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2017年02月28日

ポトカルパツカー・ルス(二月廿五日)



 以前、軽井沢かどこかにある木造の教会建築について、日本の建築探偵藤森照信氏が、チェコ人建築家の作品だが、チェコには木造の教会はなく、スロバキアの山岳地帯にあった教会をモデルにして日本での設計に生かしたのではないかという文章を書いていた。その木造の教会がたくさんあるのは、スロバキアよりも、現在ではウクライナ領となっているかつてのチェコスロバキア第一共和国の一番東部に当たる地域だという。
 九月にも夕食をご一緒する機会のあったチェコのコメンスキーの専門家H先生が、そんなことを言っていた。第一共和国の時代の1920年代にプシェロフ出身の写真家が、その地域、チェコ語でポトカルパツカー・ルスの各地に残されていた木造の教会の写真を撮ってまわっていたらしい。その後を追って、H先生は、ウクライナ最西部の元チェコスロバキア地域を訪れるたびに、時間を見つけては木造の教会めぐりをしているのだという。
 しかし、悲しいことに近年各地で、木造の教会を破壊してレンガ造りのものへの建て替えが進んでいるのだそうだ。この地域に独特のさまざまな様式で建てられた木造の教会が、ヨーロッパ中どこでも見られるような教会にとって変わられているというのは、残念な話である。ただ、現地の人々にとっては、木造の教会というのは貧困の象徴だったのかもしれない。そうするとあながち責めることもできないのか。新出来の石造りの教会より、歴史のある木造の教会の方が、観光資源になるとは思うけれども、最西部とはいえ今のウクライナに出かけようという外国人はそれほど多くないだろう。
 H先生は、近々この地方の中心都市のひとつウジュホロトに出かけるそうだが、観光ではなくて、当地の博物館に頼まれて講演をするためだという。コメンスキーの専門家で、特にコメンスキーの使った教室の再現をヨーロッパ各地でされてきたH先生のこと、ウジュホロトにも先生の手がけたコメンスキーの教室があるのかもしれない。

 さて、このスロバキア最東部から東に延びる地域を日本語でなんと呼ぶのかが、なかなか微妙な問題である。ルテニアといい、カルパト・ウクライナといい、いまいちピンと来ないし、完全に同一の物を指しているのか確証が持てない。それで、かつてのチェコスロバキア領を指すということで、チェコ語のポトカルパツカー・ルスを使うことにさせてもらった。
 この地域は、第一次世界大戦後の和平条約で、なぜか独立するチェコスロバキアの一部となったのだが、ハンガリー領のスラブ人地域ということでスロバキアと一緒にされたのだろうか。この当たり、第一次世界大戦後の民族自決という美しい考え方が、厳しい言い方をすれば机上の空論だった証拠だと言ってもいいかも知れない。少なくとも当地のルシン人、もしくはウクライナ人は、チェコスロバキア人には含まれていなかったのだから。
 その後、ミュンヘン協定後に、ハンガリーが南スロバキアとともに自国に編入すべく軍事的に占領したのではなかったか。このときは一部の占領で、第二次世界大戦が後日完全占領だったか。第二次世界大戦後、チェコスロバキアに戻ってくることなくソ連領となったのは、当地の住民ルシン人がウクライナ人の一派だとみなされたからだろうか。

 チェコにルムツァイスがおり、スロバキアにヤーノシークがいるとすれば、この地域にはニコラ・シュハイがいる。何の話かというと、盗賊、それも官憲には憎まれ、民衆には愛される義賊の話である。ルムツァイスは絵本の登場人物だが、あとの二人は実在の人物らしい。ニコラ・シュハイは、第一次世界大戦前にはハンガリーの官憲に、チェコスロバキア独立後は、チェコスロバキアの憲兵隊に追い回されたらしい。
 その生涯を描いたイバン・オルブラフトの小説で、チェコスロバキア全体に存在を知られるようになったらしいが、現在ではブルノの劇場の演目の一つで、シュハイの出身の村の名前を題名とした「コルチャバ」というミュージカルの方が知られているかもしれない。

 「チェトニツケー・フモレスキ」にもニコラ・シュハイのような義賊的な存在が登場し、それが主人公のアラジムと一緒にロシアで赤軍と戦ってシベリアから日本を経てチェコに戻ってきた友人だったという設定なのだけど、その義賊が「チェコ人もハンガリー人と同じだ」という述懐をもらす。第一共和国当時にスロバキア人が感じていたという、指導者面するチェコ人への反発を、この地域の人たちも感じていたのだろうとこの場面を見たときには考えた。
 しかし、H先生によると、反発ばかりではなく、現在のポトカルパツカー・ルスの人たちの中には、チェコ人に感謝しているという人も多いらしい。それはハンガリーの支配下では、ほとんど見捨てられた土地で、教育なんてものはどこにもなく、文盲率も非常に高かったこの地に、教育をもたらしたのがチェコ人だったという事情による。だから、コメンスキー研究者の先生が呼ばれることになるのだろう。

 とまれ、またH先生たちと夕食をご一緒して、あれこれ面白い話を聞いてしまった。
2月27日14時。


2017年02月27日

プシェロフ再訪三(二月廿四日)



 プシェロフが、コメンスキーの町であることを自任し、チェコでも最も歴史のあるコメンスキーについての博物館が置かれているのは、コメンスキーがこの町で過ごしたからに他ならない。子供の頃、この町の兄弟団の教会に付属する学校で教育を受け、各地に遊学して学問を修めたあとに戻ってきて、先生になったのだ。
 そのコメンスキーが教鞭をとったと思われる学校の跡地が発掘されたというニュースは、以前、小耳にはさんだ記憶がある。そして、半年ぐらい前に別のコメンスキー関係者が来られたときに、その発掘現場がきれいに整備されていたという話を聞いたような気もする。チェコのコメンスキー関係者と一緒にお酒を飲んだときにも、その発掘の際の写真がどうだこうだ言っていた。

 しょせん、我がコメンスキーに関する知識は、ちゃんと本を読んで学んで身につけたものではなく、関係者と話をしたり、それを通訳したりしているうちに、おのずから身についた、いわば門前の小僧方式の知識である。その付け焼刃の知識の悲しさ、専門家の話を聞いて、何とか通訳していても、半分も理解できていない可能性がある。
 今でこそ、問題ないけれども、ポーランドのレシュノを、チェコの中で探そうとして見つけられなかくてリーシェンのことかと誤解したり、オランダのコメンスキーの墓地のあるナールデンが覚えられなくて通訳するたびに町の名前を言い直してもらったりしたこともある。いまだに覚えられないのが、ハンガリーのコメンスキーが滞在してトカイワインを飲みまくっていた町の名前である。チェコの人はチェコ語名を使って、日本の人はハンガリー名を使うので、しかもややこしい音なので、短期間に覚えるのは至難の業なのだ。決して年を取って記憶力が悪くなったからだとは思いたくない。

