにしている醸造会社が、南モラビアのワイン産地の中心の一つであるベルケー・ビーロビツェにあるのは確かなことのようだ。

 この会社の説明を読むと、ハバーニ派の人たちが、独自の集落を営みブドウを育てワインを醸造していたところで、ブドウとワインの生産をしているということのようだ。ちなみに社名につくスクレピは、スクレプの複数形で、普通は地下室を指す言葉だが、ワインと結びつくと、斜面に水平に穴を掘って造られたワインの貯蔵庫を指す。そこからワインを生産する業者をも指すようになるのだが、この会社の建物は妙に近代的に見える。
 ハバーニ派のワイン醸造に他とは違う特別な技法が使われていて、それを再現してハバーンスケー・ビーノと名乗っているのかという予想は、この説明による限り当たってはいないようだ。ちょっと期待はずれである。気になるのは、宗教を否定した共産党の時代にも、宗教と関係するハバーンスケー・ビーノという名前を使えていたかどうかということなのだけど、弾圧されたハバーニ派の存在を共産党に都合のいいように解釈しなおしてプロパガンダに使用していたのではないかという気もする。チェコ人の中にも知らない人が多いから、やっぱり違うかなあ。

 最初に書いたのと比較したらどっちがましなんだろう? どちらもしょうもないという点では変わらないかな。
2019年1月3日23時55分。










posted by olomoučan at 08:03| Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ

2019年01月04日

失われしもの3宗教の話(正月二日)



 三つ目と四つ目は、16世紀にスイスやドイツから追放されてチェコにやってきたハバーニというキリスト教の一派ハバーニのお話。キリスト教という宗教の排他性、独善性、他宗教や他宗派に対する非寛容性などは、いくら当のキリスト教が否定しようと、現在でも紛れもない事実だが、近代以前は現代とは比べ物にならないほどひどかった。
 14世紀のイギリスのウィクリフから始まったキリスト教の改革運動においては、チェコのヤン・フス、ドイツのルター、スイスのカルビンなどの改革者が有名だが、スイスのチューリヒで改革運動を始めた人物にツビングリがいる。世俗の権威も宗教的な権威も否定して聖書に戻ることを強く主張したツビングリの支持者たちは、カトリックからだけでなくルター派などのプロテスタントからも迫害を受けていたという。このツビングリ派でチェコに逃げてきて一時期定住を許されていた一派を、チェコ語でハバーニと呼ぶのである。

 ツビングリ派のキリスト教は、スイスだけでなくドイツにも支持を広げていたらしいのだが、16世紀に起こった農民の反乱、いわゆるドイツ農民戦争との関係を問われ、追放処分を受けた。逃げてきた先がフス派戦争の余燼で宗教的にも経済的にも、政治的にも混乱していたチェコだったのだが、ハプスブルク家のフェルディナンド1世がボヘミアの王位を獲得すると、チェコからも追放の命令が出されてしまう。
 ただ、王のお膝もとのボヘミアでは追放が実行されたが、モラビアでは貴族たちの反対もあって追放令はうやむやにされ、居住し続けることが許されたという。特にミクロフを領有していたリヒテンシュテイン家は、ハバーニ派のキリスト教を庇護し、子弟の教育まで任せていたらしい。他にもフス派の兄弟団の庇護者として知られるジェロティーン家の領地などに、一番多い時期で3万人前後のハバーニが住んでいたらしい。

 ハバーニ派の人たちも、他のキリスト教の宗派に負けず劣らず排他的で、自分たちだけの居住地を作り上げ、そこで能力に応じた共同生活、一種の共産主義的な生活を営んでいたらしい。ただ、居住の許可を得るために、領主に対しては多額の税金を支払うことを求められ、その額は、同時期にユダヤ人が払わされていたものよりも高い場合もあったという。領主の側としても、そのぐらいのメリットがなければ、国王の命令を無視することはできなかったのだろう。
 ハバーニ派が財源としていたのは、自分たちで生産した手工業品で、同業者組合に加入している手工業者たちの製品よりも廉価で品質も高かったことから、都市の住人達からも迫害を受けることになったという。

