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2018年10月09日

嫌われ役の先生

以前は、学年団でそれぞれの役割を分担をした。

○○先生は、お父さん役で、厳しく叱る立場。
△△先生は、お母さん役で、叱られた生徒を、母性で優しく包み込む立場。
□□先生は、お兄さん(お姉さん)役で、生徒の悩みを聞き出したり、不満を吐き出させる立場。

生徒もいろいろだが、先生もいろいろなので、こんな風に役割を決めて、学年団を作っていたこともある。これはそれなりに効果があって、チームワークで学年運営ができたものだ。

厳しく叱る先生はある意味嫌われ役。生徒からは怖れられ、煙たがられる存在。しかし、生徒から見れば、もうこれは、「叱られても仕方ないことをやらかした。」という訳で、半ばあきらめムード。「とにかく誠心誠意謝ろう」という気持ちになったものだ。

昨今はどうだろう。
いつしか、教師は嫌われ役を避けるようになってしまった。

人間誰しも、『嫌われたくない』という思いを持っている。
しかし、こと教師という仕事をする上で、生徒に迎合してしまうことは、教師の存在意義すら否定しかねない、大変危険なことだと思う。

事実、生徒の機嫌を取ろうとする態度の教師は嫌われるし、生徒に好かれようとすればするほど、生徒はその教師から離れていく。

若手の先生には、
『生徒から好かれよう好かれようとすればするほど、生徒から嫌われる』
という事実を、自分がそうした苦い経験をする前に、知っていて欲しいと思う。

それどころか、『嫌われ役の先生の方が、けっこう生徒が慕ってくることも多い。』のだ。
それは、本気でその生徒の考えているかどうかにも関わっている。

「こんな叱り方では、生徒に嫌われてしまうかな。」
と考えているようでは、生徒への迎合。

ヒステリックになって、ただただ叫ぶのであれば、単なる怒り。

難しいのだが、
『厳しいけれども、愛がある叱り方』
を目指すべきだろう。

本気で生徒のことを思えばこそ、厳しく叱ることもできる。
それこそが、嫌われ役の先生だ。

「俺なんか、生徒から好かれたことないよ。」

そう言って退職される先生は、総じて陰では尊敬され、慕われている先生であったりするものだ。

2018年10月08日

レイバーとプレイヤー

「先生、日曜日は何しているんですか?」
さきほど生徒からこんな質問を受けた。

「うーん、今日は一日試験問題を作っていたかな。いつもは部活だから…。」
先生の休み中の過ごし方に、生徒は興味があるらしい。

「休みがない」
という先生たちの叫び声も聞こえてくる昨今だが、私は日曜日でも『休み』という感覚は少ない。
部活はもちろん、教材研究、定期考査の試験問題作成、保護者対応などなど、何も仕事に関連していない休日は、ほとんどないからだ。しかし、それら仕事をしているという感覚も、あまりない。

また、自分の教養や知識を高めるというのも、それを授業や生徒指導に生かしていけるのだから、講義の仕事と考えてもよい。だから、本を読もうが、テレビを見ようが、インターネットで調べ物をしようが、すべてが生徒指導に関係してくる材料集めでもある。

これを仕事してみれば、24時間365日休み無しということになるが、私はそういう仕事とか、仕事外だとか区別する考えはないのだ。仕事を、自分の時間を切り売りしているという考えでは、こうした発想にはならないだろう。

そもそも休日とは、holiday。聖なる日ということ。
「人間は、週に6日働き、一日を神に祈る日にしなさい。」
という宗教上意味合いがある。
「休日は、神と対峙して、新しい週の活力にしなさい。」
ということだ。欧米では教会に出掛ける日である。
日本で神社に行く人はいないと思うが、いずれにせよ、休日は精神的な充電日であるともいえる。

神と向かうもよし、日常と離れた経験をするもよし、もちろん生徒と関わるもよし。

vacationというと、欧米的なバカンスという意味合いになるだろうし、夏休みはsummer vacation なのだが、この期間は日常できない経験を通して、人生に潤いを与える、という感じだろうか。非日常生の中には、やはり大自然なり、神の存在を感じることになろう。

