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2022年11月07日

お子ちゃまたち

先週の事件以来、野球部の活動を停止していたが、今日ようやく限られたメンバーで練習を再開した。たった三人のスタートである。

部活動は教育活動の一環であるから、活動にあたってはそうした面も色濃くなければない。特に中学校の場合、技術面よりも教育面の方が大きくなって当然である。

だから私は、時折、部員たちに反省を促すために、いろいろな手を打つ。

だが、昨今、私の手法が効かなくなりつつあるように思う。

別に下手でもいい。たとえそれが先輩と言われる立場の選手であっても、一生懸命やって、必死でボールを追いかけ、明るく爽やかなプレーをしてくれれば、いつのか日の目を見ることもあるだろう。

だが、彼等は違う。

自己中心的で、気分屋、感情の上がり下がりが激しく、一生懸命さもない。

時折、元気になったかと思えば、思い通りにならないことや、気に入らないプレーが起こると、勝手に切れて、自暴自棄になり、あるいは暗くなって落ち込み、ブラックホール化する。

ひょっとすると、発達の偏りのあるようなそういう生徒ばかりなのかも知れないが、自分がやりたいことだけをやろうとして、注意をすれば、ふてくされ、そのあとは、落ち込んでしまって、さわやかさのかけらもなくなる。

そんな風だから、小学生が体験入部に来たときですら、互いにケンカを始めてしまう始末。

一生懸命さがあれば、私もかかわろうという気持ちになるが、彼等の姿を見ていても、そうした気持ちにならず、まるで無意味な時間だけが流れてしまう。そんな部活動にならやらない方がいい。

中学生だと思うからこそ、頭にくるのならば、相手を幼稚園生だと思えばいいということか…。

お子ちゃま相手は気が滅入る。自分自身がポジティブ状態でないと、なかなか対処が難しい…。





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2022年11月03日

地元の祭り

三年ぶりに地元の祭りが行われた。
コロナ禍でしばらく中止になっていたものだ。
「ご神事なのだから、開催すべきだろう…」と私はずっと感じていたので、「ようやく…」といった感じだ。

だが、今年の祭りは分裂開催。
本来、町内を二つに分けて、それぞれ山車が練り歩くのだが、一方が「中止」という判断をしてしまったので、片方だけの開催になり、何とも盛り上がらない、この先にも禍根を残しそうな、情けない祭りになってしまった。

祭りの継承は、文化の継承でもあり、細々ながらも信仰の継承でもある。
若い衆たちの活躍の倍でもあり、年寄りたちによる若衆への教育の場でもある。
一方で、飲み食いの場でもあり、年に一度の気分高揚、ストレス発散の場でもあるのだ。

コロナ禍で人と人とのつながりが断たれ、飲食の機会も断たれ、別の見方をすれば、文化や信仰の継承の機会も断たれてしまった感がある。

私は祭りのための飾り付けを行い、ご祝儀を準備した。
例年のように山車が我が家の庭に来ることもないので、山車を引く人たちにへの軽食を準備する必要もなかった。

天気は良かったが、日数も三分の一になり、なんとも淋しげな秋祭りになった。

今回、ボランティアで生徒が山車を引いたが、おそらくは、黙って歩くだけだったのだろう。
大声を出さない祭りって何だろう。

家の前に山車が来たときには、地元の人は声を掛ける。
屋外ではマスクをはずすことにはなっているが、学校では一日中生徒にマスク着用を強要している。

祭りだというのに、町は閑散としていた、
少子高齢化が激しく進み、祭りの運営も困難を極めているのかも知れない。

遠く微かにお囃子だけが聞こえてくる。
その音色は、いつもの高揚感ではなく、どこか陰のある、悲しげなものに聞こえた…。




2022年11月02日

愛犬のこと

先週、下痢が続いていた愛犬Rが急に弱ってしまった。
まだ三歳でもあるので、自然治癒力を期待していたのだが、ここにきて、餌も食べなくなり、さすがに動物病院に連れて行かざるを得なくなった。

聞けば重症であり、命の危険もあるという。
若干は病院独特の「脅し」も含まれているとは思うが、さすがに弱った愛犬を見ていると、心配になってくる。

早速、愛犬Rは点滴治療になった。
私は犬が点滴をする様子を始めて見た。
「そばにいてあげてください」と言われ、小一時間ほど付き添ったが、さらに時間がかかりそうなので、私は一時帰宅し、夕方再び迎えに行くことになった。

