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2019年03月04日

まだまだ事務作業が続く

昨日は、2回目の入学説明会だったが、だからといって先生方に代休が与えられるわけではない。お休みは授業等に差し障りのない範囲で、各自調整しなさい、というのが学校の方針だ。
だが、明日から学年末考査。

私は考査の監督を割り当ててるが、先生方から、「試験中お休みをいただきます」という連絡は来ていないので、ほとんどの先生方は、そのまま突っ走ろう、ということだろう。
考査中の午後は、比較的時間があるのだが、今年は違う。
すでに来年度の配置が発表されており、その全体方針説明が、執行部からなされたり、新年度に向けて、各教科ごとに集められ、新管理職からの指示がある、というものだ。
となると、なかなかお休みは取れまい…。

試験が終われば、答案の採点もあるから、お休みどころではないのだ。
私の学校にも採点日なるものはあり、生徒は別の行事をしているが、それは翌日すべての答案を返却するための苦肉の策でもある。

答案を返却後は、中一日で総合成績を作り報告。すぐに成績会議となる。そして、通知表だの要録だの書類作りが佳境に入り、あれよあれよと終業式を迎える。
その間に、配置転換の引き継ぎだの、新年度の準備だの、まさに三月は、教員の師走のようなものだ。

近隣の同僚によると、通知表の所見は教務、教頭、校長がチェックするとのことだが、私の学校ではそうしたシステムはなく、各自、間に合うように作ればいい。

「もう、20年もやっていると、例文ができているので、うまく作文しています。」
とも言っていたが、文章を作るのに、一時間で数人がやっと、という人もいるわけで、それはそれで大変な仕事だ。もっとも、近隣の中学校は、二期制だから、これが年に二回で済むわけで、三学期制よりもやや仕事は低減されているのかも知れない。

終業式が終われば、教務の私は新年度に向けての校務ソフトのシステム設定。そして時間割作成となる。

「丹澤先生が、一人で時間割を作っているのですか?」
二年前に赴任した隣の副担が叫ぶ。

中高ある学校なので、なかなか複雑な時間割作成作業。
一人で行っている学校は、数少ないのだろうが、この学校ができてから、私がずっと一人で時間割を作っている。

「そろそろ、誰かに振りたいんですけどね…。」
この仕事のために、春休みは毎日が仕事になる。

もちろん自分のペースでできるのではあるが、大きな仕事なので、結構プレッシャーがかかる。

新年度最初の出勤日に、毎年、教頭から、
「丹澤先生、時間割できましたか?」
と聞かれるのが、恒例になっているが、その時に、
「もう少しです。」
と、答えるのも、私の恒例行事。

そんなこと考えているより、学年末考査の問題を完成させなきゃ。
明後日のテストの完成率が、まだ8割だ。
まだまだ事務作業が続く

昨日は、2回目の入学説明会だったが、だからといって先生方に代休が与えあられるわけではない。お休みは授業等に差し障りのない範囲で、各自調整しなさい、というのが学校の方針だ。
だが、明日から学年末考査。

私は考査の監督を割り当ててるが、先生方から、「試験中お休みをいただきます」という連絡は来ていないので、ほとんどの先生方は、そのまま突っ走ろう、ということだろう。
考査中の午後は、比較的時間があるのだが、今年は違う。
すでに来年度の配置が発表されており、その全体方針説明が、執行部からなされたり、新年度に向けて、各教科ごとに集められ、新管理職からの指示がある、というものだ。
となると、なかなかお休みは取れまい…。

試験が終われば、答案の採点もあるから、お休みどころではないのだ。
私の学校にも採点日なるものはあり、生徒は別の行事をしているが、それは翌日すべての答案を返却するための苦肉の策でもある。

答案を返却後は、中一日で総合成績を作り報告。すぐに成績会議となる。そして、通知表だの要録だの書類作りが佳境に入り、あれよあれよと終業式を迎える。
その間に、配置転換の引き継ぎだの、新年度の準備だの、まさに三月は、教員の師走のようなものだ。

