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2023年04月13日

自己犠牲か自己満足か

もう十年近く前になるが、担任している中学生が生徒がインフルエンザに罹った、

隔離していた生徒を見舞ったが、なかなか苦しんでいたので、とても心が痛んだ。

そのとき、ふと、「彼が楽になるなら、私はどうなってもいい…」と考えてしまった。両親と離れて暮らしていたので、自分自身が親代わりのつもりでいたのである。

この思いは、果たして「愛」の思いなのか、それとも、単なる「自己満足」なのか…。

きっと純粋な「愛」でなく、おそらくは「愛」もどきであって、「爽やかな風のごとき愛」ではなく、細かな砂塵が混ざっていたようにも思う。風の中に砂つぶが混ざっていれば、爽やかさが消えてしまう。

その砂塵に相当する部分は、思うに、「私が救ってみせる」という慢心であり、「自分がこの生徒の担任である」という過ぎた自負心であったと思う。

やはり、その思いは、決して「自己犠牲」的なものではなく、単なる「自己満足」であったのだろう。

自信を持って教員としていき、担任の仕事を成し遂げることは大切なことだ。
だが、一方で、ときに「慢心」のような、転落を招く思いがわき上がってくる。

だから、時々そうした思いを矯めて、純粋な心を維持しなくてはいけないのだが、ついつい日々の仕事の忙しさに忙殺され、一番大切なことを忘れてしまう。

今の私は、だいぶコントロールできるようにはなってきたが、なかなか心を整えることは難しいことだ。

その翌日、私はインフルエンザに罹患した。
そのことが、すべてを物語っている。

私の思いは純粋ではなかったのだ。

今でも、この出来事を自戒している…。




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2023年04月12日

インフルエンザ

「勇気を出してマスクを取ろう!」と校長が訴えて一週間も経たないうちに、発熱者が増えてきてしまった。

春休み明けの新学期で、免疫力が落ちているのかも知れないが、当初はそのうちほとんどが風邪だったが、ここにきて、インフルエンザも現れてきた。

コロナが一段落し、マスク着用も自由になった。
それでも、なかなかマスクを外せない生徒もいる。

コロナ対策として、どれだけマスクが有効であったかは疑問だが、その間、学校現場では、生徒も教員もお互いの表情がわからないまま、非常に困難な教育活動を強いられてきたのだ。

「入学当初のお互いのコミュニケーションを、マスクなしの状態ではかりたい…」、という校長の切なる願いであったのだが、ここにきてあっという間にインフルエンザが蔓延した。

もしかしたら、それなりにマスクの効果はあったのかもしれないが、どうやら感染源は教員らしい…。

数年前にも、この時期からGWにかけてインフルエンザが蔓延し、百人に達するかという状況になっているの、校長も、「慌てふためくと、どんどん広がるので、できる処置を淡々と行うよう」指示を出している。

たしかに、教員側が慌て、不安になれば、その思いは生徒に伝わり、状況はさらに悪化しそうだ。

何が起きても動じない様は格好よいが、生徒から見た教員は、そのようでなければならないだろうと思う。

新入生はまだオリエンテーションの真っ最中。
この先、歯抜けのメンバーでのオリエンテーション、最初の授業のスタートになりそうだ。

恐らくは他校でも、同じようにインフルエンザが流行ってきているのだろう…。




2023年04月07日

入学式

今年の入学式でも私は撮影係。
新たに入学してきた中学生、高校生の勇姿を私は記録に残す。

緊張した面持ちで、入場してくる彼等の姿は誇らしげだ。
新しい世界に一歩を踏み出し、希望溢れ、明るい未来を思い描く。

そんな中で、一人だけ明かす入れたような生徒がいた。
皆が緊張の中、どきどきしながら歩いている中、なんだかニヤニヤしている。
照れ笑いだろうか。
かつて、こうした緊張を経験しても、いつもそのプレッシャーから逃げてきたのだろうか。

