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2021年01月15日
トラゲディエ(正月十二日)
思わず、チェコ語をカタカナ表記したものを表題にしてしまったが、悲劇である。考えうる限り最悪の事態が発生してしまった。これはもう、チェコは国家として中国に対して損害賠償の請求をするべきである。いや断交して、中国からの入国を、人も物もすべて禁止にしてしまったほうがいい。なんてトチ狂ったことを叫んでしまうのは、ハンドボールのチェコ代表が世界選手権の出場辞退を余儀なくされてしまったからである。
正直な話、どれだけ多くの人が感染し、入院し、最悪の場合には亡くなったとしても、所詮は他人事でしかないので、ウイルスを輸出した中国に対する怒りを爆発させることはない。形あるものは必ず崩れ、命あるものは必ず死ぬのである。具体的にどれぐらいの人が感染したり亡くなったりしているかで警戒を強めたり緩めたりはするけれども、生活を大きく変えるつもりはない。
普段通りに自宅と職場を往復するだけの生活を、たまにコーヒーやパンを買うためにお店には寄るけど、続けていて感染してくたばるなら、それはそれで運命というもので、従容として受け入れるだけである。だから、規制を守らない人を大声で糾弾する人の気も、検査やワクチンを求めて大騒ぎする人の気も全く理解できない。そんな仏教的無常観を標榜して生きている人間にも譲れないものはあるのである。
仮に、今年に延期された東京オリンピックが最終的に中止になったとしても、来年中東のどこかで行われるらしいサッカーのワールドカップが中止になったとしても、全く残念だとは思わないとは言わないが、同時に喜んでしまうだろうということも否定できない。スポーツを見るのは好きだけれども、オリンピックである必要はまったくないし、中東の灼熱の太陽の下、プレーする選手を見たいとはあまり思えない。
しかし、ハンドボールとなると話は違う。しかもチェコ代表である。他の国の代表なら、それが日本代表だったとしても、ここまで激昂することもなかっただろうし、大会事態が中止、もしくは延期された場合も、もう少し穏やかな気持ちで受け入れられたに違いない。どうしてよりによって、チェコ代表だけが辞退に追い込まれなければならなかったのかと運命を呪ってしまう。受け入れられない運命も存在するのだ。
ああそうか、こうして人は陰謀論に堕ちてしまうのだ。チェコ代表がエジプトでの世界選手権に出場することは中国にとって極めて都合が悪いことだったに違いない。だから、一年がかりの計画で出場できないように、ウイルスをチェコに送り込んだのだ。それが間違いで世界中に広がってしまったのだろう。その極めて都合が悪いことの具体的な内容はわからないけれども、何かあるはずだ。チェコのハンドボール代表にはそれだけの価値があるのだから。
うーん、何だか政府の政策に、何か隠された意図があるに違いないとして批判する、リベラルと自称するところまで落ちた左翼の政治家やマスコミ並みに堕ちてしまったなあ。いや、東日本大震災の際に、あれは米軍の兵気実験の結果だという与太を本気で信じ込んで広めていた誇大妄想狂と同じか。あのときはそれを本気で信じていた知り合いを思い切り馬鹿にしてしまったのだったけど、こうなると人のことは言えないなあ。信じているわけではなく、言いたいだけなんだけどさ。
そんなことはどうでもいいのである。自分が堕ちることでチェコ代表の価値を高めることになるなら。いや、全く高めることになっていないような気がするけれども、それでもいい。こうして罵詈雑言(ってほどでもないけど)めいた陰謀論を喚くことで多少は気が晴れたような気がしないでもない。
とまれ、詳しい事情はわからないが、辞退を決めたチェコ代表の決定を批判することだけはするまい。苦渋の決断だったに違いないのだし、できるだけの感染対策はしていたはずなのだから。すべては中国の陰謀なのである。どうせなら世界選手権が延期になるような陰謀だったらよかったのになあ。
2021年1月13日23時30分。
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2021年01月14日
4格を取る前置詞2(正月十一日)
承前
Amimo
二つ目の、同時に最後の4格しか取らない前置詞は「mimo」である。他にもあるかもしれないけれども、思いつかない。
意味は簡単に言うと「外」。不思議なのだが、「外」を「そと」と読む場合でも、「ほか」と読無場合でも、「外す」と読む場合でも、「mimo」で表せてしまう。あまり使う言葉でもないのだけど、個人的に一番よく使うのは、「Byl jsem mimo Olomouc」という文である。具体的にどこにいたかは言いたくないときに「オロモウツの外にいた」で済ませてしまうのである。
前の文を「オロモウツ以外の場所にいた」と訳せば、「ほか」につながるのだけど、「Je otevřen mimo sobotu」なんてのも例に挙げておこう。「土曜日のほかは開いています」という意味だが、この場合、「kromě soboty」を使うことのほうが多いかもしれない。というか自分では「kromě soboty」を使う。
サッカーやハンドボールなどの試合の中継を見ていると、「Tato střela byla mimo」というのが聞こえてくることがあるが、これは「シュートは外れた」という意味である。もちろん、「mimo branku」が省略された形なのだが、「mimo」だけで「外れ」を表すこともできる。質問の答が、完全にずれているときや、話が本来のテーマと全く関係ないときなんかも、「mimo」で表現する。ずれが小さいときには「vedle(となり)」も使うかな。
最後にもう一つ、よく目にするものを挙げておくと、自動ドアや駅の券売機、自動販売機なんかに注意書きとしてしばしば「mimo provoz」と書かれた紙が貼られている。「故障中」を意味するのだが、無理やり解釈すると「稼動状態の外にある」と言うことだろうか。
B時間を表す前置詞
これについてはすでに時間を表す表現のところで詳しくまとめたので、簡単に復習しておく。
先ず忘れてはいけないのは、曜日と共に使う「v + 4格」である。月曜日と火曜日は格がわかりにくいので、水曜日を使うと「ve středu」となる。ただし、形容詞や指示代名詞などが付くと、前置詞なしの4格だけで表現することが多い。
