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2017年02月18日

車酔い(二月十五日)



 昔、まだ学生のころ、古代史を勉強している連中と一緒に奈良史跡巡りをして、長屋王邸宅が発掘された場所にデパートが建っていて、その中に金で飾られた似非仏堂が設置され、長屋王邸宅跡地にちなんだなどと書かれていたのにみんなで憤ったことがある。憤りのあまり、その感情を似非長歌にして研究会の会報に掲載したのだった。微妙に内容を変えつつ説話もでっち上げたし、創建縁起も書いたかな。そのとき長歌を引用した歌集の名前として使ったのが『馬酔集』だった。
 これで、「まにゑふしふ」、つまり「まにようしゅう」と読ませ、読みから「まんにょうしゅう」=『万葉集』に掛け、字面から短歌雑誌の『馬酔木』に掛けたつもりだったのだけど、史学を勉強している連中には理解してもらえなかった。

 と、ここまで書いて、本日の話の枕にするには無理がありすぎることに気付いたのだが、乗物に酔うという話で、馬に酔うという意味ででっち上げた歌集の名前を思い出してしまったので書かずにはいられなかったのである。思い出すまですっかり忘れていたし、ここで書いておかなかったら、また十年ぐらい思い出すことはないだろうから。

 子供のころから車に酔うたちだった。実家から親戚の家まで行くたかだか一時間の間に、車酔いで吐き気が止まらなくなり、車の中や道路脇で吐いてしまったことなど、思い出すに枚挙に暇がない。自家中毒という子供の病気で入院させられたときには、入院先の県立病院まで車で運ばれる間に、嘔吐を繰り返し、消耗しきってしまい入院したという事実しか覚えていない。いやそれすら親たちに言われて植えつけられた記憶であるのかもしれない。
 大人になるにつれて、車酔いしにくくなり、普通に窓の外の景色を見ながら乗っていれば、酔うこともなくなった。しかし、うちのが車の免許を取り車を購入して、あちこち車で移動するようになると、車酔いを完全に克服したわけではないことが明らかになった。どちらも道を把握していなかったので地図を見ながらナビゲーションしていたら(カーナビなんてものはうちの車にはついていないし、つけたいとも思わない)、気持ち悪くなり始めたのだ。ときどき地図から目を離して、外の景色を見ることで吐き気を催すところまでは行かなかったのだけど、久しぶりに車に酔いかけて、ちょっとショックだった。

 不思議なことに子供のころ学校で遠足などに出かけるときに乗ったバスには、普通にしていれば酔わなかった。鉄道でも酔わなかったのだが、両者の違いは、鉄道の場合には、中で本を読んでも、友達とカードゲームをしても酔わなかったのに、バスの場合には読書もゲームも覿面酔いにつながったことだ。だから、移動時間を有効に利用するために、日本にいるときもバスを利用することはほとんどなかったし、チェコでもバスのほうが便利であっても電車を使ってきた。

 それが、昨年ブルノに出かけたときに、乗る予定の電車に間に合わず、次の電車を待つのも嫌だったし、当時ブルノの駅前を根城にしているホームレスたちの間で、肝炎が流行しているというニュースがあって長居したくなかったこともあって、駅近くのバス乗り場に行ってみたら、三十分後ぐらいにでるオロモウツ行きのバスに空席があると表示してあったので乗ってみた。
 鉄道のレギオジェットを走らせている会社ステューデントエージェンシーが運営している黄色いバスで、鉄道が一時間半以上かかるところを、オロモウツまで途中停車がないので、一時間で到着する。サービスは鉄道ほどではないけど悪くなく、お茶やコーヒーが出たり、新聞雑誌を配布していたり、座席の前のディスプレーで映画を見られたり、無料のワイファイが使えたりしていた。
 高々一時間の道中なので、そんな特別なサービスを使う気もなかったのだが、だめもとで本を読んでみた。気持ちが悪くなる兆しが見えたらすぐに読むのをやめて、窓の外の景色を見るつもりでいたのだが、自分でも驚いてしまうことに、何の問題もなく本を読み続けたままオロモウツに到着できてしまったのだった。

 次はノートパソコンを持ち込んで、仕事、ではなくて、このブログの与太記事を書いてみようと機会をうかがっていたら、今日ブルノの知人のところに出かける用事ができた。最初は確実に書ける鉄道にしようかと思っていたのだが、バスのほうが一時間半ほど遅い時間に出られることもあって、バスを使うことにした。帰りは行きの結果次第である。
 バスの中でコンピューターを使うのは無理だった。揺れがひどくて画面を見ていられないのと、頑張って見て書いていると車酔いの兆候が現れたのとで、出発して二十分ほどであきらめてコンピューターを終了させてしまった。本を読むのもつらいかなと思ったら、本はまったく問題なかった。うーん、帰りをどうしようと悩ましかった。

 結局、帰りもバスにしてバスに乗っている間は高々一時間なので本を読むことに費やし、コンピューターを使うのは知人のところでさせてもらうことにした。今現在、所用が終わって二時間ほど机の片隅を借りて、この原稿を書いているのである。最近サボっていた『小右記』の月ごとの記事もまとめて三日分に当てられそうなので(読む人はいなさそうだけど、これは自分のためのまとめなのである)、しばらくは自転車操業から逃れられそうである。
2月16日23時。


 ブルノに行ったのは十五日なので、『小右記』は後回しにして、十五日分はこの記事を投稿する。2月17日追記。

2017年02月17日

永観二年十一月の実資〈中〉(二月十四日)



 十一日は、参内して帰宅、院に参上して候宿である。この日は、特に話し手の名前を記さず、前日の駒引の間に起こった事件を伝聞で記している。紺衣を着た男が内裏内の日華門の辺りにいたので、検非違使に捕まえさせて紺衣を引き破らせたというのだが、事情はよくわからないようだ。

 十二日は、早朝に院を退出して、頼忠のところに向かっている。参内しなかったのは内裏の物忌だからだろうか。
 右近将監の播磨貞理が、前々日の紺衣の男の処罰について事情の説明をしに来ている。右中将の源時中の指示であったらしい。天皇の仰せと言われたからやったのに、今になって仰せじゃなかったといわれても困るというのが、貞理の言い分である。読んでいてよくわからなくなるのが、問題が紺衣の男が内裏内に出没したことなのか、紺衣の男を処罰したことなのかである。
 十三日は、実資の母の忌日で、実資の母方の曽祖父にあたる藤原道明が創建したといわれる道澄寺で法事が行なわれている。伝聞の形で畿内の十の神社に使が送られたことが語られる。伊勢へは斎宮選定の報告もあるようだが、他の神社と同じで天変怪異が原因での使も遣わしているようである。