点滴のおかげで、愛犬Rは大分元気になった。
「お腹の中に寄生虫が二種類います。治療するには体力の回復が必要なので、まずは食べられるようになり、体重が増えないといけません。」

女医でもある獣医が熱く語る。

私は、「もし愛犬Rが清でしまったらどうしよう…」などという気持ちがよぎり、話しがうわの空になってしまった。

家族の一員である愛犬Rがいなくなると、相当のペットロスになってしまうだろう。
私の愛犬たちは、生徒たちからもかわいがられているし、慣れている生徒も少なからずいる。

何日かを経て二度の点滴後、愛犬Rは、これまでと同じような元気を取り戻しつつある。餌も以前と同じように食べるようになったし、体重も少しずつながら回復しつつある。

ここまで回復すれば、治療が始まるのだろうと思う。
愛犬Rは、蛇や蛙を食べてしまうので、そのあたりから寄生虫にやられたと思われた。
イベルメクチンも飲ませていたが、なぜだか効果がなかったようだ。

あまり犬たちとは遊んでやれないが、それでも、毎日彼等と出会うことは、私の楽しみであり、癒やしでもある。

元来私は寂しがり屋のようだ…。




2022年10月28日

遠足で見た風景

遠足で献花の世界遺産を見学に行った。

かつては外国人ばかりだったが、まだ目立つほどではなかった。政府の入国制限も大幅に緩和されているので、いずれ増えてくるのだろうと思う。

その代わり、小学生が大勢見学に来ていた。
そのほとんどは六年生。修学旅行中の見学と思われた。

しかし、彼等の態度がなっていないのである。
以前は、小6でももっときっちりしていたように思う。
先生たちも、生徒の掌握にご苦労されていたように見えた。

かつて私たちの学校の生徒たち(中2)を連れていったときには、「ほら、小学生たちの方がしっかりしているよ…」などと諭したものだが、今回ばかりは違った。
私たちの学校の生徒の方が、立派に見えるのである。

もちろん本来、小学生と中学生だから立派に見えて当然なのだが、ここ数年で、小学生の方が落ちたということだろう。

考えられるのは、コロナ禍の行動制限だ。
おそらくは、いくつもの行事が中止になり、また校外に出掛ける機会も少なく、その結果、「学校外に出掛けたときの振る舞い」の訓練が出来ていないのであろう。
せめて「修学旅行くらいは…」という感じで、今回生徒たちを連れてきたようにも見えた。

コロナ禍の騒動は、子どもたちの教育にも大きな影響を与えている。

聞くところによると、生徒全員に配ったタブレットによって、授業崩壊をもたらしているという。恐らく、この先大幅な学力低下も問題になろう。

コロナが子どもたちの社会性も学力も奪い、性格的にも問題のある人間を作り出してしまっている。

この先、ワクチンによる未知の副反応により、肉体的にも障害を被るかも知れない…。

校外に出掛けるといろいろなことが見えてくる。

2022年10月27日

手の甲のしわ

ふと自分の手の甲を見る。
以前よりも皺が増えたな、と思う。

私は、かつて見た親父の手の甲の皺が忘れられない。
当時の親父は、すでには齢八十を超えていたと思う。
母方の祖母の通夜後の火葬のときだったと思うが、骨になるまでの時間に、成りに座っていた父の手の甲を見た。

