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2018年09月20日

ペットボトルのカエル

「先生、K君が授業中これ持っていたんです。だから没収しました。」

6時間目が終わった時、副担任をやってもらっている若手女性の先生が、ペットボトルを持ってきた。
ペットボトルの中には、三分の一くらいの水と、小さなアマガエルが入っていた。
カエルを恐れている様子はなかったが、授業中にカエルを出されて、さすがに驚いたらしい。

聞けば、カエルは昼休みに服についてきたらしい…。そのカエルを、ペットボトルに入れ、持ち歩いていたようだ。5時間目の授業時には、担当の先生からそうした話はなかったが、きっとどこかに置いてあったはずだ。

「これ、キャップ閉めているけど、息できるのかよ…。」
「一応、穴開けているんですけど…。」

「でも、授業中、カエルを見ているのは、どうかな…。」
「一応、課題は終わったので…。」
どうもK君は、授業中でも課題が終わったら好きなことをしてもよい、と勘違いしているようだ。

「どうしても、持って帰りたかったら、授業中はロッカーに入れておくとかして、授業はちゃんと受けた方がいいと思うな…。」
「教室に持って来ちゃいけないんですか?」
「何でもいい、と言うわけじゃないだろ。ヘビでも持ち込む?」
「はい。」
K君は、何でも教室に持ち込んでもかまわないとも思っている。

「あの先生と、つい最近トラブルがあったばかりなのに、これじゃぁ、まるで、嫌がらせをしているように見えないか?」
「…」

私は、7時間目は、教室の教卓の上にペットボトルのカエルを飾っておいて、放課後にK君に返した。

中学一年生の後半から反抗期に入っているK君。ある女子生徒が言う。
「Kの反抗期、わかりやすいですね。」

…よく見ている。

今しばらく、K君の反抗期は続きそうだ。

今日は生徒に、どんな話をしようかな

私は、基本的に授業をするのが好きだ。

授業では、生徒に、いろいろな話ができるからである。
私は、教科内容以外にも、授業構成の中で、さまざまな話をしている。

生徒たちは雑談と言っているが、私は雑談とは思っていない。その話の話題が、勉強のモチベーションを高め、時に人間形成の一助となると、思っているからだ。

だから、教材研究時は、教科内容以上に、授業中に話をする話題内容の準備に時間をかける。

と言っても、何か調べ物をしたり、うんうん考えたりしたりする訳ではない。

私の日常すべてが、情報収集であり、どんなときでも、アンテナを立て、情報をキャッチすべく、努めている。

情報源は、テレビやラジオ、インターネット、新聞、書籍、会話、出来事、体験など、すべてが素材である。さらには、一度見聞きしたものは、一応ネットで調べ直したり、検証(らしきことを)したりして、できるだけ裏を取っておくようにしている。

「今日は生徒に、どんな話をしようかな。」
それが、私の情報収集のモチベーションを高めている。

逆に、生徒たちも、
「今日はどんな話が聞けるかな。」
と、思っている生徒も多い(らしい)。

授業中『ためになる』(!?)興味深い話をするときは、生徒たちは、一斉には私の話に注目する。
その直後に、さっと、教科の重要事項を教えるのだ。

そうすると、全員が聞いている。
聞いて分かる授業をしているので、全員が分かるようになる、という訳だ。

授業についていけない生徒が多く出るのは、授業のレベルもあるが、多くは、先生の説明を聞いていないことが原因だ。

聞くべき時に聞かせることができれば、『分かる』授業になり、分かれば、その後の演習問題でも、『解ける』可能性が極めて高くなる。

『絶対に聞かせる、絶対に分からせる』
というのが、私の授業時の心がけで、
『分からなければ、授業に参加しているとは言えない』
とさえ、思っている。

生徒に興味深い話を聞かせ、「へー」と思わせることが、私の授業スタイルの一つである。

こう、紹介している時にも、私は明日の授業の話題を探している…。
posted by 丹澤三郎 at 19:59 | Comment(0) | 教育活動

LGBT人権講話

朝の会で、校長がLGBTに関する人権講話を行った。

聞けば、そうした人は、潜在的には7%程度いるという。これは、左利きの割合と同じだという。
その割合でいくと、クラスで数人は、対象者が隠れているということになる。

実は、私たち教員の何気ない一言で、生徒を傷つけている。
教員が、LGBTを、「気持ち悪い」とか、「信じられない」などと、不用意に発言することで、深く傷つく生徒もいるだろう。情けない話だが、私の学校でも、そうした事例があった。大変な失敗である。

「障害を持っている人に対して、異質の目で見ない」ということは、訓練すれば、ある程度できるようになるだろう。しかし、LGBTの場合、そう簡単にカミングアウトできないし、発達途上の思春期の生徒たちに、理解させることは、かなりの困難だろう。

だから、彼ら彼女らは、異なる個性を持っていると見るべきで、その『個性の違いを尊重する』ことが大切なのだという論理が必要だ。

私の学校でも、この春卒業したが、学校にトランスジェンダーの生徒がいた。
この生徒は、年度途中でカミングアウト。
彼は、女子の制服を着ることができなかったので、男子の制服を着ることを許した。
トイレも、通常の生徒とは別のトイレを使わせた。名前も別の通称を使い、男女別のクラスの名簿も、男子の中に入れた。
卒業式では、彼の希望する通称で呼名した。

このように周囲に告知し、周知される例は少ないだろう。
多くは、人に言えずに、悩み苦しんでいる。

「おまえホモだろう。ゲイだ。気持ち悪い…。」
と、ふざけ合っている男子生徒のそばで、その言葉に深く傷つき、ますます心を閉ざしている生徒がいるのだ。

まだまだ日本の社会での理解度は少ない。だからこそ、その縮図である学校でも、その指導は難しい。

今朝の講話で、中学二年生の多くは、
「個性として認めたい。」
「いままで不用意な発言をしていたので、これからを控えたい。」
という感想を述べていた。

まずは、学齢相応の理解度と言うべきか…。

ある生徒は、
「『性同一性障害』、という言い方が、障害という言葉を使っており、差別的だ」
と書いた。

『病気ではない。個性なのだ』、という論理ならば、当然の意見だろう。
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