新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2021年06月05日
県大会
県大会の審判に行った。
中学野球では、監督は自動的に審判登録され、大会時の審判にあたる。
地区大会はもちろん、年に数回、県大会にも派遣される。
本来昨日だったのだが、雨のために一日順延になったので、授業の手当をしての出張になった。
昨今、ピッチャーの投球制限が加わった。
一日100球、大会全体で350球。
たいていの場合、大会は三日間続き、その間、最低4試合は行う。
そうなると人数およびピッチャー要員が少ないチームは俄然不利になる。
合わせて、エース級のピッチャーに、球数を増やそうという、嫌らしい作戦も現れる。
投球数は、控え審判が数え、70球を超えたとき、イニングの間に監督に通告される。
100球を超えても、現在の打者には投げられるが、それ以降は、自動的にピッチャー交代になる。
ピッチャー以外の守備につくことはできる。
私自身、久しぶりの県大会の審判だったが、なかなかよそのチームを審判として見るのはおもしろい。
選手たちの声かけも、すぐ目の前で行われるし、ベンチの指示や攻撃もよく分かる。
コロナ禍で圧倒的に強いチームは少なくなった。
あまり練習できていないのだろうし、そもそも部員時代も減っている。
選手の負担減のため、7回終了するとすぐにタイブレークに入るようになった。
そんなときに、エース交代というのも困るので、試合展開にもよるが、監督の采配はますます難しくなった。
私が審判をした試合は、タイブレークに持ち込まれ、それでも試合時間が2時間を超えた。
ほっと一息つく間もなく、次の試合は控え審判。
電光掲示板の操作になった。
なかなか気が抜けない一日だった。
たまたま2試合で終わったので、その後急いで帰校し部活を行う。
気がつけば、朝も昼も食べていないことに気がついた。
一体何をやっているのだろう…。
中学野球では、監督は自動的に審判登録され、大会時の審判にあたる。
地区大会はもちろん、年に数回、県大会にも派遣される。
本来昨日だったのだが、雨のために一日順延になったので、授業の手当をしての出張になった。
昨今、ピッチャーの投球制限が加わった。
一日100球、大会全体で350球。
たいていの場合、大会は三日間続き、その間、最低4試合は行う。
そうなると人数およびピッチャー要員が少ないチームは俄然不利になる。
合わせて、エース級のピッチャーに、球数を増やそうという、嫌らしい作戦も現れる。
投球数は、控え審判が数え、70球を超えたとき、イニングの間に監督に通告される。
100球を超えても、現在の打者には投げられるが、それ以降は、自動的にピッチャー交代になる。
ピッチャー以外の守備につくことはできる。
私自身、久しぶりの県大会の審判だったが、なかなかよそのチームを審判として見るのはおもしろい。
選手たちの声かけも、すぐ目の前で行われるし、ベンチの指示や攻撃もよく分かる。
コロナ禍で圧倒的に強いチームは少なくなった。
あまり練習できていないのだろうし、そもそも部員時代も減っている。
選手の負担減のため、7回終了するとすぐにタイブレークに入るようになった。
そんなときに、エース交代というのも困るので、試合展開にもよるが、監督の采配はますます難しくなった。
私が審判をした試合は、タイブレークに持ち込まれ、それでも試合時間が2時間を超えた。
ほっと一息つく間もなく、次の試合は控え審判。
電光掲示板の操作になった。
なかなか気が抜けない一日だった。
たまたま2試合で終わったので、その後急いで帰校し部活を行う。
気がつけば、朝も昼も食べていないことに気がついた。
一体何をやっているのだろう…。
2021年06月04日
正負の数の計算 続報
今年の中1では、例年とは違った方法で正負の数の計算を教えたという話をした。(正負の数の計算2021/04/17)
中間考査が終わり、彼等の答案を見たので、その総括をしてみたい。
結論から言うと、例年よりは計算の出来は良かった。
年は10名以上こぼれている人がでていたのだが、今年はほんの数名。
彼等も今後のフォローで引き上げることが出来るだろう。
入学時のレベルは例年並みかそれより少し低いので、まずまずの成果だったと思う。