それから、季節を表す言葉は、前置詞との組み合わせがめちゃくちゃなのだが、秋が「na podzim」と前置詞「na」に4格を付けた形で表される。
最後に「za + 4格」を紹介しておく。4格となるのは時間の長さを表す名詞で、「za dva roky(二年後に)」などと、それだけの時間が経った後のことを指すのに使うのである。ただし、数字が5以上になると、数詞は4格だが、後ろに来る名詞は複数2格になるので注意が必要である。また「za」は場所を表わす場合の7格と共に使うという印象が強いためにしばしば混乱してしまうことがある。
それから「za + 4格」は、後ではなく、その時間の間にという意味でも使われる。一番わかりやすいのは、時速をあらわすときに使う「100km za hodinu」などだろうか。これは別の表現では置き換えられないが、「Za tři roky jsem se naučil více než 1000 znaků(三年の間に1000個以上の漢字を覚えた)」の場合には、「během + 2格」を使いたくなる。
C方向を表わす前置詞
これも一部は復習になるのだが、まずは「na + 4格」から。場所を表す名詞は、それぞれ「v」か「na」を取ることが決まっているのだが、場所で「na+ 6格」を取る名詞は、方向(向かう先)を表わす場合に自動的に「na + 4格」を取ることが決まっている。よく使うもので覚えておいた方がいいのは、駅(nádraží)、郵便局(pošta)、学校(škola)などだろうか。知らない人間には区別はつけられないので、覚えるしかない。また、動詞が場所を必要とするのか、方向を必要とするのかも気を付けたほうがいい。大抵は日本語と同じ感覚で行けるが、「置く」の場合には「položit」を使うと方向で、「nechat」は場所が必要になる。
それから一部の動詞で、物を中に入れる場合と、表面に載せる場合で、「do」と「na」を使いわける。「dát」の場合に、「Dám ho do lednice」は冷蔵庫の中に入れることになるが、「na lednici」を使うと冷蔵庫の上に載せるか、外側に貼り付けることになる。
次は一般には7格を取ると思われている前置詞の「před」「za」「nad」「pod」である。このよっつも、動詞が場所ではなく方向を必要とするときには、4格と共に使わなければならない。そしてこれがなかなかできるようにならない。「v」「do」「na」の場合には、最初から指摘されて、一生懸命覚えて、今でも間違えるけれども、意識して使い分けることはできるようになっている。
それに対して、この四つの前置詞に4格を付ける形は、最初は7格を取ることしか勉強しなかったので、その思い込みが強すぎるのか、間違いを指摘されないとなかなか気づかない。それどころか正しく使っているのに何か変な感じがして無駄に修正してしまうことさえある。
「Pošlete ho před sebe(後ろに送ってください)」「Půjdeme pěšky za hranice(国境の向こうまで歩いて行こう)」「Dejte pravou ruku nad sebe(右手を挙げてください)」「Schovejte se pod stůl(机の下に隠れてください)」なんてのは時間をかけてゆっくり考えたら、正しいことが理解できるし使えなくもないのだが、とっさの場合には、どれもこれも7格にしてしまいがちなのである。
以下次回、じゃなくてその次。
2021年1月12日23時。
2021年01月13日
4格を取る前置詞1(正月十日)
4格を取る前置詞は多いのだが、4格しか取らない前置詞はそれほど多くない。まずは4格しか取れないものを取り上げて、あとはすでに触れたものも含めて、分類した形で示そうと思う。
@pro
日本語では「ため」と訳されることが多いけれども、動作の目的や対象、場合によっては理由、原因を表すことのできる前置詞である。別の表現で置き換えることができる場合も多いのだが、4格を取るということは、1格と同じ形になるものが多いと言うことである。つまりは格変化をあまり覚えていなくても何とか正しく使えるということなので、ついつい使ってしまうものである。
いくつか例を挙げよう。
・Koupil jsem tuto knihu pro kamaráda.
(友達のためにこの本を買った)
≒Koupil jsem tuto knihu kamarádovi.
この文は3格を使って表現しても意味はほとんど変わらないと思う。ただ誰かのために買った後に、それを渡すときに使う。「To je pro tebe」という表現は、3格にはできない。無理やり日本語に訳すと「これはお前のためのものだよ」とでもなるだろうか。日本人なら「はい、どうぞ」とか、「これ、あげる」とかいいそうだけど。これで思い出すのはチェコの童話映画「S čerty nejsou žerty」でいくらでもポケットから金貨を取り出せる魔法の外套を手に入れた主人公が、「To je pro nás(これは我々のためのもの)」「To je pro knížete(これは侯爵のためのもの)」と交互に言いながら一枚ずつ金貨を取り出すシーンである。
これをもう少し進めると、映画「Tmavomodrý svět」で若きチェコ人飛行士が、イギリス軍で英語の授業の後に思わずこぼす「Angličtina není pro mě」(語順は微妙に違うかも)につながる。「英語は俺のためのものではない」、つまり「英語は俺には向いていない」ということである。チェコ語を勉強しているからには、「Čeština je pro mě」と言い続けたいものである。
さらにこれに形容詞を付け加えると、「Čeština je pro mě těžká」などとなるわけだが、日本語に訳すと「チェコ語は私にとって難しい」となるのはわかるだろう。「pro mě」の代わりに「na mě」を使ってもほぼ同じ意味になると思うのだが、チェコの人たちがどう使い分けているのかはよくわからない。自分では、一般的にチェコ語全体を指すときには「pro mě」で、具体的な問題に関しては「na mě」を使っているような気がする。
次の例である。
・Pro nemoc učitele se nebude konat dnešní výuka.