 十四日は、まず藤原惟成から、右近将監播磨貞理と紺衣の男の件について召し問うことになったことを聞いている。播磨貞理としても災難としか言いようがない。
 この日も、また馬である。今回は上野国から献上されてきた馬の駒牽きの儀式である。花山天皇も紫宸殿に出御してご覧になっている。他の天皇の例は知らないが、花山天皇が馬関係の儀式に執着しているのはよくわかる。
 献上されてきた馬が廿疋と極めて少ないため馬を分け与えるべきかどうかという、上卿の左大臣源雅信の問いには、数が少なくても分けるものだと答えている。結局、参入する公卿の数が多かったために、殿上の侍臣たちまで全員分は回ってこなかったようだ。また途中で馬が次々に牽き分けられていくのを見ていた天皇の機嫌が悪くなったのか、牽くのをしばらく中断したような記述もある。細かいことは省くが、儀式の進行には例によって不備があったようで、実資は前例を知らないのかと批判している。
 夜が更けてから入内したばかりの為光の娘のところで、侍臣たちに酒がふるまわれているが、実資をはじめ数人の侍臣が参加していない。これは為光とその娘にたいする反感の表れと考えてもいいのだろうか。それとも徒歩で参入させるという急ぎ過ぎとしか思えないことをした天皇への批判か。実資は花山天皇の許でも蔵人頭を務めているが、この二人あまり相性がよさそうにない。

 十五日は内裏を出て、太政大臣頼忠のもとに向かう。円融天皇の中宮となった遵子の妹のィ子を入内させる件についてあれこれ定めている。このィ子も遵子と同じく子供には恵まれないまま天皇の出家とともに実家に戻っている。花山天皇が在位中に生まれた子供はいないので、他の女御たちも同じ運命ではあったのだが。

 十六日は雨が降る中、円融上皇の許に参上しようとしていたら、犬死の穢れがあるという連絡が来て中止。
 十七日には、頼忠のところを経て参内。内裏では、前日十六日の出来事を聞いている。まずは、右近将監の播磨貞理が十日の駒牽きの際にしでかしたことの審議で、命令を伝えたとされる源時中の話も聞いたようだ。その後改めて今日、時中と播磨貞理を呼び出して話を聞いている。最終的には明法博士の惟宗允亮まで出てきて、召し問いの作法を問うているのだが、どういう結論になったのかはわからない。
 また前日の話として、いろいろな役所である所の別当が決められている。実資は蔵人所に属する作物所の別当となっている。惟成を通してこれ意を申し上げている。その後夜になって退出し頼忠のところに向かって、娘の入内の話である。深更になって自宅に戻っている。

 十八日は火事である。侍従の厨倉が焼亡したというのだが、慌てて内裏に参上しても天皇はまだ知らなかった。実資の提言であちこちに知らせの使いを送ったようだ。
 その後退出して、摺袴を祭使を祭使の藤原長能のもとに送っているが、これは大原野祭の祭使であろうか。実資自身はいささかはばかることがあったらしく幣を奉ることもしていない。祓の儀式をしているから、はばかることは穢れであったのかもしれない。
 実資は夜になって再び参内している。五節の舞姫の参入であるが、この日は、藤原景舒の娘しか参入しなかったようだ。
 本来、毎月十八日には、清水寺に参詣しており、参詣できないときには、その旨を記しているのだが、今月に限っては、全く触れられていない。十二月には参詣しているから、今月だけの特例のようだ。書き忘れか、大原野祭と重なったことによる例外であろうか。

 十九日になって三人の五節の舞姫が参入している。常寧殿で五節の帳台の試と呼ばれる米のけいこを見る儀式が行われている。花山天皇は、物忌で諷誦を修していたというのに、密かに常寧殿にまで出かけてこの様子を見たようだ。周囲の反対を押し切って常寧殿に向かった天皇を実資は当然批判している。
 この日の条の最後に、十三日に決定した各地の神社への奉幣のための使が出発している。使いとなったのは、神祇官の官人たちである。

 廿日は早朝内裏を退出して、召されて頼忠のところに向かい、夜になって再度内裏に向かう。内裏では五節の舞を天皇が直接御覧になる儀式が行われる。亥の終わりに五節が参上しているから、深夜になって行われた儀式であるようだ。その様子は残念ながら欠落があるため読むことはできない。
2月15日23時。





2017年02月16日

永観二年十一月の実資〈上〉(二月十三日)



 最近サボっていたせいで異常に時間がかかってしまった。

 一日は、内裏から帰宅し夕方室町の邸宅に出かけている。頼忠からも呼び出しを受けているが、穢の恐れがあると言って、参上していない。この穢は前日の記事に出てきた院での犬の死による穢だろうか。そうなると、室町には出かけたのに、頼忠のところには出かけていないのが気になる。室町にいるのは、実資の姉に当たる人物、もしくは実の兄夫婦であることを考えると、家族ならいいけど、上司、ことに太政大臣のもとに出かけるのは軽い穢であっても駄目だということか。それに、賀茂神社に奉納する予定の幣帛も中止しているから、神社関係も、軽い穢であっても、疑いに過ぎなくても避けなければいけないということか。穢のルールというのは、相変わらずよくわからない。とまれ頼忠からは明日、おそらく穢が消えてから、夕方に来るようにとの指示が下る。
 人々が、除目が既に行なわれてしまったことに対して、代替わりの際の伊勢神宮に使える斎宮の選出が終わってからするべきで、早すぎると批判していることが語られる。わざわざ取り上げているということは、実資自身もこの意見に賛成していると考えてよさそうだ。
 よくわからないのが、最後の春日祭使に袴を送っていることで、袴を直接春日神社に奉納するわけではないこと、実資と神社の間に祭使が入ること、春日祭自体が翌日に行われること、などの理由で、実資の穢が春日大社には及ばないと判断したのだろうが、以上のどれが正しい解釈なのかはわからない。

