2017年02月19日
永観二年十一月の実資〈下〉(二月十六日)
廿一日から新嘗祭が始まる。新天皇即位後の最初の新嘗祭が大嘗会となることが多いが、今回は円融天皇の退位が八月末、花山天皇の即位の儀式が十一月に行われた関係で、大嘗祭は翌永観二年に行われることになる。大嘗会が行われるまえに、新天皇が新嘗祭に出御したれいは少ないということで、花山天皇も出御していない。その代りに恐らく五節の姫の滞在していたであろう常寧殿の辺りに出没している。この天皇、やはり問題ありである。
廿二日は、新嘗祭の二日目豊明節会である。それに加えて内裏の物忌でもある。この節会には諸国の国司などの地方官が在京しているときには、出席が認められたようなのだが、出席予定者の中に重い物忌に服している者がいて、結局事情を知らない外記のせいだということで決着している。
太政大臣の頼忠は、五節の舞が始まる前に所労があるということで退出しているが、雪が降りしきっていたようで、儀式は雨の際の方式で行われている。「前例を知らざるか」との批判が記されているが、具体的に何を批判しているのかはよくわからない。人は内弁の左大臣か、藤原惟成だろうけど。実資も体調が悪くて中座したようである。花山天皇が五節の舞を見たのか、五節が出てくる前に還御したとあるのがよくわからない。
廿三日には、頼忠のところに出向いている。河内国にある摂関家領の牧場である楠葉の牧が国司に襲撃されたらしい。この摂関家領は、九条流なり小野宮流などの資産ではなく、摂政・関白という役職に付随するものなので、現在は関白の頼忠のものとなっている。物忌のため奏聞は後日回しである。円融上皇の元に向かって候宿している。
廿四日は、円融院の許から、参内して前日に頼忠のところで話しに出た楠葉牧の件について奏聞。検非違使を派遣して調査するようにという指示が出されている。それから廿五日に行なわれる賀茂臨時祭の舞楽の練習を天皇にご覧に入れる試楽の儀式を、早い時間から始めろという指示が出て実資が担当の蔵人に伝えている。 花山天皇この手の儀式が大好きなようである。
廿五日には、前日の指令でか、試楽が未のときに始まっている。午後の早い時間の開始なのは、普段より早いのだろう。この手の儀式は夕方以降に行なわれるような印象がある。公卿の座席が足りなかったのは、出てきた公卿の数が予想以上に多かったということか。実資は明りが灯されるころには退出している。
廿六日は内裏で賀茂祭の左右の十列、つまり競馬のようなものが行われた。花山天皇は、今回は紫宸殿ではなく仁寿殿に出御している。儀式が終わって頼忠のところに向かい賀茂臨時際の舞人や陪従に贈る装束などについて処置している。
廿七日はいよいよ賀茂臨時際である。天皇は湯浴みをして禊をして祭の舞楽をご覧になるための座に出御する。例によってお酒を飲むための杯が回るのだが、出席する公卿の数がいつもより多くて座を準備するのに苦労しているようだ。公卿の出席率が悪いと嘆いていたのは、先月だったか。天元五年の七月だったか。とまれお祭の宴会のような場には、きっちり出てくるのが当時の公卿というものなのであろう。
駿河舞の間に雨が降り出し、その後も断続的に降ったりやんだりしたようだ。
いるが、舞が終わるころにはやんでおり大事にはなっていない。その後社頭、つまり賀茂神社に舞人たちが向かったと書かれるが、雨が降ったことだけで詳細は省略されている。内裏に戻ってきたのが、亥の二刻だから深夜である。待っている間に公卿たちは酒宴を始める。神楽などの儀式が終わって褒美を与えてすべてが終わるのは、丑の時である。
藤原斉信、源時叙、藤原宣孝の三人が馬を牽かなかったとして、花山天皇の怒りに触れている。その結果神楽を見物することを禁止されたようだ。この件は、この日だけでは解決せずにしばらくいろいろ言われることになる。花山天皇しつこいのである。
廿八日はまた内裏は物忌。頼忠邸での仏事に参入している。夜に入って自宅に戻っているが、伝聞で村上天皇の皇女である資子内親王が三条宮に戻ったとか、除目の誤りを訂正する直し物が行われたことが記される。ただし、伝えた人物については記載がない。
廿九日は小雨の中、内裏の物忌みではあるが実資は参上している。廿七日に馬を牽かなかった三人のうちの一人である藤原宣孝にその理由を問うているが特別な理由はなかったようだ。ただ物忌みであるので天皇への奏上はしていない。その後、円融上皇のものとに出向いて食事の陪膳を務めている。
2月17日23時。
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