近隣の同僚によると、通知表の所見は教務、教頭、校長がチェックするとのことだが、私の学校ではそうしたシステムはなく、各自、間に合うように作ればいい。

「もう、20年もやっていると、例文ができているので、うまく作文しています。」
とも言っていたが、文章を作るのに、一時間で数人がやっと、という人もいるわけで、それはそれで大変な仕事だ。もっとも、近隣の中学校は、二期制だから、これが年に二回で済むわけで、三学期制よりもやや仕事は低減されているのかも知れない。

終業式が終われば、教務の私は新年度に向けての校務ソフトのシステム設定。そして時間割作成となる。

「丹澤先生が、一人で時間割を作っているのですか?」
二年前に赴任した隣の副担が叫ぶ。

中高ある学校なので、なかなか複雑な時間割作成作業。
一人で行っている学校は、数少ないのだろうが、この学校ができてから、私がずっと一人で時間割を作っている。

「そろそろ、誰かに振りたいんですけどね…。」
この仕事のために、春休みは毎日が仕事になる。

もちろん自分のペースでできるのではあるが、大きな仕事なので、結構プレッシャーがかかる。

新年度最初の出勤日に、毎年、教頭から、
「丹澤先生、時間割できましたか?」
と聞かれるのが、恒例になっているが、その時に、
「もう少しです。」
と、答えるのも、私の恒例行事。

そんなこと考えているより、学年末考査の問題を完成させなきゃ。
明後日のテストの完成率が、まだ8割だ。







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2019年03月03日

さよなら若人たちよ

久しぶりに休みをとった。
今日は入学説明会だったので、本来全職員体制なのだが、仕事を外してもらった。

もっとも、朝早く出勤して、緊急の仕事を確認してのことだが、こうして一日のんびり過ごすのは、正月休み以来だ。

そんな折、何人もの卒業生が訪ねて来た。
これから出発するという。

また、職員室の机の上には、何人かの卒業生のメッセージカードも置かれていた。

一昨日の卒業式では、ほとんど表舞台に出なかったが、彼らは私がそうすることを知っている。
だから、わざわざメッセージを置いてくれたのだ。

「先生のおかげで数学の面白さに目覚めることができました。算数チャチャチャのメロディが、今でも耳に鳴り響いています。また、先生の目は、いつも心を見透かされているような気がして、心のコントロールができました。お元気でいて下さい。」
卒業式で答辞を務めた生徒からのメッセージだ。センター試験もほとんど満点。東大にも合格しているだろう。

「とうとう卒業の時が来てしまいました。丹澤先生には、自分がキツい時に話しかけてくれて、愛そのものだと思います。丹澤先生の数学の授業は、楽しかったな…また受けないな…。歌を作ってもらえた時は、嬉しかったなぁ…。野球部の助っ人もたのしかったなぁ…。丹澤先生は、家族のような存在でした。また、会いたいです。ありがとうございました。」
私は、何か問題を起こしてしまった生徒には、学年に関わりなく、さりげなく声を掛けるようにしてきた。そんなことが、彼らの記憶に残っているのだろう。

「僕の人生の原点は、間違いなく中学野球に集約されると思います。野球部に入っていなければ、根性論を理解できる人になっていなかっただろうし、部活の大切さも分からなかっただろうし、組織とは何か、礼儀とは何かも、よく分かっていなかったと思います。毎日夜食を作ってくれたり、福島や宮城、静岡に連れて行ってもらえたのも、すべてが僕の血肉になっています。あの時のことは、一生忘れません。」
そう言えば、夜食を作っていたときもあったし、年に何度もリフレッシュで旅行にも行ったし、全国大会見学にも出掛けた。