そんな風に始まった入学式。何やら動き続けている中学の新入生がいた。
多動性の生徒だ。

あとから効いたのだが、新しい制服の生地がチクチクして、我慢がならなかったらしい。
だが、理由はそれだけではあるまい…。

いろいろな生徒が今年も入学してきた。
入学した空は、すべての生徒を責任を持って教え諭し、中学や高等学校の課程を修了させるべく、関わり続けなくてならない。

ましては、我が校は私立だ。保護者から授業料等を頂戴しているのだ

ふと、高校生を見ると、式開始後からずっと寝ている生徒がいた。
中学時代ずっと授業を担当してきたTである。

厳粛な式典内でずっと寝続けることができる大胆さがあるともいえるが、「きちんとすべき時にはちゃんとする」ことを中学時代に学びきれなかったことによる。
つまり、我々の始動が仕切れなかったことということだ。

私は、ふとファインダー越しに、彼の姿を残しておきたい衝動にかられた。
もう一歩のところで、思いとどまったが、私は少しだけ、怒りを感じてしまった。

式は恙なく終わり、新入生の彼等にも笑顔が戻った。

また新しい年度が始まる。

私たちの仕事はとてつもなく大きい…。

2023年03月01日

卒業式

卒業式が終わった。
私の中では、なんともあっさりとした卒業式になった。

私自身トラウマのある学年。
本当なら参列したくはなかったのだが、私にはいつものようにカメラマンとして、卒業式の様子を撮影しなくてはいけない仕事が与えられた。
だから、逃れるわけにはいかなかったのだ。

例年は涙、涙卒業式で、流れる涙をファインダーを覗きながら誤魔化したものだが、今年は涙が流れることはなかった。

恐らく私は、枯れてしまったのだろう。

もう何年もなるのだが、私が彼等を担任した時代、どうやら私は病んでいて、彼等と正面から向き合うことができなかったようだ。

その罪悪感、逃避により、私は彼等の学年に顔向けができないでここまできた。

そして卒業式を迎える…。

彼等が気分良く卒業式を迎え、幸せに卒業していくのならば、それでいい…。
だが、その姿を少し離れて、やや冷めた気持ちで見ている自分が、何ともやるせなく、許せないようにも思える。

生徒とのトラブルというよりも、保護者とのかかわりの中で、私は彼等の学年を見捨てる形で去ることになった。その傷は、未だに癒えていない。

式後の謝恩会にも招待され、参加こそしたものの、一時間あまりのその集いは、私にとってあまり居心地がよいものではなかった。

式後、二人の生徒から声をかけられ、感謝の言葉を述べられた。
私は何ごともなかったのように、笑顔で彼等を送り出す。

高校生にとって、中学時代の先生はかなた昔の遠い存在なのだろう。
しかし一方で、私は未だに、彼等の姿を見るたびに、罪の意識にさいなまれる。

恐らくは彼等が卒業したのちも、私の心は癒えることはないのだろう。
現実逃避として、彼等の姿を見ることがなくなることだけが、これまでと変わることだが、まだ、私の心のわだかまりが消えることは、しばらくない…。




2023年02月20日

悩みごと

「丹澤先生、どうやったら、悩みや苦しみ、困難を乗り越えられますか?」
中1のKが野球部ノートにそんな風に書いてきた。

彼は、最近やたらと私にアドバイスを求める。
特に、悩みごとがあるようには見えないのだが、何からの参考にしたいのだと思う。

たいてい、悩みにや苦しみに打つひしがれている人は、自分のことしか考えられない。
私もかつて、大きな人生の岐路を求められたとき、必死でもがいていた時期がある。
その時の私は、必死で「相手のことを考えて行動する」ことに徹したと思う。
つまり、徹底的に「利他」に生きようとしたのだ。

もちろん、そうした行動の中で自分を見つめる。
少しでも自分の心に「認められたい」という邪な思いがあるならば、それを払拭しようとして、そしてまたもがく…。

そんなことを何ヶ月かすると、いつの間にか、「自分のことばかりを考えていた」自分から脱却して、なんだかすっきりしたことを思い出す。

基本的に、悩みの時には、「他の人のための行動をしつづける」のが良い、ことを学んだ。

このことは教育活動にも活かすことができる。

思春期という年齢期に、悩みを持たない人はいない。
その中で、大人として、経験者として、適切なアドバイスなり、解決の道を導くことができるならば、それは教師冥利に尽きる。