 博物館に向かう途中で川沿いに発掘現場があるのには気づいていた。ただ、待たせているという意識もあって立ち寄らなかったのだ。個人的には、一度川のほうに降りて、また広場に向かって登るのが面倒だったというのもなくはないけど。
 コメンスキー時代の教会と付属の学校は、あまり大きくないものだったようだ。発掘現場は保護のために埋め戻されその上にモニュメントが建てられているのだが、教会のほうは外枠に沿っていくつか四角い石が置かれていて、どんな形のどんな大きさの建物だったのかがわかるようになっている。学校と教会の間にコメンスキーも使ったに違いない通路があって、そこだけは下に降りて見られるようになっているのだけど、冬場の雪対策で黒いビニールシートで覆われていて、降りていくことも上から見ることも出来なかった。

 発掘現場からはベチバ川の対岸に、チェコの体操団体ソコルの大きな建物が見えるのだが、かつて発掘現場にソコルの建物が建っていたこともあったという。発掘現場は旧市街から川べりに降りてきたところで、それほど広くないので、対岸に移ったということだろうか。発掘現場と今のソコルのある対岸を結ぶ橋は、以前、ビザの手続きのために渡ったことがあるのだが、あのころは老朽化していて正直渡るのが怖かった。歩行者専用だったような気もする。それが今回、きれいに改修されて車も通れるようになっていたし、橋のたもとにはプシェロフのシンボルである野牛の像も置かれていた。ただ、どうして野牛がシンボルに選ばれたのかはわからない。郊外で化石が発見されたマンモスでもいいと思うのだけど。

 その後、博物館に戻るヘレナさんに、勧めてもらったレストランに入る前に、マサリク広場の一角にあるコメンスキーの記念碑を見に行った。警察署の建物の壁の上のほうにある記念碑には、金の古めかしい文字でコメンスキーがプシェロフにいた年代が書かれていたが、知らなければ気づかなかっただろう。先達はあらまほしきものなりとは、『徒然草』だったろうか。

 プシェロフは、残された旧市街自体はあまり大きくなく、観光名所とは言いにくいので、出かける日本人は、ビザの延長が必要な人と、コメンスキー研究者ぐらいだろう。でも博物館の入っているお城や、お城の前の閑静なたたずまいのホルニー広場、広場にある建物の外側にめぐらされた城壁など、歴史に興味のある人にとっては、一見の価値はありそうだ。プシェミスル家がモラビア支配の拠点として建設したなんて話も聞いたことがあるし。
 これで、駅から旧市街までがもう少し近く、いや近くなくても移動しやすかったら、電車の乗り換えのついでに町を見てみようという人も出てきそうな気もする。バスに乗っても一方通行が多くて歩くのと変わらないぐらい時間がかかるらしいし。
2月25日23時。



 書影がまだあがっていないのが残念だけど、教育者、哲学者の枠に収まりきらないコメンスキーの姿を知るためには、近々出版予定のこの本を読むのがよさそうだ。講談社、たまにはいい仕事するなあ。2月26日追記。

>ヨハネス・コメニウス 汎知学の光 [ 相馬 伸一 ]





>地上の迷宮と心の楽園 [ ヨーハン・アモス・コメニウス ]


2017年02月26日

プシェロフ再訪二(二月廿三日)



 確認のために調べたり、記憶をほじくり返したりする必要のあるテーマと違って、見聞したばかりのことは、筆が進む。毎日その日の出来事を書く本当の日記のようなものにしてしまおうかと、思わなくもないのだが、毎日書けるほどの劇的な人生は送っていないので、今まで以上に読めない無味乾燥なものになってしまいそうである。いや、そもそも本来の意味の日記を書き続けられるとは思えない。これまで何度も失敗してきたのだから。
 ということで、これまで通り、雑多なテーマで、雑多な内容の、雑多な文章を書き継いでいく。時間があればなまけるというこれまでの生活を、時間があれば書くという多少なりとも勤勉なものに改めることができれば、そのうちに何かの役に立つ、多少まともな文章が書けるようになるかもしれない。はかない夢とは言わば言え、完全に失敗するまでは、実現する可能性はあるのだ。で、昨日の続きである。


承前

 他にも地図の会社が販促用に作っていた日本のババ抜きのようなゲームをするためのカードも展示されていたが、ババに当たる、つまり一枚しか存在しないのがなぜかコメンスキーのカードだった。「民族の」という枕詞がつくとはいえ、教師は孤独だということだろうか。

 特別展を出て、常設展の部屋に入ると、正面にガラスのつぼに入った土がおかれていた。20世紀の初めにオランダにまで出かけてコメンスキーのお墓の土を持って帰ってきた人がいたらしい。その土を入れるために特別にガラスの容器を作らせて、展示品に加えたという人の胸像も展示されていた。
 もともとこの博物館の基礎となったのは個人のコレクションだったという。町のイベントの際に会場を借りて特別に展示していたものが、一時は小学校の一室で展示されており、最終的には旧市街のお城に移ってきたのだという。このお城にコメンスキー博物館が置かれたのは戦前のことらしいから、すでに百年近くはこの場所にあるということか。
 また、博物館の前の広場の真ん中には、書物を持った両手を空に伸ばすヤン・ブラホスラフの像が設置されているが、もともとは、子供を連れたコメンスキーの像が置かれていたらしい。このコメンスキー像は、チェコでは二番目に古いコメンスキーの記念碑だけれども、最初のものは単なるオベリスクのような柱だったので、全身像を使った記念碑、教師としてのコメンスキーを描いた記念碑としては最初のものになるという。ただ、コメンスキーと同じでプシェロフの町の中をあちこち転々として、現在ではフス派の流れをくむと思しいプロテスタントの教会の前の広場に立っている。後で実際に行ってみたら、周囲が駐車場のように車が大量に停めてあって少々興ざめだった。