仕事をレイバー(Labor)と考えるか、ワーク(Work)、プレイ(Play)と考えるかで、その生産性は大きく変わるし、疲労度も違うはずだ。

「やらなければならない」と義務感で仕事をするのはレイバー。
面白がって、内発的な動機に基づいて仕事をするのがプレーヤー。

何でも面白がって、楽しく、機嫌良く、よろこんで仕事しよう。

教師は限りなくプレーヤーに近い存在でありたい、と私は思う。

卒業生のK君

私がK君と初めて出会ったのは、もう10年近く前になる。
当時、テニス部で早朝6時からも夕方遅くまで練習していたため、私が彼の勉強を見てあげられる時間は、朝練前の5時からと、夜のほんの1時間くらいしかなかった。

K君は毎日のように、朝5時になると、私を訪ねてきてきては、私のそばで勉強していく。
早朝も、空が白んできて勉強が終わる頃、
「朝練に行ってきます。」
と、テニスラケットを持って出掛けて行った。

もともと朝型の私だから、朝早いのは苦痛ではなかったが、K君も、よく私のもとを通ったと思う。

当時のテニス部は、熱血指導者のF先生が、それこそ全国を目指して活動していた。
まさに、「勝つべくして勝つ」指導が行われていて、結果、部員の一人はちゃんとインターハイに出場しているのだから、F先生は有言実行。

私よりも年上の先生だが、私の10倍くらいの情熱で部活指導をされていたので、勉強になることが多かった。もちろん、授業は上手だし、担任としても、その他の校務分掌でも、手を抜くことはない。
以前、年賀状で、
「先生の姿を見ると、勇気が湧いてきます。もう一段、がんばらなきゃって…」
なんて、私が一言書いた記憶があるくらいだから、尊敬すべき、お手本になる先輩だった訳だ。

彼の育てたテニス部の卒業生は、各方面でも大活躍中。
K君は、事情があって、途中から高校野球部に移ったが、これもなかなかのチャレンジだ。
しかし最期は、レギュラーとして活躍しているのだから、並々ならぬ努力の持ち主でもある。

K君も、高校卒業後は、整体の資格を専門学校で取得しつつ、大学でも勉強するというダブルスクールをこなし、卒業後、いよいよ開業を始めた。

K君の実家が札幌にあることもあり、以前、私も夏休み期間中に、ぶらっと札幌を訪ねたことがある。
札幌駅の改札口で、満面の笑顔で私を迎えてくれたK君の姿を、今でもはっきりと覚えている。
そのときは、何日も私をあちこちに連れて行ってくれて、北海道を堪能させてくれた。
今でも毎年、K君から美味しいがメロンが届く。

学校では、卒業すると音信不通になってしまいがちだ。
しかし、いつまでも「私の教え子だ」、などと思うのは、いやらしい。
「一時期、学校という場所を通して縁があって、何年か、ほんの少しだけお世話をさせてもらったのだ。ありがたいことだ。」
と、ごくごくたまに思い出せれば、それでよい。
教員というのは、そうした職業だ。

人間的にも、
「私が、私が…」
という自己主張が強すぎる思いは醜い。

今年の3月に、K君の弟が卒業していくとき、お母様に、
「Kも、開業しましたし、運転免許も取りました。また、北海道に遊びに来て下さい。今度はKが、案内できますよ。」
と声を掛けられた。

K君が、ますます活躍してくれたら、それでいい。

2018年10月05日

夢の中でも生徒指導

久しぶりに午後休みを取った。
今はちょうど、中間考査前なので、試験の作問のことは一時忘れることにして、のんびり自室で過ごした。クラスのことは、副担任の先生にお願いし、それでも気持ちだけは、完全に解放しないようにして、ベットに横になる。

完全にお休みモードになると、事件が起こるので、言って見れば、『意識の一部を学校に残したまま、家で過ごす』、というような感じである。

学校を出たのが、13時30分くらいで、遅い昼食を食べていたら、あっという間に夕方になった。
途中、携帯に電話がかかってきたが、急用ではなかった。
急用なら、スクランブル発進(緊急出勤)が必要になる。