これが、教員としての醍醐味なのかも知れないな。

「よく生徒と一緒にいられるね。俺には無理だ。」
最近、そんなことを同僚から言われた。

どうやら、私は、子供たちと過ごすことが、生活の一部であり、何も気負うことなく自然に振る舞えるらしい。最近、誰にでも真似できることではないことに気がついた。

人生の宝物が、また一つ増えた…。








2019年03月02日

交流大会

合同チームで交流大会に出掛けた。
私の学校は土曜日も授業なのだが、こういうときは公欠を頂いて試合に臨む。

いつもの季節ならば、まだまだ雪が残っているのだが、今年はどこにも雪はない。
それでも、冷たい風が吹く中、野球場の芝生も茶色いまま。
まだまだ野球をするシーズンではないのだが、今日も比較的暖かく、午後には厚着の私にも、燦々と春の日差しが照りつけ、暖かさすら感じた。

合同チームのおかげで、今年初めてこの交流大会に参加できたが、シーズン始めの試合としては、とても有意義なものだと思う。

このために、先週練習試合も行ったわけだが、今日の試合はよかった。

「今シーズン初勝利です。」
一試合後に監督を務めてもらっている若い先生がそう叫ぶ。

正直、負けが多くなると、生徒たちは、「勝っても負けても関係なく、ただただ試合ができればいい。野球ができればいい…」、というような、およそ勝負の世界とはほど遠い考えに染まってしまいがちだ。

「あぁ、今日も惜しかったね。」
が連発しても、技術も精神力もほとんど向上することなく、時間だけが過ぎていくのだ。

よく、
「勝負だけがすべてではない。」
などと言う人がいるが、ひとたび勝負の世界に身を投じるのであれば、それが野球のゲームであれ、その試合中は、勝負にこだわらなければ、彼らの成長は得られない。

「遠足に来ているんじゃないんだ。」
同僚の先生が、そうぼやく。
だが、昨今は、親子共々そういう意識になってしまっている野球部員が増えてきた。

熾烈な戦いをするが、選挙が終われば、戦いの相手とは仲良くするように、スポーツの世界において、こうした面があると思う。

負ける悔しさがが、練習のモチベーションを高め、自分を追い込む精神力を培う。

競った試合で、成功体験を得させてこそ、そうしたプレッシャーを乗り越える力をつけることができるし、次につながる。そして、チームもどんどん強くなっていく。

このチームで活動するのも、来週の試合を残すだけになった。

「ずっとこのチームで戦いたい…。」
各校の保護者たちも口をそろえてそんなことを言う。

確かに、このチームは、私にとっても大いに学びになった。








2019年03月01日

七回目の卒業式

中2にとっての高3は、少し遠い存在なのかも知れないが、答辞でY先輩が話をし出すと、皆が彼の話に注目した。モニター会場で、それまでうとうとしていた生徒も、彼の話が始まると、ピリッとした。