私はその皺の多さに愕然とした。
かつては、張りのある頼もしかった父の手が、こうも老いてしまうのか。

そのとき、父が「手がこんなしわくちゃになっちゃったよ」、と言ったような気もするが、少なくとも、ショックを受けた私は、記憶があまり定かではない。

その後、おそらく十年も経たずに父は逝ってしまった。
私は遠方に入れたので、父の看取りは出来なかったのだが、横たわる父の手は、同じくしわくちゃであった。

あれから何年もなる。
私は齢を重ねる毎に、手の皺が増えていく…。

たとえクリームなど塗って、見た目の皺を目立たなくしたとしても、齢を重ねることには違いない。

人は誰しも「若さの奢り」がある。
特に若者は、「老い」など意識することはない。

私は授業をしていると、生徒たちは、「今を生きるに一生懸命で、その他のことは何も考えられないのだろう」と思う。

『老い』は逃れられない。
かつて釈尊は『四苦』の中で、「生老病死」を説いた。

「歳は取りなくないね〜」
生前祖母が始終呟いていた言葉を思い出す。

いよいよ私もそうした年齢に近づいてきた。
せめてもの救いは、今の仕事が、つねに若者たちと一緒に過ごしていることだろう…。

2022年10月19日

悪しきプライド

「ちょっと困るんですけど…。技術的なことは音楽科でしどうしますから。余計なことを言わないで下さい。生徒たちも、指示が違うと、困ってしまいますから…。」

音楽の先生の独壇場がまた始まった。
合奏コンクールが近づき、元気満々の音楽教諭の彼女は、この時期、周りがあまり見えなくなる。彼女の考えに合わない方法は、すべて激しく非難するのだ。

「私が合奏指導している…」という思いが強くなりすぎて、この時期、多くの担任が辟易する。

確かに一年間で一番彼女が輝く時期なのだが、どうしても「自分が自分が…」という思いが大きくなってしまって、他とのトラブルを起こしがちだ。

「慢心」という言葉でひとくくりにしてしまうのは、申し訳ないが、そのカテゴリーに含まれるのだろう。

本当は、人のことは言えない。
仕事に慣れてくると、過去の経験値から自分が一番よく知っていると誤解し、ついつい大きな事を言ってしまいがちだ。これも慢心である。

「慢心」は知らず知らずのうちにすり寄ってくる。
それが怖いのは、自分で気づかないうちに、「慢心」していることである。
冷静な判断ができず、自分自身を客観視することもできず、自己中心的に行動してしまう。

世の中に果たして「慢心」せずに生きることができる人がいるのだろうか…。

私もかつて、この「慢心」によって、人生の危機が訪れた。
たいていの場合は、「自分はベテランである。プロである」と思えたときが、もうすでに「慢心」の始まりであり、中間点であり、終着地点でもあるようだ。

すべてを仕切り、コントロールし、運営し、一つの行事を作り上げていくことは立派なことだ。だが、そこには必ず他の協力体制が必要であり、結局は、人の支えによって成り立っているものなのだと思う。

元気溌剌、やる気満々、行事を仕切っている人は輝いている。
しかし、その反面、悪しきプライドである「慢心」の毒牙が、身体のあちこち刺さってしまっていることも自覚しておかなくてはならないだろう。

自戒せねばなるまい…。




2022年10月17日

一つのことだけ

幼児は、何かに関心を持つと、そればかりが気になり、他のことはすべてすっ飛ばしてしまう。恐らくは、幼稚園などで皆で散歩に出掛けても、何か気になることがあったら、一人さっとそちらの方に向かってしまうのだろう。その意味では、手をつないで歩くのは意味があるのだろう。

成長するにしたがって、だんだんと複数のことが処理できるようになるが、中学生くらいだと、まだそうした傾向のある生徒は少なからずいる。

発達の偏りのある生徒は特にその傾向があり、ひとたび気になりだしたら、他のことは一切考えられなくなってしまうのだ。

学校生活でそうした状況になると、まわりの生徒も教師たちも翻弄されてしまう。校外に印刷しているときなど、なおさらだ。

「学校は何を教えているのだ!」
学校は地域からも厳しい目で見られている。
その意味では、教師は聖職者であるべきだ。

だが一方で、指導にはどうしても家庭の協力が欠かせない。
「すべて学校にお任せします」という保護者は、たいてい手のひらを返したように苦言を呈してくるものだ。

そんな彼等を担任している若い先生たちは、さぞかしご苦労を重ねている事だろうとおもう。しかし一方で、「生徒の事をつねに考えていられる幸福感」をも得ているのだということをアドバイスしたい。

それこそが、教師の醍醐味であり、天職としている証しでもあろう。

今日も、ある生徒が自室のことが気になって、帰宅してしまった。

そうした彼等は、将来、社会で上手くやっていけるのだろうか。

一抹の不安とともに、学校でできることの限界も感じつつ、それでも彼等と関わり続ける我らの仕事に、少しでも誇りを持ちたいものだ。




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