基本的な正負の数の計算は、ほぼ出来るようになっていると思われる。
一方で課題もある。
「答案の途中式の書き方」、「複雑な四則演算の計算」である。
前者は、これまで詳しく説明出来なかったので、この先の習熟度別授業でフォローしてもらおうと思う。
答えだけを出そうとするあまり、途中式の変形が書けていない生徒が多いのだ。
これは例年の課題でもある。
また、複雑な式の方は、授業中あまり触れずにいた部分。
途中式を書かなければ、ほぼ正解にたどり着くことができないものだ。
一方で、難しい式を見た途端に、諦めてしまう生徒もいる。
これは中学校以前からの癖かも知れない。
とになく力をつけ、計算が出来るよう導き、論理的な思考を磨くというのが数学の目的でもある。
今回、久しぶりに中1全員の計算部分を担当し、少しだけ手応えを感じた。
学力が低めの生徒は集中力が続かない。
根気も続かないし、いやいや計算している傾向がある。
それを払拭し、「できる」ようにするのが私たち教師の務めだ。
もう少し体系化し、いろいろな先生たちにも紹介したいと思う。
中間考査が終わり、彼等の答案を見たので、その総括をしてみたい。
結論から言うと、例年よりは計算の出来は良かった。
年は10名以上こぼれている人がでていたのだが、今年はほんの数名。
彼等も今後のフォローで引き上げることが出来るだろう。
入学時のレベルは例年並みかそれより少し低いので、まずまずの成果だったと思う。
基本的な正負の数の計算は、ほぼ出来るようになっていると思われる。
一方で課題もある。
「答案の途中式の書き方」、「複雑な四則演算の計算」である。
前者は、これまで詳しく説明出来なかったので、この先の習熟度別授業でフォローしてもらおうと思う。
答えだけを出そうとするあまり、途中式の変形が書けていない生徒が多いのだ。
これは例年の課題でもある。
また、複雑な式の方は、授業中あまり触れずにいた部分。
途中式を書かなければ、ほぼ正解にたどり着くことができないものだ。
一方で、難しい式を見た途端に、諦めてしまう生徒もいる。
これは中学校以前からの癖かも知れない。
とになく力をつけ、計算が出来るよう導き、論理的な思考を磨くというのが数学の目的でもある。
今回、久しぶりに中1全員の計算部分を担当し、少しだけ手応えを感じた。
学力が低めの生徒は集中力が続かない。
根気も続かないし、いやいや計算している傾向がある。
それを払拭し、「できる」ようにするのが私たち教師の務めだ。
もう少し体系化し、いろいろな先生たちにも紹介したいと思う。
2021年06月03日
教師の話術
大会や行事に行くと、近隣の学校の先生たちが生徒に指示を出したり、指導している場面を見ることがある。
そんなとき、私はたいてい、「きちんと指導ができていて、さすがなぁ…」、と感心する。
誰もがなれるわけではない教員の世界。
最近こそは、採用倍率が低くなったようだが、そもそも、子どもが嫌い、学校が嫌い、というような人は教員にはならない。
やってみて、思っていた世界と違って、失望して辞めていく若者もいるようだが、教育に関わる仕事は、そんなに簡単なものではない。
私は、授業時の話術を『落語』や『テレビショッピング』から学んでいる。
落語は言うに及ばないが、テレビショッピングのMCの語りや間の取り方は、授業時の話術に大いに参考になるのだ。
頭のいい人が、教え方が上手であるとも限らない。
個人には教えることが得意だが、全体指導では苦手だ、という人もいる。
巧みな話術と大きなゼスチャーに、生徒たちとの言葉のキャッチボールを通して、授業というものは作られていくのだ。
私自身、授業は楽しい。
授業で、生徒と関わることに喜びを感じている。
生徒たちがどう考えているかは、分からないが、それほど評判が悪いわけではないので、そこそこの授業をしているのだろう。
だが、私は授業時にしかこの話術を使わない…。
普段の生活で、こんなふうに巧みな話術を使って、人間関係を構築できれば、もっと人脈も広がりそうなものだが、残念ながら授業時だけである。
ある意味、授業のときだけ、私は変身しているのだ。
全部演技とは言わないが、役に徹していると言う面が大いにある。
人間つき合いが苦手な理由は、この辺りにあるのかも知れないな…。