淡々と話をする中に、人を引きつけるものがある。
「私たちは、これまであまりに多くの『愛』を与えられてきました。」
この言葉に誰もが「はっ」とする。

「だけど、私たちは、時々調子に乗って。その『愛』が当然のことのように、好き勝手に過ごしてきましたが、今、受けてきたすべての『愛』に重い責任を感じます。」

「そしてこの責任を、世界の未来のために発揮していきたいという思いが、心の底から湧いてきます。」

「新しい時代のロマンと夢を作るのが僕の夢です。」

「どうかもっと強くなれますように。どうかもっと優しくなれますように。どうか世界の希望となって、願いを叶えていけますように。」

我々中1と中2は、会場前に移動。一年に一度だけ開けられる青銅の扉が開けられ、そこから敷かれた赤絨毯を卒業生が退場してくる。その両脇に立ち、卒業生を祝福するのだ。

彼らの姿を見ると、これまでの思い出が走馬灯のように思い出される。

私は、カメラを構え、彼らと目を合わせないようにした。
見たら泣いてしまいそうだからだ。

夕方、最後のHRを終えた卒業生が訪ねて来た。
中学野球部でかかわった生徒だ。

「中学野球をやり切ったから、今の僕があります。」
と、涙を浮かべながら語ってくれたI君の活躍を祈りたい。

「君たちの活躍が、風の便りに聞こえてきたならば、俺はそれだけで幸せなんだ。」
そう言って送り出す。

私の学校の場合、中学の卒業式よりも高校の卒業式の方が華やかだ。
親たちはこれが学校に来る最後になるのだろう。
保護者会長の、「お疲れ様でした」、という親たちへのねぎらいの言葉が、すべてを語っている。

とにかくおめでとう。
来年は、中学時代に私が担当した学年の卒業式だ。












2019年02月28日

張り詰めすぎた気持ちから解放

明日から3月ではあるが、2月だというのに、雨が降った。

この地に移り住んで10年になるが、2月に雨が降ったのは初めてである。
先月も、少しだが一度雨が降っており、この異常気象ぶりは半端ない。

最近、自分の学年の授業が楽しい。
授業中、何とも言えない和気藹々さがある。
お互いのキャッチボールができていて、試験直前だと言うのに、いいムードの授業になっている。

別れるとなったら、急に愛おしくなってきたようで、掃除が始まる前などにも、一緒にふざけて遊ぶことすらある。

どうやら、気を張りすぎていたようだ。
「自分の学年が、いろいろなところで迷惑をかけないように…。」
と、考え過ぎていた。

もう何年もこの役割をしているのに、どうした今回に限って、こんなにブルーになってしまったのかは分からないが、「少し休め」、という天の声なのだろう。

学年主任やら担任から解放されると思うと、「ほっ」とした気持ちになる。

以前の自分ならば、「外されることは、自分が不適格としてレッテルを貼られたのだ」、と悩んだのだろうが、今はとにかく、「体調を戻し、再び元気を取り戻す時期なのだから」、と、外れる寂しさは全く感じない。それどころか、彼ら彼女らが、可愛く見えてきたのだ。

今日の学活では、二回目の『いいところ見つけカード』を配った。
立志式を終えたところで、書いてもらったものを、少し遅くなったが、彼らにフィードバックしたのだ。

生徒たちはもらったカードを、あらかじめ用意した台紙に貼り付ける。
それを見ながら、しばし幸福感に浸る…。

自分の気づかなかった良い部分を、互いに指摘し合い、人間関係をより深く、そして円滑にしていく仕組みである。

班ごとに発表し合う姿を見て、「ずいぶんクラスが丸くなったなぁ…」、と感じた。
男女が本当に楽しそうに話している。

本当はクラスが丸くなったのではなく、私自身が丸くなっただろうが、まぁ、このまま進級して、立派に中学三年生を過ごしてくれたらそれでよい。

もはや、
「誰だ、こんな風に育てたのは…。」
と、非難されても、私は動じないだろう。

隣の担任には、負荷をかけるが、それも若いときの苦労ということで、勘弁してもらおう。

しばらくは、脇に控えて、若手を支えたいと思う。








posted by 丹澤三郎 at 17:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類

2019年02月27日

間もなく高3生とお別れ

高校3年生を送る会としての『昇龍祭』が行われた。
全校生徒で、卒業式を二日後に控えたこのときに、「高校三年生への感謝を伝える」行事である。

お楽しみ的な要素もあるが、高校一年生が中心となって、生徒が作り上げる。
このために、委員会が作られているくらいなので、大きな学校行事でもある。

毎年卒業式が近づくと、校内に寂しさが漂う。
卒業式が嫌いな私にとっても、何とも言えないこの雰囲気は、なかなか辛い。

「F君さようなら…。」
掃除の時間の始まる前に、外を歩いていた高3のF君に声を掛けた。
F君は、元気な笑顔をで返してくれた。

私は卒業式の式場内には入れない。
会場の関係で、中1、中2はモニターで卒業式を見る。
私は中2の担当なので、式場内には入らないのだ。
それでは、あまりに淋しかろうということで、高校3年井蛙会場から出たところに、赤絨毯を引き、その両サイドで中1と中2が見送るというイベントがある。