 ちなみにブラホスラフという人物は、今回初めて知ったのだけど、プシェロフ生まれの兄弟団の関係者で、作家、神学者、歴史家などの顔を持つコメンスキーの先駆者のような存在らしい。博物館にもちょっとだけこの人関連の展示があったし、帰りに駅に向かう途中に道に迷って通ったところには、この人の名前を冠した兄弟団の支部の建物があった。偶然というのは不思議なものである。
 さらに余計な話をするなら、プシェロフの博物館の前の広場は、町で一番高いところにあるからか、オロモウツにあるのと同じでホルニー広場という名前がついている。他の町では聞いたことのない広場の名前なので、ドルニー広場もあるに違いないと思ったら、ホルニー広場からお城を挟んだところ、高さでは下にある広場はマサリク広場という名前だった。だから、その広場のかどにあるカフェの名前がTGMだったのか。

 ヘレナさんは、あれこれ興味深いことを、時に英語、時にチェコ語で説明してくれた。チェコ語で話されたときには、同行させてもらった先生方は、コメンスキーの本を訳されているぐらいだから、チェコ語はできるのだけど、とっさで早口だったりすると理解しきれないことがあると仰るので、念のために通訳をした。現物を前に説明を通訳していくのは、掛け合いのようにテンポよく進んでいくので、マイクを向けられたときよりは遙にましな通訳ができた、はず、で、ある。多少なりとも先生方の理解の助けになっていれば、同行させていただいたお礼にはなると思うのだけど。

 博物館を出る前によった売店で、入館料無しで展示を見せてもらったので、何か買えるものはないかなとあれこれ見ていたら、「その本のおかげで日本が好きになった」という言葉が、なかなかの達筆で表紙に書かれた小さなパンフレットのようなものが目に入ってきた。面白そうなので購入してめくっていたら、ヨエ(ジョーかも)・フロウハというチェコ人としては最初に日本への旅行記を書いた作家についての展示のパンフレットだった。この人、日本の昔話なんかもチェコ語に翻訳しているのかな。
 2011年に行われた特別展なので、東日本の震災の支援の意味もあるのかなと思ったら、ホロウハの生誕130年を記念する展示だった。もう一人格変化がややこしくて怪しいのだけどユリウス・ゼイェルという人の生誕170年、没後110年も記念しているらしい。ゼイェルは、「ゴンパチとコムラサキ」というチェコで最初の日本に関係する小説を書いた人らしい。読んでみたいような、みたくないような微妙な気持ちになってしまう。

 その後、昨年発掘されたコメンスキー時代の教会と学校の跡地にも案内してもらったのだが、それについては稿を改めよう。

2月24日17時。



 この本が今回コメンスキー博物館の蔵書に加わった。2月25日追記。

>コメニウス「世界図絵」の異版本 [ 井ノ口淳三 ]


2017年02月25日

プシェロフ再訪一(二月廿二日)



 かつては毎年二回、滞在許可の延長の申請と受け取りのために通っていたプシェロフであるが、永住権みたいなものをもらって以来、プラハに行くときのパルドゥビツェとならんで、電車であれ車であれ、南に向かうときに通過するだけの町になってしまっていた。ウィーンから北に向かう鉄道が敷設されたとき、まずプシェロフまで通し、その後ベチバ川沿いにフラニツェなどを経てオストラバにまで延長されたという話を聞いたことがある。そのためモラビア地方の鉄道交通の要衝となっており、ブルノにも、オストラバにも、ウィーンにも、もちろんオロモウツにも直通の電車で行くことができる。

 今回、そんなプシェロフに足を運んだのは、鉄道の歴史を考えるためではなく、それよりもさらに昔、コメンスキーの足跡を訪ねてである。いや、正確に言えば、ひょんなことから知り合いになったコメンスキーを研究されている先生が、オロモウツに来られプシェロフのコメンスキー博物館に行くと仰るので、そのしっぽについて行かせてもらったのである。
 十一時少し前にプシェロフの駅に到着したのだが、プシェロフの町は、駅から旧市街に行くのがなかなかややこしい。まっすぐ旧市街に向かう道がないので、右に左に何度か曲がりながら少しずつ近づいて行かなければならない。かつては旧市街をかすめるように抜けて川向こうの警察に向かっていたのだが、適当に歩いていると、なぜか旧市街に入り込んでしまっていた。逆に旧市街に行こうとして、ベチバ川に出てしまったこともある。小さな町なので、多少道を間違えても、最終的には目的地に到達するのだけど、駅前の通りを道なりに歩いて行けば旧市街に到達するオロモウツに住んでいると、何とかしてくれと言いたくなる。

 何とか、三十分ほどで旧市街の一番奥のちょっと高くなったところにある博物館にたどり着いた。十一時ごろに到着すると連絡してあったらしく、博物館の人が待っていてくれた。博物館の人だけではなく、テレビのレポーターまで待っていた。現在開催中の特別展を広報する必要があるので、地元のテレビ局のニュースに出て、広報に協力して欲しいということだった。
 困ったときの通訳要員の役割でついて行かせてもらったので、ちょっとだけ通訳でお手伝いをした。カメラを俺に向けるな、研究者の先生に向けてろと思いつつ、久しぶりに向けられたマイクに柄にもなく緊張したらしく、たどたどしいチェコ語への通訳になってしまった。俺の声と映像は出さずに、適当に通訳したのをちゃんとしたチェコ語に直して字幕で入れてね、と強くお願いしておいたので、プシェロフ市のテレビ局のニュースにでるのは、コメンスキー研究者のお二人だけのはずである。
 心配なので博物館の担当の人に念を押しておこうかな。映像だけでなく写真を撮っている人も二人いたけど、俺はネームバリューなんかないんだから、新聞なんかに出す意味もないよ。と、メディアの何度か登場した過去を抹消してしまいたいと思っている人間は考えてしまう。人前で、チェコ語ができる日本人という珍獣の役割を果たすのは厭わないが、それを電波に乗せたくはない。

 特別展は、コメンスキーという人物がどのように描かれてきたかをテーマにしたもので、同時代の画家から最近のアニメーターまで、さまざまな形で描き出されてきたコメンスキーの姿が並べられていた。入り口に入ってすぐのところで目を引かれたのが、ベチェルニーチェクっぽいコメンスキーで、「マフとシェベストバー」という人気の子供向けアニメーションの絵を描いた人が描いたコメンスキーだった。あのアニメにはコメンスキーは出てこなかったと思うのだけど、歴史的なテーマの絵本でも書いたのかな。
 いろいろな画家の描いたコメンスキー像も興味深かったのだが、切手や紙幣などにコメンスキーが使われてきた様子が一番興味深かった。チェコでは時間割を自分の手で書き込むために、曜日と時間だけが印刷された表のようなものが売られている。その装飾の一環としてコメンスキーが使われているのは、時間割は学校で使うものだからということでコメンスキー像が使われるのは、不思議はないにしても、マッチの箱や、チョコレートの包装にまでコメンスキーをあしらうというのはどういう意識の動きなのだろうか。