そんなとき、私はたいてい、「きちんと指導ができていて、さすがなぁ…」、と感心する。
誰もがなれるわけではない教員の世界。
最近こそは、採用倍率が低くなったようだが、そもそも、子どもが嫌い、学校が嫌い、というような人は教員にはならない。
やってみて、思っていた世界と違って、失望して辞めていく若者もいるようだが、教育に関わる仕事は、そんなに簡単なものではない。
私は、授業時の話術を『落語』や『テレビショッピング』から学んでいる。
落語は言うに及ばないが、テレビショッピングのMCの語りや間の取り方は、授業時の話術に大いに参考になるのだ。
頭のいい人が、教え方が上手であるとも限らない。
個人には教えることが得意だが、全体指導では苦手だ、という人もいる。
巧みな話術と大きなゼスチャーに、生徒たちとの言葉のキャッチボールを通して、授業というものは作られていくのだ。
私自身、授業は楽しい。
授業で、生徒と関わることに喜びを感じている。
生徒たちがどう考えているかは、分からないが、それほど評判が悪いわけではないので、そこそこの授業をしているのだろう。
だが、私は授業時にしかこの話術を使わない…。
普段の生活で、こんなふうに巧みな話術を使って、人間関係を構築できれば、もっと人脈も広がりそうなものだが、残念ながら授業時だけである。
ある意味、授業のときだけ、私は変身しているのだ。
全部演技とは言わないが、役に徹していると言う面が大いにある。
人間つき合いが苦手な理由は、この辺りにあるのかも知れないな…。
2021年06月01日
中間考査
中1にとっての最初の定期考査。
教室では緊張感が張り詰める。
そんなときこそ、教師は穏やかに語る方がいい。
その一見静かと思えるような声は、実は教室に響き渡る。
何か普段と違うものを、生徒たちは感じるのだ。
そんな試験も何度も経験すると慣れてくるのだが、とにかく最初の試験はドキドキだ。
今日の中1での試験監督では、トイレに行きたいという生徒は出なかった。
こんなときも、「試験中でもトイレに行けるんだよ」、などと甘やかすと、そうした生徒が多発するが、「トイレに行くときは、職員室に電話して、別の先生に来てもらうんだよ。誰がトイレに行きたいのかも、バレバレになるよ」、などと少しプレッシャーをかけると、きちんと休み時間にトイレに行くようになる。もちろん、腹痛は別だ。
机に上には筆箱から必要な筆記用具を出して、それだけを置くことになっているが、そのために、中学低学年では、試験中に文房具をよく落とす。
鉛筆やシャーペンなら、音で気づくが、消しゴムは落ちても音がしないので、困ったときには生徒は挙手をする。
ただ、私は、「消しゴム一個だけじゃだめだよ。何個か用意しておくんだよ」、とあらかじめ指示しているの、彼等もそれほど困らない。
そんな感じで、最初の時間の試験監督では、十数回、文房具を拾った。
中には、答案そのものを飛ばしてしまう生徒もいた。
例年よりは少なめだろうか…。
さすがに答案回収には手間取っていたが、三日間の試験で慣れるだろう。
試験の答案を見ても、勉強した形跡があり、「やるじゃないか…」とも思ったものだ。
次の数学の答案を採点して、「むむっ」、と思うことはあったが、それは私の指導力不足。
彼等にとっては定期テストも一つの試練。
きっと乗り越え、自分の学習スタイルを確立してくのだろう。
教室では緊張感が張り詰める。
そんなときこそ、教師は穏やかに語る方がいい。
その一見静かと思えるような声は、実は教室に響き渡る。
何か普段と違うものを、生徒たちは感じるのだ。
そんな試験も何度も経験すると慣れてくるのだが、とにかく最初の試験はドキドキだ。
今日の中1での試験監督では、トイレに行きたいという生徒は出なかった。
こんなときも、「試験中でもトイレに行けるんだよ」、などと甘やかすと、そうした生徒が多発するが、「トイレに行くときは、職員室に電話して、別の先生に来てもらうんだよ。誰がトイレに行きたいのかも、バレバレになるよ」、などと少しプレッシャーをかけると、きちんと休み時間にトイレに行くようになる。もちろん、腹痛は別だ。
机に上には筆箱から必要な筆記用具を出して、それだけを置くことになっているが、そのために、中学低学年では、試験中に文房具をよく落とす。
鉛筆やシャーペンなら、音で気づくが、消しゴムは落ちても音がしないので、困ったときには生徒は挙手をする。