 ハバーニ派の人たちがモラビアを離れなければらなくなった原因は、ボヘミアのフス派の貴族たちが、ハプスブルク家に対して暴発したビーラー・ホラの戦いに敗れたことだった。その結果、モラビアの貴族たちも、領内に異端とされたハバーニ派をかくまうことはできなくなり、多くは東のスロバキア、さらにはハンガリーへと移住していった。
 残念ながら、移住先の人たちともやがて軋轢を起し、長く定住することはできず、さらに東に、ルーマニアを経てロシアに移住した。最終的にハバーニ派の人たちが安住の地を見つけたのは、海を越えたカナダとアメリカだったらしい。ヨーロッパ内での定住がうまく行かなかったのは、宗教的な問題はもちろんだが、ハバーニ派の組織が長きの弾圧を受けて変容し、指導者の中に過度の蓄財に走る人が出たからだとも言う。
 当初はツビングリの主張の通り、聖書、とくに新約聖書に基づいた生活を営んでいたというから、なぜか日本でも名前だけは有名なアーミッシュの人たちと同じような集団だったのだろう。現在アメリカとカナダに住んでいるハバーニ派の人たちは、独自の共同体を作って聖書に基づいた生活している点では、500年前と変わらないらしいが、手工業はやめて農業に従事しているらしい。ただ、その農業に最新のテクノロジーを使っているというのだけど、それが聖書に基づいた生活と矛盾しないのかちょっと疑問である。

 とまれ、キリスト教内の改革運動の引き起こした悲劇は、カトリックの側も、非カトリックの側も、別な言い方をすれば迫害する側もされる側も排他的で、一部を除けば相手の話を聞かなかったところに原因があるのではないかなんてことを、ハバーニ派についての雑誌の記事を読んで考えてしまったのである。うーん、現在の世界中を覆っている、相手の話を聞かずに自分の主張しかしないという「議論」の源流はキリスト教にあったのか。
 フス派戦争の時代、ハバーニ派の時代に、例外的に反対陣営との間で常に妥協点を探して話し合いを続けていたのが、モラビアのジェロティーン家だというから、親ゼマンと反ゼマン、親バビシュと反バビシュで完全に二分されたチェコの両陣営の間に立って、チェコの国民を再び一つにまとめるような存在はモラビアから出てくるに違いない。ということで、次に大統領になるべきは、モラビアで生まれ育った人物だと断言しておく。

 今回は、参考にした雑誌が手元になかったこともあって、これまで以上にオリジナルからの逸脱が激しいけど、年末にこんなことを書いたのだよ。
2019年1月2日17時15分。




 さて、この本にハバーニは出てくるのだろうか。

ツヴィングリ―改革派教会の遺産と負債 (出村彰宗教改革論集)








タグ:キリスト教
posted by olomoučan at 07:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ

2019年01月03日

元日に思う(正月一日)



 大晦日の夕方辺りから、そこかしこで花火を打ち上げる音が聞こえ始め、12時ごろを中心に、1時過ぎまで断続的に続く。これが騒音にうんざりするようなヨーロッパの新年で、新年を迎えるという厳かさなどかけらもない。郷に入れば郷に従えで、それに異を唱える気はないのだけど、個々の人々が好き勝手に上げる花火で、毎年怪我人や火事が続出して、救急車と消防車が走り回っているというのに、ほとんど放置されているのはどうなのだろうか。
 かつて夜中に行なわれた、オロモウツなど町の新年を迎える公式の花火は、数年前に元日の夕方6時からに変更されたから、その分深夜の騒音は少なくなったとは言えるのだが、特に騒ぎたいとも思えない、とっとと眠りたいと考える人たちにとって迷惑であることに変わりはないし、ペットの犬が花火の音にパニックを起して逃走したりするのも同じであろう。