 実は、前日に、日本で放送された世界遺産関連の番組でクロムニェジーシュが紹介されたときに、コメンスキーのチョコレートも紹介されたという話を聞いていたのだ。その時にはクロムニェジーシュのチョコレート専門店でコメンスキーの形をしたチョコレートを販売しているのを想像したのだが、実際には何の変哲もない大き目の板チョコのパッケージにコメンスキーが印刷されているだけだった。そんなの世界遺産の番組で紹介するべきことなのか。
 このチョコレートのパッケージのポイントは、展示の責任者で案内をしてくれたヘレナさんの話では、80年代に使われたコメンスキーがあしらわれた20コルナの紙幣を拡大印刷して、額面金額も20万コルナに拡大されているところらしい。この情報は日本の視聴者には伝わったのかな。ヘレナさんは、この展示のために、中身を子供たちに食べさせてパッケージだけを博物館に持ち込んだと言っていた。子供たちをつれてきたときは、まだ幼いのでコメンスキーの絵には全く興味を示さなかったけど、チョコレートのパッケージを見たときには自分たちが食べたものであることに気づいて大喜びしていたのだとか。
 ちょっとパッケージが凝っているだけの普通のチョコレートで、普通のスパーマケットなんかにも売られているかもしれないというから、今度買い物に行ったときにでも探してみようかと思う。ただチョコレートの会社が、プシェロフ、クロムニェジーシュを中心にした地域の会社で、オロモウツには出荷していない可能性もあるのだけど。もし、プシェロフの会社であるのなら、コメンスキーをパッケージに使用する理由が出てくる。何せコメンスキーの街と呼ばれているのだから。
 長くなってきたので切りは悪いけれどもここで分割、以下次号。
2月23日23時。



 この紙幣も展示してあった。2月24日追記。

>チェコ共和国 200 Korun 教育者コメニウス 1993年 美


2017年02月24日

イゼラ50キロ(二月廿一日)



 ラベ(エルベ)川の支流にイゼラ川という川がある。北ボヘミア東部のポーランドとの国境地帯から南西に流れ、トゥルノフやムラダー・ボレスラフなどを経て、プラハ近くのスタラー・ボレスラフでラベ川に合流するこの支流の水源にあたるのがイゼラ山地である。リベレツの北から東にかけて広がる山地だと考えればいい。もしくはクルコノシェ山地の北西にある飛び地のような感じになっているとも言える山々である。

 そのイゼラ山中に設置されたクロスカントリースキーのコースを使って開催されるのが、チェコ最大のスキーレースであるイゼラ50キロレースである。チェコ語で「イゼルスカー・パデッサートカ」と言ったほうが響きがいいなあ。今年は、50キロレースが、50回目の開催ということで、大いに盛り上がっていた。
 近年雪の不足で中止になったり、コースが短縮されたりすることもあったのだが、50回目にあたる今年は、寒さも厳しく雪の量も多く、理想的な条件でレースが行なわれていた。今年の冬が寒くてつからったのも、ぐだぐだと嘆くのはやめて、運命だったのだと受け入れたほうがいいのかもしれない。このレースが終わってから、気温が上がり始めてオロモウツの街中の雪はほとんど消えてしまったし。

 現在は数年前から始まったスキー・クラシックスという長距離のクラシックスタイルで行なわれるレースを集めた世界シリーズの一線に組み込まれているため、プロの選手たちのレースも開催されているが、本来は市民マラソンのスキー版のような形で1968年に第一回が開催されたようだ。当時は登山家達の冬山登山の訓練もかねていたのか、プログラムによると登山家の部、スキーヤーの部に分かれている。
 そして1970年の第三回大会に出場した15名の登山家が、同年五月にペルーで登山活動中に、地震に襲われ崩れ落ちてくる岩石、土、雪からなる山崩れに巻き込まれて全員亡くなるという痛ましい事故が起こった。そのため、翌1971年の第四回大会からは、亡くなった登山家達を記念するレースとして開催されるようになり、ゼッケン1から15までは、登山家達の番号として欠番となっている。だからスキークラシックス部門に出場する選手のゼッケンは16から始まるのである。

 当初は50人前後の出場者だったようだが、今年は5000人近い出場者がいたようだ。最初に女子のメインレースのスキークラシックスに出場する選手たちがスタートしたのだが、数が少なかった。全部20人もいなかったんじゃなかろうか。スキークラシックスは、まだまだワールドカップと比べると知名度も低く、選手の数も少ないということなのだろう。
 その三十分後にスタートした男子のほうは、それなりに数がいた、とはいってもワールドカップほどではなかったし、ほとんどがノルウェーを中心とする北欧の選手と、地元チェコの選手でこちらもワールドカップにはまだまだ及ばないという印象だった。このシリーズは始まったばかりだし、これから、週末に二つも三つもレースがあるワールドカップにつかれたベテランたちが移ってきて、成長していくのだろう。チェコのクロスカントリースキーのエース、ルカーシュ・バウエルも近いうちにこちらのシリーズに主戦場を移すようなことを言っていたし。

 さて、市民ランナーも出場するマラソンのスタートを見慣れた人間にとって、スキーのスタートは奇異なものに見えた。出場者たちはいくつかのブロックに分けられてスタートを待っており、ブロックごとにスタートが許可される。待機しているときに手に持っていたスキーを待機場所からスタート地点に移動し、そこでスキーを履いてレースを始めていた。タイムはスタートラインを越えた時点から計測するようになっているのだろう。
 考えてみれば、腕を振り足を前後に延ばすだけのマラソンと比べて、スキーの場合は、スタート時点でも、走行中も一人の人間が必要とする空間が大きい。加えてクラシックスタイルなので、雪面に掘られた日本の溝の上を走らなけらばならないから、すぐ隣に並んで走るというわけにもいかない。参加人数がおおいと、こういうスタートになるのも当然なのか。
 参加者の中には、昔のスキー、今のワンタッチでセットできるスキーと靴ではなく、昔ながらのベルトで絞めて靴をスキーに固定するタイプで出場している人もいて、次のグループの出走時間が迫る中、急いでスキーを履いていたのが印象的だった。