(先生の病気のために今日の授業は行われません)
完全にこれと同じではないけれども、初めてこの手の文を見たときには、一瞬戸惑ったのを覚えている。「pro nemoc」の部分が問題で、病気が目的であるかのような印象、つまり病気になるために授業がないと理解してしまいそうだった。考えてみれば、日本語の「ために」にも原因を表す使い方があるのだからそれと同じだと思ってしまえばいいのだが、こういう場合にはどうしても「kvůli nemoci(病気のせいで)」を使ってしまう。
もう一つ典型的な使い方を。
・Šel jsem do města pro pivo.
(街までコーヒーを買いに行った)
これが、「na pivo」になると、「飲みに行った」ということになる。「na + 4格」の場合には、行った先で、するべきことをする、ビールの場合には飲むのである。だから「na film」だと、「映画を見に行った」になる。それに対して、「pro + 4格」の場合には、行った先で手に入れて戻ってくるのである。だから、街やお店に行った場合には、「買いに行った」になるし、自宅に戻るのなら「取りに行った」で、図書館に「pro knihu」だったら、「借りに行った」ということになる。
ところで、この「pro」と疑問詞の「co」を組み合わせて一語化したのが、疑問詞の「proč」である。「č」は「co」の短縮形で前置詞と合わせて一語化するときに現れるもので、「není zač」の「zač」も「za co」が一語化したものである。「proč」は「pro co」、つまり「何のために」から、「どうして/なぜ」という意味で使われることになったと考えられる。ちなみにスロバキア語も同様で「proč」に当たる言葉は、「prečo」で前置詞の「pre」に疑問詞の「čo」がそのままついたものになる。スロバキア語はあまり詳しくないから、一語化してない可能性もあるけれども。
最後に疑問を、どうしてチェコでは乾杯のときに「na zdraví」というのだろう。健康のために乾杯だったら「pro」でもよくないか。こういうのに疑問を持っても答えは出ないものだけど、この文章を書いていたらそんな疑問がわいてしまった。
以下次回である。
2021年1月11日24時。
2021年01月12日
4格の話(正月九日)
ネタ切れ気味で、しばらく何について書こうか頭をなやなませていたのだが、特に書くべきことも思いつかない。ということで、以前に戻って、困ったときのチェコ語ネタである。以前、2格、7格、3格の使い方と、その格を取る前置詞について書いたのがそこで止まったままになっていた。ここはネタがない時には、残りの格について書いて格と前置詞について終わらせておくべきであろう。
4格というと、昔々、師匠がアメリカから来ていた留学生について、「あいつら、もう一年もチェコ語を勉強しているのに、matkaとmatkuの区別ができない」とブーたれていたのを思い出す。確か「1格と4格の違いだと説明したら、4格って何とかいいやがった」と付け加えたのかな。「そんなものなんで必要なの」とか聞かれたとも言っていたような気もする。
格変化のない英語を母語とする人にとっては、意味不明(勉強すれば大学生なら理解できるだろうけど、ヨーロッパやアメリカの大学から来る留学生は留学という名目で遊びに来るので勉強自体をほとんどしないというのはおいておく)かもしれないが、助詞を駆使して文章を作る日本人にとっては、格変化を覚えるという苦労はあっても、名詞を格変化させて使うこと自体にはあまり抵抗はないはずだ。その中でも一番わかりやすいのが4格だと思う。
日本語の文法用語で何というかはよくわからないのだが、原則として日本語の動詞で名詞に助詞の「を」を付けるものが必要な場合には、チェコ語では名詞を4格にすると考えていい。例外的なのは移動する場所、空間を表す「を」ぐらいだろうか。「街を歩く」「空を飛ぶ」などの場合は、4格ではなく、7格、もしくは前置詞「po」と6格を組み合わせた形を使う。動詞「čekat」や「dívat se」などが、4格は取るけれどもその前に前置詞「na」を必要とするのも覚えておいたほうがいいだろう。
逆に、チェコ語では4格を取るけれども、日本語では助詞「を」にならないものとしては、「〜が好きだ/嫌いだ」というときの、「mít rád + 4格」が先ず思い浮かぶ。「chtít + 4格」もそうだけれども、日本語で主格でもないのに助詞「が」を使うほうが例外的だと考えたほうがいいのかもしれない。動詞を使えば、「〜を好む」「〜を欲する」という形で言い換えることができるのだから。
チェコ語で4格を取る動詞のなかでは、最初から使役の意味を持つ動詞の使い方に気をつける必要がある。日本語だと「私はそれに驚いた」と言うようなところを、「それが私を驚かせた」という言い方をすることも多い。受身を使った「Byl jsem překvapený」や「Překvapil jsem se」ではなく、「To mě překvapilo」という表現が使われることは多いし、自分で使えるようになるとチェコ語の幅が大きく広がるのである。
他にも、「trápit mě(私を苦しませる)」「bavit mě(私を楽しませる)」なんてものがある。「Čeština mě baví」なんて言われると、チェコ語の勉強が楽しそうでうらやましくなる。それから普通は「Mám zájem o to」で済ませてしまう「それに興味がある」という文も、「To mě zajímá」なんて言えると、自分のチェコ語が上達したような気分になれてうれしい。「Co vás zajímá?」なんて質問もできるしね。
最後に、これは復習になるのだけど、時間を表す表現の中に、4格を使えるものがある。ただし4格でなければならないものはそれほど多くなく、絶対に覚えておかなければならないのは、曜日の前に形容詞がついた場合、例えば「minulou neděli(先週の土曜日に)」ぐらいだろうか。形容詞などをつけて2語にした時間を表す表現は、たいてい4格で使えるのだけど、曜日以外は、前置詞と共に使ったり、2格を使ったりすることもできるものが多い。