 不思議なのは、この大晦日の大騒ぎについて、地球温暖化防止を主張するグループが批判しないことだ。花火は火薬を燃やしているわけで、直接的に二酸化炭素の排出量の増加に貢献している。それだけでなく、ゴミ回収用のコンテナに火がついて燃えるという事件も毎年何件も発生しているわけだから、新年を迎える際の個人的な花火の打ち上げを禁止すれば、コンテナの火事も減るし、二酸化炭素だけでなく、プラスチックを燃やしたときに出る有害ガスの排出も減って一石二鳥である。
 ポーランドでの国際会議に肉料理が提供された結果の二酸化炭素の排出量の試算と、大晦日から元旦にかけての花火による温室効果ガスの排出量の試算を比べてみてほしいところである。市町村などの地方公共団体が公式に行う花火大会まで中止しろなんて野暮なことは言わないし、花火を全面的に禁止しろという気もないけど、危険性の高い打ち上げ花火は生産も販売も禁止した方がよくはないか。深夜の騒音も減るし、打ち上げの失敗での怪我も火事も減るはすである。
 安眠を妨害されるのがわかりきっていたから、花火の音が完全に消えるまで起きていたのだけど、そんな馬鹿なことを考えてしまった。いやでも、こっちって強力な花火の販売に対して無頓着というか、以前よりは規制が厳しくなっているのだろうだけど、こんな緩さでいいのかというレベルだし。手に持って使う花火以外は販売禁止でいいんじゃないかねえ。

 ところで、数年前まで元日と言えば、大統領が年頭の演説を行い、それをテレビ局が、公共放送だけでなく、民放も、生中継するのが伝統だった。その伝統をゼマン大統領が、クリスマスに行なうように変更したのだけど、今年の、ではなくて去年の演説も、一年に一度、国民全体に対して呼びかけるような演説ではなかったと批判されている。毎週バランドフでソウクプ氏相手に語っているようなことを、ぐだぐだと繰り返したらしい。
 このクリスマスの演説は、毎年のように批判されているし、クリスマスに時期を移したのもゼマン大統領の独断なのだろうと思っていたのだが、実はクリスマスの全国民向けの演説を始めたのはマサリク大統領だったらしい。もちろん当時はテレビではなくラジオでの演説だったわけだが、毎年クリスマスに際して演説を中継していた。それが変わったのは戦後共産党政権が成立してからで、初代の共産党の大統領であるクレメント。ゴットバルトだったらしい。その戦後に成立した習慣をビロード革命後の、ハベル大統領、クラウス大統領も踏襲してきたわけだ。
 ゼマン大統領としては、演説をクリスマスに移すことで、マサリク大統領への敬意を表そうとしたのだろうが、その事実もアンチ・ゼマン派には気に入らないようである。お前がマサリク大統領について語るななんて事を考えているのかな。これもまた社会が寛容性を失いつつあることの反映なのだろう。ゼマン大統領と、反ゼマン派でマサリク大統領の取り合いをしているのである。
2019年1月1日24時。




 この手の花火はどのぐらい危険なのかな。

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2019年01月02日

失われしもの2電子書籍の話(十二月卅一日)



 二つ目は、ネット上のニュースで見つけた電子書籍リーダーの話。超高精電子漫画という画質を誇っている点にはあまり惹かれないのだけど、見開きで読めるのとPCに接続せず、通信機能も有していないという読むことに特化している点にはものすごく惹かれる。こんな電子書籍リーダーで漫画だけではなく、普通の本も読めるようになれば、先の見えない日本の電子書籍にも、出版業界にも未来に希望が出てくると思うのだけどどうだろうか。

 それはともかく、現在の電子書籍は不便極まりないものである。便利だとすれば、外国からも購入でき、郵送されるのを待たずに読めるという点につきる。これは日本に、特に書店がたくさんある都市部に住んでいる人には何のメリットにもならないし、電子書籍の販売サイトによっては日本国内発行のクレジットカードがないと購入できないところもあるから、便利なんて言ったら鬼が笑ってしまう。
 何が不便かって、まずは、販売サイトに会員登録しなければならないこと。国外から買えるという便利さと引き換えだったから、我慢していくつかの販売店で会員登録をして電子書籍を何冊かかったけれども、普通に本屋で本を買える環境にいたら、会員登録してまで本を買おうとは思わなかったはずだ。