 結果は、男子のレースはいつものようにノルウェー選手が上位を独占し、チェコで最高位に入ったのは、最後のチェコ人優勝者のジェザーチだった。十位代半ばぐらいの順位だったかな。世界選手権のトレーニングの一環で出場したバウエルは、廿位ちょっとだった。まだ、スキークラシックス専業にはなりたくないので、こちらで最近はやりの走行テクニックの特化した走り方はしたくないと言っていたけれども、スキーのド素人には何のことやらである。
 女子はチェコ人選手のカテジナ・スムトナーが優勝した。それはいいのだけど、この選手数年前は、オーストリア代表としてノルディックスキーのワールドカップやオリンピックに出ていた選手である。それが、チェコに戻ってきたと言っていいのかな。インタビューにはちゃんとしたチェコ語で答えていたし、チェコ国内の出身のようだし。ただそれがなぜオーストリア代表になっていたのだろうか。
 スキー競技に関しては、この国籍変更のしやすさが少し気になる。アルペンスキーでもカナダ代表だったヤン・フデツが今年からチェコ代表としてワールドカップに出場しているし、ここらでちゃんとしたルールを作っておかないと、卓球みたいになったらいやだなあ。バイアスロンの話だけど、韓国代表の選手の名前がロシア人かなというのもあったし。

 とまれ、第四回以降伝説になったと言ってもいいこのイゼラ50キロレースは、メインのレース以外にも、距離が短かったり、子供向けだったりするさまざまな併設レースが行われており、今後もチェコの伝説のスキーレースとして行われ続けていってほしい。つまりは毎年雪不足にならないことを願うことになるのか。いや、レースの行われる前の一週間だけ寒さが厳しくなり雪も十分以上に確保できるように、天候を支配する方法を作り出してほしいと願うほうがいいか。
 自分で出場したいとは思わないけれども、テレビで見る分には、マラソンと同じでなかなか楽しいから、中止で大体番組に差し替えということは起こってほしくないのである。またなんかしょうもない終わり方になってしまったけれども、おしまい。
2月23日17時。



2017年02月23日

永祚二年八月の実資〈下〉(二月廿日)



十六日、戊午、小児の五七の日に当る、仍て諷誦を修む、

 十六日には三十五日目の法要。昔は七日ごとに全部やったんだね。


十九日、辛酉、扶公師来る、春日、山階寺等の祈願の事を語り付す、
廿日、壬戌、三品立ち寄らる、尾張守文信、景信、恒昌朝臣等来る、等身の如意輪、四天王の像を迎へ奉る、仏師蓮胤を以て顕し奉らしむるなり、

 このあたりも娘の供養のためであろうか。等身は亡き娘と同じぐらいの大きさだと考えていいのかな。七月六日に、「等身の薬師仏」を作るという願を立てているので、それに続いて如意輪観音と四天王の像も作ることにしたわけである。


廿一日、癸亥、如意輪観音を今日慶円内供の叡山の房に移し奉る、来る廿四日より供養し奉るべし、今日叡増を以て長谷寺に奉らしむ、来る廿四日より七个日候ぜしむるべきなり、御明を奉る、兼ねて供養せしめ奉る、女子の祈願を申し乞はしむるなり、亡き児の遺愛に依り殊に祈り請ふ所なり、

 昨日届いた如意輪観音は、比叡山の慶円の房に移して供養。叡増には長谷寺に行かせて御灯を奉らせている。どちらも廿四日から法事を行うのである。娘が祈願のために奉ったものだというけれども、実際に差配したのは実資であろう。


廿四日、丙寅、卯の二点に礒上奉忠を以て、薬師仏、如意輪観音、不動尊、金の毘沙門天を鋳せしめ奉る、毘沙門天の形大きく成り給はず、金多く不足す、本数は卅両、仍て其の形を改め、廿九日に鋳せしめ奉るべきの由、之を仰せて了んぬ、四体の料物廿五石は、前日給はしめ了んぬ、(中略)
今日より内供慶円を以て、山房に於いて三七个日を限り、新たに顕はる如意輪を供養せしめ奉る、又た平誉師を以て住所に於いて七日を限り如意輪を供養せしむ、叡増師は今日より七个日を限り長谷寺の観音を供養せしめ奉る、此の三箇處の祈願は、皆な是れ子息の祈願なり、

 仏像の鋳造を行っているのも娘の菩提を弔うためであろうか。ただ、金の量が足りず毘沙門天の形が出来上がらなかったので、廿九日に改めて実行することにしている。
 内供僧の慶円にできたばかりの如意輪観音を二十一日間供養させ、平誉にはその家で如意輪観音の供養を七日間やらせている。また叡増には、長谷寺の観音像を七日間供養させているが、これらの供養は子供たちの発願だという。養子の資平たちが、妹のために供養を願ったと解釈しておこう。

廿五日、丁卯、故有るの後今日初めて参内す、(中略)、余病を称して退出す、院に参る、やや久しく御前に候ず、黄昏退出す、

 「故有るの後」というのは娘が病気になって以来ということだろう。久しぶりに参内しているのだが、「病を称して」と仮病を疑わせるような理由で早退している。


 廿六、廿七日に関しては、特に娘の死とかかわるような記載はない。廿六日には本来西寺で行われていた国忌が東寺で行われ、廿七日には内裏で兼家の喪に服す形で、宴席を中止にするかどうかの話し合いをしている。雨が降り出して結論が出る前にみな退出しているようである。兼家が亡くなった直後で混乱が多少みられるようである。


廿八日、庚午、未の時許りより風威猛烈なり、就中く夜に入りて極めて猛し、晴□に及ぶ、(下略)

 この日も実資の娘とは関係ないが、強風が吹き荒れている。前日の雨と合わせて台風の襲来だったのかと考えてみたくなる。

 廿九日は本文には、娘関係の記事はないが、頭書に、「卯の二点に砂金を以て毘沙門天を鋳し奉らしむ」とあり、廿四日に失敗した金の毘沙門天の像が造られたようだ。
 卅日も娘関係の記事としては、頭書に「小児の七々日に当る、仍て諷誦を修む」とあるだけだが、四十九日の法要が行われたことがわかる。
2月22日23時。


 今日も飲んでしまって、書きかけの記事が書きあがらないので、昨日の分の続きでお茶を濁させてもらう。2月23日追記。



2017年02月22日

永祚二年八月の実資〈上〉(二月十九日)


