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2019年03月11日

答案返却模様

今日は答案返却日。
特別時間割を組んで、一日で一気に学年末考査の答案を生徒に返却してしまおう、という日である。
今夜中に成績を集計して、明日成績個人票を配り、間違いがないかどうかを確認。
その後、三学期および学年総合成績の算出に入る。14日には、すべての成績が出そろっていなくてはいけないわけで、なかなか大急ぎなのである。

私はいつものように担当のクラスに行き、答案を返す。
採点ミス等を確認しつつ、多少は問題についての説明もするが、たいていは解き直しの時間になる。

「答案は、君たちの作品です。」
私はそう言って彼らに答案を返す。
作品の出来不出来の理由は、本人が一番良く知っている。
勉強すれば、点が上がり、やらなければ下がる。
簡単な仕組みである。学校現場においては、この『原因結果の法則』がきちんと当てはまる。

社会に出れば、努力しても努力しても上手くいかないことは山のようにあるが、こと勉強の世界においては、この仕組みはぴったり当てはまるのだ。

だから、勉強ができないのではなく、勉強をしなかったのである。

中には、大して勉強もしていないのに、点が取れてしまう人もいるが、そうした恵まれた人は、もっと上を目指せばいい。

こつこつやっても、なかなか点に結びつかない人は、あきらめず努力し続ければいい。

返却時には、点の取れなかったことを、防衛本能がゆえにアピールしたり、笑って誤魔化したり、落ち込んで見せたり、と、人間模様は様々ではあるが、その中で一握りの人は、必死さがにじみ出ている。そうした生徒は、この先、成績が伸びる。

「本当はこのクラスでは、毎日の宿題を出さなくてもいいんだけどね…。」
と言うと、嬉しそうな人と、不安でいっぱいの人に分かれる。

「宿題出さない分、自分で勉強する人ばかりだったら、あるいはそういうクラスになったら、宿題は出さなくてもいいんだ。」

「自分には自信がないな」、という生徒が大半だ。

「座席だって、好きなところに座ってもらってもいいんだけどね。」
と、言った後、点数が低くて落ち込み気味の中1に、「君ならどこに座る?」、と尋ねてみた。

「一番前に座ります。」
あらあら、引っかからなかった。模範解答になってしまった。

「まぁ、座席でやる気と意気込みが分かるよね。」
と、ジャブをかます。

中2のある生徒が、
「成績順に座席を選ぶのはどうですか?」
と、提案してきた。

それも面白い。

昨今は、プライバシーだの、個人情報だのがやかましくなって、やりにくい世の中になったが、要は、クラス全体として、『学ぶ集団』になっていれば、お互いの成績など、気にすることもなく、どうでもいい状態になるのだ。

それができないから、隠し事が多くなるのだろう。

面白い、答案返却模様の授業になった。








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2019年03月10日

合同チーム最後の試合

今日は3校合同チーム最後の試合。
新人戦から組んでいた合同チームも、新年度はそれぞれの学校で新入生の入部が見込まれるため、これで解散。もっとも私の学校だけは、新年度もメンバー不足のため、どこかに「おまけ」としてくっつかないと大会には出られなくなってしまうのだが、それはのちのち考えることにして、とにかく、今日で合同チームは解散であった。

4月に招待試合を行うための、その対戦相手を決める大会。
本来ならばまだまだ雪が降ってもおかしくない季節なのだが、気候的にはすっかり野球シーズン到来だ。

こうして大会になると、近隣の学校の先生といろいろな話ができるので面白い。

話題は、昨日行われた卒業式。
「どうですか? ○○中の卒業式は?」
つまり、お互いの学校同士、何かトラブルがあったかどうかを尋ねているのだ。

卒業式が公立校の合格発表前に行っている習慣も、いわゆるお礼参り的な器物破損、暴力事件が頻発した時代の名残りである。今は、かなり平和になっている。それでも、卒業式には、奇抜なスタイルで参列しようとしたり、在校生が卒業生をわざと挑発するような髪型で参加しようとする、といったカワイイ抵抗はあるようだ。