ただ、私は、「消しゴム一個だけじゃだめだよ。何個か用意しておくんだよ」、とあらかじめ指示しているの、彼等もそれほど困らない。
そんな感じで、最初の時間の試験監督では、十数回、文房具を拾った。
中には、答案そのものを飛ばしてしまう生徒もいた。
例年よりは少なめだろうか…。
さすがに答案回収には手間取っていたが、三日間の試験で慣れるだろう。
試験の答案を見ても、勉強した形跡があり、「やるじゃないか…」とも思ったものだ。
次の数学の答案を採点して、「むむっ」、と思うことはあったが、それは私の指導力不足。
彼等にとっては定期テストも一つの試練。
きっと乗り越え、自分の学習スタイルを確立してくのだろう。
2021年05月29日
小学生と中学生
中学生になって一番最初の試練は、もしかしたら、「先輩と良好な関係を築く」ことかも知れない。
どこの学校でも、小学校から中学校へ進学した際にはギャップがあって(中1ギャップ)、そのギャップにうまく適応できない生徒がいるようだ。
近隣の学校では、そのために中学校と小学校が積極的に交流している。
いままで友達だと思っていた人が、急に先輩として見なくてはいけなくなり、呼び捨てからさん付けや、先輩と呼ぶ。敬語も使う。
楽しく先生と関わっていたのに、中学の先生は怖い。
話しかけにくい。
すぐに職員室に帰ってしまう。
遊んでくれない…。
確かに小学校とのギャップは大きい。
それでも、私立学校に来るくらいだから、相応の覚悟の元に入学してきたかつての生徒たちは、それほどそのギャップを感じることはなかった。
だが、昨今は違う。
あからさまに幼いのである。
成績も下がったという面もあるが、成績が低いということは、基本的な生活習慣の確立ができておらず、勉強に対する意欲や集中力も低いという傾向がある。
行動も刹那的で、考えて行動するというよりも、反射的に動く。
発言も、思いついたことを言い、その場の雰囲気や、状況を把握できない。
そんな中で、思い通りにならないことが、ギャップになるのだろう。
中学当初は、先輩から優しく接してもらえ、言葉遣いなども大目に見られるのだろうが、だんだんと、先輩たちの目は厳しくなる。
逆に、それが理解できずに先輩になった場合、今度は後輩の行動や発言に傷つく…。
学力低下は、生活面にも大きな影響を与え、教員としての仕事の柱をさらに何本も打ち立てる。
変わらない中に、変わって行く姿に対処していくのが教員だが、老体にはやや重い…。
どこの学校でも、小学校から中学校へ進学した際にはギャップがあって(中1ギャップ)、そのギャップにうまく適応できない生徒がいるようだ。
近隣の学校では、そのために中学校と小学校が積極的に交流している。
いままで友達だと思っていた人が、急に先輩として見なくてはいけなくなり、呼び捨てからさん付けや、先輩と呼ぶ。敬語も使う。
楽しく先生と関わっていたのに、中学の先生は怖い。
話しかけにくい。
すぐに職員室に帰ってしまう。
遊んでくれない…。
確かに小学校とのギャップは大きい。
それでも、私立学校に来るくらいだから、相応の覚悟の元に入学してきたかつての生徒たちは、それほどそのギャップを感じることはなかった。
だが、昨今は違う。
あからさまに幼いのである。
成績も下がったという面もあるが、成績が低いということは、基本的な生活習慣の確立ができておらず、勉強に対する意欲や集中力も低いという傾向がある。
行動も刹那的で、考えて行動するというよりも、反射的に動く。
発言も、思いついたことを言い、その場の雰囲気や、状況を把握できない。
そんな中で、思い通りにならないことが、ギャップになるのだろう。
中学当初は、先輩から優しく接してもらえ、言葉遣いなども大目に見られるのだろうが、だんだんと、先輩たちの目は厳しくなる。
逆に、それが理解できずに先輩になった場合、今度は後輩の行動や発言に傷つく…。
学力低下は、生活面にも大きな影響を与え、教員としての仕事の柱をさらに何本も打ち立てる。
変わらない中に、変わって行く姿に対処していくのが教員だが、老体にはやや重い…。
2021年05月28日
定期試験と大会
時に、定期試験前後に大会がある場合がある。
今回も、試験の二日前の日曜日が高校サッカーのインターハイ予選。