「こんな状況じゃ、休めないじゃないか。」
と、思われるだろう。そのとおり。完全休養はできない。
できないけれども、かすかに身体を休ませることはできるし、少し眠ることもできる。

ところが、最近は夢見が悪い。
つまり、夢の中でも、生徒の相手をしているのである。
引率している夢であったり、今日のも、夢の中で生徒指導していた。
寝ぼけていると、夢なのか現実なのか、分からなくなることもある。

私は、24時間教師であることを苦痛には思っていないが、ちょっと身体を休めたい時に見る夢が、日中の延長のようなものだと、あまり休んだ気がしない。

私の学校では、「時間休」なるものが認められている。
「お疲れの時は、授業等に差し障りのない程度で、お休みされても構いません。」
ということである。

幸か不幸か、○時間労働という感覚はないのである。ひょっとしたら、
「教員たる者、24時間気を許すな。」
というわけだ。

当然のことながら、残業だの、超過時間勤務という発想もない。
「必要ならば仕事をしなさい。業務に差し障りのない範囲で休養をとり、健康も自己責任で管理しなさい。」
実は、管理された勤務体系より、こちらの方が難しい。

私の朝の出勤は早いが、夜は比較的早い。逆に、朝は打ち合わせギリギリだが、夜は遅くまで勤務している人もいる。
土曜日も授業。これに日曜日も仕事や出張が入れば、どこかで代休を取りたいところだが、そういうシステムはないので、自分で日程を決めて、一日休みにするか、時間休にする訳だ。

労働者としてみれば苦しいが、聖職者としてみれば当然の勤務体系だろう。

勤務スタイルについて、私は不満はない…。

「今夜の夢が、日中の続きだったらどうしよう」
と、いう一抹の不安を抱えつつ、間もなく就寝につく。

2018年09月30日

『あんまり頑張らないで。でもへこたれないで』

今日30日、9月15日に亡くなった女優、樹木希林さんの葬儀、告別式が行われたそうだ。

樹木希林さんは、私が一番好きだった女優さんだった。

彼女が、7月にインタビューを受けたとき、
『あんまり頑張らないで。でもへこたれないで』
というメッセージを伝えていた。

「頑張り過ぎてたら、疲れちゃって、苦しくなって、辛くなっちゃうから、そこまで頑張らなくていいんだよ。でも、負けちゃだめ。へこたれちゃだめ。あきらめちゃ駄目。」
と、語っているようだ。

『どうぞ物事を面白く受け取って…愉快に生きて』
とも、伝えているので、
「物事をポジティブに考えて、それを逆にプラスに考えて欲しい。」
というお考えのようだ。

私は、この言葉を聞いて、樹木希林さんが「全身がん」でありながら、女優を通して、見る人に、演技を通して愛を与え続けた、生涯現役人生を送られたのだな、と感動した。

そして、この言葉は、不登校で苦しんでいる生徒へのメッセージにも聞こえてきた。

教師はしばしば、悩んでいる生徒、苦しんでいる生徒に対して、
「頑張れ。」
という声をかけがちだ。

彼らが十分頑張っているにもかかわらず、さらに
「頑張って。」
と声をかける。

「私はこれ以上、何を頑張ればいいの…。」
となる。

「頑張って、学校、行こうよ。」
「頑張って、教室、入ってみない?」
「頑張って、遠足、行ってみない?」
「頑張って、テスト、受けようよ。」

我々教師は、時に、こんな言葉を書けていないだろうか。

おそらくは、教師側の
「全員が投稿してくれ。」
「長欠による空席は作りたくない。」
「全員で行事に参加させたい。」
「テストを受けないと、成績処理が面倒。」
などという、独りよがりの思いだ。

