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2017年02月17日

永観二年十一月の実資〈中〉(二月十四日)



 十一日は、参内して帰宅、院に参上して候宿である。この日は、特に話し手の名前を記さず、前日の駒引の間に起こった事件を伝聞で記している。紺衣を着た男が内裏内の日華門の辺りにいたので、検非違使に捕まえさせて紺衣を引き破らせたというのだが、事情はよくわからないようだ。

 十二日は、早朝に院を退出して、頼忠のところに向かっている。参内しなかったのは内裏の物忌だからだろうか。
 右近将監の播磨貞理が、前々日の紺衣の男の処罰について事情の説明をしに来ている。右中将の源時中の指示であったらしい。天皇の仰せと言われたからやったのに、今になって仰せじゃなかったといわれても困るというのが、貞理の言い分である。読んでいてよくわからなくなるのが、問題が紺衣の男が内裏内に出没したことなのか、紺衣の男を処罰したことなのかである。
 十三日は、実資の母の忌日で、実資の母方の曽祖父にあたる藤原道明が創建したといわれる道澄寺で法事が行なわれている。伝聞の形で畿内の十の神社に使が送られたことが語られる。伊勢へは斎宮選定の報告もあるようだが、他の神社と同じで天変怪異が原因での使も遣わしているようである。

 十四日は、まず藤原惟成から、右近将監播磨貞理と紺衣の男の件について召し問うことになったことを聞いている。播磨貞理としても災難としか言いようがない。
 この日も、また馬である。今回は上野国から献上されてきた馬の駒牽きの儀式である。花山天皇も紫宸殿に出御してご覧になっている。他の天皇の例は知らないが、花山天皇が馬関係の儀式に執着しているのはよくわかる。
 献上されてきた馬が廿疋と極めて少ないため馬を分け与えるべきかどうかという、上卿の左大臣源雅信の問いには、数が少なくても分けるものだと答えている。結局、参入する公卿の数が多かったために、殿上の侍臣たちまで全員分は回ってこなかったようだ。また途中で馬が次々に牽き分けられていくのを見ていた天皇の機嫌が悪くなったのか、牽くのをしばらく中断したような記述もある。細かいことは省くが、儀式の進行には例によって不備があったようで、実資は前例を知らないのかと批判している。
 夜が更けてから入内したばかりの為光の娘のところで、侍臣たちに酒がふるまわれているが、実資をはじめ数人の侍臣が参加していない。これは為光とその娘にたいする反感の表れと考えてもいいのだろうか。それとも徒歩で参入させるという急ぎ過ぎとしか思えないことをした天皇への批判か。実資は花山天皇の許でも蔵人頭を務めているが、この二人あまり相性がよさそうにない。

 十五日は内裏を出て、太政大臣頼忠のもとに向かう。円融天皇の中宮となった遵子の妹のィ子を入内させる件についてあれこれ定めている。このィ子も遵子と同じく子供には恵まれないまま天皇の出家とともに実家に戻っている。花山天皇が在位中に生まれた子供はいないので、他の女御たちも同じ運命ではあったのだが。

 十六日は雨が降る中、円融上皇の許に参上しようとしていたら、犬死の穢れがあるという連絡が来て中止。
 十七日には、頼忠のところを経て参内。内裏では、前日十六日の出来事を聞いている。まずは、右近将監の播磨貞理が十日の駒牽きの際にしでかしたことの審議で、命令を伝えたとされる源時中の話も聞いたようだ。その後改めて今日、時中と播磨貞理を呼び出して話を聞いている。最終的には明法博士の惟宗允亮まで出てきて、召し問いの作法を問うているのだが、どういう結論になったのかはわからない。
 また前日の話として、いろいろな役所である所の別当が決められている。実資は蔵人所に属する作物所の別当となっている。惟成を通してこれ意を申し上げている。その後夜になって退出し頼忠のところに向かって、娘の入内の話である。深更になって自宅に戻っている。

 十八日は火事である。侍従の厨倉が焼亡したというのだが、慌てて内裏に参上しても天皇はまだ知らなかった。実資の提言であちこちに知らせの使いを送ったようだ。
 その後退出して、摺袴を祭使を祭使の藤原長能のもとに送っているが、これは大原野祭の祭使であろうか。実資自身はいささかはばかることがあったらしく幣を奉ることもしていない。祓の儀式をしているから、はばかることは穢れであったのかもしれない。
 実資は夜になって再び参内している。五節の舞姫の参入であるが、この日は、藤原景舒の娘しか参入しなかったようだ。
 本来、毎月十八日には、清水寺に参詣しており、参詣できないときには、その旨を記しているのだが、今月に限っては、全く触れられていない。十二月には参詣しているから、今月だけの特例のようだ。書き忘れか、大原野祭と重なったことによる例外であろうか。

 十九日になって三人の五節の舞姫が参入している。常寧殿で五節の帳台の試と呼ばれる米のけいこを見る儀式が行われている。花山天皇は、物忌で諷誦を修していたというのに、密かに常寧殿にまで出かけてこの様子を見たようだ。周囲の反対を押し切って常寧殿に向かった天皇を実資は当然批判している。
 この日の条の最後に、十三日に決定した各地の神社への奉幣のための使が出発している。使いとなったのは、神祇官の官人たちである。

 廿日は早朝内裏を退出して、召されて頼忠のところに向かい、夜になって再度内裏に向かう。内裏では五節の舞を天皇が直接御覧になる儀式が行われる。亥の終わりに五節が参上しているから、深夜になって行われた儀式であるようだ。その様子は残念ながら欠落があるため読むことはできない。
2月15日23時。





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