 雨が降っても槍が降っても、いや、酒飲んで酔っ払っても、風邪引いて頭が痛くても、眠くて倒れそうでも、とにかく書くというのがこのプロジェクトの趣旨なのだが、お酒が入ると集中力がてきめんになくなって、ネットで特に読まなくてもいい記事まで読んでしまって、気が付いたらもう寝る時間ということが多い。
 今週も、いやこれからしばらく、日本から来られる方が多く、つまりは飲みに出かける日が多くなることが決定しているので、文章の生産量が減ってしまうのが目に見えている。このアナをどうやって埋めようかと考えていたら、半年ほど前に書きかけて放置してあった『小右記』から、実資の娘の死後の様子を抜き出した記事が出てきたので、こういう書きかけで放置してしまう癖をなくすためにこのブログを始めたというのに、あまり改善されていないことに愕然としたのだが、気を取り直して、大慌てで死の翌月永祚二年八月の末尾まで、とりあえず形にして、これから二日分の記事に充当することにする。本当はもう少しとっておきたかったのだけど、力尽きてしまった……。
 後半はともかく前半はかなり前に書いたものなので、ほとんど記憶にないのだけど、読み返して覗き見的に、面白そうな部分だけを引っ張り出してまとめているのは、大学のころから、二十年以上経ってもあまり進歩していない証拠であろうか。三つ子の魂百までというにはちょっと苦しいか。


一日、癸卯、穢に依り例の幣を賀茂に奉らず、

 この穢は、別の穢れの要因についての記載がないことから、娘の死によるものと考えてもよさそうだ。

二日、甲辰、(中略)、小女児の三七日に当り諷誦を珎皇寺に修む、右将軍、実好朝臣を使はして重ねて弔はる、

 「三七日」つまり、死後二十一日目の法要が行われている。珎皇寺で行われているのは娘のなきがらを置きに行かせたところの近くだからだろうか。

三日、乙巳、昨日異鳥(魚寅鳥に似る、頗る大なり、と云々)南殿に入る、捕らえ留め左近の陣に給ひ養はしむ、と云々、其の鳥の名は詳かならず、或るは云ふ、水乞鳥、と、説々極めて多し、占ひ申して云ふ、御薬、兵革、火事有るべし、てへり、

 娘の死とは関係ないけど、怪異が起こった話は楽しい。「魚寅鳥」というのがよくわからない。「水乞鳥」はアカショウビンという鳥の異名らしいが、「異鳥」と呼ばれるような鳥には見えない。実資もよくわかっていないみたいだしいいか。それよりも、占いの結果が気になる。「御薬」は病気が発生するということか。「兵革」は戦乱が起こるということで、「火事」も起こるとなると、とんでもないことになりそうだ。

七日、己酉、右近の府生公明云ふ、昨日辰の時蔵人所に民部丞通雅来る、右近の陣の異鳥を見るの間飛び去る、と云々、覚慶僧都示し送りて云ふ、御薬は此の両三日は発し御はず、てへり、

 三日の鳥は結局逃げてしまったようだ。覚慶の話からすると御薬は、ただの病気ではなく天皇の病気だろうか。この二三日は薬が必要な病気は発していないようである。

九日、辛亥、小児の四七日に当りて諷誦を行はしむ、

 死後廿八日の法要である。特に記述がないことを見ると、自宅で行われたと考えてよさそうだ。


十日、壬子、官掌忠輔申さしめて云ふ、入道殿の御法事に依り考定延引す、来る廿七日に行ふべし、てへり、修理大夫過ぎらる、禅耀阿闍梨弔に来る、中務宮の母の女御書を以て之を弔ふ、

 実資は出ていないけれども、入道殿(兼家)の法事もあって、法事関係の記事が多い印象である。この日も弔問客と、書面での弔問が来ている。中務宮は村上天皇の皇子の具平親王で、その母は醍醐天皇の娘の荘子内親王である。

十二日、甲寅、晩後雷雨豊楽殿を霹靂す、神火有り、人々撲滅す、と云々、故入道殿の七七の御法事を法興寺に於いて行はる、と云々(二条院を法興寺と号す)、七僧(但し堂達は二人、仍て八人、と云々)、外に百僧、と云々、千部の法華経を供養せらる、と云々、

 この日の最初の記事は、豊楽殿への落雷。三日の異鳥の騒ぎと関係があるのだろうか。その後は、兼家の仏事が盛大に行われたことが書かれているが、実資自身は出席していないのですべて伝聞である。

十五日、丁巳、(中略)式部丞伊祐来りて云ふ、主上此の両三日赤痢の病に悩み御ふ、就中く昨日より重く悩み御ふ、と云々、
十六日、戊午、(中略)主上昨夜重く悩み御ふ、是れ御胸の病、又た御赤痢、と云々、
十七日、己未、三品過ぎらる、昨日より御薬平に減る、と云々、
今暁摂政内に入る、御薬の事に依り参入せらるる所か、

 これが、占いに出てきた「御薬」だろうか。天皇が赤痢に苦しんでいる。天皇の薬のことで摂政が内裏に参上したかという部分を読むと、天皇と摂政の関係に対するイメージが変わってしまうような気がする。

以下次号

2月21日23時。



2017年02月21日

チェコリーグ移籍情報(二月十八日)



 サッカーの春のシーズンが開幕する前に、チェコ的に重要な選手の移籍情報についてまとめておこうと思っていたのだが、すっかり忘れていた。いや忘れていたのはまとめることではなくて、二月の中旬にリーグが再開されることである。いまさらだが、エーポイシュチェニー・リーガというチェコサッカー一部リーグの名称は、許容範囲を超えているので使わないことにする。わがチェコ語では、以前のガンブリヌス・リーガ、シノット・リーガでも許容範囲ぎりぎりだったのだ。
 さて、日本では全く話題に上らないであろうチェコリーグの移籍について、細かいところまではチェックしていないので、チェコ的な大物の移籍だけ簡単にまとめておく。

 この冬の移籍は全体的におとなしかったという印象があるのだが、一番積極的に補強に走ったのは中国スラビアである。ディフェンス陣の強化に、テプリツェから若手でU21代表にも呼ばれているルフトネルと、ノルウェーのモルデからフロという選手を採った。そして去年の夏の時点で、プルゼニュ、スパルタとの間で争奪戦になっていたリベレツのヤン・シーコラの獲得に成功した。
 そして最後に代表にも一時期定着していたものの、プルゼニュでもその後ヤブロネツでも、いまひとつ活躍できなかった伸び悩み中のテツルを獲得。シュコダとメシャノビッチがいるところにテツルまでというのはどうなのだろうと言う気もするが、監督のシルハビーがヤブロネツ時代に指導しているから、その縁もあって獲得を希望したのだろうか。

 フロは知らないが、チェコ人選手は三人とも、チェコレベルではそこそこ大物なので、テツル以外は先発として計算されているようだ。これだけの選手が入っていくると、出て行く選手もいるわけで、昨年の夏にシュコダの動向が確定する前に、大慌てでスロバキアからチェコレベルでは大金で獲得したファン・ケセルがポーランドのグダニスクにレンタルで出て行った。シーズン初めのごたごたの中でスロバキアリーグ得点王の実力は片鱗ぐらいしか見せられないままポジションを失ってしまった。他にもヤブロンスキー、ジェレズニーク、ソウチェクなどがスラビアを離れた。

