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2017年02月25日

プシェロフ再訪一(二月廿二日)



 かつては毎年二回、滞在許可の延長の申請と受け取りのために通っていたプシェロフであるが、永住権みたいなものをもらって以来、プラハに行くときのパルドゥビツェとならんで、電車であれ車であれ、南に向かうときに通過するだけの町になってしまっていた。ウィーンから北に向かう鉄道が敷設されたとき、まずプシェロフまで通し、その後ベチバ川沿いにフラニツェなどを経てオストラバにまで延長されたという話を聞いたことがある。そのためモラビア地方の鉄道交通の要衝となっており、ブルノにも、オストラバにも、ウィーンにも、もちろんオロモウツにも直通の電車で行くことができる。

 今回、そんなプシェロフに足を運んだのは、鉄道の歴史を考えるためではなく、それよりもさらに昔、コメンスキーの足跡を訪ねてである。いや、正確に言えば、ひょんなことから知り合いになったコメンスキーを研究されている先生が、オロモウツに来られプシェロフのコメンスキー博物館に行くと仰るので、そのしっぽについて行かせてもらったのである。
 十一時少し前にプシェロフの駅に到着したのだが、プシェロフの町は、駅から旧市街に行くのがなかなかややこしい。まっすぐ旧市街に向かう道がないので、右に左に何度か曲がりながら少しずつ近づいて行かなければならない。かつては旧市街をかすめるように抜けて川向こうの警察に向かっていたのだが、適当に歩いていると、なぜか旧市街に入り込んでしまっていた。逆に旧市街に行こうとして、ベチバ川に出てしまったこともある。小さな町なので、多少道を間違えても、最終的には目的地に到達するのだけど、駅前の通りを道なりに歩いて行けば旧市街に到達するオロモウツに住んでいると、何とかしてくれと言いたくなる。

 何とか、三十分ほどで旧市街の一番奥のちょっと高くなったところにある博物館にたどり着いた。十一時ごろに到着すると連絡してあったらしく、博物館の人が待っていてくれた。博物館の人だけではなく、テレビのレポーターまで待っていた。現在開催中の特別展を広報する必要があるので、地元のテレビ局のニュースに出て、広報に協力して欲しいということだった。
 困ったときの通訳要員の役割でついて行かせてもらったので、ちょっとだけ通訳でお手伝いをした。カメラを俺に向けるな、研究者の先生に向けてろと思いつつ、久しぶりに向けられたマイクに柄にもなく緊張したらしく、たどたどしいチェコ語への通訳になってしまった。俺の声と映像は出さずに、適当に通訳したのをちゃんとしたチェコ語に直して字幕で入れてね、と強くお願いしておいたので、プシェロフ市のテレビ局のニュースにでるのは、コメンスキー研究者のお二人だけのはずである。
 心配なので博物館の担当の人に念を押しておこうかな。映像だけでなく写真を撮っている人も二人いたけど、俺はネームバリューなんかないんだから、新聞なんかに出す意味もないよ。と、メディアの何度か登場した過去を抹消してしまいたいと思っている人間は考えてしまう。人前で、チェコ語ができる日本人という珍獣の役割を果たすのは厭わないが、それを電波に乗せたくはない。

 特別展は、コメンスキーという人物がどのように描かれてきたかをテーマにしたもので、同時代の画家から最近のアニメーターまで、さまざまな形で描き出されてきたコメンスキーの姿が並べられていた。入り口に入ってすぐのところで目を引かれたのが、ベチェルニーチェクっぽいコメンスキーで、「マフとシェベストバー」という人気の子供向けアニメーションの絵を描いた人が描いたコメンスキーだった。あのアニメにはコメンスキーは出てこなかったと思うのだけど、歴史的なテーマの絵本でも書いたのかな。
 いろいろな画家の描いたコメンスキー像も興味深かったのだが、切手や紙幣などにコメンスキーが使われてきた様子が一番興味深かった。チェコでは時間割を自分の手で書き込むために、曜日と時間だけが印刷された表のようなものが売られている。その装飾の一環としてコメンスキーが使われているのは、時間割は学校で使うものだからということでコメンスキー像が使われるのは、不思議はないにしても、マッチの箱や、チョコレートの包装にまでコメンスキーをあしらうというのはどういう意識の動きなのだろうか。

 実は、前日に、日本で放送された世界遺産関連の番組でクロムニェジーシュが紹介されたときに、コメンスキーのチョコレートも紹介されたという話を聞いていたのだ。その時にはクロムニェジーシュのチョコレート専門店でコメンスキーの形をしたチョコレートを販売しているのを想像したのだが、実際には何の変哲もない大き目の板チョコのパッケージにコメンスキーが印刷されているだけだった。そんなの世界遺産の番組で紹介するべきことなのか。
 このチョコレートのパッケージのポイントは、展示の責任者で案内をしてくれたヘレナさんの話では、80年代に使われたコメンスキーがあしらわれた20コルナの紙幣を拡大印刷して、額面金額も20万コルナに拡大されているところらしい。この情報は日本の視聴者には伝わったのかな。ヘレナさんは、この展示のために、中身を子供たちに食べさせてパッケージだけを博物館に持ち込んだと言っていた。子供たちをつれてきたときは、まだ幼いのでコメンスキーの絵には全く興味を示さなかったけど、チョコレートのパッケージを見たときには自分たちが食べたものであることに気づいて大喜びしていたのだとか。
 ちょっとパッケージが凝っているだけの普通のチョコレートで、普通のスパーマケットなんかにも売られているかもしれないというから、今度買い物に行ったときにでも探してみようかと思う。ただチョコレートの会社が、プシェロフ、クロムニェジーシュを中心にした地域の会社で、オロモウツには出荷していない可能性もあるのだけど。もし、プシェロフの会社であるのなら、コメンスキーをパッケージに使用する理由が出てくる。何せコメンスキーの街と呼ばれているのだから。
 長くなってきたので切りは悪いけれどもここで分割、以下次号。
2月23日23時。



 この紙幣も展示してあった。2月24日追記。

>チェコ共和国 200 Korun 教育者コメニウス 1993年 美


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