あとは、名詞なのか副詞なのか判然としない一語の言葉、「ráno(朝)」「dnes(今日)」「letos(今年)」なんかを、名詞として認識する場合には、4格で使われていると解釈するのは、覚えるよりも、副詞として認識したほうがわかりやすいような気もする。
ということで、以上が4格について書けることである。分量が少ないのは、日本人にとって使いやすいことの反映だということにしておく。
2021年1月10日23時30分。
タグ:4格
2021年01月11日
録画、失敗? 成功?(正月八日)
先日紹介したコメンスキーのドラマが、水曜日の深夜に放送されたので、セットトップボックスのUSB録画機能を使って録画してみることにした。これならテレビはつけていなくても録画できるはずである。去年の九月に地上はデジタル放送の電波形式が変わって以来初めての試みなのだが、画面の解像度が上がってデータ量が増えていることが予想されたので、念のために夏にツィムルマンの録画をした時に使った容量32ギガのUSBメモリーを空にしてからタイマーをセットした。
翌日、USBメモリーの中の録画されたものをPCにコピーしてから、ファイル形式をコンバートするためのソフトに読み込ませてみるのだが、映像ファイルとして認識されず、音声ファイル扱いされているようだった。それでウィンドウズのメディアプレーヤーでも試してみたのだが、音が聞こえてくるだけで、映像は全く再生されなかった。
この時点では、録画に失敗したものと考え、いくつか思いつく理由の中で、ありえなさそうな容量が足りなかった説を除外するために、30分ほどの番組を同じ方法で録画してみた。今度はUSBから直接再生してみたのだが、再生できないというエラーが出た。これも失敗だと思ったのだが、ふと思いついて録画に使ったセットトップボックスで再生してみたら、何の問題もなく再生ができてしまった。録画には成功していたけれども、PCでの再生に問題があったのである。
ということはコメンスキーのドラマも録画はできているはずである。PCにコピーしたものを消さなくてよかった。後はどうやればこの映像ファイルを再生できるかである。「[TS]CT2」で始まる名前のフォルダの中に、「000.dvr」「000.ts」「info3.dvr」という三つのファイルがあるというのは、ツィムルマンを録画したときと全く同じ形式である。ただしツィムルマンのときと違って、拡張子が「ts」のファイルの表示がテレビの画面ではない。
同じ「ts」ファイルでも、新しい放送の様式に変わったことで再生できなくなってしまったようだ。使っているコンピューターが古くてウィンドウズ7だから、新しい形式に対応できていなくても仕方がないのかもしれない。職場に持っていって新しいウィンドウズで試そうかとも思ったのだが、それでは月曜日になってしまう。そこまで待ちたくはない。
ということで、ネットで検索したらこんなページがでてきた。あれこれ書いてある説明の中にはよくわからないことも多かったけれども、「VLC Media Player」というソフトを使えば再生できるかもしれないことだけはわかった。このソフト職場のいくつかのPCには入っているはずだけど、自宅のには特に必要を感じておらず、入れていなかった。
「VLC Media Player」では再生できない「ts」ファイルもありそうなことも書かれているが、試して駄目なら削除すればいいだけである。ダウンロードしてインストールして起動して、コメンスキーの動画を開いてみたら、あっさりと言うには読み込みに時間がかかって駄目かなと思ったけど、最終的には問題なく再生することができた。フラー。
ファイルのコンバートができないので、不要な部分を切り捨てることはできないのだが、今回はわりと設定がうまくって前にちょっとついているだけなので満足しておこう。ファイルサイズも意外と小さくて3Gちょっとで済んでいるし。古い形式のツィムルマンの5割り増しぐらいである。
再放送があることを確認したとき、日本時間の午前8時からといういい時間帯だったので、日本の知り合いに伝えたのだけど、なぜかこのドラマは日本では見られなかったらしい。「ボジェナ」のほうは見られたというからよくわからない。レンブラントの絵を使った関係で、外国からは見られないように制限をかける必要があったのかもしれない。確かオリンピックのネット中継もチェコ国内からしか見られないようになっていたし。
知り合いも見たそうだったから、非常事態宣言が撤回されたら日本に送ろうかな。SDカードかUSBメモリーか媒体を買ってこなきゃいけないし、電器屋今休みだし、いつになることやらなんだけど。
2021年1月9日23時。
2021年01月10日
足らざるは病床のみにあらず(正月七日)
クリスマス商戦のための規制緩和のせいで、検査数を増やしても、規制を最高レベルまで再強化しても、ワクチンの接種が始まっても感染状況の悪化が止まらず、人口約一千万人の国で連日1万5千人内外の新規陽性者が確認されている。PCR検査における陽性の割合は、40パーセントを越える日が多く、アンチゲン検査で陽性になった人が確認のために受けた影響もあることを考えても高すぎる数字である。感染者の総数は80万人に近づき、治療中の人だけでも13万人を越え、入院している人の数も7000人を越えた。亡くなった人の数も急速に増え、すでに1万3千人に近づきつつある。
こんな状況なので、病院側が限界まで配置転換をして、武漢風邪患者受け入れ用の病床を増やしたが、満杯になりつつあり、軍が準備している野戦入院病院の稼動も近いと言われている。それでどの病院にどれだけ空き病床があるかの情報を集約して、入院が必要な患者が出た場合に、どの病院に運ぶかを指示する管制システムのようなものも導入されているらしい。