「今年はわざと刈り上げて、カッパみたいな頭髪の生徒がいたんですよ。金髪だったら、黒く染めれば済む話ですけど、刈り上げられちゃうとどうしようもないですね…。」
「それで、どうしたんですか?」
「今の時代、式に出さないわけいかないじゃないですか。生活指導、学年主任、担任が厳重に注意して、出させましたよ…。」

そんな先生方の会話が聞こえてくる。
「明らかに格好悪いんですけどね、前日に、変な頭髪にするな、って注意しなかった担任も手落ちなんですけど…。」
「いやいや、その注意で、わざと頭髪を変えてしまう生徒がでませんか…。」
「あり得ますね…。」

頭髪など大したことではないことなのだろうが、校則で決められていたり、これまでの指導があっての学校生活なので、何も注意することなく、「そのまま」という訳にはいかない。

こんなやりとりが、評論家気取りの学校批判につながっていく。
彼らは、学校の一側面だけを見て、それを自分の意見に当てはめて、あれこれ批評する。
だから、現場で生徒たちと一緒に生活している、教員たちを無視しての発言になる。
それを、面白おかしくマスコミが取り上げようものなら、ほら管理社会だの、高圧的指導だのと、結局、毎日頑張っている先生方が非難される。

社会に知られるところとなれば、教育委員会も黙っているわけにもいかず、結局、誰かにけじめをつけさせることで、ことを収めようとする訳だ。

「まぁ、卒業式だから仕方ないですけど、これが離任式だったら、式には出しませんよ…。」
その先生のささやかな抵抗。

思春期の難しい時期の教育を行いつつ、理想にはほど遠いと感じながらも、自分自身を納得させる。
毎日が、こうした妥協の連続なのかも知れない。

試合の方だが、これまた今まで最高の試合ができた。
ここまでよく成長したと思う。

当然、野球部も皆々が、指導にからむことは極めて少ない。

「髪の毛にこだわるのだったら、もっと違う部分でこだわれ。」

奇しくも私の学校の生徒に指導した言葉が、何となくすべてを象徴しているようにも思えてきた。








2019年03月09日

自己犠牲の精神

世の中、義務よりも権利ばかりを主張する時代になったという。
そういう意味でも、前述のノーブレス・オブリージュを学校教育で教え諭すのは、大変意義があることだと思う。

いろいろな世界で、勝ったり、成功したりして名声を上げたならば、「それは自分の努力の成果なのであって、当然のことだ」、とあからさまに主張する人とは、あまり深く関わりたくはない。彼らは、それなりに「幸福」なのだろうが、名声が去れば、激しく人が離れていくことが予想され、いわゆる「不幸」へと転落しがちだ。

だが、常に謙虚で、他を思いやり、「成功は人様のおかげ」と心の底から考えられる人は、名声のありなしにかかわらず、多くの人望を得る。

そうした人が、国や世界のリーダーとして世の中を変えてゆけるのであれば、より多くの人の幸福をもたらすに違いない。

日本武尊が全国平定のとき、海上で嵐に巻き込まれる。
当時は、海で嵐に遭うのは、「海神が祟っている」と信じられ、何とかこれを鎮めなければならないとされた。

そこで、同行していた妻の弟橘媛は、海神の祟りを鎮めるため、祈りを捧げたのち、自ら人柱となって、海に身を投げた。夫である日本武尊の全国平定は、この時代、何としても成し遂げなければならないことと考えたのである。「そのための一助となるのであれば、この身は惜しくない。いや、この身の入り夫の志が成就するのであれば、それが私の務め」、そう考えたのであろう。自己犠牲という『崇高な精神』の持ち主であった

現代は、この『自己犠牲』の精神も忘れられている。
今の時代、さすがに自らの命を投げ出すことは、ほとんどないだろうが、「大義のために自らの利益を度外視して事にあたる」、という考えは、大切な徳目であると思う。