 二日は、まず円融上皇に穢の疑いがあることが記される。時々降る雨の中鴨川の河原に出て禊をしているので、疑いとは言うもののほぼ確実で、かなり重い穢だったのではなかろうか。前日の指示通り頼忠の許に向かって、夜になってから円融上皇のところに向かって候宿である。
 この日は春日祭が行われているが、夜に入って雷雨になっている。ことさらこの日に雷が鳴るのには何か理由があるに違いないと考えているあたり、時代を感じるべきなのか。円融上皇は平野祭、春日祭に祭使を贈るのを中止しているが、これは禊の必要があったからのようである。実資は春の祭から祭使を送ればいいだろうとコメントしている。そうすると、この日最初の禊は、実資がやった禊なのかもしれない。

 三日は、まず参内する。夜に入って賀茂臨時祭の舞楽の予行演習である調楽が行なわれている。石灰壇で火がたかれたのは賀茂社に対する遥拝の意味があるのだろうか。神楽まで行なわれて深夜まで続いている。このあたりは花山天皇の好みかな。
 四日は、内裏から退出したと思ったら、また召しだされて慌てて戻っている。この日は、武蔵国の牧から馬が献上されてくるので、その駒引と、ついでに賀茂臨時祭に際して行われる競馬のような儀式である十列を、紫宸殿に出御して見たいという天皇の仰せに、実資は、前例は有るけれども、今日は伊勢の斎宮を決める日なので、天皇が紫宸殿に出御するのはよろしくないと答えている。その結果、天皇は出御をあきらめて明日にすることにしている。ただ十列などの馬関係の儀式も明日に延期するのを忘れないあたり、花山天皇は馬好きだったのかと思わされる。

 五日は、朝雨が降ったものの、前日予定されていた馬関係の行事が天皇が紫宸殿に出御した上で実施されている。儀式の様子が細かく記されているが、ところどころおかしなところが散見されたようだ。気になるのは、参入するべき藤原正光が、「忽ち胸病を煩」ったという理由で取りやめていることで、これは十月廿日の甲斐国の馬の駒引の際に、藤原実正が申し立てた理由と同じである。もう一つは、おそらく天皇の言葉で、「今日思失して」云々というのがあることだ。花山天皇反省という言葉を知っていたのねなどと不敬なことを考えてしまった。
 民部大輔の藤原惟成の話で、四日の斎宮選定のことが記される。選ばれたのは弾正尹章明親王の娘済子女王である。この斎宮はいろいろと問題が起こった結果、花山天皇の退位と共に伊勢に下向することなく斎宮の地位を退いている。

 六日は上皇の許に出向いてから参内。伝聞で、前夜に管絃の宴が行われたことが記される。賀茂の臨時祭の調楽も繰り返されるし、花山天皇の好みなのかね。イメージに合っているのは確かだけど。
 七日は、内裏を退出して戻らなかったためか、内裏で行われたことがすべて伝聞の形で記される。先日入内した大納言藤原為光の娘が女御になったこと。藤原氏の公卿たちがお祝いを申し上げに射場殿に向かったこと。雨が降り続くので、占いをさせたら、結果が「災」とでたこと。もう何度目かの賀茂の臨時祭のリハーサルが行われたこと。それが暁方まで続いたことなどである。
 八日は、頼忠邸、室町、それから内裏と移動している。大切なのは、太政大臣藤原頼忠が、始祖鎌足の墓所のある多武峰が鳴動なった占いの結果を奏上していることである。この辺りにも花山天皇の危うい将来を見てしまうのは、その後の事情を知っているからだろうか。

 九日は、また雨の中、馬である。
 十日は、内裏から退出して上皇の許に向かう。その後に伝聞で、駒引のことが書かれているのは、十一日の記述から見ると、結局九日ではなく十日に行われたということのようだ。とまれ、右大臣の藤原兼家が何か画策したような書き振りである。

続く。


2月14日22時。



 ちゃんと内容を知りたい方はこちらをどうぞ。2月15日追記。

>小右記(1) [ 藤原実資 ]



2017年02月15日

デビスカップとフェドカップ(二月十二日)



 デビスカップのチェコ代表は、全豪オープンが終わった翌週に、オーストラリアでワールドグループの一回戦を戦った。タイトなシーズン最初のグランドスラムが終わった直後、しかも一回戦ということで、今回もベルディフはお休みで、昨年から絶不調で世界ランキングでも100位以下に落ちてしまったロソルも辞退したようだ。ロソルは私生活の問題もあってスキャンダル誌のねたになっていたからなあ。
 ということで、キャプテンのナブラーティルが招集したのが超ベテランで最近怪我勝ちのシュテパーネクと、期待の星と呼ばれて久しい左利きのベセリー、それに確か初選出のシャートラルとコラーシュの四人。ランキングの一番高いベセリーがエース格ということになるのだろうけど、この選手、かつてのロソルと同じでデビスカップで勝てないんだよなあ。

 なんてことを考えていたら案の定、金曜日の相手の二番手との試合にあっさり負けてしまった。二番手のシャートラルが、オーストラリアのエースに歯が立つわけもなく、金曜日の時点で二敗、土曜日のダブルスで負けたら敗退決定という状態に追い込まれた。それに追い討ちをかけるように、ベテランでダブルス、特にデビスカップのダブルスで無類の強さを発揮してきたシュテパーネクが、怪我を再発させて欠場が決定。踏んだり蹴ったりとはこのことである。
 当然、ベセリーとシャートラルで臨んだ試合にはあっさり負けてしまった。結局三試合で一セットも取れないまま敗退が決まるという残念な結果に終わった。日曜日の敗退が決まった後の試合でベセリーが勝ったけれども、初出場のシャートラルならともかく、あまり意味のない勝利だった。

 やはり、デビスカップのチェコ代表は、ベルディフとシュテパーネクの二人がそろっていないと駄目なのだ。とはいえ、二人ともいつまでも第一線で活躍できるわけはないし成績も落ち気味だから、チェコがデビスカップで優勝するのは当分先のことになりそうだ。幸い来年のワールドグループ参戦をかけたプレーオフには、ベルディフも出場を約束しているということなので、下に落ちることはないだろうと信じたい。