ここまでが前提。年末だったか年始だったか正確には覚えていないのだが、オストラバから衝撃的なニュースが飛び込んできた。モラビアシレジア地方では、医療システム以上に火葬のシステムが破綻しつつあり、地方内の火葬場で順番待ちの遺体の数が増えすぎて、遺体を安置する場所が足りなくなりつつあるというのである。
考えてみれば、患者の数が増えれば医療機関の負担が増えるのだから、死亡者の数が増えれば葬儀関係の負担が増えるのは当然である。医療機関もそうだが、普段はある程度の余力を持って運用されていて多少の数の増加には対応できても、今回の激増ともいえる事態には対応できないのだろう。今年の9月から11月の死亡者の総数は、ここ10年、20年で最高を示した月と比べても、倍以上の数を示しているのである。火葬場の処理能力がパンクを起こしても不思議はない。
とりあえず、ハマーチェク内相が数十体の遺体を南モラビアの火葬場に移送して処理させることにして、モラビアシレジア地方の火葬場から遺体の収められた棺があふれ出す事態だけは防がれたが、処理能力の限界に近づきつつあるのはモラビアシレジア地方だけではなく、チェコ全体で火葬場が遺体であふれそうになっているらしい。それで、ハマーチェク氏は入院用の病床と同様に、どこの火葬場にまだ余力があるかをまとめて、遺体搬送のための管制システムが必要だと語っていた。
一番の問題はニュースで取り上げられるような形で、モラビアシレジア地方の知事が訴えるまで何の対処もされていなかったことで、発表前に報告を上げていなかったとは思えないことを考えると、ハマーチェク氏も含めて政府の怠慢を責められてもしかたあるまい。火葬場の状況がどうなろうと、ニュースで注目を集めるまでは、選挙での得票にはつながらないから後回しにされたわけである。
もう一つ気になるのは、葬儀会社の人が、問題の原因は火葬場の処理能力にあるのではなく、火葬に際してさまざまな無駄な義務が課されていることにあると批判していたことだ。その人の話によると、現場を知らない官僚どもが頭の中だけでルールを作るからこんなことになるのだというのだけど、具体的にどんな決まりが火葬場の状況を逼迫させているのかはわからなかった。遺体を運ぶ際には必ず二台の車で動かなければならないことになっているというのは聞き取れたのだけど、それが火葬待ちの遺体が増えているのとどう関係があるのかわからなかった。
考えられるとすれば、火葬場本来の能力を無視して一日に火葬できる数を制限していることだろうか。ただ、それなら管制システムなど導入しなくても、非常事態宣言下の政府の権限で制限を外すぐらいのことはできそうである。
日本だと火葬の後に遺族が骨上げを行なって骨壷に収める儀式があるから、他の火葬場に移されるのに反対するだろうけど、チェコではそこまでこだわらないのだろうか。移送の対象になる遺体は、遺族のいない人のものが優先されるのかもしれない。とまれ医療だけでなく、葬儀のシステムまで破綻寸前と言えば、チェコの状況がいかに危機的かわかってもらえるだろう。
2021年1月8日23時
タグ:コロナウイルス
2021年01月09日
ヤン・ネルダ(正月六日)
ネルダは、19世紀のチェコを代表する文学者の一人なのだけど、国会図書館オンラインの検索で「ネルダ」「ネルーダ」と日本語で使われていそうな表記を入力すると、チリの詩人のパブロ・ネルーダや、音楽関係者や登山関係者とおぼしきネルダ、はてはトンネルダイオードなんてものまで検索結果に並んでいて、本当のヤン・ネルダの作品の翻訳を探すのは大変だった。パブロ・ネルーダの場合には、ヤン・ネルダにちなんで筆名をつけたなんて話もあるし、ネルダがみんなチェコ人とは限らず、ややこしいことこの上ない。
とまれネルダと言えば、さまざまな雑誌に掲載され刊行された短編小説を集めて1878年に刊行された『Povídky malostranské』である。以前どこかで『小地区物語』と訳しているのを見た記憶があるのだが、プラハのプラハ城の直下の城下町にあたるマラー・ストラナ地区を舞台にした作品を集めたものである。ブルタバ川対岸の旧市街に比べると狭く小さいことからマラー・ストラナと呼ばれるようになったものと解釈している。マラー・ストラナ地区には観光名所だけではなく、日本の大使館や広報文化センターも置かれているから、チェコに来た人は大抵訪れたことがあるはすである。
この『Povídky malostranské』に収録された作品が、1960年代に日本語に翻訳され紹介されたのがネルダの作品の最初の日本語訳だと思っていたのだが、今回改めて確認したら、すでに戦前の1929年に原典不明の作品が雑誌に掲載されていたことがわかった。
@訳者不明「吸血鬼」(「文学時代」第一巻六号、新潮社、1929.10)
原典も不明。『Povídky malostranské』に収録された作品に該当するような題名のものはない。国会図書館のオンライン目録では「ヤンネルダ」と名前と名字がまとめて表記されており、作品の題名もチェコならではのものではないので、別人かと疑ったのだが、ビロード革命後に刊行された沼野充義編『東欧怪談集』(河出文庫、1995)に、石川達夫訳「吸血鬼」がヤン・ネルダの作品として収録されているので、同じ作品の翻訳と見てよかろう。ちなみに『東欧怪談集』は昨年9月に新装版が発行されているので手に入りやすくなっている。
A竹田裕子訳『フェイエトン : ヤン・ネルダ短篇集』(未知谷、2003)
残念ながら全訳ではなく、抄訳のようだが『Povídky malostranské』の翻訳が単行本として刊行されたことは喜ぶべきであろう。出版社の未知谷は昔国枝史郎の全集を刊行していたのを覚えているけれども、最近は旧共産圏の文学作品の翻訳にも力を入れているようで、チャペク以外のチェコの作家も日本に紹介されている。訳者は1970年代から児童文学の翻訳を手がけている方のようである。なぜ、日本語の題名を『Povídky malostranské』からかけ離れたものにしたのかは疑問である。