高校テニスも土日に大会だ。
今日は水泳の大会も行われている。
幸い中間考査では、中学校は大会と重なっていないが、期末考査のときに苦しい…
実は、期末考査の翌日が、中学総体なのだ。
こんな風に試験と大会が近いと、通常考査一週間前で部活動が活動しなくなる、という原則が崩れ、試験前であっても、練習をしなくてはならなくなるわけだ。
考査と考査前一週間を加えると約10日。
この間、何も身体を動かさなければ、当然試合どころではなくなってしまう。
私が担当している野球部では、練習のない日でも自主練をするきおとが習慣化されているが、何もしなければ、大会で怪我をしたり、思うように身体が動けなかったりするだろう。
試験前に勉強していない人には、大会前の部活があろうがなかろうが、あまり関係ないのかも知れないが、本気で勉強をしている人にとっては、とても大変な状況になる。
私が以前勤めていた学校では、こうした場合、「放課後一時間のみ」活動が許されたのだが、今の学校ではそうした既定はない。
それでも、彼等の勉強時間の確保は担保しなくてはいけないのだろう。
中学総体が試験と近づいてしまったのは、本来7月下旬に行われていた総体が、何年か前の猛暑で前倒しになったからだ。
それに加えて、今年は、私の学校の期末考査が少し遅くなった。
これにより、結局生徒に負担をかけることになってしまっている。
「勉強しなくては…」、と思いつつも、大会がある。
総体は中3は最後の大会である。
昨年はコロナで中止になったが、今年は今のところ実施の見込みである。
「中間考査で点数を稼いでおきなさい!」
という私の言葉も虚しく、中間考査前でありながら、彼等はそれほど勉強しているとも思えないのだが…。
私はせっせと試験問題を作っている…。
今回も、試験の二日前の日曜日が高校サッカーのインターハイ予選。
高校テニスも土日に大会だ。
今日は水泳の大会も行われている。
幸い中間考査では、中学校は大会と重なっていないが、期末考査のときに苦しい…
実は、期末考査の翌日が、中学総体なのだ。
こんな風に試験と大会が近いと、通常考査一週間前で部活動が活動しなくなる、という原則が崩れ、試験前であっても、練習をしなくてはならなくなるわけだ。
考査と考査前一週間を加えると約10日。
この間、何も身体を動かさなければ、当然試合どころではなくなってしまう。
私が担当している野球部では、練習のない日でも自主練をするきおとが習慣化されているが、何もしなければ、大会で怪我をしたり、思うように身体が動けなかったりするだろう。
試験前に勉強していない人には、大会前の部活があろうがなかろうが、あまり関係ないのかも知れないが、本気で勉強をしている人にとっては、とても大変な状況になる。
私が以前勤めていた学校では、こうした場合、「放課後一時間のみ」活動が許されたのだが、今の学校ではそうした既定はない。
それでも、彼等の勉強時間の確保は担保しなくてはいけないのだろう。
中学総体が試験と近づいてしまったのは、本来7月下旬に行われていた総体が、何年か前の猛暑で前倒しになったからだ。
それに加えて、今年は、私の学校の期末考査が少し遅くなった。
これにより、結局生徒に負担をかけることになってしまっている。
「勉強しなくては…」、と思いつつも、大会がある。
総体は中3は最後の大会である。
昨年はコロナで中止になったが、今年は今のところ実施の見込みである。
「中間考査で点数を稼いでおきなさい!」
という私の言葉も虚しく、中間考査前でありながら、彼等はそれほど勉強しているとも思えないのだが…。
私はせっせと試験問題を作っている…。
2021年05月26日
ピアノレッスン
高1のS君にピアノレッスンをしてみた。
「自分で音楽練習室の予約をとるのだったら、教えてあげるよ…。」
と言っておいたら、きちんと予約していた。
S君は、多少はピアノを弾けるようだが、習ったことはなかったようだ。
かく言う私も、それほど長い期間レッスンを受けた訳ではない。
世界的ピアニストの方と知り合いだったので、その方のレッスンが、私にとって最後のレッスンだ。
ここ半年近く、私は一切ピアノを触らなかった。
ピアノを弾く時は、一種の瞑想状態になる。
心が落ち着くのである。
もちろん、弾けない曲が弾けるようになるには、かなりの時間と努力を要するし、飽きっぽい性格の私の場合、なかなか練習時間が作れない。