 そして今週末に行なわれたフェドカップであるが、こちらは現時点で最高のメンバーが集まった。世界ランキングで三位まで上がったプリーシュコバー、三十位ぐらいが定位置だったのがいつの間にか十位台半ばまで上がってきているベテランのストリーツォバー、シングルスでは不調が続いているけどダブルスでは好調のシャファージョバー、そして初選出のシニアコバーである。左手の負傷で欠場中のクビトバーは、もちろん出場できないが選手たちとファンに向けてビデオメッセージを送ったらしい。
 会場は縁起のいいオストラバ。テニスの町というとプロスチェヨフなのだが、多くの観客を集められる会場のことを考えると、プラハ、ブルノ、オストラバの三箇所ということになる。その中でも、フェドカップ、デビスカップが行われることが多いのがオストラバで、オストラバでの試合はほとんど負けていないというのも理由の一つになっているはずである。チェコ鉄道と組んでペンドリーノでテニスを見に行こうなんてキャンペーンもやってたかな。とまれ、会場がオストラバで、これだけのメンバーが集まったことで、相手がどこの国であれ負けることはあるまいと、ほぼ確信した。

 土曜日の初戦では、ストリーツォバーが、スペインのナンバー1の選手から一セット取ったものの負けてしまった。全体的な印象はそんなに悪くなかったのだけど、サーブの調子が上がらなかったのが最大の敗因だったようだ。比較的サーブがよかった第二セットだけ勝って、第一と第三はあっさり失ってしまった。この時点で、最悪シングルスが終わった時点で2対2、ダブルスで勝敗を決することになるかと考えた。
 第二試合では、チェコの一番手プリーシュコバーが、スペインの二番手の選手を、第二セットの最後ちょっとてこずったけれども、それ以外は問題なく圧勝した。本当に頼れる大黒柱に成長したなあと、ここ数年中継があるたびに見てしまっている人間は感動してしまった。

 二日目の試合は、シングルスは二試合とも、チェコのプリーシュコバーとストリーツォバーが二セット連取で勝って、二回戦進出決定である。結果が決まった後のダブルスには、一昨年までの二枚看板の一人シャファージョバーと、今後の戦力として期待される初出場のシニアコバーが登場したのだが、結局スーパータイブレークというよくわからない第三セットで負けてしまった。
 チェコのファンとしては、復帰のシャファージョバーが笑顔で楽しそうにプレーしているだけで、もう大満足で、シニアコバーも将来フェドカップのチェコ代表に定着しそうな期待を抱かせてくれたし、勝ち負けなどどうでもよかった。

 この週末の試合を見て、今年もチェコが優勝しそうなそんな予感を抱いてしまった。それだけでなく、これから先最低でも数年は、フェドカップで、毎年チェコが優勝とはいかないだろうけど、チェコを中心に回って行きそうである。男子と違って有力な若手が次々に登場し、フェドカップの試合を経験することで確実に成長していくという好循環が起こっている。パーラいい仕事してるわ。

 テニスというスポーツ自体は、そんなに好きというわけではないのだけど、国代表がチームとして戦うデビスカップと、フェドカップはついつい見て応援してしまう。この辺は団体スポーツ好きの日本人ゆえかもしれないが、応援するのは、日本代表ではなく、チェコ代表なのである。
2月13日23時。



2017年02月14日

トロウプキ(二月十一日)



 この人口二千人ほどの村は、ストゥデーンカが鉄道事故の象徴となっているのと同様の意味で、モラビアにおける洪水の象徴となってしまっている。1997年にモラビアを襲った大洪水で壊滅的な被害を受けたのだ。
 地理的な説明をすると、モラビア東部のベスキディ山地に源を発するベチバ川が西流してフラニツェ、リプニークなどを経て、プシェロフを越え南西に向きを変えてモラバ川に合流する地点の少し手前にある村である。ベチバ川とモラバ川を挟んだ反対側にあるトバチョフとの間には、いくつかの大きな池があって魚の養殖が行なわれているようだ。池のうちのひとつはトロウプキの名前がついているが、トバチョフの領域内にあるようである。

 洪水が起こったのは1997年の七月、ベチバ川からあふれ出した濁流に飲み込まれた村では、150軒の家が完全に倒壊し、九人の犠牲者を出したという。人口二千人の村で、150軒という数字はかなり大きいし、村全体が水没し避難し損なって自宅の二階や屋根に取り残された人々の救助は船で行なわれたようだから、被害を受けなかった建物など一軒もなかったに違いない。
 犠牲者が比較的少なかったのは、平地で、がけ崩れなどが起こらなかったことと、川の流れが比較的緩やかな地点での洪水だったことのおかげであろう。逆に言えば、平地だからこそ川と村の間をさえぎるものがなく、水が押し寄せるのが早かったとも言えるかもしれない。少なくとも日本の河川のような整備をされていれば、いやせめて堤防だけでもあれば被害はかなり小さくなっていたはずである。

 このときの洪水は、フラニツェなどのベチバ川沿いの町にも爪あとを残しているが、オロモウツでも小さな丘に建てられた旧市街が島のようになったという話があるぐらいなので、モラバ川本流域でも大きな被害を出している。チェコでの洪水というと、プラハに大きな被害を出した2002年のブルタバ川、ラベ川を中心とするボヘミア地方の洪水が喧伝されるのだが、この1997年のモラビア地方での洪水の方が、開けた平野部での洪水だっただけに、洪水の規模も被害を受けた範囲も大きかったのではないかと思う。この辺りにも、プラハ中心主義がたくまずも表れていると考えてしまうのは、わがモラビアびいきが故であろうか。

 とまれ、この水害の後、モラビア各地では、ゆっくりとゆっくりとではあるが、河川の洪水対策が進められたようだ。オロモウツでも、モラバ川の郊外の住宅地の間を流れる部分は川床の整備がなされ、両岸に堤防と呼んでもいいものが出現している部分もある。堤防がいつごろ出現したのかは知らないが、川床の工事は2000年代に入ってからなので、1997年の洪水を踏まえての洪水対策だと考えていいだろう。
 しかし、1997年の洪水で最大の被害を受けたトロウプキに関しては、なぜか洪水対策が計画通りに進まなかったらしい。当初の予定では村とベチバ川の間に堤防を築いて、川から水があふれたとしても、まず対岸の畑、もしくは村の周囲の畑に流れ込むようにするはずだったようだが、用地買収が進まず、河川を管理する会社も建設を始めることができなったようだ。