単行本として刊行されたのはこれだけだが、『Povídky malostranské』に収録された作品のいくつかが翻訳されて。全集などの短編集に収録されている。
1訳者不明「ボレルさんのパイプ」(『名作にまなぶ私たちの生き方9』小峰書店、1961)
原題は「Jak si pan Vorel nakouřil pěnovku」。版元の小峰書店は児童書専門の出版社。『名作にまなぶ私たちの生き方9』は、「北欧・東欧の文学」という副題がつけられており、チェコからはカレル・チャペクの「切手収集」も収録されている。『フェイエトン : ヤン・ネルダ短篇集』には、「ヴォレル氏が海泡石のパイプをふかしすぎた話」という題で収録されている。
2木村彰一・千野栄一訳「ドクトル・カジスヴェト」(『世界文学大系』第93巻、筑摩書房、1965)
原題は「Doktor Kazisvět」。『世界文学大系』第93巻は「近代小説集」の第三冊目で、ロシア、北欧、東欧の文学の短編が収められ、チェコからはチャペクの「金庫破りと放火犯の話」「なくした足の話」の二編も収録される。『フェイエトン : ヤン・ネルダ短篇集』では、どうも「藪医者」という題で訳されているようである。
3飯島周訳「没落した物乞いの話」(『世界短編名作選 東欧編』、新日本出版社、1979)
原題は「Přivedla žebráka na mizinu」。『世界短編名作選 東欧編』には、チャペクの「切手蒐集」「聖夜」、シュクボレツキーの「カッツ先生」も収録されている。。『フェイエトン : ヤン・ネルダ短篇集』での題名は「疫病神にとりつかれた物乞いの話」。
ちょっと順番が錯綜するけれども、「ボレルさんのパイプ」が発表された2年後にも、原典不明の短編が翻訳されている。
B栗栖継訳「そいつをどこえ?」(『世界短篇文学全集』第10巻、集英社、1963)
題名末尾の「え」が意図的なのか、誤植なのか気になるところではあるが、オンラインでは確認のしようがない。『世界短篇文学全集』の第10巻も、「北欧・東欧文学」ということで、このヨーロッパの二つの部分はまとめて扱われる傾向があったようだ。チェコからチャペクの作品(「最後の審判」「アルキメデスの死」)が収録されているのも、この時代の文学選集の短編集としては定番だったと言っていい。
現在確認できている限りでは、ネルダが、チャペク兄弟、クルダ、エルベンに次いで、日本語訳が発表されたチェコ作家ということになる。クルダとエルベンは翻訳に名前が出ていなかったから、チェコの作家として紹介された三人目と言ってもいい。
2021年1月7日10時。
2021年01月08日
夏の雪のように――コメンスキーの生涯(正月五日)
チェコテレビは毎年新年に、公共放送の威信をかけて制作した(と想像する)良質の作品を放送するのだが、今年は二日の土曜日にボジェナ・ニェムツォバーの生涯を描いた「ボジェナ」の第一回を放送したと思ったら、四日には、コメンスキーの生涯を描いた「夏の雪のように――コメンスキーの生涯」が放送された。こちらは、去年2020年がコメンスキーの没後350年目に当たるので、それにあわせて製作されたものと考えていいだろう。
この二つの作品、「ボジェナ」が一回80分の全四回の連続ドラマでチェコテレビ1で放送されるのに対して、「夏の雪のように」が約100分の長編ドラマでチェコテレビ2で放送されたのが、二人の過去の偉人に対するチェコの人たちの興味の持ちようを反映しているのかもしれない。出演者の人気にも関係があるかもしれないけれども。
さて、本題の「夏の雪のように」である。最近はテレビの番組表の確認を怠っているので、気がついたら始まっていて最初の部分は見てないのだが、何よりも素晴らしかったのは、コメンスキー役の俳優である。演技がどうこうではなく配役が素晴らしかった。若き日のコメンスキーと、老いさらばえたコメンスキーを親子で演じ分けているのである。
若い方はダビット・シュベフリーク。若いといっても1972年生まれの48歳。父親はアロイス・シュベフリークで1939年生まれの81歳。どちらも映画やテレビドラマだけでなく、吹き替えなどでも活躍する現在のチェコを代表する俳優である。この二人が同一人物を演じ分けたドラマや、親子を演じたドラマもすでに存在するが、ちゃんと見たのはこれが初めてである。
ドラマは、イタリアのウフィツィ美術館に収蔵された、レンブラントの老人を描いた作品が、コメンスキーを描いたものだということを前提に制作されている。つまり一時期近所に住んでいたらしい二人の間に交流があり、コメンスキーがレンブラントの絵のモデルになっている間に交わされる会話の中で、コメンスキーが過去のことを回想して語るという形で話が進んでいくのである。ただし、絵をレンブラントに注文したのは、実際に購入したメディチ家ではなく兄弟団の幹部ということになっている。この辺はフィクションなのかな。
チェコ語で喋る画家がレンブラントだと気づいたときには、思わず「ティ・ボレ」と言いそうになったけれども、ヨーロッパ中を移動し続けたコメンスキーを描いたこの作品の舞台は、ポーランド、スウェーデン、ルーマニア、オランダといくつもの国にまたがるのである。実際の会話が何語で行われたかなんて考証をしていたらテレビドラマにはそぐわなくなってしまう。レンブラントとコメンスキーが、実際に話をしたのだとしたら何語で話したのかはちょっと気になるけど。
コメンスキーの生涯を紹介するドラマとしてはよくできていると思う。ただ回想シーンが断片的で、コメンスキーについての知識が断片的なせいもあって、どこで何が起こっているのかわからなくなることが何度かあって、手元にH先生の書かれた本を置いて年表や地図、人名なんかを確認する必要があった。日本語の本じゃないのは、耳でチェコ語を聞きながら目で日本語を追いたくなかったからである。