それでも、ピアノは好きだ。
いつかは自宅に、グランドピアノを置いてみたい。
そんな訳で、今回、初めて生徒に教えてみた。
指使いやら音階やら、教えるべきことは多いが、一番大切にしたいことは、自分の音を自分で聞くということだ。
自分で弾いた音を、自分で確認しながら、音楽性を高めていくのだ。
そこに思いを込めることができる。
その思いが、音楽の調べとなって、人に感動を生む。
そのためには、「ただ弾ける」だけではいけないわけだ。
根気を出して、訓練を重ねなくてはいけない…。
最近の若者は楽譜を読めない人が多い。
サイトの鍵盤が流れる動画で練習しているらしい…。
確かに、どの鍵盤を弾けばいいかが分かるが、これではいつまで経っても楽譜は読めるようにならないだろう。
それに強弱記号や微妙な速度調整はどうするのだろう…。
この先、レッスンが続くのかどうか分からないが、私も、ちょっと一歩を踏み出した感じだ。
「自分で音楽練習室の予約をとるのだったら、教えてあげるよ…。」
と言っておいたら、きちんと予約していた。
S君は、多少はピアノを弾けるようだが、習ったことはなかったようだ。
かく言う私も、それほど長い期間レッスンを受けた訳ではない。
世界的ピアニストの方と知り合いだったので、その方のレッスンが、私にとって最後のレッスンだ。
ここ半年近く、私は一切ピアノを触らなかった。
ピアノを弾く時は、一種の瞑想状態になる。
心が落ち着くのである。
もちろん、弾けない曲が弾けるようになるには、かなりの時間と努力を要するし、飽きっぽい性格の私の場合、なかなか練習時間が作れない。
それでも、ピアノは好きだ。
いつかは自宅に、グランドピアノを置いてみたい。
そんな訳で、今回、初めて生徒に教えてみた。
指使いやら音階やら、教えるべきことは多いが、一番大切にしたいことは、自分の音を自分で聞くということだ。
自分で弾いた音を、自分で確認しながら、音楽性を高めていくのだ。
そこに思いを込めることができる。
その思いが、音楽の調べとなって、人に感動を生む。
そのためには、「ただ弾ける」だけではいけないわけだ。
根気を出して、訓練を重ねなくてはいけない…。
最近の若者は楽譜を読めない人が多い。
サイトの鍵盤が流れる動画で練習しているらしい…。
確かに、どの鍵盤を弾けばいいかが分かるが、これではいつまで経っても楽譜は読めるようにならないだろう。
それに強弱記号や微妙な速度調整はどうするのだろう…。
この先、レッスンが続くのかどうか分からないが、私も、ちょっと一歩を踏み出した感じだ。
2021年05月24日
最後の砦
昨今は、「質問があります。教えて下さい」、と私を訪ねてくる生徒も少なくなった。
もしかしたら、私が潜在的に拒否しているのかも知れない。
と同時に、彼等と年齢が離れすぎて、聞きずらいのだろう。
そう考えると、教える先生の年齢は、生徒たちと近い方がいい。
私が彼等に寄り添おうとしても、彼等から見れば、自分の親よりも年齢が高い先生に違いなく、怖れのようなものを感じることだってあるだろう。
私自身の中学、高校時代を振り返っても、印象に残っているのは若手の先生だった。
年配の先生は、それなりに面白かったが、やっぱり少し距離があり、話しかけにくく、親しく話をするにはほど遠い存在であったように思う。
今、自分がそうした年齢になって、生徒との距離が年々離れていくのは仕方のないことだ。
だからこそ、引退時期があるのだろうが、それを感じる年齢になってしまったことに、悲しみを感じる。
年配の教師たちがよく言う、「あの頃はね…」という口癖も、私の口から頻繁に出てくるようにもなった。
そんな中で、今でも中学時代の教え子である何人もの高校生が、私の姿を見るたびに、満面の笑顔で挨拶をしてくれる。
そんなとき、「あぁ、教員でよかったなぁ…」、とひととき幸せな気持ちになる。
もしかしたら、これが『最後の砦』で、こうした情景すら失われた時には、私は潔く引退すべきなのだろう。
確かに、年々、そうした生徒が減っていくようにも思える。
つまり、『最後の砦』は、少しずつ崩壊し、砦としての形態を失いつつあるようでもある。
もし、私自身が、生徒から話しかけてもらえない教師となったとき、私は、淋しくて孤独死してしまうかもしれない。