 クレジットカードでしか買えないのも不便だった。一時はウェブマネーで買える販売サイトを苦労して探したものだが、パピレスとhontoでチェコ発行のクレジットカードが使えるようになって楽にはなった。でも、店頭でクレジットカードを使う気軽さに比べると便利だとは言いたくない。
 そして、電子書籍の何回目かの夜明けと言われたソニーのリーダー、シャープのガラパゴスが発売されたあとに不便になったことだが、PCや専用の端末で購入した電子書籍を読むために機械の登録が必要になった。登録できるのも一人当たり5台までで、6台目を使うためには登録済みのものと入れ替えなければならないなんて話には、そこまでして電子書籍を読む価値があるのかとさえ思ったものである。

 かつて出版業界で仕事をしていたこともあるから著作権を守ることの大事さは十分理解しているつもりである。同時に出版社が主張する海賊版による著作権侵害の被害想定額が現実離れしたものであることも明白なので、コピーしやすい電子書籍とはいえ、著作権を守るための方法は他にもあるだろうし、こんな購入者に不便を強いるようなやり方しか存在しないのは、出版業界、販売会社の怠慢でしかないなんてことを考えていた。
 それで電子書籍自体を買うこともまれになっていたところに、この全巻一冊という新しい専用端末が存在し、電子書籍は、ネット上の販売サイトではなく、専用の記憶媒体に入れて書店の店頭で販売するということを知ったのである。そこに日本の出版業界の未来を見たとしても不思議はないだろう。この方式が漫画だけでなく、一般の書籍にまで拡大され、専用端末もいくつかの大きさの版型を取り揃えることができたら、再販制の維持はともかく、取次ぎも書店も電子書籍の流通にかかわることができて万々歳だと思うのだけど。

 現在の日本の出版業界には、電子書籍リーダーを開発販売してきた家電メーカーの影響もあって、電子書籍というとネット上で販売し、端末もネットに接続できなければならないというような思い込みがあるように見受けられる。その結果、出版社はコンテンツ、言い換えれば単なるソフトの提供者に成り下がっている。紙の本は、ハードであると同時にソフトでもあるという点が強みだったはずだ。その強みを生かせていないのが今の出版社なのである。だから電子書籍に限らずネット上で販売力を誇るアマゾンなんかにいいようにされてしまうのだ。
 この全巻一冊が日本の出版社の目を覚まさせる一撃になってくれると、日本語出版の将来を憂える海外在住の日本人としては嬉しい。

 またまた結構変わってしまったけど、消えてしまった二回目の概要である。
2019年1月1日1時10分。












posted by olomoučan at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ

2019年01月01日

失われしもの1本の話(十二月卅日)



 USBがいかれたことに気づいたときには、もう一度書き直せばいいやと思ったのだが、やはりなんだか気力がわかない。もしかしたら他もPCにつないだら読めるかもしれないという根拠のない希望も感じるし、一篇だけならともかく、数篇、一から書きなおすとなると、何を書いたかおぼえていないことも多い。覚えていても書き直すと違うほうに話が展開していくのだけどさ。
 ということで、USBを復活させられたらこれまでに書いたものを投稿するだろうし、駄目でも同じテーマで書き直すかもしれないけど、念のためにどんなことを書いたかだけ紹介しておこう。

 一つ目は、久しぶりにチェコ語の本を買ったという話。3冊で合計1300コルナほどだったのだけど、支払ったのは100コルナほどだった。100コルナ分のクーポンを12枚使ったのである。これは職場の福利厚生の一環で毎年もらっているもので、毎年、あまらせることも多いし、使い方に苦労しているのだが今年は本屋で本を買うのにも使えるようになっていた。これまでは、薬屋とかマッサージ、フィットネスセンターなんかでしか使えなかったから、使い道を探すのが大変だったのだ。
 国外に旅行をするというのなら、旅行代理店なんかでも使えるのだけど、原則として国内しか動かないから、電車のチケットを旅行代理店で買うのもバカらしい話である。眼鏡屋もあるけど、眼鏡なんて毎年飼うようなものでもないしって、もう十年以上同じ眼鏡をかけているのか、久しぶりに新しい眼鏡を買うのもいいかもしれない。同年代の知り合いが老眼が入って大変なんだとか言っていたことを考えるとやめたほうがいいかなあ。