かの数学者、岡潔先生も、「弟橘媛の行為の意味の分からない人は、ずっと後れた人間であり、猿に近い」というように考えていたようだから、かつての日本人には、こうした精神は、当たり前のように備わっていたと思われる。

それが、今は失われつつあるようだ。

結局、自分の事しか考えられない人には、こうした『崇高な精神』は、持ち得ない。
視点が自分だけにしか向かないから、大局的にものごとを判断することができないからだ。

自己中人間を大量に生産してしまう学校教育であってよいわけはない。

世の中に役立つ人材を供給し続けることができてこそ、その国の発展が得られるのだろう。

過日、ノイローゼで家を飛び出したある生徒の母親から学校に電話がかかってきた。
夫婦のトラブルもあり、家にも帰れない。だから息子に迎えに来て欲しいというのだ。
息子は中学生。授業中であった。

この件は、ご丁寧にお断りし、父親に連絡。結局、父親である夫が迎えにいくことになる。

まさに弟橘媛と真逆ではないか。

息子である中学生も、この話を聞きつけ、さすがに動揺を隠せなかった。

「私はこんなに苦しんでいるのに、どうして誰も助けてくれないの?」
という言葉の裏には、「他の人はどうでもいいから、私だけを幸福にして!」、という思いが隠れている。

人は体調や心境で心が変化するが、何があっても、あまり大きくぶれないようにしたいものだ。
そのためにも、ノーブレス・オブリージュというような、精神は必要不可欠だろう。

親子ともに傷が癒え、立ち直ることを祈りたい。







2019年03月08日

学年末考査が終わって

学年末考査が終わった。
私の学校は、中高で試験の日程を同じにしているので、学年末考査の期間は4日間。中学生にとって4日間は長いだろう。考査一週間前から部活動が停止になるので、10日ほどは原則として活動ができない。
こうなると、試験明けの身体がなまりすぎてしまい、元に戻すのにまた一週間くらいかかってしまうのだ。幸い野球はオフシーズン中でもあり、試験期間中に身体を動かすことに関しては、私は好き勝手にやらせている。

意識が高い生徒はこつこつと走ったりするが、普通の生徒および怠け者は、何もしない。
そして、考査の練習で苦しむ…。

勉強も同じだろう。
試験前にこつこつと勉強できる人は、上手に時間を使っている。

一方で、怠け者は、考査中の午後は昼寝をしている。
これでは何のために試験が午前中で終わるのかが分からない。

だったら、もっと日程を短縮した方がいい。

ところが、試験が終わると昼寝はしない。彼らは、部活をサボってでも遊びに行くのである。

最近はこういう刹那的な生徒が増えてきた。
彼らの親の世代も、これに近いのかも知れないが、どちらかというと、何もかもが無気力になった世代だ。

校内暴力が一段落つき、学校では教師の監視がさらに強化され、「静かに何ごともなく過ごそう」、と思う生徒が増えてしまった世代なのだろう。

時代の流れまでをも影響を与える教育は、本当に難しい。

こうして振り子のように揺れながら、何とか教育活動を行っていくが、そのツケは、20年から30年経ってから現象化する。

我々教師の務めは、『勉強の好きな生徒を作る』ことだ。
新しい知識を得る喜びを知り、分かる幸福をかみしめ、解けた感動を味合う。
これが、将来どこで効いてくるかは分からないが、一生学び続ける中に、人徳が生まれ、文明や文化を創り出していく基礎となるのだ。

怠け者ばかりの国は滅びの坂道を転げ落ちるのみである。
勤勉でこつこつ型の国民性のある国は発展していく。

刹那的ではなく、長いスパンでものごとを考えることができる、正義の判断のできる人を増やしていかなくてはいけない。

「先生、試験、上手くいきませんでした…。」
時期生徒会副会長が、ぼそっとささやいた。

「詰めが甘かったのかもね。そのままにしておいてはだめだよ。やり方からスケジュール、時間配分に、答案の間違えた箇所をよくよく分析して、次に活かさないといけないよ。やりっぱなしはだめだ。」

