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2017年02月16日

永観二年十一月の実資〈上〉(二月十三日)



 最近サボっていたせいで異常に時間がかかってしまった。

 一日は、内裏から帰宅し夕方室町の邸宅に出かけている。頼忠からも呼び出しを受けているが、穢の恐れがあると言って、参上していない。この穢は前日の記事に出てきた院での犬の死による穢だろうか。そうなると、室町には出かけたのに、頼忠のところには出かけていないのが気になる。室町にいるのは、実資の姉に当たる人物、もしくは実の兄夫婦であることを考えると、家族ならいいけど、上司、ことに太政大臣のもとに出かけるのは軽い穢であっても駄目だということか。それに、賀茂神社に奉納する予定の幣帛も中止しているから、神社関係も、軽い穢であっても、疑いに過ぎなくても避けなければいけないということか。穢のルールというのは、相変わらずよくわからない。とまれ頼忠からは明日、おそらく穢が消えてから、夕方に来るようにとの指示が下る。
 人々が、除目が既に行なわれてしまったことに対して、代替わりの際の伊勢神宮に使える斎宮の選出が終わってからするべきで、早すぎると批判していることが語られる。わざわざ取り上げているということは、実資自身もこの意見に賛成していると考えてよさそうだ。
 よくわからないのが、最後の春日祭使に袴を送っていることで、袴を直接春日神社に奉納するわけではないこと、実資と神社の間に祭使が入ること、春日祭自体が翌日に行われること、などの理由で、実資の穢が春日大社には及ばないと判断したのだろうが、以上のどれが正しい解釈なのかはわからない。

 二日は、まず円融上皇に穢の疑いがあることが記される。時々降る雨の中鴨川の河原に出て禊をしているので、疑いとは言うもののほぼ確実で、かなり重い穢だったのではなかろうか。前日の指示通り頼忠の許に向かって、夜になってから円融上皇のところに向かって候宿である。
 この日は春日祭が行われているが、夜に入って雷雨になっている。ことさらこの日に雷が鳴るのには何か理由があるに違いないと考えているあたり、時代を感じるべきなのか。円融上皇は平野祭、春日祭に祭使を贈るのを中止しているが、これは禊の必要があったからのようである。実資は春の祭から祭使を送ればいいだろうとコメントしている。そうすると、この日最初の禊は、実資がやった禊なのかもしれない。

 三日は、まず参内する。夜に入って賀茂臨時祭の舞楽の予行演習である調楽が行なわれている。石灰壇で火がたかれたのは賀茂社に対する遥拝の意味があるのだろうか。神楽まで行なわれて深夜まで続いている。このあたりは花山天皇の好みかな。
 四日は、内裏から退出したと思ったら、また召しだされて慌てて戻っている。この日は、武蔵国の牧から馬が献上されてくるので、その駒引と、ついでに賀茂臨時祭に際して行われる競馬のような儀式である十列を、紫宸殿に出御して見たいという天皇の仰せに、実資は、前例は有るけれども、今日は伊勢の斎宮を決める日なので、天皇が紫宸殿に出御するのはよろしくないと答えている。その結果、天皇は出御をあきらめて明日にすることにしている。ただ十列などの馬関係の儀式も明日に延期するのを忘れないあたり、花山天皇は馬好きだったのかと思わされる。

 五日は、朝雨が降ったものの、前日予定されていた馬関係の行事が天皇が紫宸殿に出御した上で実施されている。儀式の様子が細かく記されているが、ところどころおかしなところが散見されたようだ。気になるのは、参入するべき藤原正光が、「忽ち胸病を煩」ったという理由で取りやめていることで、これは十月廿日の甲斐国の馬の駒引の際に、藤原実正が申し立てた理由と同じである。もう一つは、おそらく天皇の言葉で、「今日思失して」云々というのがあることだ。花山天皇反省という言葉を知っていたのねなどと不敬なことを考えてしまった。
 民部大輔の藤原惟成の話で、四日の斎宮選定のことが記される。選ばれたのは弾正尹章明親王の娘済子女王である。この斎宮はいろいろと問題が起こった結果、花山天皇の退位と共に伊勢に下向することなく斎宮の地位を退いている。

 六日は上皇の許に出向いてから参内。伝聞で、前夜に管絃の宴が行われたことが記される。賀茂の臨時祭の調楽も繰り返されるし、花山天皇の好みなのかね。イメージに合っているのは確かだけど。
 七日は、内裏を退出して戻らなかったためか、内裏で行われたことがすべて伝聞の形で記される。先日入内した大納言藤原為光の娘が女御になったこと。藤原氏の公卿たちがお祝いを申し上げに射場殿に向かったこと。雨が降り続くので、占いをさせたら、結果が「災」とでたこと。もう何度目かの賀茂の臨時祭のリハーサルが行われたこと。それが暁方まで続いたことなどである。
 八日は、頼忠邸、室町、それから内裏と移動している。大切なのは、太政大臣藤原頼忠が、始祖鎌足の墓所のある多武峰が鳴動なった占いの結果を奏上していることである。この辺りにも花山天皇の危うい将来を見てしまうのは、その後の事情を知っているからだろうか。

 九日は、また雨の中、馬である。
 十日は、内裏から退出して上皇の許に向かう。その後に伝聞で、駒引のことが書かれているのは、十一日の記述から見ると、結局九日ではなく十日に行われたということのようだ。とまれ、右大臣の藤原兼家が何か画策したような書き振りである。

続く。


2月14日22時。



 ちゃんと内容を知りたい方はこちらをどうぞ。2月15日追記。

>小右記(1) [ 藤原実資 ]



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