それほどまでに私は寂しがり屋であったのだろうか。
かつて私に、「丹澤先生は、生徒と結婚したようなものだからな…」、と言った校長がいたことを思い出す…。
もしかしたら、私が潜在的に拒否しているのかも知れない。
と同時に、彼等と年齢が離れすぎて、聞きずらいのだろう。
そう考えると、教える先生の年齢は、生徒たちと近い方がいい。
私が彼等に寄り添おうとしても、彼等から見れば、自分の親よりも年齢が高い先生に違いなく、怖れのようなものを感じることだってあるだろう。
私自身の中学、高校時代を振り返っても、印象に残っているのは若手の先生だった。
年配の先生は、それなりに面白かったが、やっぱり少し距離があり、話しかけにくく、親しく話をするにはほど遠い存在であったように思う。
今、自分がそうした年齢になって、生徒との距離が年々離れていくのは仕方のないことだ。
だからこそ、引退時期があるのだろうが、それを感じる年齢になってしまったことに、悲しみを感じる。
年配の教師たちがよく言う、「あの頃はね…」という口癖も、私の口から頻繁に出てくるようにもなった。
そんな中で、今でも中学時代の教え子である何人もの高校生が、私の姿を見るたびに、満面の笑顔で挨拶をしてくれる。
そんなとき、「あぁ、教員でよかったなぁ…」、とひととき幸せな気持ちになる。
もしかしたら、これが『最後の砦』で、こうした情景すら失われた時には、私は潔く引退すべきなのだろう。
確かに、年々、そうした生徒が減っていくようにも思える。
つまり、『最後の砦』は、少しずつ崩壊し、砦としての形態を失いつつあるようでもある。
もし、私自身が、生徒から話しかけてもらえない教師となったとき、私は、淋しくて孤独死してしまうかもしれない。
それほどまでに私は寂しがり屋であったのだろうか。
かつて私に、「丹澤先生は、生徒と結婚したようなものだからな…」、と言った校長がいたことを思い出す…。
2021年05月23日
泣けなかった運動会
今年の運動会は、ほとんど泣けなかった。
いつもは、彼等の姿に感動し、涙ながら写真撮影をしているのだが、今年はそんなことはなかった。
彼等の雄姿に心を揺さぶられないと言うことは、「もう、この世界から引退すべきなのではないか…」、とも思う。
リーダー学年が、昔、私を苦しめた代であるということも、あまり親近感を持てなかった理由の一つではあるが、それでも自ら教育者を名乗る以上、そんなわだかまりを、何年も引きずってはいけないのだ。
あの頃のダメージが大きすぎたということもある。
だが、それを乗り越えるだけの時間も経っていることも事実。
唯一、高校三年生の演舞だけは、涙が流れた。
だが、それだけだった。
「運動会よ、早く終わってくれ」、とも思わなかったし、自らの役割を果たすため、今年も五千枚以上の写真は撮影している。
だが、彼等との距離を作り、一歩引いて見ている自分自身がいる。
リーダー学年である高2は、当初高1からも、中3からも煙たがられていたが、運動会の練習が進むにつれて、それも弱まり、最終的には、どの団も一つになった。
だが、どれだけ高2とのわだかまりが溶けたのかは分からない。
「一緒の団になって話したら、結構いい先輩でした。」
そんな声もチラホラ聞いた。
学校行事としては成功した運動会だったと思う。
見て下さった七百名以上の保護者も、概ね満足してお帰りいただけたことだろう。
だが、何となく私自身に充実感がない。
子供らに感動出来なくなった時が、この仕事を終える時期なのだろう。
ともあれ、今年も感動をありがとう。
いつもは、彼等の姿に感動し、涙ながら写真撮影をしているのだが、今年はそんなことはなかった。
彼等の雄姿に心を揺さぶられないと言うことは、「もう、この世界から引退すべきなのではないか…」、とも思う。
リーダー学年が、昔、私を苦しめた代であるということも、あまり親近感を持てなかった理由の一つではあるが、それでも自ら教育者を名乗る以上、そんなわだかまりを、何年も引きずってはいけないのだ。
あの頃のダメージが大きすぎたということもある。
だが、それを乗り越えるだけの時間も経っていることも事実。
唯一、高校三年生の演舞だけは、涙が流れた。
だが、それだけだった。