そう、アドバイスしてみた。
彼なら、きっと失敗を教訓として、次年度の新学年で、成果に結びつけることができるだろう。

試験はできれば嬉しいが、できなくても学びはたくさんある。もしかしたら、できなかったときの学びの方が多いかも知れない。

そのためには、時間的に試験が終わってはいけないのであって、終わっても終わらない試験勉強が必要だろう。

結果に一喜一憂するだけでは、実力はつかないのだから…。









2019年03月07日

業者の模試分析会

大手塾の模試分析があり、放課後担当者が来校、教科毎に分析報告を受けた。
今回は、中学生の成績。しかも成績上位者に対する分析。

「このA問題がもっと解けると、いいんですけどね…。」
「解けるべき問題がとけていませんね。」
「もうちょっと、解けるようにしたいですね。」
「こっちの問題は解けているのですから、解けないのはおかしいですね。できない人が多すぎますね…。」

中学生の上位クラスを担当している私にとっては、耳の痛い話ばかり。
最初は、「私が責められ続けているのではないか」、と錯覚するほどのコメントだった。

だが、話を聞いているうちに、「ここは、素直に受け止めて、来年度以降の参考にすべきではないか」、と思い直した。

そうなると、次から次へとアイデアが浮かんでくる。
「試行錯誤を訓練するなら、中1に『計算パズル』は適切だなぁ。」
「補講の添削コースも面白いかな。」
「字が雑でも、何をどう考えたかを書かせるのも面白いな。」
「数学好きにする施策を次から次へと打っていこう。」
などなど…。

人は思い一つで、プラスにもマイナスにもなる。
午前は体調が悪く、この企画をコーディネートした進路主任に、欠席をほのめかしたが、少し頑張って参加してよかった。

商売とは言え、業者がわざわざ田舎の学校まで来てくれる機会はあまりない。

中学三年間だけではなく、その後の三年間をも視野に入れた、東大を目指せる生徒を育てるためのヒントをたくさんもらったように思う。

「生徒の力を伸ばそうと、その手助けになるのなら、弊社の教材だって、どんどんコピーして、切り貼りして使ってくださっていいんです。法的にはだめですけど…。」

と、何度も笑いながら話す姿が新鮮だった。

もとは学習塾を開いていた方で、教育に対する思いは、立場の違いこそあれ、我々とは変わらない
教育活動は、さまざまな方々の、目に見えないネットワークと、協力のもとで行われている、ということがよく分かった。

新しく変わっていく大学入試に関する情報も聞けて良かった。

50%以上いると言われる数学嫌いを少しでも少なくするために、もう少し頑張ってみようと思った。

数学嫌いを作っているのは、他ならぬ数学教師自身なのだから…。

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2019年03月06日

ノーブレス・オブリージュ

どこの学校でも成績優秀者の表彰が行われているだろうが、私の学校でもそうした学期毎の成績優秀者を表彰するシステムがある。『優等賞』という。

この『優等賞』となると、奨学金が与えられ、学期の学費相当額が免除になるというシステムだ。私立学校ならではことだろうが、もちろん奨学金のもとになる原資あってのことだ。

保護者にとってもありがたいシステムであろうが、生徒もトップを狙うべく、日頃の精進に励むわけだ。

それはそれで、大変素晴らしい。人並み以上の努力が必要だろうし、好きなことを抑えたりするなど、多くの代償もあるだろう。その中で精進したという名誉としてのこの『優等賞』という意味もある。

ただ、この賞にはもう一つの意味がある。
それが、『ノーブレス・オブリージュ(高貴なる義務を果たす)』ということである。

成績優秀者は、当然、相応の努力をしているが、実は自分一人の力によって成し遂げられたものではないのだ。

直接間接にかかわらず、多くの人の支えによって、「今」がある。
そうした、支えによって、『優等賞』を取ることができたのだ。
だから、「これを境に、今度は人のために動ける人間にならなくてはいけない」、という訳だ。