 ライバルのスパルタは、ドゥクラからスペイン人選手のネストルを獲得したぐらいで、大きな変化はなかった。このチームは十分以上に戦力は整っているので、けが人が戻ってくるのが最優先ということだったのだろう。ただ、移籍に関してスパルタが、いやスパルタだけではなく、ムラダー・ボレスラフにも責任はあるけれども、失態を犯した。
 秋のシーズンをスパルタからレンタルされてボヘミアンズで過ごしたブディンスキーというゴールキーパーを、ムラダー・ボレスラフが獲得したのだが、選手登録が認められなかった。ブディンスキーにとってボレスラフが、このシーズン中四つ目のチームになることが理由だった。
 チェコのリーグのシーズンは七月一日付けで始まる。ブディンスキーは昨年の七月の半ばまで、二部リーグのブラシムの選手として登録されていた。その後、レンタルからスパルタに復帰して、ボヘミアンズにレンタルされている。この時点で、一シーズンに所属しプレーできるチーム数のリミットである三チームに到達した。秋のシーズンが終わり再びスパルタに戻ってきた後、ポーランドリーグに移籍したディビシュの代役を探していたムラダー・ボレスラフにレンタルされることになったのだが、これが四チーム目ということで、登録できず移籍も中止になった。

 この一シーズン、三チームまでという規定は、ヨーロッパレベルでは二チームまでという規定があることを考えると、チェコ独特の規定で秋と春とで別のチームにレンタルできるように配慮したものだろう。下位のチームにはレンタルで獲得した選手たちでやりくりをしているチームが多いチェコでは必要なのだろうが、リーグの年度が始まる前に、レンタルから戻していないチームがあることは想定していなかったのだろう。というかそこまでは面倒見切れんよということか。
 この問題の解決策として、スパルタで出番を失っているビチークを、ブディンスキーの代わりにボレスラフにレンタルするという案も出ているようだ。スパルタにとっても、ボレスラフはある意味ありがたいレンタル先であるので、このまま放置ということにはならないだろう。以前、移籍期間が切れた後に選手を獲得する裏わざとして使われたプロではなく、アマチュア契約で獲得するなんてことになったらいやだなあ。この辺はチェコのサッカー協会が制度を改善していることを期待しよう。

 最後にチェコから出た移籍と、チェコに入ってきた移籍で一番大きかったものをあげて今日の記事を終わることにする。
 出て行ったほうでは、代表デビューも果たしたリベレツのポコルニーがフランスのモンペリエに移籍したのが、最大の驚きだっただろうか。すでにフランスでデビューを果たし、ディフェンスの選手なのにゴールも上げているようだから、期待してよさそうだ。現時点ではプラシルにと合わせてフランスリーグのチェコ人選手は二人になるのかな。

 入ってきたほうでは、何といっても、オーストリアのベッカム(とチェコの新聞に書いてあった)、元オーストリア代表の主力選手アンドレアス・イバンシッツに尽きる。期待はずれだったアルバニアのカチェと、監督とうまく行かなかったところがありそうなドゥリシュが出て行ったのを、少なくとも話題性では遙に超えている。プレーでも圧倒的に超えてほしいところである。ドゥリシュの長年にわたる貢献を超えるのは難いかな。とまれ、イバンシッツが下馬評どおりの活躍を見せれば、プルゼニュの優勝はますますかたくなりそうだ。
2月20日12時。




2017年02月20日

スパルタ惨敗(二月十七日)



 久しぶりのチェコサッカーの話題だが、明るい話ではない。チェコのチームとしてヨーロッパリーグで唯一春まで生き残ったスパルタが、初戦でロシアのロストフに惨敗を喫してしまったのだ。去年、同じロシアのクラスノダルに勝って勝ち進んだこともあって、今年もいけるのではないかという期待があったのだけど、現実は甘くなかった。手も足も出ない感じで四点取られて一点も取れないまま負けてしまった。
 監督のシュチャスニーが、成績不振を理由に解任された後、暫定監督のホロウベクのもと、特にヨーロッパリーグでは予想外の好成績を収めてきたスパルタだが、ホロウベクの神通力も切れたということだろうか。最近ニュースなんかにも出てこないようだし。

 スパルタの監督を務めるためのライセンスを、まだ取得していないホロウベクに代わって監督の座についたのは、事前に名前の挙がっていなかったスパルタのフロントにいたポジャールだった。もともとはスカウト部門の長を務めていたようだが、シュチャスニーの後の監督を探しを担当しており、適任者を見つけられなかったので、自分でやることにしたのかもしれない。
 事前に候補に挙がっていた、ハシェクやホバネツなどの中で、ロシアのマハチカラの監督を解任されたブルバには実際にオファーを出したが、断られたらしい。グリャやトルピショフスキーは、そもそもよそのチームで監督をしているわけで、相手チームの許可がなければ交渉すらできなかったはずである。リベレツとは交渉したけど、要求されたことが多すぎて合意に達しなかったなんて話もあったな。

 監督問題が一つ目の不安だったとすれば、もう一つの不安はヨーロッパリーグで勝ち続けた時期に欠場していた選手の復帰だった。ロシツキーはまだもう少し時間がかかるようだが、冬の中断期間にバーハが怪我から復帰して開幕直前のジリナとの練習試合に先発メンバーとして出場していた。それほど活躍したというわけではないようなので、ロストフとの試合では外されることを期待したのだが、先発で出ていた。マレチェクが怪我で使えないという問題があったにせよ、バーハを使うぐらいなら、若手のチェルマークとかサーチェクあたりを使ってほしかった。

 そして、もう一人コナテーの復帰も不安材料だった。去年の夏にブルガリアのステアウア・ブカレストへの移籍を求めて練習を拒否するという暴挙に出たこのアフリカ人選手は、秋のシーズンは懲罰的にAチームからは除外されていた。もうひとりのアフリカの選手コスタが、スパルタにいることに満足している感じがあるのに対して、コナテーはスパルタに不満があるようだ。かつてのボニーとクウェウケの違いのようなものか。今はイングランドにいるボニーは、人種差別的な発言をすることの多いスパルタファンからも熱狂的に応援されていたからなあ。
 コナテーは冬の中断期間にスパルタに侘びを入れたらしくAチーム復帰が許されたようだ。この辺には、コナテーを高く売りたいというフロントの思惑もあったのかもしれない。もちろん代理人も暗躍しているのだろうけど。コナテーは悪い選手ではないのだけど、一度後ろ足で砂かけてチームをおん出ようとした選手が、起用されることで雰囲気が悪くなりそうな気もする。

