2017年02月23日
永祚二年八月の実資〈下〉(二月廿日)
十六日、戊午、小児の五七の日に当る、仍て諷誦を修む、
十六日には三十五日目の法要。昔は七日ごとに全部やったんだね。
十九日、辛酉、扶公師来る、春日、山階寺等の祈願の事を語り付す、
廿日、壬戌、三品立ち寄らる、尾張守文信、景信、恒昌朝臣等来る、等身の如意輪、四天王の像を迎へ奉る、仏師蓮胤を以て顕し奉らしむるなり、
このあたりも娘の供養のためであろうか。等身は亡き娘と同じぐらいの大きさだと考えていいのかな。七月六日に、「等身の薬師仏」を作るという願を立てているので、それに続いて如意輪観音と四天王の像も作ることにしたわけである。
廿一日、癸亥、如意輪観音を今日慶円内供の叡山の房に移し奉る、来る廿四日より供養し奉るべし、今日叡増を以て長谷寺に奉らしむ、来る廿四日より七个日候ぜしむるべきなり、御明を奉る、兼ねて供養せしめ奉る、女子の祈願を申し乞はしむるなり、亡き児の遺愛に依り殊に祈り請ふ所なり、
昨日届いた如意輪観音は、比叡山の慶円の房に移して供養。叡増には長谷寺に行かせて御灯を奉らせている。どちらも廿四日から法事を行うのである。娘が祈願のために奉ったものだというけれども、実際に差配したのは実資であろう。
廿四日、丙寅、卯の二点に礒上奉忠を以て、薬師仏、如意輪観音、不動尊、金の毘沙門天を鋳せしめ奉る、毘沙門天の形大きく成り給はず、金多く不足す、本数は卅両、仍て其の形を改め、廿九日に鋳せしめ奉るべきの由、之を仰せて了んぬ、四体の料物廿五石は、前日給はしめ了んぬ、(中略)
今日より内供慶円を以て、山房に於いて三七个日を限り、新たに顕はる如意輪を供養せしめ奉る、又た平誉師を以て住所に於いて七日を限り如意輪を供養せしむ、叡増師は今日より七个日を限り長谷寺の観音を供養せしめ奉る、此の三箇處の祈願は、皆な是れ子息の祈願なり、
仏像の鋳造を行っているのも娘の菩提を弔うためであろうか。ただ、金の量が足りず毘沙門天の形が出来上がらなかったので、廿九日に改めて実行することにしている。
内供僧の慶円にできたばかりの如意輪観音を二十一日間供養させ、平誉にはその家で如意輪観音の供養を七日間やらせている。また叡増には、長谷寺の観音像を七日間供養させているが、これらの供養は子供たちの発願だという。養子の資平たちが、妹のために供養を願ったと解釈しておこう。
廿五日、丁卯、故有るの後今日初めて参内す、(中略)、余病を称して退出す、院に参る、やや久しく御前に候ず、黄昏退出す、
「故有るの後」というのは娘が病気になって以来ということだろう。久しぶりに参内しているのだが、「病を称して」と仮病を疑わせるような理由で早退している。
廿六、廿七日に関しては、特に娘の死とかかわるような記載はない。廿六日には本来西寺で行われていた国忌が東寺で行われ、廿七日には内裏で兼家の喪に服す形で、宴席を中止にするかどうかの話し合いをしている。雨が降り出して結論が出る前にみな退出しているようである。兼家が亡くなった直後で混乱が多少みられるようである。
廿八日、庚午、未の時許りより風威猛烈なり、就中く夜に入りて極めて猛し、晴□に及ぶ、(下略)
この日も実資の娘とは関係ないが、強風が吹き荒れている。前日の雨と合わせて台風の襲来だったのかと考えてみたくなる。
廿九日は本文には、娘関係の記事はないが、頭書に、「卯の二点に砂金を以て毘沙門天を鋳し奉らしむ」とあり、廿四日に失敗した金の毘沙門天の像が造られたようだ。
卅日も娘関係の記事としては、頭書に「小児の七々日に当る、仍て諷誦を修む」とあるだけだが、四十九日の法要が行われたことがわかる。
2月22日23時。
今日も飲んでしまって、書きかけの記事が書きあがらないので、昨日の分の続きでお茶を濁させてもらう。2月23日追記。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/5978255
この記事へのトラックバック