 それはともかく、プリオール、ではなくてその跡地に建ったガレリエ・モリツの中に入っている書店に本を探しに出かけた。この本屋は、出版社と組んで刊行した本を、会員向けにカタログを送りつけて割安で販売しているクニジュニー・クゥプという組織の直売店も兼ねていて、定価と会員価格の二つの値段が書かれた本が多い。会員ではないのだけど、このクルプの本を選んでしまった。会員制で売り上げが計算できるおかげか、よその出版社が出さなさそうな渋い内容の本が結構あるのである。

 選んだのは以下の三冊。

 1Encyklopedie šlechtických roů
 これは、中世のプシェミスル王朝以降のチェコ(ボヘミア、モラビア、シレジア)に領地を持っていた貴族についての事典である。貴族家の中でも重要な150家ほどが取り上げられている。プシェミスル王朝初期に断絶した貴族家については資料が少ないせいか、名前が知られているものでも取り上げられていないものもあるようだ。
 この本を選んだのは、ひとえにジェロティーン家について知りたかったからである。いずれこの本をもとにジェロティーン家についても書くつもりだが、オロモウツにジェロティーン広場があり、コメンスキーの伝記にも登場してくるのに、ジェロティーン家については、あまり知られていない。オロモウツから北に20キロほど行ったところにあるジェロティーンは、小さな村で、大貴族の本拠地にふさわしいようなお城があるわけでもない。

 2Šternberkové
 1冊目と同じ著者の本で、副題に「ボヘミアとモラビアの貴族家」と付いているが、ボヘミアにも、モラビアにも、家名のついた町シュテルンベルクがある、シュテルンベルク家についての本である。この貴族家も名前は有名なわりに、その実態についてはあまり知られていない。そんなことを言うと、ほとんどの有名なチェコの貴族家がそうなのだけど、同じ棚に並んでいたシュバルツェンベルク家、ロプコビツ家と比べたら、断然シュテルンベルク家について詳しいことを知りたかったのである。

 3Císařův levoboček
 三冊目は、読みきる自信はないけど、以前読みたいと書いたマサリク大統領の出生を巡る歴史小説である。時代小説の方がいいかもしれないけど。マサリク大統領本人が、自らの出生の謎を探るというから推理小説仕立てになっているのだろうか。ちなみに題名は『皇帝の私生児』とか『皇帝の庶子』なんて訳せるだろうか。

 以上が、消えた一回目の内容である。かなり変わっていると思うけど、
2018年12月31日23時。




中世チェコ国家の誕生―君主・貴族・共同体 (静岡大学人文社会科学部研究叢書)







タグ:貴族
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2018年12月31日

悲劇、もしくはまたまた言い訳(十二月廿?日)



 ここ数年使用していたUSBメモリーが壊れてしまった。USBをさしたままノートPCを運んでいたら、壁にぶつけてしまったのである。PCにさすコネクターの部分がゆがんだように見えて不安だったのだが、電源を入れてみたら、案の定反応しなくなった。記憶媒体自体がおかしくなったのではなく、コネクターとの接続がいかれたのだろう。
 ということは物理的な接続さえ確保できれば、メモリーに保存してあったファイルのサルベージは可能ではないかと思うのだが、そこまでする価値があるのか悩んでしまう。以前作成した大量のファイルの中に、今後も必要なものがいくつか存在するのは確かだけど、1から作り直しても大差ないような気もする。そもそも大した物ではないし、仕事関係ものは別のUSBメモリーやハードディスクに入っている。