「今年も高3を、涙をこらえながら、一生懸命笑顔を作って、拍手で見送るのか…」、と思うと、辛くなる。

そんなことを思いながら、『昇龍祭』を見ていたら、何度も涙が出てきた。

学年や有志の出し物や思いでビデオや、退職された方のメッセージビデオ、最後には高3が後輩たちに人生を語る。

中1のときは泣き虫だったY君も卒業していく。
野球部の黄金期を作ってくれた世代だ。

保護者からは、散々クレームを受けたが、私も若かった…。

イベントの最後は、高1の合唱。
ものすごく心に響いた。
そして、最後のワンコーラスになると、高3以外の全校生徒がスッと立ち上がり、全員で歌う。

泣ける…。

「あぁ、彼らともお別れなんだな…。」
としみじみ思う。

最近は、高3と会うたびに、
「さよなら。」
と、声を掛けている。

それだけで、彼らは私との学園生活を思い出す。
だから、その一言だけでいい。

将来どこかで出会うことになるのだろうけれど、この中高という青春期に、彼らに関われたことは、至上の幸福だ。

「一番感謝しているのは、私なのだよ…。」
と、彼らの今後の成功を、密かに祈る。











2019年02月26日

大切な教育

3月1日の高校卒業式前の登校日のため、高3生が登校している。

入試のため、しばらくは実質のお休み状態だったが、久しぶりに彼らの顔を見ると、以前よりさらに大人びて見える。

こんな風に若者として成長していくのだろう。
18歳から成人になるならば、誕生日を迎えた彼らは大人。
これほどまで長く庇護され続けているのだから、その分学びも大きいのだが、いずれは自分の価値観を作らなくてはいけない。

その中でも一番大切なのが、宗教的素養だろう。
宗教学校以外では、学校現場で教えられることはないので、もっぱら家庭に任せられるのだが、私は、人間にとって最も大切な素養が、この宗教性であると思う。

ある調査によると、日本人が神仏を信じる割合は、隣の唯物論社会主義国家である中国と同じなのだそうだ。これは、教育による影響であると思われる。
子供たちが多くの時間を過ごす学校現場で、宗教的素養を教えないという文科省を中心とする国としての態度が、こうした現状を生んでいる。

ところが、日本人は初詣にも出掛けるし、墓参りにも行く。年に何度もある宗教的行事には、何の違和感なく参加している。

これは、単に風習として見ている以上の、日本人が本来持っている宗教観に根ざすものであろう。

宗教は善悪を決める。
だから、善悪を判断することを拒否している道徳以上に、一人ひとりの価値観を左右する。

政教分離は、「保護する宗教を持つ国が、他の宗教を信じている者を迫害してしてはいけない」、という思想の下につくられたものだ。政治や教育から宗教性をすべて排除しようというものではない。

人間が最も美しいのは、『祈りの姿』であるという。
人間の力を越えた、超越的な存在を神と呼ぶならば、自らの非力をしり、傲慢さを顧み、さらには、自己もしくは他の人の幸福のために祈る、というその姿こそ、人間が地球上で万物の霊長であることを許される唯一の条件なのかも知れない。

「この世だけがすべてではない。」
という思想も、刹那的な快楽を求めるだけの人生を抑止する。

社会生活をする上で、「他の人を信じられない人間」と考えるよりも、「他の人を信じられる人間」と思えた方がいい。

そうした考えが、互いに助け合って生きるもとになるだろう。

子どもの頃から、宗教的な生き方を続け、退転しなければ、かなりの確率で、社会に貢献できる大人になるのではないだろうか。

卒業していく高3たちが、そうした素養を身につけて、旅立ってくれることを祈りたい。








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