『あんまり頑張らないで。でもへこたれないで』
という樹木希林さんの言葉は、深く、重い。

「へこたれないで」の部分を、どう生徒に伝えるかが、ポイントだろう。

自分の姿を通して、人生の生き方を示して下さった樹木希林さんのご冥福をお祈りしたい。

2018年09月13日

授業が騒がしいです

新人教員にとって、『生徒が分かる授業』は、当面の達成目標の一つだか、「分かる授業」の前に、授業の環境整備をしなくてはならない。

「授業にのぞむ心構え」、「ノートの書き方、作り方」、「宿題提出について」、「忘れ物について」、「様子すべき筆記用具」、「授業中の発言の仕方」、「座席」、「プリント配布、回収の方法」、「挨拶の仕方」などなど、授業の初めから終わりまでで、授業運営に必要と思われることは、最初から自分の方針として、生徒たちに伝えておく必要がある。

そうした環境を整えつつ、『分かる授業』を目指す(行う)のである。

もちろん、新人教員が、こうした環境整備を完璧にこなすことはできないだろうが、少なくとも、達成すべき努力目標として、踏ん張らなくてはならないだろう。そして、毎回の授業で、少しずつ向上してもらいたい。

私だって、新人時代があり、新たに赴任した学校で授業引き継いだ頃は、「先生の授業は○○先生と比べて分かりにくいです。○○先生が良かった…」などと、言われ続けた経験がある。前の担当者の授業が素晴らしければ素晴らしいほど、次に受け持つ新人教師は、ハードルがぐんと上がる。しかし、それがきっかけとなって奮起すれば、自分自身のスキルは格段に上がっていくのだ。その頃の私は、その先生の授業を陰に隠れて聞き続けた。板書、話術、プリント、生徒への促し方など、すべてが学びになった。

「若いときは、『情熱』しかない」

今は亡き高校時代の恩師から、私が教員になったときにに教えていただいた一言である。

経験が少ない中、下手は下手なりにも、その情熱、熱意が生徒たちに伝わるか、ということは、授業をする上で、何より大切だろう。

情熱にあふれていれば、別に授業が騒がしくたっていいのだ。生徒がその思いを感じ取っていれば、あるとき、騒がしい状態が、さっと静まって、先生の指示が通るはずだ。

「授業は、基本的に騒がしいです。」
新人の先生が恥ずかしげもなく語った。

「授業が騒がしくて授業が成立しない」ならば、「授業が単調でつまらない上に、レベル設定が間違っていて生徒が理解できない」か、「環境整備ができていないか」、であろう。

新人諸氏は、試練と思って鋭意健闘されたし。

マスク君とマスクさん

涼しくなると、マスクをしている生徒が増える。
気温の変化が大きい季節になるので、体調を崩しやすいということもあるが、必ずしもそうではない。

マスクは顔の大部分をい覆うことができる。
頭髪規定が厳しい学校でなければ、前髪で目を隠すこともできる。
つまり、顔の表情を他の人に見せまい、とマスクをつけるのだ。

以前、舌にピアスをつけた高校生が、「そのまま学校に行っても、マスクをつけてたから気づかれなかったよ。」、という話を聞いたことがある。そういう強者は少ないだろうが、中高生で、目を隠し、マスクをつけ始めたら要注意である。さらにこれにパーカーを着て、頭からフードをかぶったならば、これで、自分の世界に閉じこもることができる(と考えている)。いわゆる引きこもりの始まりである。

引きこもりは、学校に行けずに家に引きこもっているばかりではない。たとえ学校に行けたとしても、集団を極端に嫌い、自分だけの世界に閉じこもろうとする。

時に笑顔を見せたとしても、それは、一種の防衛反応であって、たいていの場合は作り笑いである。彼らにとって、作り笑いは、かなりのエネルギーを要し、けっこう体力を消費する。だから、一人になったときにどっと疲れが訪れる。

引きこもりにもレベルがあるようで、彼ら、彼女らなりにランクを決めていたりする。
とあるアニメにならって、レベル4だの、レベル5などの、自分たちでレベルを決めている。

以前、私の学校では、『引きこもり同好会』なるものを、密かに立ち上げ、仲間同士で集まっていることがあった。学年をまたいでのグループなので、なかなか始末が悪い。いろいろな意味で、先輩が後輩に影響を与え、引きこもりに学年連鎖ができていた。たいていは、学校や社会、友人に対する不満が共通項となり、波長同通の法則で、互いが集まってくる。