 一番の問題は、年末に更新するつもりで書いていた何日か分のテキストが消えてしまったことである。ここ3年ほど書き続けたブログの記事や、『小右記』の訓読分につけた注なんかも全部消えてしまったのだが、これはブログから改修できるのではないかと期待している。だから完全に失われたのは数日分だけだということになる。
 大した内容でも、分量でもないのだけど、せっかく書いたものが消えてしまったのは正直ショックで、やる気をなくすできごとではあった。どこかにUSBメモリーの中身がコピーしてあるのではないかと、PCのハードディスクや、外付けのハードディスクの中をあさって、昔書いた文章が、同じものがあちこちにあることを発見して、大掃除が必要なことに気づいてしまった。

 重要なものはSDカードか何かに、分類して保存しなおすべきだろうか。今のままではどこに最新版が存在するのかわからない。わからなくても困らないといえば困らないのだけど、どこに何があるのかは確実に、そして簡単にわかるようにしておきたい。フォルダ名と中に入っているファイルが一致しないものも多いし。
 昔書いたものの内容を確認したのは、消えた記事の代わりに投稿できそうなものはないかと考えたからなのだが、よく考えたらブログをはじめてすぐの、3年近く前にも同じことをして、使えそうなものはすでに投稿してしまったのだった。残っているのは、そのまま載せてしまうには問題のあるモノばかりだった。すでに似たようなテーマで書き直したものもあるし、自分で読み返す分にはそれなりに面白く読めるけど、人様が読んで面白いと思ってくれるかどうかはわからない。

 ということで、二日ほど落とした言い訳である。同時にこれからまた何日か落としてしまうかもれないという言い訳でもあるなあ。それにしても、1年、1月1日から12月31日まで、365日、毎日更新し続けることの大変さよ。来年2019年の目標はそれにしてみようか。ってことは明日から毎日更新しなければらないのか。最初の数日はショックからのリハビリもかねて短いものにすることにしよう。
2018年12月30日24時。






posted by olomoučan at 08:13| Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ

2018年12月28日

数詞の格変化1000(十二月廿三日)



 100の次は1000(tisíc)である。この「tisíc」は日本語の万と同じような役割を持つので、100以上に前に数詞が来て、複数、いや複数2格で使うことの多い数詞、もしくは名詞である。子音の「c」で終わるので判別が難しいが、軟変化の男性名詞不活動体である。だから、1000は「jeden tisíc」ということになる。「jedno sto」よりは、数詞1を着けて使う機会は多い。これも念のために男性名詞不活動体軟変化の復習をしておこう。

1000
 1 jeden tisíc
 2 jednoho tisíce
 3 jednomu tisíci
 4 jeden tisíc
 5 jeden tisíc
 6 jednom tisíci
 7 jedním tisícem


 2000から4000は普通の複数の変化をさせればいいのだが、2格だけは注意が必要である。普通、男性名詞の複数2格の語尾は「ů」になるのだが、語尾なしの「tisíc」を使う。2000を例としてあげておく。

2000
 1 dva tisíce
 2 dvou tisíc
 3 dvěma tisícům
 4 dvě stě dva tisíce
 5 dvě stě dva tisíce
 6 dvou tisících
 7 dvěma tisíci


 5000以上は、1格、4格、5格で複数2格になることを忘れなければ、他は複数の格変化だから、問題ないはずである。

5000
 1 pět tisíc
 2 pěti tisíc
 3 pěti tisícům
 4 pět tisíc
 5 pět tisíc
 6 pěti tisících
 7 pěti tisíci


 問題は、数字が大きくなって「tisíc」の前に来る数詞が二桁、三桁になったときに、格変化させるべき数詞が増えて面倒くさくなることだが、チェコ人も同じように感じているのか、数字が大きくなると格変化をしない1格か4格でしか使わなくなる傾向があるように思われる。日本語では助数詞が厄介だが、数詞そのものは大した問題にはならない。それに対して、チェコ語では助数詞的に使える言葉がごく僅かしかない代わりに、数詞自体が滅茶苦茶厄介なのである。