自らを「チェコのノストラダムス」と称する反ハプスブルクの予言者ミクラーシュ・ドラビークが登場して重要な役を果たすのだが、それがコメンスキーの教育者とはかけ離れた一面、神秘思想家としての一面を浮き彫りにしていた。場合によっては、コメンスキーの語る理想が、「napravit」という動詞を使っているせいなのか、「人類修正計画」「人類改善計画」のように響いて、誇大妄想だと批判する人がいるのも当然のような気がした。このコメンスキーの描き方が意図的だったのか、結果としてそうなったのかはわからないが、これまで知っていながら実感をもてていなかったコメンスキーの一面に気づけたのは収穫である。
もちろん、あれだけの信仰が原因となった苦難を経てなお、自らの信仰を捨てず、神を信じ続けるコメンスキーの姿も描かれ、時に反発することもあったレンブラントも最後には感服して、コメンスキーの肖像を描き挙げる。そこに写し取られていたのは、学生を導く教師でも、信者を率いる司教でもなく、老いさらばえた一人の老人が力なくいすに座っている姿だった。絵を注文した兄弟団の幹部には受け入れられるものではなく、絵はレンブラントの元に残される。コメンスキーはそれを見て、これこそまさしく自分の姿だと喝采する。
色々なことを考えさせられたドラマだったけど、考えがまとまらないのでここに記すのはやめておこう。ただ、H先生が教えてくれたさすらいの飲んだくれとしてのコメンスキーが描かれていなかったのは残念でならない。飲み屋のシーンもあったけど、飲んだくれてわけのわからないことをわめいていたのはドラビークだった。
2021年1月6日15時。
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2021年01月07日
ハンドボール代表の危機(正月四日)
今年はハンドボールの世界においては世界選手権の年で、一月の後半には男子の世界選手権がエジプトで行われることになっている。チェコ代表も出場権を得ていて、昨年末以来準備が進められているのだが、状況はあまりいいとはいえないようである。
まず、クリスマス前に、守備の柱とも言うべきパベル・ホラークが代表を辞退することを発表した。イーハ監督率いるキールでプレーするホラークは、延期されていたチャンピオンズリーグの試合のために。年末までチームに拘束されることが決まっていて、チェコに残した家族と夏からずっと会えていないのに、世界選手権に出場したら会えない期間がさらに一か月延びてしまうというのが理由のようだ。
こちらのプロスポーツの選手たちは、感染の可能性をできるだけ下げるために家族との時間も制限されているのである。例年であればドイツで単身赴任状態であっても半年も家族に会えないということはありえないのだが、去年は国境を越えた移動が制限されたために帰国できなかったようだ。年末決勝が行われたチャンピオンズリーグも、昨シーズンの試合が延期されたものだし、スケジュールも厳しいものになっているはずだ。
それはともかく、残念なこのニュースの裏側には、キールが優勝候補筆頭だとみなされていたバルセロナを破って優勝を遂げたという、チェコにとっても嬉しいニュースが存在するから、そちらを喜び称賛するべきだろう。イーハは、選手と監督という二つの立場でチャンピオンズリーグを制覇するという偉業を成し遂げたのだから。名選手が必ずしも名監督になるわけではないとはよく言われることだが、ハンドボールの場合には、特に最近は選手としても監督としても優秀さを発揮する人が増えているような気がする。
チェコ代表は、クリスマス開けに、スロバキアとの親善試合を行なった後、一旦解散し、元日に再びプルゼニュに集まった。当然、感染の有無を確認するための検査が行われたのだが、ヤン・フィリップとダニエル・クベシュという二人の監督が陽性の判定を受けてしまった。攻撃面を担当するフィリップのほうは症状が出ていないのでチームから隔離されただけのようだが、守備担当のクベシュは体調の悪化も見られるということでドイツの自宅に戻って療養することになってしまった。下手をすれば、世界選手権に帯同できない可能性もあるという。
1月6日と、9日には来年のヨーロッパ選手権の予選も控えているのだが、相手がフェロー諸島なので、何とかなると思いたい。チームは明日5日にフェロー諸島に出発する予定だが、監督の役はゴールキーパーコーチのペトル・シュトフルと、元代表監督のパベル・パウザが果たすことになるようだ。もちろんフィリップとクベシュもオンラインで練習の指示をしたりはするのだろうけど、試合中に接続が許可されているのかどうかはわからない。
12月に行われた女子のヨーロッパ選手権では、チェコ代表は善戦はしたものの勝ち点を一つも挙げられずに敗退した。大会が開催され、チェコ代表の試合が、テレビで見られるというだけでも満足するべきだということはわかっているのだが、せっかく出るからにはできるだけいい成績で帰ってきてほしいと思うのもまたファンとしては当然である。ただ全員感染することなく無事に戻ってくることが一番大切か。
エジプトでは、グループステージでスウェーデン、エジプト、チリの三チームと順番に対戦する。よくわからんけどこれまでの例から考えると、各グループ上位三チームが二次グループに進出するのかな。南米はオリンピックで強化したブラジル以外はそんなに強くなっていないはずだから、チリには勝てるんじゃないかなあ。開催国のエジプトは、アフリカだけどアラブの笛が炸裂するかどうかが問題。二次グループに進めれば御の字と考えてくれるなら、チェコは2位になれそうだけど、どうかな。スウェーデンには勝てないだろうなあ。
キールで年末までチャンピオンズリーグの試合をしていたイーハとホラークは、大会を延期するべきだと考えているようだけど、ここまできてしまうと無理だろうなあ。