「ある意味、自己実現はできた。今度は、その経験を使って、次は他の人のためになる行動をせよ。そうした思いで、この先を学校生活をせよ。」
という思想である。

「自分が成績優秀だったのだ。自分の力で『優等賞』を取ったのだ。」
という考えを捨て、
「多くの人のおかげで賞をいただき、この先はその恩返しをしなくてはいけないのだ。」
と、マインドを変えさせるのである。

自己中の人は嫌われる。
他の人の感謝の心が薄い人は嫉妬される。

そうではなく、「奉仕の精神、騎士道精神で高貴なる義務果たせ」、と教え諭し、実践を促すのである。

「さぁ、これで与える側の立場のスタート地点に立ったね。」
そう、生徒を励ます。

こうした視点を忘れてしまうと、「自分が、自分が…」、という思いが天狗の心を作る。
はたまた、成績優秀であるが故に、他の人を見下すゆがんだ性格を作る。

「今度は、あなたの知識や経験、勉強のコツやノウハウを惜しみなく、他の人に教えてあげよう。」
「困っている人がいたら、助けてあげよう。」
「努力する姿勢を、背中で語ろう。」
「今の立場は、たくさんの人のおかげであることを自覚して、謙虚になろう。そして、さらに努力しよう。」

そう、生徒に伝えるのである。

私は、こうした視点がなければ、成績優秀者を表彰する意味はないのではないか、とすら思う。



ゲオマートの宅配買取

2019年03月05日

教師としての原点

人は嫌われてると感じると、どんどんエネルギーを消費する。
私が担任しているある保護者も、私を嫌っている人の一人らしい。

先日の卒業式で、高3の兄が卒業するに際し、両親とも来校していたのだが、私の挨拶には一瞥するだけで、笑顔すら見せなかった。

この二年間、私の不徳により、こうした保護者が何人かいる。

昨年の3月にも、
「丹澤先生だけは、担任につけないでください。」
と、当時の学年主任に直訴していたようだが、彼はそれを突っぱね、さらに私を担任につけた。
その生徒をもう一人の若手担任に任せることができない、と判断したからである。

こうした保護者の態度は、自然に子どもである生徒にも影響を与え、いわゆる利かん坊の性格を作りやすい。
叱られてもへっちゃらで、説教が通じない。
「そうですか。」
の一言で片付けてしまうこともあった。

だが、その生徒を育ていているのは担任であり、学年主任である私自身だ。
彼が、まっすぐ育たなかったのは、私の責任。
私のマイナス面の心の思いが、クラスや学年に影響を与え、そうした生徒を生む。

だが最近、その利かん坊の彼が、少し素直になった。
始めは、「もうすぐ中3だから、少しは精神的に成長したのかな」、とも思ったが、それだけではなかった。

変わったのは私自身の心だった。
相手の良くないところばかりを見てしまうと、生徒が可愛くなくなる。欠点ばかりが目につき、本来の姿が見られなくなる。

だが、良い部分を強調して見ていると、欠点は目につかない。逆に個性としてみて、それでも注意しなければならないときでも、冷静に、彼の将来のための話ができるものだ。

私は少し慢心していたのかも知れない。
事実、私の前で言うことを聞かない生徒はいない。
だが、真に心の絆でつながっていなければ、結局は私の目の届かない所では、反発するし、悪さを繰り返す。

教育は、見てくれだけを整えればいいわけではない。
生徒たちの一人ひとりの、その後の人生がかかっているのだ。

「いつもギリギリの生活しているとね。社会に出るととても困ることになるんだよ。ちょっと甘えすぎじゃないか?」

以前ならば、「ふざけるな。遅れてくるんじゃない!」と、一喝していただけだったかも知れない。

もう一度、教師に成り立ての頃の原点を思い起こし、「すべては生徒の成長のため」、とマインドを切り替えてみようと思う。








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