集団を形成していると、必ず集団のカラーから外れる人が出る。子供でも大人でも同じである。昨今は、『違いを認める』ことが重視させているので、以前のように一律に排除する教育は行われていないが、思春期の頃の生徒には、その違いを理解させることは、そう簡単なことではないだろう。

今日も、校内を隠れるように歩いているマスク君やマスクさん。
『自分の世界に足を踏み入れないで欲しい』、と思いながらも、実は、『私の存在に気づいて欲しい。声をかけて欲しい。』とも思っていることも多い。

彼らを見て見ぬふりをするのではなく、積極的に声をかけてみよう。

『できることは何でもやる』という姿勢が我々教師の務めだ。

2018年09月12日

ギリギリ生活

学校の朝は早い。私の学校の先生の朝の打ち合わせだって午前7時40分だし、たいていの学校は8時半には始業する。

こんな学校の世界だから、大学生のとき完全に夜型になっていた新卒教員は、赴任早々、かなりの苦しみを味わうことになる。また、外部から来た校長も、生活習慣が違えば、学校の生活パターンと合わずに、教員たちとトラブルになる。以前、「朝から来ない校長が、夜8時から延々何時間も会議をするんだよ」という話も聞いたことがある。

多くの教員は、打ち合わせ時間より前に出勤する。かくいう私も、以前は一時間以上前に学校にいなければ、何となく気持ち悪さを覚えたものだ。当時は自動車通勤ということもあり、道路事情で一時間くらい渋滞にはまっても、遅刻はしない、という訳だ。

一方で、就業時間ギリギリに来る先生も何人かいて、「よく、そんな綱渡りができるなぁ。」と、逆に感心する。

前任の私立学校では、遅刻ギリギリに来ることが当たり前で、週に一度くらいは遅れてしまうということを繰り返していた先生が、翌年クビになった。タイムカードなどなくても、見ている人はいるのだ。

どんな職場であっても、余裕をもって朝の時間を使っている人は、概して仕事ができるものだ。

しかし、昨今の若手の先生方は、ギリギリ生活が得意なようで、結果、何度も遅れてこられる方がおられる。

学校は、チャイムが時間を知らせるが、時計時間では、チャイムが鳴り終わった頃には、とっくに就業時間を過ぎている。打ち合わせが始まった頃に、こっそりと扉を開けて、職員室に入ってくる姿は、何度見ても美しくない…。

だいたい、「生徒に時間を守れ。」と、言っている教師が遅刻していては、示しがつかないし、説得力もない。『時間を守る大切さ』を語ったところで、言葉に力はない。

夜中まで、教材研究をしていたのかも知れないけれど、「何があろうと、一秒たりとも遅れては駄目だ。」と言うのが、私の持論だ。

そんなギリギリ生活の若手が、職員室で仕事を始めたかと思ったら、すぐに、こくりこくりと居眠りを始めた。授業が終わって、職員室に戻るたびに、授業のない時間は寝ている…。さすがに、これはまずいだろうと、隣席の若手の先生が動いた。

「どうなっているんですか?」

こんな場合、公立学校ではどうなるのだろう…。今度同僚に聞いてみようっと。

生徒と食べる昼食

ほとんどの中学校では、学校給食が導入されており、担任の先生は、教室で生徒と給食を食べることになる。学校では、これを給食指導と言って、各校様々な工夫や取り組みをしている。

おそらくは、この生徒と『一緒に食べる』ことが、負担になっていて、「できたらやめて欲しい」と思っている若手の先生もいるのではないだろうか。

「今月はうちは、完食でしたよ」
「やっぱり中学三年生ですね…」

近隣の公立の先生たちからは、そんな会話が聞こえてくる。完食は、クラスの誰一人残さず食べるわけで(いろいろ仕組みがあるでしょうけど…)、当然、相応の給食指導になるのだろう。