2021年1月5日22時。
5日になって、選手からも陽性者がひとり出て、さらに体調不良を訴える選手もいて、ホテルで同質だった選手も含めて6人の選手が、フェロー諸島には向かわないことが発表された。いずれもベテランのチームの中心選手なので、ちょっと心配である。若手を追加で招集するという話もあるけど、代役が務まるか。ここで活躍すれば世界選手権出場につながるからモチベーションは高いだろうけど。
フェロー諸島での試合が行われるはずだった6日には、試合が延期になったというニュースが届いた。到着直後に行われた検査で選手、スタッフ合わせて8人もの陽性者が出てしまったらしい。その結果現地の保健所の判断で試合が行われないことが決まった。チェコでの二試合目の予定は9日、世界選手権へ出発する予定は12日。間に合うのか? 出場辞退だけは避けてほしいところである。
2021年01月06日
日本大丈夫か(正月三日)
箱根駅伝の結果を伝える記事を読んでいたら、沿道に観客が並んでいるのを非難するような報道が目に付いた。特に高齢者が多いことを咎める声が大きいようだけれども、老い先短い人たちが冥土の土産に年に一度の楽しみの駅伝を観戦することまで、攻撃の対象にするなんて、日本人の非寛容性も、また一段とエスカレートした感じである。沿道で応援するお年寄りを口汚く罵る連中がみんな外出を自粛しているとも思えないし、マスコミも含めて自分のことは棚に挙げて批判しているに違いない。
恐らく、一番問題なのはマスコミの報道のあり方で、必要以上に人が外に出ることの危険性を強調し、恐怖を煽るのがいけない。事実をして語らしめるというか、チェコですら簡単に手に入る実際の感染状況の危険度を示す数字は出てこず、陽性と判定された人の数だけを元に、危険だ危険だと騒いでいるだけのようにしか見えないのが日本の報道である。
感染状況を判断する際に、重要なのは検査での陽性者の数ではなく、症状が出て入院する必要のある人の数と割合であり、重症化して集中治療を受けている人の数と割合である。またどんな規準で入院と自宅療養を分けているのかという情報も必要になるし、検査における陽性者の割合も重要なはずだ。これらの情報なしに、感染状況が悪化しているといわれても、どこまで信じていいものやらわからない。
医療が逼迫しているという記事も目にするが、残念ながら具体的な数値は目にしたことがない。日本全体にどれだけ入院のための病床があって、そのうちのいくつが武漢風邪の患者用に振り分けられていて、どのぐらいふさがっているのかなどの情報なしに医療の逼迫を語られてもなあ。チェコでは流行が拡大した時期に、大き目の病院の本来は感染症とは関係ない科を閉鎖して、武漢風邪専用の病棟に改装することで増やされたものも含めて専用の病床の総数を出し、そのうちいくつ空いているのかすぐわかるし、地方ごとのデータもあって逼迫の具体的な状況がわかるようになっている。
もちろん、人的な意味で逼迫しているというなら、通常業務に加えて検査の業務が加わっているわけだから、病院の仕事が増えているのは言うまでもない。また、医療関係者が感染したり、隔離を余儀なくされることで人手不足に陥る可能性もあるが、現時点で一体どれぐらいの医療関係者が、仕事にかかわれなくなっているのかという情報も見たことがない。多いとか増えているとか当たり前のことでお茶を濁すのは報道する側の怠慢である。新たに感染する人もいれば快復する人もいるわけで、数字は日々変化しているはずである。
そして、武漢風邪の流行が本当に危険なのかどうかを示す数字、例年と比べて死者の数が増えているのかどうかという情報も日本の報道では見たことがない。チェコでは、春の流行期には例年と変わらないか、少し少ないかだったようだが、秋の大流行が始まってからは死者の数が急増し、10月11月は例年の2倍以上になっているというデータが出ている。それは武漢風邪関係の死者だけで増えているのではなく、病院が一般の患者の受入を停止したことや、病院に行くことを避ける人が増えたことなども原因となっているらしい。
こういう具体的なデータがあれば、医療が逼迫しているというか、崩壊寸前だといわれても十分納得がいくし、検査における陽性者率が50パーセントを越える日もあるチェコの感染状況がやばいことになっているというのにも異論はない。だからといって、非常事態宣言が続くのには賛成しかねるし、現在の厳しい規制に関しても、そこまで必要かという疑念を消すことはできない。
チェコではニュースで感染状況や医療の状況が報道されるたびに、この手の具体的な数値が提示されるのだが、日本でもそうなっているのだろうか。ネット上の記事を読む限りではそうは見えないのだけど。
日本で非常事態宣言を求める声が上がっているのも、正直理解に苦しむ。非常事態宣言なんて、行政上必要な手続きを簡略化することを可能にするものである。つまりは政府にフリーハンドを与えるようなものだということがわかっているのだろうか。
チェコでも他のヨーロッパの国でも、感染対策の規制を自由を侵害するものだとして抗議するデモが行われている。その自由の侵害を憲法上理論的には可能にするのが非常事態宣言なんだけどねえ。日本では、普段は政府のやり口を権力の濫用だと批判している連中が、非常事態宣言を求めるのだから意味不明である。
命が一番大切だというのは、真実ではあるのだろうが、乱発すべき言葉でもあるまい。国民の命を守るということが感染症の拡大を防ぐために、人々の自由を侵害することとイコールで結びつくわけでもない。いや、経済活動の停止によって職を失い貧困に陥る人も多いだろうことを考えると、感染対策を強化することによって失われる命もあるはずだ。そう考えると日本では「命が一番大切だ」とか、「命を守る」という言葉が軽く使われすぎている気がしてならない。チェコもバビシュ首相が乱発して誰も気にしなくなっているような気がするけど。
2021年1月4日21時。