もちろん一筋縄ではいかない。

時に寄り添い、時に叱責して、それでもなお、見捨てない。
場合によっては、「時を待つ」ことも必要になるだろう。

あまりの自己中と我がままに諦めそうになったときには、自らを振り返り、何かよ老い方法がないか考えてみる…。

そんなことを繰り返しているうちに、結局、自らの悩みなど、いつしか吹き飛んでしまっている自分がいることに気づく…。




2023年02月10日

次年度の人事

私立学校では、この時期に次年度の人事が内示されることがしばしばある。
入学説明会など、新年度に向けた仕事が次々とやってくるからだ。

そんな折、校長の一言は、私たち教員たちを励まし、やる気を引き出させてくれた。

「今、私は来年度の配置を決めています。それを考えれば考えるほど、皆さん方、一人たりとも欠けてははならない存在だと思うに到りました。皆さんがいろいろな所、いろいろな場面で仕事をしているから、学校として成り立っているのです。誰一人と欠けてはならない皆さん方を、私の考える適材適所に配置させていただきますので、今少し待ってください。」

私はこの言葉を聞いて、「私もまだ必要とされる人間なんだ」と思うと共に、「この校長なら、もう少しご奉仕してもいいのではないかな…」と感じるに到った。

校長の一言で、多少のやる気が出るのだから、私自身単純といえば単純だ。

だが、組織ではこうした配慮も必要だろう。
「やる気を引き出す」ことも、上司にとって大切な仕事の一つなのだ。

歳をとっても、「まだ、何かできることはないかな…」、と奮起できることはありがたい。

幸い定年までは今少し余裕がある。
「仕事がある」ということは、この上なくありがたいことでもあるのだ。

生徒との年齢差は開くばかりではあるが、今少し、お役に立てることはあるようだ。

公立校のような60歳定年ではないのだか、生涯現役を目標にもう人分張りしてみよう。

口だけの老害にならないよう、心して務めようと思う。




2023年02月09日

クレームは宝の山

かつて、商売においては、「お客様は神さまである」とされた。
その後、激しくしつこく苦情を言う人を、クレーマーと名付け、ある意味ブラックリスト化した。

私の学校では、『クレームは宝の山である』と徹底されている。学校としては珍しい方かも知れない。

かつて、「モンスターペアレント」と言われるほど、保護者の叛乱(?)が続いた学校現場だが、このところ、少し落ち着いてきているように見える。

大昔のように、親たちが教師を尊敬する時代ではなくなり、親の高学歴化などにより、今や、対等もしくは、自分より教員を下に見る傾向があるようである。

一方で、教員の不祥事ばかりが報道され、ますます親たちの不振は増すばかりである。
あってはならないことではあるのだが、ごく一部の出来事を、大きく大きく報道する姿勢によって、学校現場および教員たちが、どれほど苦しい思いをしているかは、マスコミは知る余地もなく、またお構いなしだ。

教育は国の礎を担うものなのだから、もっと気持ちよく、やりがいを感じられる環境になって欲しいと思うのは、私だけではないだろう。

もちろん、公務員としての身分に甘んじて、自らにも甘い生活をしている方も、一定数はいるものと推察される。

「熱意ある教員が、熱意ある指導」を行うことのできる環境を作ることも大切だろう。
そうした環境も、教育活動には重要なファクターになる。

一方で、教員そのものが、人格者であり、人徳者であることも、求められるべきことだ。
そうした漏れ来る光が、保護者や生徒たちの信頼を得るに到るはずだ。

親たちのクレームの中には、確かに度を超えたものもあるが、そこには納得できる部分もある。たとえ、それがほんの数パーセントであったとしても、その意見は、学校現場にとって貴重な改善項目になり得る。

その意味では、「クレームは宝の山」なのだ。

学校(教員)は、そう思えるような、広く、素直な心と、心の余裕も必要だろう。

「自分は悪くない」と思う心が自己保身を生み、健全なる進歩を妨げる…。





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