私立学校では、ほとんどがお弁当制なので、生徒と先生が一緒に昼食を食べる機会はほとんどない。特に、中高一貫校でも高校専門の先生は、
「生徒と一緒に昼食を食べることなど、あり得ない。食べた気がしないし、お昼の時間くらいゆっくりさせてくれ。」
「生徒と一緒に食べると、逆に生徒にストレスが溜まってしまうから、せめてお昼くらいは、自由に食べさせましょうよ。」
などと、豪語していたりする。
なるほど、中学校の先生は、よく頑張っておられる。

私の学校は、中高一貫の私立学校だが、食堂で食べる給食形式だ。昼食時間になると、各自食堂に行き、各自食事を受け取り、友人同士、開いている好きな席に陣取って食べる。時間内であれば、どの時間に食べてもよい。先生たちも、注文すれば、同じ食事を食べられる。

特に、入学したての中学一年生は、一ヶ月間、学年全体で昼食を一斉に食べる、というシステムにしている。入学したての生徒の人間関係を構築させ、孤立した生徒を防ごうというねらいである。

私は、生徒と一緒に食事をするのが好きである。彼らと話しをするにも、話題に困ることはない。生徒が座っている席に、積極的に飛び込み、たわいのない会話をしながら、会話を楽しむことができる。

もしかしたら、彼らは嫌がっているのかも知れないけど、お互いが楽しくなるのならいいじゃないか。

監視ではない。彼らと話をしながら食事をすることそのものが、楽しいのだ。副産物として、彼らの考えや、いろいろな情報も手に入れることができるが、あくまでそれは「おまけ」である。

最近は、カロリー過多になるので、別の食事をすることが多いが、生徒と食べることは好きである。
給食指導、とまではいかないが、生徒と一緒に昼食を食べることは、教育活動の一環としても、教員にとっての大切なスキルの一つであろう。

※文科省の平成28年度給食実施状況調査によると、小学校で99.2%、中学校で88.9%とのこと。ただし、都道府県によって、ばらつきが大きい。

2018年09月11日

午後の授業

「先生、この時間、寝ませんでしたよ。」
6時間目の英語の授業を終えた時に、ある生徒が、得意げに語った。

その話を聞いた翌日、その生徒に、
「授業はそんなに寝ているのか?」
と、尋ねると、
「6時間目の授業は、どうしても眠くなってしまって…。いや、いつも寝ている訳ではないんですよ。たまには眠くならないこともあるんですけど、やっぱり6時間目は眠いです。」
「夜遅くまで起きてるからだろ…」
などと、ジャブを入れて、
(まぁ、8割は先生の世金だと思うけどね…)
と、ほくそ笑む。

私の学校では、食後に昼休みらしい時間を与えないで、そのまま掃除の時間に入り、それが終わるとすぐに5時間目がスタートする。5時間目も眠くなるだろうが、食後すぐ、と言うわけではないので、眠気のピークは6時間目になるのかも知れない。

そうなると、授業の先生の頑張りどころ。いかに眠くならない授業展開をするかが、勝負となる。

『教師は 五者であれ』と言われる。つまり、「教師は、学者・医者・易者・役者・芸者であれ」ということだが、こと授業となれば、「絶対に寝かせないぞ」と、気合いを入れて、役者に徹することになる。

私自身、以前授業で、忘れ物をしたとき、『算数チャチャチャ』などの楽しい歌を歌わせるというイベントを組み込んだことがあるが、昨今は、なかなか恥ずかしがって大きな声で歌えない。

しかしそれ以上に、私自身、年甲斐もなく、恥ずかしげもなく、全身全霊で授業に臨む…。
密かに日常での生徒との会話と授業中のギャップを大切にしているからだ。

もちろん今でも、『次から次へと、生徒に刺激を与え続け、全員参加の活気ある授業を目指さねば』と、鋭意修行中である。

生徒との接点が全くない臨時講師が、特別に公開授業をするのと違い、学校の場合は、大抵は人間関係構築後に授業が行われる。

私は、教科内容の授業準備以上に、授業中のお話(生徒たちは私の話を雑談と言っているが、私は断じて雑談ではないと思っている。)に準備を費やしている。これは、脱単調な授業の一つの方法として、そして、生徒に集中させて話を聞かせる一つの手段としての私の授業のセールスポイントでもある。

さて、午後の授業に出掛けるとするか…。
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