 そんな状態が十年も続いたころ、トロウプキは再び洪水に襲われることになる。今度は2010年五月の出来事で、幸いなことに洪水の規模が小さかったことと、村の人々にかつての経験が合ったのとで、犠牲者は出なかったようだが、村は再び水に覆われた。
 このときのニュースで印象的だったのが、1997年の洪水で家を失って、やっと再建できたという人が、どうしてまたと、泣き崩れるように嘆いていた姿だ。一度水害に襲われた地区では、保険会社が災害保険をかけることを拒否することがある。拒否しなくても保険料が、他の地域に比べて大幅に高額になる。保険会社も営利企業だから仕方のない面はあるのだろうけど。
 この時点で、ベチバ川と村を遮る堤防ができていれば、結果はまた違ったのだろう。しかし現実は土地の所有権というものに阻まれて建設できていなかったというわけだ。プラハからフラデツ・クラーロベーの方に向かう高速道路D11が、建設予定地の地主が売却を拒否していたために、長らく建設できなかったという事例もあるように、共産主義による土地の強制的国有化を経験しているだけに、こういうところで慎重になる面があるようだ。それを利用して金儲けというやからも当然いるわけだろうけどさ。

 今年の大雪と凍りついた川が、トロウプキに洪水をもたらさないことを願っておこう。過去二回の大洪水は雪解け期のものではないので大丈夫だろう。さすがに堤防も設置されただろうし。されてないなんてことはないよね。洪水が起こらない限りニュースにはならないので、確かめるすべはないのであった。
2月12日23時。





posted by olomoučan at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2017年02月13日

氷れる川と洪水の関係(二月十日)



 チェコに来て最初に体験した洪水は、夏の洪水だった。あれは確かオロモウツでチェコ語の勉強を始めて一年たった後の夏休みだから、三回目のサマースクールに通っていた頃の話である。チェコ全土で激しい雨が、日本の梅雨の豪雨や、台風の雨に慣らされた目で見るとそれほどひどい雨でも、長期的に降り続いたわけでもないけど、降り続き、特に南ボヘミアの山岳地帯の雨が激しく、つまりはブルタバ川上流に大量の水が流れ込むことになった。
 ブルタバ川上流には、カスケードと呼ばれるぐらいにダムがいくつも造られていて、水量調整の役割を担っているはずだったのだが、あまり役に立っておらず、プラハを初めとして、ブルタバ川流域の街は大洪水に襲われて大きな被害を出したのだった。このときチェコ語には百年に一度の洪水などという奇妙な言い方があることを知った。
 これは、その後も、洪水だけでなく大雨なんかでも、十年に一度、五十年に一度などという形で何度も聞かされることになるのだが、統計的にこの規模の洪水は百年に一回の割合で起こっているというようなものではない。適当にというわけではないのだろうが、基準となる規模をいくつか設定して、それに十年に一度レベル、二十年に一度レベルというように名前を付けていったもののようだ。だから、十年に一度のレベルの大雨が二年連続で降ったり、十年に一度の洪水の何年か後に五十年に一度の洪水が起こったりして、聞くものを混乱に陥れるのである。

 それはともかく、この年の洪水を、直接の被害は受けなかったとはいえ、体験して思ったのは、日本という多雨の国の洪水に対する強さである。大雨で河川の水量が急激に増減することが前提となっているため、普段の水流よりもはるかに大量の水が押し寄せても洪水は滅多に起こらない。河原、河川敷、堤防というチェコでは見かけないもののおかげである。
 チェコでは夏の大雨、洪水はあまり想定していないため、水の安定供給を重視して強い雨が降り出してもなかなかダムの放水量を増やさないという面もあるかもしれない。ぎりぎりになってダムの崩壊を恐れて放水量を急激に増やした結果、川が許容できる水量を超えていたという可能性もありそうだ。大雨が想定されるときにどの時点で放水を始めるかなんてのは、雨の少ないチェコにはデータも少ないだろうし。

 では、冬の洪水、チェコに来るまでは知らなかった冬の洪水の場合にはというと、洪水が起こる原因は二つある。一つは上流の山地に積もった雪で、雪解けの水が大量に川に流れ込むことによって洪水が発生することがある。これは特に春になって急激に気温が上がったときに一気に雪が解けることで発生することが多く、気温がゆっくり上昇して雪解けもゆっくり進む場合には、ダムの水量調整で対応できているようだ。毎年のことでデータも十分以上にあるだろうし。
 今年は、近年では雪が多いため、ダムの中には雪解けの洪水対策として、すでに放流を開始したところがある。ブルノの郊外にあるダムは、リプノと同じようにブルノ市民がスケートをしにやってくる場所となっているのだが、すでに貯水量を減らすために大量の放水を始めている。氷の下の水面を一メートルほど下げるのが現時点での目標だという。
 この放流の結果、氷の下には空洞ができることになる。その分氷は割れやすくなるし、割れた後の対応も難しくなるからスケートはやめたほうが無難だと思うのだが、氷はまだ十分に厚いから大丈夫とか言って、スケートとスリルを楽しんでいる人たちはいるのだろうなあ。自動車で氷上を走る人は、いかにチェコでもいないと信じたい。

 もう一つの春の洪水の原因は、凍結した川である。気温が上がって氷が融け始め、融けて水になった分だけ下流に流れていけば問題はないのだが、大抵は完全に融けきる前に、氷の塊が流れ出す。流れていく先が、ダムだったり、橋も何もなく海まで一直線だった問題ないのだろうが、往々にして橋や、川のいまだ氷りついている部分に突き当たって、それ以上流れていけない状態になる。
 特に小さな川の場合には水面と橋の間にあまり大きな空間がなく、次々に流れてくる氷の塊が橋の下の空間に詰まって栓をするような形になる。行き場をなくした水が端の両側からあふれ出して洪水になるのである。ひどいときには橋そのものにまで被害が及び、橋が流されたり(これも下流での洪水の原因となる)、使用不能になったりすることもあるようだ。対策としては氷の詰まり始めた橋のところに重機を持ち込んで、ショベルカーか何かで氷の塊を引き上げて、邪魔にならないところに移動させるぐらいしかない。
 もちろん川が凍りつかなければ、こんな洪水は起こらないので、最近はあまり起こっていない。ただ、今年は久しぶりの厳しい寒さで凍結した川も、高地を中心に多いだろうから、こちらの洪水はどこかで起こるに違いない。被害が少なければいいのだけど。