 ついでなので、1000の次も挙げておけば、100万は「milion」で男性名詞不活動体の硬変化である。100万の次は10億で、「miliarda」。こちらは女性名詞の硬変化になる。その上の1兆は男性名詞不活動体の「bilion」だったかな。いずれも前に来る数詞が5以上の場合には、1格なのに複数2格にしなければならないのは、同じである。

 ということで、数詞関係はこれでおしまい。長々と、短い記事を続けたのは、年末恒例のクリスマス進行のせいである。これで、一日も落とさずに乗り切れるかどうかは、ふたを開けてのお楽しみということにしておこう。
2018年12月23日23時10分。








2018年12月27日

数詞の格変化100(十二月廿二日)



 99の次は100、つまり「sto」なのだが、この言葉は数詞であると同時に、前に数詞を伴って名詞的に使用される。「sto」は「o」で終わるので、中性名詞扱いで、「město」と同じ格変化をすることになる。だから、理論上は、100は「jedno sto」となるのだが、実際には「sto」だけで使うことが多い。念のために単数の格変化を復習しておこう。

100
 1 (jedno) sto
 2 (jednoho) sta
 3 (jednomu) stu
 4 (jedno) sto
 5 (jedno) sto
 6 (jednom) stu
 7 (jedním) stem


 複数も原則として「město」と同じなのだが、200の場合だけ、特別に「stě」という形を取る。だから1格で複数形の「sta」を使うのは、300と400の場合だけである。500以上は複数2格で「set」を使わなければならないし。格変化はそれぞれ以下の通り。

200
 1 dvě stě
 2 dvou set
 3 dvěma stům
 4 dvě stě
 5 dvě stě
 6 dvou stech
 7 dvěma sty


300+400
 1 tři / čtyři sta
 2 tří / čtyř set
 3 třem / čtyřem stům
 4 tři / čtyři sta
 5 tři / čtyři sta
 6 třech / čtyřech stech
 7 třemi / čtyřmi sty


500
 1 pět set
 2 pěti set
 3 pěti stům
 4 pět set
 5 pět set
 6 pěti stech
 7 pěti sty


 切りのいい数字ならこれでおしまいなのだが、例えば535などの数字になると、「pět set třicet pět」として、「pět set」「třicet」「pět」という三つの部分に分けるか、「pět set pětatřicet」と二つの部分に分けるかして、それぞれの数詞を格変化させなければならない。「pět set pětatřicet」を使うと、百の位、一の位、十の位の順番で数字を読むのが嫌で自分では使えないので、「pět set třicet pět」として三つの数字を別々に格変化させることが多い。いや、細かい数字は格変化させたくないので、だいたい300とか、350とか切りのいい数字にしてごまかすことの方が多いかな。

 またこの「sto」が使えるのは、900(devět set)でおしまいではなく、1100から1900までも、それぞれ「jedenáct set」「devatenáct set」という形で表せる。もちろん「tisíc」を使って、「tisíc sto」「tisíc devět set」としてもいいのだが、特に年号の場合に前者がよく用いられる。
 500以上は、例えば「pět set žen」と100もその後の名詞も複数2格になるから問題はないのだが、200から400の場合に、「dvě stě žen」「tři sta žen」と100は複数1格、名詞は複数2格という組み合わせになってなんとも落ち着かないのである。

 それはともかく、これで100は完璧だと言いたかったのだけど、ニュースを見ていたら、「před sto lety」というのが聞こえてきた。何で「sto」は7格になっていないのだろう。それに文にしたときに「Tři sta lidí byla」がいいのか、「Tři sta lidí bylo」なのかよくわからない。後者を使っているけど、「sto」が名詞的に使われることを考えると後者のほうがいいような気もしてくる。やはりチェコ語は難しい。
2018年12月22日22時10分。








2018年12月26日

数詞の格変化5以上(十二月廿一日)