「運動会よ、早く終わってくれ」、とも思わなかったし、自らの役割を果たすため、今年も五千枚以上の写真は撮影している。
だが、彼等との距離を作り、一歩引いて見ている自分自身がいる。
リーダー学年である高2は、当初高1からも、中3からも煙たがられていたが、運動会の練習が進むにつれて、それも弱まり、最終的には、どの団も一つになった。
だが、どれだけ高2とのわだかまりが溶けたのかは分からない。
「一緒の団になって話したら、結構いい先輩でした。」
そんな声もチラホラ聞いた。
学校行事としては成功した運動会だったと思う。
見て下さった七百名以上の保護者も、概ね満足してお帰りいただけたことだろう。
だが、何となく私自身に充実感がない。
子供らに感動出来なくなった時が、この仕事を終える時期なのだろう。
ともあれ、今年も感動をありがとう。
2021年05月22日
M君暴れる…
「Sさん、パソコン室でエッチな画面見ていたよ。」
おしゃべりの中1Mが、中2のSの様子を皆に言いふらそうとしたのを、Sが先輩風を吹かせて止めた。
だが、Mは、「Sさん、長くパソコンを使っていたよ」、などと言いふらして回った。
言いふらされたと勘違いして、怒ったSは、Mとその友人たちを追い回す。
「許さん。殴ってやる!」と、暴れ回った。
最近、Mは情緒不安定である。
入学時から、自分の衝動を抑えきれないことに苦しんでおり、今は、大分コントロールできるようにはなったが、まだ感情が爆発すると、行動を抑えきれない。
「このままだと、本当に暴行事件になりますよ。」
同学年の生徒たちも、Mの行動を怖れ、彼と距離を取る。
だが、その疎外感とも孤立感とも言える状況が、ますますMを追い込んでいるようにも見える。
と言って、Mが受け入れられる状況でもない。
昨今は、後輩たちにもその噂と言動は広がり、ますます孤立しているのが現状だ。
発達の偏りとひとくくりにするのは簡単だが、そうした生徒も育て、かつ、他の生徒にいい意味で学びの場を提供できるはずだ。
検査をすれば、支援学級に入るべき生徒なのかも知れないが、うちの学校では、そういう生徒も、これまで何度も受け入れ、卒業させてきた。
学校の教育力と、生徒たちと先生たちの愛の力が、Mを善導してゆくことを信じたい。
「話しても、理解できないみたいですよ…。」
若手の先生たちはそう言うが、結局は、その指導を自分の中で受け入れる状況には到っていないのと、叱られたことへの照れ隠しが、素直さを妨げているのだろう。
根気強く繰り返しの指導で、Mが成長していくことを願うばかりだ。
良くなることを信じて疑わなければ、必ずや変わっていくだろう。
それが教育の効果だ。
おしゃべりの中1Mが、中2のSの様子を皆に言いふらそうとしたのを、Sが先輩風を吹かせて止めた。
だが、Mは、「Sさん、長くパソコンを使っていたよ」、などと言いふらして回った。
言いふらされたと勘違いして、怒ったSは、Mとその友人たちを追い回す。
「許さん。殴ってやる!」と、暴れ回った。
最近、Mは情緒不安定である。
入学時から、自分の衝動を抑えきれないことに苦しんでおり、今は、大分コントロールできるようにはなったが、まだ感情が爆発すると、行動を抑えきれない。
「このままだと、本当に暴行事件になりますよ。」
同学年の生徒たちも、Mの行動を怖れ、彼と距離を取る。
だが、その疎外感とも孤立感とも言える状況が、ますますMを追い込んでいるようにも見える。
と言って、Mが受け入れられる状況でもない。
昨今は、後輩たちにもその噂と言動は広がり、ますます孤立しているのが現状だ。
発達の偏りとひとくくりにするのは簡単だが、そうした生徒も育て、かつ、他の生徒にいい意味で学びの場を提供できるはずだ。
検査をすれば、支援学級に入るべき生徒なのかも知れないが、うちの学校では、そういう生徒も、これまで何度も受け入れ、卒業させてきた。
学校の教育力と、生徒たちと先生たちの愛の力が、Mを善導してゆくことを信じたい。
「話しても、理解できないみたいですよ…。」
若手の先生たちはそう言うが、結局は、その指導を自分の中で受け入れる状況には到っていないのと、叱られたことへの照れ隠しが、素直さを妨げているのだろう。
根気強く繰り返しの指導で、Mが成長していくことを願うばかりだ。
良くなることを信じて疑わなければ、必ずや変わっていくだろう。
それが教育の効果だ。