 そして今年は積雪量も多いだけに、気温の急上昇による洪水も懸念される。オロモウツ近郊で前回起こった洪水も、確か気温の急上昇による雪解け水の増加をダムが受け入れきれなかったことが原因だった。幸いなことに1997年の夏の大雨による洪水に比べれば規模は小さく、被害も少なかったのだけど、チェルノビール地区なんかでは家屋の浸水も起こったのではなかったか。
 このときのことで一番強烈に覚えているのは、市が用意した住民の避難用のバスに乗って洪水が起こりそうになっている地区に出かけていく人たちがいたことだ。さんざん批判されていたから、今年は洪水が起こりそうになってもそんなことは起こらない、いや洪水は起こらないと信じておこう。冬の冷たい空の下、氷交じりの冷水が川からあふれ出すなんてのは想像しただけでも、耐えられそうにない。冬来たれども、春未だ遠しである。
2月10日23時。




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2017年02月12日

氷れる川2(二月九日)



 チェコで一番大きいと言われる湖は、ブルタバ川最上流のダム湖リプノである。オーストリアとの国境近く、シュマバの山の中にあるので気温が平地より低いのか、冬になると凍結することが多い。水流がないのも氷りやすさにつながっているのだろう。
 今年のような寒さが厳しい冬には、氷の厚さが何十センチにも到達し、湖面に十キロ以上にわたる幅は6〜8メートルのスケートコースが整備される。これは、カナダにある約八キロのコースを抜いて、世界一長いスケートのコースだという。スピードスケートの国内選手権を池の氷の上でやっていた国なので、野外のスケート場を整備するのはお手の物なのだろう。
 もちろん、安全には注意を払っているようで、毎日氷の厚さを計測し、氷の状態を確認し問題があるときには、部分的に、場合によっては全面通行止めにすることもあるという。気温が上がって氷が緩むと、氷の厚さが薄くなるのはもちろん、氷の表面が荒れやすくなり転倒などの危険性も高くなるので安全のために進入を禁止するらしい。もちろんそんなのは無視して、勝手にコースに入ってしまうやからはいるわけだけど。

 ニュースでは、そんな連中だけのためというわけでもないのだろうが、氷が割れてしまった場合の対策についても報道されていた。水の中に落ちそうになったら、両手に持っている赤い棒の先のスパイクを凍りに突き立てて、体が沈まないように支点を確保すること、そして可能であれば、腕力を生かして水の中から這い上がること、とにかく全身が水に落ちないようにすることが大切なのだという。かつて北太平洋でのサケマス漁船を取材したドキュメントで、海に落ちたら二、三秒で気絶するから助かる見込みはないなんてことを言っていたけれども、海と湖の違いはあれ、似たような状況なのかもしれない。
 リプノの湖上でスケートをしている人たちがみな、足下の氷が割れて水に落ちそうになったときの対策をしているとは思えない。だが、スケートは、整備されたコースで、氷の厚さを測るなど管理している人がいるから、まだしも安全なのである。警察なんかの監視の人もいるようだし。

 危険なのは、氷りついた湖を車で移動する際のショートカットコースとして使うことである。普段は湖の周囲を迂回して対岸に向かわなければならないところを、直線で最短距離で移動できるのは理解できる。理解できるけれども、自動車という人間とは比べ物にならないほどの重量のあるものでどのぐらい厚さがあるのかもわからない氷の上を走る人の気が知れない。実際、毎年のように、リプノとは限らないが、氷った川や湖の上をショートカットしようとして、氷が割れて車ごと水没してしまうという事故が起こっている。痛ましい事故と言うべきなのだろうが、自業自得だといいたくなる気持ちも抑えられない。そこまでして急ぐ必要があるのだろうか。
 いや、この手の事故は、毎年のように起こっていたというのが正しい。最近は、暖冬の影響で河川や湖沼が完全に凍結する機会が減り、車で氷の上を走れる、走れそうな機会も減っていたのか、この手のニュースを耳にする機械も減っていたような気がする。さすがに人がスケートできるかどうかも分からないような状態の氷の上は走る気にはならなかったのだろう。

 二月にスウェーデンで行われる世界ラリー選手権の一戦であるスウェーデンラリーでは、名物の一つが凍結した湖上でのスペシャル・ステージだというのを、小説だったか、マンガだったかで読んだ。ある年、スウェーデンラリーが中止になった原因が、暖冬でコースに予定していた湖の氷の厚さが車両を走らせるには足りなったというものではなかったか。雪の不足も原因だったかもしれない。とにかく、雪と氷のないのはスウェーデンラリーではないということなのだろう。氷上のステージが今でも開催されているのかどうかは知らないが、寒さの厳しい今年はスウェーデンなら問題なさそうだ。ずっと南にあるチェコでも、走っている人がいるのだから。
 平野部で標高も低いオロモウツでは、川の上を車で走るのは見たことがない。見たことがないからないというわけでもないが、実行した人がいたらニュースにはなるはずである。今後もそんな車が走れるぐらいまで厚い氷が張ってしまう冬などオロモウツには来ないように願って、中途半端になってしまったこの稿を終らせることにする。
2月10日15時。



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2017年02月11日

氷れる川1(二月八日)



 チェコに来た頃から、冬は嫌いだ、寒いのは嫌だと喚き散らしているのだが、チェコに来て一年目の冬を前に、口には出さなかったけれども心の中で密かに楽しみにしていたことが一つだけある。それは、凍結した川の上を歩いて渡ることである。師匠がチェコ語の授業中に、毎年モラバ川が凍結したら、川の上でスケートをする人たちが出てくるんだよなんて言っていたのを聞いて、スケートができるんなら歩いて渡ることもできるに違いないと、思っていたのだ。

 チェコに来て一年目は、すでに九月上旬には、早朝に吐く息が白くなり、下旬には雪がちらちらするという、近年の冬に比べるとはるかに厳しい冬だった。今年の冬と比べると、最低気温では今年のほうが低いけれども、平均すると同じぐらいで、寒い期間の長さは今年よりも長かっただろうか。すでに、年末には雪が積もり、モラバ川も凍結を始めていた。
 最初にスケートをする人の姿を見たのは、支流のビストジツェ川だったと思う。流れが細い分、凍結するのも早く、氷の上に積もった雪をトンボみたいなので押しのけて、氷の面が露出するようにして、子供たちにスケートをさせていた。細い川なので、細長い小さいスペースだったけれども、楽しそうにしていて、川に降りていって歩いて渡りたいという気持ちを抑えるのが大変だった。スケートをしたいとはかけらも思わなかったけど。