 5以上の数詞の格変化は、どうしてといいたくなるぐらい簡単である。これをもう少し難しくしてもいいから他の格変化を簡単にしてくれというのは、無理な相談だけど、ついついそんなことを言ってしまいたくなるほどである。
 5以上、99以下の数詞は、1格が子音で終わる。ほとんどは「t」で終わるのだが、例外的に「sedm(7)」「osm(8)」の二つだけは「m」で終わる。その子音の後に「i」をつけるかつけないかの変化しかない。具体的に言えば、ほとんどの名詞の複数と同じで、4格、5格は1格と同じで、残りの2格、3格、6格、7格には語尾の「i」をつける。


 1 pět
 2 pěti
 3 pěti
 4 pět
 5 pět
 6 pěti
 7 pěti


 あえて言うなら、注意しなければならないのは、「kost」などの子音で終わる女性名詞の単数変化に引きずられて7格を「pětí」にしないことであろうか。
 それから、9だけは例外的に、語幹が変化して、2格、3格、6格、7格が「devěti」ではなく、「devíti」になる。10は「deseti」「desíti」という二つの形があるのだが、20などとの整合性を考えると、変化させない前者を使ったほうがいい。

 19まで、それから20、30など1の位が0で終わるものは、あらわし方が一つしかないので、この簡単な格変化でいいのだが、21のような20以上で1の位が0以外のものの場合には、あらわし方が二つあり、それぞれ格変化のさせ方が違う。
 21を「dvacet jeden」と二つの単語に分けて読む場合には、「dvacet」と「jeden」をそれぞれ別々に格変化させなければならない。つまり「dvacet」は「i」をつけるだけだから簡単だけど、「jeden」は後に来る名詞の性に基づいて格変化しなければならなくなる。名詞を単数にするのか、複数にするのかでも悩むことになるので、それが嫌な場合にはもう一つの一単語化する方法を使うことになる。「jedenadvacet」にしてしまえば、格変化は20の場合とまったく同じである。ただしこの方法が使えるのは99までで、100を越えると、100の位を別に格変化させる必要が出てくる。

 種類、組を表す数詞が形容詞の硬変化と同じ格変化をするのは4に準じるのだが、母音が微妙に変わるものがあるので注意が必要である。5は「paterý / patery」、以下「šesterý / šestery」「sedmerý / sedmery」「osmerý / osmery」「devaterý / devatery」「desaterý / desatery」と10まで挙げておく。「何重の」という意味の形容詞もありそうだけど、見たことも聞いたこともない。

 さて、5以上の数詞の格変化そのものは簡単だが、使う際には気をつけなければならないことがある。それは5以上の数詞のついた名詞は、附属する形容詞などもふくめてすべて複数二格をとり、動詞と組み合わせるときには単数中性扱いにするというルールである。ここで、数詞と単複、性の関係についてまとめておくと、1は単数、性は名詞の性に基づく。2、3、4は複数、性は名詞の性に基づく。5以上は単数、性は名詞の性にかかわらす中性ということになる。
 ただし、問題はこれで終わらない。1格で使う場合に、5以上の数詞につく名詞が複数2格になるからといって、すべての格で複数二格になるわけではない。数詞、名詞がともに1格と同じ形になるのは、4格と5格だけで、それ以外は普通の格変化をさせるのである。だから数詞に名詞を付けた状態で格変化させると以下のようになる。

9+hrad
 1 devět hradů
 2 devíti hradů
 3 devíti hradům
 4 devět hradů
 5 devět hradů
 6 devíti hradech
 7 devíti hrady


 これ、教科書では、5以上の後は複数2格というのが強調されるために、3格、6格、7格でも2格にしてしまいがちで、最初は間違いを指摘されても、ちゃんと2格にしているのに、何で間違いなんだと疑問に思っていたほどである。

 昨日の例文を5以上の数詞に変えてみよう。

 ・Pět Japonců bylo v této hospodě.
  飲み屋に五人の日本人がいました。

 ・Jel jsem do Prahy se šesti kamarádkami
  六人の友達と一緒にプラハに行きました。

 ・Studoval jsem na sedmi univerzitách.
  7つの大学で勉強しました。

 まだ何か書くべきことがあるような気もするけれども、とりあえずこれでお仕舞い。次は100である。
2018年12月22日12時。












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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



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