 試合では、バーハもコナテーも最低の出来だったようだ。とはいえ、惨敗だったので出場した選手全員の出来が悪かったというしかないのだけど、ディフェンス完全崩壊の一因はバーハの不安定な中途半端なプレーにあったし、コナテーは不用意なファウルを連発し二枚のイエローカードをもらって退場してしまった。その時点ではまだ一点しか取られていなかったのだが、これで敗戦が決まったようなものだった。
 笑ってしまうのが、試合後のバーハのコメントで、退場者が出ずに十一人でプレーしていたらここまで差はつかなかったはずだとか、諦めたようなプレーにはならなかったはずだなどとこいていた。数年前のプルゼニュは、ドイツのシャルケ相手に、退場者を出してなお同点に追いつくという踏ん張りを見せてくれたが、今のスパルタにはそんな強さは期待できないようだ。バーハが中心選手として威張ってるチームだからなあ。

 とまれ、中断期間のトレーニングマッチでの好調が本物で、ロストフに惨敗したのは相手が強すぎただけなのか、ロストフとの試合でメッキがはげたのかは、今週末の国内リーグの試合でわかる。相手は、同じプラハのボヘミアンズ1905か。木曜から中二日とはいえ、勝たなきゃ駄目だな。
 この試合の印象からいうと、スパルタがプルゼニュを逆転して優勝するのは難しそうだ。中国資金で金満チームと化したスラビアもまだ時間が必要だろうから、今年も優勝はプルゼニュかな。
2月18日23時30分。


 本日日曜日に行なわれたスパルターボヘミアンズの試合は……。ロストフに惨敗したのは相手がどうしようもないぐらい強かったからではなかった。スパルタ、勝つには勝ったんだけどねえ……。このままでは二位の座も危うそうである。2月19日追記。


リベレツの監督の名前修正。

2017年02月19日

永観二年十一月の実資〈下〉(二月十六日)



 廿一日から新嘗祭が始まる。新天皇即位後の最初の新嘗祭が大嘗会となることが多いが、今回は円融天皇の退位が八月末、花山天皇の即位の儀式が十一月に行われた関係で、大嘗祭は翌永観二年に行われることになる。大嘗会が行われるまえに、新天皇が新嘗祭に出御したれいは少ないということで、花山天皇も出御していない。その代りに恐らく五節の姫の滞在していたであろう常寧殿の辺りに出没している。この天皇、やはり問題ありである。

 廿二日は、新嘗祭の二日目豊明節会である。それに加えて内裏の物忌でもある。この節会には諸国の国司などの地方官が在京しているときには、出席が認められたようなのだが、出席予定者の中に重い物忌に服している者がいて、結局事情を知らない外記のせいだということで決着している。
 太政大臣の頼忠は、五節の舞が始まる前に所労があるということで退出しているが、雪が降りしきっていたようで、儀式は雨の際の方式で行われている。「前例を知らざるか」との批判が記されているが、具体的に何を批判しているのかはよくわからない。人は内弁の左大臣か、藤原惟成だろうけど。実資も体調が悪くて中座したようである。花山天皇が五節の舞を見たのか、五節が出てくる前に還御したとあるのがよくわからない。

 廿三日には、頼忠のところに出向いている。河内国にある摂関家領の牧場である楠葉の牧が国司に襲撃されたらしい。この摂関家領は、九条流なり小野宮流などの資産ではなく、摂政・関白という役職に付随するものなので、現在は関白の頼忠のものとなっている。物忌のため奏聞は後日回しである。円融上皇の元に向かって候宿している。
 廿四日は、円融院の許から、参内して前日に頼忠のところで話しに出た楠葉牧の件について奏聞。検非違使を派遣して調査するようにという指示が出されている。それから廿五日に行なわれる賀茂臨時祭の舞楽の練習を天皇にご覧に入れる試楽の儀式を、早い時間から始めろという指示が出て実資が担当の蔵人に伝えている。 花山天皇この手の儀式が大好きなようである。

 廿五日には、前日の指令でか、試楽が未のときに始まっている。午後の早い時間の開始なのは、普段より早いのだろう。この手の儀式は夕方以降に行なわれるような印象がある。公卿の座席が足りなかったのは、出てきた公卿の数が予想以上に多かったということか。実資は明りが灯されるころには退出している。
 廿六日は内裏で賀茂祭の左右の十列、つまり競馬のようなものが行われた。花山天皇は、今回は紫宸殿ではなく仁寿殿に出御している。儀式が終わって頼忠のところに向かい賀茂臨時際の舞人や陪従に贈る装束などについて処置している。

 廿七日はいよいよ賀茂臨時際である。天皇は湯浴みをして禊をして祭の舞楽をご覧になるための座に出御する。例によってお酒を飲むための杯が回るのだが、出席する公卿の数がいつもより多くて座を準備するのに苦労しているようだ。公卿の出席率が悪いと嘆いていたのは、先月だったか。天元五年の七月だったか。とまれお祭の宴会のような場には、きっちり出てくるのが当時の公卿というものなのであろう。
 駿河舞の間に雨が降り出し、その後も断続的に降ったりやんだりしたようだ。
いるが、舞が終わるころにはやんでおり大事にはなっていない。その後社頭、つまり賀茂神社に舞人たちが向かったと書かれるが、雨が降ったことだけで詳細は省略されている。内裏に戻ってきたのが、亥の二刻だから深夜である。待っている間に公卿たちは酒宴を始める。神楽などの儀式が終わって褒美を与えてすべてが終わるのは、丑の時である。
 藤原斉信、源時叙、藤原宣孝の三人が馬を牽かなかったとして、花山天皇の怒りに触れている。その結果神楽を見物することを禁止されたようだ。この件は、この日だけでは解決せずにしばらくいろいろ言われることになる。花山天皇しつこいのである。

 廿八日はまた内裏は物忌。頼忠邸での仏事に参入している。夜に入って自宅に戻っているが、伝聞で村上天皇の皇女である資子内親王が三条宮に戻ったとか、除目の誤りを訂正する直し物が行われたことが記される。ただし、伝えた人物については記載がない。
 廿九日は小雨の中、内裏の物忌みではあるが実資は参上している。廿七日に馬を牽かなかった三人のうちの一人である藤原宣孝にその理由を問うているが特別な理由はなかったようだ。ただ物忌みであるので天皇への奏上はしていない。その後、円融上皇のものとに出向いて食事の陪膳を務めている。
2月17日23時。


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