 もちろん、記念すべき最初の一歩は、大河(と言っておこう)モラバ川の上に印したいと思っていたので我慢して待つことにした。モラバ川のほうでも、何日か遅れでスケートをする人たちの姿が見られるようになり、こちらは、広い場所が取れるので、アイスホッケーをしている人たちもいた。そんな人のいるところで、人のいる時間帯に、川を喜々として歩いて渡るなんてことはしたくなかったので、人気の少なかった週末のある日、周囲に誰もいないことを確認して、川岸から第一歩を踏み出したのだった。
 選んだ場所は、当時住んでいた寮のから川岸に出て下流にちょっと行ったところにある橋の下である。河川敷や河原のないチェコの川では、一番歩いて水面に出やすかったこと、橋げたがある分川の幅が狭くなっているような気がしたこと、そして橋の上を行く人の視界に入らないことを意識しての選択だった。
 ゆっくりと、恐る恐る足をおろしたが、氷は意外と強固でまったく揺るぎもしなかった。スケートすらしたことがないので、氷の上に立つのは文字通り初めてのことで、ぱりぱりと割れる音がしたりしたらどうしようかなどと考えていたのだが、気温がプラスにならない日が何日も続いた後の氷はぶ厚かったようで、すべては杞憂に終わった。
 ただ、氷の上を歩くのは、氷結した道路を歩くのと同じで、つるつる滑って歩きにくいこと、この上なかった。無事に対岸までたどり着いたときには、心の底からほっとしたし、こんな経験は一度で十分だと思ったのだった。もちろん、誰にも見られていないことを確認するために周囲を見回すのも忘れなかった。道行く知らない人には見られたかもしれないが、知り合いには見られなかったからいいのだ。

 その後、うちのの実家で犬の散歩に、氷りついた泥炭採取場の跡地の池に出かけたこともある。ここも氷が張るとスケートをする人たちが集まるところなのだが、邪魔にならないところに犬を連れて入ったら、犬も氷の上で滑って踏ん張りがきかなくて、なかなかまともに歩けていなかった。人間も同じような状態だったので、対岸まで歩いて渡るなんて暴挙には踏み出せず早々に退散したのだった。
 この二件が、我が氷の上体験なのだが、冬になると川の上でスケートをする人たちがいるなんてのは、最近の暖冬で見かけなくなっていたこともあって、すっかり忘れていた。テレビのニュースで氷りついたダム湖でスケートをする人たちを見て思い出した次第である。

 思い返せば、数年前にクリスマスマーケットの娯楽の一環として、ドルニー広場で仮設のスケート場が開設されるようになったのだが、今年は例年に比べて目立たなかったような気がする。これも今年の冬が寒くてモラバ川が凍結してそこでスケートをする人たちが多くて、わざわざ街中まで出てくる必要がなかったからじゃないかと書きかけて、去年の12月の時点で、モラバ川が凍結していたかどうか確認していないことに気が付いた。寒かったし、雪も降ったのは確かだけど、気温が上がる時期もあったからスケートができるほどには凍結していなか。
 今日、久しぶりにムリーンスキー・ポトクという小川のそばを歩いたら、完全に凍結している部分と、氷がなく普通に水が流れている部分とに分かれていた。小さな小川でこれだということは、大河モラバは完全には凍結しなかったかなあ。気温がプラスになる日がたまにあるのがいけないのだろう。ということは、寒い寒いと言っている今年の冬は、初めてのチェコの冬よりは暖かいのか。うーん、いい時代になったもんだというべきなのだろうか。その前に、モラバが凍っているかどうか確認してこなきゃ。最近冬の出不精でモラバを見ていないのだ。
2月9日18時。


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2017年02月10日

光化学スモッグ(二月七日)



 昨日の分では、本来、チェコのスモッグから、かつて日本で大問題になっていた光化学スモッグに話を移して、光瀬龍のSF小説に話をつなげる予定だったのだけど、話が全くつながらなかったので、分割することにした。チェコの現在のスモッグは、どうも光化学スモッグではなくて、ただのスモッグのようだし。その区別がどうたらこうたらということはよくわからないのだけどね。

 80年代には、当時読んでいた科学雑誌のおかげでいっぱしの環境論者のつもりでいた人間にとって、スモッグといえば光化学スモッグで、太陽の光が当たることによって反応が起こり人間に有害な物質が生成されるというのは、ある意味常識だった。ただ、九州の田舎では、光化学スモッグがどんなものなのか実体験する機会はなかったし、東京に出てからも公害対策が進んでいたこともあって、光化学スモッグにさらされるということはなかったと思う。
 東京の空気は汚いと思いはしても慣れてしまうものだし、せいぜい、東京湾や鎌倉の海辺に出かけたときに、東京出身の人たちが潮の香とか言っている悪臭に吐き気を押さえるのが大変だったぐらいである。九州の海で育った人間には、東京近辺の悪臭を放つ海に入るのは無理だった。あんな海で泳いだら病気になると思うんだけど、気にならないのかなあ。

 大気汚染のせいかもしれないと思ったのは、毎年苦しめられていた花粉症の症状がひどくなったことである。東京に出るころには春の杉の花粉症が一番つらかったが、80年代の半ばに、最初に症状が出たときは、春ではなくて秋の花粉症だった。近くの河川敷などの生えていたブタクサの花粉が原因だったようで、それが外来植物であることを知ったあたりから、この手の環境問題に興味を持ちだしたはずである。
 そして、ドイツなどのヨーロッパでは、酸性雨といういわば硫酸の雨が降ることで森林破壊が進み、河川や湖などの酸性化が進み、魚の住める環境ではなくなっているなんて話を読んだのだった。「NOX」とか、わけの分からないままに使っていたのもこの頃である。ただ、こんなことに興味を持っていながら、カーソンの画期的作品である『沈黙の春』の存在は知らなかったのだから、田舎で手に入る情報というのは、限定的で偏っているのである。それも大学は東京に行くぞと決意した理由の一つだった。
 東京に出てよかったと思うことの一つに、本が探しやすくなったというのがある。新刊本屋でも、古書店でも品ぞろえが桁違いで、田舎に住んでいたら存在すら知らないままに、もしくは存在は知っていても入手するすべもないままに終わったであろう本を大量に手に入れることができた。東京に出ていなかったら、ここまで活字中毒者にはなっていなかっただろうと考えると、どっちがよかったのかねと思わなくもないのだが、自分にとって素晴らしい作品に出合えたときの感動は何事にも代えがたいものがある。

 作品名は思い出せないのだが、光瀬龍のジュブナイルで学校全体で乾布摩擦をする場面が出てきて、主人公がこんなことをしても光化学スモッグに負けない体になれるとは思えないなんて述懐するシーンがあったのを思い出す。次々に同級生が光化学スモッグのせいで病気になって学校に出てこなくなる中で、肺を鍛えるためと称して学校で乾布摩擦をしているという文脈だっただろうか。
 九州の田舎の学校でも乾布摩擦をさせられたことはある。あれは健康のためという話ではあったけれども、乾布摩擦が健康とどうつながるのかいまいちわからないままにやっていた。光化学スモッグ対策だったとは、光瀬龍の作品を読むまでは思いもしなかった。
 他にも大気汚染で普通に呼吸することができなくなったために、酸素が配給制になっている社会というのも出てきた。ドーム都市なんてのも、ドームの内部だけは空気を清浄に維持するためだっただろうか。いやこの辺は宇宙に進出した人類の姿だったかもしれない。光瀬龍の小説は濃密なイメージが作品から切り離されて記憶に残っているため、どの作品のどの場面にどんな文脈で登場してきたのか思い出せないことがままある。

 近年、中国で排出された有害物質が偏西風に乗って日本に到達し、光化学スモッグが発生することがあるらしい。迷惑この上ない国である。日本は東の果てにあるおかげで他国に迷惑をかけずに済んだだけと言えばその通りなのだけど。

 さて、この話で光瀬龍に無理やりつなげてしまったのには理由がある。一昨日記念すべきコメント第一号を頂き、それが半年ほど前に光瀬龍について書いた記事へのコメントだったのだ。管理ページでコメントがあるという表示は、これまでもなくはなかったのだが、英語の意味不明のものだったり、宣伝のために自動で記入されるようなものだったりで、承認などせずに抹消してしまっていた。
 初めてのちゃんとしたコメントは、当然承認して、返事をしようと思ったのだけど、管理ページからどうやってやればいいのか全くわからない。ブログの記事の下のコメント蘭から書くしかないのだろうか。よくわからないので、光瀬龍の記事にいただいたコメントへのお礼の意味もこめて、光瀬龍についても書いてみたけどちょっと強引過ぎたか。ま、何事も修行の一つということで。
2月8日13時。




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2017年02月09日

スモッグ(二月六日)



 咳がとまらない。いや四六時中咳をしているわけではないのだが、何かのきっかけで一度咳が出始めるとしばらく止まらなくなってしまう。年末にこじらせた風邪が長引いているのかとも思ったが、咳とその影響でときに鼻水が出る以外は特に問題はない。ちょっとお腹の調子を壊したこともあるけど、あれは早起きが続きすぎたのが原因だと思う。

 テレビのニュースを見ていて、原因らしきものに思い当たった。スモッグである。例年だとオストラバ周辺の地域が圧倒的に状況がひどく、それに次ぐのがプラハ(偏見入りかも)なのだけど、今年は、全国的にスモッグが広がる日が多く、その中でもなぜかオロモウツ地方が最悪の状況にあることが多くなっている。
 チェコではスモッグ状態になりやすいのは、冷たい空気が地表に滞留する冬である。実際、朝起きて換気のために窓を開けると咳が出るし、嫌なにおいを感じることもあるので、空気が例年より汚いのは間違いない。原因としては自動車の排気ガス、工場の排煙なんかが拡散せずに地表近くにとどまっていることのようだ。環境を悪化させない程度に排気ガスの浄化機能がついていても、それは普通に大気中に拡散することが前提の数字であって、拡散して希釈されることがなければ、やはり問題になるのだろう。

 スモッグ警報が出ると、警報が出た地域の工場に対して生産を減らすように命令が出ることになっている。それによってスモッグの発生源を減らそうというのだろうが、大量に地表を走り回る自動車に関しては野放しのために、即効性のある規制とはなっていない。スモッグが消えるには、太陽の光で地表近くの空気が暖められて上昇し排気ガスが上空に拡散していくか、強風が吹き荒れて街を覆っているスモッグを吹き飛ばすかするのを待つしかない。
 ニュースや天気予報の際に、心肺系に問題を抱えている人は外出を控えるようにということもよく言われるのだが、こんなのを聞いて本当に外出を控えられるのは、年金生活者か子供だけだ。本当にスモッグ状態を理由に仕事を休んでいいのなら、うちでのんびりだらだら何もしないで一日を過ごしたいものだが、そういうわけにもいかない。即効性のある対策は存在しないものだろうか。一度のどの調子が悪くなると、空気が多少きれいになっても、症状はあまり変わらないような気もするから、劇的な効果のある対策を望みたいところだ。

 以前、プラハの日本大使館の人と話をしていたときに、プラハに来て最初の週は空気の汚さによる体調不良で苦しめられたけど、何週間かで慣れて平気になったという話を聞いたことがある。そのときはスモッグなんて発生していなかった時期なので、すでに慣れてしまって何とも感じなくなっているけれども、チェコの空気は普段から日本よりも汚染が進んでいるのかもしれない。内陸国で、人口が集中しているところが、盆地になっていることが多いので、汚れた空気がたまりやすい面もあるのだろうか。
 チェコに来たばかりのころ、のどの調子が悪いことが多くて、原因としては空気が乾燥していることを想定していたのだけど、違ったのかもしれない。常に喉に水分を送り込んでおかないと、喉がイガイガするというか、不快さを感じて、当時は日本的なノド飴に当たるものが発見できていなかったのでユーカリやペパーミントの飴をなめていた。最近は日本でも喉の調子が悪いときになめていたスイスの「リコラ」の飴が、ノド飴なんて名称ではないけど、手に入るようになったので愛用している。問題は買えるお店が限られていることである。

 そう言えば、『マスター・キートン』で、チェコが舞台になった回があって、ドイツとの国境地帯の環境汚染がひどいなんてことが書かれていたなあ。あれは北ボヘミアの西のほう、チェコ語でクルシュネー・ホリと呼ばれる山脈のあたりが舞台になっていたんだったかな。チェコに来てこの「過酷な」という形容詞が名前についている山脈の森は、80年代に最大の環境問題の一つであった酸性雨によってほとんど壊滅してしまい現在再生中だという話を聞いて、『キートン』を思い出したのだった。今でもチェコにファンの多いトラバントが出てきたけど、あれも排ガス規制なんてって時代のものだからなあ。

 迷走した挙句に当初の予定からは全く違う内容になってしまった。これから書く明日の分、いや今日の分は最初書くはずだったことについて書く。
2月7日16時。



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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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